ロシアの修道生活
イゴール・コルニリエヴィチ・スモリッチ
目次:
1. 北東ルーシにおけるキリスト教禁欲主義の隆盛の歴史的背景
4. セルギイの禁欲主義「学派」と14世紀・15世紀のその他の修道者たち
第4章 ヨシフ・ヴォロツキーとニール・ソースキー。二つの禁欲主義的潮流をめぐる論争
1. 聖イグメン・ヨシフ・ヴォロツキーとその教会・政治的見解
1. モスクワ大公の政治的支配下におけるロシア諸領の統合とロシア正教会
2. 15世紀後半から16世紀初頭におけるモスクワの教会・政治思想
第VI章 16~17世紀の論争的著作および立法における修道院の土地所有権に関する問題
4. 16世紀における修道院の土地所有を制限するための政府の措置
第VII章 16~17世紀における修道院による植民地の主な方向性
4. 16世紀および17世紀におけるポニゾヴィエ地方での修道院の土地所有の拡大――修道院の植民地化活動の事例として
1. 古代ルーシにおける修道院規律の歴史――起源から16世紀まで
1. 弁証的・論争的な著作。イグメン・イオシフ・ヴォロツキー
2. 長老アルテミイ。その禁欲的・神秘主義的かつ擁護的な著作
2. 修道士エウフィミオスと総主教イオアキム――モスクワの保守主義の代表者として
3. 西欧の影響の担い手としてのシメオン・ポロツキーとシルヴェストル・メドヴェージェフ
2. 修道院、修道院の所有地、および修道者に対する政府の措置
第14章 1764年の世俗化から20世紀初頭までの時代の修道生活
4. 修道生活の復興を目指したガブリエル・ペトロフ都主教の活動
『ロシアの修道生活』は、傑出した教会史家イ・K・スモリチによって執筆された、その起源から19世紀までを網羅する、ロシアの修道生活史に関する唯一無二の包括的な著作である。スモリチは15年間にわたり、ロシア教会史に関する資料の研究に取り組んだ。 研究を進める中で、彼はロシア修道史というテーマがほとんど手つかずの状態にあることに気づいた。こうして彼の著書『ロシアの修道生活』が誕生した。 スモリッチは、ロシア修道史を、ロシア国家の歴史およびロシア正教会の通史と密接に関連付けて描いている。スモリッチは、ロシア修道史の転換点として、ヨシフ派が非所有派に勝利したことを挙げている。彼の見解によれば、この勝利が世俗化を招き、ひいてはロシア修道生活の完全な衰退につながったという。 それが復興し始めたのは19世紀に入ってからである。つまり、スモリッチはロシア正教会の歴史を極めて型破りな視点で捉えている。すなわち、古ルーシの後期は正教の衰退期であり、シノダル期は復興と隆盛の時代である。
本書は、1994年から1997年にかけて刊行された多巻本『ロシア教会の歴史』の付録である。 出版元は、スパソ・プレオブラジェンスキー・ヴァラーム修道院(1996年11月より、ロシア正教会(モスクワ総主教庁)の教会学術センター「正教百科事典」)である。 この百科事典には、傑出したロシアの教会史家イゴール・コルニリエヴィチ・スモリッチによる2つの著作、『ロシアの修道生活 988–1917』および『長老たちの生涯と教え』が収録されており、これらは、ロシアの修道生活という一つの教会史的現象のさまざまな側面を扱っている。 数十年にもわたりロシア教会史を研究してきたI. K. スモリッチは、ロシア正教会の創設からシノダル時代末期に至るまでの運命に焦点を当てた、壮大な総説の編纂を目指していた。 しかし、18~19世紀の教会史に関する本格的な著作が皆無であったため、I. K. スモリッチは、やがてルーシにおけるキリスト教の定着期やモスクワの総主教・大主教の時代にも取り組むことを期待しつつ、シノダル期の教会史を「より初期の時代の歴史に先立って」著すことにした[1] 。 この同じ目的――ロシアにおける正教の千年の歴史に関する大著の執筆準備――のために、ロシアの修道史に関する特別研究も寄与するはずであった。しかし、研究者の死により、これらの計画は実現することにならなかった[2] 。
1952年に修道史に関する自身の著作の出版に着手した際、 I. K. スモリッチは、その「準備的な性格」、細部におけるある種の未完成さ(これは注意深い読者であれば、特に研究が記述対象期間の終わりに近づくにつれて感じ取れるだろう)、そして「その形成過程において明らかになったロシア修道生活の主な特徴」への集中を強調していた。 15年にも及ぶ、膨大ではあるが全く体系化されていない歴史資料群[3] への取り組みを経て、著者は、ルーシにおける修道院生活の歴史を独立した研究テーマとして取り上げつつ、その発展をロシアの一般史およびロシア正教会の歴史と密接に関連付けて追跡する必要性に迫られた。 「修道者たちは、世俗社会と生き生きとした、ほぼ絶え間ない交流を持っていた。各時代において世俗社会が修道生活に及ぼした影響の強度は異なっていたものの、修道院の生活における様々な否定的な現象は、常にロシア史における政治的出来事と結びついていた。 ルーシにおける国家と教会の関係は常に極めて重要な意味を持ち、この関係は常に、何らかの形で、修道生活やその世界観に反映されていた」。 それにもかかわらず、著者はロシア修道史を時代区分するにあたり、世俗史・教会史の双方においてすでに伝統となっている「キエフ・ルーシ、モスクワ・ルーシ、ペテルブルク時代」という区分を基にせず、修道制度の内部的発展における転換点を明らかにしている。 そのため、モスクワ・ルーシにおける修道制度の確立者であり、「ルーシの地のイグメン」である聖セルギイ・ラドネジスキーは、スモリチの著作において、キエフ・ペチェールスカヤ・ラヴラの創設者であり、ルーシにおける修道制度の礎を築いた聖アントニウスと聖テオドシウスの直接的な精神的後継者として位置づけられている。 「これは、修道制度の内的・外的歴史において、期間に分けることのできない一つの統一された時代である。この時代の始まりと全盛期は一つの全体として融合しており、我々はこれをロシア修道制度の歴史における第一期と呼んでいる」。
著者は、ルーシにおける修道史の転換点として、一方では聖ヨセフ・ヴォロツキーと「ヨセフ派」との間、他方では聖ニール・ソースキーとその追随者である「ザヴォルジエの長老たち」との間の論争を挙げている。 1503年の公会議において、修道院が広大な領地を所有し、積極的な経済活動を行い、世俗社会と切っても切れない結びつきを持つことを前提とする「ヨシフ派」の修道制度構想が勝利を収めたことは、著者の見解によれば、 3世紀にわたり修道院の「著しい世俗化」を決定づけ、それが「修道院の生活に特に否定的な影響」を与えた。 しかし、ここで指摘すべきは、聖ヨセフ・ヴォロツキーが修道制度に与えた影響に対するこのような過激な評価は、修道生活の目的や課題に関する著者自身の考え方に大きく左右されているという点である。著者がもっぱら禁欲的な理想に重点を置いているため、修道院の社会的・啓蒙的活動が意図的に軽視されているのである。 そしてここでも著者はしばしば自らと矛盾している。というのも、誠実な歴史家である彼は、研究の多くのページを異教徒の領土の植民地化に割いており、その過程で修道院が宣教活動の主たる重責を担っていたからである。 豊かな土地所有がなければ、修道院は異教徒の民を啓蒙し、ルーシの正教文化を保存するという自らの使命を果たすことはできなかったであろうことは明らかである。
ロシア教会史における「シノダル期」――通常は、まるで歴史上の「空白期」であるかのように描かれる時期――において、「修道生活の健全化への志向」があったという歴史家の見解は、極めて非伝統的に聞こえる。 I. K. スモリッチは、この健全化を「スターツェ」運動と結びつけており、その起源を著者は古ロシアの修道制度にまで遡って見出している。
ロシアの「スターチェスト」というテーマについては、同著者による別の著作『スターツェたちの生涯と教え』が、歴史的エッセイの形式で執筆されている。著者は、この運動の最も重要な人物たちの特徴を通じて、「スターチェスト」の本質、その起源、歴史的運命について詳細な分析を行っている。その対象は、聖パイスィイ・ヴェリチコフスキー、 セラフィム・サロフスキーやアムブロシウス・オプティンスキーといった著名な長老たちだけでなく、ルーシにおける長老制度の創設者や後援者であるガブリエル(ペトロフ)大主教やフィラレート(アンフィテアトロフ)大主教についても言及している。 1936年に執筆された著書『長老たちの生涯と教え』は、著者の後年の修道史に関する著作を見事に補完するものである。
残念ながら、これら二つの研究はドイツ語訳としてのみ現存しているため、編集部はやむを得ず読者に逆訳を提示することとなったが、当然ながら、これは本文の文体的特徴に影響を及ぼさざるを得ない。 また、本書が第二次世界大戦中および戦直後に執筆されたことも忘れてはならない。著者自身の告白によれば、その当時、多くの下書きや参考文献の抜粋を紛失しており、事実を記憶を頼りに復元せざるを得なかったが、その驚異的な記憶力については、今なお伝説として語り継がれている。 著作『ロシアの修道生活』は、ヴラディスラフ・ツィピン神父によって、以下の出版物を基に翻訳された:Russisches Mönchtum: Entstehung, Entwicklung und Wesen. 988–1917. Würzburg, 1953. ロシア語の資料からの引用は、翻訳者および一部は編集部によって精査された。
著作『長老たちの生涯と教え』は、ヤロスラヴリおよびロストフのミトロポリット、イオアン(ヴェンドランド)大主教(† 1989年3月25日)による翻訳として刊行されている。同大主教は、ベルリンでの司教職在任中に、I. K. スモリッチと親交があった[4] 。 編集部は、文体を整え、可能な限り引用箇所を確認したのみである。なお、掲載情報の正確性に関する責任は、すべて著者に帰属する。
I. K. スモリッチの刊行された著作[5] :
• 偉大なる長老ニール・ソースキー // 『プーティ』. 1929. 19. 57–69頁.
• 1596年の教会統一 // 『ヴェストニク・RSHD』。1930年。第5号。
• イワン・ヴァシリエヴィチ・キレーエフスキー // 『プーティ』. 1932. 33.
• 至福のアウグスティヌス // 『ロシア正教会歴史協会会報』. 1933. 1112.
• 1906年の公会議前会議 // 『道』. 1933. 38. 65–75頁.
• 正教に関する新しいドイツ文学より // 『プティ』。1938年。56号。
• 農民解放100周年に際して // 『ロシア正教青年同盟会報』. 1961. 60.
• 聖アフォン山(正教会におけるその活動1000周年を記念して) // 『ロシア正教歴史協会会報』. 1963. 7071.
• アルタイの啓蒙者、アルヒマンドリト・マカリイ・グルハレフ // 『RSHD会報』. 1967. 85.
• イヴァン・ヴァシリエヴィチ・キレエフスキー:生涯と世界観。1806–1856。 ロシア・スラヴ主義の歴史に関する一考察 // スラブ文化・歴史年報。新シリーズ。1933年。9号。390–427頁、463–492頁(博士論文の一部、全文:ブレスラウ、1934年)。
• 近年の研究における西欧派とスラヴ派 // ZSP. 1933. 10. pp. 195–209; 1934. 11. pp. 439–449.
• 『東方教会は祈る』 // 『プーティ』。1935年、第49号;1936–1937年、第52号。
• 『長老たちの生涯と教え』。ウィーン、1936年。 第2版。ケルン;オルテン、1952年;フランス語版:『聖ロシアの修道士たち』。トゥール;パリ、1967年;ロシア語版:『長老たちの生涯と教え』 // 『BT』第31号。モスクワ、1992年;第2版。モスクワ、1997年(印刷中)。
• 『ロシアの修道院制度に関する研究』第1巻:『ロシアのスターツェン制度の変遷』 // 『キリオス』1937年、第2号、95–112頁;第2巻:『15世紀および16世紀における修道院所有地の問題について』 // 『キリオス』1939–1940年、第4号、29–38頁。
• 「福音カトリック教会」のロシア総主教庁への帰属 // 『Kyrios』. 1937. 2. pp. 158–160.
• エカチェリーナ2世の宗教的見解とロシア正教会 // JGO. 1938. 3. pp. 568–579.
• 『古ロシアの修道生活(11~16世紀):形成者たちと人物像』。ヴュルツブルク、1940年(『東方キリスト教』第11巻)。
• ロシア正教会の歴史の時代区分に関する一考察 // 『キリオス』. 1940–1941. 第5号. 66–81頁.
• ロシアの敬虔さと民俗宗教における聖母マリアの崇敬 // 『Kyrios』. 1940–1941. 第5号. 194–213頁.
• 15世紀および16世紀のロシアの東方政策の歴史について // JGO. 1941. 6. pp. 55–84.
• 東方教会における慈善活動の歴史――特にロシア教会に焦点を当てて // 『教会のディアコニア的職務』。シュトゥットガルト、1952年(イヴァン・ペレスヴェトフの筆名で)。
• 『ロシアの修道生活:成立、発展、本質。988–1917年』。ヴュルツブルク、1953年(『東方キリスト教』新シリーズ第1011号);ロシア語版:『ロシアの修道生活』。モスクワ、1997年(刊行予定)。
• 『東ヨーロッパおよび南東ヨーロッパの歴史に関する1939–1952年のドイツ語文献目録』 // 『東ヨーロッパ史研究』。1954年。第1号。251–316頁(W. フィリップおよびF. ヴァリャヴェツとの共著)。
• 18世紀から20世紀にかけてのロシアにおける正教会に対するロシア皇帝の立場 // 『東欧史研究』。1955年。第2号。139–164頁。
• テオファン・プロコポヴィチのアンナ・イオアンノヴナ女帝の単独統治に対する感謝の祈り // ZSP. 1956. 25. pp. 212–224.
• ロシアの信仰生活における『フィロカリア』の意義。『ニコデモス[ハギオリタ]著「小フィロカリア――東方教会の修道士たちによる祈りに関する教訓」』(マティアス・ディーツ選・訳)への序文。アインジーデルン、チューリッヒ、ケルン、1956年。
• 東欧および南東欧の歴史に関する1939–1952年のソビエトロシア文献目録 // 『東欧史研究』。1956年。第3号。99–281頁(M. ベルナートとの共著)。
• ロシア正教会と東方正教会との関係史について:エルサレムにおけるロシア正教会の宣教活動(1847–1914) // 『東方研究』. 1956. 5. pp. 33–51, 89–136.
• ロシア正教会と東方正教会との関係史について:コンスタンティノープル総主教との関係におけるピョートル時代のロシアにおける教会と政府(1700–1914) // 『東方研究』. 1958. 7. pp. 1–47.
• アトス山とロシア // 『アトス山千年史、963–1963。研究と論文集』。シュヴェトグネ、1963年。第1巻。279–318頁。
• 『ロシア教会の歴史 1700–1917』。ライデン、1964年。第1巻(『東欧史研究』第9巻)。ヴィースバーデン、1991年。第2巻(『東欧史研究』第45巻);ロシア語版:『ロシア教会の歴史 1700–1917』。 モスクワ、1996–1997年。全2巻。
• 1906年の公会議準備委員会:1917–1918年のモスクワ地方公会議の経緯について // 『東方の教会』. 1964. 7. pp. 53–93; ロシア語版:スモリッチ, I. K. 『ロシア教会の歴史. 1700–1917』. モスクワ、1997年。2. 付録。
• ロシア正教会における教会法 // 『ロシア正教会の教義と生活』。第2版。ヴィッテン=ルール、1966年。139–166頁。
• 1917年3月から10月までの革命期におけるロシア正教会と、1917年から1918年までの国家評議会(ロシアにおける国家と教会の関係の歴史について) // 『オストリヒ研究』。 1965. 14. pp. 3–34; ロシア語版:スモリッチ, I. K. 『ロシア教会の歴史 1700–1917』. モスクワ, 1997. 第2付録.
• I. S. アクサコフと意見・良心の自由の問題 // マルガレーテ・ヴォルトナーの70歳の誕生日を記念して。ハイデルベルク、1967年。262–269頁。
• I. K. スモリッチは、以下の出版物にも個別の論文を寄稿している:『歴史と現代における宗教(Die Religion in Geschichte und Gegenwart)』。第3版。テュービンゲン、1957–1965年(論文:「キエフ」、「ローラ」、「ソロヴェツィ修道院」、「スタウロペギオン」、「トロイツェ=セルギエフ修道院」、「ヴァラーム修道院」、「水の聖別」); 『Lexikon für Theologie und Kirche』第2版、フライブルク・イム・ブライスガウ、1957–1965年(掲載記事:アレクサンドル・ネフスキー、ロシアのアレクサンドル1世、スタレツ)。
• I. K. スモリッチは、『Kyrios』、『ZSP』にも書評を寄稿した。
本書は、ロシア正教会史全般、とりわけロシアの修道院史に関する15年にわたる研究の成果であり、その起源から1917年までのロシア修道生活の歴史を記述するための準備資料として構想されている。 本書は、この歴史における最も重要な局面を紹介し、その形成過程において明らかになったロシア修道生活の主な特徴を明らかにしようとする試みに過ぎないと我々は考えている。 本研究は、ほぼ例外なく既刊の史料に依拠しているため、一部の章、とりわけ18世紀以前の時代に関する章では極めて広範な歴史的資料が用いられているものの、あえてこれを『ロシア修道史』と名付けることは控えた。 修道史の最終期である18世紀および19世紀に関する史料、とりわけ個々の修道院の歴史に関するものは、その大部分がまだ未刊行であり、多くはすでに 失われてしまっている可能性が高い。そのため、ここではすべての事柄が同程度の詳しさで取り上げられているわけではない。修道制度の形成における各段階の描写の徹底度は、我々が利用可能な資料の量によって決定づけられた。 それでもなお、我々は、歴史において最も重要かつ典型的な要素を見出し、最も特徴的な歴史的人物を浮き彫りにすることに成功したものと期待している。
最初の4章は、私の著書『古ロシアの修道生活』を、わずかに要約したものです。 第VI、VII、VIII、およびXIII章では、1941年に修道院の所有地に関する書籍の執筆を計画していた当時、より多くの史料や文献が利用可能であった時期に執筆された原稿を、若干の省略と変更を加えて再現している。 残りの章は、以前に収集し、現在手元にある資料に基づいて、1947年から1948年にかけて執筆されたものである。残念ながら、すべての史料にアクセスできたわけではなく、しばしば特定の事項について歴史文献のみを利用せざるを得なかったが、その都度、該当する脚注で明記している。
スラブ研究所および旧東欧歴史・地域研究セミナー(いずれもベルリン)の指導部には、その豊富な所蔵資料を利用できる機会を快く与えてくださったことに感謝いたします。また、私的な書庫から書籍を貸してくださった知人の方々にも感謝の意を表します。
イゴール・スモリッチ、1952年12月
修道生活がロシア正教会において広く普及したのは、当初からキリスト教の禁欲的教えが、新たに改宗したロシア人たちの魂に深い共感を呼んだためである。また、修道生活がロシアにおいて極めて急速に特別な意義を持つようになったのは、それが民衆に教育と文化をもたらし、修道院がその中心地となったからでもある。 純粋に教会的な使命を果たすことに加え、修道院は国の民族・政治的および文化的な生活にも巻き込まれていった。修道者の代表者たちは、世俗社会と活発かつほぼ絶え間ない交流を持っていた。 これは、修道院の生活様式の内部的な発展にも少なからず影響を与えた。世間の影響が修道生活に及ぼす強度は時代によって異なっていたものの、修道院の生活における様々な否定的な現象は、常にロシア史上の政治的出来事と結びついていたのである。 ルーシにおける国家と教会の関係は常に極めて重要な意味を持ち、この関係は絶えず何らかの形で修道生活やその世界観に反映され、しばしば修道界の精神的力を、修道的な理想にそぐわないような運動に巻き込んでしまった。
ロシアの修道生活史の概説を行い、その内的特徴や外的発展を明らかにしたり、この歴史を個別の時期に区分したりしようとするならば、これらすべてを考慮に入れる必要がある。
修道史における転換点は、15世紀と16世紀の変わり目であった。この時期、修道界そのものの内部において、教会的かつキリスト教的禁欲主義の制度としての修道生活の意味、目的、そして今後の発展に関する問いに答え、そのさらなる発展のための基盤を築くことへの切実な必要性が生じたのである。 この問題をめぐる二つの異なる見解の存在は、数十年にわたる激しい論争と対立を引き起こし、その結果、その指導者である 聖ヨセフ・ヴォロツキーの名にちなんで「ヨセフ派」と呼ばれる勢力の勝利につながり、これはルーシにおける修道制度と修道生活のさらなる確立に決定的な影響を与えた。この転換が起きた正確な日付として、1503年の公会議を挙げることができるが、論争と闘争が本格的に展開されたのは、この公会議の後になってからであった。
1503年までの期間は、修道生活の内的・外的歴史において、時期ごとに区分することのできない一つの統一された時代であり、この時代の始まりと全盛期は一体となって融合しており、我々はこれをロシア修道史における「第一期」と呼んでいる。
1503年以降、修道生活は第二期に入り、その間、修道生活は著しい世俗化を遂げた。 これは、一方ではヨシフ派の勝利により、修道院が以前よりもさらに積極的にルーシの国家・政治生活に関与することになったためであり、他方では 、修道院の富が増大した結果、修道院が国家の経済システムに組み込まれてしまったためである。 権力側が修道院の所有地に対して明確な立場をとっていなかったため、その拡大は修道院の生活に特に悪影響を及ぼした。
第3期、すなわち最終期の分水嶺は、18世紀初頭、ピョートル大帝の改革の時代である。これらの改革は修道生活の変更や是正を目的としたものではなかったが、シノド時代において、修道生活は教会生活の中で以前とは全く異なる位置づけを与えられ、かつての極めて顕著な地位を完全に失ってしまった。 至聖シノドに体現された教会権威は、18世紀以前まで存在していた修道界との緊密な結びつきを失った。さらに言えば、シノドはそもそも修道生活の問題に真剣に取り組んでいなかった。 この時代においても、修道生活の健全化に向けた動きが見られたとすれば、それは修道界内部の健全な勢力、主に18世紀から19世紀のロシアの「スターツェ」(長老)たちから発せられたものであった。長老たちの影響は、過去2世紀にわたる修道界の発展において最も重要な要因であり、真の修道生活の復興にとって決定的な意義を持っていた。
本論考では、南ロシアの修道生活、すなわちキエフ都主教区の修道院や、17世紀から18世紀にかけてロシア国家に編入された西部地域の修道院の歴史については、意図的に省略した。これらの修道院とその住職たちには独自の歴史があり、それは別途の研究を要するものである。 18世紀末、あるいはより正確には19世紀初頭になって初めて、ロシア全土における修道院の体制は統一されたものとなった。
アフォン山におけるロシアの修道生活史もまた、ロシア修道生活史全体の中で特別な一章を成している。なぜなら、その内的・外的発展は、ルーシとは異なる条件下で進行したからである。このテーマに関する史料は入手が極めて困難であったため、我々はアフォンに関する最も一般的な概説さえも断念せざるを得なかった。
ここでは、常に史料に依拠しつつ、修道史における最も重要な出来事を提示し、その特徴を明らかにしようと試みた。その際、「歴史の第一の法則は、いかなる形でも虚偽を許さないこと。次に、いかなる場合でも真実を恐れないこと。偏見の影も、悪意の影も許さないこと」 (キケロ『演説家論』第2巻、15頁)という点を常に念頭に置いて、修道史における最も重要な出来事を提示し、その特徴を描き出そうと努めてきた。
ロシアの修道史を研究するにあたり、当初から二つの事情が明らかになる。第一に、史料の乏しさであり、しかも資料は時代ごとに極めて不均等に分布していること、第二に、文書が様々な叢書や個別の出版物に散在していることである。ロシアの修道史に取り組む者は、これら両方の事情を考慮に入れなければならない。 特定のテーマに沿って特別に編纂された資料集は、ほとんど存在しない。 教会史に関する文献は、その量が比較的豊富であるにもかかわらず、各時代や諸過程の扱いに偏りが見られる。18世紀初頭以前の時代については、主に専門的な教会史文献ではなく、例えば国家・政治史や経済史、あるいは古ロシア文学史に関する著作を参照せざるを得なかった。
我々が利用した資料のうち、最も重要なものを挙げておこう。第一に挙げられるのは、「ロシア年代記全集」(ПСРЛ)であり、その編纂は主に修道士たちによって行われた。 最高教会行政、教区行政、修道院の規律に関する最も重要な国家法令や公式文書は、ほぼ例外なく、ロシアの政治史に関する文書集(ААЭ、АИ、ДАИ、АМГ、СГГД、СГКЭなど[])に収められている。 これらの年代記や公文書は、17世紀末までの資料しか提供しておらず、そのうち年代記は16世紀半ばまで、公文書や資料は14世紀以降のものに限られている。 モスクワ時代に関する様々な資料は、「ロシア歴史図書館」(RIB)に所蔵されており、そこでは個別の巻に、特にロシア教会史に関する文書やその他の歴史資料が収められている。一方、「古代ロシア文献集」(DRV)(1773–1775年、 第2補遺版 1788–1791)として知られる叢書は、信頼性が低い。ここに収録された文書や著作のすべてが、学術的な文書刊行において慣例となっているような検証や照合を経ているわけではない。とはいえ、この叢書は大きな価値を有している。なぜなら、その中には、後に で原本が失われてしまった手書きの原本文書が含まれているからである。 修道史に関する多くの重要な文書や研究は、雑誌『ロシア歴史・古代学会論文集』(『論文集』)の「雑録」部門などに掲載されている。 参考書としては、K. ベストジュエフ=リュミンの古い著作『古代から1825年までのロシア史に関する史料と文献』(彼の『ロシア史』(ミタヴァ、1877年)の序文として刊行されたもの)が役立つだろう。 補足資料としては、S. F. プラトノフの『ロシア史講義』の「序論」をお勧めできる。教会史の分野においては、N. N. グルボコフスキーの著作『その歴史的発展と現代の状況におけるロシア歴史学』(1928年)が極めて貴重である。 また、エミリウス・ヘルマンの著書『De fontibus juris ecclesiastici Russorum. Commentarius historico-canonicus』(1936年)[『ロシア教会法の源泉について。 歴史的・教会法学的注解」]も強く推奨される。本書は、ロシア教会法およびロシア正教会の通史の両方において、かけがえのない参考書となっている。 著者は、最も重要な資料集や文書、および関連する学術文献のリストを提示しているほか、各種の文書、法典、その他の教会法資料の成立史について詳細な解説を加え、それらを評価している。ヘルマンの研究は、極めて貴重な参考書であると同時に、ロシア正教会の教会法史の概説書でもある。
18世紀に関する史料の中では、「ロシア帝国法令全集」(PSZ、2 PSZ、3 PSZ)が第一位に挙げられ、そこにはロシア正教会に関するロシア皇帝の勅令のほぼすべてが収録されている。 最初の3巻には17世紀に関する資料が収録されており、例えば第1巻には「1649年法典」が掲載されている。ピョートル大帝の「教会規則」は第6巻、第3718号に掲載されている。PSZは1649年から1825年までの時代を網羅している。 (45巻)、第2版PSZは1825年から1881年までの時代(55巻)、第3版PSZは1881年3月から1913年までの時代(33巻)を網羅している。ロシア法の「ロシア帝国法典」 (全15巻、1832年、1842年、1857年刊;教会史においては特に第1巻第1部§40–43、ならびに第1113巻、第14巻が重要)や1906年の「法典」が制定された後も、皇帝の勅令は立法上の効力を保持していた。 さらに、「正教信仰局に関する決議および指令の全集」(PSPiR)および「至聖統治シノドの文書および案件の目録」(ODDS)についても言及すべきである(参照:Herman, p. 87)。 これら2つの叢書には、修道生活と修道院の歴史に関する膨大な資料が収録されている。『オッドス』には、聖シノドの決議や指令からの詳細な抜粋が頻繁に引用されている。
19世紀に関しては、主に修道制度の対外史に関する資料(統計データ、一部の修道院の創設年、聖シノドの指令など)を収録したもう一つの大規模な叢書として、「聖シノド首席検事による最も忠実な報告書」 (報告書)1836~1914年分。
多くの情報は、『ロシア聖職階層史』(IRI)(全6巻・7冊、 モスクワ、1807–1815年)から多くの情報を得ることができる。この書物は主にエフゲニー大主教(ボルホヴィティノフ、†1837)によって編纂されたものであるが、しばしばアンブロシウス司教(オルナツキー、†1827)の著作と誤って帰せられることがある。同司教は本文の一部のみを執筆したに過ぎない。 修道史の観点からは、特に第2巻、第3~6巻が重要である。しかし、この著作には誤りが含まれており、その資料を利用する際にはこの点を考慮する必要がある。
以上が、ロシア教会の一般史および修道史に関する最も重要な資料集である。その他の資料や関連文献への参照は注記に記載されている。残念ながら、現時点では資料の詳細な概説はまだ存在しないが、将来的にそのような概説をまとめられることを期待している。それは研究者や学生にとって有益なものとなるだろう。
さらに、ロシア修道史に関する文献についていくつか指摘しておきたい。その量は比較的多いものの、全体として専門家を満足させるには至っていない。時代ごとの分布が極めて不均一であり、学術的な価値もまちまちである。 特に、いわゆる修道院の「歴史」や「記述」にこの傾向が顕著であり、このジャンルの著作は約100点ほど確認されている。 これらの記述の大部分は、民衆向けの敬虔な読み物として執筆されたものであり、そこに記載された年代やその他の情報は常に再検証が必要となる。これは、例えばヴォロゴダの修道院に関する記述にも当てはまる(参照:IRI. 3)。その中でも最も信頼性の高いものを、我々の書誌に収録している。 純粋に学術的な価値を持つのは、N. ニコルスキー、A. ドブロクロンスキー、アルヒマンディト・ドシフェイ(一部)、A. V. ゴルスキー、セレブリアンスキーらの著作である。特に言及に値するのは、ズヴェリンスキーの3巻からなる著作であり、これは修道院の植民地化を研究する歴史家にとって、まさに不可欠なものである。
修道院の所有地に関する歴史については、ロシアの社会・経済史を扱った著作、例えばロシュコフ、ゴティエ、ディアコノフらの著作や、1859年および1861年に出版され、今日に至るまでその価値を失っていないV. ミリュティンの著作を参照することができる。 修道院の所有地に関する歴史については、「ピスツォヴィエ」や「ペレピスニエ」の帳簿が多くの資料を提供している。
修道院の日常生活や、各時代の修道士に特徴的な思想の歴史に関しては、教会史家というよりは文学史家によって多くが記述されている。具体的には、ポルフィリエフ(キエフ時代に関するもの)、ペトゥホフ、スペランスキーによる、古ロシア文学の通史に焦点を当てた著作が挙げられる。 専門的な単行本は、参考文献および注釈の該当箇所に挙げられている。 参考書としては、現在もなお、エフゲニー(ボルホヴィティノフ)大主教やフィラレート(グミレフスキー)大司教の著作、および前述のN. グルボコフスキーの著書が利用されているが、後者はむしろ史料学的な著作というよりは学術研究としての性格が強い。 修道院による植民地化や教区の境界に関する地図作成の分野では、これらの問題は極めて重要であるにもかかわらず、これまで実質的に何も行われていないと言ってもよい。ただし、ポクロフスキーの著作には多少の資料が見出せる。
19世紀、特にその後半に関する歴史学的研究は、非常に断片的なものである。
参考資料(人物伝やテーマ別記事)としては、未完の『正教百科事典』(ПБЭ)がある程度重要であるが、その記事の学術的な質にはばらつきがある。 また、「ロシア人名事典」(RBS)についても言及すべきである。これは、例えば18世紀および19世紀の研究において、その豊富な参考文献リストと内容の両面から非常に貴重である。ただし、この事典はアルファベット順に編纂されておらず、一部の文字(「М」など)は完全に欠落しているか、あるいは部分的にしか収録されていない。 この出版物を引用する際は、その巻に含まれる最初の名前と最後の名前、および該当するページ番号を明記する必要がある。
ここで述べたことは、あくまで出典学および書誌学に関する簡潔な解説に過ぎない。これは、一方では読者の助けとなることを目的とし、他方では、特定の課題に関する資料を収集することがいかに困難であるかを示すためのものである。 参考文献および学術文献のリストには、当然ながら最も重要な出版物のみが掲載されており、専門文献への参照を含む追加情報は脚注に記載されている。
古ロシアのキリスト教とは、ギリシャ正教である。それはビザンツからルーシへと伝来し、ルーシはこれを受け入れることで、東方教会の宗教的・文化的な世界の一員となった。ルーシにおける教会生活は、東方教会の精神的文化、とりわけそのビザンツ的な表現の発展と密接に結びついて形成されていった。
東スラブ諸民族における国家形成は6~9世紀にかけて進行し、キエフ公国の成立をもってその過程は完結した。この時代、スラブ諸民族は黒海沿岸北部、クリミア、そしてコンスタンティノープルと経済的な結びつきを持っていた。 黒海沿岸地域全体は、早くも1世紀からキリスト教宣教の舞台となっていた。4世紀には、クリミアにおけるギリシャ人司教に関する最初の歴史的記録が見られる。 キリスト教の布教はそこで非常に順調に広がり、やがて主教座の数は5つにまで増えた。クリミアの司教たちは、クリミア、北タヴリア、アゾフ海沿岸の北部および南東部のギリシャ系キリスト教徒だけでなく、広大な草原地帯に暮らす遊牧民族にも牧会を行っていた[6] 。
ビザンツ教会のキリスト教宣教は、東スラブ人にも及んだ。現在では、キリスト教がヴラディミール大公の改宗(988/89年)よりずっと前にキエフ大公国に浸透していたことが、もはや完全に反駁の余地なく証明されている[7] 。
新設された教区として、ロシア正教会は、その母教会であるコンスタンティノープル総主教庁から、教義、教会法、および教会規則を受け継いだ。 その礼拝言語となったのは、スラヴ人の聖使徒キリルとメフォディウスの偉大な功績の結晶である教会スラヴ語であり、これはビザンツ教会がすでに1世紀にわたり、スラヴ人への布教に用いていた言語であった。
当時、修道生活は東方教会の生活において特別な位置を占めていた。ルーシに現れると、それは民衆から極めて好意的な受け入れを受け、国中に急速に広まり、教会事務のみならず、古ルーシの生活の多くの他の分野、国家体制や文化に対しても多大な影響を及ぼした。 その理由は、東方修道生活の歴史に根ざしており、とりわけ、現在我々が知っているように、修道生活がルーシがキリスト教を公式に受容する以前から同地に浸透し、長きにわたり真のキリスト教的敬虔さの模範となっていたことにあります。
ルーシの改宗期である10世紀の直前、東方教会の修道生活はすでに完成された様相を帯びていた。ここでは、その形成過程についてごく簡潔かつ概略的な概要を示すだけで十分であろう[8] 。
その誕生当初、修道生活は特別な禁欲主義によって特徴づけられていた。 古代エジプトの隠者たちの偉大な群れ――その中で最も輝かしい星として聖アントニオス(†356)、聖マカリオス(†390)、そして聖パコミオス(†348)が輝いている――は、パコミオスという人物に「エジプトのキノヴィアの指導者」を見出した。 パホミオスの周りに集まった修道者たちは、最初のキリスト教修道院を設立した。それは318年または320年、テーベ近郊のタヴェンナに設立された。その規則は、共同生活における禁欲主義の基礎となった。 修道共同体の確立と発展、そしてその本質と主要な特徴の正確な定義において、聖バシレイオス大主教(† 379)の功績は特に大きい。カッパドキアの修道共同体のために書かれた彼の禁欲主義に関する著作には、キノヴィアの神学的および牧会的根拠が盛り込まれている[9] 。
パレスチナの修道院では、キノヴィアの先駆者であるイラリオン・ガズス(†371)とハリトン・ザ・グレート(†350)により、一種の共同生活を行う修道院へと変貌し、「ラヴル」という名称で呼ばれるようになった。 エウフィミオス大聖人(† 473)、テオドシオス・キノヴィアルヒ(† 529)、そしてとりわけ聖サヴァ修道院長 (†532)――後に東方教会の典礼生活において極めて重要な役割を果たすこととなる修道院規則『聖サヴァのティピコン』の編纂者――は、パレスチナにおいて独自の地域的特徴を持つ修道共同体の創設者たちであった。 キリロス・スキフォポリスによるこれらの修道者たちに関する聖人伝――これは古代キリスト教文学の至宝である――は、最古の修道院の日常生活を私たちに伝えている。 5世紀には、シリアやシナイ半島でも修道生活はすでに盛んになっていた。偉大なシリア人であるエフレムやイサク、ヨハネ・ラダー、シメオン・ストルプニクの姿は、そこで修道的な世俗からの離脱がどれほど非凡な高みに達したかを物語っている[10] 。
4~6世紀にかけて、東方修道生活は教会の生活において極めて重要な役割を果たすようになった。その教会・社会的な意義、および国家・政治的な意義は、ユスティニアヌス帝(†565)の『法典』を参照すればより理解しやすくなる。そこでは、 修道院に関する新法が極めて重要な位置を占めている[11] 。 8~9世紀には、修道生活の重要性はさらに高まった。修道生活は、正教の生活における最重要課題について教会の教義を擁護するために、少なくとも教会階層や皇帝の権力に反対する立場をとり、あるいはそれらと対立する闘争に踏み切る力を自ら見出したのである。 教会にとって運命を左右する聖像崇敬をめぐる闘争において、揺るぎない信仰と不屈の精神に満ちた修道界こそが、正教の旗を高く掲げ、聖像崇敬の勝利を確実なものにしたことは周知の事実である。 この勝利は、教会における修道院の地位をさらに高め、確固たるものにした。この輝かしい闘いの中で、修道界は偉大な指導者を得た。その人物は、後世にわたって東方修道史のまさに中心に位置し続けている。それがテオドロス・ストゥディテス(†826)である。 偉大なるストゥディトスの意義は、イコン崇敬をめぐる闘争における彼の役割にとどまらない。彼は修道組織そのものを築き上げた主要な立役者の一人であった。彼は「ストゥディトス規律」として知られる修道院規則の制定者であるが、残念ながらその原本は教会史学の分野において失われてしまっている。 聖バシレイオスと同様、名高いストゥディオス修道院の院長であった彼は、キノイア(共同生活)の熱心な信奉者であった。彼の規則には、数世紀にわたる修道生活の経験が反映されている[12] 。
偶像破壊運動の敗北後(その第一段階は726年から780年まで、第二段階は802年から842年まで続いた)、修道生活は歴史上最も輝かしい時代を迎えた。 修道院の数は増え、修道士たちの影響力は極めて強大となり、同時代の人々はビザンツを「修道士たちの王国」、その時代を「修道生活の栄光の時代」と呼んだ[13] 。
ロシアの修道生活にとって、また教会生活における独自の地位を確立する上で、ビザンツ修道生活の隆盛は極めて重要な影響を及ぼした。偶像破壊運動の余波と、その克服において修道士たちが果たした役割は、ルーシの洗礼の時代においてもなお生々しい記憶として残っていた。 そして、我々がロシアの敬虔の歴史を振り返る際、古代ロシア人の宗教的意識において、聖なるイコンや「天使と同等の位階」にある修道士たちが、いかに深く崇敬されていたかについて、驚くべきではない。 古代ロシアの修道制度が形成されていく過程には、偶像破壊運動の時代の出来事とのつながりが見て取れる――それは表面的なものではなく、内面的かつ精神的なつながりである。
イコノボリアが最初に勃発した際、すでに多くの正教の殉教者たちがタウリアやクリミアへ逃れた。聖ステファン・ノヴィイ(†767)は、イコン崇敬の熱心な擁護者であり、黒海の北岸、ジキア教区方面を、難民となった修道士たちにとっての安全な避難所と呼んでいた。 その伝記には次のように記されている。「ビザンツは孤児のようになった。まるですべての修道者が捕虜として連れ去られたかのようであった。ある者はエウクシノス・ポントスへ、ある者はキプロス島へ、またある者は古きローマへと船出した」[14] 。クリミアの山々に数多く存在する洞窟は、これらの難民たちにとって最初の修道院となったのかもしれない。 クリミアの異教徒の啓蒙に多大な尽力をした、スグデイ(スロジ)の大司教聖ステファノス(†750年頃)の伝記には、当時この地に多くのイコン崇敬の擁護者がいたことを示す新たな証拠が見出される。 ビザンツから逃れてきた修道士たちが、南ルーシに熱心なイコン崇敬をもたらした可能性は十分にある[15] 。半島に到着後、修道士たちはごく短期間で現地に馴染み、その数は増え続けた。 その証拠として、聖テオドロス・ストゥディトスがクリミアのフィラレート司教に宛てた書簡が挙げられる。そこでは、半島にやってきた修道士たちの布教活動が称賛されている[16] 。
また、人々が居住し、修道院に似た洞窟がクリミアだけでなく他の地域でも発見されているという事実も、我々にとって重要な点である。 ドナ川上流(ドナ川の支流であるティハヤ・ソスナ川沿い、コロトヤカおよびオストロゴシュク各市の近郊)における8世紀および9世紀の考古学的発見は、キリスト教の カタコンベ――すなわち、学者らの見解によれば、修道院の遺跡に他ならない洞窟――の存在を裏付けている[17] 。 もし修道士たちが自分たちの集落を北東へと拡大することに成功したのなら、同様の拡大が北西方向でも行われていたと推測するのは当然である。とりわけ、ビザンツからやってきた修道士たちは、活動的で戦闘的なキリスト教の担い手であり、 また、これらの地域では福音宣教の条件が特に好都合であった。というのも、東スラブ人住民からは何の妨げも受けなかったからである。北西へと広がっていったキリスト教の宣教は、キエフにまで到達した。 すでに10世紀後半、スヴィャトスラフ公(†972)の治世下、国と国民が国家・政治組織としての特徴を帯びるようになると、キリスト教は公爵の宮廷にも浸透した。キエフ公の母であるオルガ公妃は、コンスタンティノープルで洗礼を受けた(957年頃)[18] 。
残念ながら、キエフ国家における修道士たちの移住活動について特徴づける資料は我々の手元にない。この地におけるキリスト教の始まりに関する我々の知識には、大きな空白がある。 知られているのは、ルーシの洗礼以前からキエフにキリスト教徒が住んでおり、彼らには聖イリヤ教会という独自の教会があったということだけである。これは、944~945年のキエフとビザンツ間の条約から明らかである。これらのキリスト教徒の中には、疑いなく、敬虔で厳格な禁欲的な生活を送った修行者たちがいたに違いない。 思い起こされるのは、983年に殺害された、非スラブ系出身のキエフ初の殉教者たち、すなわちヴァリャーギである。しかし、修道院の建造物やそれに類するものを示唆する外的な痕跡は、今のところ発見されていない[19] 。
これまで述べてきたことはすべて、ロシアの修道生活の「前史」に関するものであり、これを「歴史」そのものと明確なつながりで結びつけることは難しい。
最古のロシアの史料において、ルーシにおける修道士や修道院に関する最初の言及は、ウラジーミル大公の洗礼後の時代にのみ見られ、その出現はヤロスラフ大公(1019–1054)の治世にさかのぼる。 彼の同時代人であり、1051年からキエフ都主教を務めたイラリオンは、ヴラディミール大公の追悼に捧げた有名な賛辞―― 「法と恩寵に関する説教」において、次のように述べている。この説教は、彼が1037年から1043年の間に、宮廷の司祭として[20] で述べたものである。すなわち、すでにウラジーミルの時代、キエフには「山の上に修道院が建ち、修道士たちが現れた」[21] と。この矛盾については、二つの説明が可能である: イラリオンが言及する修道院は、厳密な意味での修道院ではなく、単にキリスト教徒たちが教会の近くにある個別の小屋で厳格な禁欲生活を送り、礼拝のために集まっていたものの、まだ修道規則を持たず、修道誓願も立てず、正式な剃髪も受けていなかった可能性が高い[22] 。あるいは、 別の可能性として――「1039年の編纂」を含む年代記の編纂者たちは、非常に強い親ギリシャ的な色合いを帯びており、キエフ・ルーシにテオペンプトス大司教 (1037年)の到着以前、キエフ・ルーシにおけるキリスト教普及の成果を過小評価する傾向があった[23] 。
同じ1037年について、古ロシアの年代記作者は荘厳な文体で次のように記している。「こうしてキリスト教の信仰が広まり始め、修道士たちが増え始め、修道院が建てられ始めた。 そして、ヤロスラフは教会の規則を愛し、司祭たちを大いに愛し、修道士たちを大いに重んじた」[24] 。 さらに年代記の著者は、ヤロスラフが2つの修道院――聖ゲオルギイ(ゲオルギエフスキー)修道院と聖イリーナ(イリーニンスキー女子修道院)――を設立したと伝えている。これらはキエフにおける最初の正規の修道院であった。しかし、これらはいわゆる「クトトル(寄進者)の修道院」、あるいはより正確には「公爵の修道院」であった。なぜなら、そのクトトルは公爵であったからである。 ビザンツ帝国においては、このような 修道院は一般的な現象であったが、主流ではなかった[25] 。 これらの修道院の後の歴史から、古ロシアの公爵たちが修道院に対する寄進者の権利を行使していたことが見て取れる。これは特に新しい修道院長が任命される際に顕著であり、すなわち、ビザンツに特徴的な寄進者と彼が設立した修道院との関係が、そのまま再現されていたと言える。 このような修道院は通常、創設者の守護聖人の名にちなんで命名された(ヤロスラフのキリスト教名はゲオルギーであり、イリーナは彼の妻の守護聖人の名である); これらの修道院は後に家系の修道院となり、寄進者から金銭やその他の寄進を受け、一族の霊廟としての役割を果たした。モンゴル侵攻以前、すなわち13世紀半ば以前に設立された修道院のほとんどは、まさに公爵家、あるいは寄進者による修道院であった。
一方、キエフの有名な洞窟修道院――ペチェルスキー修道院――の起源は全く異なっていた。それは、庶民出身の個々人の純粋な禁欲的志向から生まれ、寄進者の貴族的な身分や自らの富によってではなく、修道者たちの禁欲的な功績によって同時代の人々から得た愛によって名声を博した。 その生涯は、年代記作者が記すように、「節制と、深い敬虔、そして涙を伴う祈り」の中で過ごされていた。
ペチェルスキー修道院はごく短期間で全国的な重要性を獲得し、後世においても国民の精神的・宗教的生活に対するその重要性と影響力を維持したものの、その創設の歴史には多くの不明な点が残されている。様々な学術的研究に基づき、この歴史を次のように概説することができる[26] 。
洞窟修道院の創設について、年代記の編者は1051年の項で、ベレストヴォ(キエフの南西に位置し、ヤロスラフの領地であった村)の教会の司祭が都主教座に就いたという記述に関連して語っている。 その司祭の名はイラリオンといい、年代記が証言するように、彼は「徳高く、学識豊かで、断食を重んじる人物」であった。 公が通常、ほとんどの時間を過ごしていたベレストヴォでの生活は、公の親衛隊もそこに駐留していたため、騒がしく落ち着かないものであった。そのため、霊的な修行を志す司祭は、世俗の喧騒から離れた場所で祈りを捧げられるような、人里離れた場所を探さざるを得なかった。 キエフの南、ドニエプル川の右岸にある樹木が生い茂る丘で、彼は小さな洞窟を掘り、そこを禁欲的な祈りの場とした。ヤロスラフはこの敬虔な長老を、当時空席となっていた大主教座に選び、司教たちに彼を叙階するよう命じた。 彼は、ロシア系出身者としては初の[27] となった。イラリオンにとって新たな職務は彼のすべての時間を奪い、もはや自分の洞窟を訪れるのは時折しかできなくなった。しかし、まもなくイラリオンには後継者が現れた。
それは、アントニーという名でペチェルスク修道院の創設者として知られる隠者であった。彼の生涯については、多くの点が私たちにとって不明なままであり、彼に関する情報は断片的なものに過ぎない。11世紀70年代または80年代に書かれた彼の『行伝』 (ただし1088年以前)に書かれたもので、A. A. シャフマトフが明らかにしたように、13世紀にはすでに広く知られていたが、3世紀後には失われてしまった[28] 。このアントニーは、チェルニヒフ近郊のリュベチャ出身で、修道生活への強い志を持っていた。 彼はキエフへやって来て、イラリオンが住んでいた洞窟で短期間過ごした後、南へと向かった。彼の伝記に記されているようにアトス山にいたのか、それともM・プリセルコフが主張するようにブルガリアにいたのか(後者の方がより可能性が高いと思われる)――それは完全には明らかではない。 しかし、この問題はペチェールスク修道院の歴史にとって二次的な意義しか持たない。なぜなら、この修道院の精神的・宗教的な創始者であり、修道士たちの禁欲的な指導者として第一線に立っていたのは、アントニーではなく、聖テオドシイ修道院長であったからである。 アントニーは、自らの生涯によって鮮やかな模範を示すものの、指導者や教師としての天職を持たない修道士の一人である。聖テオドシウスの行伝やペチェールスクの『パテリカ』から明らかなように、アントニーは陰に留まることを好み、新しい修道院の運営を他の修道士たちの手に委ねた。 キエフにおける極めて複雑な教会・政治的出来事に関連して編纂されたアントニイの行伝のみが、修道院の設立に対する聖山の祝福について語っている。おそらく、ロシア社会における禁欲的な志向から発展したペチェールスク修道院( )に、 「ビザンティン」キリスト教の烙印を押し、聖アトス山と結びつけ、その創設をビザンティンの発案であるかのように提示する意図があったのかもしれない。 伝記によると、アントニーは帰国後、キエフの修道院(これは聖ゲオルギオス修道院に他ならない)での生活様式に満足できず、再び隠遁生活へと戻り、イラリオン洞窟[29] へと向かった。 アントニイの敬虔さは信者たちから非常に大きな崇敬を集め、ヤロスラフの息子であり後継者であるイジャスラフ公でさえ、祝福を求めて彼のもとを訪れたほどであった。
アントニーが孤独な生活を送っていたのは長くは続かなかった。1054年から1058年の間に、すでに彼のもとへある司祭が訪れており、その人物は『ペチェルスクの聖人伝』において「大ニコン」(あるいは「ニコン大聖人」)の名で知られている。 このニコンが一体誰であったかという問いは、興味深くかつ重要である。私個人としては、M・プリセルコフの見解に同意しており、すなわち「大ニコン」とは他ならぬイラリオン都主教その人であり、彼は1054年または1055年にコンスタンティノープルからの要求により主教座から退き、ギリシャ人のエフレムに交代させられたのである。 その際、イラリオンは当然ながら司祭の位を保持していた。彼はすでに大修道服を着用した司祭として登場しており、修道服を着用する際、慣例に従ってイラリオンという名をニコンに変更した。その後、発展を続ける修道院において、彼の活動は特別な規模を帯びていく。 司祭として、彼はアントニーの意向に従い、修道見習いの剃髪式を執り行った。後で見るように、彼は自身の修道院が掲げる「国民全体への奉仕」という理念を体現していた。その後、彼はペチェールスク修道院を離れ、短期間の不在を経て再び戻り、修道院長となり、長く波乱に満ちた生涯を送った末にこの世を去った。 ニコンは、11世紀の国家的・文化的出来事のまさに中心に立っていた。なぜなら、それらの出来事はすべて、何らかの形でペチェールスク修道院と結びついていたからである。彼は、ギリシャの聖職階層にも、キエフの公爵たちによる教会生活への干渉にも反対した、古ロシアの民族主義的な修道精神を体現していた[30] 。
「大ニコン」の名がペチェールスク修道院の民族的・文化的隆盛と結びついているとすれば、聖テオドシウスの人物像には、まさにロシア修道生活の精神的指導者であり、その創始者としての姿が見て取れる。テオドシウスの役割は、アントニウスの歴史的役割とは比べものにならない。 11世紀80年代、ペチェールスク修道院で「大ニコン」が修行に励んでいた時期に、同修道院の修道士ネストルによって記された彼の『行伝』は、キリスト教の敬虔さの理想を体現した禁欲者としてテオドシウスを描いている。ネストルは東方教会の多くの聖人伝に精通しており、 それがフェオドシオスに関する彼の記述に一定の影響を与えた可能性はあるが、伝記のページから浮かび上がるフェオドシオスの姿は、あまりにも一貫性があり生き生きとしており、また極めて素朴で自然であるため、ネストルの記述を単なる聖人伝の模倣と見なすことはもはやできない。 テオドシウスは1058年、あるいはそれより少し前にアントニオのもとを訪れた。その厳しい霊的修行のおかげで、テオドシウスは修道院の修道士たちの間で際立った地位を占めるようになった。わずか4年後、彼が修道院長に選出された(1062年)のも不思議ではない。 この間に修道者の数は飛躍的に増え、アントニウスとバルラアム(同修道院の初代イグメン)は洞窟を拡張することを決めた。修道者の数は増え続け、アントニウスはキエフの公イズヤスラフに対し、教会建設のために洞窟の上にある土地を修道院に下賜するよう要請した。 修道士たちは願いを叶えられ、木造の教会と修道室を建設し、建物を木製の柵で囲んだ。フェオドシイの伝記では、これらの出来事は1062年に位置づけられており、伝記の著者ネストルは、地上にある修道院の建物の建設をフェオドシイの修道院長就任の始まりと結びつけている。 より正確には、フェオドシイの修道院長在任期間にさかのぼるのは、この建設工事の完了のみであると考えるべきだろう[31] 。フェオドシイの修道院長在任初期における最も重要な業績は、ストゥディオス修道院の共同生活規則の導入であった。フェオドシイの伝記から、彼が修道者たちによる修道誓願の最も厳格な履行を志していたことがうかがえる。 フェオドシイの業績は、 キエフ・ペチェルスク修道院の精神的基盤を築き、同修道院を2世紀にわたり模範的な古ロシアの修道院たらしめた[32] 。
ペチェール修道院の隆盛と並行して、キエフや他の都市にも新たな修道院が現れ始めた。 『パテリカ』に収録された、ペチェルスクの修道士たちの指導者であるアントニウスとニコン、そしてイジアスラフ公(公の従者であったヴァルラアムとエフレムの修道入りをめぐる争い)の対立に関する物語から、当時すでにキエフに聖ミーナの修道院が存在していたことがわかります。 この修道院がいつ、どのようにして設立されたかについては、正確な記録が残っていない。 おそらく、キエフにそのような修道院はそもそも存在せず、単にビザンツまたはブルガリアの聖ミーナ修道院出身のブルガリア人修道士が、ニコンと共にキエフを去った後、そこに住んでいただけだったのかもしれない[33] 。ニコンは公の怒りを避けるために街を離れ、南東へと向かった。 彼はアゾフ海の岸辺にたどり着き、ヤロスラフ公の孫であるグレブ・ロスティスラヴィチ公が統治していた(1064年まで)トゥムタラカニという町に滞在した。ビザンツ人からはタマタルハとして知られていたトゥムタラカニで、 ニコンは1061年から1067年の間に聖母マリアに捧げる修道院を建立し、1068年にキエフのペチェールシク修道院へ戻るまでそこに留まった。同修道院では、1077/78年から1088年にかけて、すでに院長として修行に励んだ[34] 。
ディミトリエフスキー修道院は、1061/62年にキエフのイジャスラフ公によって設立された。その運営のため、イジャスラフはペチェールスキー修道院の院長を招いた。 キエフをめぐる争いでイジャスラフのライバルであったヴセヴォロド公もまた、ミハイロフスキー・ヴィドゥビツキー修道院を建立し、1070年にはその敷地内に石造りの教会を建設するよう命じた。 その2年後、キエフにはさらに2つの修道院が設立された。スパースキー・ベレストフスキー修道院は、おそらく後にノヴゴロドの主教(1078–1096)となったゲルマンによって設立されたものであり、史料ではこの修道院はしばしば「ゲルマニチ」と呼ばれている。 もう一つのクロフスキー・ヴラヘルンスキー修道院は、「ステファニチ」とも呼ばれ、ペチェルスキー修道院の院長(1074–1077/78)であり、ウラジーミル=ヴォリンスキーの司教(1090–1094)でもあったステファンによって設立され、キエフがタタール人に破壊される[35] まで存続した。
このように、この数十年間は修道院建設が盛んに行われた時期であった。11世紀から13世紀半ばにかけて、他にも多くの修道院が建立された。ゴルービンスキーは、キエフ市内だけでも17の修道院があったと数えている[36] 。
11世紀には、キエフ以外にも修道院が建設された。すでに、トムタラカニの修道院については触れた。 また、ペレヤスラヴリ(1072–1074年)、チェルニヒウ(1074年)、スーズダリ(1096年)[37] にも修道院が現れた。特にノヴゴロドでは多くの修道院が建設され、12~13世紀には最大で17の修道院が存在した。 その中でも最も重要なものは、アントニエフ修道院(1117年)と、聖ヴァルラアム・フティンスキーによって設立されたフティンスキー修道院(1192年)であった。概して、これらは公爵の所有する、あるいは寄進者による修道院であった。 各公爵は自らの都に修道院を持つことを望んだため、すべての公国の首都には、男子修道院と女子修道院が建設された。そのうちのいくつかは、司教が寄進者であった。13世紀半ばまでに、ルーシでは都市やその周辺に最大70の修道院が存在していた[38] 。
地理的には、修道院は古代ルーシの主要な交易路や水路沿い、ドニエプル川沿いの都市、キエフとその周辺、ノヴゴロドやスモレンスクに立地していた。12世紀半ばからは、ロストフ・スーズダリ地方――ウラジーミル・ナ・クヤズマやスーズダル――にも修道院が現れ始めた。 同世紀の後半には、ザヴォルジェ地方における修道院による開拓の最初の動きが見られ、そこでは主に小さなスキートやプスティンカが建設された。この開拓は、ロストフ・スーズダリ地方からの移住者たちによって行われ、彼らは徐々にヴォログダ方面へと進出した。 ヴォログダ市自体は、聖ゲラシム(†1178)が聖三位一体に捧げて に設立した修道院の周辺に形成された集落として誕生した。その後、修道院による開拓は北東へと進み、ユグ川がスホナ川に合流する地点[39] へと向かった。
ヴォルガ川の北側、いわゆるザヴォルジェにおける修道院の開拓の最初の歩みは、その後、13世紀後半から14世紀にかけて、ヴォルガ川から白海(ポモリエ)およびウラル山脈に至る広大な地域にスキタや修道院を点在させる大いなる運動へと発展した。
聖テオドシイは、すでに同時代の人々から尊敬と愛を集めていた。なぜなら、彼はまさに「ルーシにおける共同生活の創始者」であったからである。彼の伝記と『ペチェールスク修道院のパテリク』は、この傑出した人物の活動と、弟子たちへの影響を知るための主要な資料である。 『パテリク』の価値は、11~12世紀の古ロシアの修道生活、とりわけ当時の修道院の内部生活について、包括的な理解を得る手助けとなる点にある。
内容において、ペチェールスクの『パテリク』は、修道院の創設から12世紀末あるいは13世紀初頭に至るまで、ペチェールスク修道院とその住人たちの功績を記した聖人伝である。さらに重要なのが、聖テオドシウスの『生涯』である。その編纂者は、ネストルという名のペチェールスク修道院の修道士であった。 彼は11世紀80年代末、修道院の院長が「偉大なるニコン」であった時期にこの伝記を執筆した。つまり、聖イグメンの死去からおよそ15年後であり、生前に彼を知っていた修道士たちの多くがまだ存命であった。まさにそのため、この伝記には伝説的な要素は一切含まれていない。 ネストルの著作には、ビザンツの聖人伝のいくつかの様式からの影響が見られるものの、それでも非常に現実的に書かれており、著者の個性が色濃く反映されている。当時のテオドシウスの姿は、著者にとってまだ非常に生々しく、ほとんど現代人のようであったため、ネストルがビザンツの聖人伝を参照していたとはいえ、 おそらくは第一に聖サヴァ修道院長伝を参照していたにもかかわらず、その像にはビザンツの聖人に見られるような定型的なアギオグラフィーの特徴はなく、むしろ初期キリスト教の修道士像の理想とは完全には一致しない、ロシアの修道士特有の特質を備えている。 テオドシオスにおいて私たちを驚かせるのは、自らの魂を磨き、あらゆる外的なものから離れてこの世の生活を天上の住まいに変えようとする熱心な志だけでなく、世に影響を与えようとする彼の志でもある。 この極めて国民的な特徴は、聖ヴァルラアム・フティンスキー(†1192)や聖アヴラアミイ・スモレンスキー(†1220)の伝記にも表れている。
修道院と外界との宗教的・社会的、そして文化的なつながりにより、L. K. ゲッツにペチェールスキー修道院を「モンゴル侵攻以前のルーシの文化の中心地」と呼ぶ根拠を与え、また同修道院が「世俗を離れた宗教生活のみ、禁欲のみを知り、その主たる目的が修道士自身の魂の救済にあったという、修道生活の本来の理想」から逸脱していたと論じる口実を与えた[40] 。 しかし、この主張を当時のすべての修道生活に一般化することはできない。『ペチェールスクの聖人伝』には、二つの異なる禁欲的理想が融合している。聖テオドシウスや聖ニコラ・スヴィャトシェの傍らには、最も洗練された禁欲と世俗の煩わしさからの完全な放棄に身を捧げた修行者たちの姿が見られる。 彼らは、ヨハネス・モスカ(†620)の『格言集』や『リモノアリオン』に登場する人物像を私たちの記憶に呼び起こす。
これら2つのタイプの修道生活が存在することは、当時の修道制度が形成期にあったことを示している。しかし、洗練された禁欲的修行に没頭しなかった修道士たちは――『パテリコン』の記述から判断するに、しばしば敬虔の道でつまずき、惑わしに陥っていたが―― まさに聖テオドシオスが、ロシア固有の修道生活の指導者兼師となり、後世においては、彼の敬虔さの特質が古ロシアの修道士の姿に見られるようになったのである。
テオドシウスは、アントニオスの洞窟に来たときはまだ青年だったが、修道生活への志を快く思わなかった母親から、修道士となるための祝福を得るために、すでに長い闘いを耐え抜かなければならなかった。 アントニオスは世俗からの逃亡者を受け入れ(1058年頃)、この若き見習い修道士は、 な謙虚さと忍耐、そして霊的な心構えによって、まもなくこの隠遁者の長老の愛を勝ち取り、長老は偉大なるニコーンに彼を剃髪するよう命じた。若い修道士はすぐに兄弟たちの愛も勝ち取った。 大公の意志により、イグメン・ヴァルラアムが新設された聖ディミトリ修道院の院長に転任した後、フェオドシイは修道院に入院して5年目にイグメンに選出され、アントニイの祝福を受けて、この重責を引き受けた。
テオドシウスが修道院長に就任する以前、ペチェールシク修道院がどのような規則に基づいて運営されていたかは定かではない。 ペチェールシク修道院は、それ以前に設立された他のキエフの修道院と同様、設立当初の数年間は「大教会の規則」、すなわち聖ソフィア大聖堂やその他のコンスタンティノープルの教会における礼拝規則に基づいて生活を送っていた可能性が高い[41] 。 しかし、このティピコンは、礼拝に関する規則のみを定めたものであったため、修道院生活の運営にはあまり適していなかった。おそらく、新任の修道院長は、聖テオドロス・ストゥディトスの修道院規則の存在を知っていたのだろう。 この規則に関する最初の情報――おそらく不完全で、必ずしも満足のいくものではなかっただろうが――を、テオドシウスは、キエフ都主教ゲオルギオスの側近であるギリシャ人修道士ミハイルから得た。彼を通じて、テオドシウスは、コンスタンティノープルの修道院の一つに、その規則の完全な写本が保管されていることを知ったのかもしれない。 その伝記によると、聖テオドシオスは、コンスタンティノープルの修道士エフレム(かつてペチェール修道院で出家したが、現在はギリシャの修道院の一つに身を隠していた)のもとへ、ある修道士を派遣し、彼からストゥディテ修道院の規則の写しを受け取らせようとした。 しかし、テオドシウスが受け取った規則は、聖テオドロス自らが筆を執り、彼の修道院で実践されていた原本ではなく、コンスタンティノープル総主教アレクシオス(1025–1043)によって後世に改訂された版であった。 ストゥディオス修道院の規則の正確かつ完全な写本は現存していないことが知られている。我々の手元にあるのは、偉大なるストゥディトの死後まもなく、ストゥディオス修道院で作成されたその要約のみである。 この規則はアレクシオス総主教による改訂版の基礎となっているが、その改訂版は、修道院生活のあらゆる状況を網羅した詳細な修道院規則というものではない。そこには、アレクシオス自身によるいくつかの礼拝に関する指示と、断食および修道生活全般に関する最も一般的な規則のみが含まれている[42] 。
しかし、テオドシウスにとって何よりも重要だったのは、規則の根幹である「厳格な共同生活」という原則を守ることであり、彼は修道院長在任中、常にこの原則を実践していた。彼自身、「in manibus opus, in ore psalmus」(手には仕事、口には賛美歌)と絶えず精進しつつ、自身の世話に委ねられた修道者たちにも同じことを求めた。 ネストルのこの簡素でありながら、その簡素さゆえに実に印象深く生き生きとした記述は、テオドシウスの多面的な牧会者としての賜物と、共同生活の原則を厳格に遵守しようとする彼の熱心な志を私たちに示している。 彼は、シリアの教父たちに特徴的な、洗練されすぎたり過度に厳格な禁欲主義を奨励しなかった。なぜなら、そのような禁欲主義は修道院共同体の共通の基盤となり得ないことを理解していたからである。 とりわけ、修道生活がルーシでその第一歩を踏み出したばかりの当時、やがてキリスト教の敬虔さの真の模範となり、世のための理想となるためには、まだ長く困難な道のりを歩まなければならなかった時期においては、それは不可能であった。もちろん、これは聖テオドシウスが禁欲の最高段階を否定していたという意味ではない。 彼は、それだけが霊的な体験と霊的指導力をもたらすこと、また修道院長にとって、それらが修道兄弟たちに影響を与えるために必要な力の唯一の源泉であることをよく知っていた。彼自身も熱心に修行に励んでいたが、その謙虚さゆえに、自分の功績を修道兄弟たちや、そもそも同時代の人々に知られたがらなかった。彼が鎖を身につけていたのは、若き日のことだけだった。 祈り、謙遜、断食が彼の人生を満たしている。彼は修道院長としての地位を極めて謙虚に担い、その質素な装いは、修道院の兄弟たちやこの世の権力者たちに、貧しさこそがキリスト者を飾るものであることを示している。彼は常に断食を続けている。乾いたパン、ごく稀に油を添えない野菜――これが彼の食事のすべてだが、その顔は常に喜びに満ちている。 その禁欲的な行いは夜に行われる。一日中を仕事に捧げている。彼は修道者たちのことを気遣っているが、過度に厳格になることなく彼らを導いている。言葉よりも自らの模範によって彼らを教育し、たとえ話を用いて教訓を与える。過ちを犯した者に対しては、愛と穏やかな厳しさをもって諭す。 聖テオドシオスの奇跡――彼の預言の賜物――は、その伝記において、彼の禁欲的な美徳の結果として描かれている。 これらの奇跡の大部分は、修道士たちと 修道院の壁の外にある世俗社会との関わりに関連していた。なぜなら、それらは一方で、修道院生活における信徒からの施しの重要性を強調し、他方で、信徒たちの間で修道生活というキリスト教的美徳に対する敬意を強めるものだったからである。
その『行伝』には、聖テオドシオスが隣人に奉仕した数々の例が記されており、彼は社会的なキリスト教的奉仕の先駆者と見なすことができる。修道士ネストルは、彼を未亡人、孤児、貧しい人々の守護者と呼んでいる。彼の功績は、パレスチナの修道生活を思い起こさせるものである。 まもなく、テオドシウスの影響力はキエフの公爵宮廷にまで及び、そこで彼はその先見の明ある助言のおかげで大いに重用された。これは、彼が公爵スヴィャトスラフとの論争に勝利したことに明確に表れている。わがままな公爵は、将来の聖人となる人物の精神的権威に屈服せざるを得なかった。
テオドシウスは修道院の兄弟たちの間でも説教を行った。彼の教えは修道生活の基本原則に触れていたが、特定の禁欲的修行の仕方についての指導は行わなかった[43] 。
テオドシウスが修道院の日常における様々な事柄について抱いた見解は、彼が残した5つの修道士向け教訓に表れており、これらが聖人自身によるものであることに疑いの余地はない[44] 。テオドシウスは、牧会的教育体系の基盤として、完全性への熱心な追求を据えている。 彼は、当時の修道生活の主たる目的を、謙遜と忍耐、祈りと兄弟たちへの愛に見出していた。しかし、彼は修道士たちに過度に困難な外的な禁欲的行いを要求することはなかった。 聖イグメーンにとって、第一世代の修道士たちに最初からあまり多くのことを求めることはできないことは明らかであった。これらの教えは、キリスト教的・禁欲的な世界観がいかにゆっくりと段階的に定着していったかを示しており、また、要求を厳格化することは修道生活に害を及ぼすだけであることも示している。 古ロシアの修道生活の発展にとって極めて重要だったのは、テオドシウスにおいて禁欲的な要求が実践的な牧会任務と密接に結びついていたことであり、それによってのみ、修道院の共同生活は一定の水準を維持することができたのである。
テオドシウス時代のペチェールスク修道院の修道士たちは、祈りと手仕事に一日を費やしていた。テオドシウスの伝記から、修道院では毎日、早課、時課、そして聖体礼儀が執り行われていたことがわかる。 礼拝の合間、修道士たちは手仕事に励んでいた。彼らは藁草履や帽子を編み、それを町で売って得たお金で修道院用の穀物を購入していた。この穀物は修道士たちが自ら挽き、自らパンを焼いていた。春と夏には、修道士たちは修道院の菜園で働いていた。 食事は質素で乏しかった。平日は主にパンと水だけで、規則により断食が解かれる土曜日と日曜日にのみ、修道士たちのために粥やオートミールのスープが調理された。 しかし、修道士たちには粥どころか、パンさえもないことがよくあった。皆で食堂で一緒に食事をし、フェオドシイは乾いたパン以外の食べ物を独房に持ち込むことを厳しく禁じていた。特に四旬節と受難週間には、厳しい断食が行われた[45] 。
フェオドシイ派の共同生活の精神は、ペチェールスクの『パテリク』に収録されたニコラ・スヴィャトシャの物語に最もよく表れている。ニコラ・スヴィャトシャとは、大公ヤロスラフの曾孫であるチェルニヒウのスヴィャトスラフ・ダヴィドヴィチ公のことである。1106年、彼はペチェールスク修道院の修道士の一員となった。 彼の禁欲的な生涯について、『ペチェールスクの聖人伝』はとりわけ荘厳な文体で語っている。 謙虚さに満ちたニコラ・スヴィャトシャは、単なる見習い修道士が行う修道院の仕事を厭わなかった。当初は3年間台所で働き、そこから出ることは礼拝のために教会へ行く時だけだった。その後さらに3年間は修道院の門番を務め、その後は食堂で他の修道士たちの世話をした。 長年にわたる勤労の従順を経て初めて、彼は修道院長の祝福を得て、自分用の小さな独房を建てた。同時代の人々の話によれば、スヴィャトシャはそこで決して手をこまねいてはいなかったという。彼は常に何かしらの仕事を手にしており、特に粗い毛糸を使って自ら修道服を織り上げた。 「主イエス・キリスト、神の御子よ、罪深い私を憐れんでください」というイエスの祈りは、彼の口から絶えることがなかった――ロシアの聖人伝において、ニコライ・スヴィャトシャは、絶え間ないイエスの祈りの実践者として初めて名を残した人物として知られている。 彼は36年間修道院で修行に励み、 114243年にこの世を去った。彼の兄弟であるイジアスラフ・ダヴィドヴィチ公は、ニコラ・スヴィャトシのシャツを身にまとうことで、重い病から癒やされた。ペチェールシク修道院に入会する際、ニコラは自身の公爵としての全財産を貧しい人々に施した[46] 。
聖テオドシウスの伝記は、修道院内でもキエフでも、彼がいかに深く尊敬されていたかを示す多くの例を私たちに伝えている。キリスト教の理想を実現するための闘いにおいて、彼は身分の高い者と低い者、富める者と貧しい者の区別を一切しなかった。 当時の状況下において、社会的正義と人々の内なる団結の精神は、社会のキリスト教化を促進した。特に社会に説得力を持って作用したのは、スヴィャトスラフとの過酷で長期にわたる対立の際に示された修道院長としてのキリスト教的な不屈の精神であった。スヴィャトスラフは正義を踏みにじり、実兄である大公イジアスラフをキエフから追放していたのである。 ペチェールシク修道院とその修道僧たちは、わがままな大公の不興を買ってしまった。大修道院長ニコンは二度目に修道院を離れ、かつて自ら設立した修道院があるトムタラカンへ数年間身を寄せた。ただテオドシイだけは恐れを見せず、大公の不正を説き伏せた。
1058年、あるいはそれより少し前に、フェオドシイはペチェールスク修道院に入り、1062年に院長に選出され、12年後の1074年5月3日に死去した。 この間、アントニオの洞窟に身を寄せた少数の修行者たちは、数多くの修道者たちへと成長し、修道院内には修道室と大聖堂が建設された。修道院が物質的および宗教的・精神的に発展できたのは、何よりも聖イグメンの尽力によるものであった。 当時のペチェールスク修道院が持つ偉大な精神的意義については、12世紀末にシモン司教(かつては同修道院の修道士であり、『ペチェールスク・パテリコン』の共著者)が修道士ポリカルプに宛てた書簡に記された言葉から、最もよく推し量ることができる。 「私、罪深い司教シモン、そしてこの大聖堂、ヴラディミールの美しい教会、そして私が自ら建立した他のスジャルスクの教会を知らぬ者はいるだろうか。どれほど多くの都市や村があることか! そして、その全土で十分の一税が徴収されている。これらすべてを、我々の弱さが支配しているのだ。私はこれらすべてを捨て去りたいが、今、私を支えている霊的な事柄がいかに偉大であるかを知っている。それゆえ、主が私に統治のための恵まれた時を与えてくださるよう祈っている。 そして、主のみが知っておられることだが、私は真実を語る。もし私が、ペチェールスク修道院の門のそばで、木屑やゴミのように扱われ、人々に踏みにじられるような身であったとしても、 あるいは、そのラヴラの尊い門の前で貧しい人々のただ一人となり、物乞いとなること――それこそが、私にとってこの世の栄誉よりもはるかに望ましいことである。神の母の御殿での一日は、千年に勝る。私は、罪深い村々で生きるよりも、むしろそこに留まることを望む。」 ペチェールスク修道院の聖イグメンは、自らの兄弟修道士や同時代人だけでなく、古ロシアの修道界全体にとっても信仰の規範となった。彼の姿において、古ロシアの禁欲的な敬虔さは、その民族的な表現と、修道生活の理想的な基準を見出したのである。 しばらくの中断を経て、古ロシアの修道生活が最も盛んな時期を迎えた際、禁欲の意味を理解する上で、それは聖テオドシウスとの内的なつながりを保ち続けていた。北ルーシの多くの修道士たちの中には、ペチェールスク修道院の最初の数十年を彷彿とさせる精神が息づいていた。
厳格なキノヴィアの段階に兄弟たちを留めようと努めたテオドシウスの死後、彼の修道指導システムは変化を遂げ始めた。ペチェールスク修道院は、他の都市の修道院と同様、世俗とあまりにも密接な関係にあった。 一方では、こうした関係の結果として、修道院内の生活は徐々に世俗化していったが、他方では、この世俗化に対抗して、修道者たちは禁欲を厳格化する一連の事例を示した。こうした修行の厳格化は、個別の事例において、迷信に陥る結果を招くこともあった。 ペチェールスク修道院にとって、キエフの統治者である公との関係は極めて重要であり、同修道院は他の修道院と同様、公の恩寵と不興を常に考慮せざるを得なかった。フェオドシイ自身は、その偉大な権威をもって公の独断専行に抗うことができたが、彼の死後、すべての住職がそのような高みに立ち続けることができたわけではない。 こうした諸事情は修道院の生活に影響を及ぼし、後世においてペチェールスク修道院の修道士たちは、フェオドシイの時代とは異なる様相を呈している。私たちの心眼の前には、隠遁者や厳格な断食者、殉教者や説教者、透視能力者や奇跡行者といった一連の人物像が浮かび上がる。 同時に、『パテリク』は、禁欲主義の歪みや、キリスト教生活の基本的な要件に 対応しない行動の例も示している。かつてフェオドシイ時代の共同生活の礎であった結束は、今や崩れつつある。
さらに、歴史家の視線は、もう一つの重要な事実に注目している。すなわち、修道院生活の内部構造が変化するやいなや、その生活は直ちに、以前とは異なる霊的な源泉から汲み取り始めるのである。テオドシウスのキノヴィアの精神は、パレスチナの修道生活に例えることができる。 フェオドシオスが兄弟たちへの教訓の中でエウフィミオスやサヴァの名を挙げたのも、決して偶然ではない。聖サヴァ修道院やフェオドシオス大帝のキノヴィアに属するこれらの教父たちとその周囲の人々の生活様式は、共同生活、とりわけ共同の食事や祈りの導入に寄与したのである。 この修道院の理想は、フェオドシウスにおいて、共同生活の規則の厳格な遵守を同様に求めていたストゥディオス規律とも結びついていた。ストゥディオス規律と聖サヴァの規律の双方は、偉大なカッパドキアの教父[47] の思想に根ざしていた。 しかし、11世紀および12世紀のこの修道院の修道士たちに特徴的な過度な禁欲的修行は、 『パテリコン』にも記述されているが、これはすでにシリアの修道士や一部のエジプトの修道士、さらには11世紀の聖山(アトス山)の修道士たちを彷彿とさせる。彼らは、聖アファナシオス・アトス山によって導入されたキノイア(共同生活)に抵抗し、自らの理解に基づいて救いを求めようとするあまり、時に迷妄に陥っていたのである。 『パテリコン』に言及されている、過度に過酷な禁欲的修行に没頭した修道士たちも、自らの理性に導かれていた。この道が救いへの狭い道となるのは、選ばれた者たちだけであった。経験の浅い者、特に共同生活の訓練を受けていない者たちにとっては、それは絶望、迷い、そして誘惑の道であった[48] 。
その時代の修道界が内的に崩壊しつつあったことは、モンゴル侵攻以前のルーシで最も個性的な人物の一人であったスモレンスクのアヴラアミイの伝記からもうかがえる。 12世紀、スモレンスクは短期間ながら文化的な隆盛期を迎え、キエフと肩を並べていた。1146年の直後にスモレンスクの裕福な家庭に生まれたアブラアムは、当時としては非常に優れた教育を受け、ギリシャ語も知っていた可能性さえある。 彼はスモレンスク近郊の修道院で出家し、そこで修道院に所蔵されていたヨハネス・クラマティオス、バシレイオス大帝、エフレム・シリンの著作や、聖テオドシオス・ペチェルスキーの伝記を学ぶことで、その禁欲的な傾向はさらに強まったに違いない。 アブラアムはここで20年か30年を過ごし、厳格な禁欲生活を送りながら、祈りと、おそらくは神秘的な瞑想に時間を捧げた。 アヴラアミイの弟子であり、その伝記を著した修道士エフレムは、イラリオン、サヴァ修道院長、あるいはエウフィミオスといった偉大なパレスチナの修道士たちが、彼にとって模範であったと伝えている。 この記述や、アヴラアミオスの生涯に関するその他の詳細から、彼はパレスチナの伝統を重んじる人物であったと考えられ、その点では聖テオドシオスと比較することができる。当時スモレンスクの司教であったイグナティオスは、この修道士の存在に気づかずにはいられず、彼を司祭修道士に叙階した。 これは1197年以降のことである。さらにエフレムは、アブラアムが毎日神聖な典礼を執り行い、そのたびに説教を行っていたと記している。彼の言葉の力強さと鮮やかさは、大勢の人々を彼のもとに引き寄せた。 アブラアミイの人気は、修道院の院長や修道士たちの嫉妬と敵意を招き、その結果、アブラアミイは迫害を受けることになった。そこで彼はスモレンスクの聖十字架修道院に移り、そこで説教活動と牧会奉仕を続けた。 アブラアミイは説教の中で主に「最後の審判」について語り、彼が描いた2枚のイコンもこのテーマに捧げられている。おそらくこの時期に書かれたのが、古ロシアの学術文学の興味深い一例である『天の力に関する説教』であろう。 彼はここで、信者の救い、悔い改め、そして迫り来る世界の終わりについて、強い説得力と並外れた雄弁さで論じている。その際、アヴラアミイは古ロシアの終末論的教義の熱心な支持者であることを示している。 しかし間もなく、新しい地でもアヴラアミイには妬む者や敵対者が現れ、彼らは司教の前で彼を異端であるとして、異端の書物(「鳩の書」、あるいは「深淵の書」)を読んでいたと告発した。 スモレンスクの公の代表者も参加した裁判では、その告発が誹謗中傷であることが判明したが、誹謗者たちによって引き起こされた騒動を鎮めるため、司教はアヴラアミイをかつて修道生活を始めたいくつかの修道院の一つへ送り、彼に神聖な典礼を執り行うこと、また訪問者を受け入れ、説教することを禁じた。 伝記によれば、この不当な処置により、スモレンスクには神の懲罰――猛暑と干ばつ――が降りかかったという。司教が無実の者に課していた を撤回した後、アブラアミアの祈りによって雨が降り、スモレンスクの地は災いから救われた。 その後、神の母に捧げる修道院を設立した主教は、アブラアムをその院長に任命した。この修道院もまもなく信者たちの巡礼地となり、人々は群れをなしてそこへ押し寄せた。アブラアムがわずか17ヶ月間を過ごした自身の修道院では、彼は厳格な禁欲の道を歩んだ。 修道士エフレムが語るように、彼は魂の集めと最後の審判の黙想に全身全霊を捧げていた。禁欲的かつ神秘的な修行に没頭していたアブラアミイは、1219年または1220年にこの世を去った。[49]
アブラアミイの『行伝』は、彼の死後まもなく(1237年頃)、弟子である修道士エフレムによって編纂されたもので、11世紀における聖テオドシイの『行伝』と同様に、12世紀に関する貴重な資料となっている。アブラアミイを取り巻いていた霊的環境は、『ペチェール修道院のパテリコン』から私たちに馴染みのあるいくつかの特徴を再現している。 もちろん、モンゴル侵攻以前の古ロシアの修道生活は、その時点で既に衰退期に入っていたと考えることもできる。しかし、その原因は、当時ルーシにとってまだ新しいものであった修道生活そのものにあるのではなく、当時の国家・政治および教会生活の状況にあることを忘れてはならない。 修道生活の内的成熟と力は、長年にわたる絶え間ない霊的実践に根ざしているが、古ロシアの修道士たちは、そのような修練をまだ経ていなかった。フェオドシイの生涯はあまりにも短く、その影響は修道院の兄弟たちの1、2世代に留まっていた。 ロシアの修道生活は、まだ修道生活におけるすべての禁欲的経験を吸収しておらず、共同生活の基礎も身につけていなかった。聖なる父たちの禁欲的な著作は、このプロセスがどれほどゆっくりと進行するか、霊的実践の中断がどれほどの害をもたらしうるか、そして修道院がいかに容易に世俗化に陥りうるかを物語っている。 達成した高みに留まり続けるためには、修道生活には確立された禁欲的伝統だけでなく、その生きた継承者たちも必要である。彼らは、西洋ではほとんど知られていない正教会の長老たちがそうしているように、この伝統の精神に基づいて新しい世代の修道士たちを育て上げ、自らの後継となる新たな霊的指導者を育成しなければならない。 しかし、これこそが明らかに欠けていた。なぜなら、聖テオドシウスは、その個人的な霊性と敬虔さにもかかわらず、モンゴル侵攻以前の修道界全体のためにも、ペチェールスク修道院のためにも、禁欲的な世界観を伝える「学校」を築き上げなかったからである。 そのため、この時代の修道生活には、「中庸」――厳格な共同生活、キノヴィア、すなわち修道士にとって最初にして最も重要な学校――は見られない。その代わりに、過度な苦行か、あるいは修道院生活の世俗化のいずれかが見られるのである。
聖テオドシウスは、その生涯を通じて修道生活の崇高さと、キリスト教社会におけるその必要性を示し、自らも改宗したばかりの民衆にとって禁欲的な勇気の模範となった。しかし、彼はロシアの修道生活というよりは、むしろ新しいロシアのキリスト教そのものの体現者であった。
12世紀の修道界における内的な二分化については、ある司教の著作もまたそれを物語っている。彼は、おそらく古ロシアの禁欲主義の最高傑作の一つではあったが、残念ながらその創始者ではなかった。 私が言及しているのは、トゥロフの司教キリル、すなわち「ロシアの金口」である。彼は、高い詩的熱意に満ちた説教からそう呼ばれていた。 彼は1130年に生まれ、1182年の直後に亡くなった。修道生活の初期には、トゥロフのボリソグレブ修道院の修道士として、厳格な生活と禁欲的な行い――その一環として柱上修行さえ行っていた――で際立っており、当時としては教養のある修道士であった。 その後(1162年)、キリルはトゥロフの司教に選出された。彼の著作のうち、修道生活について論じた三通の手紙が現存している。 これらの書簡は特定の個人宛てに書かれたものであり、前述のテオドシウスの教訓とは異なる特徴を備えている(神学的な観点からはより高い水準にあり、その主題について原理的な考察を行っている)が、それでもなお、当時の修道生活の実態を推し量ることはできる。 特に、ペチェールスク修道院のイグメンであるヴァシリーへの書簡(1182年)は、修道院生活の個々の特徴を鮮明に浮き彫りにしている。例えば、そこから、当時、大修道服(スキマ)の意義に関する認識がまだ完全には明確ではなかったことがわかる。
すでにアブラアミオスの伝記には、長老制の痕跡が見られ、それは聖人のあらゆる行い、とりわけ黒衣の修道士エフレムとの関係において顕著であるが、彼に霊的指導を求めた他の信者たちとの関係においても同様である。これは修道院の壁の外における長老制の例であり、18世紀の長老たちを彷彿とさせるものである。 キリルの著作『黒衣の修道者階級に関する物語』は、彼もまた、長老制度を禁欲的かつ修道院的な制度として認識していたことを明確に示している[50] 。
残念ながら、11~12世紀の修道院における日常生活を描写した資料は我々の手元にはほとんどない。テオドシウスの『行伝』は、当時の修道院生活を想像するための一定の拠り所となるが、それは主に、あるいはもっぱら、ペチェールスク修道院そのものに関するものである。 より後の時代や他の修道院に関する我々の知識は、極めて断片的なものである。アブラアミオスの『行伝』もこの点においてあまり有益ではない。その編纂者は、アブラアミオス自身の生涯の出来事についての叙述にとどまっているからである。
修道院の運営に関しては、かなり信頼できる資料が残されている。原則として、修道院長は修道者たち自身によって選出されていた。その後、新たに選出されたイグメンは、司教または大司教によってその地位が承認された。 しかし、公爵によって設立された修道院、すなわち公爵の寄進による修道院では、状況が異なっていた。これらの修道院は、公爵への依存度が高かった。そこでは、修道院長の選出と解任は、すべて寄進者である公爵の手に委ねられていた。司教によって設立された修道院でも同様であった。 実際には、公爵が自身の候補者を司教に推薦し、任命を求めた。司教側がこれを拒否することは極めて稀であった。ペチェールスク修道院では、原則として修道院長選出は修道者たちの特権であったが、『パテリク』には、この選出がしばしば外部からの影響を受けて行われていたことを示す証拠が見受けられる。 さらに、『パテリク』によれば、修道士たちは必ずしも住職に満足していたわけではなく、しばしばその解任を求めていたことが記されている。テオドシウスが臨終の床で、修道士たちにヤコブという修道士を新しい住職に選ぶよう提案した際、修道士たちはその助言に従おうとしなかった。なぜなら、ヤコブは別の修道院からペチェールスク修道院にやって来た人物だったからである。 そこでテオドシウスは、後継候補としてステファンを指名した。修道士たちは彼をイグメンに選出することに同意した。しかし間もなく、ステファン(1074年から1078年まで修道院長を務めた)は修道士たちの不満により解任され、修道院を去らざるを得なくなった。 その後任として、修道士団によって選出されたのがニコン大(1078–1088)であった。選挙そのものが時に摩擦を伴って行われたことは、1182年に司祭ヴァシリーが修道院長に選出された経緯からも窺える。 修道院の院長に教区司祭が就任し得たことを示すもう一つの例は、1112年のプロホールの選出である。当然のことながら、どちらの場合も、教区司祭たちは院長に就任する前に修道誓願を立てていた[51] 。
修道院の運営はイグメンの手に委ねられていたが、もしその修道院が寄進者(クティトル)の所有するものであった場合、イグメンは自らの裁量において寄進者の意向を考慮しなければならなかった。 もし修道院長が厳格な禁欲主義者であり、確立された修道院の規律を熱心に守る者であったならば、その任務はとりわけ困難なものとなった。なぜなら、彼は修道院の規則を厳格に遵守することと、公爵の意志との間で中道を見出さなければならなかったからである。修道院に対する公爵の権力は、その世俗化を助長し、それは修道院が公爵の権力に物質的に依存していることにも表れていた。 公爵からの寄進は、修道院の存続の主な源泉であった。さらに、個人や司教、裕福な商人、その他の寄進者からの献金もあった……[52]
とはいえ、修道院の物質的な豊かさは、その社会的使命を果たす助けとなった。聖テオドシオスの伝記や『ペチェールスクのパテリコン』には、ペチェールスク修道院で に栄えていた慈善活動の多くの例が見られる。 最も裕福な修道院であったペチェールスク修道院は、11~12世紀の他の修道院よりも大規模な慈善活動を行うことができた。また、修道院は国内宣教においても極めて重要な役割を果たしていた。不自然に見えるかもしれないが、修道院の壁の外での修道士の活動は、修道院生活に悪影響を及ぼさざるを得なかった。 古代ルーシでは、修道士のみが信者の告解を聞くことができた。霊的指導者は、霊的生活の指導者であるだけでなく、日常の事柄における助言者でもあった。これにより、修道界は社会関係に対して相当な影響力を持つことができたが、同時に修道生活そのものがこうした関係に巻き込まれ、時に望ましくない結果を招くこともあった。 古代ルーシでは、遺言は通常、霊的指導者と相談し、その立会いのもとで作成された。時には、読み書きのできる霊的指導者が、自身の霊的子である信者の最後の意思を自ら書き留め、そのようにして遺言者の意思に影響を与えることもあった。 修道院にとって、その院長や他の権威ある修道士が公爵や富裕層の霊的指導者となり、その立場を修道院の利益のために活用できたことは、いかに重要であったかは明らかである。しかし、この陰の側面と結びついていたのは、当時の社会に対する聖職者たちの多大な有益な影響でもあった。 すでに言及したスモレンスクのアヴラアミイの例は、宗教的才能に恵まれた霊的指導者が信者たちにどれほど大きな影響を与え得たかを示しており、他の多くの史料も同様のことを伝えている[53] 。
修道界の内部分裂を招いた要因の一つは、民族的・文化的な啓蒙という大きな任務がその肩に課せられたことでもあった。
古ロシアの文学作品は、そのすべてが程度の差こそあれ宗教的・道徳的な方向性を帯びており、修道院の環境から生まれたものである。すべての著作が完全に独創的だったわけではないが、古ロシアの修道士作家は、そもそも必ずしも新しいものを創造しようとはあまり努めていなかった。 その理由の一端は、教会界の教養不足にあり、また一端は、書物全般、とりわけ宗教的著作に対する深い敬意にあった。それらは神聖な真理を含んでおり、人間の手はそこに自らの考えを加えてはならないとされていたからである。 それでもなお、古ロシアの修道士たちは、創造性の刻印を帯びた作品を数多く生み出した。
ここでは、古ロシアの文学全体を概観することはできない。古ロシアの修道士がこの文学の形成において果たした特別な役割を強調し、その二つのジャンル、すなわち古ロシアの説教と年代記について詳しく取り上げるだけで十分であろう。
前者は修道院の宗教的・道徳的な奉仕を、後者は民族的・文化的な奉仕を物語っている。
おそらく、11~13世紀の説教は、歴史的・文学的な観点から見た場合、完全に独創的なものではなかったかもしれない。 当時、より重要だったのはその内容と、そこに表現されたキリスト教的世界観が人々に与えた影響であった。説教では、キリスト教の観点から人間の本性の弱さが語られ、迷信や罪が非難され、救いへの道が示されている。 終末論は、ルーシにおけるキリスト教の初期から、ロシア人の宗教的世界観を貫く一貫したテーマとなっている。説教者として、すでにフェオドシイ・ペチェルスキーとアヴラアミイ・スモレンスキーの名が挙げられている。 聖アブラアミウスの『天の力に関する説教』は、特に終末論的な色彩を帯びている。修道生活の基本原則を兄弟たちに説いたテオドシウスと同様に、ノヴゴロドの司教ルーカ・ジディヤタ(†1059)もまた、信徒たちにキリスト教的な生活の基盤への忠実さを守るよう求めた。 一方、トゥロフの主教キリルは異なる説教を行い、彼による説教が9篇現存している。彼は同時代の人々よりも高い文化的・教養的水準に立っていた。 彼が典礼年の祝日に合わせて行った説教――その中でも最も優れたものはキリストの昇天祭の説教である――は神学的に深遠であり、信徒たちには完全には理解できなかったかもしれないが、それらは彼が聖書や教父たちについて深い知識を持ち、当時としては並外れた学識を備えていたことを物語っている。 それらは文学的にも非常に優れており、寓意や寓話を含んでおり、キリルをビザンツの教会文化に根ざした人物として特徴づけている[54] 。
この文化のもう一人の代表者は、キエフ都主教クリメント(1147–1154、† 1164)であった。 彼は、スモレンスクが文化的全盛期を迎えていた頃に同地で生まれた。彼はロシア人であり、キエフの総主教には大公によって選出されたが、コンスタンティノープル総主教庁は常に総主教座にギリシャ人を就けることを望んでいたため、この地位に留まることは長くはなかった。 クリメントは教養豊かな人物であり、神学だけでなく古典哲学の知識も備えていた。彼は、年代記作者から「哲学者」という異名を与えられた唯一の古ロシアの司教である[55] 。彼は主に、長老トマへの書簡の著者として知られている。
キリル・トゥロフスキーとクリメント――両者とも12世紀の修道界に属しており、この時代はビザンツの学問がすでに2世紀にわたりロシアの教会界に影響を与えており、その影響が実を結ばないはずがなかった。 しかし、彼らにはもう一人の先駆者がいた。それは、改宗したばかりの民衆の間で輝かしい説教者であり、深い信仰、雄弁さ、そして鮮明な民族意識を兼ね備えていた人物である。それが、キエフ都主教イラリオンであった。
イラリオンが当初、ベレストヴォの宮廷教会で司祭を務めていた(おそらく修道司祭として)と伝える古代の年代記作者は、すでに述べたように、彼を「善良で、学識豊かで、断食に励む人物」と呼んでいるが、その出自については何も触れていない。 おそらく、ブルガリア人やギリシャ人といった非ロシア人との絶え間ない交流のおかげで、イラリオンはキリスト教神学の教育を受けることができたのだろう。しかし、私たちの心眼に浮かぶイラリオンは、単なる学識あるキリスト教徒としてだけではない。彼は禁欲に強く傾倒したキリスト教徒であり、おそらく最初のロシア人修道士であった。 イラリオンに関する情報が不完全なのは、ロシアの修道生活全般の起源に関する資料に空白があることによる。彼がどこで修道者の道を歩み始めたのかは、我々の知るところではない。彼は、祈りと心の静養のための静かな場所を確保するため、ドニエプル川のほとりに小さな洞窟を掘り、 1037年から1039年の間に司祭の叙階を受けた可能性があり、その後1051年、大公ヤロスラフの意志と民衆の同意により、キエフ都主教に任命された。司祭としての奉仕の時期、1039年頃、彼は、その理由は完全には明らかではないが、説教を行った。 「法と恵みに関する説教」として知られるこの説教は、雄弁術の真の傑作であり、ロシア教会史に対する見解において極めて懐疑的であり、評価に慎重なE・E・ゴルービンスキーでさえもこれを認めている。
この「説教」は、おそらく教会での説教ではなかった。その内容は、当時の一般の信徒層には理解しがたいほど高尚なものであったからである。おそらく、イラリオンは、教会の祝日である「聖母の受胎告知([56] )」に際し、大公ヤロスラフ、大主教、そして宮廷の前でこれを述べたのだろう。
「説教」の冒頭で、イラリオンは旧約聖書(「律法」)を新約聖書(「恵み」)と比較している。 旧約聖書は、新約聖書への単なる準備に過ぎない。 『説教』の第2部では、ヴラディミール大公について語り、彼がキリストの信仰の光をもって民を啓蒙したことを称賛している。『説教』の第3部は、新たに改宗したルーシ全土を代表して神に捧げられる祈りである。 イラリオンはこの著作において、神の摂理によって導かれる世界史において、歴史的プロセスの中心に立つ民族が交代していくという、歴史哲学的な思想を主張している。 神に選ばれたイスラエルとその歴史は、準備の時代、すなわち律法の時代であり、それに取って代わるのは、恵みの時代、キリスト教の時代、真理と人類の救いの時代である。それゆえ、ウラジーミル大公は、その偉業によってロシアの民を「恵みの王国」へと導いたことで称賛に値する。 イラリオンは、ウラジーミルを改宗へと導いたその精神的な心構えの重要性を特に強調している。
『説教』の第2部が私たちにとって重要なのは、そこにイラリオン自身の国家的かつ愛国的な意識が表れているからである。ウラジーミルがキリストを信じたのは、 で述べられているように、ギリシャ系宣教師たちの説教の結果としてではなく、ギリシャ崇拝的なコルスン伝説[57] が主張するように、魂の内なる欲求と、新しい信仰の真実性に対する確信に基づいていたのである。
イラリオンによる民族的・愛国的見解、およびウラジーミルの改宗に関する親ギリシャ派の伝説に対する彼の民族的・教会的な反対は、古代ロシアの修道界全体、とりわけペチェールスクの修道者たちの民族的・文化的見解を体現する思想であり、ロシアの修道者たちによって熱心に信奉されていた。 このような見解は、ロシア正教会の「ルーシ化」という考えの定着に寄与し、その結果、ロシア正教会内にコンスタンティノープル総主教の政策に対する反対勢力が存在することを示唆する一連の歴史的出来事が生じた。 イラリオンが抱いていた民族主義的な気風は、おそらく、1051年にヤロスラフがビザンツとの関係が特に緊迫した際、ロシアの司教会議に対しイラリオンを叙階するよう命じ、テオペンプトの死後に空位となっていたキエフ都主教の座に彼を就かせた理由の一つであった。 この時点以降、イラリオン大主教に関する記録は残っていない。彼はその座に長く留まることはなかった。ヤロスラフが再びコンスタンティノープルとの和解を模索し始めた際、イラリオンは座を去らざるを得なかった(1054~55年)。
イラリオン後の生涯は、ペチェールスク修道院の歴史や当時の修道生活、とりわけ古代ルーシの精神的中心地となったこの修道院の民族・文化活動と深く結びついている。 我々がイラリオン・ニコンのその後の運命をペチェールスク修道院と結びつけるのは、テオドシウスの『聖人伝』に登場する「大ニコン(あるいはニコン大)」と、大司教イラリオンが同一人物であるというプリセルコフの仮説に同意しているためである[58] 。
イラリオン=ニコンのような傑出した人物を、古代ルーシの修道史から切り離すことは不可能であり、古代ルーシの国民的自覚に関する問題を解明する際には、彼が注目の中心に位置づけられるべきである。 民族・文化的な創造活動は、修道院の精神的エネルギーの大部分を吸収しており、ある意味では、純粋な禁欲的実践、とりわけペチェールスク修道院の修道士たちにとって、否定的な影響を及ぼしていた。 しかし、当時のキエフ・ルーシにとって、何がより重要であったかは定かではない。すなわち、民族的・ルーシ的自覚の形成か、それとも、国家や社会情勢による世俗化の影響によってその形成が阻害されていた二、三世代の修道士たちの育成か、である。後の歴史は、むしろ前者を支持している。
大主教の座から追放された後――これは1051年以降、1055年の直前に起こったことであり、この頃には年代記編纂者がすでにギリシャ人のエフレムを大主教と呼んでいる――イラリオンは、古いイラリオンの洞窟に住んでいたアントニーのもとを訪れた。 それ以来、イラリオンは『聖テオドシオスの行伝』および『ペチェールスクのパテリク』において、すでに「ニコン大聖」として知られるようになった[59] 。この改名は、大修道服への剃髪と関連している。ニコンは直ちにペチェールスク修道院の生活において特別な役割を果たすようになった。アントニーには司祭の聖職がなかったため、ニコンが修道見習いの受け入れと剃髪を行っていた。 大公の従者2人を修道に導いたことを理由に、ニコンは大公の怒りを買い、しばらくの間修道院を離れることを余儀なくされた。 彼はアゾフ海沿岸の都市トムタラカン(ギリシャ語でタマタルハ)へと向かい、そこで聖母マリアに捧げる修道院を設立した(1061年から1067年の間)。彼自身はここに長く留まることはなく、1068年にはすでにペチェールスク修道院へ戻ることができた。 1068年から1074年にかけて、ニコンは修道士たちの霊的指導において、テオドシウスの主要な補佐役を務めた。 テオドシウスの後継者であったステファンが、修道士たちの不満により修道院を去らざるを得なかった短期間のイグメン在任の後、1077~78年にニコンが修道院長に選出され、1088年に死去するまで修道院を統括した。 彼の10年にわたる住職在任期間は、修道院の形成史において最も重要な時代の一つをなしている。彼の在任中、石造りの教会の建設が継続され、招かれたギリシャ人芸術家たちによって、絵画、彫刻、モザイクで装飾された[60] 。
しかし、最も重要な業績は、真にキリスト教的かつロシア民族的な精神に満ちた作品である古ロシア年代記の編纂であった。この時から、古ロシアの修道院は年代記編纂の中心地となり、ロシアの年代記作家の姿は修道士の身分と切り離せないものとなった。 その結果、年代記に込められた世界観は、キリスト教的かつ禁欲的な性格を帯びている[61] 。悲劇『ボリス・ゴドゥノフ』において、A. プーシキンは、修道士ピメンの姿を通じて、古ロシアの年代記編纂者を、見事な芸術的表現と歴史的正確さをもって描き出した。ピメン(ランプの前で書きながら):
もう一つ、最後の物語――
こうして私の年代記は完結し、
神から授かった義務を全うした
。主は、長きにわたり
主は私を証人として立てられ
書物の術を授けてくださったのだ。
いつか勤勉な修道士が
私のこの熱心で無名の労作を見つけ出し、
私のように、そのランプを灯し――
そして、紙に積もった長年の塵を払い落とし、
真実の物語を書き写し、
そうして正教徒の子孫たちが
故郷の地が辿った過去の運命を、
偉大なる王たちを偲び
その労苦、栄光、善行を称え――
そして罪や闇の行いについては、
救い主に謙虚に祈りを捧げる[62] 。
ニコンの時代に、年代記の編纂が始まった。いわゆる「1039年の年代記」は、キエフ都主教座のギリシャ人たちの間で編纂されたが、改訂され、続きが加えられた[63] 。こうして、主にニコンによって執筆された「1073年の年代記」が生まれた。 この編纂の続編として「1095年の編纂」が生まれ、その作成において中心的な役割を果たしたのは、「年代記作者」と呼ばれた修道士ネストルである。 この「1095年の編纂」こそが、「最初のロシア年代記」、あるいは「最初のキエフ年代記」であり、1116年の古ロシア年代記の基礎となっている。そして、1116年の年代記(『時の物語』 ――訳者注)は、よく知られているラヴレンティエフ年代記(1377年)やイパチェフ年代記(15世紀)、さらにはその他すべてのロシア年代記の基礎をなしている。
ネストルの例からは、ニコーンがロシア独自の世界観を形成するために果たした役割の成果が特に顕著に見て取れる。 イデオロギー的に、ネストルはニコンの忠実な弟子であった。彼はステファン修道院長在任中、すなわち1074年から1077年の間にペチェールスク修道院に入院したが、その文学活動は主に11世紀の80年代から90年代にかけて行われた。 ネストルはまた、2つの聖人伝を著している。すなわち、『聖テオドシオス伝』(ペチェールスク・パテリコンの一部)と、『聖ボリスおよびグレブ公伝』である。『ボリスおよびグレブ公伝』はネストルの最初の聖人伝であり、11世紀80年代初頭、すなわちすでにニコンの時代に執筆された。 著者の宗教的・政治的世界観には、鮮明な民族的特徴が見られるため、ここにおけるニコンの影響は疑いようがない。 この『行伝』は、ウラジーミル公の次男であるボリスとグレブという二人の兄弟が、長兄の スヴィャトポルクによる命令で殺害された出来事を物語っている。スヴィャトポルクによるこの悪行は同時代の人々に極めて深い衝撃を与え、誕生したばかりのロシア正教会は、殺害された二人を殉教者として崇敬するようになった。 ボリスとグレブの『行伝』は、民衆の間で特に愛読されていた。ネストルは、殺害された公爵たちのキリスト教的な美徳を称えるとともに、自身の「民族的・ルーシ的」教義を説くためにこれを著した。その教義の根底には、ルーシの統一と公爵家における世襲権という思想が横たわっている。 この思想は、ネストルによるフェオドシイの『行伝』(聖人とスヴィャトポルク公との論争の記述において)にも明確に表現されている。ネストルはこの思想の熱心な信奉者であり、この思想は後にモスクワ都主教たちの活動において極めて独特な特徴を帯びるようになった[64] 。
この思想がペチェールスク修道院の修道士たちだけでなく、修道界全般において強い支持を得ていたことは、『ロシアの公ヴォロディメルへの追悼と称賛』として知られる聖人伝の著作が物語っている。 『記憶と称賛』の著者の名は定かではないが、その執筆時期が12世紀前半に属することだけは確実に特定できる。この正体不明の著者は、「コルスン伝説」の親ギリシャ的な概念を否定しており、その教会・政治的な世界観は、純粋にロシア民族的な性格を帯びている[65] 。
ペチェールスクの修道士たちによる文学史的・聖人伝的著作は、古ルーシの国民的自覚の形成に大きく寄与した。 12世紀の他の文学的遺作、例えば『イグメン・ダニイールの聖地巡礼』や『イゴリ遠征の歌』は、国民的自覚が民衆の心に深く根付いていたことを物語っている。 形成しつつあったロシア国家の国民的自覚を醸成するという課題は、主に、そして何よりもまず、古ロシアの修道院によって解決されたと言っても過言ではない。 国家および民族政治の観点からは、これはもちろん修道界の偉大な功績であったが、純粋に教会的かつキリスト教的・禁欲的な観点からは、厳格に守られる修道院共同生活の中で、本来は純粋に霊的な修行に専念すべきであった初期の世代の修道士たちの霊的成長にとって、危険を伴うものであった。
教会と修道界は、その活動の多様性から生じる世俗化の危険を回避しようと努めた。 そして、後で見るように、彼らはこれを成し遂げたが、それは教会当局が講じた措置の結果ではなく、修道生活そのものが、ロシア国民の禁欲的な気風に支えられて、この課題を解決するために新たな修行者たちを輩出し、自らの内に新たな力を見出したからである。
修道生活が古ロシアの生活にとって持つ意義は、すでに同時代の人々によって認識されていた。当時のロシア人の世界観において、修道的な理想は最も重要な位置を占めていた。 この主張が11世紀や12世紀については必ずしも絶対的なものではなかったとしても、14世紀や15世紀に関しては、その正しさに疑いの余地はない。この理想はロシア人の世界観に影響を与え、それに禁欲的な色合いを添えるとともに、修道院に対する彼らの態度を決定づけていた。 修道院とは「聖なる場所」、「天使の住まい」であり、修道士たちはこの世と天使の世界とを結びつけ、天使たちが修道士たちの前で輝いているように、修道士たちもまた信徒たちの前で輝いているのである。 修道院と「天使に等しい修道者の位階」は、罪深く、感覚に支配されたこの世から天へと至る階段の中間段階である。 すでにこの世において、自らの儚い肉体を克服するという功業を通じて始まるべきであるという魂の救済の思想は、その時代の宗教性の中心にありました。信者たちは、人間の生活を悪魔の誘惑の場として捉え、悪魔たちとの勝利をもたらす戦いは修道院の塀の内側でのみ行えるものと固く信じていました。
ルーシにおけるキリスト教の最初の2世紀の間、こうした観念や感情は民衆の意識の中でゆっくりと徐々に定着していったが、14世紀には完全に民衆を支配するに至った。そのため、この時代は古代ルーシにおける禁欲主義の時代と呼ぶことができる。修道生活史において、13世紀は過渡期であった。 修道生活の形態は、まだルーシの事情に合致するような明確な形を確立していなかった。 修道生活は、キノヴィア(共同生活)とイディオリトマ(単独生活)のどちらを選ぶか、まだ決定していなかった。「荒野」、スキトでの生活、隠遁生活――この星座は、ロシアのフィヴァイダ(ナイル川流域の修道院地帯)の北の空にはまだ昇っていなかった。 都市やその近郊にある修道院は、依然として救いを求める者たちの避難所であり続けていた。時折、修行者たちが暗く鬱蒼とした森へと踏み込む勇気を見せる程度であった。それは禁欲的な思索、そしておそらくは心の迷いの時代ではあったが、決して禁欲的な理想を放棄したわけではなかった。
この時期、ルーシの政治情勢において、ある意味で修道生活の歴史にかなり大きな影響を与え、それを不確定な状態から脱却させた二つの出来事が起こった。
一つ目は国内政治的なものであった。ヤロスラフによる偉大で統一されたキエフ国家は、12世紀に、その息子たちの子孫たち[66] 間の争いにより、政治的な崩壊を経験した。国家は諸公国に分裂し、それらはもはや全ルーシの利益を追求するのではなく、それぞれの地域的な利益にのみ関心を寄せるようになった。 キエフの政治的威信は、ヤロスラフ[]の孫である勇敢で精力的なアンドレイ・ボゴリュブスキー公(†1174)が、北方の通行不能な森に囲まれたスーズダリ地方に、新たな国家・政治体制の基盤を築いた後、特に低下した。 この地は、新たな国家的・社会的勢力が集結する場となり、最終的にはモスクワ王国の成立へとつながった。 キエフ・ルーシが諸公国に分裂したことは、公爵の居城となる都市の増加を促進し、その結果、新たな教区が創設され、新たな都市修道院が設立された。というのも、各公爵や各司教は、自らの居城を美しく飾ろうと努めたからである。 領土的には、この過程は主に北東方向、すなわちオカ川と上ヴォルガ川流域で進展した。同時に、ロシア人住民が南部および南東部(リャザン地方)から北東部へ(特に14世紀に)大規模に移住する現象も生じた[67] 。
この過程は、一部において対外政治的な出来事の影響を受けており、それこそがロシアの修道運動の歴史における第二の最重要要因を構成している。キエフ国家の政治的崩壊は、南東から南ロシアの草原地帯への遊牧民の侵入が激化したことの結果でもあった。 10世紀から11世紀にかけてはペチェネグ族がそれにあたり、彼らを撃破するためにキエフの諸公や国は多大な力と血を費やした。11世紀半ばには、黒海の北岸に遊牧民であるテュルク系のクマン族が現れ、ロシア人は彼らをポロヴェツ人と呼んだ。 『イゴリ遠征の歌』には、都市や村を焼き払い荒廃させたこの獰猛で野蛮な民族との、何世紀にもわたる闘いが詩的な形で描かれている。 ちなみに、この数十年にわたる闘争は、古代ロシア人の世界観の形成に影響を与えた。というのも、同時代の人々は、キリスト教的な観点から、この政治的・経済的災難を「我らの罪」に対する神の懲罰と見なしていたからである[68] 。
しかし、これらの草原の民がもたらした恐怖は、後に迫るモンゴル人、あるいは当時「タタール」と呼ばれていた者たちの侵攻の前兆に過ぎなかった。彼らは「神の鞭」としてロシアの地にやって来た――当時の人々はそう判断したのだ。 「その同じ夏――1224年の項で年代記編者はこう記している――我らの罪ゆえに異教徒が現れた。彼らは、誰であるか、どこから来たのか、どのような言語を話し、どの部族に属し、どのような信仰を持っているのか、誰もはっきりと知らなかった」[69] 。 古代ルーシは、ヨーロッパを守る盾となるべきであり、実際にそうなったが、その代償として200年以上にわたるタタールの隷属を強いられた。敵への抵抗と 殉教的な死を通じて、単純な農民から公爵に至るまで、ルーシ全土が政治的自由への渇望を証明した。
バトゥイによるルーシへの征服遠征は1237年に始まった。2、3年の間に、災厄と恐怖がルーシ全土を覆った。 1240年12月6日、バトゥの軍団の攻撃によりキエフは陥落した。その豊かさ、美しさ、そして規模は、すでにティトマル・メルツェブルクによって称賛されていたこの都市は、廃墟と灰の中に横たわっていた。そして、さらに多くの都市が同じ運命をたどることとなった。
同時代の人々にとって、この出来事は単なる国家・政治的、経済的な大惨事にとどまらなかった。それは、人間の精神的な均衡や世界観に対する恐ろしい打撃でもあった。 この世の生活は確実性と安定性を失い、社会状況は過酷で重圧的なものとなった。スーズダリ地方や北ルーシの最初の入植者たちは、畑にするために森から一画の土地を勝ち取るべく、自然との執拗な闘いを強いられていたが、今や彼らが多大な苦労の末に築き上げた生計は、新たな打撃の下で崩れ去ろうとしていた。
しかし、タタール支配の最初の恐ろしい数十年という災難が過ぎ去り、北東ルーシとその諸公爵たちが金帳汗国との関係において一定の足場を見出すと、国では再び政治的・経済的な再統合のプロセスが始まった。
それは、生活を営むための信頼できる場所を求め、人口が再編成された時代であり、ロシア民族が政治的に統合された時代でもあった。ロシア民族は、国家の新たな中心地としてヴォルガ川とオカ川の上流を選び、そこで活発な経済活動を展開し始めたのである[70] 。
政治的・経済的な困難を克服するため、国家は民衆のあらゆる力を結集せざるを得なかった。
14世紀初頭、ロシア人の生活は日々の糧への心配に満ちていた。人々は、大小さまざまなタタール軍団の襲撃を常に恐れて暮らしていた。財産を守るための信頼できる隠れ場所を考えざるを得ず、農民たちは保護を求めてあちこちを転々としていた。 都市は過度に不安定になり、その多くがタタール人に破壊された都市の修道院も、もはや信頼できる避難所とはなり得なかった。というのも、常にではないにせよ、しばしばそれらもまた、日常生活の悩みや重荷に巻き込まれていたからである。 禁欲的な志を持つ者は、そこで心の平安を見出すことはできなかった。修道士たちは禁欲的な修行を行うための新たな静かな場所を求め、こうして「修道院の植民」として知られる過程が始まった。この過程は、数多くの「プスティン」[71] の設立につながった。
14世紀および15世紀は、ロシアの修道生活において、修道生活が特定の、特徴的な、ロシア固有の様相を帯びた歴史的時期である。 この時代の多くの修道者の伝記は、まったく異なる運命をたどった人々が、同じ安定した共通の特徴を示していたことを示しており、それに基づいて、その時代の古ロシアの修道院の創設者の典型的な肖像を描くことができる。
通常、彼は裕福な家庭、とりわけ貴族(ボヤール)や商人の家系に生まれ、農民の出身であることは稀であった[72] 。これにより、将来の修道士は幼少期から 読み書きを学ぶ機会を得ることができた。 若き頃、彼は子供たちの遊びを避けていたと、ほぼすべての聖人伝が語っているが、まさにここから、正教会の聖人伝文学における有名な伝統が生まれている。神学書や聖人伝の読書、教会への通い――これらから彼の霊的教育が始まり、それが彼の中に、孤独と修道生活への抗いがたい憧れを呼び覚ますのである。 両親が息子の修道への志を必ずしも快く思うとは限らない。特に、彼が一人っ子である場合はなおさらである。なぜなら、彼は将来の領主として、領地を家系に残すために官職に就くべきであり、あるいは商人の家系であれば、父の事業を継ぐべきとされているからである。 短期間あるいは長期間にわたる内面的・外的な葛藤の末、彼はやはり実家を離れ、物語で聞いた、そこでの過酷な生活を描写した話から知っている、それほど遠くないどこかの修道院へと密かに向かう。 修道院で彼の修道生活が始まる。彼は忍耐と謙虚さをもって、最も過酷で汚れた仕事をこなすが、それでも他の兄弟たちより早く教会に参列し、夕べの礼拝や夜の礼拝を最後まで立ち続けて過ごすことを妨げるものではない。 見習い期間は数年続いた。その後、修道院長の祝福を得て、彼は修道院を離れ、自らの禁欲的な修行を続けられる新たな人里離れた場所を探し求めた。 当時、北東ロシアは、鬱蒼とした、人跡未踏の密林、すなわち「森の荒野」に覆われていた。この荒野は、隠遁者を世俗の喧騒から守り、彼が孤独と精神的な集中を保つ上で、これ以上ないほど助けとなった。
古ロシアの多くの修道士たちは、修道院での見習い期間を経ることなく、困難な隠遁生活を始めました(例えば、セルギイ・ラドネジスキーとその弟ステファン、おそらくサヴァ・ヴィシェルスキーもそうです)。 修道士は小屋(例えば、セルギイとステファン、ゲラシム・ボルディンスキー、キリル・ノヴォエゼルスキーなど)や木の洞(例えば、パヴェル・オブノルスキー)に住み、乾いた落ち葉や苔の上で眠り、 自ら採集した森の果実や根菜、あるいは稀に通りかかる旅人が、枝に吊るされた自作の籠に入れてくれる乾いたパン(例えば、ゲラシム・ボルディンスキー、フェオドール・ロストフスキー、セルギイ・ラドネジスキーなどがそうであった)が、その唯一の糧となる。 昼も夜も、彼は多くの時間を祈りと詩篇の詠唱に費やす。ぼろぼろの服では、北ロシアの長い冬の寒さから身を守ることはできず、長時間立ち続けて祈っていると、寒さで震え上がる。夏には暑さと蒸し暑さに苛まれ、無数の虫が祈る者の手や顔を刺す。 断食と祈り、寒さと暑さに耐える生活は彼を衰弱させ、体と顔をやつれさせる。それゆえ、キリル・ベロゼルスキーやアレクサンドル・スヴィルスキーといった古ロシアの聖人のイコンは、様式化されたものではなく、修道者の実際の姿を忠実に描いたものである。
しかし、隠遁者がその孤独の中に留まれるのは長くはない――山の上に立つ街灯は隠れることができないからだ(マタイ5:14)。時には、二人の隠遁者、例えば パヴェル・オブノルスキーとセルギイ・ヌロムスキーのように、二人が出会い、困難な隠遁生活の中で互いに支え合うために二人で暮らすことを決めることもある。あるいは、厳格な隠遁者の評判が近隣の町や村に広まり、ある日、世の誘惑から逃れ、孤独と救いを求めている新たな神を愛する者が彼の元を訪れることもある。 新参の修道士は自分用の木造の小屋を建て、二人は共に断食と祈りに専念する。 時が経つにつれ、スキートは拡大し、修道院となる。修道者たちは木造の教会を建て、修道共同体の創設者――皆から新しい修道会の院長と見なされている人物――は、地元の大司教のもとへ、あるいは時には直接モスクワの都主教のもとへ赴き、新しく設立された修道院への祝福と教会の奉献を請う。 もし修道院の創設者自身が十分な学識を持っているならば、主教は彼を司祭に叙階し、修道服を着せる(それまでまだ修道服を着ていなかった場合)。これで彼は自ら礼拝や秘跡を執り行うようになる。しかし、多くの場合、修行者は謙遜のゆえに叙階を辞退し、依然として聖職の位を持たないまま、単に自身の修道院の院長にとどまる。 その場合、司教は自ら選んだ修道司祭を新しい修道院に派遣し、必要な礼拝用書物やアンティミンソンを備え付け、修道院の兄弟たちへの祝福として、救世主と聖母マリアのイコンを彼に授ける。
こうして、数え切れないほどの川や湖の険しい岸辺に、しばしばこれらの新しい修道院が現れる。そこから、北ロシアの魅惑的で穏やかな美しさが眼前に広がる……銀色の水面は、 、鬱蒼としたトウヒやマツの森と交互に広がり、その厳しさは白樺の幹の白さによって和らげられている。 早秋の夕陽の光の中で、白く輝く白樺の幹と黄金色の葉が、暗緑色の衣をまとって静かに、まるで何かを思案しているかのようにじっと佇む針葉樹の赤みを帯びた背景に浮かび上がる時、ここには何時間も立ち尽くして、この素晴らしい光景を眺めていられる…… 色合いは濃くなっていくが、空気は澄み渡り、透き通ったままである。鐘の音が突然鳴り響くのではなく、遠くから徐々に聞こえてきて、また遠ざかっていく。修道僧たちが晩課のために集まってくる……
このような修道院は、木造の教会を囲むように建つ数軒の木造の独房から成り立っている。教会の隣には、もう少し大きな小屋がある。これが修道院の食堂だ。すべてが木製の柵で囲まれている。 独房の間には菜園があり、修道者たちに必要不可欠な食料を供給している。通常、修道院が建設される場所は、修道者たち自身の手によって、立ち入ることのできない森が切り開かれる。
当初、新しい修道院は「独立生活規則」に従って運営される。各修道士は自分専用の個室を建て、自分の菜園を耕し、衣服や食糧を自ら手配し、籠を編んだり他の手仕事をしたりして、その製品と引き換えに農民からパンを受け取る。 修道士は独りで自分の独房に留まり、自らの理解に従ってそこで祈りを捧げ、詩篇を歌う。修道士たちが一堂に会するのは、礼拝の時だけである。彼らの長となるのは、通常、その修道院の創設者である。ある意味で、北ロシアの「オソブノジテリェ」は、パレスチナの聖サヴァ修道院の生活様式を彷彿とさせる。
しかし、次第に多くの修道院がキノヴィア制へと移行していった。共同生活規則の下では、修道者たちの誰一人として私有財産を持たない[73] 。彼らは修道院のために働き、修道院は彼らに食料と衣服を提供する。 菜園や小さな畑で収穫されたものはすべて、修道院の貯蔵庫に納められる。修道士たちは、自分の独房で食事をとったり、食料を保管したりすることは禁じられている。修道士たちは食堂に集まり、共同の祈りと修道院長による祝福の後、全員が同じ食事を与えられる。 修道院内の務めは院長によって割り当てられ、院長の許可や祝福なしに、どの修道士も何事も着手したり始めたりすることはない。新入りの修道士は年長の修道士に従い、あらゆる点で彼らの意志に従う。多くの場合、年長の修道士と新入りの修道士との関係は、長老による指導という性格を帯びている。 修道院内で特定の役職に就いていることもある年長の修道士たちは、修道院評議会、すなわち長老評議会を構成し、修道院長と共に修道院を統括する。
古ロシアの修道院生活において、修道院長の個人的な霊的資質が大きな役割を果たしていた。 まさにこの点に、古ロシアの修道生活と西洋の中世修道生活との根本的な違いがあった。西洋では、修道生活の繁栄は組織の堅固さに依存しており、その組織は当初から修道会の兄弟たちの禁欲的な生活を細部に至るまで規定し、それを特定の軌道に乗せていた。 それに対し、古ロシアでは、修道院生活のあり方は、修道院の創設者やイグメンの人格によって決定されていた。特に重要な位置を占めたのは、古ロシアの修道精神を体現する優れた人物が創設者であり、その遺志が創設者自身の死後も長く守り続けられた修道院であった。 弟子たちは常に師の精神的な姿勢を守ろうと努め、後に自ら新しい修道院の創設者となった場合でも、自らの宗教的「母校」の禁欲的伝統の精神に沿って修道院を運営した。 ここで特に強調すべきは、古ロシアの修道士にとって重要なのは、この伝統の精神的内涵でも、その利点や教会による承認でもなく、むしろ修道院の創設者の人格、すなわちその精神的姿にあったということである。多くの場合、禁欲の実践そのものの客観的な内容は、禁欲者自身の人格やその偉業の前では二の次となっていた。 古ロシアの宗教性において最も特徴的なのは、システムそのものではなく、そのシステムの担い手たちの霊的な模範が主要な役割を果たしているという点である。 古ロシア人は、そのキリスト教的世界において、常にこうした模範や像――宗教体系(教義や信仰)に命を吹き込み、真に宗教的な生活へと導くイコンや聖人たち――に囲まれて生きていた。これらの像は、称賛される聖なる修行者たちの模範に従えば、あらゆる人にとってそのような生活への道が開かれていると、古ロシア人に語りかけているのである。
古ロシアの修道生活について考察する際には、これらすべてを考慮に入れる必要がある。なぜなら、その歴史において、修道者の像が、修道生活そのものよりもはるかに大きな意義を持っていたことが明らかになっているからである。これは特に、古ロシアの共同生活の歴史において顕著に表れている。 前述の通り、キエフ時代においてさえ、共同生活の存続は、 がキノヴィアを修道生活における最も完全な禁欲的体系として公式に認めたことよりも、むしろ聖テオドシウスの影響に大きく依存していた。 時が経つにつれ、修道院の創設者の姿が世代の記憶の中で薄れていくにつれて、彼が確立した修道院生活の体制もその影響を受け、歪みを被ることとなった。 一方、共同生活の復興も、14世紀の教会当局によるいかなる指令や改革とも関係なく、この復興の立役者となった個々の傑出した修道士たちの影響によるものであった。その移行は緩やかに、かつ地域によって不均一に進められた。 また、これは下からの改革でもなかった。下からの改革とは、修道生活そのものの環境から生まれ、その後広く普及し、民衆の禁欲的な気風を強めることに寄与し、そこに自らの刻印を押し付けるようなものである。 キノヴィアの復興は、その復興者のイニシアチブが原則的に認められた結果として起こったわけでもなく、それは単に彼自身の霊的成長の道のりにおける一段階に過ぎなかった。共同生活の復興者が、キノヴィアの導入の必要性を、自身の修道院のみのために、あるいはすべての修道院のために認識していたのかは、完全には明らかではない。 偉大な目標を掲げ、その実現に熱心に努める改革者の役割は、謙虚な古ロシアの修行者にはあまりふさわしいものではなかった。しかし、その謙虚さと、同胞や弟子たちが彼の修道生活への姿勢を受け継いでくれるという希望とは矛盾していなかった。
したがって、禁欲的・修道的な復興が、ある素朴な古ロシアの修道士の功績の結果であったと断言しても、決して誇張ではないだろう。ここで指しているのは、有名なロシアの修道院であるトロイツェ=セルギエフ・ラヴラの創設者、聖セルギイ・ラドネジスキーである。
聖セルギイは、共同生活の再開にあたり、聖テオドシウスとほぼ同様のことを行いました。唯一の違いは、後者がすでに聖アントニウスによって整えられていた修道院に入り、そこに自らの霊性の痕跡を残したという点にあります。 それに対し、聖セルギイは自ら修道院の創設者であり、当初は個別の住居形式をとっていた。共同生活への移行は徐々に進められた。小さな隠遁所が大きな修道院へと成長するにつれ、同時に創設者が修道者たちに対して及ぼす霊的な影響力も強まっていった。 聖セルギイ・ラドネジスキーの『行伝』は、彼の同時代人であるエピファニオスによって執筆された。エピファニオスは、同修道院の修道士として、約15年間にわたり聖人と霊的な交わりを保っていた[74] 。この『行伝』は、とりわけ1392年の項目として古ロシア年代記に収録されている要約版において、極めて大きな価値を有している。 なぜなら、著者の文体は少々大げさではあるものの、出来事を客観的かつ冷静に描いており、後世の聖人伝編纂者パホミイによる改訂版に特徴的な、道徳的な説教調の修辞が過剰に盛り込まれていないからである。 エピファニウスにとって重要なのは、聖セルギイの人格における純粋に禁欲的な側面であった。当時の政治的出来事に関連するセルギイの活動は、彼にとっては二の次となっているのに対し、パホミイはまさにその点を何よりも強調している。 エピファニウスは、キリスト教的な敬虔さによって聖性へと高められた一人の人間の生涯を語っているのに対し、パホミウスは、聖性そのものの模範となるべき聖人の規範的な像を創り出しており、 そのため、彼は伝記に死後の奇跡の記述を加え、あらゆる点でセルギイ・ラドネジスキーの生涯をキリスト教的苦行の模範として提示しようと努めている。
聖人は裕福な家庭、すなわちロストフ公国の貴族出身であり、1314年5月3日にロストフ近郊の父の領地で生まれ、洗礼の際にバルトロマイという名を与えられた。 その伝記には、子を身ごもっていた母親が、ある日曜日に神聖な典礼を受けるために教会を訪れた様子が記されている。福音書の朗読の前に、胎内の赤ん坊が突然泣き声を上げ、その叫びは「ケルビムの賛歌」の歌唱中にも繰り返され、司祭が「聖なる者よ、聖なる者よ」と唱える直前にも聞こえた。 不安を覚えた母は、子供が生まれたら神に捧げることを決意した。そして生まれた後、その赤ん坊は 異様な振る舞いを見せた。断食の日や、母が肉を食べた際には、母乳を拒んだのである。 バルトロメオが7歳の時、両親は彼を教会の付属学校へ通わせた。兄のステファンはすぐに読み書きを覚えたが、幼いバルトロメオにはその知恵が身につきにくく、そのため教師からは叱られ、他の生徒たちからは嘲笑されていた。 ある日、バルトロメオは馬を取りに牧草地へ遣わされた。そこで彼は一人の年老いた修道士に出会い、その修道士は少年の悲しそうな様子に気づき、なぜ悲しんでいるのかと尋ねた。 少年は泣きながら、読み書きができないことを打ち明け、老修道士に助けてほしいと頼んだ。老修道士はバルトロメオを連れて両親のいる家へ行き、両親の前で詩篇を読むよう命じた。皆の驚きにも、バルトロメオは流暢かつ正確に読み上げた。この日から、バルトロメオは学業に非常に秀でるようになった。 この、将来の「敬虔の灯」となる少年の少年時代における奇跡的な物語は、聖人伝の著者に、セルギイの姿から主要な特徴――人間性、忍耐、そして謙遜――を浮き彫りにする機会を与えている。これらは、その後も聖人の人生において主要な特徴であり続けるものである。彼の幼少期は、子供らしい悩みや苦しみ、喜びを伴う点で、他の多くの子供たちの幼少期と似通っていた。 しかし、こうした子供らしい悩みの中に、すでに彼の修道者としての道の始まりが秘められていた。
高揚した宗教心ではなく、質素で平凡なキリスト教徒としての生活――これこそが、ロシア固有の敬虔さが育まれ、花開く土壌である。 現代の修道者たち――聖セラフィム・サロフスキー(†1833)や長老レオニード・オプティンスキー(†1841)――を思い起こせば、 すれば、この基盤がすぐに見えてくるだろう。もちろん、ロシアの修行者たちの像から、道徳主義的かつ修辞的な伝説的な装飾を取り除けばの話だが、とはいえ、そうした装飾にはしばしば多くのキリスト教的な真理が含まれている。 何しろ、キリスト教の修行者の人生において重要なのは、それが真に人間らしい人生であるということだ。魂を滅ぼすのは大罪ではなく、日々の誘惑であり、それらは気づかぬうちに、しかし一歩ごとに、修行者の魂を――そしてあらゆるキリスト教徒の魂を――危険にさらしているのだ。 この古ロシアの禁欲主義の特徴は一目でわかるものであり、聖テオドシウス・ペチェルスキーの伝記にもすでにその姿が見て取れるが、各修道士はそれぞれ明確な個性を備えている。
1328年の直後、小さなロストフ公国が成長を続けるモスクワ大公国と再統合された際、バルトロメオの父はモスクワ地方の村、ラドネジに移り住み、そこで領地を授かった。 バルフォロメイはここで青年時代を過ごした。彼は、領地での仕事と、将来についての思索や心配事との間で日々を過ごしていた。 彼の二人の兄弟、長兄のステファンと次弟のペトルはすでに結婚しており、三人の全員にとって、大公に仕える時が来ていた。当時、その領地はモスクワ大公から「奉仕の対価」として与えられていたため、所有者は大公に仕える義務があったからである。 しかし、バルトロメイの心はとっくに別の思いに占められていた。彼は何度も父に、修道院へ行くことを許してほしいと懇願していた。両親は反対しなかったが、未婚の息子が自分たちが死ぬまでそばにいてくれることだけを望んでいた。しかし、しばらくして家族の状況は一変した。 長兄の妻が亡くなり、ステファンは近隣にある修道院へ入った。両親はすでに高齢であり、古ルーシの宗教的観念に従い、残りの人生を修道院の静寂の中で過ごすことを決めた。こうしてバルトロメオは、念願の生き方へと踏み出す自由を得た。 彼は自分の財産を弟に譲り(後のパホミオスによる伝記の改訂版では、教訓を込めるために、財産が貧しい人々に分配されたと記されている)、兄のいる修道院を訪れた。そして間もなく、兄を説得して修道院を離れ、鬱蒼とした森の中で過酷な隠遁生活を送るように促した。
修道院の塀のすぐ向こうには、暗い壁のように立ち並ぶ鬱蒼とした松林が広がっており、兄弟たちはそれほど遠くまで行く必要はなかった。森の奥へ10キロメートル強進んだところ、小さな高台にある小川のほとりで、彼らは美しい空き地を見つけた。 当初は小屋で暮らしていたが、やがて木造の修道室と、聖三位一体に捧げる小さな教会を建てた。教会の奉献に関する祝福と許可を得るため、彼らはモスクワの都主教のもとへ向かい、そこで礼拝に必要なものをすべて受け取ると、帰路についた。 教会の奉献式の後、司祭は兄弟たちの元を去ったが、そのおかげで彼らは、樹脂の香りが漂う新しい教会で祈りを捧げることができるようになった。しかし、彼らには司祭の聖職がなかったため、聖体礼儀を執り行うことはできなかった。 断食と祈りの中で、世の中から隔絶された森の中で過ごす彼らの隠遁生活は容易なものではなかった。そこでは午後早々に薄暗くなり、冬は果てしなく長く感じられた。長兄のステファンは、そのような過酷な修業生活を長く耐えられず、モスクワの修道院の一つに移った。
バルトロメオは一人きり、完全な孤独の中に残された。それは彼の修道生活において最も困難な時期であった。
彼から少し離れた場所には、ミトロファンという名の年老いた修道士が身を隠しており、彼はしばしばこの隠者の招きに応じて訪れ、聖体礼儀を執り行い、彼に聖なる賜物を授けていた。 ある日、バルトロメオスはその修道司祭に、自分を修道士として剃髪してほしいと頼んだ。剃髪式において、彼はセルギイという名を与えられた。ミトロファンの祝福のもと、新たに剃髪した修道士は完全な孤独の中に留まり、鬱蒼とした森の静寂の中で、古の修道士たちの模範に従って生活を送ること――すなわち、誘惑と戦い、それを克服すること――に専念した。 この最初の決定的な隠遁生活の数年間――修行者が誘惑に打ち勝つか、あるいはそれに打ち負かされて倒れるかの分かれ目となる時期――は、後のロシア修道界の導き手となる彼にとって、最も困難であると同時に、霊的に最も充実した時間であった。 困難だったのは、禁欲的な修行そのものだけではありませんでした――選んだ道や自身の力への疑念、サタンや自身の人間性からの誘惑、渇きや飢え、そして心を静め、絶え間ない祈りを捧げることに不慣れだったこと。森での孤独もまた、困難でした。 夏場の生活環境は、もちろん楽だったが、冬になると――松林の壁が延々と続き、地面は単調な雪に覆われ、昼間は死のような静寂が、長い夜には吹雪のうなり声が響き渡り、 ――これらすべてが詩篇の朗読を妨げ、祈りに集中することを許さず、恐怖や見捨てられた感覚、自身の無力感や動揺を引き起こした。 「しばらくして――セルギイの伝記を著した修道士エピファニオスはこう記している――すなわち、彼が荒野で独り、一夏か二夏、あるいはそれ以上、あるいはそれ以下を過ごしたのか、神のみぞ知る」 そして、荒野の修道者の労苦が実際にどれほど偉大であるかを知っているのは神のみであり、神のみが未熟な者を助け、彼を経験豊かな者へと導かれるのである……
しかし、鬱蒼とした森の険しさも、真の神の戦士を人々から隠すことはできない。彼に関する誉れは世に広まり、その姿は世俗の生活に絶望した人々を惹きつけ、呼び寄せるのである。 ある時、求道者たちがセルギイのもとを訪れ、主のため、そして自らの救いのために、彼と共に修行を許してほしいと懇願した。当初は大変気が進まなかったが、やがて神の御心に従い、セルギイは霊的生活において自分の弟子になりたいと願う新入者たちを受け入れた。 こうして徐々に彼の周囲には兄弟団が集まり、彼らは彼の修道的な理想を守り、その偉業の誉れをルーシの最も辺鄙な地まで広めていった。セルギイ自身にとって、兄弟団の到来は新たな霊的奮闘の始まりであったが、 また、彼の孤独な小さな修道院にとっては、世との交わりの再開が歴史的な意義を持っていた。なぜなら、それによってロシア国民の宗教生活への強力な影響の端緒が開かれ、その結果、彼の木造の小屋と小さな教会は、ルーシ最大の修道院――トロイツェ=セルギエフ修道院へと変貌を遂げたからである。 その黄金のドームは森の上にそびえ立ち、人々をここ、聖地となったラヴラへと招き寄せている。
この新しい修道院の当初の姿を描いてみれば、修道院がそもそもどのようにして始まったのかについても理解が深まるだろう。セルギイの小さな木造の教会は、新しくやってきた修道士たちによって広げられた森の空き地に建っていた。 その周囲には、修道士たちの住居――ごく小さな木造の小屋――が並んでいた。そして、これらすべては柵で囲まれていた。それは獣から身を守るためだけでなく、暗い森の奥深くが、彼らにとってすでに忘れ去るべき世界であることを修道士たちに思い起こさせるためでもあった。 小屋と小屋の間の土地は、森から大変な苦労の末に切り開かれたもので、修道者たちの糧となる菜園として利用されていた。修道院が設立された当初の数年間は、困難と欠乏に満ちたものだった。当時まだ単なる修道士に過ぎなかったセルギイは、12人以下の修行者からなるこの小さな共同体を率いていた。 修道院の務めや祈りにおいては模範となり、兄弟たちへの接し方は常に謙虚で、慈愛に満ち、穏やかであった。年月が流れ、セルギイは修道院の公益のためには、適切に任命された修道院長が必要であると悟った。しかし、謙遜の心から、彼自身はこの役職を引き受けることを望まなかった。 兄弟たちの執拗な懇願を受けて、セルギイはようやく彼らの願いを叶える決心をした。司祭修道士への叙階と修道院長への任命――これはおよそ1344年のことだった――を経て、セルギイは兄弟たちの目における道徳的権威に加え、教会法上の権威も手に入れた。
若き修道院長(当時セルギイは30歳)の前には、厳格な共同生活の導入という偉大かつ重要な目標が立ちはだかっていたが、彼はこの目標の実現に向けて段階的に取り組んでいった。新たな高位に就いても、彼は兄弟たちに対する態度を変わらず保ち、常に、あらゆる面で彼らにとって修道者の美徳の体現者であり続けた。 その間、修道院の知名度は高まっていった。スモレンスク出身のシモンという名のアルヒマンドリトは、若きイグメンの功績を耳にすると、自身の修道院を離れ、セルギイのもとへやって来て、 彼の修道院に身を寄せることにした。 彼が持ち込んだ資金により、聖三位一体を称える大聖堂の建設に着手することができた。修道者の数は増えていったが、新入修道士たちは、厳格な修道院長から修道士としての剃髪を受けるに値すると認められるまで、比較的長い見習い期間を経なければならなかった。
修道院は依然として「個別生活規律」に従って運営されていた。修道士たちには共同の食事はなく、共同生活の原則は典礼上、すなわち共同の祈りにおいてのみ表現されていた。 さらに、セルギイは修道院の修道士たちの霊的指導者でもあり、これは言うまでもなく、修道士たちの霊的成長において大きな役割を果たしていた。この点において、セルギイの活動は聖テオドシオス・ペチェルスキーの活動を彷彿とさせるものであった。 セルギイの伝記から、修道者たちは昼夜を問わず、修道院長の絶え間ない配慮の下にあったことがわかる。しかし、修道院の貧困と困窮のため、自身の禁欲的な要求を貫くことはセルギイにとって極めて困難なことであった。というのも、修道院長は修道士たちが修道院の壁の外で施しを受けることを、一度きりで永久に禁じていたからである。 やがて、この極度の困窮のさなかに、聖セルギイ修道院の歴史における最初の奇跡が起こったと『行伝』は記している。修道院の門の前で、焼きたてのパンと魚を積んだ荷馬車が突然立ち止まったのである。御者によれば、これは正体不明の恩人の命によるものだったという。 聖ヨセフ・ヴォロコラムスキー(†1515)は、セルギエフ修道院が貧困に苦しんでいた時期、礼拝用の書物がベレスト(白樺の樹皮)に書かれていたと記しており、そのうちのいくつかは今日まで保存されている。 修道院長就任から10年か11年が経過した頃、すなわち1354年頃になって、セルギイは共同生活規則を導入したが、これは一部の修道士たちの抵抗に遭い、彼らはまもなく修道院を去った。この事実は、当時の修道生活において、修道院生活の基盤である「キノヴィア」がいかに異質であったかを如実に物語っている。 しかし、最も困難な苦難の年月はすでに過ぎ去っており、セルギイは共同生活に必要な建物を建設する機会を得た。食堂、修道院の厨房、その他の生活用施設が建設された。修道士たちの中から、常勤の奉仕に当たる者が選ばれた。 修道者の数は増え続け、敬虔な人々、とりわけ公爵や大公からの寄進がセルギエフ修道院に絶え間なく寄せられ、同修道院は年を追うごとにロシア国民の宗教生活においてますます重要な位置を占めるようになっていった。
しかし、この富は修道院の修道者たちの霊的生活にとって危険なものでもあった。セルギイの活動はますます規模を拡大し、その伝記には、彼がどのような牧会的才能と、同時にどのような禁欲的な厳格さをもって修道院を統率していたかを示す数々の例が記されている。 修道院はもはや鬱蒼とした森に囲まれてはいなかった。修道院の塀の近くには農民の集落が立ち並び、修道院は世俗の事柄に巻き込まれることになった。修道院は動産および不動産を所有するようになり、それにより多くの修道士が修道院の塀の外で様々な奉仕を強いられるようになった。 修道院は今や、単なる霊的修行の場であるだけでなく、周辺の土地にとって重要な意義を持つ経済的機関となっていった。
トロイツェ=セルギエフ修道院の歴史は、古ロシアにおける修道院による植民化の顕著な例である。2、3の10年の間に、森の中の小さな隠れ家だった場所に、建物が立ち並び、人々が住む空間が形成された。 14世紀から15世紀にかけての他の修道院でも同様のことが起こっていた。修道院の創設者や、隠遁を求める修道士が、鬱蒼とした森へと入り込み、それによってその後の開拓への道を切り開いたのである。ヴォロゴダ地方やベロゼルスク地方、さらには白海に至るまで新たに設立された小修道院は、古ロシアの開拓の道のりにおける里程標であった。
「この動きは」とV. クリュチェフスキーは述べている。「古ロシアの植民地化において極めて重要な意義を持っていた。 第一に、森の中の隠遁修道院は、その狭い木造あるいは石造りの塀に囲まれた姿そのものが、世俗の農民の村とは似ても似つかないものの、農業集落を形成していた。修道士たちは、農民たちと同様に、森を開墾し、菜園を作り、耕し、草を刈った。 しかし、修道院の影響力は、その塀の外に住む住民たちにも及んでいた。まもなく、隠遁修道院の周囲に世俗の農民集落が形成され、それらが修道僧たちと共に一つの教区を構成し、修道院の教会へと結びついていった様子を見ていくことになる…… その後、修道院は消滅したが、修道院の教会を擁する農民の教区は残った……このように、隠遁修道院の広がりは、将来の農村教区の広がりであり、それらの多くは、その地域で最初の教区であった。 第二に、修道士たちが向かう先には、農民たちもまた向かった。両者の前には、同じ道―― ――北および北東の広大な荒野が広がっていた。そこでは、農民は広大な土地で自分の畑を耕し、原生林を伐採して耕作地とし、修道士は沈黙の生活を送ることができた」[75] 。
当初の小さな修道院が、再び世俗と接触する大規模な修道院へと変貌すること――これこそが、多くのロシアの修道院の運命であった。このような変化が、肯定的な結果(より広範な社会的・キリスト教的奉仕の可能性)だけでなく、否定的な結果(修道院生活の世俗化)ももたらしたことは明らかである。 セルギイの死後、彼の修道院でもこうした影響が現れたが、彼が院長を務めていた時期には、修道院生活の基盤である修道共同体を厳格に守り抜いた。彼がこれを成し遂げられたのは、修道士たちが彼の並外れた霊的賜物を認め、彼の信仰の強さと人格の力に支えられていたからである。 周囲の人々にとって、彼は修道兄弟団によって選出された修道院長というよりも、むしろ聖性の境地に立つ人物であった。彼の伝記を著した修道士エピファニオスは、その叙述が持つ冷静さと飾り気のない素朴さによって信頼を喚起しつつ、 ――セルギイは、修道院の運営に関わる多くの業務をこなしていたにもかかわらず、絶えず霊的生活を向上させ、内面的修行において魂の浄化の段階から霊的悟りの段階へと昇り、すでに当時から神秘家であり、霊性の最高段階――神の観想と神との合一――に達していたと語っている。 このように、エピファニオスの簡素で、時にまるで幼児のような語り口の中で、セルギイはロシア初の神秘家として私たちの前に現れるが、このような描写は古ロシアの聖人伝の他のどこにも見られない。
ある日、イサアクとマカリイという二人の兄弟は、明るい天使たちが聖人のそばに立ち、彼と共に神聖な典礼を執り行っているのを目撃した。 その幻視について、恐怖に駆られた兄弟たちに尋ねられたセルギイは、少し躊躇した後、このようなこの世のものとは思えない恵みに恵まれたのは今回が初めてではないと語ったが、自身の死まではこのことを口外しないよう禁じた。 また別の機会には、彼の侍者である修道士ミヘイが、聖使徒ペトロとヨハネに付き添われた聖母マリアの奇跡的な御姿を目撃した。この幻視について、セルギイ自身がマカリイとイサアクの両兄弟に語った。 三つ目の奇跡を目撃したのは修道士シモンであった。聖体礼儀において聖なる賜物を受ける直前、祭壇全体が光に満たされ、炎のような光線が上からキリストの御体と御血が注がれた聖杯へと降り注ぎ、その後、聖セルギイは聖なる賜物を受け取った。驚愕したシモンの問いかけに対し、修道院長は、それが聖霊の恵みであったと答えた……
これほど高い霊的境地に達した修行者は、周囲の人々に影響を与えずにはいられなかった。その伝記は、奇跡や預言、病人の癒やし、そして聖人の透視能力について語っている。 聖イグメンは、大公ディミトリに対し、タタール人との戦い(1380年)への祝福を与え、クリコヴォの野(ドン川上流)での勝利を予言した。 セルギイと、古代ルーシの最も偉大な宣教師であるペルミの司教ステファンが、互いに数キロメートルも離れた場所から、お辞儀を交わして挨拶を交わしたという話は実に美しい。こうした出来事のほとんどは、聖人の地上での生涯の最後の数年間に起こったものである。
彼は1392年9月25日、78歳で、修道院での58年にわたる修道生活の後、この世を去った。その生涯は、謙虚さと質素さ、勤勉さと愛に満ちていた。 聖セルギイの偉大な友人であり崇敬者であったモスクワ都主教アレクシイ(†1378)は、聖イグメーンに自身の後継者として主教座に就くよう懇願したが、セルギイは隠遁者のぼろ服を豪華な主教の法衣と交換することを望まなかった。 聖セルギイ・ラドネジスキーは、ロシアの修道士や聖人の中でも、その謙虚さと質素さゆえに、特別な敬愛と愛を受けている。 しかし、歴史は彼を、古ロシアの修道生活の主要な確立者であり、ロシアの修道生活の隆盛に寄与した禁欲主義の学派の創設者としても評価している。というのも、この学派の内部、あるいはその影響の下で、数多くのキリスト教の修道士たちが育ったからである。
聖セルギイ・ラドネジスキーは、ロシアの修道生活の真の創始者である。彼の影響は、ロシアの修道院におけるキノヴィアの復興をもたらしただけでなく、14世紀および15世紀の修道生活という大樹の基盤であり根となった。この大樹の枝のほとんどすべてが、セルギイの修道院の精神から養分を得ているのである。
さらに、共同生活規則に基づく8つの修道院も、その設立を彼に負っている[76] 。14世紀および15世紀において、自らも修道生活の偉大な築き手となった8人の修道院創立者は、聖セルギイの弟子たちであった。
そのうち3人――聖パウロ(†1429)、聖セルギイ(†1412)、聖シルヴェストル(†1379)――は、ヴォロゴダ地方のオブノルスカヤ・ヴォロスティにあるザヴォルジェで修業に励み、そこで3つの修道院を設立した。 聖パウロ・オブノルスキーは、そのとりわけ厳格な修行生活で知られており、修道院を設立する前から3年間、木の洞の中で暮らしていた。彼は112歳でこの世を去った。彼の修道院では、長老制度が盛んに行われていたという証言がある[77] 。 4人目の弟子である聖アブラアム・ガリチスキー(†1375年以降)は、ガリチ(コストロマ県)周辺に4つの修道院を設立した[78] 。コストロマ地方には、同じくセルギイの弟子であるニキータによって、もう1つの修道院[79] が設立された。 修道院の創設者には、同じくセルギイの弟子であるヤコフ(ジェレズノボルスキー、†1442年)もいた[80] 。モスクワ地方では、セルギイの弟子たちによって2つの修道院が設立された。1つはメフォディイ(†1392年)によって、もう1つはサヴォイ・ストロジェフスキーによってである[81] 。
もう一つのグループを構成するのは、トロイツェ=セルギエフ修道院の修道士団には属していなかったものの、尊者セルギイと緊密な霊的交わりを持っていた修行者たち、すなわち彼の「対話者」たち、つまり頻繁に彼を訪ね、その助言に従った人々である。
その中には、1355年頃にセルギイのもとを訪れたキエフ・ペチェールシク修道院の修道士、ステファン・マフリシュスキー(†1406)を挙げなければならない。彼は2つの修道院を設立した。 ペレヤスラヴリ出身の聖ディミトリ(†1392年)は、プリルツキーと呼ばれ、ヴォルガ川の北側に2つの共同生活修道院を設立した。 スーズダリの大司教ディオニシウス(†1385)は、ニジニ・ノヴゴロドに修道院を設立し、この都市とセルギイの学校との間に結びつきを築いた。 ペルミの司教聖ステファン(†1396)は、ロシアで最も著名な宣教師であり、異教のフィンランド系部族への布教という偉大なキリスト教の事業に取り組み、新たに改宗した土地に4つの修道院を建立した[82] 。
しかし、この修道院創設者たちの星座の中で最も明るく輝く星は、ベロゼール湖のほとりに名高いキリロフ修道院を創設した聖キリル・ベロゼルスキー(†1427)である。 聖キリルは、特に厳格な修行者たちの精神的指導者となり、彼らの中から後に、15世紀末から16世紀前半にかけて、当時の修道界における独自の潮流――ザヴォルジエの「長老派」――が形成された。この潮流は、聖ニラ・ソルスキーを通じて、スヴァトゴリェの神秘主義やイシハスムの神秘主義と結びついている。
ルーシの修道史において、聖キリルはセルギイ・ラドネジスキーに次いで、おそらく最も重要な位置を占めている。というのも、彼が共同生活を熱心に擁護したことは広く知られており、15世紀における彼の修道院の規則は、同時代の人々から最も厳しいものと見なされていたからである。 彼はボヤール(貴族)の家系に生まれ(1337年生まれ)、ごく幼い頃に両親を亡くした。長い間、大公の側近の一人であったボヤール・ヴェリャミノフに仕えていた。 かなり遅い時期、43歳頃になって、キリルはステファン・マフリシュスキーの影響を受け、出家を決意し、シモノフ修道院に入りました。彼はその厳しい禁欲生活とたゆまぬ勤労で知られるようになりました。 聖セルギイがシモノフ修道院を訪れる際、彼はまずキリルの元を訪ねた。しかし、厳格な生活と孤独を愛する性質は、豊かな首都の修道院にはあまり適していなかったため、キリルはアルヒマンドリト(修道院長)となり、修道院の住職となったものの、その職を長く務めることはできなかった。 彼はその職を辞し、最初は自分の独房で厳格な隠遁生活を送ったが、その後、修道院を去り、「北の荒野」、すなわち人跡未踏で湿地帯の広がるベロゼルスクの森へと向かった。そこで1393年、聖キリル( )は自身の修道院を設立し、そこでは特に厳格な共同生活を導入した。 彼はこの修道院で30年間を過ごし、多くの修道士が彼のもとで修行を積んだ。彼は1427年6月9日に帰天した。[83] キリルの存命中に、彼の修道院の周囲には多くの小さな隠遁所が現れ、この修道院はそれらの精神的中心地となった。 これらの修道院こそが、有名な修道院の「ザヴォルジェ」を形成し、修道院の土地所有に反対する闘争に踏み出した、特に厳格な禁欲主義の潮流の精神的故郷であり、その砦となったのである。 ザヴォルジエでは、ロシア正教会の歴史において傑出した人物である聖ニール・ソルスキーも修行に励み、同時代の人々だけでなく、18世紀および19世紀の修道界にも多大な影響を与えた。[84]
すでに述べたように、キリロ=ベロゼルスキー修道院では、数多くの新しい修道院の創設者たちが霊的に成長した。
まず第一に、白海の島にソロヴェツキー修道院を創設した修道士サヴァティイ(†1435)を挙げなければならない[85] 。 彼以外にも、アレクサンドル・オシェヴェンスキー(†1479年)、マルティニアン・ベロゼルスキー(†1483年)――聖キリルの弟子であり、1447年から1454年にかけてトロイツェ=セルギエフ修道院の院長を務めた人物――に言及すべきである。[86]
最後に、キリロフ修道院からはコルニリイ・コメルスキー(†1537)も輩出された。彼の弟子たちは15世紀末から16世紀初頭にかけて、ルーシ北部に多くの修道院を設立した。これらは主に互いに近接して位置するスキート(小修道院)であり、同時代の人々からは「聖コルニリイのラヴラ」と呼ばれていた。 聖コルニリイは、聖キリルと同様、ボヤール(貴族)の従事者階級の家系に生まれ、15世紀半ば頃、20歳の時にキリロ=ベロゼルスキー修道院に入り、ゲンナディという名の長老の指導の下、そこで最も過酷な労働に従事した。そのような生活は10~15年間続いた。 その後、コルニリイは数年間、修道院から修道院へと移り住みながら放浪の生活を送った。都市部の修道院での生活に不満を抱き、完全な隠遁を求めて、コルニリイはヴォロゴダ地方、いわゆるコメルスキーの森へと向かった。そこは、入植者の足がまだ踏み入れたことのない、鬱蒼として、人跡未踏で、湿地帯の広がる森であった。 ここで、彼は森の静寂の中で数年間を過ごした。しかし、その生涯は、伝記が語るように、あらゆる神の戦士に降りかかる苦難と誘惑に満ちており、それらは厳格な隠遁者に地上の名声をもたらすものであった。 尊者コルニリウスもまたそうであった。モミの森の奥深くで厳しい苦行に身を捧げていたにもかかわらず、彼は世の中から隠れたままではいられず、次第に救いを求める新たな修行者たちが彼の周りに集まってきたのである。 森での20年の生活の後、すでに50歳を超えていたコルニリウスは、修道共同体から正式な修道院を設立することを決意した。しかし、彼の要求が厳しすぎたため、いくつかの困難が生じ、彼は一時的に修道院を離れざるを得なかった。 聖コルニリウスは、修道者たちのために自らの手で規則を著したことで特に知られている。コルニリウスの規則は、独自の著作ではない。そこには、一方では聖ニラ・ソルスキーの『スキトス生活に関する教訓』、他方では聖ヨセフ・ヴォロツキーの『霊的書』の影響が顕著に見られ、これらは二つの異なる修道院教育の体系を描写している。 このような奇妙な組み合わせは、コルニリウスが共同生活を行う修道院を統率しなければならなかった一方で、自身の隠遁生活から得た霊的経験を忘れ去りたくなかったことに起因する。さらに、コルニリウスが長老ニルを個人的に知っていた可能性も排除できず、ニルはキリラフ修道院で彼と共に暮らしていたのかもしれない。 コルニリウスは、ニルの『教訓』から、個々の修道士に対する霊的指導において重要な点(「知的な祈り」)を取り入れた。ヨシフの『霊的』については、共同生活の基礎を確立するため、また礼拝の指針として活用した。 コルニリイの規則は、修道院の土地所有に反対するものであり、これもまたニロスの影響を物語っている。コルニリイ・コメルスキーは1537年5月19日に死去した。彼の伝記――古ロシアの聖人伝の至宝――は修道士ナファナイルによって執筆され、1600年、 コルニリイ( )は、死後の奇跡が確認された後、聖人として列聖された[87] 。コルニリイ・コメルスキー修道院からは、ヴォログダから白海に至る広大な地域に点在する新たな修道院の創設者たちが数多く輩出された。 その中でも最も著名なのは、ノヴォエゼル湖の「赤い島」に修道院を設立したキリル・ノヴォエゼルスキー(あるいはベリイ、†1532)、ゲンナディ・コストロムスキー(†1565)、そしてフィリッポ・イラプスキー(†1527)である[88] 。
これまで、私たちは聖セルギイの精神的影響と何らかの形で結びついた修行者たちについて述べてきた。しかし、彼ら以外にも、同様に熱心に修行に励み、ロシアの修道史において重要な位置を占めたもう一つの修道者グループを挙げることができる。
それは、クベンスコエ湖の岩だらけの島にあるスパソ=カメンヌイ修道院の修道士たちである。この修道院は13世紀半ばに創建されたが、ディオニシイ修道院長の下で初めて特別な意義を持つようになった。彼はギリシャ人か南スラブ人の出身で、アトス山を訪れた後、モスクワへやって来た。 14世紀末(ただし1389年以前)、ディオニシウスはスパソ=カメンヌイ修道院のイグメンに任命され、同修道院に厳格なアトス山の規則を導入した。 ディオニシウスは1418年まで修道院に留まり、その後、古都ロストフの大司教座に就き、1425年に同地で逝去した。 スパソ・カメンヌイ修道院は多くの輝かしい修道士を輩出し、彼らはさらにクベンスキー湖周辺に新たな修道院を設立し、そこにキリスト教の光をもたらすという偉大な宣教の偉業を成し遂げた[89] 。
ここで真っ先に挙げなければならないのは、聖ディオニシイ・グルシツキー(†1437)である。彼の伝記は、柔和さと慈悲、心温かさと謙遜に満ちた修行者の姿を浮き彫りにしており、これらの美徳において彼は聖セルギイに匹敵する存在であった。 グルシツァ川(ヴォロゴダ地方)のほとりに建てられた自身の修道院の教会を、彼は自ら描いたイコンで飾りました。というのも、彼は古ロシアの聖人の中では比較的珍しいイコン画の才能に恵まれていたからです。 その伝記には、彼が聖体礼儀用の聖器――ディスコス、聖杯、星形皿――を非常に巧みに製作していたことも記されている。 ディオニシウスは自身の修道院にキノヴィア(共同生活)を導入した。彼が設立した修道院は、互いに近接した場所に計3か所あり、その中には女子修道院も含まれている。彼の布教活動における特筆すべき点は、農民の集落に教区教会を建設したことである[90] 。
彼には、ペルシュムスキーと呼ばれたグリゴリーという名の弟子がいた(†1442)[91] 。15世紀末か16世紀初頭に書かれた彼の伝記には、ディオニシイ・グルシツキーとグリゴリー、いわば長老とその弟子との間の対話に関する興味深い記述が見られる。 たとえこの記述が実際にあった対話を忠実に再現したものではなかったとしても、それはイシハス派の思想がヴォロゴダの森の修道界に浸透していたことを示す重要な証拠である。 聖ディオニシウスは、悪しき罪深い思いから魂を清めることを通じて、神との合一へと導く心と霊の修養について語っている。おそらく、この対話には、ディオニシウス自身がスパソ=カメンヌイ修道院で、聖山出身の修道院長の下で学んだ教義が反映されているのだろう。
聖ディオニシウスの弟子には、1446~47年にラバンキ川のほとりに小修道院を設立したフィリッポ・ラバンスキーもいた。その少し後、ステファン(†1542)という名の修道士が修行に励んだ。彼は厳格な隠遁者であり、同じく[92] に小修道院を設立した。
聖ディオニシオスの同時代人である修道士アレクサンドル・クシュツキー(†1439)は、スパソ=カメンヌイ修道院からほど近い、クシュタ川がクベンスコエ湖に注ぐ地点に隠遁所を建設した[93] 。
これらは、14世紀および15世紀の修道院開拓と深く結びついた、最も重要な4つの修道者グループである。そのうち3つのグループは、聖キリル・ベロゼルスキーと聖コルニリイ・コメルスキーを経て、聖セルギイ・ラドネジスキーに遡る。もちろん、当時の修道院開拓はこれらだけで網羅されるわけではない。 他にも、それに加わった小規模な修道者グループや個々の修道士たちがいた。
その中でも、スーズダリの大司教ディオニシウス(†1385年)と関わりのあったニジニ・ノヴゴロドの修道者たちの小さなグループに言及すべきである。同大司教はニジニ・ノヴゴロドにペチェルスキー修道院を設立した。 この修道院の修道士エフフィミー(†1404年)は、スーズダリにスパースキー修道院を設立したが、同修道院は後に教会生活において極めて重要な役割を果たした[94] 。大司教ディオニシウスは、すでに述べたように、聖セルギイの交友の一人であった。
さらに、モスクワ・ルーシで深く崇敬されていた聖アレクサンドル・スヴィルスキー(† 1533)の影響を受けて成長した、少数の修道者たちについても触れておくべきである。彼の名には、2つの修道院の創設が結びついている。彼の弟子たちは、ラドガ湖の北東、互いに近接した場所に、さらに3つの隠遁所を設立した。 このグループはすでに16世紀に属する。[95]
特に際立っているのは、聖エウフロシン・プスコフスキー(† 1481年頃)を筆頭とするプスコフの修道者たち[96] 、およびノヴゴロド周辺に一連の小さな隠遁所を設立し、現地の都市修道院と行政的・経済的な結びつきを持っていたノヴゴロドの修道士たち[97] である。
後世に広く知られるヴァラアム修道院も、14~15世紀の修道院による植民活動に参加していた。この修道院の修道士たちは、北東の遠方、オネガ湖まで、さらにはその先へと進出した[98] 。
我々は、ルーシにおける修道活動家たちの主要なグループと、修道院による植民活動の主な方向性を挙げた。 歴史的事実が示すように、修道界は植民化の過程に参加することで、偉大なキリスト教的啓蒙の偉業を成し遂げただけでなく、国家・政治および経済面でも多大な貢献を果たし、その結果、ヴォログダから白海に至る広大なキリスト教化された土地がモスクワ国家に編入されたのである。 そのため、純粋に修道的な潮流や傾向は、古代ルーシの国家・政治生活において極めて重要な役割を果たしており、 修道界は宗教的な影響力だけでなく、国家において大きな政治的影響力も獲得しており、これは特に16世紀半ばに顕著に現れた。修道派間の対立――非所有派とヨシフ派(これについては次の章で述べる)――は、この主張を如実に裏付けている。
修道界にとって、その創始者であり師である聖セルギイとキリル、 聖パウロとコルニリイ――は、修道界にとって永遠に尊ばれる存在となった。なぜなら、これらの人物たちは、一方ではその精神的権威によって修道生活の基礎を築き、他方では、ロシア固有の禁欲主義の最も優れた特質を自ら体現することで、修行者たちの模範となったからである。 修道院に創設者たちの精神が息づいている限り、修道院の修行生活は隆盛を極め続け、その形式と内容は世代から世代へと修道士たちに受け継がれていった。しかし、修道院生活の内的統一が崩れるやいなや、修道院は危機的状況に陥った。 一部の修道士たちは、すでに15世紀末には危険が迫っていることを感じ取っていた。彼らは、厳格なキノヴィアの基盤そのものが脅かされており、このままではその基盤が完全に破壊されてしまうことを見抜いていた。この危険をもたらしたのは、修道院の土地所有の拡大であり、その原因は国の宗教的・経済的双方の生活に根ざしていた。 修道院の生活には改革、すなわち禁欲主義の新たな復興が必要とされていた。しかし、今回、救済策として提案されたのは、厳格な共同生活の復活ではなく、貧困の誓いを厳格に遵守することに基づき、また長老制度を修道士たちの禁欲的・神秘的な教育の場として位置づける「個別居住」であった。
15世紀は、ロシアの修道生活の全盛期であった。国家生活における修道生活の精神的権威を高めたこの隆盛は、何らかの形で聖セルギイ・ラドネジスキーの学派と結びついていた数多くの修道者たちによる実り多い精神的活動の結果であった。 厳格な共同生活の決定的な重要性を強調したセルギイの禁欲的見解は、修道院生活の基礎となった。しかし、聖セルギイは禁欲的教育の包括的な体系を提示したわけではなく、むしろ後継者たちの霊的賜物に依拠していた。 そして、すでに彼の弟子たちの一部――聖パウロ・オブノルスキーや聖キリル・ベロゼルスキー――には、彼ら独自の霊的個性の特徴が表れ始めていた。 禁欲に対する個人的かつ個別的なアプローチの結果は、すぐに現れ始めた。新しい世代の修道者たちには、新たな特徴が見られるようになったのである。それらは15世紀の最後の四半期にはすでに顕著になっており、修道界ではキリスト教の禁欲の本質を異なる形で理解する二つの潮流が形成された。 その結果、ロシアの修道界は対立する二つの派閥に分かれた。一方は「イオシフ派」(その主要な代表者であるイオシフ・ヴォロツキーにちなんで名付けられた)として知られ、もう一方は「非所有者派」あるいは「ザヴォルジエの長老たち」として知られている。
モスクワ近郊のヴォロカ・ラムスク周辺にあるヴォロコラム修道院の院長であったヨシフは、系譜的にもセルギイ・ラドネジスキーの学派とつながりがある。 聖セルギイの弟子であるニキータは、セルプホフに修道院を設立した後、晩年をボロフスク(カルーガ県)のヴィソツキー修道院で過ごし、そこで彼の精神的指導下にあった弟子が一人いた。 パフヌティイという名のこの弟子は、洗礼を受けたタタール人の家庭の出身で、1445年頃、ボロフスク近郊の鬱蒼とした森の中に修道院を建立した。 パフヌティイと聖セルギイとの間の(ニキタを介した)霊的なつながりは、同時代の人々や、後の時代のモスクワ社会において、彼に特別な権威をもたらした[99] 。パフヌティイは30年近く、ボロフスクの修道院を統率した。 彼は非常に有能な管理者であり、厳格な修道院長でもあり、修道院生活の表向きの面を極めて重視していた。パフヌティイは大公家と良好かつ親密な関係を築いており、彼の死後(1477年に没)も長い間、王家では彼の記憶が大切にされていた。 彼の弟子である聖ダニイル・ペレヤスラフスキーと修道士カッシアン・ボソイの二人は、すでに高齢の長老となっていたが、新生児イワン(後のツァーリ・イワン4世「恐ろしい王」1533–1584)の代父となった[100] 。
経済基盤がしっかりとしたこの修道院――パフヌティイは大公から多額の金銭と土地を寄進されていた――では、禁欲主義はある意味で外見的なものとして捉えられていたが、そこで若きヨシフは修道者としての初歩的な教育を受けた[101] 。彼は1439/40年にボヤール(貴族)の家庭に生まれた。 20歳の時(1460年頃)、彼は別の修道院に短期間滞在した後、その修道院の生活が自分に合わなかったため、ボロフスキー修道院に入った。 修道生活において、ヨシフはパフヌティウスの教えに従った。すなわち、修道院内の様々な経済施設での重労働と、パフヌティウス派の修道士たちが、規則を極めて厳格に、文字通り遵守して執り行っていた長時間の礼拝である。 これこそが、礼拝中の修道士の外見的な振る舞いに対してヨセフに並々ならぬ熱意を植え付けた「学校」であり、彼が作成した修道院の規則(『霊的書簡』)においても、これが第一に挙げられている。
年老いたパフヌティイは、ヨシフの性格が他の誰よりも後継者としてふさわしいと見抜き、修道院の運営業務に彼を巻き込み始めた。兄弟たちがヨシフを修道院長に選出した場合、彼が修道院の創設者の精神を修道院に守り抜けることを期待してのことだった。 ヨシフはしばしばイグメンのモスクワへの旅に同行し、そこで大公の宮廷から好意的な歓迎を受けた。そして、ヨシフは実際にパフヌティウスの後継者となった。 もっとも、彼がどのようにして修道院長に就任したのか――修道院の兄弟たちの選出によるものか、それとも大公の命令によるものか――は定かではない。ヨシフの死後まもなく著された二つの伝記は、この出来事に関する記述において互いに矛盾している。 いずれにせよ、ヨシフと大公との良好な関係は、修道院の兄弟たちによって無視されることはなかった。修道院長就任当初から、ヨシフはパフヌティエフ修道院の特性を如実に表すような懸念や困難に直面した。 修道院は形式的な厳格さを重んじる風潮が強く、経済的な事柄に非常に多くの注意が払われていた。ヨシフが(おそらく大規模な経済活動のため)世俗化が進んでいた修道院の共同生活の水準を向上させようと試みた際、修道士たちの間には不満と不平が巻き起こった。 すでに定着した生活様式に慣れ親しんでいた年配の修道士たちは、原則として秩序の改善の必要性を認めていたにもかかわらず、改革に対して頑なに抵抗した。 パフヌイ派の修道士たちの抵抗は極めて激しく、ヨシフは修道院を去らざるを得なくなった。一人の修道士に付き添われて、彼はしばらくの間――約1年間――修道院から修道院へと放浪した。その旅の途中で、ベロエ湖にあるキリロフ修道院にも立ち寄った[102] 。
1年後、ヨシフはボロフスキー修道院に戻ったが、そこには長く留まらなかった。すでに、自分自身の新しい修道院を設立することを決めていたからである。 彼は数人の修道士と共にボロフスキー修道院を去り、ヴォロカ・ラムスキー(ヴォロコラムスク)方面へと向かい、1479年に修道院を設立した。この修道院は急速に発展し、その後の1世紀にわたる教会活動において極めて重要な役割を果たした。 ヴォロコラムスクの公爵からヨシフの修道院が受けた豊富な寄進(村や金銭)は、ヨシフが公爵とすぐに良好な関係を築くことができたことを如実に物語っている。 修道院の物質的な豊かさにより、早くも1486年には大きな石造りの教会が建設され、15~16世紀の著名なイコン画家 ディオニシウス[103] ;その後、高い鐘楼やその他の修道院の建物がいくつか建てられたが、それらはすべて石造りで、当時の北ルーシの森林地帯において、これを実現できたのは、惜しみない金銭的支援があったからに他ならない[104] 。豊かな寄進が至る所から寄せられ、特に修道院で出家し、全財産を修道院に譲り渡した人々からのものが多かった。 ヨシフは喜んで寄進を受け入れ、やがて彼の修道院は、その経営規模においてパフヌティイの修道院に似たものとなった。周囲には畑が広がり、修道院の村々から来た農民たちが畑で働き、至る所に穀物倉庫、納屋、物置が建っていた。 修道院は新入りの修道士にとって大きな荘園のように映り、農作業の務めを課された多くの修道士たちは、礼拝以外のすべての自由な時間を農作業に捧げなければならなかった。これにより、イグメンは慈善活動に専念し、不作の年には周辺の村々の人々を助けることができた[105] 。
北ロシアの修道院を巡る旅の途中、ヨシフは、そこでは共同生活が必ずしも厳格に守られているわけではないことに気づいた。そのため、彼は当初から自身の修道院にキノヴィア(共同生活規則)を導入し、それを極めて厳格に遵守することを決意した。 後に彼は、「『霊的書簡』」として知られる修道院の規則を著した[106] 。この規則は、ヨシフの宗教的・道徳的および禁欲的な見解を 注意深く考察する絶好の機会を与えてくれるため、私たちにとって特に重要である[107] 。ヨシフは、外面的かつ形式的に理解されるキリスト教的禁欲の体現者として、私たちの前に現れる。 ヨセフが修道士たちに対して行う霊的指導は、魂や意志の完成ではなく、修道士としての外見上非の打ち所のない行いに基づいている。 行動における外面的側面、すなわちヨセフが言うところの「肉体の端正さ」こそが、優れた修道士になりたいと願う者すべてにとっての最大の関心事であるべきだ。この点において、ヨセフは、厳格な指導と儀式の文字通りの履行を最重要視する、あの古ロシアの観念を典型的に体現している。 ヨシフの禁欲的な厳格主義は、修道院生活の表層的な側面を、細部に至るまで規制し、詳細に規定することを目的としている。彼は、三つの修道誓願のうち、第一に「服従の誓願」が挙げられ、厳格な規制こそが服従を実現するための最も確実な手段であるという考えに基づいている。
ここで指摘しておくべきは、修道士たちの霊的指導に関するヨセフの見解が、長老たちの見解とは根本的に異なるという点である。 長老たちもまた、服従を初心者の修道士を育成するための良い手段と見なしているが、彼らはそれをあくまで手段として用い、霊的指導においては常に弟子の個性の独自性を考慮に入れ、修道士たちの霊的完成に向けたアプローチにおいて画一的な手法を避けるよう努めている。
ヨシフは、キリスト教の禁欲主義の精神的基盤全般、とりわけ修道院における指導の基盤をも軽視していた。これは、修道院長と修道者たちの間の関係に関する彼の見解において、特に顕著に表れていた。ヨシフが修道院長に課す要求は、あくまで表面的なものに過ぎない。 自身の規則書でこの点について論じる際、彼は東方修道史からの多くの例を挙げて論拠を裏付け、修道院長に対し、修道者たちに対して極めて厳しい扱いをするよう要求している。彼は、修道者の良心に働きかけたり、禁欲の霊的価値を証明したりすることではなく、不従順な者を威嚇することで修道者を教育している。 その際、修道士は修道院長を、心の悩みを打ち明け、助言や助けを得られるような霊的な指導者とは見なさない。むしろ、いかなる些細な過ちに対しても、罰を与えることができるだけでなく、罰を与える義務さえある修道院の権威として捉えるのである。
規則は、修道士に対し、自室、食堂、労働中、そして教会での礼拝において、一定の振る舞いを定めている。例えば教会では、各修道士には決まった席があり、出入りする際は常に同じ扉を通らなければならない。 ヨセフは、修道士がどのように立つべきか、十字を切る際に頭や手をどうすべきかについてさえ記している。規則は主に共同の祈りに関するものであり、礼拝の際にはすべてを省略することなく朗読し、歌わなければならないと定めている。 このため、礼拝は長引き、修道士には個室での祈りの時間が残されなかった。彼の修道院の修道士たちは、手仕事に費やす時間は少なく、修道院の施設(製粉所、農作業など)の管理に多くの時間を割いていたことを忘れてはならない。[108] 。
このような修道院生活を組織するにあたり、ヨシフは極めて明確な目的を追求していた。彼の確信によれば、教会機関としての修道院には独自の特別な任務がある。しかし、これらの任務は純粋に禁欲的な性質を持つものではない。修道院は、将来の聖職者階級の指導者を養成するための、一種の教会・牧会学校となるべきである。 修道士たちの霊的育成方法における統一性、礼拝や信徒の目に触れるあらゆる生活場面における修道士たちの統一された振る舞いは、ヨセフの考えによれば、信徒たちの目から見て、将来の聖職者たちに特別な権威を与えるはずであった。 ヨシフは、概して司教たちの道徳的・啓蒙的活動にはほとんど関心を払わなかった。彼は、教会の階層は啓蒙を行うのではなく、統治し、管理すべきであると考えていた。
規約においても、その他の著作においても、ヨセフは教会と国家の任務が密接に結びついているという考えを展開している。ヨセフにとって、司教は教会と国家の両方の奉仕者であり、修道院そのものが一種の教会・国家機関を成している。 この主要な思想から、農民が住む土地を所有しようとする修道院の主張の正当性が自ずと導き出される。将来の教会階層を育成する能力を持つためには、修道院は経済的・財政的に 保障されなければならない。 「もし修道院に村がなければ」とヨシフはある箇所で述べている。「どうすれば、高潔で気高い人物(すなわち将来の主教)が修道生活に入ることができるだろうか?」 修道院の任務についてこのように簡潔に述べられた考えは、当時の修道者や司教団の幅広い層から特に好意的に受け入れられた。 それは、16世紀のロシア教会階層の多くの代表者に共通していた世界観の根底をなしていた。これらの主教たちは、いわゆる「ヨシフ派」と呼ばれる極めて影響力のあるグループを構成しており、ロシア教会の生活に強力な影響を与え始め、まもなく長きにわたり教会統治の舵取りを掌握することとなった。
ヨシフ派の影響力を雄弁に物語っているのは、16世紀において、司教団がヨシフの思想に賛同していただけでなく、その大部分がヨシフ・ヴォロコラム修道院の出家者たちで構成されていたという事実である。ここで主要な役割を果たしたのは、モスクワ都主教ダニイル (1522–1539)が主要な役割を果たした。彼はヨシフの忠実な弟子であり、ヴォロコラム修道院の運営における後継者(1515–1522)でもあった。ヨシフ派の世界観を持つ典型的な「教会の公爵」であり、自身の修道院の修道士たちを主教の座に推挙していた[109] 。 16世紀のもう一人の傑出した大主教は – マカリイ(1542–1563)は、イオアサフ大主教(1539–1542)の在位が短期間に終わった後、教会と国家の課題を密接に結びつけるという点でダニイールの教会政策を引き継ぎ、彼もまたヨシフ派の擁護者の一人であった[110] 。 1551年にモスクワで招集されたストグラフ公会議、すなわち『ストグラフ』の決議には、ヨシフ派の色彩が明確に表れている。公会議の議事に参加した9人の主教のうち、5人はかつてヨシフ・ヴォロコラム修道院の修道士であった[111] 。 ダニイルおよびマカリー両大主教の支持を受けたヨシフ派は、モスクワ・ルーシにおける君主制の絶対主義を常に擁護していた。この潮流は、「モスクワ――第三のローマ」という教義として知られる思想圏と融合していたが、その思想はヨシフの思想とは異なる源泉に由来していた[112] 。
修道生活における国家および教会・政治的課題への過度な注力は、当然ながら、その内的発展にとって有害であった。 ヨシフの禁欲的かつ教会・政治的な見解は、支持者や継承者だけでなく、15世紀半ばのロシアの修道生活を世俗化の危険や純粋に国家的な目的への奉仕から守り、修道生活をもっぱら霊的な修行の道へと回帰させようと努めた数多くの反対者も生み出した。 ヨシフ派の反対派は、修道界そのものの内部から現れた。彼らは傑出した修行者を擁立し、その人物の登場は、ヨシフ・ヴォロツキーおよびヨシフ派との激しい論争の始まりを告げるものとなった。その人物こそ、反ヨシフ派の中心人物となった長老ニール・ソースキーであった。
論争は、1515年に死去したヨシフの存命中にすでに激化し、50年以上にわたって続いた。この論争では、禁欲主義に関する多くの重要な問題や、ルーシの教会生活における諸問題が取り上げられ、両陣営の核心的な思想が表明された。
1433年に生まれた長老ニール・ソースキーは、モスクワのボヤール家であるマイコフ家[113] の出身であった。ニールはキリロ・ベロゼルスク修道院で修道者の道を歩み始めた。 その修道院での生活に不満を抱いたニールは、聖アフォン山へ向かい、 聖山の修道士たちの生活に触れることを決意した。そこでは、彼を悩ませていた様々な疑問に対する答えが得られることを期待していたのである。 若きニールの生き生きとした宗教的な魂、その神秘主義的な傾向、そして神学的な探求は、キリロフ修道院のやや乾いたような霊的雰囲気の中では完全な満足を見出すことができなかった[114] 。
ニールは、他のロシア人修道士たちと同様、聖山や聖山修道士たちの生活について多くの話を耳にしていた。 古ルーシとアフォン山との最初のつながりは11世紀にまでさかのぼる。12世紀には、すでに「キシルルグ」という名のロシア人修道院がそこに存在していた。1169年、ロシア人修道士たちはアフォン山でさらに一つの修道院――聖パンテレイモン修道院――を授かり、これは「ロシア人修道院」と呼ばれるようになった[115] 。 13世紀には、タタール人の侵攻と南ルーシの荒廃により、これらの修道院との交流は長期間断絶された。活発な交流が回復されたのは、14世紀末から15世紀にかけてであり、この時期に多くのルーシ人修道士がアフォン山を訪れた。 スパソ=カメンヌイ修道院では、すでに述べたように、一時期、ギリシャ人のディオニシオスが院長を務め、同修道院にアトス山の規則を導入した。聖山では多くの書物が翻訳され(主に南スラブ人によって行われた)、これらの翻訳本はルーシに伝わった。その中には、イシハズムに関する一般的な知識を記した書物も含まれていた[116] 。
ニールは友人のイノケンティ・オフレビニン(†1521)と共に、イシハズム派の勝利後、アトス山を訪れた[117] 。 アトス山の修道士たちの生活への深い接触、長老や修行者たちとの出会い、そしてニールがすでにキリロフ修道院で学んでいた可能性のある禁欲的・神秘的な著作の読解――これらすべてが、彼の霊的探求の方向性を決定づけた。アトス山への巡礼は、ニールをイシハズムの信奉者へと変えた[118] 。
アフォン山で、ニールは後に記したように、「一つの良い花から、より良い花へと飛び回る蜂のように」暮らし、「キリスト教の真理の果実」と聖人の伝記を学び、「硬くなってしまった自分の魂を蘇らせ、救いへと備える」ことを目指した。 霊的に満たされ、心の平安を見出したニールは、故郷へと戻った。故郷のキリロフ修道院では、彼は今やすべてを以前とは異なる目で見つめていた。 それゆえ、彼がアトス山で学んだこと――知的な祈りへの神秘的な没入の美しさ、 「心の守り」と「魂の清らかさ」を、自ら体験し、この「天国への梯子」を登り、キリスト教的生活とイシヒアの目的――すなわち「神化」にふさわしい者となることを目指したのだ。
友であり弟子であるイノケンティと共に、ニールはキリロフ修道院から少し離れた、ソラ川のほとりの鬱蒼とした湿地帯の森へと入り、そこで定住し、その生涯を禁欲的な修行と神秘的な瞑想に捧げた。 次第にニルの周囲には、少数の修道者たち( )が集まり、彼らはニルのスキトに身を寄せ、彼の霊的指導の下、ルーシに新たな修道生活と修道院の生活様式を根付かせようと努めた。 残念ながら、ニール・ソルスキーの『行伝』は失われてしまったが、同時代の人々の他の著作から、彼らが長老ニールをルーシにおける「スキト生活(隠遁生活)の始祖」と見なしていたことがわかっている。これは、彼が古ルーシの修道生活に、当時まだ知られていなかった新たな要素を導入したという事実を強調するものであった。 彼の著作や、弟子たち、そして同時代人による記録をもとに、ロシアの霊的歴史の何世紀にもわたってその足跡を残したこの独特な人物像を想像してみることはできるだろう。彼の純粋にキリスト教的であり、真に禁欲的な見解は、ヨシフ派から強い反対を招いた。 彼らの敵意こそが、おそらくニール・ソルスキーの『行伝』が失われた原因であった――敵対者たちは、謙虚な長老の姿を信者、とりわけ修道士たちの記憶から消し去りたかったのだ。なぜなら、その『行伝』は、ヨシフ派や16世紀後半から17世紀にかけての修道院生活に対する生きた告発となり得たからである。 しかし、ニルの著作『スキトスでの生活に関する伝承』は、この偉大な長老の思想に共感する者たちによって熱心に写し取られていた。もっとも、それは主にヴォルガ川以東の小さな修道院や荒野で行われていた。
長老ニルは1508年5月7日に逝去した。地上の名誉や栄光を望まなかった彼は、弟子たちに、自分の罪深い遺体を森へ運び出し、獣の餌食にさせるよう命じた。それは、彼が神の前で多くの罪を犯し、埋葬に値しないと考えていたからである。
教会文書には、長老ニールがいつ列聖されたかについての記録はない。彼の列聖は18世紀末か19世紀初頭になってようやく行われたと推測されるが、信仰深いロシアの人々や敬虔な巡礼者たちは、湿地帯の森を抜けてニール・ソルスキー・スキートへと続く細い小道を常に知っており、かねてよりこの長老を聖人として崇敬していた[119] 。
アフォン山への巡礼は、ニルの宗教的見解に非常に大きな影響を与えた。そこで、キリスト教の修行者の内面と外面に関する彼の見解が最終的に形成されたのである。 ニルの文学的遺産は多くはない(おそらく、その著作の一部は思想的な敵対者や時の経過によって失われてしまったのだろう)が、同時代人や弟子たちからは高い評価と絶大な権威を得ていた。 この点において、周囲から高く評価されていた彼の魅力と高潔な人格が、少なからぬ役割を果たした。ニール・ソルスキーの禁欲的・神秘主義的な思想は、古ロシアの修道界において、古代東方の修道生活における理想を復興させるための基盤となり得たであろう。
禁欲的な資質に恵まれたニルの姿は、ヨセフの姿とはかなり異なっている。 ヨセフ派の指導者が示す宗教的形式主義や表面的な厳格主義に対し、ニールは、魂の宗教的生活に対する心理的に繊細なアプローチを対置している。彼からは、人間の道徳的完成の過程において得られる内なる自由の精神が漂っている。彼は、キリスト教の敬虔さに神秘的な根拠を与えた宗教思想家であった。 彼が修道士に課す課題は、ヨセフの要求よりも困難で深遠なものである。ヨセフが極めて重要視していた、修道士や世俗のあらゆるキリスト教の修行者の活動は、ニルにとって、世俗を捨てた人間にとっての主要な課題とはほど遠いものであった。 彼自身の霊的生活において最も重要なこと、そして彼の著作においてキリスト教徒に課せられた主要な課題は、魂の完成であり、それによって人間の霊的成長がもたらされ、救いを得るのだ。ニールは、東方教会の古代の修道者たちの伝統と、イシハズムの禁欲的・神秘的な見解を忠実に踏襲していた。
ニール・ソルスキーの著作は、彼の見解を簡潔に特徴づけることを可能にしてくれる。
福音の精神に従おうとするキリスト教徒の生涯全体は、絶え間ない完成への道でなければならない。自由で意識的な意志を個人的に授けられた人間は、自らの魂の救いのために、この道、すなわち霊的な戦いの道を歩むのである。 救いを求める者の内的、道徳的、そして霊的な成長は、「知的な祈り」と「心の清らかさ」を通じてのみ達成される。これらの禁欲的・神秘的な実践の手段こそが、実り豊かで活動的なキリスト教生活の基盤を成すのである。 「肉的な行い――ニールはこう記している――すなわち外的な祈りは、単なる葉に過ぎない。一方、内的なもの、すなわち知的な祈りは、実である」[120] 。これを実践すべきなのは、修道者だけでなく、世俗に留まる人々も含め、すべての人である。 ニール は、完全性を追求するキリスト教徒の魂の状態、彼を待ち受ける誘惑、そして彼の情欲や迷いに特に注目した。彼は私たちに「思いの対立」という図像、誘惑との戦い――「心の戦い」――の図像を示している。 この戦いを経て、修行者は「誘惑」、「結びつき」、「重なり」、「束縛」、そして「情欲」を克服する。これらは人間の堕落の段階である。「誘惑とは、ある対象に関する単純な思い、あるいは想像であり、それが突然心に持ち込まれ、心に浮かび上がるものである…… 『結合』とは……生じた思いとの対話、すなわち、情欲に駆られてであれ無情であれ、私たちには隠されたかのような、現れた思いへの言葉、言い換えれば、敵からもたらされた考えを受け入れ、それを留め、それに同意し、それが私たちの中に留まることを自発的に許すことである。 聖なる教父たちは、これを必ずしも罪のないものとは見なしていない……「結合」とは、聖なる教父たちが、心に浮かんだ思いや、心に提示された対象を、心から好意を持って受け入れることを指す。 これは例えば、誰かが敵によって生み出された思いや、敵から提示された対象を受け入れ、心の中であれこれと論じ合うことでそれと交わり、その後、敵の思いが唆す通りに振る舞おうと心の中で傾いたり、その気になったりする場合に起こります…… 「虜になる」とは、心に浮かんだ考えに無意識のうちに心を奪われること、あるいはその考えを自分の中に定着させてしまうことである……これは通常、気が散っていることや、不必要で無益な会話から生じる…… 「情欲」とは、長い間魂に巣くって、習慣によってあたかもその本質であるかのように変容してしまうような、そのような傾向や行為のことを指す……その原因は……不注意や気まぐれ、あるいはある対象への長期にわたる没頭にある。あらゆる形態の情欲は、罪の重さに応じた悔い改め、あるいは将来の苦しみから免れることはできない。 したがって、あらゆる情欲から解放されるよう悔い改め、祈るべきである。なぜなら、あらゆる情欲は、それによって戦いを強いられたからではなく、悔い改めなかったがゆえに苦しみを受けることになるからである」[121] 。
霊的な戦いを繰り広げる修道者は、八つの主要な情欲と向き合っている。彼は、経験の道、すなわち外的な行いの道を順調に歩み、ついに神秘的な観想の状態に到達するために、これらの情欲を自らの中で克服しなければならない。そして、そのすべての頂点にあるのが神化である。 修道者の禁欲的な昇華の道を阻む八つの情欲とは、暴食、淫行、金銭への執着、怒り、悲しみ、落胆、虚栄、高慢である[122] 。
ニールによれば、誘惑との賢明かつ善意に満ちた戦いとは、「心の守り」、「沈黙」、そして「知的な祈り」にある。 修道士は神秘的な黙想に多くの時間を捧げるべきであり、イエス祈りの言葉「主イエス・キリスト、神の御子よ、罪人である私を憐れんでください」を常に口にしなければならない。ニロスはまた、イエス祈りを具体的にどのように行うべきかについても説明している[123] 。
このように、ニルの禁欲主義的な見解は、ヨシフ・ヴォロツキーの見解とは大きく異なっていることがわかる。禁欲に対するニルとヨシフの理解の違いは、断食に関する彼らの見解にも表れている。 ヨセフは自身の規則において、修道士個人の特性を考慮せずに、食事の時間や量を非常に詳細に規定しているのに対し、ニルには断食に対する全く異なる姿勢が見られる。 ニールは、外的な禁欲を修行者の個々の精神的な性質に基づいており、さらに、北ロシアとパレスチナの気候の違いも考慮している。すべての人々に同じ食事の規則を定めることはできない。なぜなら、ニールが言うように、「身体には、銅、鉄、蝋のように、力や強さにさまざまな程度がある」からである[124] 。
ニール・ソースキーは、修道院の所有地に関する問題にも触れている。彼は、修道院が村や土地、その他の財産を所有できる、あるいは所有すべきであると主張したヨシフ・ヴォロツキーの見解を断固として退けている。 ニールによれば、修道士たちは自らの労働によって生計を立てるべきであり、自分たちが作った製品を販売するか、あるいはさらに良いことに、生活維持に必要な物と物々交換すべきである。修道院や修道士が信徒からの施しを受けることはふさわしくなく、それどころか、彼らは自らの手で稼いだものを 貧しい人々と分かち合うべきである。 ニルはまた、教会の装飾における過剰な豪華さや高価な金製の祭具などは、礼拝にとって全く必要ないという、非常に興味深く、古代ルーシにとっては極めて異例な見解も述べている。第一に、こうした豪華さはしばしば目的そのものとなり、すなわちすでに情欲と化してしまう。 第二に、重要なのは礼拝者の内面的な心構えであり、祭服や祭具の豪華さではない。この見解において、ニールは聖セルギイ・ラドネジスキーとの親和性を示している。聖セルギイは長年にわたり、質素な木製の器を用いて聖体礼儀を執り行い、礼拝の際には常に粗末な亜麻の祭服を身にまとっていたのだ[125] 。
三つの修道生活の形態のうち、ニールは「中道」――彼が「スキト生活」と呼んだ、二人または三人の修道士による生活――を好んだ。彼は、厳格な隠遁生活もキノヴィアも、最良の修道生活の形態とは考えていなかった。
ニールが「スキティズム」と捉えていたのは、決してアナコレティズム(隠遁生活)ではなかった。スキトはいくつかのケリ(小部屋)あるいは小屋から成り、そこにはケリオティ(スキトの修道士)たちが暮らしていた()。これらのケリは修道院の所有物であった。ケリオティ(スキトの修道士)たちは、2人、あるいは稀に3人で共同生活を送っていた。 多くの場合、それは年配の修道士と修道生活に入ったばかりの修道士――長老とその見習い、あるいは長老と二人の見習い弟子――の組み合わせであった。このような生活様式は、長老制度が存在する場合に最も合理的であった。スキトニキたちは修道院長の総指揮下に置かれていた。修道院からは食料の支給を受け、その大部分は一週間分まとめて支給された。 土曜日や祝日の前日には、すべてのスキトニキが修道院の教会に集まり、共同の礼拝に参加した。例えば、聖サヴァ修道院ではこのように定められていたが、そこはまさに大規模なケリオス式修道院そのものであった。 スキトの修道士たちの日中の祈祷規則は、しばしば修道院全体の規則とは異なっていた。初心者の指導もまた、異なる方法で行われていた。いくつかのケリイが互いに近接して配置されている場合、それらはスキトとして統合された。この場合、修道士たちはしばしば共通の祈祷規則を持ち、スキトの院長を選出していた。 スキトにおける禁欲的な教育は、キノヴィア(共同生活)よりも厳格であった。キノヴィアとは、修道院内で全員に共通の規則――共通の規律、共同の食事、修道士たちの同一の服装――が守られていた状態を指す。キノヴィア式の修道院は、所定の修道院規則に基づき、院長によって運営されていた。 イディオリトマ(- 独立生活)はキノヴィアとは対極にある。各修道士は自らの判断で救いを求め、独立した独房、あるいは修道院の共同建物内にある独房のいずれかに住み、食事や服装は自ら手配し、祈りの規則も自身の裁量で実行していた。 単独居住の規則に基づく修道院は、1年ごとに選出され、修道院の長老会議([126] )に報告義務を負う院長によって運営されていた。
ニロスの見解によれば、スキートは修行者に、精神の清らかさと節制、祈りと沈黙の中で生活を送るための最良の機会を与えるものである。 一日は祈りから始め、その時間をすべて神に捧げる行い――すなわち、祈り、詩篇やその他の教会賛美歌の詠唱、聖書の朗読――に費やすべきである。聖書の書物の中でも、ニルスは新約聖書、とりわけ使徒たちの書簡を好んだ。 また、修行者は手仕事に励む必要がある。第一に、常に覚醒を保つためであり、第二に、自らの手の労働によってわずかな糧を得て、情欲と闘うためである。修道士の食事は、その体力に見合ったものでなければならない。必要以上に食べてはならない。なぜなら、食事の節度を欠くことは情欲を招くからである。 睡眠も短くすべきであり、その中には死の予兆を見出さなければならない。死の思いは常に修道士に付きまとうべきであり、彼はいついかなる時でも神の御前に立つ準備ができるよう、自らの霊的生活を築くべきである。
この情欲との闘いの道を歩み、自らを実践によって試練にさらして初めて、修道士は霊的な階段のより高い段階へと昇ることができる。彼の霊的実践は今や観想にこそあるべきであり、地上的かつ肉的なものをすべて死滅させていくにつれて、その霊は神の神秘的な御顔を見つめる境地へと高まっていくのである。 イエスの祈り、心の守り、完全な静寂と世からの完全な隔絶、沈黙、そして魂の清らかさの中で、修行者は霊的に成長し、その営みの最終目標(経験 † 観想)である神化へと近づいていく。 そして、この恵み深い神秘的な没入の中で、神との合一において、彼は至福の状態に似せられるのである[127] 。
ニールの見解は、東方教会の禁欲的かつ神秘的な伝承に基づいている。聖父たちの著作の多くは、ニールのずっと前からルーシで知られていた。しかし、ニールはそれらを、先人や同時代人とは少し異なる方法で用いた。 古ロシアの著述家――例えば、ヨシフ・ヴォロツキー――は、聖父たちの著作を、単に自らの正しさを証明し、敵対者の見解を反駁するためにのみ用いていた。 一方、ニルは聖書や教父たちの著作を、自身の論拠をより明確かつ説得力のあるものにするために用いている[128] 。彼の論述には形式主義の臭いがなく、読者に思索を促し、その良心に訴えかける。彼は単に論証するのではなく、分析を行うのである。この点において、ニルは思想家であり心理学者としての素質を示している。 彼は教父たちの言葉や禁欲的・神秘的な著作を多く引用しているが、それは自身の考えを説明するために必要な範囲にとどまっている。彼の著作には、主要な著作『啓蒙者』において、その過剰な引用で読者を疲れさせるヨシフ・ヴォロツキーのような、引用が山積みになっているようなことはない。 ヨシフにとって禁欲は常に目的そのものであったが、ニールにとってはそれは単なる手段、道具に過ぎない。彼にとって重要なのは禁欲の霊的な意味であり、それ自体はキリスト教徒の内面生活の単なる外的な現れに過ぎないからだ。そのため、彼は禁欲を実践する者の個々の人格的特徴を決して見落とすことはない。
ニルの主要な著作である 『伝承』では、禁欲的理想を達成するために行われる霊的な戦いについて述べられているが、理想そのものについては触れられていない。これはおそらく、優れた心理学者であるニルが、当時の修道生活の実情において、達成への道筋が明確に示されていない理想を描写するよりも、禁欲に関する実践的な指針の方が有益であることを理解していたからであろう。
修道生活の意義や修道院生活のあり方に関するヨシフとニルの見解の相違、そして彼らの禁欲主義的な世界観の違いは、16世紀初頭のモスクワ社会を特に揺るがした二つの世界観的な問題についての議論において、最も鮮明に表れた。
第一の問題はキリスト教教義の根幹に関わるものであり、第二の問題はむしろ実践的なもので、モスクワ・ルーシにおける教会と国家の関係に関するものであった。
正教会の教義を歪めようとした異端や異端者たちは、古ルーシにおいては極めて稀な現象であった。教会はその内部的使命において、迷信や異教の残滓、そして外見的な敬虔さの醜悪な形態とのみ闘っていた。異端運動は、古ルーシのキリスト教を揺るがすことはなかった[129] 。
とはいえ、14世紀にノヴゴロドで発生したストリゴリニキ派の異端は、歴史において一定の役割を果たした。この異端に対する反論の著作を通じてのみ、この宗教運動についてある程度の全体像を把握することができる。 15世紀末、やはりノヴゴロドにおいて、 新たな異端運動が現れた。この運動には数人のユダヤ人が参加していたことから、「ユダヤ教徒の異端」として知られている[130] 。
この運動は、ノヴゴロドとモスクワで比較的広く普及した。ここではこれについて詳しく述べることはしない――我々にとって重要なのは、イオシフとニルによる異端に対する態度の違いである。 ヨシフは、その主要な著作『啓蒙者』において、ユダヤ教化派に対して非常に鋭く反対の立場をとり、彼らや彼らの宗教的見解と論争を繰り広げている。そのため、『啓蒙者』はこの問題に関する極めて重要な資料となっている。 他の著作やいくつかの書簡において、ヨシフは異端者に対する実践的な措置を提案している[131] 。厳しい措置の支持者であったヨシフは、死刑さえも容認していた。 ヨセフのこのような見解は、ニール・ソルスキーの周辺にいた無所有者たちから非常に強い反対に直面した。ユダヤ主義者たちに対する論争において、厳しい措置の必要性を主張するヨセフは主に旧約聖書に依拠していたのに対し、彼に異議を唱える無所有者たちは新約聖書の精神に基づいていた。 彼らは、キリスト教徒による死刑の執行に断固として反対した。異端者とは罪人であり、もし彼らが自らの誤りを撤回しないのであれば、他のキリスト教徒との交わりから断絶され、修道院に閉じ込められ、そこで教訓を通じて真理を悟るべきである[132] 。 1504年の公会議では、事実上ヨセフの見解が勝利を収め、教会は一部の異端者を死刑に処したが[133] 、それでもなお、この見解の相違は、ここで検討している修道界の二つの潮流にとって極めて特徴的なものである。
これら二つの潮流の宗教的見解における相違が明らかになったもう一つの問題は、修道院の所有地に関する問題であった[134] 。
モスクワ・ルーシにおける修道院の富の増大は、ますます大きな規模を帯びていった。13~14世紀に設立された修道院は、次第にルーシの中部および北部の経済的植民地へと成長した。 それらは農業や工芸に従事しており、修道院の土地には、修道院のために働くか、あるいは地代を支払う農民たちが住んでいた。公爵や大公から修道院が与えられた土地所有に関する様々な特権は、その繁栄をさらに増大させた。 修道院は自らすでに開墾された土地を購入したり、公爵、ボヤール、商人、その他の者からの寄贈や遺贈によって領地を受け取ったりした。さらに、修道院に入信した富裕層からの寄付によって、修道院の所有地は拡大していった。 農業に適した土地の相当部分が教会の手に集中していたことから、政府は、国家の目的のために失われた土地を取り戻そうという考えを抱くようになった[135] 。
教会のヒエラルキーや修道界では、修道院の所有地をめぐって二つの見解が形成された。一つはヨシフ派の立場、もう一つは非所有主義者の立場である[136] 。 非所有派、すなわちザヴォルジエの長老たち( )は、教会や修道院の土地所有権を否定していたが、彼らにはロシアの司教団や修道界の中に、いくつかの先駆者もいた[137] 。
1503年の公会議において、モスクワ政府は「非所有派」の支持を得て、修道院の土地所有問題を平和的に解決しようと試みた。公会議では、修道院の土地所有に反対する立場を、ニール・ソースキーとパイシイ・ヤロスラヴォフが代表して主張した。 ニール・ソースキーは、すでに自身の著作の中で、修道院の所有地や修道者の個人所有権に対して、度々断固として反対の意見を述べていた。しかし、公会議において司教やその他の聖職者たちがこの問題について決定を下さねばならなくなった際、ニール・ソースキーが「修道院には村を持たせず、 修道士たちは荒野に住み、手仕事によって生計を立てるべきだ」という意向を表明した。この提案は、長老パイシイ・ヤロスラヴォフによって支持されたものの、公会議に出席した大多数からは共感を得られず、とりわけヴォロコラム修道院のイグメン、イオシフ・ヴォロツキーからは全く支持されなかった[138] 。
ニールが、東方教会の規範的規則に基づいた純粋に禁欲的な見解から出発していたのに対し、ヨシフはより教会運営上の実務的な配慮に重きを置いていた。 修道院の主な任務は、教会階層の人材育成である。修道院がこの任務を果たせるのは、修道者たちのために (ヨセフは共同生活の修道院を想定している)生活環境が整えられ、修道士たちが日々の糧の心配から解放され、将来、主教や修道院長などとして教会階層の一員として奉仕するための準備に全身全霊を捧げることができるときのみ、この任務を果たすことができるのである。 「もし修道院に土地がなければ――」と、ヨセフは1503年の公会議で自らの見解を次のように述べた。「どのような高潔で気高い人物が修道者となるだろうか?」[139] ヨセフの見解は公会議において司教たちの支持を得て優勢となり、土地は修道院の所有のままとなった。
この問題をめぐる両陣営の主要な代表者たちの見解の相違は、彼らの禁欲主義的な世界観が全体としていかに正反対であったかを物語っている。 ニル・ソルスキーにとって重要なのは、真の禁欲の雰囲気の中で修道士が内面的に完成することである。この精神で育てられた修道士たちは、もし世俗の中で奉仕することになったとしても、純粋にキリスト教的な目標を追求するだろう。 一方、ヨシフ・ヴォロツキーは、修道院における禁欲を、何よりもまず、修道士たちが教会行政上の任務を遂行するための準備手段と見なしていた。彼は、教会と国家の事務の緊密な連携の必要性を説いたが、ニールはそれとは対照的に、両者の分離と互いに対する完全な独立を要求した。 ヨシフの考えによれば、修道院は修道士の個性を均一化すべきものであった。そのため、彼はある時、「個人的な意見はあらゆる情欲の母であり、意見を持つこと自体が第二の堕落である」と述べた。一方、ニールは人間の個性を擁護し、修道者の霊的実践における内面の自由を主張した。
ヨセフの勝利は画期的な意義を持っていた。彼の支持者たちは、特に16世紀の第2四半期以降、勢力を拡大していった。 ――非所有主義者に同情を示したイオアサフ都主教(1539–1541)に関連する短い期間を除けば、教会の運命にとって特に重要な意味は持たなかったが――まもなくヨシフ派は、ロシア正教会において最も影響力のある支配的なグループへと変貌を遂げた。
二つの禁欲主義的潮流間の論争は、もし双方がそこから正しい結論を導き出し、修道士への禁欲的指導や修道院生活のあり方といった問題が、そもそも純粋に教会の内政であるということを認めていれば、修道生活にとって有益なものとなり得たであろう。 この論争の過程で、禁欲主義的見解が国の国家・政治生活と極めて密接に関連していることが明らかになったとはいえ――ここで指すのは修道院の所有地に関する問題である―― ――ヨシフ派も非所有派も、もし彼らが修道者としての謙虚さがまさに求めていた節度を示していれば、中道を見出し、それによって修道生活から論争の悪影響を取り除くことができたはずである。 しかし、それは実現しなかった――ヨシフ派の過度な熱意や非所有派の頑固さのためではなく、これら両派が、16世紀のモスクワ公国を文字通り飲み込んだ、国家・政治的な意見、イデオロギー、思想の強力な潮流に巻き込まれてしまったからである。 おそらく、モスクワ王国がその歴史の決定的な時期に入ったまさにその時に、修道生活の基礎をめぐる論争が勃発したのは偶然ではないだろう。
東洋でも西洋でも、修道生活の歴史全体が、修道院を外界から切り離すことがいかに困難であるか、また、修道士たちが世俗の中で服従の務めを果たさなければならない場合、修道生活を世俗化から守ることがいかに難しいかを物語っている。 教会や政治における大きな出来事は、修道院の垣根を打ち壊し、修道生活を世俗の生活の流れに巻き込んでしまう。ビザンツにおける偶像破壊運動、西欧のクローンイ運動、十字軍は、この法則性を如実に裏付けている。
モスクワ公国で起こった出来事は、同時代人であるヨシフ派や非所有主義者たちだけでなく、次世代にとっても、運命を左右するものであり、強い印象を与えるものでした。 当時の人々、とりわけ教養ある人々の宗教的・政治的見解――この層は精神的な力をもっぱら修道界から得ていた――は、これらの出来事によって文字通り揺さぶられた。 歴史家、とりわけ教会史家は、往人の思考様式や行動をしばしば単純化して描く傾向がある。後世の人々は、当時の状況に思いを馳せ、過去の宗教的見解を理解することができなければ、当時の人々がどのような思想に基づいて生きていたのかを、単に理解できないこともある。 当時のロシア人の世界観は根底から宗教的なものであり、教会や国家・政治生活におけるあらゆる出来事は、宗教的な観点から考察され、吟味され、評価されていた。その思考様式や推論の性質は、現代のものとは決定的に異なっていた。 当時の人々は、その大半が信仰心豊かな子供たちのようでありながら、大人のような情熱を持っていた。彼らは、真にキリスト教的な完全性の模範を見出すことはできたが、自らその道を見出すことはできなかったキリスト教徒たちであった。 その時代の心理的背景を理解するためには、16世紀初頭のロシア人の特徴を改めて思い起こす必要がある。「当時、人々は『アイデア』ではなく、『イメージ』、『象徴』、『儀式』、『伝説』によって思考していた。つまり、アイデアは論理的な組み合わせとして発展するのではなく、象徴的な行動や想定された事実として展開され、それらに対して歴史の中に正当化の根拠が求められていた。 過去を振り返ったのは、現在の現象を説明するためではなく、当面の利益を正当化するためであり、自らの主張を裏付ける例を探していたのである」[140] 。
ロシアの人々の目の前で、偉大なロシア民族的かつ世界的な政治的出来事が繰り広げられていた。つい最近まで、モスクワ公国は、ロシア平原の果てしなく広がる森に囲まれた、ほんの小さな土地に過ぎなかった。 しかし、この一画の土地は他の分領公国を併合することで絶えず拡大し、モスクワ公国は領土的、政治的、経済的に成長していった[141] 。モスクワ公、すなわち「ロシアの地の統合者」の支配下におけるロシア諸公国の統合は、一方では 巧妙な政治、他方では[142] 国民的自覚の高まりという結果であった。 「北東ルーシの領土的統合をモスクワが完遂したことで、モスクワ公国は大ロシアの国民国家へと変貌を遂げた」[143] 、とクリュチェフスキーは述べている。
属公国を併合したことで、モスクワの大公はこれらの地域の統合された力を自らの手に集中させることができた[144] 。モスクワ公イヴァン3世(1462–1505)は「君主であり専制君主」[145] 、「全ルーシの大公」となった。 以前は単なる称号に過ぎなかったが、今やそれは実質的な国家・政治的意義を持つようになった。イヴァン3世は、事実上(de facto)かつ法的に(de jure)統治を行っていた[146] 。モスクワ大公の支配下におけるルーシの領土的統合は、ルーシの地にとってのみ重要なものではなかった。この統合の影響は国際的な性格を帯びていた。モスクワ大公国は、他の国家と共通の国境を持つようになったのである。 かつてはオカ川とヴォルガ川の間の森にひっそりと隠れていた小さな公国が、数十年という間に、世界政治の複雑な絡み合いに巻き込まれることになった[147] 。これは、モスクワ政府だけでなく、思索的なモスクワ市民にとっても、まったく新しい現象であった。 成長した国家の政治的輝きに影を落としていたのは、ただ一つの事情だけだった――タタールの隷属である。これは、もちろんモスクワでは事実上あまり実感されていなかったが、法的には依然として残っていた。 しかし、1480年にはこの影も消し去られた。ルーシは、2世紀半(1238~1480年)にわたって重くのしかかっていた隷属の枷を振り払ったのである[148] 。
これらの出来事は、当然ながら、その時代の人々の生活に大きな影響を与えた。ロシアの土地を統一する過程において、教会階層が極めて重要な役割を果たしたことを忘れてはならない。 ロシアの総主教たち[149] 、とりわけテオグノスト(1328–1353)、ペトル(1308–1325)、アレクシイ(1354–1378)、ゲロンティイ(1473–1489)は、常に「ロシアの地を統一する者たち」の政策を熱心に支持していた[150] 。 この における教会階層の政策には、ヨシフ・ヴォロツキーとその支持者たちの考えに合致する、国家と教会との間の関係形成に向けた前提がすでに含まれていた。修道士たちは、ヨシフ・ヴォロツキー以前からも、同様の政策の実施に関与していた。 厳格な禁欲主義者であった聖セルギイ・ラドネジスキーも、修道院の外では同様の精神で活動していた。彼はタタール軍に対する勝利で終わったクリコヴォの戦い(1380年)には参加しなかったが、この戦いに臨む大公を祝福した。
しかし、教会は大公を支持し祝福するだけでなく、しばしば自らも国家権力に助けを求めざるを得なかった。これは特に1439年、ロシア教会とロシアの宗教的意識がフィレンツェ公会議に対する自らの立場を決定しなければならなかった際に、鮮明に表れた。 公会議に参加し、ユニオンを承認したロシアのイシドール都主教(1437–1441)の行動は、モスクワにおいて大公ヴァシーリー(1425–1462)およびロシアの聖職者たちから断固とした抵抗に直面した[151] 。 モスクワでは以前からギリシャ人に対する不信感があったが、フィレンツェのユニオンを機にその感情はさらに強まった。一方、正教の教義を守るために大公が示した断固たる姿勢は、教会関係者から認められ称賛されただけでなく、国家権力がキリスト教の目的のために奉仕しようとしていること、そしてそれが可能であることを彼らに示した。 この出来事は、ロシアの宗教的意識の極めて重要な表れであり、後世の人々もその価値を正しく評価した。「ロシア史におけるフィレンツェ合同の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。それは、15世紀後半におけるルーシの汎ヨーロッパ政治への参入を予兆するものであった。 同時に、この連合とその意義の評価は、宗教ジャーナリズムにおいて、モスクワの台頭に関する議論の基盤となった」[152] 。フィレンツェ合同は、15~16世紀のロシアの宗教ジャーナリズムの発展にとって、またモスクワのビザンツおよびギリシャ正教会に対する姿勢を定める上でも、大きな意義を持っていた。 ユニオンから20年後に、「第二のローマ」であるコンスタンティノープルが「不信心な」トルコ人の猛攻によって陥落した際(1453年)、モスクワのキリスト教徒たちは、この出来事を「異端のラテン人」との同盟に対する罰であると見なした。ロシア人の目には、ギリシャ正教の宗教的権威が完全に失墜したように映った[153] 。
政治的動乱がロシア人の宗教的意識にどれほど大きな影響を与えたかを理解するには、当時の精神的雰囲気を心に思い描く必要がある。 ロシア人のキリスト教的世界観は、再び均衡を取り戻すための出口を求めていた。何世紀にもわたって聖別されてきた正教の砦は破壊され、その砦のイメージがなければ、彼らは信じることも生きることもできなかった。それは彼らにとって、迫り来る世界の終わりを想起させるものだった。 1492年は、世界の創造から7千年目(当時の暦による)の終わりにあたっていたが、その一方で、ロシア人の意識はとっくにキリスト教の終末論を深く吸収していた。 ここ数十年における出来事――「異端のユニオン」や「背信したビザンツ」の没落――は、この予感をさらに陰鬱なものに染め上げていた。 しかし、1492年3月24日から25日にかけての夜、世界の終わりは訪れなかった。モスクワ大公国は存続し続け、当時の状況下において、政治的には目覚ましい発展を遂げていた。 古ロシア人にとって、これは新たな思索の題材となり、自らの終末論を再検討させ、教会や国家・政治的な出来事の要因を探求するよう促した[154] 。
その一方で、モスクワでも、この知的動揺や、宗教的気運、情熱、意見の激化という雰囲気にうまく合致する出来事が起こった。 モスクワの国家・ 政治的な発展、すなわち小さな公国が広大な領土を持つ統一された王国へと変貌したことは、すでに述べたように、同時代の人々に強い印象を与えた。しかし、「重要なのは新たな領土の量ではなかった」とクリュチェフスキーは指摘する。「モスクワでは、国内の社会秩序に深く関わる、古くからの大事業が終わりを迎えつつあると実感されたのだ…… 新たな立場に身を置いたものの、その新たな意義をまだ明確に自覚していなかったモスクワの国家権力は、手探りで、国内外においてこの立場にふさわしい形態を模索し、すでにそれらの形態を身にまとった後、それらを助けとして自らの新たな意義を明らかにしようと努めた。 この観点から、イヴァン3世の治世に現れたいくつかの外交上の形式や新たな宮廷儀式は、少なからぬ歴史的関心を集めている」[155] 。
こうした状況下で、イワンの二度目の結婚は、同時代の人々の考察を特定の方向へと導いた。 1472年、イヴァン3世は、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス・パレオロゴス(1448–1453)の孤児となった姪ソフィアと結婚した。彼女はそれまで住んでいたイタリアからモスクワへやって来たが、 彼女の到来は、華麗なビザンツ様式に再構築された宮廷の儀礼に変化をもたらしただけでなく、モスクワの専制君主の国家および教会・政治における役割を強化し、正当化し、さらには不朽のものとすることを目的とした、ある種の宗教的・哲学的概念の形成の契機ともなった。
こうして、モスクワの大公がビザンツ帝国の皇族の王女との結婚を通じて、ビザンツ皇帝の継承者となったという、国家哲学的な思想が生まれたのである。 確かに、ボスポラスに存在した偉大なるキリスト教正教の王国は、不信心なムスリムたちによって破壊されたが、この征服は長くは続かず、ましてや永遠のものでもない。 「しかし、哀れな者よ、よく理解せよ――『ツァーグラード陥落の物語』の著者は感傷的にこう叫ぶ――……ルーシの民は、かつて万物を創造したイスマイルを打ち破り、セドモホルマゴ(すなわちコンスタンティノープル。 ――I. S.)を、かつての正当な支配者たちと共に受け入れ、そこで統治するであろう」[156] 。 モスクワの君主がビザンツ皇帝の継承者となったというこの信念は、モスクワ・クレムリンのイヴァン3世の宮殿における新たな宮廷儀式――これ以降はビザンツの儀式を模倣するものとなった――や、ビザンツ式の双頭の鷲を配した新たな国章にも反映された[157] 。 タタールの隷属から解放された後(1480年)、モスクワの大公は自らを専制君主であるだけでなく、「全ルーシの君主」、さらには「神の恩寵によるツァーリ」と称するようになった[158] 。 大公たちは以前から時折「ツァーリ」と呼ばれていたが、それは単なる誇張表現に過ぎなかった。しかし今や、この称号はロシアの人々の見解によれば、実際の状況を反映するものとなった[159] 。 ロシアの政治・教会関連の論説は、その後数十年にわたりこのテーマを掘り下げ、その結果、壮大な世界観の体系を築き上げた[160] 。 これらの思想は、政治的な野心からではなく、主に宗教的な探求、すなわちキリスト教の信仰から生まれ、前述の歴史的出来事によって引き起こされた精神的動揺への応答として生まれたのである。 当時のロシア社会にとって、これらは単なる歴史的事実ではなく、宗教的・歴史的な出来事であったため、これほどまでに大きな感動をもって受け止められ、宗教的な観点からこれほど熱心に議論されたのである。
特に注目すべきは、宗教的な色合いを帯びた論説が、正教会のツァーリの権利と義務の両方について言及している点である。 この皇帝権力の特徴は、ノヴゴロドの異端者――ユダヤ教に傾倒する者たち――との闘いにおいて大公に支援を求めた際、当時の教会階層や修道院の代表者たちによって強調されていた[161] 。ヨシフ派にとって、正教の皇帝の宗教的権利と義務は、その神に似た本質から派生するものである。 「ツァーリは本質においてすべての人間に似ているが、権威においては至高の神に似ている」とイオシフ・ヴォロツキーは述べている[162] 。
ツァールの宗教的義務に関するこの考えは、ヨシフ派の思想に深く、かつ長く根付いたものであり、ノヴゴロド大司教テオドシウスも同様に表明している[163] 。彼はイヴァン4世(1545–1547)への3通の書簡の起草者であった[164] 。 もちろん、これらの見解は、モスクワ都主教マカリイ(1542–1563)――「ロシア正教会の歴史における最も偉大な人物の一人」[165] 、「16世紀のロシアの都主教の中で最も著名な人物」[166] ――も共有していた。 彼の見解は、当時の出来事の影響を受けただけでなく、主に彼自身の人生経験や、ヨシフおよびヨシフ派の思想と調和して形成されたものであった[167] 。マカリイのヨシフ派的な見解は、彼の大司教としての奉仕にも反映された。 ノヴゴロド教区における修道院生活の是正措置に関連して、彼は1526年、教会当局 ――すなわちモスクワ都主教――ではなく、大公に直接訴えかけ、修道院の規約の変更と共同生活の導入について許可を求めた。 大公ヴァシーリー3世への彼の書簡は、完全にヨシフ派の精神に則っており、正教の君主という理念を反映している: 「神のため、陛下、そして聖母マリアと偉大なる奇跡行者たちのために、神聖な教会と尊い修道院について尽力し、配慮してください。なぜなら、陛下、あなたは神の御手によって全ロシアの独裁者かつ君主として立てられたからです。神は、陛下を 神は地上に御自身の居場所を選ばれ、御自身の玉座に君を据えられ、全正教の偉大なる慈愛と命をお任せになったのです」[168] 。これは、教会階層の代表者たちが、ツァーリの宗教的義務、教会に対する彼の態度、さらには教会における彼の立場について抱いていた見解の表れであった。
前述の政治的出来事は、こうした見解の発展と文書化を促進した。当時の状況において、これはでっち上げられたイデオロギーではなく、モスクワ国家で形成された教会・政治的状況から導き出された論理的な結論であった。 ビザンツとの長きにわたる教会的な結びつきは、その実を結ぶことができ、また結ぶべきものであった。そして、ビザンツが恐ろしい大惨事に襲われたとき、正教世界の中枢におけるその地位には、新たな大国が立ち上がるはずであった[169] 。 しかし、モスクワの専制君主たちにとって、教会・宗教的な根拠だけでは不十分であり、彼らは自らの権力を政治的・法的な言語でも正当化し、伝統や「古き良き時代」にその根を張ろうとした[170] 。
こうした国家・政治的見解は、「モスクワの収集家」たちの活動や、モスクワの政治的隆盛と並行して形成されていった。クリュチェフスキー[171] は、このイデオロギー的構築とその内容について簡潔に次のように特徴づけている: 「16世紀初頭のモスクワの政治家たちにとって、ビザンツ(すなわちソフィア・パレオロゴス王女――I. S.)との婚姻関係だけでは不十分であり、血縁関係でも結びつきたいと望んでいた。しかも、最高権力の根源、あるいは世界的な模範であるローマそのものと。」 その時代のモスクワの年代記には、ロシアの公爵たちの新たな系図が登場し、彼らの血筋をローマ皇帝に直接遡らせている。どうやら16世紀初頭には、アウグスト、 ローマ皇帝であり、全宇宙の支配者であったアウグストが、衰弱し始めた際、宇宙を兄弟や親族の間で分割し、弟のプルスをヴィスワ川の河畔からネマン川と呼ばれる川まで支配させ、その地は今なお彼の名にちなんで「プルス地方」と呼ばれており、 「そして、プルスの14代目の子孫こそが、偉大なる君主リュリクである」。 モスクワの外交官たちは、この伝説を実用的に活用した。1563年、イワン皇帝のボヤールたちは、ポーランドの使節との交渉において皇帝の称号を正当化するため、年代記の言葉を引用して、まさにこのモスクワのリュリク家の系譜を提示したのである…… 彼らは、ビザンツの遺産という概念を歴史的根拠をもって裏付けようとしたのである。ウラジーミル・モノマフは、ビザンツ皇帝コンスタンティノス・モノマフの娘の息子であり、その祖父がキエフの王位に就く50年余り前に死去していた[172] 。 一方、グロズヌイの治世に編纂されたモスクワの年代記には、ウラジーミル・モノマフがキエフで公となった後、自らの軍司令官たちをツァーリグラードへ派遣し、このギリシャの皇帝コンスタンティノス・モノマフと戦わせたことが記されている。 このコンスタンティン・モノマフは、戦争を終結させる目的で、ギリシャの都の総主教と共に、命の樹の十字架と、自身の頭から外した王冠、すなわちモノマフの帽子、ローマ皇帝アウグストゥスが楽しんだとされるサードライトの杯、そして金の鎖をキエフへ送った…… ウラジーミルはこの王冠を戴き、全 ルシの神に戴冠された王、モノマフと呼ばれるようになった。「それ以来――物語はこう締めくくられている――ウラジーミルの大公たちは皆、その王冠を戴くようになった……」[173] …この伝説の主たる思想は、ビザンツ皇帝の教会・政治的な後継者としてのモスクワの君主たちの意義が、ウラジーミル・モノマフの時代に確立された、ギリシャとルーシの専制君主による全正教世界への共同統治に基づいているということである」[174] 。
この国家・政治的な伝説(もちろん、これには宗教的な色合いも帯びていた)と、すでに上で特徴づけられた当時のモスクワ社会の見解[175] は、モスクワ王国を「第三のローマ」とするビザンツ・ロシアの思想[176] において、その最終的な表現を見出した。 このメシアニックな思想の創始者は、プスコフ近郊のエレアザロフ修道院の修道士フィロフェイであった。 特徴的なのは、このテーマに関する著作が、モスクワでも、古ルーシの教会・文化の中心地でもなく、地方で生まれたことであり、これはもちろん、プスコフの修道者たちが、礼拝上の問題だけでなく、世界観に関するテーマに対しても強い関心を持っていたことを示している[177] 。
その書簡のおかげで、修道士フィロフェイはロシア史上最も傑出した人物の一人となった。 とはいえ、彼の生涯についてはほとんど知られていない。彼は15世紀後半、プスコフ地方のどこかで生まれ、その後、1450年頃に聖エウフロシン・プスコフスキーによってプスコフ近郊に設立されたエレアザロフ修道院の修道士となった。 おそらくその後、彼はエレアザロフ修道院の院長となった。彼の著述活動は、大公ヴァシーリー3世(1505–1533)およびツァーリ・イヴァン4世(1547–1584)の治世の時期に及ぶ。 その有名な書簡を執筆する以前、フィロフェイは年代記の編纂に従事し、1512年の『クロノグラフ』の作成にも参加していた。これは、言うまでもなく、彼の教養と文学的才能を物語っている[178] 。
すでにこの『クロノグラフ』の中で、フィロフェイは次のような素晴らしい一節を記している。「我らがロシア(ルーシ)の地は、神の御慈悲と、至聖なる聖母マリアおよびすべての聖人たちの奇跡を起こす祈りによって、成長し、 若返り、高まり(そして広がり)つつある」[179] 。 これらの言葉には、彼の教会政治的イデオロギーの核心、すなわちモスクワ・ロシアの「正信かつ正教の王国」が持つメシア的使命に対する彼の信仰が凝縮されている。 フィロフェイの教会・政治的構想は、すでに我々が特徴づけた見解や意見に近いものであり、それは、唯一かつ永遠の宗教共同体として、またキリストによって設立され、その後ビザンツ帝国において具現化された「神の都」 (Civitas Dei)としての未来に対する不安という精神的雰囲気の中に有機的に溶け込んでいる。この「神の都」はキリストによって設立され、その後ビザンツ帝国において具現化されたが、近世において、ビザンツ人――「諂うギリシャ人」――による宗教的背信と不敬虔な行いのために、滅亡の瀬戸際に立たされていたのである。
ロシア人の正教やモスクワ公国の正教については、同公国のどの神学作家も――ノヴゴロド大司教ゲナディ、ヴォロツク司教イオシフ、モスクワ都主教マカリー、そして彼らの同時代人を含め――疑いを抱く者はいなかった。 しかし、モスクワの宗教的責任や宗教・政治的課題、そして国家・政治的に強大なこの王国にとって、正教世界における宗教的権威と宗教的優位性がさらに必要であるという点について議論が及ぶと、これらすべてを数多くの歴史的事実に基づいて立証する必要があった。 フィレンツェ公会議によって、ギリシャ人はキリストへの背信を犯しただけでなく、自らの正教に影を落とし、その名誉を傷つけた[180] 。この罪は、正教徒であるロシア人にとっても、同様に致命的な結果をもたらす可能性があった。 キリスト教世界にとって、それは危機的な時代であった。なぜなら、20年後には1492年が到来し、それは世界の創造からの年数で7000年目にあたる年であり、ビザンツ暦によれば、3月24日から25日にかけての夜に世界の終わりが訪れるとされていたからである。 長年にわたるタタール人の支配、ユニオン、ビザンツ帝国の政治的崩壊、ノヴゴロドでの異端――これらはすべて、神からの恐ろしい前兆ではなかったのだろうか?当時の人々は、こうした問いを自らに投げかけていた。 千年王国説の思想は、その精神生活が常に終末論的な色合いを強く帯びていた古代ルーシにおいて、肥沃な土壌を見出した[181] 。かつては単なる想像に過ぎなかったことが、今や現実となり、既成事実となり得たのである。
しかし、恐怖を煽った1492年が過ぎ去っても、キリスト教世界は崩壊しなかった。これは思索と熟考の対象となった。ロシア人が自国で何が起きているのかについて考えを巡らせると、ここモスクワ大公国では、国家の繁栄を象徴する発展が進んでいることに気づいた。
おそらく、フィロフェイが『クロノグラフ』を執筆していたまさにその時期に、『ウラジーミル公たちの物語』も編纂されたのだろう。フィロフェイは、疑いなく当時のあらゆる見解や観念に精通していた。というのも、彼はいわば16世紀前半の精神的・文化的エリートの一員であったからである。 これらすべてが、彼に『クロノグラフ』に前述のルーシに関する特徴を盛り込む根拠を与えた。彼の思想と信念が完全に熟成するまでには、さらに10年を要した。すでに1520年代には、彼は書簡を執筆し、その中でモスクワを「第三のローマ」とする有名な思想を提唱した[182] 。
フィロフェイの宗教哲学的かつメシアニックな概念の基礎をなすのは、二つの思想である。すなわち、神に選ばれた「神の都(Civitas Dei)」としてのモスクワ王国の世界史的意義と、この王国に対する神権的・君主制的な評価である。
世界史的な発展は、神の摂理の枠組みの中で成し遂げられる。神は人類全体と個々の人間を導き、世界の至る所で神の恵み深い御心が支配している。神は王国を興し、それらが堕落した時にはそれを打倒する。 主は君主たちを王座に就かせ、彼らが罪に陥れば懲らしめられ、君主たちとすべての人々を真理と正義へと導かれる。第一のローマはアポリナリウスの異端によって背教し、神の御心により、キリスト教正教世界におけるその地位を失った。 その地位に、神の御慈悲により、第二のローマ――コンスタンティノープル、ツァールグラード――が引き継いだ。しかし、背教したローマとの連合によって、それは正教を裏切り――そして滅びた。その聖地であるコンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂は、その罰として、不敬虔な征服者たちによって冒涜され、破壊された。 しかし、正教徒たちにはまだ希望が残されていた――モスクワは、その敬虔さと神への畏れによって輝いている。モスクワは、連合を拒否することで自らの正教性を確固たるものとし、それゆえに世界史における第三の、そして最後のローマとなった。第四のローマなど存在し得ないのだ。 ロシアのツァーリは、世界で唯一の正教の君主であり、ロシア帝国は最後の王国であり、その後に続くのは天の御国だけである。
フィロフェイは自身の哲学のすべてを『占星術師およびラテン人への書簡』に簡潔にまとめた。「預言の書にある通り、すべてのキリスト教王国は終わりを迎え、我らの君主の唯一の王国、すなわちロシア王国へと統合された。 二つのローマは滅び、第三のローマは存続し、第四のローマは存在しない……すなわち、天下にただ一人のキリスト教の王にして統治者、神の聖なる御座である全宇宙の使徒的教会の座は、ローマとコンスタンティノープルに代わって、神の救いの都モスクワにあるのである」[183] 。
また、大公ヴァシーリー3世に対し、フィロフェイは自身の「ロシア正教王国」構想について次のように記している: 「古きローマの教会はアポリナリウスの異端によって倒れ、第二のローマであるコンスタンティノープルの教会は、アガリア人の子孫たちによって斧や鉈でその扉が切り裂かれた。しかし、今や第三のローマである、汝の威厳ある王国の聖なる使徒的教会は、 これは、全宇宙の果てに至るまで、正教のキリスト教の信仰において、天の下、太陽よりもさらに輝いている……それゆえ、私はあなたに言う。注意せよ、皇帝よ。そして、はっきりと、確固として心に留めよ。すべてのキリスト教王国は、あなたの王国へと帰依した。二つのローマは倒れ、第三のローマは立ち、第四のローマは存在しないのだ」[184] 。
このように、フィロフェイのメシアニックなビジョンは、モスクワ王国で以前に生じ、彼の時代にも引き続き現れていた一連の思想の連鎖における最後の環であったことがわかる。同時に、 フィロフェイの教義は、これらすべての思想や観念の論理的な統合である。 プスコフの修道士は、同時代のすべての人々に対し、自国とその君主である正教会のツァーリが担う偉大なキリスト教的使命について、他の誰よりも鮮明かつ明快に語っている。すなわち、ツァーリの位が神によって定められたこと、その神聖さ、そして世俗および教会の事柄において唯一の神のみに責任を負うツァーリの義務と権利についてである[185] 。
フィロフェイの宗教的歴史哲学とヨシフ派の思想は、一つの教会・政治的世界観へと融合し、それはモスクワ大公国[186] においても、18~19世紀のピョートル帝国の時代[187] においても、ルーシにおける国家と教会の関係のさらなる発展の基礎となった。 モスクワを「第三のローマ」と位置づけるイデオロギー的試みは、極めて強い教会・民族的な色彩を帯びていた。これは、ロシアのキリスト教がギリシャのキリスト教に決して劣らないという、ロシア人に古くから根付いていた確信と合致するものであり、この確信は、11世紀にはすでにキエフ都主教イラリオンによって表明されていた。[188] そして今、ロシアの教会階層や修道界の代表者たちは、この主張を実際の事実や事例、模範によって立証しなければならない時が訪れた。イデオロギーやレトリックは、たとえどれほど素晴らしく論理的であっても、ロシア人にとってはまだ証拠とはならない。 キリスト教の真理、正教の教義の真理を、ロシア人の魂が信じたのは、教義的な構築物や、古ロシアの書物の印象的な説得力のおかげではなく、むしろこの教義が持つ典礼的な豊かさと美しさのおかげであった。 なぜなら、まさに教会の典礼生活こそが、彼に、殉教者や聖人、奇跡を行う者や信仰の証人、さらには天使たちからなる栄光に満ちた大群の一員として、謙虚な心で自分自身を感じさせる機会を与えてくれたからである。 教会は礼拝の際、単に義人たちの将来の至福で永遠の生活について語るだけでなく、教会の聖歌や朗読を通じて、誰もがキリスト教の敬虔さの模範に倣い、それらの模範に依拠して人生を築くならば、この義人たちの至福の生活を味わうことができると断言していたのである[189] 。 これは逆説的に思えるかもしれないが、ロシアの宗教性において、典礼は教義を二の次へと押しやっていた。この宗教性において主たるものは、信仰の内容ではなく、信仰の体験であった。これこそが、ロシアの宗教的魂の最も特徴的で重要な側面である。
古代教会やビザンチン教会は、数多くの聖人の実例を通じて、自らの教義の真実性と正統性を証明した。ロシア教会――第三のローマたる教会――も、同様の実例によって自らの正統性を証明できなかったのだろうか? ロシア正教会もまた、その義人たちに、この栄光の参加者としてキリストの御国を開き、ロシアの人々だけでなく、今やロシア正教会が正統信仰の中心となっている正教世界全体に対し、彼らの忠実さ、聖性、そして奇跡について語り伝えることはできなかったのだろうか? ロシアの聖職者階級と修道者たちは、キリスト教的 な苦行、宗教的熱意、そして奇跡の数々を数多く示してきた。「第三のローマ」には、独自のロシア版フィヴァイダと独自の苦行者たちがおり、ここで苦行に励むことは、エジプトやシリアのどこかでそうすることよりも決して容易ではなかった。 ロシア正教会には、すでに偉大なキリスト教的功績を成し遂げた聖人が数名いた。ロシア正教会の聖人列には、すでに全正教会の義人たちの群れの中で顕著な地位を占める、独自の民族的聖人たちが含まれていた。 しかし、多くの修道士たちはまだ人々に知られていなかったか、あるいは修業に励んでいたその地域でのみ知られていた。それゆえ、「第三のローマ」を築き上げた者たちにとって、聖人たちの功績を文書で証し、彼らを称えるという問題を解決することは、重要かつ責任ある課題であり、彼らのキリスト教徒としての義務であった。なぜなら、それはロシア教会の高揚に寄与するものであったからである。
最優先の課題は、ロシアの修行者たちの伝記を編纂することでした。修道界がこの事業の大部分を担いました。 16世紀初頭には、すでにいくつかのロシアの修道者や聖人の伝記が存在していたが、その数はまだ少なかった[190] 。この世紀の前半、主にマカリー大主教(1542–1563)の個人的な発案と指導のおかげで、ロシアの聖人伝は著しく充実していった[191] 。
ノヴゴロド教区を統括していた時期(1526–1542)に、マカリー大司教は、12巻からなる『大ミネイ・チェティイ』(各月ごとに1巻)の編纂という膨大な事業に着手した。 この作業は1529年から1530年にかけて開始され、1541年にマカリーは、両親の冥福を祈る供物として、この『ミネイ』をノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂に寄進した。 1542年に彼がモスクワ都主教に就任した際、この事業は完成に至り、1552年には新しい写本がモスクワのウスペンスキー大聖堂に贈呈された[192] 。 「この叢書の基礎となった『ロシアの地に存在するすべての聖なる書物を収集し、書き写す』という課題に照らせば、マカリーの『ミネイ』は、古ロシアの文献において最も大胆な試みである」とクリチェフスキーは記している[193] 。 この『ミネイ』には、当時ルーシで知られていた正教会のすべての聖人の伝記に加え、さまざまな禁欲的、教理問答的、説教的、そしていくつかの教会法に関する著作が収録されていた[194] 。
マカリイは、『ミネイア』においてロシアの聖人たちの伝記に相応しい位置を与えることが必要だと考えた。彼は周囲に助手たちを集め、彼らに命じてこれらの伝記を編纂させた。 マカリイが助手たちを、パフヌティエフ・ボロフスキー修道院での見習い時代以来、長きにわたり関わってきたヨシフ派の志向を持つ修道者たちの輪の中から探していたことは明らかである。 したがって、この時期に、ロシアの聖人伝文学における「ヨシフ派の学派」が形成されたと断言できる。この学派は、聖人伝 をヨシフ派の思想の精神に基づいて提示し、その内容においてこれらの思想に合致するか、あるいは「ヨシフ派」の色合いを帯びたような修道生活を描写することを目指していた。 このヨシフ派の聖人伝学派は、その著作が文学史において通常「マカリエフ版聖人伝」[195] と呼ばれるが、文学的および教会史的観点の両方において質にばらつきのある一連の聖人伝[196] を生み出した。第一に、 その理由は、第一に、伝記の編纂者たちの文学的才能にばらつきがあったこと、第二に、彼らが特定の教会政治的な概念に基づいて資料を加工していたことにある。
すでにノヴゴロドにおいて(1537年)、当時まだ大司教であったマカリイは、ボヤールの息子ヴァシリー・トゥチコフに、ミハイル・クロプスキー(†1456)の伝記を執筆するよう命じた。彼はキリストのために聖なる狂人となり、苦行者であり、ノヴゴロドの人々から深く崇敬されていた[197] 。
1545年頃、聖アレクサンドル・スヴィルスキー(†1533)の伝記が編纂されたが、これは古ロシアの聖人伝文学における至宝の一つである。 著者であるイラリオンは、アレクサンドル・スヴィルスキー修道院の院長であり、聖人の同時代人かつ弟子であった。彼は、歴史的に極めて正確でありながら、平易かつ表現力豊かな言葉で綴られた物語を著した。 この伝記では、聖アレクサンドルの奇跡に特に重点が置かれており、それらは修辞や空想を排した平易な口語で語られているため、読者や聴衆に特に深い感銘を与えた[198] 。この伝記は、アレクサンドルが列聖される前にすでに編纂されており、彼の列聖の基礎となった。
同時期、1545年から1546年頃、マカリー・サヴァ大主教の個人的な命により、ヨシフ・ヴォロコラムスキーの弟子であるクルチツキー司教が、ヨシフの伝記を執筆した。 この伝記もまた『ミネイ』に収録され、文学的な観点からも、古ロシアの聖人伝文学の傑作の一つに数えられる。歴史的事実が豊富で、文体も優れている。 ヨシフの像は非常に生き生きと描かれており、読者に消えることのない印象を与える。しかし同時に、この伝記には、ヨシフ派特有の教会・政治的な色合いが明確に表れている。 著者であるサヴァ司教は、自身もこの潮流に属していたため、ヨシフの異端との闘いに特に注目し、異端者に対する死刑に至るまでの厳しい措置の必要性を強調するとともに、すでに執行された処刑について大きな満足感を込めて語っている。 この伝記の編者はまた、ヨシフと大公たちとの緊密な関係についても言及しており、修道院長自身や彼の修道院の修道士たちが、モスクワの独裁者をいかに崇敬していたかを述べている。サヴァは、1547年、ツァーリの称号が導入される以前から、この独裁者を「神の油注がれた者」、 「ツァーリ」や「正教のツァーリ」と呼んでおり、これらの表現をヨシフの口にも語らせていた[199] 。
ほぼ同時期、あるいは数年前、1540年から1546年の間に、ヨシフの伝記が執筆された。これは「匿名著者の伝記」と呼ばれているが、それは現在に至るまでその著者の名前を特定できていないためである。 多くの研究者は、この伝記の著者をオテン修道院の修道士ジノヴィイであると見なす傾向にある。 この推測は、ジノヴィイの生涯におけるいくつかの事情と、その伝記の内容に基づいている。ジノヴィイはヨシフ派の思想を共有しているものの、ノヴゴロドの異端に対する非難にはある程度の節度を示しており、ヨシフの異端との闘いを称賛しつつも、異端者に対する処罰については非常に控えめに述べている。 修道院の所有地に関する問題では、著者は完全にヨシフ派の立場を採っているが、修道院の村々に関する「非所有主義者」たちの見解に対する批判については控えめである。 この伝記では、外面的禁欲の重要性が強調されており、ヨシフと、ヨシフ修道院の修道士カッシアン・ボソイ([200] )の禁欲的実践において、この点が際立っている。
ヨシフの第三の伝記は1547年に執筆された。著者はヨシフの甥である修道士ドシフェイ・トポルコフであり、この伝記は聖人への賛美を目的としている。その内容や全体的な精神において、これは純粋なヨシフ派の著作である[201] 。
ヨシフに関する聖人伝がこれほど多く存在することから、マカリイ大主教が1547年の公会議においてヨシフ・ヴォロツキーを称賛する意図を持っていたと推測される。 これは、大主教がヨシフォフ修道院の修道士フォティイにヨシフのためのカノンを編纂するよう命じ、それを「公会議の規定による祝祭が行われるまで」私的に歌うことを許可した事実からも明らかである[202] 。
ヨシフ・ヴォロツキーは1515年9月15日に帰天したが、1547年および1549年の公会議では 彼は列聖されず、1578年12月20日にようやく地方的な列聖が行われた。つまり、彼の修道院ではもはや彼のための追悼礼拝は行われなくなり、礼拝の中で彼は聖人として祈られるようになったのである。 ヨシフの公式な列聖は1591年にヨブ総主教によって行われ、総主教はヨシフのためのカノンの作成を承認し、その名を『ミネイア』に収録した[203] 。
ヨシフ派の苦行を称賛する記述は、前述の修道士カッシアン・ボソイ(†1542)の伝記にも見られる。彼は過酷な寒さに耐えることで修行に励んだ厳格な修道士であった。その伝記は、カッシアンの死後まもなく、アルヒマンドリト・ヴァッシアンによって執筆された[204] 。
ヨセフ派の聖人伝を締めくくるのは、1547~48年に修道士ドシフェイ・トポルコフによって、おそらく同じく大主教の指導の下で執筆された『ヴォロコラム修道院のパテリク』である。このパテリクには29の物語と、ヴォロコラム修道院の創設の歴史が簡潔に述べられた序文が含まれている。 そのうち5つの物語はヨシフに捧げられており、修道生活や修道院生活、キリスト教的禁欲主義の基礎に関する彼の発言が収録されている。その際、他の修道生活形態に比べてキノヴィア(共同生活)の優位性が強調されており、これらの発言はイグメン・ヨシフ自身の言葉として『パテリク』に収録されている。 その他の物語は、イグメン・パフヌティイ・ボロフスキー、あるいはヨシフ自身の視点から書かれている。これらの物語はすべて、ヴォロコラム修道院における修道生活を描写するものであるはずだが、実際にはその内容に独創性はなく、古代ルーシで広く普及し、非常に人気があった古代キリスト教のパテリクからの影響が顕著に見られる。 この『パテリク』全体を通して、ヨシフ派の世界観が赤い糸のように貫かれている[205] 。
ヨシフ派による精力的な聖人伝執筆活動、そしておそらく、多くのロシアの修行者たちの列聖問題を決定することになっていた公会議の準備に関する噂、 そして当時の時代背景――古ロシアの修道界における二つの潮流(ヨシフ派と非所有派)の間で絶え間なく続いていたイデオロギー的対立――が、非所有派をも聖人伝の執筆へと駆り立てたのである。 一方では、彼ら自身の間にも多くの立派で称賛に値する修行者がいたことを示したいと考え、他方では、おそらくヨシフ派の思想の広がりに歯止めをかけようとしていたのだろう。
ネスティャジャテリ派と密接な関係にあり、厳格な修道生活で知られていたベロゼルスク修道院の修道士マタイは、同修道院の創設者であるイグメン・フェラポント(†1426)の伝記を著した。 この『行伝』が特に興味深いのは、その著者が共同生活の理念を支持し、修道士による個人的な肉体労働の必要性を強調し、非所有主義を擁護している点にある。修道士マテイは、ベロゼルスクのイグメン・マルティニアヌス(†1483)の『行伝』も執筆した。 この伝記は、イグメンを聖キリル・ベロゼルスキーの禁欲的見解の支持者として描き出し、大公たちとの な関係において、特に彼がトロイツェ=セルギエフ修道院の院長職を一時的に代行していた時期( (1447–1455)において、彼の無欲、精神的な落ち着き、節制への傾倒を強調し、マルティニアンが内面的禁欲を最も重要視していたこと、すなわち、あらゆる点において彼をニール・ソルスキーの思想と結びつける特徴が表れていると述べている。 両方の伝記は1547年から1549年の間に執筆された。[206]
1547年頃、ヴォルガ川以東の修道界で、スパソ・カメンヌイ修道院の修道士イオアサフ(† 1483)の伝記が登場した。 この伝記によれば、公爵家の出身であったイオアサフは、生涯を誘惑との闘いと内面的修養に捧げた厳格な修行者の典型であり、愛をキリスト教における最高の美徳と見なし、外的な禁欲や修道院の所有財産を拒絶していた。 この伝記には、イオアサフの神秘的な幻視に関する非常に興味深い記述が含まれている。啓示の中で彼に現れた救い主は、謙遜と柔和こそが誘惑と戦うための最良の手段であると語った[207] 。
両派の代表者たちが執筆した聖人伝は、古ロシアの聖人たちの偉業を描いており、これは16世紀初頭において画期的なことだった。マカリー大主教にとって、ロシア教会――「第三のローマ」たる教会――の誕生からその栄光を称えるような資料を収集することが重要であったことは明らかである。 まさにこの時期、1440年代末から1450年代初頭にかけて、ルーシの洗礼を執り行った聖ウラジーミル大公と、聖オルガ大公妃の詳細な伝記が編纂された[208] 。 ウラジーミルの伝記には、彼の治世全体について非常に詳細な記述(全72章から成る)が含まれており、その編纂当時の特徴的な教会・政治的見解が反映されている。また、この伝記ではモスクワ大公の系譜に関する問題にも触れられ、ウラジーミル公とローマ皇帝アウグストゥスとの血縁関係が強調されている。 この『伝記』は、この時代に編纂された膨大な叢書である『ステペンナヤ・クニガ』に収録されたが、これについては後述する。
大司教の命により、ウラジーミルにあるロズデストヴェンスキー修道院の修道士ミハイルは、すでに存在していたアレクサンドル・ネフスキー公の伝記を補完・改訂し、それを一種の聖人賛歌へと変えた[209] 。 賛美の形式で伝記を編纂することは、おそらく当時の人々の考え方に完全に合致していたのでしょう。というのも、1547年頃、マカリーの命により、同様の趣旨でモスクワ都主教イオナ(†1461)の伝記[210] およびトロイツェ=セルギエフ修道院のイグメン・ニコン(†1426)の伝記が編纂されたからです。 トロイツェ=セルギエフ修道院のイグメン[211] の伝記も、同様の精神で作成された。これら2つの伝記はいずれも、著者が不明である。
『ミネイ』には、15世紀の2人の著名な修道者の伝記が収録されている。 その一つは、すでに我々が知っている厳格な禁欲者パヴェル・オブノルスキー(†1429)の伝記であり、1536年から1538年にかけて名も知れない修道士によって執筆され、その後1547年に、彼の奇跡に関する記述が補足されたものである[212] 。 二つ目は、トヴェリ州カシナ市の近郊にあるトロイツキー・カリアジンスキー修道院の修道院長、マカリイ(†1483)の伝記であった。裕福なボヤール家の出身であったマカリイは、世俗からの完全な離脱、断食、そして謙遜に満ちた厳しい修道生活で知られていた。 生前からすでに同時代の人々から敬愛され 、後世の人々も彼を崇敬した[213] 。彼の聖遺骨は1521年に発見された。大主教の命により、カリアジン修道院の名の知られていない修道士が、非常に優れた、内容の充実したマカリイの伝記を著した。 この修道士こそが、おそらく彼の遺骨発見に関する物語の著者であったと考えられる。というのも、マカリイは、死後の数々の奇跡のおかげで、すでに長い間、その地で聖人として崇められていたからである[214] 。
これらすべての聖人伝は、マカリー大主教の主導により、単に彼の『ミネイア』を補完するためだけでなく、主に、モスクワで公会議を招集し、その公会議において、地元で崇敬されている多くのロシアの敬虔な修道士たちを聖人の列に加え、厳粛に列聖するという彼の意図を後押しするために執筆されたのである。 数多くのロシアの修道士、聖人、そして敬虔な公爵たちを称えることは、教会と国家の威信を高め、「第三のローマ」としてのモスクワの栄光を確固たるものにするはずであった[215] 。
1547年、モスクワでこの公会議が開催された――当時の文書にあるように、大公イヴァン4世の「命により」である[216] 。聖人伝の朗読[217] およびその信憑性の検証を経て、公会議は21人の敬虔な修行者を列聖することを決定した。 そのうち12人は全ロシアで崇敬されることとなり、9人は地域で崇敬される聖人として列聖された[218] 。新たな聖人たちの列聖の根拠は、現在まで伝わっていない。 「おそらく、公会議がこれら特定の聖人たちの祝日を定めたのは、彼らだけを称賛と列聖に値する者と認めたからではなく、単に彼らについて必要な資料が手元にあり、それに基づいて決定を下すことができたからである」[219] 。
マカリー大主教も、若きイワン皇帝も、司教たちも、この決定に完全には満足しておらず、ロシア教会の権威を強めるはずのロシアの聖人の数をさらに増やそうとしていたことは、2年後の1549年に、 モスクワで、やはりもっぱら列聖の問題に専念した新たな公会議が開かれた[220] 。奇妙なことに、この第二回公会議の活動に関する信頼できる文書は、私たちには一切伝わっていない。 ミトロポリト・イオナの伝記における挿入部分に基づいてのみ、列聖された聖人たちの名前を知ることができるが、この挿入部分は必ずしも信頼できる情報源ではないことに留意すべきである。 1549年の公会議では、教会の7人の聖職者、6人の敬虔な父たち、 の修道院長および新しい修道院の創設者、3人の殉教者、そして1人の公爵、計17人の聖人が列聖されたと推測できる[221] 。つまり、これら2つの公会議において、38人の敬虔な修行者が列聖されたことになる[222] 。
両公会議の目的は、ロシア正教会とモスクワ王国を「第三のローマ」として高揚させることでしたが、マカリー大主教は、同時代人だけでなく将来の世代の目にも、「第三のローマ」における教会と政治の内的な調和を正当化するために、もう一つの重要な事業に着手しました。 彼の治世下で、膨大な教会・国家・歴史に関する叢書『ステペンナヤ・クニガ』が編纂された。この書物には、教会的な観点から綿密に練り上げられたモスクワ国家、「聖なるルーシ」の歴史が収められていた。 この聖人伝的・伝記的な性格を持つ叢書には、モスクワ王朝の創始から大公イヴァン3世の治世の終わりまでの君主たちの事績に関する記述が収められ、キリスト教・教会の観点からその評価が示されていた。 「この著作は、古いロシアの年代記、クロノグラフ、その他の歴史的資料を、年ごとの単純な時系列記述ではなく、統治王朝の系譜に基づいて、新たな原則の下で深く再構成したものである」[223] 。 『ステペンナヤ・クニガ』とは、モスクワ王朝における「キリスト教の専制君主」たちの伝記を集めた書物であり、ルーシの政治史を扱った聖人伝である。この書物には架空の出来事に関する記述も含まれていたものの、その編纂者たちにとっては、完全に真実かつ確かなものとして映っていた。 「君主という姿に体現された国家の理念は、ロシア正教会の偉大さ、ひいてはロシア国家の偉大さという理念と融合していた。そのため、この書物には、ツァーリや公爵の伝記に加え、大主教や司教、聖人の伝記も収録されたのである」[224] 。
この壮大な著作の編纂には多くの著者の参加が必要であったが、その中でもおそらく最も重要な役割、すなわち編集者の役割を果たしたのは、モスクワの司祭アンドレイであった。彼は皇帝の霊的顧問であり、後にモスクワ都主教となった人物である。 この叢書の編纂者たちの中には、私たちには知られていないモスクワの修道者たちが多く含まれていた。というのも、文学的創作に取り組むことのできる人材は、この環境の中にしか見出されなかったからである。しかし、この事業全体の発起人であり指導者であったのは、マカリイ大主教であった。『ステペンナヤ・クニガ』の最終編集は、マカリイの晩年(†1563)に行われた。 『ステペンナヤ・クニガ』は、他のいかなる文献よりも、「モスクワは第三のローマ」という思想が、[225] の視点にいかに深く根付いていたかを如実に物語っている。
このように、この著作は、「モスクワ=第三のローマ」という思想の創始者および説教者たちによる、ほぼ1世紀にわたる世界観の創造の時期、そして2~3世代にわたる教会階層や修道者たちによる画期的な精神的活動の集大成となっている。 この世界観は、多かれ少なかれ、後世の皇帝や教会指導者たち、聖職者や修道者、詩人や作家、政治家や社会、そしてロシアの放浪者や農民たちに影響を及ぼした。 修道士フィロフェイとその同時代人たちが正しかったか否かは、ここでは論じない。その答えを出すには、ロシア正教会とロシア国家のその後の歴史全体を辿らなければならないからだ。私たちにとって重要なのは、ロシアの修道者たちがこの教会・政治的構想の構築にどれほど尽力したかを示すことだけだった。
1503年の公会議の決議――これについては第IV章で述べた――は、ヨシフ派の思想の勝利を象徴するものであった。 この時から、ヨシフ派はモスクワの教会生活において主導的な役割を果たすようになったが、彼らの敵対者である非所有派も闘志を失うことはなかった。彼らはすぐに、ヨシフとその支持者たちの勝利が、政府を特に喜ばせていないことに気づいた。 数十年後、モスクワ政府は、国家政治的および経済的利益に基づき、修道院の土地所有権の問題を再び取り上げざるを得なくなり、1503年の公会議の決定を撤回するまではいかなくとも、少なくとも国家の利益のためにその見直しを行うことになった。 ニールとパイシイの功績は、1503年の公会議における彼らの発言によって、政府の注意を修道院の所有地に向けさせ、この問題を純粋な教会生活の領域から国家経済的利益の領域へと移行させた点にあった。
この問題には、今や非所有派、ヨシフ派、そして政府のすべてが関与するようになった。 前者は攻勢的な立場を取り、政府は何らかの措置を講じて問題の解決を図ろうとした。一方、ヨシフ派は守勢的な立場を取り、一方で非所有派を打ち負かすことに成功し、他方で、修道院の所有地の拡大に対する政府の措置が中途半端なものに留まるよう仕向けた。
1503年の公会議は、非所有派にとって、修道院の所有地が修道院の正常な生活に有害であるという見解を広めるための闘争の始まりとなった。ニル・ソルスキーとパイシイ・ヤロスラヴォフの両長老は、この闘争や論争には参加しなかった。 彼らは公会議の直後に亡くなった。一人は1508年に、もう一人は1503年以降に亡くなった。修道院の所有地に関する問題は、両長老にとって原則的かつ純粋に禁欲的な意義を持つものであり、ヨシフ・ヴォロツキー自身もこれを認めていた[226] 。 しかし、ニルの死後、修道院の所有地に反対した「非所有派」の代表者たちは、他にも別の考慮事項を念頭に置いていた。
「非所有派」の身分的背景に注目すれば、この修道者グループがモスクワ公国のボヤールや従臣貴族と密接な関係にあったことが明らかになる。 15~16世紀の多くのロシアの修行者は、ボヤールや従事貴族の家系に由来しており、これについてはすでに第3章で述べた通りである。まさに15世紀の最後の四半世紀に、この階級の多くの代表者がボヤールの衣装を修道服に替え、ヴォルガ川以東の修道院、主にキリロ=ベロゼルスキー修道院へと向かった[227] 。 ヨシフ派のイデオロギーの経済的側面が、ボヤールや従軍貴族の利益と対立していたことを忘れてはならない。 ボヤールや貴族の所有地を原資として修道院の富が増大することは、この階層の人々にとって極めて望ましくないことだった。なぜなら、それによって彼らの階級の国家的・政治的、そして経済的な重要性が低下したからである。したがって、非貪欲主義者たちの間に、この社会階層から出てきた修道士がこれほど多くいたとしても、驚くことではない。
しかし、この修道士グループを無所有派の側に導いたのは、経済的な理由だけではなかった。ヨシフ派に対する彼らの敵意には、政治的な理由も存在していた。というのも、ヨシフ派はモスクワの君主たちの権勢の拡大や、その専制的な権力の強化を熱心に後押ししていたからである。 15世紀の最後の四半期に国家統治において重要な役割を果たしていた古ロシアのボヤール階級にとって、これらの新しい思想は、ボヤール階級の重要性を軽視し、その階級的誇りを深く傷つけるものであったため、異質であり受け入れがたいものであった[228] 。 「モスクワは第三のローマ」という思想は、ヨシフ派から熱烈な 支持を得たものの、教会階層の影響力拡大に共感できなかったボヤールたちの間では共感を呼ぶことはなかった。
当然のことながら、ヨシフ派の反対者である「非貪欲派」は、フィロフェイの教会・政治的イデオロギーを受け入れることに特に前向きではなかった。「モスクワ正教王国」に関する預言のために、彼らは自らの禁欲的な理想や、天界と地上の分離の必要性に関する考えを犠牲にしたくなかったのだ。 このロシアの修道者グループは、ボヤール層の中に支持者や追随者を見出した。長老のパイシイ・ヤロスラヴォフ、ニール・ソースキー、 インノケンティ・オフレビニンといった、すでに我々が知っている、ヴォルガ川下流の森林地帯における禁欲的・神秘主義運動の創始者や指導者たちは、厳格な修行者でありキリスト教の理想主義者であった。彼らの見解は、同時代の人々の世俗的な事柄に対する見解に左右されることはなく、経済的な考慮も彼らには何ら影響を及ぼさなかった。 しかし、彼らの追随者たち、すなわち16世紀前半の「無欲者」たちについては事情が異なっていた。当時、彼らの数少ない隠遁地では、政治的影響力を失いつつあったボヤール階級出身者たちが多数、修道誓願を立てていたのである。 粗末な修道服は、彼らの階級的誇りや傲慢さ、そして貴族の血に宿る情熱を鎮めることはできなかった。彼らはヨシフ派と、非所有主義者たちのいくつかの思想をめぐって争ったが、修道院の所有地問題をめぐる論争に彼らが参加した理由については、一概に評価することはできないことを忘れてはならない[229] 。
この論争の中心人物は、修道院の富の蓄積に反対した唯一の人物ではなかったものの、「修道士公」ヴァッシアン、俗名ヴァシーリー・イヴァノヴィチ・パトリキーエフ・コソイであった。その出自と聖職の地位から、彼はモスクワ大公の宮廷において最も名門なボヤール家の一つに属していた。 パトリキーエフ公爵家の始祖は、リトアニア大公ゲデミナス(1315–1341)の孫であり、1408年にモスクワへ赴き、大公ヴァシーリー1世に仕えた。 彼の子供や孫たちはすでにパトリキーエフ公と称され、大公の宮廷で要職に就いていただけでなく、大公と血縁関係にもあった。 ユーリー・パトリキーエフ公はヴァシーリー1世大公の娘と結婚し、その息子でヴァッシアンの父であるイワンは、ヴァシーリー2世およびイヴァン3世大公の宮廷において首席ボヤリンを務めた[230] 。イヴァン3世は、若きヴァシーリー・イヴァノヴィチ公に対し、度々様々な外交任務を委ねた[231] 。 しかし、1499年初頭、パトリケエフ家の公爵たちは宮廷における影響力を失った。 大公家の相続をめぐる争いにおいて、彼らはモスクワのボヤール階級の伝統に忠実に、「ギリシャ人」である大公妃ソフィアに反感を抱き、大公の息子であるヴァシリーではなく、孫のディミトリを王位継承者として支持し、 ヴァシリーではなく、大公の孫であるディミトリを王位継承者として支持し、陰謀や公然とした王朝争いにも加わった[232] 。ディミトリの支持者の中には処刑された者もいた。 パトリケエフ親子は、大主教の取り成しのおかげで死刑を免れたが、大公は二人を修道士にさせるよう命じた。息子は、修道名ヴァッシアンを名乗り、キリロ=ベロゼルスキー修道院へ追放された[233] 。
そこで、修道院の塀の内側で、彼の新しい生活が始まった。しかし、ヴァシアンは修道院に長く留まることはなかった。おそらく、修道院の規律が彼の性格にあまり合わなかったため、彼は自分専用のスキート(小修道院)を建て[234] 、同じ地域にあるスキートに身を隠していた長老ニル・ソースキーと知り合った。 この出会いを経て、ヴァシアン(もっとも、以前からこの教導に長けた長老の評判を耳にしていた可能性もある) は、無所有主義者たちとその禁欲的な思想の熱心な支持者となった。とはいえ、特に自身の生活様式に関しては、その思想を完全には共有していなかった。 ニールとヴァッシアンは全く異なる人物であり、彼らの生き方もまた異なっていた。 ヴァッシアンは自らをニールの弟子の一人と見なしていた[235] が、それはおそらく禁欲的な修行という意味ではなかったようだ。なぜなら、心優しく、霊的な実践や瞑想を好むニールには、モスクワのボヤリンであるヴァッシアンの高慢でエネルギッシュかつ情熱的な性格を変えることはできず、彼に修道者の謙虚さを植え付けることもできなかったからである。 ヴァシアンは、その著作から判断するに、多くのことを学んだが、ニールや、より広く言えば無欲の長老たちから受け継いだのは、彼らの原則的な見解や思想に過ぎなかった。それは、それらを修道生活における真の理想として擁護するためであり、自らの生活においてそれらを指針とするためではなかった[236] 。 ボヤール家の出身である彼の、わがままで活動的な性格は、修道院の独房での孤独な生活には耐えられなかった。彼には、ニールの思想を実際に実践できる活動の場が必要だったのだ。
修道士となった公爵ヴァッシアンの生涯と活動を振り返ると、彼が16世紀ロシア史において最も興味深い人物の一人であったことがわかる。彼は独特な人物であり、その性格と活動には、傲慢さと情熱、 自らの理念への献身と、イオシフ・ヴォロツキーおよびイオシフ派に対する敵意;時代に制限された学識と、批判的・論争的な気概;キリスト教的禁欲主義の原則の承認と、自身の生活における非禁欲的な生き方; 最後に、修道院の領地や国家・政治問題に関するヴォルガ川以東の修道士たちの見解への支持――彼は、敵の方が強く、自分には勝利の望みがほとんどないことを理解しつつも、自らの信念と所属する派閥のために、粘り強く、そして執拗に戦った人物であった。 さらに、彼の運命がすでに決まっていたときでさえ、彼はボヤールらしい気質に忠実に、判決を皮肉と冷笑をもって受け止めた。
1503年の公会議の決議は、ニールの提案に反して修道院の土地所有権を再確認するものであったが、これはヴァシアンにとって、修道者の無所有主義を擁護し、ジャーナリズムという武器を用いてニールの禁欲的な見解を擁護する絶好の口実となった[237] 。 ヴァッシアンは当時の状況を十分に把握しており、世俗から隔絶された砂漠から戦いを挑む限り、ヨセフ派との闘いが絶望的であることを理解していた。勝利を誇示するヨセフ派との論争を行うには、モスクワこそが唯一の適切な場所であった。 一部の見解のように、ヴァシアンが1503年の公会議の会議に出席していたかどうかは定かではない[238] 。ヴァシアン自身は、公会議の活動への参加について直接言及していない。おそらく、彼は大公イワンの死(1505年10月)後にモスクワに到着したのだろう[239] 。 ヴァシアンは大公宮廷とすぐに良好な関係を築いた。彼は新大公ヴァシリーの好意を勝ち取っただけでなく、統治の事柄においても彼に影響力を及ぼしていた[240] 。 この点に関連して 、ヴァッシアンが新任のヴァルラアム都主教(1511–1521)の就任に何らかの役割を果たしたのではないかという疑問は妥当である。この就任は、ヴァルラアムを都主教の座に推挙した大公の命令により、司教会議を経ずに実行された。 興味深いのはこの事情だけでなく、ヴァルラアムが非所有主義者に共感し、当時ヴァッシアンが住んでいたシモノフ修道院の院長であったという事実でもある。ヴァッシアンは、この誠実なイグメンをよく知っていた。 おそらく、ヴァッシアンが大公ヴァシリーに対し、ヴァルラアムを大主教の座に推挙するよう提案したのだろう。もし事態がまさにその通りであったとすれば、これはヴァシアンの大きな功績である。なぜなら、ヴァルラアムはモスクワ・ルーシの教会階層における最も優れた代表者の一人だからである[241] 。
ヴァッシアンの文学的・論争的な活動は、主に1508~09年から1515~17年の間に集中している。[242] ヴァッシアンの以下の著作が現存している:1) 「ニラとその弟子ヴァッシアンによる、ヴォロツクの修道院長ヨシフへの序文――神と祈りについて理解し、注意を払うことについて」;2) 「福音の真理を誹謗する者たちに対する反論、および修道生活と教会の体制について」;3) 「ニル・ソルスキーの弟子ヴァシアンによる、ヴォロツクのイオシフに関する著作集。聖ニコンの規則[243] および多くの言葉に基づいて編纂されたもの」;4) 「同修道士・隠遁者ヴァシアンによる、ヴォロツクのイグメン・イオシフに関する著作集。聖なる規則および多くの書物から編纂され、その弟子たちへのもの、ならびに書物に基づく彼ら間の様々な応答を含む」 (この著作はヴァシアンとヨシフとの対話を構成しており、2および3の著作に対する一種の後書きである)[244] 。 ヴァッシアンが自身の『コルムチャ』のあとがきとして著した特別な「論考」――極めて簡潔な著作5)『ある長老による、聖書に基づく世を拒むという自身の誓いを想起するための集録』[245] 。 そして最後に、6) 彼の『コルムチャ』である。これは、古ルーシの教会が用いていた最も重要な教会法書に対する批判的改訂版である[246] 。ヴァッシアンは、この書物が他の著作で述べられた自身の見解を決定的に裏付け、非所有主義者たちの紛れもない正しさを証明するものであると考えていた。
ここに挙げたヴァッシアンの著作は、内容においてそれぞれ異なっている。「序文」(1)は、一般的な問題について論じている。 ここで著者は、とりわけ祈りについての見解を述べており、それはニール・ソルスキーの禁欲的・神秘主義的な見解と完全に一致している。すなわち、祈る者にとっての祈りとは、霊的な戦いにおける武器であり、自らの「内なる檻」に入るための手段であり、その深さと力は、祈りの歌の美しさにあるのではない。 ヴァッシアンにとって、この主張は彼の禁欲的な見解の表現であるだけでなく、ヨセフ派の形式主義的な外面的 な敬虔さに対する批判でもある。 『答弁の言葉』(2)は、ヴァッシアンの論争の原則と性格を特によく反映している。彼はここで、修道誓願の形式的な解釈を批判し、修道士が外見上だけでなく、内面的にも、その禁欲的(修道院的)生活においてキリストの戒めを守ることを求めている。 これらの戒めは、自己否定と自己犠牲、この世の富や価値からの離脱を要求する。しかし実際には、修道院が農民が住む土地を所有し、それに伴う経済的な管理業務を抱えているため、ヴァッシアンの見解によれば、修道生活はキリストの戒めを完全に忘却した状態で営まれている[247] 。 福音に従って修道生活を整える必要性について語る際、ヴァッシアンには明確な目的がある。すなわち、修道生活をそのキリスト教的な禁欲主義の源流へと回帰させることである。「我々は、最初の霊的な美しさと滋養へと立ち返りたいと願う」[248] 。 この著作において、ヴァッシアンは特定の禁欲主義的潮流の代表者として、また自身の個人的な霊的体験の表現者として我々の前に現れる。一方、彼の別の著作である『聖人たちの規則集』(3)は、典型的な批判的・論争的な著作であり、「財産を蓄える者たち」、とりわけヨシフの主張を反駁しようとする試みである。 ヨセフは、修道院の所有地の必要性と容認可能性に関する自身の主張を、古ロシアの修道院創設者や敬虔な修行者たちの行伝からの例を挙げて正当化していた。 ヴァッシアンは、古代キリスト教の修道士――エジプトのパホミオス、エウフィミオス、サヴァ、パレスチナのテオドシオス――の行伝[249] を引用してこれらの論拠に異議を唱え 、これらの古代キリスト教の修道士たちは無所有を貫き、極度の困窮と世俗の富の放棄の中で生活していたと記している。 ヴァッシアンは、これらの修道士やその他の修道士たちが、修道院の院長として修道院の所有地を一切保有していなかったと主張しているわけではない。彼はただ、「彼らは村々を所有していたが、それらに対する執着は持っていなかった」と述べているに過ぎない。 ヴァッシアンは、教会機関の土地所有権を否定しておらず、教区司教や教区教会にそのような権利を認めている。彼が求めているのは、これらの所有権およびその利用が教会法に反しないことだけである[250] 。 しかし、修道生活においては、彼の確信によれば、いかなる財産的欲求も排除されるべきであり、この点において彼はニロスの忠実な追随者である[251] 。なぜなら、ヴァッシアンの見解によれば、修道院の所有地は、たとえそれがごくわずかなものであっても、修道士たちに新たな取得への欲望を掻き立てるからである: 彼らは、懇願や欺瞞によって富裕層から修道院への寄進を強要し始め、取るに足らない土地の切れ端をめぐって隣人と訴訟を起こし、さらには文書の偽造や当局への欺瞞にさえ躊躇しない[252] 。
裕福で権力志向の強いボヤール階級出身であるヴァッシアンにとって、自身の論争において純粋に社会的な問題、すなわち修道院の農民の地位に関する問題を提起しているという事実は、極めて特異なものとなっている。 このように、農民問題において、修道士であるヴァシアン・パトリキーエフ公は、ロシア初の自由主義者となった。彼は修道界、とりわけ修道院の院長や修道院の領地を管理していた修道士たちに対し、修道院の農民の労働力を搾取していることを非難した。 彼は、修道士たちの豊かで安楽な生活と農民たちの過酷な生活を対比させ、農民たちの過酷な日々の労働、質素で乏しい食事、劣悪な住居、そして修道院への貧困と負債――それが農民の隷属化を招いていること――について述べている[253] 。
ヴァッシアンの論争的な著作を読むと、彼がどれほどのエネルギーと情熱をもってこれらの問題の議論に没頭していたかがわかる。純粋に原則的な議論や、ニル・ソルスキーのような禁欲的な修行を積んだ修道士たちの冷静さでは、ヴァッシアンを満足させることはできなかった。 ヴァッシアンの著作からは、彼の熱きボヤールとしての血の沸き立ち、情熱、妥協を許さない姿勢、そして敵対者であるイオシフ派( )に対する怒りが感じられる。彼の言葉は鋭く、評価は的確である。たとえ孤立し、自身の立場(これについては後述する)がほぼ絶望的であると悟った時でさえ、彼は一歩も引こうとはしなかった。 このため、彼はモスクワで多くの敵を作り、彼らから厳しい評を下された。さらに、教会史家たちからも、辛辣で、ある意味では不当な批判が待ち受けていた[254] 。
1503年から1517年にかけての著作執筆当時、ヴァッシアンは、もし彼の見解がミトロポリス・ヴァルラアムから一定の共感を得ておらず、大公からの暗黙の支持も得ていなかったならば、自らの大義のためにほぼ孤軍奮闘する立場に置かれていたであろう。 1517年以降、ヴァッシアンは新たな支援を得ることとなり、アトス山の修道士であり、著名なマクシム・グレクという同志を得た。アトス山のヴァトペド修道院に所属するこの外国人修道士は、まったくの偶然でモスクワにたどり着いたが、傑出した人物であり、ロシア正教会の歴史における重要な人物であった。 「尊者マクシムは」とゴルービンスキーは記している。「わが教会の歴史において、一方ではまったくの偶然の人物である一方で、その歴史において著名であるのと同じくらい、その学問に対しても重要な人物である」[255] 。
マクシムがモスクワに到着するまでの生涯に関する情報は断片的で、信頼性に欠ける[256] 。彼は1470年から1475年の間に、アルバニアのアルタという町で、ギリシャ人の家庭に生まれた。両親は、息子がイタリアで長期にわたる学業に励む間、その生活費を賄うことができたことから、おそらく裕福な家庭であったと考えられる。 マクシムスはヴェネツィア、フェラーラ、パドヴァ、フィレンツェなどの都市を訪れ、そこでイタリアの学問界を代表する優れた人物たちから学ぶことができた。 彼はキリスト教の著作だけでなく、古典文学(ヘシオドス、ホメロス、フキディデス、プルタルコス)や、ギリシャの「外部の哲学者」たちの著作(「外部の賢者たちによって編纂されたもの」)も研究しており、これは彼の著作や、大公ヴァシリーへの書簡[257] からも明らかである。 当時のマクシムの人生における最大の出来事は、サヴォナローラとの出会いであった[258] 。若きギリシャ人は、自分自身がフィレンツェの説教者の悲劇的な運命を辿り、その不屈の精神と道徳的な偉大さに匹敵することなど、夢にも思わなかった。 おそらく、最晩年、マクシムスは心の中で彼の運命を模範として思い描き、この「聖なる熱意に満ち、神聖な情熱によって十分に飾られた修道士」への回想の中に慰めを見出していたのだろう[259] 。「外的な哲学者たち」はマクシムスを完全には満足させることができなかった。 キリスト教、すなわち東方教会の教えに深く根ざしていた彼は、教会神学や正教の教義を徹底的に研究しようと努め、また内面的なキリスト教的完成も求めていた。そして1507年頃、彼はアトス山へと向かった。当時、アトス山の修道士たちは正教の砦となっていたからである。
そこは、イタリア・ルネサンスの人文主義的な雰囲気とは全く異なる世界――静寂と、アトス山の修道院、スキト、ケリヤに特有の生活様式が息づく世界であり、そこでは11世紀、16世紀、19世紀を問わず、修道士たちの暮らしはほぼ同じであり、 ――彼らの生活は、イタリアの都市の賑やかで雑多な喧騒とは全く異なっていた。ヴァトペド修道院で、マクシムは神学の研究に没頭できる安息の地を見出し、ここで修道誓願を立て、修道衣をまとう。 アトス山で、マクシムは人間として、また学者・神学者として形成されていく。彼は正教会の神学の分野において、極めて広範かつ確固たる知識を身につけ、その知識の全貌は彼の著作からうかがうことができる。 しかし、聖山の雰囲気は、イタリアでの研鑽の成果を決して打ち消すものではなかった。彼の学識には、古典哲学とキリスト教神学の知識が見事に融合しているが、教会や教父たちの教えは、マクシムにとって主要かつ揺るぎない権威であった[260] 。 マクシムスのヴァトペド修道院における学問的研鑽は10年間続いた [261] 。聖山の住民たちの目には、彼は大きな神学的権威を確立していた。なぜなら、根拠なくして彼に重要な任務が委ねられたわけではないからである。
1515年、大公はアフォン山へ二人の使者を派遣し、聖山のすべての修道院への贈り物と、聖山の聖職者長宛ての手紙を携えさせた。 大公は、スラヴ語に精通したサヴァという名の修道士を、しばらくの間モスクワへ派遣してほしいと彼に要請した。大公の図書館で、注釈付きのギリシャ語の詩篇集が発見され、大公はその翻訳を望んでいたからである。 サヴァ修道士は病気と老齢のため、これほど遠く困難な旅に出ることはできなかった。そこで聖山の大修道院長は、スラブ語もロシア語も話せないマクシム修道士をこの任務に選んだ。 しかし、彼の能力と言語学的な素養を知っていた聖職者アルヒマンドリットは、修道士マクシムがスラブ語を非常に早く習得し、大公の願いを叶えることができるだろうと期待し(その旨を大公への返書にも記した)。 こうして、修道士マクシムはまったく予期せぬことに――彼自身は一時的なものだと考えていたが――ヴァトペド修道院を離れ、モスクワへ向かうことになった。 しかし、彼が聖なるアトス山を永遠に去ることになること、そしてモスクワで彼を待ち受けるのは、彼をルーシの宗教史における最重要人物へと押し上げつつも、予期せぬ展開と悲劇的な結末を伴う、異例の運命であるとは、彼には想像もできなかった[262] 。
1518年3月4日、比較的長い旅の末、マクシムはモスクワに到着した。彼の人生にはまったく新しい時代が幕を開けた。それは、一方で彼に広範な尊敬と非公式な称賛をもたらしたが、他方では、ヨシフ派に傾倒した教会指導層からの多くの苦難と不当な迫害をもたらした。 彼自身の運命は、16世紀のロシア教会史の出来事と密接に絡み合っており、彼は自身の著作や、「第三のローマ」であるモスクワにおける教会の状況に対する批判の中で、この歴史を見事に描き出している。 彼の著作の多くは、その時代のロシア修道生活史に関する極めて重要かつ信頼できる資料となっている。それらは、深い神学的知識を持ち、聖山の修道院の生活を観察し、自らもその生活を送っていた正教会の修道士によって書かれたものであり、だからこそ正しい評価を下すことができたのである。 彼とモスクワの教会指導部との対立は、その指導部だけでなく、ロシアの修道生活全体を特徴づけるものである。当時、ロシアの教会指導部は、後の時代とは異なり、修道生活と「肉から肉、血から血」のつながりを持っていたことを忘れてはならない。 修道院から生まれ、修道士たちの見解を共有し、その大部分が同様の神学的知識を持ち、概して修道生活のあらゆる長所と短所を備えていた。 そして、もし司教の代表者が非所有派やヨシフ派の観点を共有していたとしても――16世紀、特にその前半には中立的な立場をとる司教はほとんどいなかったが――それは常に、その司教が修道生活を送った修道院の精神的雰囲気と結びついていたのである。
聖山出身のマクシムが、モスクワで形成されていた教会・政治的状況を知った途端、聖書や教父たちの著作に関する彼の知識――それらは双方の陣営にとって有用となり得た――ゆえに、彼は否応なくこの画期的な論争に参加せざるを得なかったことは明らかである。 彼の知識、彼自身の禁欲的な経験、そして個人的な信念が、彼を非所有派の側に導いたのは偶然ではない。 修道士であるヴァッシアン公との出会いと頻繁な対話――これについては後述する――は、そのような選択の主な理由ではなかった。とはいえ、マクシムは、私たちが考えるに、修道院生活の特異な事実や全体的な状況に関する情報を、まさにヴァッシアンから得たのである。 しかし、彼の選択の理由は、非所有派の思想が、教会の真の禁欲的伝統に確かに根ざしていたことにある。
モスクワに到着すると、年代記が伝えるところによれば、マクシムは「大いなる栄誉」をもって迎えられ、最初はチュドヴォ修道院に、その後シモノヴォ修道院に滞在した。彼はスラブ諸語を一つも話せなかったため、翻訳作業のために、 ラテン語に精通した2人のロシア人通訳が彼に付き添った。 翻訳者ディミトリ・ゲラシモフがディアコンのミシュリャ・ムネヒンに宛てた手紙からは、彼らの翻訳作業がいかに困難であったかがうかがえる。マクシムはギリシャ語の原文をラテン語に翻訳し、ゲラシモフはそれをさらにラテン語から教会スラヴ語へと翻訳した[263] 。それにもかかわらず、分厚い大判本の翻訳は16ヶ月で完了した。 新しい教会スラヴ語の詩篇集とともに、マクシムは大公に長文の序文を提出した。その中で、彼はモスクワに来た経緯を語り、同時にヴァトペド修道院に戻る許可を求めた[264] 。 教会スラヴ語訳は、ヴァルラアム都主教および数名の主教たちによって校閲された――もちろん、スラヴ語のテキストのみである。彼らの中にはギリシャ語を話す者が誰もいなかったからだ――そして承認され、称賛に値するものとして認められた。 しかし、マクシムはアトス山への帰還を許されなかった。一方、彼と共にモスクワに到着したヴァトペド修道院の修道士数名からは、帰還の許可が下りていた。
大公も、ヴァルラアム都主教も、モスクワでは教養ある人材が著しく不足している状況において、マクシムが極めて有用になり得ることを理解していた[265] 。マクシムには、さらに重要かつ困難な任務が課せられた。それは、多くの誤りが混入していた礼拝用書籍を、ギリシャ語の原本と照らし合わせて訂正することだった。 誰の発案であったかは定かではないが、この仕事をマクシムに命じたのは大主教であったと推測できる。この考えを大主教に示唆したのは、すでに我々が知っている修道士公ヴァシアンであった可能性も排除できない。というのも、彼はすべてのスラブ語による教会書の翻訳には誤り、不正確さ、そして曖昧な箇所があると主張していたからである。 また、ヴァッシアンには、マクシムをできるだけ長くモスクワに留めておきたいという個人的な動機があったことも忘れてはならない。彼は『コルムチャ』の編纂において経験豊富な助言者を必要としており、マクシムは彼にとって非常に有用な存在となり得たからである。こうして、マクシムは不確定な期間、モスクワに留まり、新たな任務を遂行することになった[266] 。
モスクワに滞在し、徐々にロシア語を習得する中で、 マクシムは、自身の観察や、さまざまな人物――とりわけ修道士となったヴァッシアン公との交流を通じて、ルーシの教会生活、修道院の日常、司教や修道士たちの見解、政府の政策、大公の専制政治、そして教会への干渉について、深く理解することができた。 マクシムは、ヴァルラアム都主教が法に反してその座から追放される場面を目の当たりにしたが、これは教会が大公の専制政治に依存していることを示す最も露骨な例であった。彼は教会生活におけるこれらすべての現象に対して憤慨し、鋭い批判を浴びせ、それらがきっかけとなって一連の論争的・批判的な著作を執筆することとなった。 これらの著作は、16世紀のロシアの宗教性を徹底的に明らかにする、我々にとって極めて重要な資料である。[267] 例えばイオシフやヴァッシアンといったロシア人が、ロシア社会の様々な側面を批判する場合、彼らが必ずしも完全に客観的ではなく、例えば修道院の所有地問題において、自らの党派的な偏見に左右されている可能性があることを、我々は常に考慮しなければならない。 マクシムにはそのような偏見はあり得なかった。さらに、彼の批判的な著作は厳格な教会的精神に基づいて書かれている。というのも、彼はアトス山および東方教会全般における教会法と教会生活を熟知していたからである。
マクシムの著作『[268] 』の中には、修道院の所有地や修道院の生活という問題に特化した4つの論考が含まれており、これは、マクシムがロシア人ではなく、ヨシフ派にも「 」非所有派にも属していなかったとはいえ、両派の論争に関する本論考において、これらの論考の資料を取り上げる理由となる。 なお、彼の他の著作においても、ロシアの宗教性について言及されている箇所では、ロシアの修道生活[269] に言及していることに留意すべきである。
修道院の所有地を批判する主要な著作は、対話形式で書かれた『ある有名な修道生活に関する物語』[270] であった。フィロクティモン(貪欲な者)とアクティモン(無欲な者)が、修道生活の基礎について語り合う。 前者はヨセフの見解を代表しており、厳格なキノイア(共同生活)の導入によって、修道院の所有地を利用することによる負の側面が排除されることを証明しようと努めている。なぜなら、その場合、修道者たちの誰も個人的な利益を得ないからである。彼はこのようにして、所有地の共同利用を正当化しようとしている。 これに対し、アクティモンは次のように答える。「そのようなことを言うのは滑稽だ。これは、もし多くの者が一人の娼婦と不法に交わり、それについて非難されたとしても、各人が『ここには罪など一つもない。 その共同の獲得物はすべて同じだからだ」と言うか、あるいは、もし誰かが多くの強盗と共に強盗に出かけ、多くの略奪品を集めた後、ある事情により強盗を追う者たちに捕らえられ、激しく拷問され苦しめられても、「私は一切罪を犯していない。彼らのもとに残し、そこから何も持ち去ってはいない」と答えるようなものだ」[271] 。
別の著作(『魂に有益な言葉』)では、理性は自分の魂とキリスト教の美徳について語り合い、こう問いかける。 「いかにして、柔和さ、謙虚な思慮、そして神聖な沈黙を心に得ることができるのか。私は怒りと論争にしばしば、そして抑制なく駆り立てられ、土地や農民たち、あるいは隣人に対して、彼らが何らかの点で私を傷つけたとすれば、まるで敵であるかのように、彼らを侮辱しようと努めてしまうのだ」[272] 。 また別の著作において、マクシムスは修道院の農民への扱いについて自らの原則的な見解を述べ、修道院の領地の所有者たちに次のように呼びかけている。 「あらゆる貪欲と非人道的な手段をもって、地上で金や銀の財宝を隠し持つ者たちを、神の楽園は受け入れず、むしろ彼らを拒絶する」[273] 。しかし、実際には修道院こそが、自らの農民たちに高金利で金を貸し付けていたのである。 マクシムによれば、不貪こそが修道生活に真のキリスト教的禁欲主義をもたらすものである。「そのような者たちは、絶えず人々に施しを行い、子を愛する父のように、多くの人々の救いを絶えず気遣うため、すべての人から尊敬され、愛されるのである」[274] 。 この同じ精神で書かれた、修道院の所有地に関する、あるいはそれらに反対する彼の他の著作には、次のようなものがある。a)「悔い改めに関する説教」、b)「修道生活の是正に関する説教」、c)「悔い改めと飽くことのない腹に関する説教」[275] 。
しかし、マクシムスは修道生活の欠点を単に修辞的に批判するだけでは満足せず、修道生活の正しいあり方の例を提示している。これは著作『恐るべき、かつ記憶に値する物語、そして完全な修道生活について』において行われており、その中でマクシムスは、 イタリアで目にした光景を振り返り、カルテシアン修道士の徳高い生活、この修道会の規則、そして彼らの完全な無所有について語っている。その無所有は、修道士たちが信者からの施しで生活し、その見返りとして世俗の兄弟たちにキリスト教的な魂のケア、ひいては内なる宣教を提供しているという形で表れている。 マクシムの結論はこうである。修道士たちがキリスト教の教訓と啓蒙をもって報いる信徒からの施し――これこそが修道生活の基盤である[276] 。
これらすべての著作において、修道院生活のあり方について論じる際、マクシムは純粋に禁欲的な立場に立っている。マクシム自身には、ヨシフ派やヴァッシアンに見られるような党派的な偏りなどなかった。彼はただ「純粋な理念」に奉仕し[277] 、純粋な理想主義と、自らの信念の正しさに対する確固たる確信に基づいて執筆していた。 また、彼の論争活動が彼自身にとって危険を伴うものであったことも忘れてはならない。というのも、新任のダニイル都主教(1522–1539)は確固たるヨシフ派信奉者であり、非所有主義者たちへのマクシムの同情を理由に彼を処罰する可能性があり、実際に彼に報復を加えたからである。
ロシアの修道制度を批判するにあたり、マクシムは修道院の所有地に対する強制的かつ全面的な世俗化を呼びかけてはいなかった。彼にとって重要なのは、何らかの外部からの改革によって修道院の生活様式を再構築することではなく、第一に、修道生活の内的完成と活性化を掲げていた。 国家の介入が正当化されるのは、修道院、教区、および教区管区の所有地からの収入を、例えば慈善活動など、神に喜ばれる目的のために充てる場合に限られていた[278] 。
修道士ヴァッシアン公とアトス山の修道士マクシムは、 過去の生における境遇においても、内面の精神的姿勢においてもこれほどまでに異なる二人の人物が、その異例の運命のおかげで、同じ理念を掲げる同志となり、同じ理想のために闘う者となった。もっとも、修道院の土地所有に対する反感の背景は、すでに述べたように、彼らそれぞれで異なっていた。 これは、ルーシにおける修道院生活の適切なあり方という問題が、いかに重要であったかを示している。それでもなお、この二人の論客は、16世紀前半において、自らの著作の中で修道院生活の再編を公然と要求した唯一の修道者たちであった。 残念ながら、彼らの文学的活動は、ヨシフ派の観点を頑なに固守していた教会界には響かず、おそらく世俗当局による中途半端な措置に間接的に影響を与えたに過ぎなかったと認めざるを得ない。
この点に関連して、16世紀の最も興味深い人物の一人である長老アルテミイに注目する必要がある。彼は著作ではなく、自らの活動を通じて、修道院の所有地に関する問題がストグラフ公会議で議題に上げられるよう尽力した。 長老アルテミイの生涯と精神的形成[279] は、再び私たちをザヴォルジエへと導く。そこは、ニル・ソルスキーの精神がまだ息づき、彼に新たな信奉者や後継者が現れていた、非所有主義者たちの巣窟であった。 ロシアの修道史においてこの潮流の主要な代表者であるニルとアルテミイは、自らの見解を文書にまとめ、彼らの著作を通じて、この禁欲的・神秘主義的な運動について判断を下すことができる。 アルテミイの著作については、それらがニルの思想のさらなる発展であると同時に、ある種の修正も示している点について、後ほど述べることにする。ここでは、彼の生涯について少し触れ、修道院の所有地をめぐる問題の解決における彼の役割を明らかにしたい。
彼の出自や出生地については、いかなる情報も残されていない。彼は聖コルニリイ・コメルスキー(†1537)のもとで修道生活を開始した。 1536年、アルテミイはその修道院を去り、キリロ=ベロゼルスク修道院の近くにある荒野に定住した。その荒野は、かつてトロイツェ=セルギエフ修道院の院長(1521–1524)を務めた長老ポルフィリーによって設立されたものと思われる。 長老ポルフィリー自身は、厳格な禁欲生活を送る修道士であり、その思想においても非所有主義者であったが、大公に対し、非難に満ちた数言の諭しを述べたことで大公の怒りを買い、修道院長職を辞任せざるを得なかった[280] 。 ポルフィリーや、他の非所有主義者である長老ティホン、ドロフェイ、イオアサフ・ベロバエフらとの交流は、アルテミーを非所有主義の思想の世界へと引き込み、彼をその思想の信奉者とした[281] 。 アルテミイは1550年または1551年まで荒野に留まった。この頃、あるいは1536年以前――正確な時期は特定しがたい――に、彼はプスコフへの旅を行った。 プスコフからアルテミイは国境を越え、「ドイツの国」(すなわちエストニア)へと向かい、現地で西洋のキリスト教を直接知り、現地のルター派信者たちと信仰の問題について語り合い、議論を交わした(「書物を通じて語り合う」)。[282] 。 ポルフィリーの修道院での滞在期間は、アルテミーにとって人生の決定的な時期となった。そこで彼の霊的 な成長が成し遂げられ、厳格な生活態度と神学的な教養によって同修道院の仲間たちからの尊敬を勝ち取り、ついにはモスクワでもその名が知られるようになった。
1550年の終わりか1551年の初め頃、アルテミイはモスクワへ招かれたが、誰が彼を推薦したのかは定かではない。 分かっているのは、若きツァーリ・イヴァンが彼をチュドヴォ修道院に収容するよう命じ、自身の霊的指導者である司祭シルヴェストルに対し、アルテミイの知識を徹底的に検証し、その人柄を評価するよう命じたことだけである(「彼の中にあらゆる徳と霊的な益を見極める」こと)。 アルテミイとの面談後、シルヴェストルはツァーリに対し、多くの人々に知られていたアルテミイの人柄と神学教育が、確かに称賛に値するものであると報告した[283] 。 ちょうどその頃、トロイツェ=セルギエフ修道院には院長が不在であり、ツァーリはシルヴェストルと修道院の修道士たちの要望に応じて、1551年5月17日、アルテミウスをこの修道院の院長に任命するよう命じた。しかし、ツァーリがこのような選択をしたのは、シルヴェストルの推薦だけが理由ではなかった。 アルテミイの著作から、当時、彼自身が若きツァーリと交流しており、そのツァーリが聖書や世の事柄について教えを請うていたことがわかっている。 同時代のアンドレイ・クルブスキー公は、アルテミイについて「かつて王は彼を深く愛し、何度も語り合った」と記している[284] 。しかし、アルテミイが住職を務めた期間は長くは続かず、6ヶ月後に修道院を去り、隠遁地へと戻った。 どうやら、クルブスキー公の主張――アルテミイがヨシフ派的な傾向を持つ修道士たちとの対立を理由にその地位を去ったという――は事実であるようだ。というのも、禁欲的な世界観を持つアルテミイにとって、修道院の雰囲気は単に不快なだけでなく、まったく耐え難いものであったからであり、 また、後のシルヴェストルとシメオン両司祭の報告からも明らかなように、彼は、大規模で裕福な修道院の無秩序な生活よりも、荒野の「清らかな」静寂を選ぶことを決意したのだ[285] 。
私たちにとって重要なのは、アルテミイが若き皇帝との会話の中で修道院の領地問題にも言及し、この喫緊の課題(まさにこの時期、百人会議が開かれていた)について、修道士は領地ではなく自らの労働によって生計を立てるべきだと考え、無所有主義の精神に基づいて意見を述べたという点である[286] 。 これらの対話は決して無意味なものではなかった。なぜなら、アルテミイの見解はツァーリの共感を呼び起こしたからであり、おそらく1551年5月11日の修道院の領地に関するある決定――これについては後ほど詳しく述べる――は、これらの対話と密接な関連にあるからである[287] 。 このように、長老アルテミオスの個人的な関与は、ヴァッシアンやマクシムスの論争的な著作よりも、より多くの実践的な成果をもたらした。
修道院の所有地が修道生活にもたらす堕落的な影響という問題については、もう一つの著作、いわゆる『ヴァラームの奇跡行者、聖セルギイと聖ゲルマノスの対話』が捧げられている。これは16世紀半ばの匿名著作である。その執筆時期や著者(あるいは著者たち)について、文学史家たちは様々な見解を示している[288] 。 我々の見解では、この著作は、非所有派に完全には属していなかったものの、教会政治活動やヨシフ派の思想に対して明らかな嫌悪感を抱いていた修道界から生まれたものである。 また、我々は『対話』の著者たちが ヴァッシアンやマクシムスの著作に精通しており、これらの著作が彼らの資料源となっただけでなく、当然ながら、個人的な経験や当時の日常的な教会生活に対する深い理解も役立ったと考えている。 著者たちはヴァッシアンやマクシムほど教養が高くなかったが、それは著作の文体から一目でわかる。文章は拙く、思考は散漫に述べられ、繰り返しが多い。
著者の教会的・政治的見解は、以下の4つの主要な思想によって特徴づけられる。 (1) 修道院の土地所有権の否定、(2) ツァーリの統治実務と教会階層との密接な結びつきへの批判、(3) 修道院に属する農民の境遇への同情、そして (4) 当時のモスクワの生活に対する評価における一定の保守主義である。 最初の2つの思想は密接に関連している。『対話』は、修道院の所有地の拡大、修道者の富の蓄積、およびその世俗化についてツァーリを非難している。というのも、ツァーリは修道士たちの手に土地が集中することを容認し、しばしば自らも農民が住む土地を修道院に寄進しているからである: 「ツァーリが修道士たちに、キリスト教徒が住む村や地区を授けることはふさわしくなく、ツァーリがそのようなことを行うのは称賛に値しない」。ツァーリは修道院を支援することはできるが、それは施しと見なされる金銭に限られる。この見解は『対話』の中で何度か述べられているが、おそらく単なる繰り返しではなく、この考えを強調するためである。 『対話』の別の箇所では、さらに鋭くこう述べられている。「愚かな王たちは、キリストに敵対し、修道士たちを寵愛し、彼らに王家の領地、城、村、そしてキリスト教徒が住む地域を与え、まるで異教徒であるかのように、自らのキリスト教徒たちから彼らを分離させてしまう」。その結果、農民たちは土地を失ってしまうのである。 修道士たちは王たちからそのような贈り物を受け取ってはならない。「すなわち、愛する兄弟たちよ、悪魔からのものであり、新しい恵みに反する新たな異端、すなわち修道士がキリスト教徒のいる地域を支配することである」。
ヴァッシアンやマクシムに続き、『対話』の著者たちは、修道院当局やその役人による農民への不当な扱いを指摘している。このように、『対話』には、農民の抑圧に対する社会的抗議が込められている。 同時に『対話』では、修道院が世俗の事柄に関与した結果、禁欲の主要な原則が後景に追いやられるか、あるいは完全に破壊されてしまったため、修道生活が衰退しつつあることが強調されている。
『対話』の編纂者たちの政治的見解は、王がどのように統治すべきかという論考にも表れている。『対話』では、教会の上層部が統治に関与したり、王の顧問となったりする権利が断固として否定されている。 「主は、修道士たちではなく、君主に対し、王国や都市、地方を治め、権力を握るよう命じられた――それは公爵やボヤール、その他の世俗の人々を通じてであり、修道士たちを通じてではない……君主は、自らの権力をもって、あらゆる事柄を世俗の人々と共に自ら取り決めるべきであり、修道士たちと共にするべきではない」[289] 。 国家統治にボヤール階級やその他の社会階層の参加が必要であるというこの考えは、一方ではヴァッシアンやボヤール階級の保守派の他の代表者たちの見解を想起させる一方で、他方では共和制のヴェリキー・ノヴゴロドにおける社会関係を思い起こさせるものである[290] 。
『対話』の保守主義は、すでに言及した問題の議論だけでなく、外国の影響に対する姿勢にも表れている。著者の見解によれば、こうした影響はキリスト教徒、すなわちロシア人にとって「災い、悲しみ、そして破滅」をもたらし、信仰の純粋性を疑わせるものである。 この著作では、「不信仰な」西洋や、この世の「世俗的な」生活のみを気にかける外国人たちが批判されており、「我々は来世の生活のために尽くしている」と述べられている[291] 。
『対話』は、修道院の所有地に対する文学的な論争に終止符を打つものであり、その目的は、修道院の土地所有の拡大と富の蓄積を完全に阻止することはできなくとも、少なくともその進行を遅らせることにあった。しかし、実際の歴史においては、修道院の所有地を擁護する者たちの活動と政府の立場の方が、より大きな意味を持っていた。
1503年の公会議に関連してすでに触れたヨシフ・ヴォロコラムスキーの見解は、ヨシフ派や教会の上層部にとって、常に一種の教義のようなものとして受け止められてきた。 この公会議の直後(およそ1504~1505年)、ノヴゴロド大司教ゲナディの依頼により、修道院の土地所有権に関する問題が再び論じられ、その権利を教会法的に立証しようとする試みがなされた著作が執筆された。 これはかなり分厚い著作であるが、その分厚さにもかかわらず、『スロヴォ・クラトコ』[292] と呼ばれている。 その著者はロシア人ではなく、おそらくスラブ系出身のドミニコ会修道士ベニアミンであった。皮肉な運命のいたずらで、彼は15世紀末にノヴゴロドに滞在することとなり、そこで大司教の依頼を受けて、ラテン語のウルガタ訳聖書からスラブ語への数冊の聖書翻訳を行った。 このドミニコ会修道士がローマ・カトリック教徒のままであったのか、それともギリシャ正教会に改宗したのかは不明である[293] 。「言葉」の主な考え方は次の通りである。世俗化、さらにはそれへの傾向さえも、神の御心に対する敵意の表れに他ならない。教会の司教団や修道院は、このことを常に心に留めておくべきである。 彼らは、修道院の所有地に関わる事柄への干渉を許してはならず、そのような試みや行動に対しては断固として立ち向かわなければならない。君主や世俗の権力者は、いかなる形であっても、教会およびその機関の財産や所有地を没収、制限、または奪うことを決して許されない。 教会が動産および不動産を所有する権利の根拠は、キリストご自身の言葉にあり、聖なる使徒たちもこの権利を裏付けている。コンスタンティヌスに端を発する敬虔なキリスト教皇帝たち(ここで「コンスタンティヌスの遺贈」が言及されている)、 「ローマ皇帝ルイ1世および偉大なる皇帝カール」、ローマ皇帝オットー1世およびヘンリー1世といった敬虔なキリスト教皇帝たちは、教会が動産および不動産を所有する権利を完全に尊重していた。 『言葉』の末尾で、著者はさらに、霊的権威が世俗的権威よりも上位にあることを強調している。両者の権威はともに神から与えられたものであるが、世俗的権威は霊的権威に従わなければならない[294] 。
『言葉』は、1503年の公会議の後、16世紀前半にヨシフの思想を擁護するために書かれた唯一の著作であった。彼の派閥は自らの勢力を十分に強固だと感じており、論争的な論説を必要としていなかったからである。 これは、非所有主義者たちの宿命であった――自らの理念のために戦い、ヨセフ派を攻撃すること。
16世紀前半には、世俗当局に対し、教会の財産に関わる事柄への干渉を戒める、もう一つの興味深い断片も存在する。 16世紀半ば、モスクワ都主教座は、教会、教会階層、およびすべての聖職者の権利を裏付けるタタール・ハーンの古文書を収集する作業に着手した。この作業の目的が、修道院の土地所有権を裏付ける新たな証拠を入手することにあった可能性も排除できない。 ヤルリクの集成には、大主教の側近である名もなき筆写者によって執筆されたあとがきが添えられていた。著者はその中で、「異教のハン」たちがロシア正教会に対して好意的な態度を示し、免税を含む同教会のあらゆる特権を保持していたことを強調している。 彼はハンたちを「正教のツァーリ」の模範として挙げ、次のように説教している。「諸君、正教の公爵やボヤールたちよ、聖なる教会への慈善を尽くすよう努めよ。さもなくば、審判の日に、彼ら野蛮人によって恥をかかされることになるだろう」[295] 。
このヤルリク集の編纂は、1550年に若きツァーリ・イヴァン4世が、モスクワ都主教の領地の一部を国庫に移管し、それらの土地を従臣たちに所領として与えるよう試みたことに続いて行われた。 ツァーリの計画、および土地の買収や交換に関する大司教との交渉は、モスクワの教会指導層から激しい反対に直面した。マカリイ大司教は、「地上の恵みの遺産として神に捧げられた不動産について」と題する特別な論考を執筆した。 その中で彼は、ツァーリの計画に断固として抗議し、聖書や公会議の決定からの様々な引用を用いて、 における教会の土地所有権を論証している。「簡潔な言葉」と同様に、マカリイもまた「コンスタンティノフの遺贈」[296] に言及している。
世俗権力と教会権力との間のこの論争は平和的に決着したが、これは、国家が教会の所有地の拡大に完全には同意していなかったことを最もよく示している。なぜなら、国家は自らの目的のために土地の再分配を必要としていたからである。
一方、モスクワ大公国における教会の所有地は増え続けていた。禁欲的な修行のための隠遁所として設立された修道院は、時間の経過とともに、土地の購入、寄贈、その他の手段を通じて、やがて本格的な経済的植民地へと変貌を遂げた。 修道院には独自の農民がおり、彼らは修道院で働くか、地代を納めるか、あるいは修道院の土地で強制労働(バルシュチナ)を課されていた。 修道院の経済的繁栄と富の蓄積には、国家権力から与えられた数多くの特権が寄与していた。1553年にモスクワを訪れたアダム・クリメントは、モスクワ公国において「plurima ibi exstruuntur Basilianorum coenopia; his magni sunt agrorum reditus, nam tertiam fundorum partem totius imperii tenent monachi」[そこには多くのバシリアン修道院があり、彼らの所有する土地は広大で、王国全体の土地の3分の1が修道士たちに属している]と記している[297] 。
しかし、モスクワ公国が偉大なモスクワ帝国へと変貌したことで、政府は国境を武力で防衛せざるを得なくなった。 軍隊の維持は、主に戦功の報酬として領地を与えられていた従軍者たちで構成されていたが、これは政府が決して十分に満足のいく形で解決できなかった課題であった。歴史学が明らかにしているように、土地は国家の唯一の資本であった。 政府が管理し、領地として分配されていた耕作に適した土地は不足していた。これは、すでに述べたように、土地の相当部分が教会や修道院の所有下にあり、新たな土地の割当が次々と政府の手から離れていったことにも起因する[298] 。
1503年の公会議の前から、モスクワ大公は修道院や教会の所有地に対して最初の措置を講じていた。 ノヴゴロドの征服(1478年)後、彼は、以前は都主教や最も裕福な修道院に属していたノヴゴロド地方の広大な土地を、モスクワの役人たちに荘園として分配した。これは、モスクワの植民地化政策における特徴的な傾向である[299] 。 ノヴゴロドの大司教テオフィロス(ノヴゴロド市民自身によって選出された最後の大司教)は、モスクワ政府によるこれらの措置に断固として抗議したが、1480年に司教座から追放され、モスクワが任命した大司教セルギイ(1483–1484)に取って代わられた。 1490年から1491年にかけて、すべての教会および修道院の所有地は、モスクワから特別に派遣された書記官たちによって綿密に調査・記録された[300] 。 この調査の結果、1499年から1500年にかけて、教会および修道院の土地が国家に没収される新たな措置が講じられ、この措置は貧しい修道院にも及んだ[301] 。
1503年の公会議でザヴォルジェの長老たちが提唱したこの提案が、政府にとってまさに好都合であったことは明らかである。 しかし、ヨシフ・ヴォロコラムスキーの断固たる反対の結果、この提案は失敗に終わった後、内心ではこれに共感していた大公は、公会議の決定を変更させるため、あるいは少なくともノヴゴロドでの没収をより広範な規模で繰り返すための い措置を一切講じなかった。
イヴァン3世の後継者たちは、修道院の所有地を批判する大公兼修道士ヴァッシアンの極めて精力的な著述活動にもかかわらず、教会の土地所有を制限するための具体的な措置を一切講じなかった。 この点において、イオシフ派の思想を心から支持していたダニイル大主教(1522–1539)が、特に1525年にヴァシーリー3世の再婚を祝福して以来、大公と良好な関係を築いていたという事情が少なからず影響していた。 確かに、ストグラフ公会議の決議から、ヴァシーリーの治世下で政府が、トヴェリ、ミクリン、トルジク、ベロゼルスクの各郡の役人に対し、死後の冥福を祈る供物として自身の領地を修道院に譲渡することを禁じる勅令を発布したことが分かる。その後、この禁止令はヤロスラヴリ、 スーズダリ、スタロドゥブの各県にも拡大された[302] 。ヴァシリーの死後(1533年)、イヴァン4世が未成年であり、大公妃エレナが統治していた時期、国家権力が事実上彼女のお気に入りのボヤールたちの手に委ねられていた間、政府は修道院の領地の拡大を部分的に制限することに成功した。 1535年の勅書が現存しており、そこではグルシツキー修道院に対し、大公の許可なく領地を購入・交換すること、また死者の供養のためにそれらを受け入れることが禁じられている[303] 。その1年後、ノヴゴロドの様々な教会や修道院から、政府によって「ポズニ」、すなわち耕作されていない土地が差し押さえられた。 これらの措置は、ボヤールの領地が教会に移管されることを快く思っていなかったボヤール階級の考え方に完全に合致していた[304] 。
イヴァン4世(1533年~1584年、実際には1546年~1584年)の即位を機に、修道院の所有地をめぐる問題の解決において新たな時代が幕を開けた。 1550年に若きツァーリが行った、修道院の領地拡大を抑制しようとする最初の試みは、マカリー大司教[305] からの断固たる反対により、成功には至らなかった。 家臣たちに領地として分配するための土地を確保する必要性、そしておそらく長老アルテミオスとの対話も相まって、ツァーリはストグラフ公会議における演説(「ツァーリの質問」)の中で、修道院の生活様式に対する批判に関連して、修道院の所有地問題について何度か取り上げざるを得なかった。 ストグラフ公会議は、原則として修道院および教会の財産の不可侵性を確認したものの、 1551年5月11日付の「判決」を公布した。これによれば、ボヤールの子弟、従臣、あるいは農民から債務の弁済として土地を受け取った司教たちは、これらの土地を元の所有者に返還する義務を負うこととなった。さらに、ツァーリの許可なく司教や修道院に譲渡された所有地も返還の対象となった。 「そして、誰であれ、君主の知らぬ間に――判決文にはこう記されている――修道院がその所有地を自由に譲渡し、その所有地が修道院によって無償で取得された場合、それは君主に対する背信行為となる」。 これ以降、修道院が土地を購入することも、皇帝の同意があって初めて可能となった[306] 。形式的には厳格であったものの、この判決は、後で見るように、実際にはほとんど執行されなかった。同時に、公会議が、大主教、司教、修道院に代表される教会の、すでに取得済みの土地を所有する権利を認めていたことを忘れてはならない。 したがって、ストグラフ公会議の判決は、あくまで一時的な対処に過ぎなかった。後で見るように、修道院の所有地に関する法規制は形式上ますます厳格になっていくが、その一方で、この厳格化による成果は、皇帝による新たな勅許状によって無効にされていくことになる。
1557年のツァーリの勅令は、遺言者たちの親族に対し、遺言によって修道院に譲渡された相続地を、厳格に定められた価格[307] で買い戻す権利を与えていた。しかし、数年後、1572年の公会議の決定により、この勅令は廃止された。 同時に、公会議は、貧しく土地の少ない修道院のみが土地の寄進を受け入れることができると決定した。理論的には、この1572年10月9日の判決は、大規模な修道院の富のさらなる増大を制限するものであったため、非常に重要であった。「多くの領地を持つ大規模な修道院には、今後、領地を与えない」。領地は 、役人たちに返還されるべきであり、「職務上の損失が生じず、土地が職務から外れないようにするため」であった[308] 。
次の公会議(1580年)では、この問題がより国家に有利な形で解決された。すなわち、大主教も司教も修道院も、領主から土地を買い取ったり担保として受け取ったりしてはならないという一般的な規則が採択された[309] 。 公会議はこの決定を、モスクワ王国が敵に囲まれていること(公会議が想定していたのは、おそらく西方のリヴォニアでの戦争やクリミア・タタール人の襲撃であろう)を理由として正当化した。敵を撃退するためには、十分に武装し装備された従軍者が必要であるからである。 しかし、従軍者たちは極度に貧しくなっており、装備を整えるための土地も資金も持っていなかった。さらに、公会議は、修道院の富の蓄積が修道生活の堕落を招き、修道士たちに過度な飲食の習慣を生み出していると指摘した。おそらく、ここには公会議の参加者たちの見解が反映されていたのだろう。
1580年の公会議の判決――主にその前半部分――は、もし実践に移されていれば、教会の所有地問題の解決に向けた政府の新たな行動指針となり得たであろう。2年後の1584年7月20日、すでにフェオドール皇帝(1584–1598)の治世下で、新たな公会議が招集された。 この公会議は1580年の決定を再確認し、それに極めて重要な措置を追加した。すなわち、永久ではないにせよ、不確定な期間、タルハンを廃止すること――「皇帝の……勅令……により、土地が整備されるまでの間、タルハンを廃止し…… また、あらゆる王室への貢納や地方税を、あらゆるタルハンを通じて……すべての人々から徴収すること」[310] 。
主に国家の極めて厳しい財政状況によって引き起こされたこの政府の新たな措置は、実際には教会や修道院の所有地を標的としたものであった。というのも、それらのほとんどすべてが、特別な勅許状やタルハーンによって、国家への税や賦課から免除されていたからである。 もしこの計画が政府によって実行されていれば、一方で、教会や修道院の所有地に対する政府の政策が急激に変化したと言えるだろうし、他方で、国庫への歳入が大幅に増加することが期待できたはずである。 しかし、この公会議の決定は、モスクワ公国の行政実務でしばしば見られたように、まもなく政府自身によって破られた[311] 。興味深く重要なのは、当局が7月20日の公会議の決定をタルハンの実質的な廃止と見なし、できるだけ早くそれを実践に移そうとしたという事実である。 同年秋の初めには、すでに修道院から請願書が提出されており、そこから、地方当局が修道院に税金の納付を要求していたことがうかがえる[312] 。
様々な文書から、修道院当局が1584年7月20日の勅令発布直後から、これを回避するための措置を講じていたことがうかがえる。 早くも8月11日、つまり3週間後には、ソロヴェツキー修道院は、確かに毎年地代を支払う義務と引き換えに、従来のタルハンを維持することに成功した[313] 。政府の政策が中途半端であったことを示す他の例も挙げられるため、この新しい法律は国家に特別な実益をもたらさなかった。
16世紀の間に広大な土地を所有するに至ったキリロ=ベロゼルスキー修道院の経済活動は、非常に特徴的である。同修道院の文書から、ストグラヴァー・ソボルの判決後、修道院当局がこの判決に従って土地の取得を縮小するつもりは全くなかったことがうかがえる。 それどころか、むしろ公会議直後の初期――1551年から1572年の間――に、修道院当局は主に北部で新たな土地の購入に取り組み、 最も重要な点として、修道院はこれについてツァーリに許可を求めることさえ試みなかった。 1572年の勅令により、役人からの「死後の供養」を目的とした土地の寄進を受け取ることが禁止された後も、修道院は寄進として譲渡された塩田や製塩所を利用して富を蓄積しようと努めた。 また、1580年の判決の後、修道院当局は、以前に発行されたタルハンの維持をツァーリから認めさせることに成功した[314] 。16世紀末から17世紀初頭にかけて、このような事例は他の修道院の経済活動においても確認される。例えば、トヴェリ県やウグリチ県などである[315] 。 これらの事例は、モスクワ公国において、形式的な法制度とその実際の適用がどれほど乖離していたかを改めて証明している。16世紀を通じて、教会および修道院の所有地に関する問題は、結局のところ最終的な解決に至らなかった[316] 。
「動乱の時代」(1598–1613)[317] における政治的、社会的、経済的動乱は、修道院の所有地問題に関する政府の政策に一定の変化をもたらした可能性がある。 しかし、この政策を分析してみると、17世紀前半、1649年以前、すなわちアレクセイ皇帝(1645–1676)の『法典』制定以前には、目立った変化は見られない。
「動乱の時代」後のモスクワ王国の財政・経済状況は極めて厳しいものであったにもかかわらず、政府は修道院の土地所有権を没収するためのいかなる本格的な措置も講じる決心がつかなかった[318] 。教会所有地の世俗化という考えそのものが、世俗権力の教会・政治的見解とは相容れないものであったと断言できる。 さらに、ミハイル皇帝(1613–1645)の治世において、皇帝の父であるフィラレート総主教(1619–1633)の影響力が絶大であったことを忘れてはならない。当然のことながら、総主教は教会の土地所有権に対するいかなる制限に対しても断固として反対したであろう[319] 。 そのため、政府は相変わらず中途半端な対応にとどまり、その布告においても教会の所有地問題には間接的にしか触れていなかった[320] 。
この点に関して、2つの勅令を想起しておく必要がある。1つ目は、1620年11月28日付のもので、 すなわち、ツァーリ・ミハイルが若かった当時、フィラレート総主教が国家統治において極めて大きな役割を果たしていた時期に発布されたものである[321] 。この勅令は、従軍者たちがツァーリ・ヴァシーリー・シュイスキーの時代に功績により授かった領地を自由に処分することを許可しており、その中には、死者の追悼の供え物として修道院に寄進したり、売却したりすることも含まれていた[322] 。 その2年後、1622年8月27日、別の勅令が公布された。これによれば、1613年以降に、魂の安息のための寄進、贈与、あるいは 購入によって修道院が取得した領地は、遺言者、寄贈者、またはそれらを譲渡した者の親族によって修道院から買い戻すことができた。 一方、1613年以前に修道院の所有となった領地については、1613年以前にその旨の請願書が提出され、かつその件がツァーリに報告されていた場合に限り、買い戻すことができた。請願書が提出されなかった領地は、修道院の所有のままであった[323] 。
行政実務においては、国家全体ではなく、その一部の地域のみを対象とした布告を発することが慣例となっていた。こうした布告は、修道院の所有地にもしばしば適用された。 例えば、1624年には北部のウスチュジ県を対象とした特別の布告が発布され、黒地(つまり、税を納め、国家のためにその他の義務を果たしていた自由農民が住んでいた村)の売却および死者の供養のための寄進が禁止された。 しかし、修道院当局は16世紀と同様、この1624年の勅令をも回避する方法を見出した。そのため、1651年に政府は、1624年の勅令後に取得された「黒い土地」を国家に返還し、それらの土地に住む農民を国庫の管轄下に移すよう命じた[324] 。
1641年の勅令は実用的な意義を持っていた。この勅令は、本来は修道院の所有地ではなく、主に修道院に属する農民を対象としたものであったが、その実施が政府ではなく民間の自主的な取り組みに委ねられていたため、実効性を発揮した。この勅令の発令のきっかけとなったのは、よく知られている「1641年の請願書」であった。各地の都市や郡から集まった士官たちは、修道院が特権を濫用して、自らの経済的地位を優遇し、士官たちの世襲領地や荘園から農民を引き抜いて自らの土地に移住させたり、逃亡した農民を自らの領地に定住させたりしていることを、ツァーリに訴えた。 また、従軍者たちは、定年(または保護期間)に関する特権が、管轄権の問題に多くの混乱をもたらしていることについても訴えた。というのも、各修道院の司法権が異なっていたからである。これらすべてが修道院の経営には好影響を与えていたが、従軍者たちには多大な損失をもたらしていた。 請願者たちは、農民の所有者が、地代を支払う義務のある逃亡農民や教会の土地に移った農民の返還を、期限を問わず求めることを認める勅令を発布するよう求めた。 (農民は個人としては自由であったが、土地に縛られていた。)ミハイル王はこれに応じた勅令を発して請願者たちの要望を認め、これにより多くの士族が、私的な訴訟として修道院を相手に法廷で争うことができるようになった[325] 。
この1641年の勅令は、修道院の所有地に関する根本的な問題には間接的にしか触れていなかったが、政府の関心を改めてこの問題に向けさせた。 そして実際、数年後の1649年の『法典』において、世俗権力は教会機関の特権に手を付けたが、その時点ではまだ決定的なものではなかった。修道院の所有地に関する問題が別の形で解決されるようになるまで、さらに半世紀にわたる中途半端な決定が続いた。
1649年のアレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝による「ソボル法典」――1648年から1649年にかけて開催されたゼムスキー・ソボル(地方議会)の活動の結果である([326] )――は、モスクワ・ルーシの経済にとって極めて重要な、教会および 修道院の所有地に関する問題を無視することはできなかった。 また、この極めて著名なゼムスキー・ソボルの決議の多くが、教会機関の法的・財政的特権に不満を抱いていた様々な身分層の人々からの数多くの請願に基づいて採択されたことも忘れてはならない。 このことから、これらの階層の要望に応えた『法典』が、1580年の以前の勅令を再確認し、総主教、司教、および修道院がどのような手段であれ新たな土地を取得することを完全に禁止した事実が説明される(『法典』第17章、第30条および第42条)。 さらに、教会や修道院の土地に位置し、様々な特権によって賦役義務から免除されていたすべてのポサドおよびスロボダは、国庫の管理下に移管され、教会機関がそのようなスロボダを取得・設立することは禁止された(『法典』第19章、§1、5、7–9、 13、15、16)。地方議会に代表を送った諸階級は、さらに踏み込んだ要求、すなわち1580年以降に聖職者の手に渡ったすべての土地を没収し、土地の少ない従軍者たちに荘園として分配することを求めた。 しかし、これらの身分階層の要求は聖職者たちの激しい抵抗に遭い、受け入れられることはなかった――『法典』にはそれらが反映されていない。ツァーリは、1580年の判決後に取得されたすべての土地の台帳作成を命じることを約束したに過ぎなかった。[327]
部分的な世俗化を求める要求は成功しなかった。 政府が受け入れられたのは、教会の所有地のさらなる拡大を制限することだけだった。教会は、1580年の判決の前後で取得した従来の所有地を維持した。1649年のツェルスキー・ソボルが、1580年以前に取得された所有地について何の判決も下さなかったため、 また、1580年の判決後に取得された土地の没収を求める諸階級の要求がツァーリによって却下されたため、教会は、その後も繰り返し表明されたように、『法典』には、教会の管理下にある土地所有権に対する教会の権利が認められていると見なした。
1649年の『法典』では、修道院による土地の購入を制限するため、1580年の判決およびそれ以前の全教会議の判決を法的に(第17章、第42項)確認しようとする試みがなされた。 1651年には、政府は、修道院、教区、商人によって購入または抵当として取得された村が、黒税区([328] )に位置する場合、それらを「君主に譲渡する」よう命じた。残念ながら、この命令が実行されたという証拠はない。 それどころか、政府は――1649年の『法典』および1651年の指令に反して――個々の修道院からの請願に応じ、黒賦役地区にある農民が居住する土地の取得を許可していたことが知られている[329] 。 ツァーリ自身も1649年の法典に違反していた。17世紀後半の文書には、修道院がツァーリから、未開墾地や農民が居住する土地を、ツァーリの領地から寄進として受け取った事例が数多く見られる[330] 。 このように、17世紀においても政府は16世紀と同様の道を歩んでおり、1649年の『法典』の厳格な文言は、実際には修道院の土地所有権をほとんど制限していなかった。
1649年の法典に基づき、いわゆる「修道院局」という新しい機関が創設されたが、これは実際には修道院の所有地に関する問題の解決において特に大きな意義を持つものではなく、本質的に真に新しいものでもなかった。 しかし、修道院局の設置は、聖職者の管轄権における変化をもたらしたほか、教会に対するモスクワ政府の政策にもいくつかの変更をもたらした[331] 。 そのため、修道院局の創設は、聖職者側から公然たるものから秘密裏なものに至るまで、非常に強い不満と批判を招いたが、その理由は、教会や修道院の所有地に関する問題ではなく、まさにこの分野における変化に起因していたのである[332] 。
1503年から1649年にかけてのモスクワ・ルーシの世俗権力は、教会、とりわけ修道院の所有地に関する抜本的な改革に踏み切ることができなかった。その理由は、一部には政府に対する主教たちの影響力にあり、また一部には当時の民衆の宗教的観念にあったが、 それでもなお、政府は少なくとも教会および修道院の所有地の現状を把握し、それらに対して一定の統制を確立し、修道院の経営から一定の利益を確保することが必要であると考えていた。 しかし、修道院局の設立は、政府の政策においてさほど重要な革新ではなかった。というのも、修道院局やピョートル時代の聖公会評議会が設立されるはるか以前から、モスクワの世俗権力は、修道院の所有地問題を含め、教会機関に対する恒常的な統制を導入していたからである。 この監督は「大宮殿庁」によって行われていた。これはモスクワ・ルーシの機関の一つであり、教会と国家の関係について論じる際には、その活動を無視することはできない。
大宮殿命令が初めて言及されたのは1547年のことである[333] 。ただし、それ以前、すなわち大公イヴァン3世(1462–1505)の時代にもすでに存在していたと推測されるが、当時のその活動はより小規模なものだった[334] 。 「教会機関およびその領地に関する、かつ直接君主の勅令の対象となるすべての事案は、16世紀半ばから17世紀半ば(1649年の『ソボルヌイ・ウロジェン』制定まで)にかけて、大宮殿事務局を通じて君主に報告されていた。そこではそれらの事案が管轄され、 同局を通じて、教会当局、機関、および関係者に皇帝の勅書が発せられた」[335] 。公文書には、修道院の事務がまさにここで決定された事例が度々言及されている[336] 。この機関は、古代ルーシの行政において一般的であったように、極めて多様な事務を監督下に置いており、とりわけ修道院の所有地に対する管理も行っていた。 ミハイル王(1613–1645)時代の文書には、すでに「修道院局および修道院・移転事務局」と称されていたこの局の部門について頻繁に言及されている[337] 。この局は、「ドヴォレツキー」と呼ばれるボヤリンと、ディアークたちの管理下にあった。 ここでは、修道院の所有地に関連するあらゆる財政事務が処理されていた。具体的には、耕作地からの一般賦役、国が一定の対価を支払って修道院に貸与していた漁業からの賦役、製塩所やその他の経済施設からの賦役などである[338] ; その後、17世紀には、ここでは収穫の徴収や兵役のための徴兵も管轄されるようになった[339] 。しかし、これらすべては、 皇帝から勅許状を授与されていた修道院にのみ適用された。そのような勅許状を持たない修道院――そうした修道院も存在した――は、賦役、地代、税金の納付において地方当局の管轄下にあった[340] 。
大宮殿の命令には、さまざまな修道院に関するすべての指令や勅許状が盛り込まれており、ここでは教会機関の土地所有やその他の財産の目録作成および課税に関する管理が一元化され、これらの機関の購入や支出に関する報告書もここに提出されていた。 しかし、これらは画一的で普遍的に適用される法律に基づくものではなく、個別の命令や皇帝の勅令に基づいて行われていた。それらは修道院ごとに異なり、皇帝の個人的な好悪、時代の状況、そして修道院当局の機転に左右されていた。 また、ここでは新たな勅許状やタルハンが発行され、古い勅許状が承認され、係争中の問題が解決され、請願書や苦情が審査され、修道院への土地所有権の寄贈や、年次あるいは一時的な金銭的援助(ルギ)が登録されていた[341] 。 一言で言えば、ここは政府機関と修道院および修道院の経済活動とのあらゆる関係の結節点であった。 大小を問わず、修道院は、法的な理由というよりはむしろ実用的な理由から、大宮殿局の管轄下に入ることを望んでいた。というのも、この隷属関係によって、モスクワ・ルーシにおいてこの種の事柄に極めて長けていた地方当局との、頻繁かつ数多くの摩擦から解放されるからであった。 修道院が勅許状を保有することは、法的・経済的な観点だけでなく、地方当局による監督から修道院を解放するという点でも重要であった。ここから、大宮殿局へのある程度の従属が修道院にとって望ましく、また高く評価されていたという奇妙な状況が生まれたのである。 これは逆説的に思えるかもしれないが、当時の聖職者たちが抱いていた国家と教会の関係に関する見解によれば、この依存関係には、教会とその機関の権利の侵害は一切含まれていなかった――聖職者の裁判管轄権の問題とは対照的に、彼らにとってそれは原則的に極めて重要な問題であった。 大宮庁は、教会の土地所有権を単独で取り消すことはできなかったため、教会にとっては、既存の状況から生じる政府への財政的・経済的利益を強調しつつ、大宮庁と緊密な関係を維持することが利益となった。 時折、国家の財政・経済状況が悪化すると、政府は修道院の所有地問題について議論に持ち込もうとしたが、前述の通り、この問題を取り上げたどの公会議においても、政府はその解決に向けて実質的な進展を遂げることはできなかった。 判決は形式上はしばしば十分に厳格であったが、実際には常に「circulus vitiosus」(悪循環。――訳者注)に陥っていた。
修道院局の設立も、深刻な変化をもたらすことはなかった。 モスクワ・ルーシの立法の最も特徴的な点は、その慢性的な不完全さと複雑さである。これは、西ヨーロッパとは異なり、あらゆる法的問題をこれほど明確に規定できるローマ法を知らなかったという、古代ルーシの歴史的状況と関係があるのではないだろうか? 「このため、『法典』の規定には、言及不足、不確実性、矛盾、そして原則におけるある種の二面性が見られる」[342] 、特に聖職者の管轄権の問題においてである。このように、『法典』には、この新しい機関のための明確な法的根拠が存在しなかった。 修道院局は、大宮殿局から修道院の所有地に関連するすべての案件を引き継ぎ、その前身と同様にそれらを処理した。 1667年の公会議が、聖職者の管轄権を修道院局から剥奪した際[343] 、同局の管轄には、教会や修道院の土地に課されていた賦役や税金に関連する案件が依然として残っており、これらは以前は大宮殿局が管轄していたものであった。変更点は些細なものであり、原則的なものというよりはむしろ実務的な性格のものであった。 ゴルチャコフが記すように、修道院局の活動は「その権限の範囲内においても、極めて不活発であった」[344] 。 1677年12月17日、修道院局の存在に終止符を打つ皇帝の勅令が発布された。同局に対し、すべての事務を大宮殿局 に移管するよう命じられた[345] 。これにより、すでに言及されたすべての事項に関して、修道院の所有地は再び大宮殿局の管轄下に移ることとなった。
しかし、1667年の公会議は一歩前進した。この公会議の参加者である聖職者や修道者たちは、富が修道院の修道生活に及ぼす堕落的な影響を認め、修道士が個人の不動産を所有することを、それが修道誓願に反するとして禁止した[346] 。しかし、これはあくまで半分の措置に過ぎなかった。 1667年の公会議では、修道院の所有地に関する問題は一切取り上げられず、次のように断言しても差し支えないだろう。聖職者の管轄権の問題においてこれほど大きな成功を収めたこの公会議は、教会機関が土地を所有する完全な権利を有するという見解を固く堅持していたのである[347] 。
このように、17世紀末の修道院の所有地問題の解決において、根本的に新しいことは何もなされなかった。土地所有権は修道院の手中に留まり、これは修道院の生活に少なからず影響を及ぼさざるを得なかった。16世紀前半の「非所有主義者」たちの懸念や予言は、歴史的展開によって完全に的中したのである。 2世紀にわたり、修道生活の世俗化は絶えず進行し、修道院の生活様式にますます深く浸透していった。自らの農場を持ち、絶え間ない物質的な心配事に追われる修道院は、世俗を拒む場所から、一種の経済的事業へと変貌を遂げた。 16~17世紀において、修道院の経済的状況は、その内部生活の基盤となった。修道生活を世俗化と危機へと導いた多くの否定的な側面は、「非所有主義者」たちの思想が実践に移されなかったことに起因する。この責任の少なからぬ部分は、彼らの敵対者である「ヨシフ派」にある。 モスクワ・ルーシを嵐のように吹き荒れたピョートル大帝の改革は、古ルーシの修道院生活をも揺るがした。もしそれらが適時に実施されていれば、少なくとも修道生活の世俗化の進行を遅らせることはできたかもしれない。 しかし、ピョートルの教会改革と、キリスト教の修道生活に対する彼の見解は、誤った基盤の上に築かれており、決して「非所有派」の思想に基づくものではなかった。そのため、世俗化の過程は止まることなく、ただ若干異なる形態をとって、その後も続いたのである。
数多くの論争的な著作やモスクワ政府によるいくつかの措置にもかかわらず、結局のところ最終的に解決されなかった修道院の土地所有権の問題は、この時代の修道生活体制にとって特別な意義を持っていた。 修道院の富の蓄積は、ごく稀な例外を除き、ロシアの修道界の精鋭たちを、修道的な理想とは正反対の方向へと向かわせる動きに巻き込んでいった。しかし、このような状況を招いたのは、既存の修道院の経済的成長だけではない。16~17世紀には 多くの新しい修道院が設立され、それらは寄進を受けるか、あるいは自ら広大な土地を取得したため、修道院の所有地の拡大は、既存の修道院の富の蓄積だけでなく、領土を拡大したモスクワ王国の各地に新たな修道院が出現したことにも関連しており、それらはごく短期間のうちに大規模な経済的植民地へと変貌を遂げた。
この時代――16世紀第1四半期から17世紀末にかけて――の修道院による植民地化は、すでに私たちが特徴づけた14~15世紀の修道院による植民地化とは異なる性格を帯びている。当時、植民地化の主な地域はモスクワ大公国の中心部とヴォルガ川以北の地域であった。 15世紀のヴォルガ川以東地域において、純粋に禁欲的な動機に駆られた古ロシアの修道士は、広大な森林地帯、すなわち「ロシアのフィヴァイダ」における経済的活性化の主役であった。当時、この地域には農民による入植の痕跡である といったごくわずかな「ポチニキ」しか存在しなかった。 モスクワ国家は、さほど労力を費やすことなく、長年にわたる修道院によるザヴォルジエの開拓の成果を自らのものとした。モスクワ大公国の領土的拡大とモスクワ王国の成立、分領公国の統合、そして1552年に カザン・ハン国の征服につながった東部での戦いの成功、南および南東方向、すなわちドニエプル川とヴォルガ川の間の草原地帯における緩やかだが着実な植民地化――これらすべてが、数多くの要塞都市の建設につながり、後に新しい入植地を守る要塞線「ザセチナ・チェルタ」の形成へと至った。 東部および南部においては、植民地の開拓における主要な推進者かつ調整役は国家そのものであったが、自由な入植者たちはしばしば、新たな土地の開拓において国家に先んじていた。
16世紀第1四半期以降の修道院による植民地の歴史は、この状況によって特徴づけられる。修道院は、この頃になると、原則として都市内、あるいはその近郊に建設されるようになった。つまり、これらは都市型の修道院であり、ロシア北部の森に囲まれた修道院とは大きく異なっていた。 それらの大部分は、個々の修道者の自由な発案によるものではなく、国家および教会当局の命令によって設立された。 ほぼすべての修道院は、都市の創設直後に建設され、その存在や修道生活様式は、それらが設立された都市の国家・政治的意義と密接に結びついていた。多くの修道院は、世俗および教会の権力による命令によって設立された――この重要な事実に特に注意を払うべきである。 修道院の設立は、ツァーリや大司教にとって、国家的な事業であると同時に宣教活動でもあった。それらは主に、民族的に多様で、比較的多くの異教徒が住む東方地域に建設されたが、教会や修道院のないロシアの都市は、当時の人々にとって到底考えられないことだった。 新たに獲得した地域のキリスト教化は、モスクワ政府にとって敬虔な義務であった[348] 、そして東方の新しく設立された修道院の修道者たちには、広範なキリスト教宣教を行う義務が課せられていた――14~15世紀には、この種の活動は極めて控えめであった。 この取り組みは、修道院生活の世俗化の過程を部分的に阻害するものでもあったが、これもまた当時の特徴の一つであった。植民化の歴史を考察すると、国内のさまざまな地域において、特定の修道院における修道生活のあり方を形作る上で、現地の事情が少なからぬ役割を果たしていたという結論に至る。
16~17世紀は、修道院建設が盛んに行われた時代であった。V. O. クリチェフスキーの概算[349] に基づき、荒野の修道院と都市の修道院の比率を示す表を作成することができる:
世紀 XIV XV XVI XIV-XVI
修道院 42 57 51 150
都市の修道院 42 27 35 104
合計 84 84 86 254
17世紀には、約220の修道院が設立された[350] 。
こうして、2世紀の間に300以上の新しい修道院が設立されたが、これは当時のロシア国民の間で禁欲的な気風が強まったことを示すものではない。というのも、この件における個人の主導はごくわずかな役割しか果たしていなかったからである。 この期間における新しい修道院の設立は、国家および教会政治的な配慮によって決定され、特定の時期に特定の場所で生じたニーズと結びついていた。これは、新しく設立された修道院の地理的分布に注目すれば、特に明らかになる。 この点において、モスクワ公国の領土は6つの地域に区分できる。その境界線は、モスクワ公国の有機的な領土拡大の特徴によるものではなく、モスクワ政府による植民地化政策によるものであり、我々が区分した各地域において、その規模や重要性は異なっていた。 2つの地域では、こうした措置がほとんど行われず、まさにこれらの地域では、新しく設立された修道院の数が極めて少なかった[351] 。
第1の地域は、モスクワ国家の中央地域を含む。その北の境界はヴォルガ川に沿ってモロガ川の合流点からスラ川の河口まで伸び、東の境界はオカ川とスラ川に沿い、西ではトヴェリ地方がモスクワ中心部の境界となり、南ではオカ川とその支流モクシャ川が境界となっている。
第2の地域は、ロシアの北部――ザヴォルジエとポモリエ、ヴォルガ川から白海に至る土地、すなわち我々がすでに知っている「ロシアのフィヴァイダ」、14~15世紀の修道士たちの禁欲的な功績の舞台を構成している。
トゥーラの南およびカルーガ周辺の地域は、ドン川とオカ川の上流の間に広がる果てしない草原地帯の北の境界を形成している。 その南の境界を明確に定めることはできない。というのも、国家による植民地化と自由な入植の結果、モスクワ公国の領土は年々南へと拡大し、新しい都市が建設され、未開墾のステップの土地は従軍貴族たちの領地として割り当てられていたからである。 ここでは昼夜を問わず、南東部の遊牧民やクリミア・タタール人との激しい戦いが繰り広げられていた。彼らは新しい都市や村、そして貴族の領地を襲撃し、略奪や焼き討ちを行ったため、農民の集落は次々と現れては消えていった。これらの地域は、植民地の第三の領域を形成している。
ノヴゴロドやプスコフからスモレンスクに至る西部地域は、第4の地域を形成している。
スラ川の東、モクシャ川の南東には、かつてタタール人のカザン・ハン国であった中ヴォルガ地方があり、ここでは16世紀半ばから激しい植民地化が進んだ。 ロシア正教会はここで多様な非キリスト教徒の住民と接し、まさにこの地こそがキリスト教宣教のための広範な可能性を秘めていた。これが第五の地域――ポニゾヴィエである。
最後に、第6の地域を構成するのはウラルとシベリアである。ここではロシアによる植民地化は緩やかではあるが絶え間なく進み、その過程でロシア化とキリスト教化は、国家・教会・政治を一体とした単一の課題として融合していった。
モスクワ中心部に関しては、16~17世紀に54の新しい修道院が設立され、そのうち32は都市部に、22は農村地域(ただし都市近郊)に位置していた。 16の都市部修道院は16世紀に、同数のものが17世紀に設立されたのに対し、郊外の修道院のうち16世紀に設立されたのはわずか9か所、17世紀には13か所であった。
首都モスクワは、言うまでもなく首位を占めている。ここで設立された新しい修道院のうち、特筆すべきものは以下の通りである。後世に名声を博し、現在も現存するドンスキー修道院(1592年)、 ズナメンスキー修道院(1613年)、ストラストヌイ女子修道院(1614年)、ザイコノスパスキー修道院(1660年)、そしてパトリアルヒ・ニコンの愛した事業であるヴォスクレセンスキー・ノヴォイェルサリムスキー修道院[352] 。
ウラジーミル地方に建立された修道院としては、スーズダリ市から35km離れた場所にある、修道士イオナが自らの発案で設立したウスペンスカヤ・プスティン(1624年)、 ウスペンスカヤ・フロリシェフ修道院(1654年)、およびヴヴェデンスカヤ・オストロフスカヤ修道院(1695年頃)が挙げられる。後者の2つは、後に 18世紀末から19世紀初頭にかけて、ロシアの修道長制度の中心地となった。 ルキアンという名の修道士は、1594年にペレスラヴリ=ザレスキーの町から約25kmの場所にボゴロディツカヤ修道院を設立した。
コストロマ地方には6つの修道院が設立されたが、これらは特に有名なものではない[353] 。 ヤロスラヴリ地方では、1529年に厳格な修道士である聖ゲナディイ(†1565)によってスパースキー修道院が、また1543年には聖アドリアン(†1550)によってポシェホニエ市から6km離れた場所にウスペンスキー修道院が設立された。
トヴェリ地方には11の新しい修道院が設立された。その中には、セリゲル湖の島にあるニロ・ストロベン修道院があり、そこでは修道士であり隠遁者であったニル(†1554)が27年間にわたり柱上修行を行った。彼は周辺の住民から深く崇敬され、後に全ロシアからも敬われるようになった。 ニルの帰天から40年後、その修行の地において、修道士ゲルマンが修道院を設立した。ニルの聖遺物からは数多くの奇跡が現れ、1667年にロシア正教会は彼を聖人として列聖した[354] 。
カルーガ地方の修道院のうち、ヴヴェデンスカヤ・オプティナ隠修院について触れておこう。厳密に言えば、これは15世紀半ばに創建された古い修道院であるが、一時廃墟となっていたものを1625年に再興したものである。19世紀には、この隠修院は長老たちによって名声を博した[355] 。
北方、ザヴォルジェ、ポモリエでは、14~15世紀にロシアの修道生活が栄えたが、 森や沼地の静寂と人里離れた環境は、相変わらず新しい修道院の創設者たちを惹きつけ、その後の2世紀の間に、この地には30の修道院と隠遁所が出現したが、そのうち都市部の修道院はわずか7つに過ぎなかった。しかし、この時期に設立された隠遁所は、それ以前のものとは異なる性格を持っていた。 設立直後から、主に創設者たちの請願に基づき土地の所有権や様々な特権を与えられ、活発な経済活動を展開し、近隣の農民たちと農地をめぐって争いを繰り広げ、その住人たちは14~15世紀の厳格な修道士たちとは全く異なっていた。 その一例として、1520年に聖アントニー・シイスキー(†1557)によって、ホルモゴリ市から100kmの場所に設立されたアントニーエフ・シイスキー修道院が挙げられる。世俗化に関する法律が公布された1764年当時、シイスキー修道院はすでにロシアで最も裕福な修道院の一つに数えられていた[356] 。 もう一つの例を挙げると、1604年に未亡人となった司祭ミロンが、アルハンゲリスクから約200km離れた場所にボゴロディツキー・クラスノゴルスキー修道院を設立し、これは後に巨大で繁栄した経済施設へと発展した[357] 。
この期間にポモリエ地方では計19の修道院が設立され、そのうち11は16世紀(すべて都市外)に、8は17世紀(都市内の修道院2か所と隠遁地6か所)に設立された。
オロネツ地方に設立された修道院のうち、特筆すべきは以下の2つの修道院である: オロンツの街から30km離れた場所にあるニコラエフスカヤ・オンドルスフスカヤ隠遁所(1520年)は、聖アレクサンドル・スヴィルスキーの弟子である聖アドリアン(†1549)によって設立され、オネジ湖のクリメツキー島にあるトロイツキー修道院は、聖イオナによって設立された[358] 。
修道院創設者たちの個人的な主導は、特にヴォロゴダ地方で顕著であり、この期間に同地では15の修道院が設立された[359] 。聖アルセニイ(†1550)は、 ボヤリン・スホルーソフ家の出身で、トロイツェ=セルギエフ修道院の修道士となり、1521年から1529年にかけて同修道院のイグメンを務めたが、隠遁生活を望み、イグメンの位を辞してヴォロゴダの森へと去り、そこで1530年にプスティン(隠遁地)を設立した[360] 。
もう一人の厳格な修行者、聖フェオドシイ・トテムスキー(†1568)は、近隣住民の要望に応えて1554年にスパソ=スモリン修道院を設立した。その後、この修道院もまた大規模な領地所有者となった[361] 。
ウラジーミル修道院も、創設者自身の発案によって設立された。敬虔な伝承によれば、ヴォログダの住民が、市郊外の鬱蒼とした森の中で、ウラジーミルの聖母イコンを目撃する栄恵に浴した。 この奇跡的な現象に深く感動した彼は、ヨシフ(†1612)という名で修道士となり、1588年に幻視のあった場所に小さな修道院を設立した。 修道院を取り巻く森は、周辺の村々の人々にとってまさに災いそのものであった。そこには、首領アニカ率いる盗賊団が横行していたからである。伝承によれば、この新しい修道院の初代院長ヨシフは、アニカにその血なまぐさい行いを断ち切るよう促し、サウロをパウロへと改心させたという。 そのため、この修道院は、アニカが略奪を働いていた森の向こう側にあることから、人々の間で「ザアニケエフスカヤ」と呼ばれるようになった。その後、修道士ヨシフ・ヴォロゴドスキーは、地元で崇敬される聖人として称えられるようになった[362] 。
17世紀には、ヴォロゴダ地方にさらにいくつかの修道院が設立された。 その中でも、創設者自身の主導によって設立された修道院の一つに言及しておく必要がある。フィリッポという名の修道士が1654年にズナメンスカヤ修道院(ウスティウガ市から約35km)を設立し、この修道院は後に地元住民から深く崇敬されるようになった。残念ながら、この修道院を設立した修道士の人生に関する情報は一切残されていない[363] 。
1460年、聖ディオニシイ・グルシツキー(第III章参照)の弟子たちによって、セミゴロド修道院が設立された。 その後、修道者たちはそこを去り、修道院は廃墟となった。17世紀初頭、同修道院は再興された(今回は、15世紀に聖ディオニシウスが設立したポクロフスキー・グルシツキー修道院の修道士たちによって)[364] 。
モスクワ中心部の西側に位置する地域では、16~17世紀にかけて23の新しい修道院が設立された。そのうち15は都市部に、8は郊外に位置していた。
第1位はノヴゴロド地方で、ここには9つの修道院が設立されました。 そのうち2つは、偉大な敬虔な修行者たちによって設立されました。キリロ・ノヴォエゼルスキー修道院は聖キリル・ノヴォエゼルスキー(†1532)によって、トロイツキー・イラップスキー修道院は聖フィリッポ(†1527)によって設立され、両修道院とも1517年頃に創建されました。[365] その他の修道院としては、ティフヴィン市にあるボゴロディツキー修道院が挙げられる。この修道院は、1383年にティフヴィンで現れた、ロシア国民から深く崇敬されている奇跡の聖母イコンを記念して、1560年にツァーリの命により設立された[366] 。
プスコフ地方では、主に都市型の修道院が設立された。例えば、プスコフ市内では16世紀に、男子修道院に加え、4つの女子修道院が設立された[367] 。 プスコフ市外にある修道院のうち、特に言及に値するのは、15世紀に創建され、同世紀末にリヴォニアのドイツ人によって破壊された後、1520年頃に再建されたプスコヴォ・ペチェルスキー修道院である。[368]
スモレンスク地方には比較的多くの修道院が建設された。聖ゲラシム・ボルディンスキー(†1554)は4つの修道院を設立した。その中でも最も有名なのは、ドロゴブジャの町から約18km離れた場所にある聖三位一体・ボルディンスキー修道院(1528年)である。 その数年後、聖ゲラシムはヴィャーズマ近郊の森に洗礼者ヨハネ修道院(1535年頃)を建立し、その後、南の通行不能なブリンの森へと向かい、そこでジズドレ川沿いにヴヴェデンスキー修道院を建立した (1535年から1545年の間)、彼が設立した修道院の最後となったのは、ドロゴブジャの町の近くにあるロジェストヴェンスキー修道院であった。 聖ゲラシムが設立した修道院は、多くの修道士が在籍していることが特徴である。例えば、ボルディンスキー修道院では、すでに16世紀半ばには100人以上の修道士が修行に励んでおり、ブリンの森林地帯にある隠遁所 には最大40人の修道士がいた。 聖ゲラシムは、自身が設立したすべての修道院において、厳格な共同生活規則を導入した[369] 。ボルディンスキー修道院は徐々に多くの土地を所有するようになり、17世紀には活発な経済活動を展開した[370] 。
17世紀に設立された修道院としては、ブリャンスク市にあるプレオブラジェンスキー修道院が挙げられるが、その存続期間はわずか68年であった。同修道院は1694年にD・A・バリアティンスキー公によって設立されたが、世俗化に関する法律(1764年)の公布直後に閉鎖された。 この修道院が知られる主な理由は、ポリカルプ(†1624)という名の厳格な修行者がそこに身を寄せ、厳しい禁欲生活を送っていたことにある[371] 。
中ヴォルガ川の両岸、西はスーラ川、東はウラル山脈に至る広大な地域には、非常に多くの修道院が設立された。この地域は、モスクワの官庁用語では「ポニゾヴィエ」と呼ばれ、独自の行政単位を構成していた[372] 。 すでに触れたように、ポニゾヴィエは修道院や修道者たちに、キリスト教宣教のための大きな機会を提供していた。たとえ活動を通じてでなくとも、非キリスト教徒の住民が極めて多様なこの地域に存在すること自体によって、彼らはキリスト教化の事業に貢献することができたのである。 16~17世紀に関しては、残念ながら、この時期、修道院はここで特に活発な宣教活動を行っていなかった。18世紀になって初めて、ポニゾヴィエにおけるキリスト教宣教師たちの一定の成果について言及できるようになった。
モスクワ公国の他の地域とは対照的に、ポニゾヴィエに関しては、修道院による植民化の歴史だけでなく、修道院の土地所有が絶えず拡大していった様子を明らかにする資料が数多く残されている[373] 。1552年10月2日のカザン征服で幕を閉じた、タタール人のカザン・ハン国との100年にわたる戦いの間[374] 、 中ヴォルガ地域におけるモスクワによる植民地化は、その第一歩を踏み出していた。1523年には、スーリ川がヴォルガ川に合流する地点にヴァシリスルスクが、1551年にはスヴィヤガ川がヴォルガ川に合流する地点にスヴィヤジスクがそれぞれ設立された。 スヴィヤジスクでは、ツァーリ・イワンの命により、教会だけでなく修道院も建設された。このトロイツキー・スヴィヤジスク修道院は、国家当局の指示により設立され、ポニゾヴィエにおける修道院による植民地の豊かな歴史の幕を開けた[375] 。 1552年のカザン征服後、修道院による植民地化はさらに進展し、それは新しい都市の建設と密接に結びついていました。これらの都市は、ポニゾヴィエおよび1557年にモスクワによって完全に征服されたアストラハンまでのヴォルガ川全域を掌握しようとしたモスクワ政府の意志により、計画的に建設されていきました。[376] 「動乱の時代」においてのみ、モスクワの植民地化活動は数年間中断された。このように、新しい都市の設立の歴史は、1)16世紀末までと2)17世紀の2つの時期に分けられる。 新しい修道院の設立の歴史も同様に2つの時期に分けられ、それらの多くは都市と同時に、あるいは都市の設立直後に現れた[377] 。
我々は、この時代にポニゾヴィエ地方で設立された21の都市と31の修道院を特定した。これに加え、1551年以前に設立された3つの修道院も加える必要がある(表6Aを参照)。 このように、50年の間に30の修道院が設立されたが、表6Aから明らかなように、これらの修道院には以下の特徴が見られる。1) すべての修道院は都市内またはその近郊に建設された――つまり、これらは都市型修道院であり、ロシア北部の荒野にある修道院とは決定的に異なっていた。ただ、後にその周囲にクラスノスロボドスクという都市が発展した修道院と、ニジネロモフスキー郡の修道院のみが、都市から比較的離れた場所に建設されていた; 2) ほぼすべての修道院は、都市の創設直後に設立された。例外は、アストラハン(最初の修道院が征服から11年後に現れた)とクルミシュ(最初の修道院が都市の創設から110年後に建設された)のみである; 3) これらすべての修道院は、創設者たちの自主的な発案によるものではなく、国家または教会当局の命令によって建設された[378] 。
17世紀になると、新しい都市や修道院の設立状況は多少異なる様相を呈している。これは表6Bからよく見て取れる。16世紀に誕生した都市では44の新しい修道院が、17世紀に誕生した都市では26の新しい修道院が設立されたことがわかる。 合計で70の新しい修道院が設立され、これと16世紀に設立された修道院を合わせると、ポニゾヴィエ地域だけで101の修道院が存在することになる。地理的に見ると、修道院が集中した地域は主にサマラ・ペンザ線の北側に位置している。その南側では、わずか10の修道院しか設立されなかった[379] 。
17世紀に設立された修道院は、3つのグループに分類できる。第1のグループは、古い都市に設立された修道院である。 第2のグループは、農業開拓が行われていた地域に位置する新設の都市にある修道院;そして第3のグループは、当時まだ農業開拓が行われていなかった下ヴォルガ川の要塞都市にある修道院である。その結果、以下の図式が得られる:
修道院の創設年 第1グループ 第2グループ 第3グループ 合計
1600–1613 3 – 1 4
1614–1650 18 7 1 26
1651–1700 17 17 6 40
合計 38 24 8 70
このように、17世紀後半には、同世紀前半に比べてはるかに多くの修道院が設立された。これは、ヴォルガ川の南西、シンビルスクやペンザ周辺の土地を植民地化するための、モスクワ政府による精力的な施策と関連している。
ポニゾヴィエの開拓は、政治的・経済的な目的のもと、計画的に進められた。 教会機関――カザンの大司教座や修道院――への土地の分配は、ポニゾヴィエにおいて極めて重要な役割を果たした。なぜなら、これらの土地は単にこれらの機関の維持のためだけでなく、モスクワ政府が政治的目標を達成する上でも役立ったからである。 当時、[380] の領地や修道院の富は、モスクワの政治的権力と、新たに開拓された地域におけるその権力の強固さを最も如実に示す証拠であり、ロシアの都市の建設や、新たな領地や集落の出現は、この権力を強化するための最良の手段であった。 政府から修道院に贈与・譲渡された土地の所有地の数と規模は、すでに言及したように、その拡大を制限するための当局の措置が厳格化されていたにもかかわらず、実際には絶えず増加していた。 修道院の領地における農民の境遇は、武官たちの荘園よりも良好であり、さらに修道院当局は絶えず新たな農民を自らの土地に引き寄せようと努めていたため、修道院の領地はヴォルガ川流域の新たな地域への入植において重要な役割を果たした[381] 。
16世紀から17世紀にかけて、ポニゾヴィエ地域では、創設者たちの自主的な発起によって設立された修道院はわずか6つに過ぎなかった。この期間に同地域に101の修道院が設立されたことを考えれば、これは確かに極めて少ない数である。
これら6つの修道院の中には、セドミエゼルスカヤ・ボゴロディツカヤ修道院とライフスカヤ・ボゴロディツカヤ修道院という2つの隠遁所がある。それらの創設者はごく普通の修道士たちであり、これらの隠遁所は城壁の外に位置している。最初の隠遁所の創設者は、ザヴォルジェ地方のウスティウグ出身の修道士エウフィミイであった。 カザンから20km離れた、7つの湖に囲まれた、ザヴォルジエを彷彿とさせる人里離れた場所に、彼は自らの隠遁所を設立した(1613~15年)。1628年になってようやく、エウフィミイの小さなスキートは修道院となった。 しかし、1645年から1646年にかけて、すでに29人の修道士が修道院で修行に励んでいたにもかかわらず、修道院は依然として非常に貧しく、修道士たちは手仕事や自家菜園の収穫で生計を立てていた。これは15世紀のヴォルガ川以東の修道院では典型的な光景であったが、ポニゾヴィエの修道院においてはほぼ唯一無二の事例であった。 17世紀後半になって初めて、エウフィミイの修道院は土地と農民を獲得した[382] 。ライフ修道院の成立の歴史も同様であった。その創設者は、モスクワのチュドフ修道院出身のフィラレートという名の修道士であった。 1613年頃、彼はカザンにやって来て、最初はスパソ・プレオブラジェンスキー修道院に住んでいたが、その後、カザンの北西にある鬱蒼とした森へと去り、そこでライフ湖のほとりに隠遁地を設立した[383] 。
1614年の少し前、名も知れない修道士によって、ライシェフ市の北東47ヴェルスタにあるカマ川のほとりにトロイツキー修道院が設立された。 その後、この修道院はモスクワのノヴォスパスキー修道院の管轄下に入ったが、18世紀初頭には消滅した[384] 。創設者たちの自主的な発案によって設立された修道院のうち4番目となるのが、アラティール市にあるトロイツキー修道院(1600年から1614年の間)である。同修道院は土地を所有しておらず、非常に貧しかった。 1614年から1615年にかけて、修道士たちはトロイツェ=セルギエフ修道院に対し、この名高い修道院に所属させてほしいと請願し、その直後に受け入れられた[385] 。スムータの直後、およそ1616年、イオナ修道院長のもとで、エラブジャのトロイツキー修道院が名声を博した[386] 。 1702年にカザン都主教ティホーンが、コズモデミャンスク近郊のマロユンギンスキー修道院のアルヒマンドリトに宛てた書簡( )によると、この修道院は1627年以前から存在しており、身元不明の修道士によって設立されたことがわかる[387] 。 17世紀後半には、修道士たちによってさらに2つの修道院が設立された。クラースノスロボドスク近郊のスパソ・プレオブラジェンスキー修道院は、修道士ディオニシイによって(1655年以前)設立された[388] 、そしてヴェルフニー・ロモフ市にあるウスペンスキー女子修道院は、1688年に修道女イライダによって設立された。[389]
残念ながら、これらの修道院の生活やその創設者たちに関する資料は少ない。 彼らは、都市部の修道院における修道生活の体制に不満を抱いた、厳格な禁欲者たちだったのだろうか?例えば、モスクワのチュドフ修道院の修道士フィラレートも、そのような修行者だったのだろうか?それとも、何らかの他の理由から、森の中に独自の隠遁地を設立せざるを得なかったのだろうか? もしかすると、激動の時代である「スモータ」――最初の3つの修道院はスモータの直後に設立された――が修道界に強い印象を与え、モスクワの修道院における修道生活が衰退していた当時、再び禁欲的な気風を呼び覚ましたのかもしれない。 これらの問いに答えることは、ロシアの修道史を研究する歴史家にとって、興味深く、かつ不可欠な課題である。
ポニゾヴィエに設立された数多くの修道院は、この地域の開拓に大きく寄与した。次の章では、彼らが寄進された領地でいかに大規模な経済活動を展開し、ヴォルガ川の両岸に広がる、かつて無人の森や草原を徐々に農業地帯へと変貌させていったかについて、より詳しく述べる。 ポニゾヴィエの修道院は、おそらくモスクワ公国の他の地域の修道院よりも、政府の国家政治的・経済的計画に奉仕していた。ここでは、修道院の経済的繁栄への配慮が、修道生活の禁欲的な目的をほぼ完全に押しやっていた。 16世紀後半から17世紀にかけての、我々が知る敬虔な修行者たちに注目すれば、ポニゾヴィエの修道院では、古代の教父たちの禁欲的な戒律がほぼ完全に忘れ去られていたことがわかる。というのも、これらの修道院からは、傑出した修行者が一人も輩出されなかったからである。
ポニゾヴィエの北東には、ヴィャトカ地方とペルミ地方が広がっており、そこは水量の豊富な川と、人跡未踏の密林が広がる地域である。 すでに14世紀には、聖ステファン・ペルムスキー(†1396)の布教活動のおかげで、ここにキリスト教の光が差し込んだが、地元のフィン語を話す部族の改宗は遅々として進まなかった[390] 。 16世紀初頭、この地にある異教徒のオスティアク族の集落で、聖トリフォン・ヴィャツキー(†1612)が宣教活動を行い、ウスペンスキー・トリフォン修道院(1580年)を設立した。彼の宣教活動は容易なものではなく、異教徒のオスティアク族は、この厳格な禁欲主義者を何度も殺害しようとした。 聖ステファノと聖トリフォンの名は、この地域の歴史だけでなく、ロシアにおけるキリスト教宣教の歴史全般とも、永遠に結びついている[391] 。
ウラル山脈は、モスクワ公国の東方への拡大を食い止めることはできなかった。勇敢な単独行動者や進取の気性に富んだ商人たちは、山岳の峠を越えてますます遠くへと進み、ウラルとトボル川、イルティシュ川の間に広がる果てしない草原や森林に到達した。 危険な冒険を渇望するコサック部隊の隊長、エルマク・ティモフェーエフ(†1584)は、K・シュテリンが的確に「陸の征服者」と称した人物であり、モスクワによるシベリアの国家的な植民地化に向けた第一歩を踏み出した。 1587年にトボリスク市が設立され、17世紀を通じて、シベリアの土地の植民地化と征服は絶え間なく 東へと進み、太平洋の海岸[392] にまで達した。現地住民からの防衛のための拠点として、ロシア人は都市を建設した。 まもなく、様々な理由で自らモスクワ大公国を去った、あるいは去らざるを得なかった入植者たちの集落が形成された。ポニゾヴィエと同様、ここでも多くの修道院が建設され、その性質も同様であった――これらは主に都市型の修道院であった。16世紀末から17世紀初頭にかけて設立された20の修道院のうち、12が都市型であった。 シベリアの修道院は、ポニゾヴィエの修道院と同じ目的、すなわちこの国のロシア化とキリスト教化に奉仕するものであった。18~19世紀のロシアのキリスト教宣教の歴史は、この点においてシベリアの修道院が極めて多大な貢献を果たしたことを物語っている。 修道士たちは主に教会当局の命を受けて宣教の現場で尽力したが、同時に、この宣教活動の中には、国家や教会の政治的課題とは無関係な、真にキリスト教的な献身の多くの例を見出すことができる。宣教師の中には、高いキリスト教的気概を持つ人物もいた[393] 。
16世紀末から、オカ川以南の土地、ドン川とオカ川の上流の間にある草原地帯、さらにセイム川を越えて、ヴェルヒニー・ドンツ川の両岸にかけて、モスクワによる植民地化が始まった。 17世紀を通じて、この動きは絶え間なく続き、この地には要塞化された防衛線が築かれ、新しい都市が設立された[394] 。ポニゾヴィエと同様、国家による植民地化は新しい修道院の設立を伴った。しかし、ここ南部では、修道院が大規模な経済事業へと発展することは極めて稀であった。 政府は、都市や要塞線の建設と並行して、国境防衛の軍事奉仕の対価として領地を授与することで、従軍者たちを新たな土地に入植させるよう努めた。修道院もまた国家から土地やその他の寄進を受けていたが、その規模はポニゾヴィエほど大きくなかった。 さらに、この地域における特に活発な植民地化が17世紀後半に起こったことを忘れてはならない。当時、1649年の『法典』により、政府は修道院への土地の寄進が制限され、土地の分配全般において倹約を心がけることが義務付けられていた[395] 。
新設された修道院に関する情報に基づき、次のような図式をまとめることができる[396] :
世紀 都市部の修道院 農村部の修道院
16世紀 2 8
XVII 13 21
合計 15 29
一見すると、都市の城壁の外に設立された修道院の数(29か所)が、都市内の修道院(15か所)を上回っていることは、これまでの我々の主張と矛盾しているように思える。しかし、これらの修道院のほぼすべてが都市の近郊(3~5km圏内)に位置しており、北方の真の隠遁地とはほど遠いものであったことに留意すべきである。 オカ川以南の土地への集中的な開拓により、南の国境防衛のための軍事任務の必要性から、数多くの新しい都市や軍人たちの集落(いわゆる「スロボダ」)が設立され、この地域は急速に 定住が進んだ。 その入植の過程は主に17世紀後半に集中しており、ちょうどこの時期に特に多くの新しい修道院が[397] に設立された。
修道院の数では、オキ川の両岸に位置し、西はデスナ川まで広がり、南西のチェルニヒウ地域では当時ポーランドの支配下にあったウクライナと国境を接するオルロフ・クルスク地方が首位を占めている[398] 。 ここでは9つの新しい修道院が設立された(16世紀に2つ、17世紀に7つ)。クルスク地方だけでも7つの修道院が建設された(16世紀に4つ、17世紀に3つ)。東側では、オルロフ・クルスク地方はヴォロネジ地方と国境を接している。 ここでは、すでに17世紀20年代に国境線が築かれ、西側ではベルゴロド市まで達し、北東方向にはドン川を越えてタンボフ地方のホプラ川上流まで伸びていた[399] 。17世紀には、この地に7つの修道院が設立され、そのうち3つはヴォロネジ市内にあった[400] 。
南東部地域(その北東部は行政上ポニゾヴィエに属していた)では、最初の修道院がすでに1573年に設立されていた[401] 。17世紀には、この地域に計8つの修道院が存在していた。 特筆すべきは、後に18~19世紀にかけてロシアの修道長制度の歴史において大きな役割を果たした2つの修道院である。 テムニコフの町からほど近いボゴロディツカヤ・サナクサルスカヤ修道院(1659年)と、同町から約40km離れたウスペンスカヤ・サロフスカヤ修道院(1679年、1692年に再興)である。後者は、聖セラフィム・サロフスキーの生涯と功績[402] により、ロシア国民全体に知られるようになった。
オルロフ地方の話に戻り、後にロシアの修道史において一定の役割を果たしたいくつかの修道院について触れておこう。16世紀末、セフスク市から約60kmの場所にボゴロディツカヤ・プロシュチャンスカヤ隠修院が設立されたが、動乱の時代にポーランド軍によって破壊された。 1620年、キエフ・ペチェルスク修道院の修道士プロコピイは、フィラレート総主教の祝福を得て、破壊されたこのプストシュチヌを再建した。 18~19世紀、この隠修院は長老たちの中心地の一つであった[403] 。1661年頃、修道士セラピオンは、ブリャンスク市から約17km離れたスネジェト川のほとりに、イオアン・プレドテチェンスカヤ・ベロベレシュスカヤ隠修院を設立し、19世紀にはここでロシアの長老たちが修行に励んだ[404] 。 クルスク地方の修道院のうち、ロシアでは「コレンヌイ」 として知られるロジェストヴェンスカヤ・ボゴロディツカヤ修道院について触れておこう。この名称は、かつてそこに安置されていた奇跡を起こす「コレンヌイ」の聖母イコンに由来する。クルスクから30km離れたこの修道院は、1597年に設立された。[405]
17世紀後半、修道院による開拓はさらに南へ、ドニエプル川とドンツ川の間に広がる草原地帯へと進み、そこではいくつかの修道院が建設された[406] 。
これが、16~17世紀における新しい修道院建設の全体像である。しかし、改めて指摘しておくが、我々が提示したデータは検証と精査を要する。すべての修道院に関する必要な歴史的資料や一次資料が収集されれば、その統計は多少異なるものになるだろう。 この問題の研究が困難なのは、教会や国家当局の指示、あるいは創設者自身の主導によって建設された多くの修道院が、数十年後には何らかの理由で荒廃し、修道士たちが去り、歴史的文書が表現するように、修道院が「聖歌のない状態」に陥ったためである。 放棄された修道院のうち、後に――多くの場合、修道士たちの主導により――再興されたのはごく一部に過ぎなかった。公式文書にその存在が一切言及されておらず、いわば世の中から隠されたままとなった修道院も数多く存在した。 教会当局は、荒廃した修道院の再開に向けた努力を払わなかった。彼らは通常、新しい修道院の設立に注力しており、それは、概して国家の植民地化政策と密接に関連していた彼らの利益にかなうものであった。 18世紀初頭には、新しい修道院の設立も停止された。これは、ピョートル大帝や教会階層の有力者たちが、修道生活や修道院に対して抱いていた態度によるものである。 18世紀前半には、新しく設立された修道院はごくわずかであった。19世紀になってようやく修道院設立の新たな波が始まったが、それはもはやモスクワ時代とは全く異なる理由と配慮に基づいて行われた。この修道院設立の新たな波は、その形成の歴史が以前とは全く異なる性格を帯びているため、特に注目に値する。
修道院による植民化の概説を行うにあたり、もう一つの疑問に答える必要がある。すなわち、多数の修道院の設立に対して、地元住民はどのように接していたのか、ということである。そしてここでも、興味深い事実が明らかになる。 新しい修道院の設立が、必ずしも近隣住民から全面的な賛同を得たわけではなく、時には住民が何らかの方法で修道院の建設を阻止しようと試み、しばしば修道院の創設者が暴行を受ける事態にまで発展した。修道院による植民地化が国家による植民地化と密接に結びついていた地域、すなわちポニゾヴィエや南部では、そのようなことはほとんど起こらなかった。 しかし、ロシア人が古くから居住し、自由で耕作に適した土地の問題が深刻だった北部や、一部の中央地域では、こうした出来事は珍しくなかった。 深く崇敬されていた一部の聖人や敬虔な修行者の伝記でさえ、新しい修道院の設立が、近隣の村や集落の住民にとって必ずしも喜ばしいことではなかったと記されている。 この場合、経済的・社会的な事情が、人々の宗教的見解や敬虔さを上回っていたのである[407] 。土地とその利用権は 時に長年にわたる争いや裁判の対象となり、周辺住民が新しい修道院の設立を阻止できなかった場合には、暴力の引き金さえとなった。 歴史的文書によれば、その責任は地元の農民だけでなく、修道院自身にもあることが示されている。すなわち、修道院が近隣の農民を犠牲にしてでも自らの土地所有を拡大しようとしたことにある。 狡猾さ、金銭、そして当局とのコネを駆使して、修道院側は訴訟を何年も引き延ばすことに成功したが、これは農民共同体には到底太刀打ちできないことだった。
農民たちの懸念は決して杞憂ではなかったと言える。政府が修道院の所有地拡大を制限する措置を講じていたにもかかわらず、新しい修道院は極めて短期間で基盤を固め、経済的に成長することに成功していたからである。 大小さまざまな土地の割当を受けた修道院の設立は、修道院の土地所有全体を拡大させることにつながった。このように、修道院数の増加は、修道生活における禁欲的な精神の高揚ではなく、修道院の富の蓄積をもたらし、それゆえに良い結果というよりはむしろ悪い結果を招いたのである。 16~17世紀の修道院所有地の歴史を振り返ると、これを裏付ける多くの証拠が見出され、ここではこの悲劇的な歴史的状況を詳細に考察したい。
修道院の土地所有が出現し拡大した歴史的理由は、例えば 聖ヨセフ・ヴォロツキーが考えていたように、修道院生活の繁栄のために必要だったからではなく、主に、修道院の所有地が修道生活の根本に矛盾しないという、修道士たち自身の深い確信にあったのである。 ヨシフ派は、この誤った根拠に基づいて自らの見解を構築し、そのような口実の下で、非所有主義者たちとの論争や闘争を展開した[408] 。自らの正しさ、すなわちこれらの所有権に対する宗教的正当性に対する確固たる信念にもかかわらず、修道院側は、これらの権利を国家の法令によってもさらに裏付けようと努めた。 国家は、一方では修道院の土地所有権を法的に確定することに利害関係を持っていたが、他方では自らの利益のために、可能な限りその権利を制限することにも関心を持っていたため、国家と教会は、時には同盟者となり、時には敵対者となるという状況が生じた。 いずれの側も決定的な勝利を収めることはできず、また真の敗北を味わうこともなかったと言えるだろう。 修道院の土地所有権をめぐる問題の不確実性と未解決性は、修道院経済の成長、さらには繁栄を後押しした。
修道院の土地所有の拡大には、公爵や大公から修道院に授与された様々な特権(免除権)が寄与した[409] 。 教会の所有地に対する特権の数を増やす上で極めて重要な役割を果たしたのは、タタール・ハンの勅令であり、これらは、すでに述べたように、教会階層によって教会の特別な権利の根拠と見なされていた[410] 。 明らかに、聖職者や個々の修道院は、地元の(分領の)公爵、そして後には大公から、これらの権利を確認する勅許状を取得しようと努めた。それは、世俗(公爵)機関の主張から自らの所有地を守るためだけでなく、主に、将来にわたってこれらの所有地を法的に確固たるものにするためであった[411] 。 修道院の権利と特権は、さまざまな文書によって根拠付けられ、保護されていた[412] 。
最も重要な文書は勅許状であった。新しい修道院が設立される際、その創設者は大公またはツァーリから勅許状の交付を受けるよう努めた。この勅許状には、土地所有権の境界が正確に定められていた。同時に――特に16世紀においては――修道院は大公またはツァーリから、他地域からの移住者を受け入れる権利を付与されていた[413] 。 勅許状は、しばしば特権状としての性格を持ち、それによって修道院、その住職、および修道院の土地に住むすべての人々が、国家への賦税の支払いを免除された。このような特権は通常、10年または15年といった一定期間に限り与えられた。 多くの場合、あるいは常にと言っていいほど、これらの特権は、修道院に(多くの場合、その設立時にすでに)寄進された世襲のボヤール領地、および修道院が勅許状を受ける以前からこれらの領地に住んでいた古参の農民たちにも適用された。 極めて稀に、特権状が無期限で発行されることもあった[414] 。通常、特権状とともに「非管轄特権状」も発行され、これにより修道院、その農民および労働者は国家当局の管轄から免除され、修道院長には、窃盗、強盗、殺人といった刑事事件を除き、司法権が与えられた[415] 。 これらすべての権利と特権が1通の勅許状に記載され、 修道院が(たとえ一定期間であっても)賦税および国家当局の管轄権から完全に免除される場合、そのような勅許状は「タルハーン勅許状」、あるいは「タルハーン」と呼ばれた。 これらのタルハンはめったに発行されず、1584年には、公会議の判決により、その発行は完全に停止された[416] 。
前述の文書は、教会および修道院の所有地に関する当時の公法上の資料である。これらは、私法的な性質を持つ様々な文書によって補完されることがある。
ここで第一に挙げられるのは、いわゆる大公や大主教の「憲章」であり、これらは大主教と、その管区内にある修道院との間の法的関係を規定するものである(ただし、特別な勅許状によって大主教の管轄権から免除されている場合は除く)[417] 。 領地の境界をめぐる紛争の結果、皇帝の勅令や裁判所の判決に基づき特定の文書が作成された場合、これらの文書は「法的勅書」と呼ばれた[418] 。 領地(主に世襲領)を寄進する際、以前の所有者は修道院にこの証書[419] を発行し、寄進された領地に関連するすべての権利と特権を譲渡した。一方、修道院側は、これらの証書の記載内容を勅許状によって裏付けようと努めた。 修道院同士、あるいは修道院と民間の地主との間で、所有地の一部を交換することは珍しくなかった。こうした交換は、交換証書([420] )によって証明された。このような交換は、公会議の決定により土地の購入が制限されたり、完全に禁止されたりしていた16世紀末から17世紀前半にかけて特に顕著であった。 隣接する所有地間の境界をめぐる紛争が起きた際、地方当局は「境界確定証書」を発行した。修道院にとって、これらの証書は特別な意味を持っていた。というのも、多くの修道院が、所有地の境界をめぐって隣人(特に北部では農民)と長期にわたる係争を続けていたからである[421] 。 最後に、「抵当証書」または「カバラ」と呼ばれる文書についても言及しておくべきである。これらは、担保として差し入れられた金銭や財産に対する権利を記載したものである[422] 。
これらが、修道院の土地所有権を裏付ける公的および私法上の文書である。
新たな領地の取得は様々な方法で行われた。その中でも主なものは、大公や皇帝による授与であり、実際には修道院の創設者による請願に基づき、修道院の設立と同時に実施され、勅許状によって確認された。 新しいツァーリが即位すると、修道院の院長たちは、すでに発行されていた授与状の再確認を急いで得ようとした。これは、火災や修道院の破壊によって授与状が失われた場合にも行われた。例えば、「スムータ」の時期には、多くの修道院でそのような事態が発生していた。 2つ目の取得方法は、個人からの土地や金銭の寄進であった。これらの寄進は、寄進状や遺言書――寄進者が死後に自身の財産を修道院に譲り渡したいと希望した場合は「遺言状」――によって確認された。 大規模な修道院は、主に耕作地、森林、漁場、製塩所を数多く購入することで富を蓄積しており、これらは売買契約書に記録されていた。 1551年以降 、あらゆる土地の購入は「ツァーリへの報告」を伴い、大宮殿の官庁に登録されなければならなかった。また、前述の通り、1580年以降は、ツァーリによる特別な勅許状に基づいて初めて、売買契約書が法的効力を有するようになった。 教会会議の決議により、土地の購入による取得が公式に禁止された際、修道院は様々な形態の土地交換を通じて、これらの禁止事項を回避する方法を見出した。 もう一つの取得方法は、土地を担保として受け取ることだったが、修道院は、聖職者や修道者に高利貸しを禁じる神聖な教規を無視して、これをかなり頻繁に行っていた。すでに述べたように、これらの取引は抵当記録によって管理されていた。
修道院の所有地および修道院経済の歴史にとって、16~17世紀の「ピスツォフ・クニガ(地籍台帳)」や17世紀の「ペレピスヌイ・クニガ(人口調査台帳)」も特に重要な意味を持つ。これらは、修道院の植民地化活動、その所有地の絶え間ない拡大、および修道院経済の発展を推し量ることを可能にする極めて重要な史料である[423] 。
修道院の農業経営の特徴について論じる前に、本論のテーマにとって重要な意味を持つ、さらに2つの事情について触れておこう。 第一は、イヴァン4世によるいわゆる「オプリチニナ」であり、これにより多くのボヤールの領地が修道院の手に渡ることとなった。第二は、16世紀後半にモスクワ中心部で発生した農業危機である。
オプリチニナ、すなわちツァーリ・イヴァンのこの恐ろしく血なまぐさい改革は、20世紀初頭になって初めて、主に歴史家S. F. プラトノフとその弟子たちの著作[424] において、正しく解明された。 一方では、この改革は政治的な性格を帯びており、モスクワの 大公たちが、分領公爵やその子孫(クニャジ)に対して行い、ツァーリの専制政治を強化していた従来の政策の単なる延長に過ぎなかった。他方では、これは農業的な性格を持つ改革でもあった。 クニャジャトやボヤールから没収された多くの領地は、小規模な区画に分割され、従軍者たちの所領として譲渡された。オプリチニナはボヤール階級から社会的・政治的な意義を奪い、その破産を招いた。新たな軍務規則(1570年)は、ボヤールや多くの従軍者にとって過酷で、ほとんど耐え難いものであった。 こうした状況により、ボヤール家たちは先祖代々の領地を売却したり、抵当に入れたりせざるを得なくなった。そして、その買い手となり得たのは修道院だけだった。16世紀半ばにおいて、金銭的資本を掌握していたのは修道院だけであり、オプリチニナの被害を全く受けなかったのも修道院だけだった[425] 。
16世紀の農業危機は、当局の注目を集め、S・F・プラトノフが指摘したように[426] 、彼らに一定の措置(1570年頃)を講じさせることとなったが、これは本質的に、ツァーリ・イヴァン4世の治世前半におけるモスクワ国家の精力的な政治的・経済的努力の論理的な帰結であった。 カザン・タタール人との戦い、当初は成功したが後に失敗に終わったリヴォニア戦争、クリミア・タタール人やノガイ族の襲撃から南の国境を守る防衛――これらすべてが危機の政治的側面を構成していた。 オプリチナ、新たな軍務制度、およびそれに関連する政府の主要な財源である領地の分配における変更、征服された土地への大規模な植民地化は、危機の経済的側面を構成し、それをさらに深刻化させた。中央地域――主にオカ川とヴォルガ川の間の地域――の住民の状況は、年を追うごとにますます困難になっていった。 (原始的な農法も一因となって)領地からの収入が乏しかった下級武官たちや、その土地に定住し、経済的困難によって甚大な被害を受けた農民たちにとって、より良い生活条件を求めることは、切実な必要となっていた。 世襲の領地や、そこに住む農民たちの状況も、決して良いものではなかった。一方で、中ヴォルガ川の両岸、ポニゾヴィエ、そして南部の草原地帯は、入植者たちに無限の可能性を開いていた。さらに、政府もまた、これらの地域を武力で防衛し、農業的に活用するために、何千人もの人々を必要としていた。 新しい入植者には広大な土地が与えられ、新しく設立された修道院も農民をその領地へ招き入れ、モスクワ中心部と比べてより良い生活条件を提示した。 中心部から新しい地域への大規模な人口流出が始まった――当時の資料が「離散」と表現する、まさに大規模な移住である。その結果、経済危機が勃発し、中心部は荒廃してしまった。 国内中心部の修道院の多くもこの危機によって深刻な打撃を受けた一方で、ポニゾヴィエ地方の修道院の経済発展には、この危機が好影響をもたらした。
これら二つの状況に関する総括的な評価(残念ながら、これらについてより詳細に論じることは できない)は、修道院の所有地や修道院の経済活動に関する問題が、モスクワ公国の政治・経済生活の様々な側面にも光を当てていること、そして世俗の世界や世俗的な煩わしさから逃れてきた修道院やその住職たちが、再びこの世の煩わしさに巻き込まれていったことを示すために必要であった。
修道院の経済活動の発展には、多くの要因が影響していた。すなわち、修道院の宗教的・歴史的意義(特に、教会によって聖人の列に列せられた、あるいは民衆から深く崇敬されていた創設者の名が大きな役割を果たした)、地域の状況、王室との関係などである。 それと同様に重要なのが、修道院長や修道院内で権限を委ねられた者たちの経営手腕と進取の気性であった。彼らは修道院の経済的繁栄にたゆまず尽力し、しばしば我々には理解しがたいほどの執拗さと粘り強さで、自らの修道院のさらなる富の増大を目指していた。 これを、個々の 修道院長や修道士たちの性格上の否定的な側面としてのみ捉えるのは誤りである。ここには、当時の宗教性特有の何かが見て取れる。すなわち、修道院や教会の装飾における豪華さが神に喜ばれるという確信である(ちなみに、これは非所有主義者たちから非常に鋭く批判されていた); この豪華さの中に、修道院の創設者およびロシア正教会全体の栄光を称える奉仕を見出していたのである。さらに、多くの修道院が慈善活動に従事し、困難な時期には国家や国民に援助の手を差し伸べていたことを忘れてはならない。
16~17世紀における修道院経済の発展の主な特徴は、個々の修道院の例を挙げて示すことができる。これらの特徴は、わずかな差異はあるものの、国内のさまざまな地域にある修道院に見られた。
有名なトロイツェ=セルギエフ修道院の創設の経緯は、すでに知られている。その創設者である聖セルギイ(†1392)は、自らの修道院の世俗的な繁栄には関心を寄せなかった。彼の禁欲的な思想によれば、修道士たちは節制と貧しさの中で暮らし、自らの労働の成果で生計を立てるべきであった。 とはいえ、彼の生涯の最後の数年には、修道院が最初の土地を寄進として受け取っていたと推測される[427] 。第2代イグメンである聖ニコン(1392–1428)の在任時代からは、修道院が広大な土地を取得したとの記録が残っており、その一部は寄進によるもので、一部は購入によるものであった。 15世紀末、修道院は、その土地を小作として借り受けていた農民たちが住む村々を含む土地を所有していた[428] 。16世紀を通じて、修道院の所有地は拡大し続けた。 16世紀末、1593~94年の目録によると、修道院は2500以上の村や小集落を所有しており、その大部分(約34か所)は寄進によるもので、購入によるものはわずか14か所に過ぎなかった[429] 。 修道院の農業経営において非常に特徴的なのは、16世紀前半には修道院当局が主に農民に土地を貸し出していたのに対し、同世紀の最後の四半期には、修道院が自ら経営する農地の規模を拡大しようと努めていたという点である。 これらの農地は、多数の修道院の召使や修道院の子供たち、そしてそこで労役を課されていた農民たちによって耕作されていた[430] 。 16世紀の危機的状況や17世紀の「スモウタ」の時代においても、修道院は、逃亡した農民やそれに伴う耕作地の減少による一定の損失があったにもかかわらず、経済的には持ちこたえた。1620年には、修道院の土地は1593~94年と同規模で耕作されていた[431] 1646年の地籍台帳によると、修道院の全領地には16,838戸があり、そこには農民、修道院の子供たち、ボブィリ[432] 、および修道院の職人[433] が住んでいた。こうして3世紀の間に、聖セルギイの小さな修道院は、古ルーシにおける巨大な経済組織へと変貌を遂げたのである。 モスクワを訪れた外国人たちは、 、16世紀末の修道院の資産は――D. フレッチャーの試算によれば――当時のルーブルで10万ルーブル以上(1914年の金ルーブルで約500万ルーブル)に上ったと記している[434] 。 この修道院の聖なる創設者に対する深い崇敬が、数多くの寄進や恩賜、さらには大公やツァーリからの特許状や免訴状をもたらした。これらすべての恩恵が修道院の富の基盤を成しており、それらが原因となって、14世紀の修道院での生活は、17世紀のそれとは大きく異なっていたのである。[435]
キリロ=ベロゼルスキー修道院の経済活動は、別の基盤の上で発展していった。同修道院もまた、モスクワ・ルーシで最も名高い修道院の一つに数えられていた。 創設者である聖キリル・ベロゼルスキー(†1427)の時代、この修道院は共同生活の厳格さで知られ、その点で高く評価されていた。さらに、聖ヨシフ・ヴォロツキーからも称賛と賞賛を受けた[436] 。 キリルの死後、15世紀80年代に至るまで、この修道院は真の苦行に満ちた修道生活の模範を示し、無所有の思想と密接に結びついていた。しかし16世紀に入ると、かつての高潔な生活様式は衰退し始め、この修道院の偉大な創設者の時代は歴史上の伝説のように思われるようになった[437] 。 すでに15世紀、1521年以前には、修道院は大公からの数多くの寄進やボヤール家からの献納によって富を蓄積していた。さらに、金銭的な寄贈によって形成された資金を元手に、主に小規模な土地所有者や農民からさえも、多くの土地を購入していた[438] 。 この土地取得への意欲は、1551年のストグラフの決議後も衰えることはなかった。まさにこの公会議の後、修道院は公会議の決議に反する数多くの土地取得取引を行ったのである。 1551年から1555年の間にだけでも、修道院は19の新たな土地を取得し、1564年から1572年にかけても、修道院当局は次々と新たな土地を取得し続けた。 修道院は、ボヤールの世襲領地、従臣たちの荘園、農民の小さな分地などを買い求めた。1572年の勅令により修道院への土地の寄進が禁止されると、修道院は塩田や都市内の区画の取得に乗り出した。 1580年の公会議で修道院による土地取得が全面的に禁止された後も、修道院長は巧みな手腕を発揮し、ツァーリから「賜与状」および「訴追免除状」を勝ち取り、これによって修道院は新たな領地の取得を許可された[439] 。 すでに1473年には、修道院は自らの所有地について詳細な目録を作成していた[440] 。現存する最も古い修道院の地籍台帳(1543~1544年)には、ベロゼルスク地方だけでも、修道院が所有する399の村とポチノクが記載されている[441] 。 1543年から1595年にかけて取得された土地には、少なくとも284の村とポチンクが存在した。16世紀80年代、修道院の土地はモスクワ公国の13の県にまたがっており、そのうち8県だけで5,000デシャチン以上の耕作地を有していた[442] 。 「スムータ」の直後、修道院は土地の取得を続けた。早くも1615年には、修道院は若きツァーリ・ミハイルから、ネノクサの町近郊にある塩田に関する勅許状を受け取った。これには、 の町内の土地、森林、牧草地、漁場などが含まれていた[443] 。 1646年の戸籍簿によると、修道院の領地内には3854軒の農民の家屋があった[444] 。
3つ目の例として、都市にある修道院、すなわちヤロスラヴリのスパースキー修道院[445] を挙げよう。これはルーシで最も古い修道院の一つである。年代記には1216年に初めてその名が記されており、ヤロスラヴリのコンスタンティン公によって創建された。同時期に修道院の石造教会が着工され、その建設は8年後に完了した[446] 。 15世紀末(1463年)、奇跡を起こした公爵フェオドール(†1299)、ダヴィド、コンスタンティンの聖遺物が発見された後、この修道院は、民衆から崇敬される聖地の中でも特に重要な位置を占めるようになった[447] 。 この修道院の特別な重要性は、修道院長をアルヒマンドリトの位に叙任するという形で、教会の上層部によって強調された[448] 。
修道院の所有地は、主に耕作地、春の増水期に水没する広大な草地、そして若木林で構成されていた。すでに1321年から1345年にかけて、修道院は分領公ヴァシーリー・ヤロスラヴスキーから不可侵の勅許状を授与されていた。 アルヒマンドリト・クリストフォーの在任中、すなわち1464年から1466年の間に、大公イヴァン3世は修道院に訴訟免除の勅書を下賜した。この勅書から、スパス修道院が独自の製塩所を所有していたことが明らかであり、1478年にはさらに別の製塩所を取得した。 1490年、1508年、1516年には、村や農地を含む耕作地が新たに購入された[449] 。 1538年、1545年、1547年、1550年には、修道院はS. F. クルブスキー公から死者の追悼のための非常に多額の寄付を受け、またツァーリから寄進を受けた[450] 。 『ストグラフ』の制定後、1555年および1556年に、修道院は「ツァーリとの間で」土地の交換を行った。興味深いことに、修道院は政府に対し、村々を含む領地を提案する一方で、自身のためには無人の土地を求めている[451] 。 1564年、ツァーリ・イワンは修道院に村を含む土地を寄進し、1562年には修道院がボヤリンのイ・ヴ・ペンコフ公爵から死者の追悼のための寄進を受け、1564年にはD・ザセキン公爵からの寄進を受けた[452] 。 このように、1550年代から1560年代にかけて、修道院の所有地は著しく拡大した。このことから、1551年5月11日の判決がいかに実質的に重要でなかったかがわかる。それゆえ、ストグラフのヨシフ派多数派がこの判決に、「修道院は今後も死者の魂の安息を祈るための寄進として領地を受け取ることができる」という但し書きを盛り込んだのも無理はない。 所有地の交換はまだ禁止されておらず、スパス修道院はこの機会を活用していた。同修道院は国家そのものと交換を行っており、これは1551年5月11日の判決がいかに容易に回避できたかを示す好例である。[453]
1628年から1631年までのスパス修道院の会計帳簿([454] )から、修道院の所有地の規模について次のような特徴をまとめることができる:
耕作地 15993 58 チェヴェルティ(7997 デシャチン)
草地 18,745 コペン(937 14 デシチナ)
森林 994 34デシチナ
農家の戸数 1947
自由農民の世帯 1374
修道院使用人の世帯 163
計 3,484世帯(554の村)
1646年の地籍台帳によると、当時、修道院の領地内には3183軒の農民および無産者の家屋があったことがわかるが、1678年の地籍台帳では、すでに3915軒に増加していた[455] 。 つまり、1646年から1678年にかけて、修道院の領地内では少なくとも732軒の農民世帯が増加したが、これは1649年の『法典』制定後、形式上は新たな世帯の取得が禁止されていた時期に起こったことである[456] 。 1678年の国勢調査以降、農家の増加はごくわずかであった。というのも、1696年時点でスパス修道院の所有する農家はわずか4049戸に過ぎなかったからである[457] 。
16世紀における修道院経済の発展の様相は、イオシフ・ヴォロコラム修道院の歴史からもうかがうことができる。この修道院は、その創設者である聖イオシフのおかげで極めて特別な教会・政治的意義を獲得しており、16世紀には豊かな経済基盤を有していた。 17世紀には、この修道院の経済活動はほとんど拡大しなかったが、これはおそらく、修道院の重要性が前世紀のそれとは比較にならないほど低下していたことに関係しているのだろう。 16世紀にヨシフ修道院は莫大な政治的影響力を持っていたものの、それゆえに、例えばトロイツェ=セルギエフ修道院やキリロフ修道院のような、信仰の恵み豊かな場所にはならなかった。 民衆の信仰心は、宗教的な聖地について、教会のヒエラルキーとは異なる基準で評価するものであり、この事実はロシア正教会の歴史家にとって、しばしば目を引くものである。
1479年に、15~16世紀にモスクワ・ルーシで最も活気ある商業中心地の一つであったヴォロカ・ラムスクの町の近くに設立されたイオシフォフ修道院は、設立からわずか1世紀のうちに、すでに大規模な経済組織へと成長することに成功した[458] 。 修道院が最初に土地を所有したのは、1488年から1495年にかけてボリス・ヴォロツキー公から寄進を受けた際のことである。その後わずか100年の間に、1591年から1592年までに、修道院は寄進や死者の追悼を目的とした寄付により、少なくとも153の新たな領地を取得した。 当時の「死者の魂の安息」のための寄進額は非常に巨額であり、その総額は30,861ルーブル(1914年の為替レートで150万ゴールドルーブル以上)に上った[459] 。 これらの寄進に関する記録は、修道院のシノディク(会計台帳)に記載されていた。修道院の初期のシノディクの一つには、聖ヨセフ自身の筆による次のような記述がある。「これらの救いをもたらし、魂に有益な書物を通じて、我々は現世においても来世においてもあらゆる善を得る…… また、糧、生活、衣服、履物、そして修道室の設備、さらには修道室にあらゆる必要な物が十分に備わっているならば、村や果樹園、川、湖、牧草地、そしてあらゆる家畜や四足動物までもが得られる」[460] 。
これらすべてのおかげで、修道院当局はすでに1543年から1566年にかけて、修道院を石の壁で囲むことができた――当時としては非常に費用のかかる事業であった。また、他の修道院の建物も建設された[461] 。 主に中央の県に位置する修道院の領地は、耕作地、森林、牧草地を合わせて26,170デシチナに及び、40の村と小集落を含んでいた。これらは5つの区画に分けられ、管理・運営を担当する修道士たちによって管理されていた[462] 。ストグラフの決議は、修道院の経済的繁栄 にほとんど影響を与えなかった。 1550年以降、同修道院は寄進や遺言により、土地付きの村60以上を受け取った。修道院の経済的・財政的状況は極めて堅固であったため、他の修道院とは異なり、自らの土地所有権を売却したり抵当に入れたりすることはなかった[463] 。 修道院の財政が極めて良好であった理由は、特賜状および免税状により、「ヤム税」と「ストレッツキーの穀物徴収」を除くすべての税金や支払いが免除されていたためである[464] 。16世紀60~70年代の農業危機 XVI世紀の農業危機は、修道院当局が「農民が逃亡しているため、土地の半分が耕作されていない」と訴えていたにもかかわらず、実際には修道院の経営にほとんど影響を与えなかった[465] 。なぜなら、ここでは他の修道院よりも早く、経営システムを変更することが有益であると理解していたからである。 それまでは、修道院が自ら土地を耕作するか、あるいは土地を小さな区画に分けて、自分の農場を持たない貧しい農民に貸し出したり、いわゆる「修道院の子」たちをこれらの区画に配置したりしていた。 修道院はこれらの借地人から、毎年「オブロク(地代)」[466] を受け取っていた。危機の後、およそ1591年から1592年にかけて、修道院当局は自前の耕作地を拡大し、地代を納めていた農民を「バルシュチナ(強制労働)」に移行させるよう努めた。修道院にとっては、自前の穀物備蓄を確保し、それを「[467] 」で販売する方が利益が大きかったからである。 「動乱」の時期、イオシフォフ修道院は経済的に苦境に立たされ、多くの農民がその領地から逃亡した。1619年、修道院は若きツァーリ・ミハイルから、逃亡した農民を連れ戻す許可を得た[468] 。16世紀は修道院にとって全盛期であったが、その後、「動乱」を経て、その経済規模は縮小した。 1646年の国勢調査によると、同修道院が所有していた農家はわずか1104戸であり、この点において439の修道院中19位に位置していた。1661年には、その領地内の農家はわずか991戸に過ぎなかった[469] 。
修道院の経済活動全体像をより明確に把握するために、国内の地域の一つ、すなわちポニゾヴィエに目を向けてみよう。この地域に関する豊富な資料を活用することで、本テーマを徹底的に解明することができるからである[470] 。 ここで改めて指摘しておくと、一方では、この地域には修道院による植民地化のための自由な活動場があった一方で、他方では、ここでの植民地化は北部のように個々の修道者の主導によるものではなく、国家や教会の上層部によって推進されたものであった。 前章では、16~17世紀にポニゾヴィエにおいて修道院による植民地化がいかに広範な規模で展開されたかについてすでに論じ、この植民地化の主な方向性を指摘するとともに、新設された修道院の数、その設立時期および性格についても示した。 1565年から1568年のピスツォフ・クニガ(地籍台帳)――すなわち、モスクワ政府がポニゾヴィエの開拓に着手してから13~15年後に作成されたもの――によると、この地域の教会および修道院の所有地は、まだ比較的狭小であった。以下の表は、ポニゾヴィエにおける各種所有地の規模を示している[471] :
耕作地(チェヴェルティ単位、1チェヴェルティ=12デシナ)
所有者 カザン県 スヴィャージ県
貴族の領地 18243 20644
皇帝の所有地 6,225 42,191.6
カザン大司教 2087.5修道院 493 2086.4
教区 15 174
チュヴァシュ人とタタール人 ? 51,944
ポサドの住民 700 ?
この地域における修道院の土地所有は始まったばかりだが、個々の修道院の所有地は急速に拡大している。例えば、1551年に創設されたトロイツキー修道院([472] )は、短期間でその所有地を数倍に増やした:
年 耕地 休耕地 森林 村
1575 562.4 190 6.52 ?
1593 1005 456 9.26 14
現存する資料から、16世紀における新たな修道院の設立がポニゾヴィエの開拓において一定の役割を果たしたことが見て取れる。というのも、修道院はこの地域の経済活性化に大きく貢献したからである。 修道院の経済的成長は、主にこの地域の肥沃な土地が、国内の他の地域から農民を引きつけたことに起因している。この東方への移住は、70~80年代に中央部で起きた農業危機とも関連している。農地を開墾するための資金を必要としていた新たな入植者たちにとって、修道院は最良の支援者であった。 新しい農民の集落は、修道院の土地上、あるいはその近隣に形成されていった。農家の生活基盤の整備が順調に進まない場合、農民は金銭や食糧の不足から、修道院に援助を求めざるを得なかった。その結果、間もなく、特定の修道院との間で契約――「保証書([473] )」――が結ばれるようになった。
16世紀末まで、領地や修道院の土地に定住した農民たちは、自由な小作人であり、すなわち土地所有者との契約に基づき、収穫の一部(15%から半分まで)を所有者に納めていた。彼らは通常、「ポロヴニキ」と呼ばれていた。 これに加え、彼らは地主に対して地代(金銭または現物)を支払い、地主のために様々な種類の労働を行っていた――修道院ではこれを「修道院労働」と呼んだ。賃貸契約――特に口頭契約――は通常、文書には残されていなかった。様々な文書の中に、次のような記述が見られる。 「我々の間には契約書はなく、神の正義によって彼と信頼し合った」[474] 。16世紀には、地代や農役の作業量の規模が必ずしも正確に定められていたわけではなかった。17世紀の契約書は、この頃には通常書面で作成されるようになっていたが、それでも賃借人の義務が常に厳格に定められていたわけではなかった[475] 。 各地域や各修道院の領地によって農民の立場は決して均一ではなかったため、移住への生来の情熱を持つ古ロシアの農民たち[476] は、より良い土地やより豊かな修道院を求めて、しばしば旅に出た。 この点において、ポニゾヴィエの土地は彼らに農業経営を成功させる機会を提供しており、それがこの地域の修道院の土地への農民の流入を促進した。
ポニゾヴィエの修道院の経済発展にとって大きな意義を持っていたのは、スムータの災禍が、同地域の西部や中央部よりもポニゾヴィエには比較的軽微だったという事実である[477] 。 一部の修道院の領地は「スムータ」によって甚大な被害を受けたが、その損害は、多くの修道院が完全に廃墟と化した国家の中央地域にある修道院が被ったものとは比べものにならない[478] 。ポニゾヴィエの修道院の土地所有規模については、残念ながら正確な情報がない。 一部の修道院の所有地については、我々の手元にはいかなるデータも存在せず、他の修道院についても、我々の資料は不完全である。1620年代の地籍台帳や1646年から1678年までの戸籍台帳は、不完全な状態で保存されているか、あるいは完全に失われてしまっている。
1646年の戸籍簿からは、カザン郡の13の修道院に関する情報しか得られず、これらを合わせると、2573戸の農家[479] の土地を所有していたことになる。 P. スミルノフによれば、1646年の戸籍簿に基づき、同郡のすべての修道院が2706戸の農家を擁する土地を所有していたと見なすことができる[480] ;133戸の差は他の修道院に帰属する。残念ながら、修道院の土地所有の拡大については何も言及できない。 1646年の戸籍簿によれば、ポニゾヴィエの各郡において、修道院は4567戸の農民世帯を擁する土地を所有していたと結論づけられる[481] 。 1678年の調査記録には、36の修道院の土地所有状況と農民数に関するより詳細な情報[482] 、および21の修道院の土地にある農民世帯数[483] が記載されている。 1646年当時、これら21の修道院は3057軒の農家がある土地を所有していたが、1678年の調査によると、同じ修道院の土地にある農家はわずか2425軒に減少していた。 そして1678年以降も、一部の修道院は農民の戸数を減らし続けた[484] 。18世紀前半にかけて、修道院の所有地を国家の管理下に置くこと(これについては後述する)、これらの所有地からの収入を国家の目的のために活用すること、そして所有地の一部を没収することを目的とした一連の措置が実施された。 1744年のデータによると、カザン教区の14の修道院は、農民15,131人を抱える土地を所有していた[485] 。 1762年、すなわち18年後、ピョートル3世のために教会および修道院の所有地に関する新たな目録が作成された際、カザン教区の38の修道院には14,517人の農民が登録されていた[486] 。
以上が、16~17世紀におけるモスクワ公国のある地域での修道院経済の発展の全体像である。 この過程は国内のすべての地域で同じように進行したわけではない。各地の状況を特徴づけるためにさらにいくつかの考察を加えることも可能だが、ここでは 、モスクワ国家全体の修道院所有地について概観し、その後、これらの所有地における内部関係や、修道院経済における修道者の役割について論じるのが適切であると考える。
16~17世紀に修道院が所有していた土地の総面積を正確に特定することは不可能である。この問題に関する最も重要な史料である地籍台帳は、多くの地域で完全に失われており、一部の地域では断片的にしか残っていない。 多くの修道院の目録は、修道院の土地所有についてしばしば不正確な情報を伝えている。さらに、修道院当局は地籍台帳からの抄録の保存に配慮していたものの、多くの修道院でそれらは失われてしまった。例えば、 ロシュコフ、ユ.・ゴティエらが余儀なくされたように、様々な情報源からの情報を総合して初めて、国内の特定の地域について全体像を把握することができる。16世紀や17世紀にモスクワを訪れた外国人たちは、官庁の文書に関する知識というよりは、様々な人物の発言に基づいて自らの評価を築いていた。それでもなお、これらの評価は、多かれ少なかれ実情に合致していたため、特に批判することなく受け入れることができる。 1553年にモスクワを訪れたあるクレメント・アダムスによる、「tertiam fundorum partem totius imperii tenent monachi」[全帝国の土地の3分の1は修道士たちが所有している]という発言は、他の外国人たちの指摘によっても裏付けられている。 1572年から1590年までモスクワに定住していたイギリス人のジェローム・ゴーシーは、1580年の公会議でツァーリ・イヴァン4世が述べた、「ロシアの聖職者は全王国の3分の1を所有している」という言葉を引用している。 16世紀末から17世紀初頭にかけてモスクワを訪れ、1615年にモスクワ国家に関する旅行記『[487] 』を出版したスウェーデン人のペーター・ペトレイも、同様のことを述べている。 S. F. プラトノフは、その優れた著書『ロシア史講義』の中で、16世紀末には、聖職者、大司教、主教座、および修道院の手中に、耕作地の最大37%[488] が、さらに森林や草地も含まれていたことを、十分に信憑性のある事実であると見なしている。
モスクワ中心部の5つの県において、修道院だけで230,721.8チェヴェルティ(115,360.9デシチナ)の土地を所有していた[489] 。また、ノヴゴロド地方においても、16世紀の修道院の所有地は極めて広大であった[490] 。 17世紀のポモリエ(ウスチュジ、ソルヴィチェゴド、ドヴィナ、トテム、アルハンゲリスクの各県)およびヴィャトカ地方における修道院の所有地は、極めて広大であった[491] 。ポニゾヴィエについてはすでに述べた。 修道院の所有地が小規模だったのは、西部(ノヴゴロドの修道院を除く)と、南部の草原との境界地域のみであった。この地域では、政府が土地を非常に慎重に扱い、それを役人たちに荘園として割り当てていたからである[492] 。
多くの修道院の経済活動にとって、修道院の土地に位置し、修道院に多額の金銭による地代を納めていた都市やスロボダは、極めて重要な役割を果たしていた。 オスタシュコフの町は半分が総主教座に、半分がイオシフ・ヴォロコラム修道院に属していた。ティフヴィンの町はティフヴィン修道院の領地内に位置していた。ネポコクのスロボダはキリロフ修道院に、ボロフスクのスロボダはパフヌティエフ修道院に属していた。 これらはあくまで個別の例に過ぎない[493] 。ほぼすべての大規模な修道院には、修道院の土地に位置し、修道院のために働く職人たちによって構成された、いわゆる「修道院のスロボダ」が存在した。 これらの都市、スロボダ、集落はすべて、特別な特権状および免訴状によって国家への賦税から免除され、修道院に金銭および現物による非常に多額の貢納をもたらしていた[494] 。
17世紀における修道院経済の規模については、修道院の土地に位置する農民の戸数の多さが物語っている――この情報は戸籍簿から得たものである。1646年の戸籍簿によれば、教会機関に属する土地には、少なくとも109,267戸の農民の戸があったことがわかる[495] :
総主教座の所有地:6,481戸
主教座の所有地:10,857戸
439の修道院の所有地:91,829戸
166162年には、修道院の領地にある農家の戸数調査が再び実施された。 しかし、修道院局におけるこの調査は、修道院当局自身が提供した情報に基づいて行われたことに留意する必要がある。実際には農民の戸数が若干多かった可能性もあり、修道院側が一部の戸数を隠蔽していた可能性も排除できない。 この調査によると、476の修道院が87,907戸の農家[496] を擁する土地を所有しており、1696年には修道院の土地に102,476戸[497] が存在していた。 1戸あたり4人の労働可能な成人男性がいたと仮定すると――農民たちは税負担を避けるため、常に世帯の分割を避けていた――修道院の土地では男性だけで50万人以上が従事しており、女性や子供を含めると、少なくともさらに50万人もの人々が働いていたことになる[498] 。 これらの数字だけでも、修道院の経営規模の大きさと、モスクワ国家全体の経済におけるその重要性がうかがえる。これこそが、ピョートル大帝が、本来は北方の戦争に伴う財政難を緩和することを第一の目的としていた改革を行うにあたり、修道院の資本に特に注目した理由である。 修道院の豊かな経済基盤は、彼が必要な資金を調達するための優れた源泉となったのである。
我々は、修道院の経済活動とその発展について概観を試みた。 これをより分かりやすくするためには、修道院の領地における内部の経済関係と、修道士たちの経営への関与について特徴づける必要がある。この特徴づけから、どれほどの数の修道院の住職たちが世俗的な事柄に従事し、それによって真の修道活動や霊的な修行から逸脱していたかが明らかになるだろう。
14~15世紀の修道生活について論じる際、当時どのようにして新しい修道院が設立されたかについて、特徴的な例を挙げてきた。ほぼすべての修道院創設者は、法的文書によって、修道院が建つ土地を修道院に確固たるものとするよう努めた。当初、そこには木造の教会と数軒の木造の修道室しかなかったのだ。 おそらく、創設者の心目には、その小さな荒野の地に繁栄する農場が常に浮かんでいたわけではないだろう。 当時、創設者が主に気にかけていたのは、近隣住民から修道院を守ること(周辺住民が新しい修道院に対して時に敵対的な態度をとっていたことを改めて想起しよう)と、修道士たちが菜園を耕したり穀物を蒔いたりできる機会を与えることだった。 こうして、修道院が建つ土地に対する最初の寄進状が発行されるようになった。その後、後継者たち――新しい修道院長や新しい修道者たち――が現れたが、彼らは修道院の創設者ほどには禁欲的な理想に感化されてはいなかった。 一部の厳格な修行者たちの伝記や、彼らが設立した修道院の歴史には、古ロシアの修道生活においておそらく最も特徴的な一つの法則が見て取れる。すなわち、修行者の地上的名声――彼らは往生後まもなく、その地で崇敬される聖人として崇められることが多かった――が、彼らが設立した修道院の富の蓄積と、修道士たちの世俗化につながったのである。 聖人を敬う信心深い信者たちから、修道院へは供物――物品、金銭、農地――が川のように流れ込んだ。修道院の領地は年々拡大し、修道院が所有するのは、もはや隣接する土地 だけでなく、しばしば修道院からかなり離れた場所、時には全く別の地域にある土地[499] までもが対象となった。 新たな領地を管理し、恒常的な監督を行う必要が生じた。寄進された土地には農民が住んでおり、修道院や国家との関係を調整しなければならなかった。
修道院の土地所有に関する一つの特徴について説明しておく必要がある。土地所有者として、修道院は寄進された土地に対する完全な所有権を有しており、これはモスクワ公国の法用語では通常「ヴォッチナヤ・プラヴォ(領地権)」と呼ばれていた[500] 。 土地所有者として、修道院は所有地に課されたすべての賦税を国家に納める義務があったが、一方で、修道院の土地に住む農民が納める地代はすべて修道院に帰属した。 修道院が土地に関して国庫に納める税の額、および修道院と農民との間の関係は、これらの関係に法的効力を与える「ジャロヴァンヌイ・グラモタ」および「ネスーディミー・グラモタ」によって規制されていた[501] 。
所有者によって、耕作地・未耕作地を問わず、土地は次のように呼ばれた。国家に属する場合は「ゴスダレヴァ(国家の)」、あるいは「ドヴォルツォヴァ(宮殿の)」の土地。分領公やボヤールの子孫が相続財産として所有する場合は「ヴォチナ(領地)」、すなわち「ヴォチナ」と呼ばれる土地。 「ポメストな土地」――国家への奉仕の対価として、奉仕者たちに割り当てられた場合。大司教、主教座、修道院、および教区に属する土地は「教会領」と呼ばれ、所有者に応じて「大司教領」、「主教領」、「修道院領」と区別された。
モスクワ公国における住民は、国家に対する義務およびそれらの義務に関連する権利に応じて、いくつかのグループに分けられていた。 これらのグループの代表者たちは、土地所有者として、自身が所有する土地の法的地位を決定していた。その後、16世紀後半からは、法的慣行によってこの相互関係が逆の順序で決定されるようになった。すなわち、ある種の土地の利用状況によって、所有者が国家財政に対してどの住民カテゴリーに属するかが決定されるようになったのである。
基本的に、住民は2つのグループに分けられた:1)ベロポメツツィ、2)チャーグリー・リディ。前者のグループには、聖職者や奉仕者(ボヤールや地主)が含まれ、彼らは自らの土地と引き換えに、教会や君主への奉仕を果たしていた。後者のグループには、金銭または現物で税を納める義務を負う人々が属していた。 そのため、モスクワ公国における土地も「ベリャ」と「チェルナ」の2つのカテゴリーに分けられていた。「ベリャ」とは、税の支払いを免除された者が所有する土地を指し、「チェルナ」とは、税負担者(チャグルイ・リディ)が所有する土地を指した[502] 。
修道院が所有する土地は、「白い」土地でも「黒い」土地でもあり得た。修道院本体、すなわち教会や教会群、修道院長や修道僧たちの住居、食堂、礼拝堂などが立地する土地は、「白い」土地とみなされ、特別な勅許状によって賦役から免除されるのが、ほぼ一般的な規則であった。 この土地は通常、石の壁や木製の柵で囲まれていた。修道院の菜園や、修道院の修道士たち自身、あるいは修道院の使用人や、修道院との契約に基づき様々な作業を行う義務を負った農民たちによって耕作されていた修道院の耕作地も、同様に「白い土地」とみなされていた。 通常(ただし常にではないが)、修道院の隣や他の場所に位置する修道院の所有地の一部も、特別な勅許状によって「白い土地」と認定されていた。修道院は「白い土地」に対して完全な所有権を有していた。
しかし、修道院は「黒い土地」も所有することができた。これは「修道院の土地」と呼ばれていたものの、国家との法的・財政的関係においては、他のあらゆる「黒い土地」と同様の扱いを受けていた。 しばしば修道院は、購入、交換、あるいは死者の追悼のための寄進を通じて、賦役地や黒地に分類される村や集落を含む土地を取得した。 修道院の所有地となった後も、この土地は「黒い土地」のままであり、修道院は、以前その土地に課されていたすべての賦税を、金銭および現物で国家に支払う義務を負った。 17世紀には、主に北部において、いわゆる「黒い修道院」が出現した。これらは当初から「黒い土地」の上に建設され、その所有地はすべて「тяглый」であった[503] 。 個々の修道院の歴史から明らかなように、修道院当局は常に、白地としての所有地を拡大し、勅許状を利用して黒地を白地へと転換し、それによって国家に対する財政的義務を軽減しようと努めていた。 16世紀には、この種の請願はほぼ常に成功していたが、17世紀には、スモウタに伴う財政難のため、政府はこの問題に関して全く異なる政策を採り、修道院による「黒い土地」の「白い土地」への転換を求める請願をほぼ常に却下した[504] 。
一部の修道院は、特別な勅許状によって個別の義務から免除されていたが、完全な免除は稀であった。 有名なトロイツェ=セルギエフ修道院は、1551年に確認された「タルハン」により、あらゆる義務から完全に免除されていた。この修道院の土地に住む農民でさえ、国家に対するあらゆる義務から免除されていた。 さらに、1541年の「非裁判権特許状」に基づき、農民は修道院の院長のみの管轄下に置かれていた。また、モスクワ公国の各郡に位置する修道院の領地で奉仕していた聖職者たちは、大主教(後に総主教)および教区司教への貢納から免除されていた。 1625年、ツァーリ・ミハイルの治世下で新たなタルハンが公布され、いくつかの変更が導入された。これ以降、この修道院は他の修道院と同様、宮廷財務局(ドヴォルツォヴィイ・プリカズ)にヤム税を納め、ストレルツの維持費として穀物を納め、要塞建設費――「オストロジュノエ・デロ」[505] ――を支払う義務を負うことになった。 イオシフォ=ヴォロコラム修道院 も、16世紀には、ヤム税とストレッツの維持のための小麦の納入を除き、すべての義務から免除されていた[506] 。
ここで挙げた義務はすべての修道院が履行しており、その廃止を求める請願書は一通も確認されていない。
修道院の農民の地位は、特別な研究のテーマとなり得るが、ここではその概要を概説するにとどめる。というのも、この問題を詳細に検討すると、本稿の分量が大幅に膨れ上がってしまうからである。修道院の土地に農民が居住していたことは、修道院を国家政策の複雑な絡み合いにますます深く巻き込んでいった。 非所有論者たちは、その論争において、修道院と農民との間の関係[507] の性質に対してだけでなく、何よりもまず、居住地としての領地そのものに対して抗議した。なぜなら、それらが原因で、修道院は国の政治的・経済的生活のあらゆる紆余曲折に不可避的に巻き込まれていったからである。
修道院の経済活動を成功裏に発展させ、修道院を豊かにするためには、修道院の土地に農民を労働力として居住させることは、重要な好条件であった。 修道院とその農民との相互関係、そして農民たちの置かれた状況の両方に注目すべきである。なぜなら、それによって、その時代の修道生活の実像における新たな特徴を見出すことができるからである。
16世紀まで、農民たちは地主の土地で自由な小作人として暮らしており、契約(ポャルドナ)――16世紀には通常口頭で、17世紀には書面で作成された――に基づき、収穫の一部を地主に納めていた。 この地代(収穫の4分の1から半分)に加え、農民は土地所有者の指示に従って特定の労働を履行する義務を負っていた。しばしば「ポルトナ」の記録には、地代を金銭や現物で支払う条件や、収穫の一部を納めることなく強制労働を履行する条件が記載されている。 さらに、農民は土地に課せられた国家税を納めなければならなかった。借地人に対しては、地代と強制労働が免除される「記念年」が定められており、これらの年には土地所有者が国家税の支払いを引き受けていた。 賃貸契約書に賃貸期間が明記されているとは限らず、場合によっては10年と定められ、その期間が満了すれば、借地人は地主への支払いを完済していれば、その領地を離れることができた。17世紀になると、賃貸契約書に借地人にとって不利な変更が加えられた。 これによって、借地人は土地を離れる権利を失い、もしそれでも離れてしまった場合、地主は借地人を連れ戻す権利を得ることになった。こうして、農民が耕作する土地への「結びつけ」が生まれ、それは後に地主への「結びつけ」へと変化し、農奴制の基礎となった[508] 。
これらすべては、大まかに言えば修道院の土地に住んでいた農民にも当てはまるが、ここでは農民のさまざまな区分に関連するいくつかの特徴が見て取れる。これらの区分は、修道院の土地所有が発展する過程で形成されたものである。
修道院が設立された際、勅許状に基づき、すでに農民が居住していた土地を授与されたため、彼らは修道院の農民、すなわち「修道院の人々」となった。 彼らは修道院と賃貸契約を結び、地代を支払っていた。16世紀には、これらの農民は「スタロジルツェフ(古住人)」という名称で地籍台帳に登録され、その後、すべての修道院の公文書においてこの名称で記載されるようになった。 M. ディアコノフの見解によれば、次第に、地籍台帳に登録されたこのカテゴリーの農民は、 自分たちが借り受けている区画から立ち去る権利を失うという慣例が定着した。 修道院当局は、逃亡した「古参住民」を捜索し、連れ戻す権利を得た[509] 。寄進や購入を通じて、修道院は新たな土地を所有するようになったが、そこにも農民が居住していた。修道院の公文書では、これらの農民も「古参住民」に分類されている。 彼らに関しては、主に以前の土地所有者と結んだ賃貸契約が引き続き有効であり、修道院当局はこれらの契約を改めて確認するにとどまり、その際、農民の義務を軽減するいくつかの変更を加えることが多かった。主に、現物納や修道院への労役に関する負担の軽減がこれにあたる[510] 。
修道院の農民の第二のカテゴリーは、いわゆる「新規入植者」、あるいは「新規契約者」であった。 第一に、修道院の土地に定住することを許可するよう修道院当局に申し出た農民たちであり、第二に、修道院自らが自らの土地に招いた農民、あるいはある領地から別の領地へ移住させられた農民たちである。 黒地(チェルナヤ・ゼマ)に課せられた賦役の重荷により、農民たちはしばしば自らの村を離れ、白地(ビリャヤ・ゼマ)である修道院の土地へ移住することを余儀なくされた。そこでは、生計を立てるための資金援助を受けたり、賦税の免除を受けたりすることができた[511] 。 新規入植者は、ほとんどの場合、一定期間(3年から5年、まれに10年まで)地代が免除されるか、あるいは大幅に減額された。さらに、彼らは修道院から生計を立てるための金銭的な「援助」を受け取った。彼らが修道院と結んだ契約書には、 賃貸期間や、援助、修道院への労役義務、国家への租税および修道院への地代(金銭および現物)に関する条件が極めて詳細に規定されていたほか、修道院当局がすべての義務の履行を要求し、これらの義務を履行しなかった農民を法的手続きに従って処罰する権利も明記されていた。 修道院では通常、特別な会計帳簿が作成され、そこに農民のすべての義務が極めて正確に記録されていた。これらの帳簿は、個々の修道院の経済史や、修道院農民の状況を把握する上で極めて重要な資料となっている。 また、そこには農民のすべての労役も詳細に記録されており、17世紀にはそれらの労役の金銭的価値も明記されていた。というのも、この時期、モスクワ公国における貨幣関係の発展に伴い、修道院当局は現物納を金銭納に置き換えようとしていたからである。 金銭を基盤とした経営に完全に移行できたのは、金銭による地代、塩の販売や貿易による収入から成る資本を保有していた裕福な修道院のみであった; 一方、豆、植物油、バター、チーズ、蜂蜜、卵、キノコ、ベリー類など、様々な農産物を必要としていた小規模な修道院は、通常、農民に対し、地代の一定部分を現物で修道院に納めるよう義務付けていた[512] 。 北部のポモリエ地方では、新規入植者は通常、修道院の土地に「ポロヴニキ」として定住し、耕作地の賃料として収穫の半分を納めていた。様々な文書から、この種の借地人が15世紀にはすでに広く存在していたことがうかがえる。例えば、キリロ=ベロゼルスキー修道院の領地などがその例である。 ポロヴニクが修道院に対して負う義務は、通常、収穫の半分を納めることに限定されていたが、もし彼らにさらに地代を支払う必要があったとしても、その額はごくわずかであった[513] 。
修道院の土地所有において、第三のカテゴリーであるいわゆる「ボブリ」と呼ばれる修道院農民も一定の重要性を占めていた[514] 。ボブリが修道院の土地を借り受けることは稀であり、彼らは自分の住居用地としてのみ土地を割り当てられていた――多くの場合、それは去った、あるいは逃亡した農民の住居用地であった。 彼らは修道院との間でいかなる契約書も結ばず、貢納も支払わなかった。せいぜい、自分たちの菜園やごく小さな畑を持っていた場合にのみ、わずかな地代を支払う程度であった。彼らは修道院のために行う労働によって生計を立てていた。すなわち、漁師、職人、仕立て屋、養蜂家などであった。 各修道院の領地におけるボビル農家の数は様々であったが、どの修道院の領地にもボビル農家は存在していた。その数は、多くの農家が完全に破綻した「動乱の時代」以降、著しく増加した。ボビル農家の数が減少したのは、17世紀後半になってからである。 修道院にとって、ボビルは様々な作業に適した安価な労働力であり、そのことは様々な会計帳簿[515] が雄弁に物語っている。
荘園の増加と修道院経済の拡大に伴い、ますます多くの労働力が求められるようになったが、前述の3つの農民カテゴリーだけでは不十分であった。 このため、修道院は二つの措置を講じざるを得なかった。第一に、農民の数を増やすこと、第二に、修道院に依存する農民として、さらに二つの新しいカテゴリー――修道院の召使い(スルジェク)と修道院の子供たち――を創設することである。
修道院が自らの土地に新たな農民を引き入れるための取り組みは、16世紀後半から17世紀前半にかけて一貫して行われた。これは、貴族や官吏の領地や荘園、さらには国有地においても同様の影響を及ぼしたため、政府は時折、修道院による農民の引き抜きを禁止または制限せざるを得なかった。 しかし、この問題においても国家の政策は一貫性を欠いていた。というのも、次々と発布される勅許状が、特定の修道院に対して例外を認めるか、あるいはすでに公布された法令に抜け穴を設けていたからであり、これは当然ながら修道院にとって有利に働いた。
農民の修道院領への移住は、私有地や国有地からの農民の離脱と結びついていたため、16~17世紀に行われた政府の措置は、農民の離脱を全般的に制限すること、言い換えれば、 農民の自由を緩やかに、段階的に制限することを目的としており、それが最終的に農奴制の誕生につながった。広範な歴史的研究によれば、農民の農奴化は、モスクワ・ルーシにおける農業の状況に関連する様々な事情が複雑に絡み合った結果であったことが示されている。 本質的には、それは封建的な権力欲の産物というよりは、むしろ経済的な必要性の結果であり、農奴化の第一段階は、農民をその土地の所有者ではなく、自らが耕作し、生活していた土地に縛り付けることだった。 修道院の農業経営が広範囲に及んでいたことは、16~17世紀の修道院による土地所有がこの過程においていかに重要な役割を果たしたかを物語っている。この役割は歴史研究において考慮されているが、十分に評価されているとは言えない。 16世紀半ば、すべての土地所有者は、自らの領地で土地を耕す農民を引き留めようとしていたが、この当時、豊かな修道院による活発な経済活動こそが、農民を従来の居住地から離れさせ、修道院の土地へと向かわせる主な要因となっていた[516] 。
すでに15世紀には――後述するように――修道院は、農業に従事する労働力を自院に縛り付け、その離脱を困難にするとともに、農民を自らの土地に法的に結びつけることを図っていた。それによって、農民を隷属させた将来の立法のための前提が築かれていったのである。
本稿の目的は、一連の問題のすべてを詳細に論じることにない。ここでは、修道院の土地所有の歴史に直接関連するいくつかの現象にのみ焦点を当てることにする。
地主全般、とりわけ修道院の農場にとっては、農民の出稼ぎを制限し、その期間を明確に定めることが重要であった。 そして、修道院の文書の中に、そのような期間の設定が見受けられる。1450年にミハイル・ベロゼルスキー公がキリロ=ベロゼルスキー修道院に授与した勅許状では、農民の出稼ぎ開始日として、聖ゲオルギオスの記念日である「ユリエフの日」である11月26日(旧暦)が定められている[517] 。 トロイツェ=セルギエフ修道院への勅許状の一つ(1455–1462年)では、一部の領地から農民を一切解放しないことが許可されていた[518] 。 1497年の法典では、11月26日を全国共通の農民の移動期限と定めており、農民は当該期限の8日前から8日後までの期間に新しい土地へ移住することが許可されていた。 1550年の法典(第88条)はこの規定を再確認した[519] 。これらの規定は、修道院が農民を自らの土地に引き抜くための合法的な手段を与え、この権利は非常に積極的に行使された。 『ストグラフ』(1551年)もまた、農民にユーリエフの日に自由に移住する権利を残しつつ、同時に、地主や修道院が、この期限までに、農業に従事している農民および従事していない農民を、スロボダの空き家屋に移住させる権利を得るという規定を導入した[520] 。 『ストグラフ』は、未納の税金がない農民のみを自らの土地に受け入れることを明確に定めていたが、修道院はこの規定を回避し、政府は数多くの請願を受けて、こうした濫用に対して措置を講じざるを得ないことが頻繁にあった[521] 。 16世紀70~80年代の経済危機は、農民の各地への大規模な移住を引き起こし、修道院の領地へ農民を引き抜く機会が増加した。 政府もまた、農民が特定の地主の土地を離れて別の地主のもとへ移ることを頻繁に許可しており、その結果、生活条件に不満を抱く農民や、あちこちをさまよう新たな移住者が多数生み出された。 さらに、16世紀80年代初頭、全般的な経済的衰退により、農民の離農をユーリーの日に限定していた1550年の布告が廃止され、 これ以降、農民は他の日にも土地を離れることが許可されるようになった一方で、いわゆる「ゴスダレフ・ザポヴェドヌイェ・レタ(君主の禁出の年)」[522] が導入された。
絶え間ない農民の逃亡は、政府宛ての請願書の殺到や、世俗の地主と修道院の間、さらには修道院同士の間での訴訟を引き起こした[523] 。 1597年の勅令[524] により、世俗・宗教を問わずすべての地主に対し、5年以内に逃亡し他の領地に定住した農民の返還を裁判を通じて請求する権利が与えられた。5年以上前に逃亡した農民は、もはや元の場所へ戻される対象とはならず、新しい地主のもとにとどまることができた。 このようにして、いわゆる「期限付き居住」が生まれ、これは1649年の法典制定までのモスクワ公国の農民史において重要な役割を果たし、修道院の土地所有の発展にも一定の影響を与えた。 1607年3月9日の勅令により、ウロチヌイ・レタは15年間に延長された[525] 。スムータの直後、修道院は政府に対し、自分たちに対するウロチヌイ・レタの延長を求める請願書を提出し始めた[]。 例えば、トロイツェ=セルギエフ修道院は1614年に 、過去9年間にその領地から逃亡した農民を連れ戻す権利を与えられ、1615年にはその「ウロチヌイ・レタ」が10年間に延長された。 1619年には、イオシフォ・ヴォロコラム修道院も同様の特権を認められた[526] これらの特権は、特に、例えばトロイツェ=セルギエフ修道院が10年の「逃亡期間」が経過した後でも逃亡した農民を連れ戻していたことなどから、従軍貴族たちの不満を招き、彼らはこの特権の廃止を求める請願書を政府に提出した。 しかし、1637年および1642年の勅令により、トロイツェ=セルギエフ修道院に対する10年間の服役期間が再確認された[527] 。従事者たちの請願が、その後の立法に影響を与えた可能性も排除できない。 1646年、戸籍簿の導入に伴い、戸籍係への指示書には、これらの簿に記載された農民とその子供たちは、いかなる「ウロチ」の期間も設けられず、土地に「堅く定着する」と記された。 2年後、定年制は公式に廃止され、1649年の法典(第9章第3項、第15章第3項)によって、農民の土地および地主への結びつき、ならびに地主の農民への結びつきが最終的に確立された。 1646年の戸籍台帳が農民の土地への固定化の基礎となったという事実は、修道院の経済的利益に完全に合致しており、その結果、修道院の土地にある農民の家屋は修道院の所有下に留まることとなり、これは1649年の法典によって公式に確認された。
政府による様々な私的・公的な指令や、教会会議の判決は、修道院の所有地の拡大を制限することはできず、また我々の見解では、そもそもそのことを目的としてさえいなかった。したがって、ツァーリの勅令や1497年および1550年の『ウロジェン』は 修道院の土地への農民の絶え間ない流入にとって、実質的な障害とはなり得なかった。このことを最も鮮明に証明しているのは、上述した17世紀後半におけるこれらの土地の農民世帯数に関するデータである。 修道院当局は、特別な勅許状を入手すれば、これらの規定は常に回避できることを認識していた。また、個別の事例では、モスクワにおける修道院代表者たちの巧みな政治手腕のおかげで、これらの規定を修道院に有利に転換することに成功した。さらに、政府自身が絶えず自らの法的規定に違反し、土地の分配を続けている様子も見ていた。 修道院は、自らの土地への農民の流入が減少することを恐れてはいなかったものの、それにもかかわらず、絶えず新たな労働力を探し求めていた。その理由の一部は、すでに言及した状況、すなわち修道院が新しい農業経営システムへと徐々に移行し、自前の耕作地の規模を拡大していったことにある。 さらに、修道院の所有地が拡大するにつれ、個々の修道院では新たな農業部門が誕生したり、既存の部門が拡大したりしたため、修道院にとっては、修道院の農民よりも修道院と密接な結びつきを持つ労働力を、そうした部門で活用する方が都合が良かったのである。 これが、狭義における3つの修道院関係者のグループ――1)修道院の使用人(スルジェク)、2)修道院の子供たち、3)職人――が比較的広く普及した理由である[528] 。
修道院の使用人は、古くから修道院やその農場において活用されてきた[529] 。彼らは修道院内で様々な仕事をこなし、厩務員、羊飼い、番人、漁師、養蜂家、職人などとして働いていた。 修道院の敷地が拡大し、新たな増築部分や建物、厩舎、納屋などが建設されるにつれて、修道院の使用人の数も増えていった。 彼らは修道院から住居、衣服、食糧の支給を受け、一部には金銭的な報酬も与えられていた。これは通常、クリスマス、イースター、聖霊降臨祭、あるいは聖使徒ペトロとパウロの祝日に贈られる贈り物の形をとっていた。 この人々のグループは、もはや自分の土地を耕すことができず、また耕す気もない貧困化した農民 、スロボジャ人、戦争の障害者などで構成されていた。17世紀には、修道院の使用人たちは通常、修道院と口頭契約を結ぶか、あるいは書面による取り決め[530] を交わしていた。
「デテニシ」は、修道院の土地に住んでいた人々の中でも最も興味深いカテゴリーの一つである。このカテゴリーは修道院の文書で頻繁に言及されているにもかかわらず、その境界は明確に定義されていなかった。歴史文献には、この集団に関する明確な特徴付けがなく、その発生や形成の歴史も追跡されていない[531] 。 この不明確さは、デテニシに関する文書での記述がまちまちであることに起因している。ある文書では彼らは修道院の使用人と同列に扱われ、つまり使用人と同様に修道院のために労働を行っているとされる一方、別の文書ではデテニシは土地で働く農民として描かれている。 彼らは修道院の壁の内側にも、修道院のスロボダ(集落)にも住んでおり、時には修道院の村に自分たちの庭さえ持っていたこともあった。また、職人としても働いていた――17世紀後半には、修道院の経済活動のほぼすべての分野で従事していたと言ってもよいだろう[532] 。 資料には、16世紀半ばから修道院の「子分」について言及がある[533] 。彼らの出現と数の増加は、修道院が所有する農地の拡大と関連づけられる[534] 。一方、彼らは成人した人々、つまり貧困化した農民や小作人であり、修道院の畑を耕し、草刈りをし、漁師としても働いていた。 修道院からの金銭的援助のおかげで、彼らは自分たちの農地を手に入れたり、逃亡した農民や借金を抱えた農民が放棄した荒れ果てた農地を受け取ったりした。修道士たちと同様、デテニシも税や地代から免除されていた[535] 、修道院に対する義務は労働によって果たしていた。 一方で、孤児たちの大部分(特に17世紀には)は、孤児や修道院の農民、貧農の子供たちであった。 例えば、1636年にはソロヴェツキー修道院に本格的な孤児院があり、そこには約300人の子供たちが暮らしており、菜園や修道院の厨房などで軽い修道院の仕事をこなしていた。 ――この状況を受け、ツァーリは修道院のイグメン(院長)に特別の書簡を送り、無秩序な行為を防ぐため孤児たちに対する厳格な監督を求めるとともに、これらの子供たちのために修道院の壁の外に専用の施設を建設するよう命じた[536] 。農民、とりわけ貧農たちは、喜んで自分の息子たちを修道院に預けた。 当初、彼らはソロヴェツキー修道院と同様に軽作業に従事し、その後、農民の娘と結婚して自分の家を持ち、修道院の畑で働いたが、伝統と財政上の理由から、修道院の文書上では引き続き修道院の「子供たち」として登録され続けていた。 17世紀には、修道院とその成人した「デテニシ」との間の契約(この場合、通常は「ポャードナヤ」ではなく「ジレツカヤ・ザピス」と呼ばれていた)が見られるようになり、契約書には双方の義務が列挙されていた[537] 。 17世紀の登記簿には、修道院に依存していたこのグループの人々や、修道院の若者の住居に関する多くの情報が記載されている[538] 。
修道院では常に様々な手工芸品が必要とされていたが、当時の自然経済の下では、それらを自ら製作せざるを得なかった。これが、修道院やその近隣の修道院集落に、多くの職人が住み、修道院のために働いていた理由である。 大工、石工、木工職人、樽職人、鍛冶屋、靴職人、仕立て屋、馬具職人などの職人たちが、修道院のため、そしてしばしば修道院の農民たちのために、道具、プラウ、馬鋤、シャベルなどを製作し、 仕立て屋や靴職人は、修道士や修道院の使用人、そして子供たちのための衣服や靴を縫製していた。
イオシフ修道院には100人以上のこうした職人がおり、そのうち37人は少年であった[539] 。1628年から1629年にかけて、ヤロスラヴリのスパス修道院には27軒の家屋が属しており、そこには27人の職人が住み、修道院のために働いていた。 スロボダには194軒の家屋があり、ここにも修道院の職人たちが住んでいた。そのうち25人は見習いで、彼らは修道院とその領地に必要なもののほぼすべてを製造していた[540] 。 リャザン郡のソロチンスキー修道院は、自院の職人たちの手によって、修道院自らが必要とするもののほぼすべてを製造しており、製品の一部は販売に回されていた[541] 。 スモレンスク地方にあるドロゴブジのボルディン修道院の会計帳簿は、修道院の職人たちの労働の重要性、修道院の財政状況、そして職人への賃金について判断を下すための豊富な資料を提供している。 彼らは労働に対する金銭的な報酬だけでなく、奨励として、通常は金銭による贈り物を、クリスマスやイースターに受け取っていた[542] 。
専門の仕立て屋は司祭の祭服を、金銀細工の職人は礼拝用の器を製作した。また、常に独自の養蜂場を保有していた大規模な修道院では、蝋燭が製造されていた。
雇われ労働は極めて重要な役割を果たしていた。例えば、広大な農地を擁するソロヴェツキー修道院では、修道院の文書によると、1621年には700人の雇われ労働者が働いており、修道院から住居、衣服、および金銭を受け取っていた。 彼らは、漁業、製塩所、塩の運搬など、さまざまな経済活動に従事していた[543] 。
修道院の所有地の絶え間ない拡大と修道院経済の発展に伴い、修道院はしばしば多種多様な製品を大量に保有することとなり、その量は修道院の需要を上回っていたため、修道院は貿易に従事せざるを得なかった。一方で、修道院は修道者たちのために様々な食料や商品を必要としていた。 取引の第一かつ最も重要な品目はパンであった。パンが余る修道院もあれば、逆に修道者たちのために購入せざるを得ない修道院もあった。修道院は、主に死者の冥福を祈るための寄付金から成る相当な資本を保有していることが珍しくなかったため、これらの資本を商業目的に活用することができた。
小規模で貧しい修道院は、必要な食料を調達するために、自給自足で生産した農産物の一部を売却せざるを得なかった。 極北にあるペチェンガのトロイツキー修道院の修道士たちは、イヴァン4世への請願書の中で、厳しい気候と土地の不毛さのために農業に従事することができず、「その修道院では…… 海で魚を捕り、塩を煮詰めて、その塩を運んで売っている……そして、その塩をヴォログダやヴォロゴツキー郡で売り、塩の代金で……修道院の生活に必要なあらゆる物資を購入している: ライ麦、小麦粉、大麦、オート麦、トロークノ、穀粒、バター、毛織物、靴、その他あらゆる修道院の備品」[544] 。南部の肥沃な地区にある修道院も、自給自足で自らの需要を完全に満たすことができない場合には、購入に頼っていた[545] 。 貿易を行うため、多くの修道院は、17世紀に主要な商業の中心地となったヴォログダに、独自の店舗や支所を建設し、特別に任命された修道士や信頼できる者がそこで売買に従事した。このように、1626年にはヴォログダに少なくとも36の修道院の店舗や倉庫が存在していた[546] 。
修道院にとっても、モスクワ・ルーシの経済全体にとっても、最も重要な交易品は塩であった。塩は主に魚の塩漬けに使われ、魚は断食期間中の主食であった。当時、断食は修道院だけでなく、すべてのロシア人によって厳格に守られていた。 続いて、修道院の交易品目には魚、蜂蜜、蜜蝋が挙げられる。豊かなキリロ=ベロゼルスキー修道院は、自領の畑では十分な量の穀物を栽培できなかったため、穀物を購入すると同時に、自院の製塩所から塩を販売しており、これが大きな収益をもたらしていた。 また、修道士や修道院の使用人のためのその他の食料品、工芸品、農産物、衣類、靴なども購入していた[547] 。
ザヴォルジエ地方やポモリエ地方では、修道院が特に活発に貿易を行っていた。彼らは数多くの塩田や製塩所、漁場、養蜂場を所有しており、そこで生産された製品はモスクワの市場で瞬く間に売り切れた。その一方で、彼ら自身も食料や手工芸品を必要としていた。 ヴォルガ川やカマ川で漁場を所有していたポニゾヴィエの修道院は、キャビアや、需要の高かった白身魚――ステルジャ、ベルーガ、チョウザメ――を取引していた[548] 。
すでにいくつかの裕福な修道院の経済活動については概説したが、ここでは、白海に面した有名なソロヴェツキー修道院の経済活動に注目したい。同修道院は、瞬く間に極北最大の貿易拠点へと変貌を遂げ、貿易のおかげでモスクワ公国で最も裕福な修道院の一つとなった。
ソロヴェツキー修道院は1429年から1436年にかけて、世を離れて静寂を求めるために人里離れた北方の島々を訪れた二人の修行者、聖ゲルマンと聖サヴァティイによって設立された。 聖ゾシマ(1452–1478)の修道院長時代には修道院は著しく発展し、フィリッペ (1548–1566)の在任中に最盛期を迎えた。フィリッペは後のモスクワ都主教となる人物であり、並外れた才能の持ち主であった。また、ツァーリ・イヴァン4世との論争[549] が示すように、教会の利益を守るという点で原則を貫く聖職階級の傑出した代表者でもあった。 すでに15世紀後半には、ヴェリキー・ノヴゴロドから授与された不可侵の特許状に基づき、修道院は広大な土地と白海での漁場を所有しており、これらの所有地はその後、大公たちの特許状によって修道院に確固たるものとなり、さらに拡大された。 1555年には、スムスク郡だけでも修道院は33カ所の塩田を所有しており、その後さらに新たな塩田が購入された[550] 。これにより、修道院はモスクワ公国全土で塩の取引を行うことが可能となった。16世紀半ば、ソロヴェツキー修道院は6000プードの塩を販売した。 1世紀後には、修道院の製塩所からはすでに13万プードの塩が生産され、自前の船でドヴィナ川やスホネ川を経由してヴォログダへ運ばれ、そこで販売されていた。この取引に対し、修道院は毎年658ルーブルの関税を国に納めていた。 17世紀半ばに修道院が支払ったすべての賦税の総額は4,000ルーブルに上った。修道院の製塩所、漁業、および船舶運航には700人の労働者が従事しており、彼らは修道院から給与、衣服、食糧を受け取っていた; この数字は、修道院の経済活動の規模の大きさを物語っている[551] 。進取の気性に富んだ修道院長たちは、17世紀後半 に、白海や北部の河川で活動する自前の商船隊のために、ロープ工場さえ建設した[552] 。
修道院は工業企業も設立しており、その一例として、ブリャンスク近郊のスヴェンスキー修道院が挙げられる。同修道院は独自の製鉄炉を所有していた[553] 。
すでに述べたように、修道院の商業活動において、寄進や死者の冥福を祈るための寄付から成る資金は極めて重要な役割を果たしていた[554] 。 さらに、16世紀半ば、ツァーリ・イヴァン4世のオプリチニナ時代には、多くのボヤールや従臣たちが、略奪や没収を恐れて、自分たちの金銭、金、宝石などを修道院に預けていた[555] 。 預託台帳には、動産として、金銭、金、装飾品、食糧、家畜、馬、さらにはイコンや礼拝用書物、衣服などが記載されている[556] 、また不動産として、土地や村も記載されている。 通常、寄進契約書には、寄進者が生涯にわたり自身の財産――土地や荘園――を引き続き利用し続けるという条件が定められており、パヴロフ=シルヴァンスキーによれば、これは西ヨーロッパ中世のプレカリア(praecaria oblata)に類似しているという[557] 。 寄進者は自身の荘園を完全所有権として修道院に譲渡し、修道院からそれを返還される際、もはや所有物としてではなく、修道院からの恩賜として利用権を得る。寄進記録には、「神が私の寿命を延ばしてくださる限り、アルヒマンドリトが私をそこから追い出さないよう恩賜してくださる」という文言が頻繁に見られる。 16世紀90年代、政府は寄進された財産の終身使用権の合法性を認めた。残念ながら、寄進記録や遺言書からは、寄進者や遺言者が存命の間、修道院が寄進財産をどのように利用していたかを読み取ることは困難であり、その利用は数十年にも及ぶことがあった[558] 。 遺贈された不動産は、必ずしも修道院にとって便利な場所にあったわけではなく、また経営上不利な場合もあったため、修道院はしばしばそのような寄進を売却したり、より適切な領地と交換したりしたが、その際は常に修道院にとって有利な条件で行われていた[559] 。
これらの取引と密接に関連していたのが、修道院による土地の質入れの受け入れであった。というのも、修道院は常に多額の資金を保有していたからである。 また、他の地主たちとは対照的に、彼らの経営は君主への奉仕によって大きな損害を被っていた(彼らは軍備に多額の資金を費やし、軍事遠征に参加した地主の不在により、その領地や荘園は荒廃し、通常は放置された状態にあった)のに対し、 修道院の経営は常に綿密な監督下にあった。困窮により、従軍者たちは軍備の調達や領地の修復のために金を借りざるを得なかった。これが、修道院への領地の抵当設定や、修道院からの利子付き借入が数多く行われた理由である。 このような、全地公会議の規範に反する横行は、ロシアの聖職者の生活に深く根付いており、ストグラヴィー公会議やアレクセイ皇帝の『法典』が聖職者による利子の徴収を厳格に禁止していたにもかかわらず、16世紀および17世紀にも存続していた[560] 。 修道院は金を貸し出す際、土地や家屋を担保として受け取り、その際に抵当権設定証書が作成された。これは貸付期間の満了後に売買契約書に置き換えられ、 これに基づき、利息の代わりに特定の動産または不動産が修道院の所有権に移転した[561] 。 遺言、贈与証書、抵当権設定証書によって取得された資産は、修道院当局によって頻繁に売却または交換され、その際は常に修道院にとって有利な条件で行われた。また、修道院が国家財務省と資産を交換することも珍しくなかった――それは君主の意志による場合もあれば、修道院からの請願による場合もあった[562] 。
こうした取引はすべて、修道院の富の増大につながり、修道士たちを修道院の壁の外で様々な活動に従事させることを余儀なくさせ、最終的には修道規律に悪影響を及ぼした。
数多くの広大な修道院所有地からの収入を増やすためには――そして、これにはほぼすべての修道院長が熱心に取り組んでいた――多くの管理要員が必要とされた。 彼らは二つの任務を果たさなければならなかった。一つは、修道院に物質的な損失が生じないよう綿密に監視すること、もう一つは、修道院が国家に余分なものを渡さないよう、さらに細心の注意を払うことである。誤って国家当局に、勅許状に定められた以上のものを修道院に要求する口実を与えないようにするためである。
修道院長は、修道院の精神的・経済的運営の両方を統括していた。就任に際し、修道院長は極めて詳細な目録、すなわち「大蔵目録」に基づいて修道院の財産を引き継いだ。 そこには、修道院が所有する金銭、礼拝用器物(礼拝用器の一覧を含む)、イコン、あらゆる種類の動産、文書――その中には、修道院と農民との間のすべての契約書、売買契約書、抵当権設定記録などが含まれていた。[563] 修道院の管理に関するあらゆる業務において、修道院長を補佐したのは会計係であり、その直接の責務は修道院の経済運営を管理することだった。
修道院の経営は、年配の修道士か、修道院から信頼された者たちによって行われていた。これらの修道士は、通常は修道院の兄弟たちによって選出され、時には院長によって任命され、修道院の文書では「ソボルヌイ・スターツェ」と呼ばれている[564] 。 彼らは「村の長老」として修道院の領地や村に派遣され、そこで修道院の権威を代表していた。修道院内では、彼らは多種多様な務めを果たしていた。厩舎と厩務員を監督するのは厩舎の長老であり、食堂を監督するのは食堂の長老であった。
次第に、特に17世紀には、彼らに代わって、信徒である「ベルツィ」と呼ばれる奉仕者がますます多く起用されるようになった。彼らは修道院に属する人々であった。 これらの修道院の人々、あるいは修道院の使用人を、前述した修道院の使用人と混同してはならない。主に管理業務に従事していたこれらの使用人は、その多くが貧困に陥ったボヤールや貴族の家系出身であり、文書ではしばしば「修道院のボヤールの子供たち」と呼ばれている。 こうしたボヤールの息子が、借金に苦しむ自分の領地を寄進したり、死後の供養のために修道院に譲り渡したりすることも珍しくなく、自身は修道院のスロボダに定住し、修道院の領地や村々で村長や管理人として奉仕することで生計を立てていた。 このような「修道院の人々」、すなわち修道院の召使いの数は、大規模な修道院では非常に多かった。 修道院のスロボダには彼ら専用の恒久的な住居があり、さらに、時には1年間にわたり 、様々な行政業務を遂行するために遠方の村や領地へ派遣されることもあった。トロイツェ=セルギエフ修道院には、15世紀20年代にはすでに「奉仕者用スロボダ」が存在しており、これが徐々にセルギエフ・ポサドへと発展していった。 1594年、修道院には159人のこのような修道院従事者がおり、そのうち43人が管理業務に従事し、116人が修道院の騎馬連隊を構成していた。スムータの時代、ポーランド軍による修道院包囲の際、彼らは修道院の城壁上で奮戦し、勝利を収めた。 1692年にはスロボダにすでに160軒の家屋があり、1651年には修道院に371人の騎馬戦士がいた。1646年の税務台帳には217人の騎馬戦士が記録されており、そのうち60人はボヤールや貴族の出身であった; 1677年の記録簿には、修道院の使用人の世帯が242世帯あったと記されている。1651年、アレクセイ皇帝はこの修道院から230人の騎兵を遠征に徴用した。 修道院の従者の中には、司祭の息子や商人もいたが、農民だけは存在しなかった。農民は、別のグループの修道院従者、あるいは「デテニシャ([565] )」に分類されていた。司祭の息子たちは、修道院の事務所で書記(ディアック)や書記補として、また修道院の料理人として奉仕していた。 後者は、すべての大規模な修道院において重要な役割を果たしていた。彼らはモスクワにおける修道院の公認代表者であり、修道院の支所に住み、修道院を代表して、宮廷事務局、そして後に修道院事務局と、極めて多岐にわたる事柄について連絡を取り合っていた。 彼らは極めて活動的で有能な人々であり、現地の事情に精通していること、またモスクワにおける官庁業務の複雑な流れに熟知していたことから、修道院にとってほぼ不可欠な存在であった。彼らの影響力は非常に大きく、修道院長は常に彼らの要望や要求に応えていた[566] 。
大規模な修道院の領地管理がいかに複雑な業務であったかは、例えば、18世紀初頭のトロイツェ=セルギエフ修道院に60のプリカズが存在していたという事実からも窺える。また、イオシフォ=ヴォロコラム修道院は、その土地所有権を5つのプリカズに分割し、その各プリカズの長にはポセルスキー・スターツィが就いていた[567] 。 領地や村々には修道院の支所があり、そこには「ポセルスキー」たちが住んでいた。これらは行政機関であり、農民の代表者が修道院当局と諸事を決める場であり、金銭や現物による地代が納められ、また「ネスディミエ・グラモタ」に基づき、「ポセルスキー」たちが農民に対して裁判を行っていた場所でもあった[568] 。
特許状、そして主に「非訴状」が、修道院の領地に住む農民に対する修道院およびその住職の権力の法的根拠を構成していた。大宮殿の命令――そして1649年から1677年にかけては 修道院局――は、修道院の所有地に関連する財政および司法上の問題を管轄する政府機関であった[569] 。前述の第VI章で、大宮殿局についてはすでに説明したが、ここでは修道院の所有地の内部管理に関連してのみ触れておく。
勅許状は修道院に財政上の権利を付与していたが、修道院の土地に住む人々の義務の範囲や規模については定めておらず、それは修道院当局自身の裁量に委ねられていた。 修道院と、その土地に住む住民との間で交わされた数多くの契約書から、これらの義務の規模は修道院ごとに異なり、さらには同一の修道院の異なる領地間でも異なっていたことが見て取れる。 修道院は、その代理人である村の長老や管理人を通じて、労役の履行や金銭・現物による賦課の期日通りの納付を監督していた。現地の状況や自然災害――霜害、干ばつ、洪水など――は、賦課額の減額理由となり得たが、その判断は修道院の裁量に委ねられていた。 政府と修道院は、「納税義務者が納税を免れないように」という、農民による納税の回避を阻止するという同じ目的を追求していた。 大宮殿局は地籍台帳を管理しており、後に修道院局の時代には、同様の役割を人口調査台帳が果たした。これらは政府にとって、賦役の配分における法的根拠となっていた。
修道院が国家に納める税額は、課税台帳に記載された「ソハ」(ソハとは耕作地の面積単位)の数量に基づいて決定された。修道院の領地では、ごく稀な例外を除き、ソハは600チェヴェルチであった。各修道院に課される税額は、修道院ごとに異なっていた。 1557~58年にペスノシュ修道院(モスクワ近郊)に交付された勅許状では、ソハ1つにつき1ルーブルの税額が定められていた。一方、例えばソロチンスキー修道院は、17世紀後半にはソハ1つにつき3.27ルーブルを納めていた。[570] すでに述べたように、1679年には、1676年から1678年にかけて作成された新しい戸籍台帳に基づき、ソハ税は「ポドヴォル」課税に置き換えられた。一方、修道院の所有地については、ポドヴォル課税はすでに1623年から1630年にかけて導入されていた。 これは1630年5月19日の勅令によって最終的に定められた。興味深いことに、国家にとっては有利であるが、修道院の経営にとっては負担となるこの措置は、すでにフィラレート総主教の時代に実施されていたのである。 1630年5月19日の、いわゆる「居住区」に関する勅令により、税金は土地の面積ではなく、修道院の所有地内にある家屋の数に応じて算定されることとなった。つまり、農業に従事していない人々、例えば小作人や職人などの家屋も課税対象に含まれたのである。 この新しい慣行が修道院にとって極めて不利であったことは明らかである[571] 。 しかし、17世紀になると、財政問題において政府は16世紀よりも断固とした姿勢で臨むようになった。16世紀には、特別な特許状によって、トロイツェ=セルギエフ修道院やイオシフォ=ヴォロコラムスク修道院などの一部の修道院はあらゆる課税から免除され、他の修道院も一定期間、特定の種類の税から免除されていたのである。 1649年の法令により、これらの特権は完全に廃止された。
土地税のほかにも、修道院は国家に対して他の義務を負っていた。これらの義務に関して、古くから、修道院に勅許状を授与していた国家は、主に軍事奉仕や警備業務に関連する一定の義務を修道院に課そうとする傾向が見られた。 15世紀の勅許状にはすでに、税を免除された修道院が要塞の建設において金銭的・物的支援を行わなければならないという条件が盛り込まれていた[572] 。S. ロジェストヴェンスキーが指摘したように、16世紀の勅許状は常に、国家全体および軍事的な性格を持つ活動への修道院の参加を規定していた。 古い特権状が承認される際、以前の特権の一部はしばしば廃止された[573] 。1584年の勅令によるタルハンの廃止は、防衛上の必要性によって正当化された。政府は、裕福な修道院に対し、小規模な軍部隊を養うか、要塞の建設に参加することを義務付けた。 例えば、ソロヴェツキー修道院は100人のストレッツを養う義務があり、さらに白海の沿岸に砦を建設した。その見返りとして、スウェーデンとの戦争後、同修道院はポソシュな税の免除を受けた。トロイツェ=セルギエフ修道院は、前述の通り、軍事奉仕のために騎馬兵の部隊を派遣する義務を負っていた。 南部のカシラ市近郊にあるベロペソツキー修道院は、強力な石の城壁を築き、その上には大砲が設置され、修道院の若者たちがその操作を担当していた。ポニゾヴィエ地方のテチュシ市にあるトロイツキー修道院は、要塞化された防衛線――「ザセチヌイ・チェルト」――での見張り任務を担っていた。 コストロムにあるイパチェフスキー修道院も、堅固な石の城壁と修道院の者たちからなる軍隊を擁していた[574] 。 S. ロジェストヴェンスキーは、「16世紀後半、修道院の領地は、世襲領や地方領よりも重い課税が課されていた」と記しているが、勅許状によって様々な特権が与えられていた[575] 。 「スムータ(1605–1613年)」の期間中、多くの修道院は、その堅固な城壁のおかげで防衛上の重要性を帯び、 モスクワ公国の軍隊によって、ポーランド軍との戦いに利用された[576] 。このように、16世紀に行われた措置は十分にその価値を証明した。 特に有名なのがトロイツェ=セルギエフ修道院の包囲戦である。修道院を包囲したポーランド軍は多大な損害を被り、修道院の戦士たち――修道院の従者、修道士、近隣の村の住民――によって撃退された[577] 。スムータの時代、国家は軍隊の維持のために修道院の資産や穀物備蓄も利用した[578] 。 17世紀においても、政府は軍事目的で修道院の資金や穀物備蓄を頻繁に利用しており、修道院は軍隊の維持のための単発的な徴収からも免除されなかった[579] 。したがって、修道院の資金を軍事目的に利用したピョートル大帝の措置について、歴史家による批判的な指摘や同時代人による嘆きは根拠がない。 ピョートルは単にモスクワ政府の従来の政策を継続したに過ぎず、1696年に修道院の会計帳簿を大宮殿の官庁に提出するよう命じ、修道院に対し自身の許可なしにいかなる支出も行わないよう禁止した際も、 この措置は修道院にとって何ら目新しいものではなかった。というのも、以前から修道院局が修道院の帳簿を点検していたからである。しかし、国家が今や用いるようになった口調は、より厳しいものとなった[580] 。
全国的な義務には、いわゆる「ヤムス金」も含まれており、その支払いは15~17世紀の勅許状によってすべての修道院に課されていた[581] 。 捕虜の身代金として金を徴収する場合も同様であり、修道院をはじめとするすべての教会機関は「捕虜金」を支払う義務を負っていた。ストグラフはこの義務も確認している[582] 。
ここでは、修道院の領地に住む人々の管轄権の問題について触れておきたい。 法的に、修道院や修道士と教会および国家との関係は次のようなものであった。修道士は聖職者として、教会法上の観点からは大司教や教区司教の管轄下にあり、一方、修道院は土地所有者として国家、すなわち大公、そして後にはツァーリの管轄下にあった。 この点については、教会階層から異議は出されず、この管轄関係は、イオシフ・ヴォロツキーも、ストグラヴァの司教たちも[583] 、異議を唱えなかった。 しかし実際には、一方では修道院と教区主教との間、他方では修道院と国家との間の法的関係は、大公や皇帝による「免訴状」によって定められていた。その内容については、これらの免訴状は一律ではなかった。 あるものは修道院を教区司教の管轄から完全に免除し、別のものは純粋に教会的な事柄を除くすべての事案において管轄権から免除していた。教会階層は当然ながら、前者の種類の免訴勅書に反対していた。なぜなら、それらは教会のカノンに反し、国家による宗教裁判への干渉を意味していたからである。 『ストグラフ』は、このような免訴状が今後発行されないよう定めた。しかし、この決定はまもなく忘れ去られ、ツァーリ・イヴァン4世は相変わらずそのような免訴状を発行し続けた[584] 。
修道院の住人や修道院の領地に対する司法権を修道院長に委譲する「非裁判令状」においては、以下の3種類の事件が区別されていた:1) 刑事事件――現場で現行犯として摘発された殺人、強盗、窃盗は、一般的な国家法典に基づき国家当局の裁判の対象となった; 2) その他の刑事事件および修道院の農民間の紛争は、修道院長またはその代理人が審理した;3) 紛争当事者が異なる管轄権に属する場合、「混合裁判所」が設置され、そこには修道院長の代理人または修道院長自身、および国家官吏が参加した。 通常、裁判活動は修道院長自身によって行われることはなく、修道院の領地の広さを考えれば、彼にとってそれは不可能なことでもあった。彼はその権限を「ポセルスキー」に委譲し、彼らは数名(3~5名)の農民代表の立ち会いのもとで裁判を行い、判決を下した。 農民たちは、不当な判決に対して、修道院長本人に対して上訴する権利を持っていた[585] 。
修道院同士、あるいは修道院と世俗の地主との間で生じた、領地間の境界線や逃亡農民など、様々な係争事項に関する訴訟は、大宮殿庁の裁判所に付託され、1646年以降は修道院庁の裁判所に付託された[586] 。 修道院の所有地がこれらの世俗機関の司法管轄下に置かれることは、聖職者たちの意に反するものであった。なぜなら、世俗当局は、教会階層の確信によれば、彼らの管轄外であるはずの問題に頻繁に介入していたからである。 一方で、多くの修道院(主に前述の「黒い修道院」たち)は、まさに世俗の官庁へのこのような従属を望んでいた。特に、パトリアルヒ・ニコンは、修道院局の存在とその活動に対して激しく抗議した[587] 。1667年および1675年の公会議の判決は は、教会階層による国家に対する一時的な勝利を告げるものであった。というのも、アレクセイ皇帝によって承認されたこれらの判決により、修道院局が聖職者に対して有していた司法権は終焉を迎え、修道院の所有地に関連するあらゆる問題について、修道院は教区主教の司法権下に移行したからである[588] 。 これ以降、修道院局は修道院の土地からの租税徴収のみを担当することとなった。同局は依然として修道院の会計帳簿を点検し、国家全体の義務の履行を監督し、課税のための修道院資産の目録を作成するなどしていた。 1677年、修道院局は廃止され、これらの業務はすべて再び大宮殿局に移管された。このような状況は17世紀末まで続いたが、ペトロ大帝による改革に伴い、聖職者の管轄権の問題、および修道院の所有地に関する問題全般において、いくつかの変化が生じた[589] 。
外からは世俗の堕落的な影響が修道生活に侵入していた一方で、修道院の壁の内側では、修道生活の基礎が、時に教会の伝承の精神に従うのではなく、独自の解釈に基づいて理解されることがあった。 この危険性は、キリスト教禁欲主義の最も初期の段階ですでに認識されており、それは最古の禁欲主義的著作や、修道生活の先駆者たちの活動によっても証明されている。 聖なる教父たちは、その著作や実践において、禁欲的実践における独断の危険性に特に注意を払っていた。なぜなら、自らの判断で救いを求めようとする傾向は、通常、修道院生活の世俗化に先立って現れるものだったからである。 これに対抗するため、様々な修道生活規則が制定され、それらは修道規則や修道院の規律にまとめられた。これらの規則は、時代や地域の状況の影響を受け、またその制定者たちの禁欲的見解の個性を反映しながら、徐々に 変化していった。 しかし、その根底においては、それらはすべて、修道院の創始者であり最初の規則の制定者である聖パホミオス大聖人の精神に則った、古代キリスト教の伝統に深く根ざしている。後世の修道者たちは、聖パホミオスの業を継承し、東方キリスト教の修道生活を、真のキリスト教的禁欲主義の正しい道へと導いた[590] 。
前述(第II章参照)のように、古ロシアの修道生活の初期段階を特徴づける際、我々はすでにキエフ・ルーシの最初の修道院の規則について触れた。 ここでは、16~17世紀の修道院規則の問題に目を向けてみたい。まず最初に、14世紀から17世紀にかけてのロシア正教会の修道院規則の歴史は、非常に断片的で、かなり不明確であることを指摘しておかなければならない。
ペチェールスク修道院で聖テオドシオスによって導入された規則は、アレクシオス総主教が改訂した聖テオドロス・ストゥディトスの規則であり、そこには修道院生活の共同生活(キノヴィオ)体制が定められていた[591] 。 しかし、厳格なキノヴィを要求していた規律に関する部分において、スディトス修道院の規則の運命は極めて悲惨なものとなった。修道院共同生活の基盤はごく短期間で忘れ去られ、修道者たちはほぼ至る所で個別居住制を採用するようになった。 とはいえ、イディオリトマが常に修道生活の基盤となったわけではなく、12~15世紀は「修道規則なき時代」とさえ呼べるものであり、これは13~15世紀のプスコフ地方における修道生活について論じたセレブリアンスキーの優れた研究でよく示されている。[592] 確かに、「修道生活の規律およびあらゆる事柄に関する、ロシアのミトロポリス聖キリルの規則」という題名の著作が存在する。これはおそらく、ギリシャ出身のミトロポリス・キリル(13世紀)によって実際に編纂されたものと思われるが、 この文書は16世紀、さらには17世紀の写本にも見られ、比較的詳細な共同生活規則を収録している。おそらくこの規則は14~15世紀には知られておらず、いかなる修道院においても導入されたかどうかさえ疑わしい[593] 。 おそらく、聖セルギイ・ラドネジスキーも、モスクワ・ルーシにおける修道生活の体制整備に取り組んでいた当時、この規則について何も知らなかったのだろう。当初、彼は前述の通り、自身の修道院に「個別生活規則」を導入したが、その後、修道士たちの抵抗を乗り越えて、共同生活規則に基づいて修道院の生活体制を再編した。 彼の弟子たちは師の模範に従い、新しい修道院を設立する際に厳格なキノヴィアを導入したが、それは必ずしもすべての場所で定着したわけではなかった[594] 。14~15世紀のロシアの修道者たちにとって、修道生活の基本に関する問題は完全には明確ではなかった。 これについては、例えば、スパソ=カメンヌイ修道院の歴史が物語っている。同修道院では、イグメン・ディオニシイ(1389年直前から1418年まで)が当初、厳格なアフォン式共同生活規則を導入したが、その後、彼自身や一部の修道士 は、イディオリトミーに固執するようになった[595] 。 トロイツェ=セルギエフ修道院では、共同生活規則は長くは続かなかった。1478年に聖ヨセフ・ヴォロツキーが同修道院にしばらく滞在した際、修道院は個別生活規則に従って運営されていたことが、いくつかの文書によって裏付けられている[596] 。 14~15世紀には、イディオリトマがキノヴィアに徐々に取って代わっていったことはわかっているものの、古代ロシアの修道院におけるこの「個別居住」がどのようなものであったかという疑問に答える手掛かりとなる資料は、ほとんど存在しない。 しかし、共同生活が多くの修道院で定着しなかったという情報は数多く残されている。当時形成されていた修道院生活の体制は極めて厳しい批判にさらされていたが、これは実際には、修道院の生活が真のイディオリトミアの規範にも、キノヴィア規律の要求にも合致していなかったことを意味する[597] 。
一方で、当時の文献には、修道院生活の批判だけでなく、共同生活規則の厳格な遵守を求める強い要求も見られる。 キノヴィの導入の必要性は、14~15世紀の教会階層の多くの代表者によって強調されていた。すなわち、スーズダリの大司教ディオニシウス(1382年)、ノヴゴロドの大司教シメオン(1417年~1421年)、大主教フォティオス(1418年)、 イオナ(1455年)、テオドシオス(1461–1464年)[598] 。 個々の修道院への書簡や、大主教の定款(1500年頃)[599] は、キノヴィアが修道生活の基礎として認められていたことを示しているものの、それにもかかわらず、15世紀には、その全面的な実施を図るための措置は一切講じられなかった。
その理由の一端は、中部や北部の僻地に点在する数多くの修道院の生活を把握することが事実上不可能であったことにあり、 また、当時の古ロシアの修道界では、まさに隠遁生活や単独生活という道において、厳しい苦行の例が数多く見られ、この種の修道生活が前面に押し出されていたことにも原因があった。 また、当時の修道界に特徴的であった、書面による修道院の規則に対する強い反感も一因となった。 聖ヨシフ・ヴォロコラムスキーは、同時代の北方の修道院の修道士たちが、次のように頑なに主張していたと指摘している。すなわち、古来よりロシアの地で修行に励んできた聖なる先人たちは、書面による規則や規律を定めたのではなく、生きた言葉で修道士たちを教え導いた。 それゆえ、今も修道院の規則を文書化すべきではなく、兄弟たちへの指導は口頭で行うべきである、と彼らは主張していた[600] 。このような見解は、ヨシフの同時代人だけでなく、15世紀全体に典型的なものであったと考えても過言ではない。 それらは、修道院長や修道院の創設者の個人的な模範、その功績、教え、そして兄弟たちに対する態度を何よりも重んじた、古ロシアの修行者たちの宗教観と合致していた。
しかし、修道院の規則を導入する必要性は、一部の修道士、とりわけ修道院の創設者や院長たちによっても認識されていた。ここでまず挙げられるべきは、聖エウフロシヌス・プスコフスキー(†1481)である。 その伝記は、単に厳格な修道士であり修道院の創設者である人物の生涯を描いたものに留まらず、ロシア教会史における極めて重要な一章を成している。もっとも、本稿の枠組み上、この伝記について詳細に論じることはできない[601] 。聖エウフロシンは、最も古い共同生活規則の編纂者であり、自身がプスコフ地方に創設した修道院において、その規則を導入した[602] 。 彼がこの規則を編纂する際にどのような資料を用いたかを特定するのは困難であるが、旧約聖書および新約聖書からの引用に加え、エウフロシンは聖バシレイオス大主教、ヨハネス・クレマティコス、イサアク・シリンの著作にも言及している。 この規則の特異性は、そこに規律に関する要求のみが盛り込まれている点にあり 、礼拝については全く触れられていない[603] 。規則は28の章、すなわちパラグラフ(厳密には序文と27の規則)に分かれている。 修道院生活の秩序に関する著者の禁欲的な見解は、次のように特徴づけられる。1)キノヴィアの厳格な遵守という基本要件(§ 1–4, 8);2)修道院長 の意志と指示に対する完全な服従(§ 5, 7, 18); 3) 兄弟たちが愛と相互の敬意をもって行う絶え間ない手仕事(§ 8、9、27); 4) 祈り、断食、貞潔、無所有に関する、すべての修道士に共通する禁欲的規則(§10–15、4、17、26、27);および5) 貧しい者や困窮している者への援助(§24および25)。 この規則には、修道院の院長とその職務についても記されている(§ 5、21、23、20)。聖エウフロシンはこの規則を自身の修道院のために制定したが、その内容はかなり一般的なものであり、共同生活の厳格な遵守の必要性を説いていたため、他の修道院でも利用することができた。 しかし、これが他の修道院で適用されたかどうかは不明であり、エウフロシノスの厳格な共同生活規則が自身の修道院でどれほど長く維持されたかも定かではない。 その著作によって知られる修道士フィロフェイは、16世紀初頭、すなわちエウフロシノスの没後2、3十年後に、エレアザロフ修道院の修道士であり、おそらくは院長でもあった。彼の著作はもっぱら教会政治的な問題に焦点を当てているため、我々が関心を持つこの問題を解明する手がかりとはならない。 彼の修道院の運営が、批判の余地を一切与えないほど完璧なものだったのか、それとも彼が教会・政治的な問題にあまりにも没頭していたため、修道院の日常における「些細なこと」にはもはや関心を寄せていなかったのか、我々は知らない。 その時代の最も興味深く才能ある著述家の一人であるフィロフェイが、この問題に触れなかったのは残念である。
修道院の規則について論じるにあたり、第IV章第2節でその禁欲的な見解が詳細に述べられている長老ニール・ソルスキーについても、少し触れておく必要がある。 この真の修道生活の熱心な擁護者であり、聖エウフロシノスの同時代人であった彼は、キノヴィア修道院の規則よりもスキトス修道院の規則を好んだが、修道士の日常生活、手仕事、祈り、無所有に関する彼の考えは、エウフロシノスのそれとほぼ同じであった。 両者の修道士は本質的に同じ目標、すなわち修道生活を世俗化から守るよう整えることを目指していたが、その目標への道筋については異なるものを示している。 エウフロシノスの規則の文体は実務的でやや淡泊であるのに対し、長老ニルの規則には、キリスト教的な完全性への道のりで修道士が直面する誘惑に対する霊的な戦いについての詳細な描写や、その戦いをどのように戦うべきかという指針が見られる。
長老ニルだけでなく、他にも多くの長老が、スキト生活(隠遁生活)の特別な価値を強調していた。 15世紀後半、おそらく長老ニルの没直前に、匿名の著者によって編纂された『スキトス規律』が存在する。[604] おそらく、この規律は、ルーシにおいて共同生活が忘れ去られつつあったまさにその時期に執筆され、匿名の著者は自らの規律を通じて、イディオリトムの歪みと闘おうとしたのだろう。 スキトス規律は、ロシア北部の小さな修道院で実践的に用いられた。そこでは、特に15世紀および16世紀前半、厳しい苦行が盛んに行われていた時期に、時にスキトス生活のような性格を帯びた単独生活が広まっていた。スキトス規律の写本が多数存在することからも、それが広く適用されていたことがうかがえる[605] 。
対照的に、聖ヨセフ・ヴォロコラムスキー(†1515)は、厳格な共同生活の厳格な遵守を要求した。彼が作成した修道院規則は、「霊的書簡」という名称で知られており[606] 、その概要についてはすでに我々が概説している(第IV章、1)。 ヨシフの規則は、エウフロシナの規則と同様、共同生活に関する規則であるが、エウフロシナの規則はあまりにも簡潔であるのに対し、ヨシフの規則は、修道生活の基本規則に関する教訓の集大成のようなものである。 この規則の特異性、すなわち、何世代にもわたる修道者たちに役立つ教訓や説教の集大成のような性質は、おそらく、ヨセフ自身が指摘したように、同時代の修道士たちが イグメノの個人的な訓示にしか耳を傾けていなかったという事実によって説明される。 おそらく、まさにそのために、ヨセフは自身の著作を「霊的な遺書」、すなわち遺言として名付け、「修道院規則」とは呼ばなかったのである。
その規則の最初の9章は、聖書や聖父たちの禁欲的な著作からの証言によって裏付けられた教訓の性格を帯びている。第11章には、修道院長に対する特別な訓示が含まれており、修道院に対する彼の義務を明らかにするとともに、修道者たちへの教訓も記されている。 ヨセフ派の父の持つ健全な常識と宗教的形式主義により、彼は最初の9つの教訓を簡潔な規則の形で繰り返すこととなった。これらは、早朝から夜に至るまで修道院の生活全体を規律づけるものである。
続いてさらに2つの章[607] が続く。そのうちの最初の章には、評議会の長老たちが規律をいかに遵守すべきかについての9つの「伝承」――教訓――が収められており、2番目の章には、規律に違反した修道士たちに対して、修道院長や評議会の長老たちが適用できる9つの「禁止事項」が記されている。 この章の見出しで、ヨセフは、修道共同体の規則が、聖バシレイオス大主教の規則や禁欲的訓戒、および聖テオドロス・ストゥディトスの修道院規則を模範として、自身によって制定されたものであることを強調している。
最終章において、ヨシフは厳格な禁欲主義の必要性を特に強調しようと努め、ロシア全土にその名を知らしめた聖人たちが成し遂げた修道者の偉業の例を挙げている。彼らの生涯は、ロシアの修道者たちにとって「規範」であり「手本」となるべきものである。 ヨシフによれば、彼は修道院巡礼の旅の途中で、こうした修行者たちについて知ったという。序文の中で、彼は聖なる父たちが共同生活を送る修道士たちを、口頭だけでなく書面でも教導していたと記している。 さらに彼は、すべての修道院において修道士たちの生活が模範となるわけではないため、現在の修道院長たちも同様に、修道者たちに口頭および書面による訓示を与えるべきであり、それらは聖なる父たちの教えと同様に、修道者たちにとって必須のものであると述べている[608] 。
ヨシフの『霊的憲章』は、修道院の規則を詳細に記したものであり、修道院の日常生活を細部に至るまで規定すると同時に、修道士の対外的な振る舞いに特に重点を置いている。
これとは異なる精神が、聖ニラ・ソルスキー(†1508)の『弟子たちへのスキトス生活に関する伝承』からは感じられる。その内容は修道院の規則ではなく、修道生活の基礎、主に修道士が誘惑や罪と戦うことについてのみ述べられているからである。 『伝承』の内容については、前述(第IV章、2)で詳しく論じた。ここでは、ニロスの修道生活に対する見解がヨセフの見解とは大きく異なること、すなわち、彼はヨセフのようなキノヴィア(共同生活)ではなく、スキトス(隠遁生活)を好んだことを改めて指摘しておく。
この二つの修道生活の様式を融合させ、双方から兄弟団にとって有益なものを引き出そうとする試みは、聖コルニリイ・コメルスキー(†1538)の修道院規則に見られる。 私たちが、この古ルーシの著名な修道士の人生を描写する際に引用した(第III章、4節)彼の『規則、あるいは(修道士たちの)生活に関する規定』[609] は、修道生活における禁欲主義の基礎として、ヨセフの厳格な共同生活と、ニロスの完全な無所有を掲げている。 コルニリイは、これら両方の原則を自身の修道院で実践した。
16世紀半ばには、もう一つの共同生活規律が制定された。 その成立の経緯は次の通りである。スモレンスク地方に4つの修道院を設立した聖ゲラシム・ボルディンスキー(†1554)は、ある日、自身のトロイツキー・ボルディンスキー修道院の修道士たちと、他の3つの修道院の院長たちを集め、ある修道士に口述させ、自身の修道生活に関する回想録を書き留めさせた。 彼はこれにさらに「遺言」を付け加え、自身が設立した修道院において共同生活を維持する必要性について述べている[610] 。この規則にはゲラシムの禁欲的見解の個人的な特徴は反映されておらず、 共同生活の一般的な原則のみが盛り込まれている。修道院の院長に関する章は興味深い。 ゲラシムは、修道者たちはあらゆる点でイグメンの意志に従わなければならないと強調しているが、もしイグメン自身が規則に違反した場合は、修道院の修道者たちは、最も尊敬され、厳格な生活で際立つ修道士たちからなる使節団をイグメンのもとへ派遣し、愛と謙遜の精神をもって、その過ちや不正を指摘することができるとしている。 さらに、ゲラシムは修道士たちに対し、修道院から修道院へと移り歩くことなく、常に一つの修道院に留まることを求めている。
これらすべての修道院規則は、個々の修行者たちの個人的な発案によって生まれたものである。 本質的に、それらはすべて、修行者たちが、自ら設立した修道院における内部の生活を、自分たちの禁欲的な理想に最も適した形に整えるために、これらの規則を活用しようとしたことから生まれたのである。また、これらの規則は、修道院の創設者が亡くなった後も、確立された秩序ができるだけ長く維持されるよう寄与するものでもあった。 前述したように、修道院の創設者の個人的な権威がいかに重要であったか、またその死後いかに崇敬されたかについてはすでに触れた。これらの規則・遺言は、編纂者の同時代人や将来の修道士たちの世代に向けて書かれたものであり、明らかな聖人伝的な特徴を備えているものの、それらは非常に強い地域色に彩られている。 そのため、これらを模倣したり、ある修道院の規則を別の修道院に適用したりする可能性は排除されていた。特に、古ロシアの修道士たちが、書面化され、すべてを詳細に規定する規則に対して抱いていた偏見を考慮すればなおさらである。これこそが、各修道院の内部生活の仕組みに驚くべき多様性が見られる理由であり、これらの修道院はいずれも共同生活規則に従って生活していたにもかかわらず、 また、同じ修道院であっても、創設者や、強い意志と優れた霊的指導の才能を備えた特定の修道院長が亡くなってからどれだけの時間が経過したかによって、時代ごとに修道院生活の構造に違いが見られるのも、このためである。 これらの規則はすべて、古代ロシアの修道生活全般の歴史というよりは、個々の修道院の歴史や古代ロシアの道徳神学と深く結びついている。 それらはすべて半世紀の間に生まれた――15世紀末のニルの『伝承』や、1554年直前のゲラシムの『遺言』など――が、その影響力はさほど大きくなく、修道生活におけるいかなる改革も引き起こさなかった。 このような規則は、その作成者の霊的な姿をより魅力的に見せたが、実効性があり実り多いものとして長くは続かなかった。ニル・ソルスキーの規則を除き、これらすべての規則に共通する唯一の特徴は、キノヴィアを優先している点である。
教会指導部によって、修道院生活を改革し、その霊的水準を高めるための最初の試みがなされたのは、16世紀の第1四半期の終わりになってからである。その発案者は、ノヴゴロド大司教マカリー(後のモスクワ都主教)であった。 1526年から1527年にかけて、彼は大公ヴァシーリー3世に書簡を送り、自身の教区内の修道院の体制において、いくつかの変更と改善を行う許可を求めた[611] 。 マカリーは大公への書簡の中で、ノヴゴロド教区内の修道院のうち、キノイ式規則に従って生活しているのはわずか4か所であり、残りのすべてはイディオリトメ式に従っており、修道生活全般に多くの混乱が見られると記していた。 年代記『[612] 』によれば、1528年にマカリイは教区内のすべての修道院長をノヴゴロドに召集し、司教としての説教の中で、修道生活の是正に向けた措置を講じ、彼らが管理する修道院に厳格な共同生活規則を導入するよう勧告した。 16人の修道院長はこれに従うことを約束したが、2人は主教の助言に反対し、それぞれの修道院でイディオリトミアを維持することを主張した。 年代記によれば、大司教は頑なな修道院長たちを強制することはなく、ただ、彼らの行いについては神の前で責任を負うことになる、と述べただけだった。この改革に関連して、マカリイ大司教は各修道院にいわゆる「規則状」を送付し、共同生活の遵守に関する自身の指示を繰り返した。 聖霊修道院に送られたこれらの規則書の一つが、今日まで保存されている[613] 。マカリイのこれらの訓示は、他のキノヴィイ派の規則、例えば聖ヨセフの規則と何ら変わりなく、非常に明快な形で述べられている。 興味深いことに、マカリーの規定には、後に聖ゲラシム・ボルディンスキーの規定でも繰り返される特徴が見られる。すなわち、修道士たちが、修道院長が修道院の規定に違反している場合、それを指摘する権利について言及されている点である。
単独居住に対する措置と並行して、マカリイ大司教はいわゆる「二重修道院」を廃止した。彼の教区には8つの女子修道院が残ったが、それらは以前のようにイグメンではなく、イグメニアによって運営されるようになった。 女子修道院での礼拝は、これ以降、教区の司祭のみが執り行うことができるようになった[614] 。二重修道院()はビザンツ帝国ですでに存在しており、中世には西洋でも知られていた[615] 。 モスクワ・ルーシにおける二重修道院は、ビザンツと同様に、男女別居の規則に基づいて運営されていた。修道士と修道女は、教会の周囲に配置された別々の独房に住み、それらが一体となって修道院を構成していた。多くの場合、修道院は壁で囲まれており、一人の修道院長の下に置かれていた。 聖人ニール・ソースキーはこの乱行を非難している[616] 。このような修道院は、例えば15世紀末から16世紀初頭にかけてプスコフに存在していた[617] 。1503年の公会議は男女混合修道院を廃止したほか、女子修道院が修道士を院長や告解司祭に据えることを禁じ、告解司祭は教区司祭でなければならないと定めた[618] 。 しかし、1528年にマカリイ大司教が再び同じことを禁止しなければならなかったことを考えると、この禁止令はおそらく実効を奏しなかったものと思われる。ストグラフもまた、二重修道院を無法行為と断じ、1503年の決議を再確認した。[619]
マカリイによるイディオリトマに対する措置は、彼の教区にのみ関わるものであったため、地域的な性格を帯びていた。ストグラフの決議からは、共同生活を行う修道院と、個別の生活を送る修道院の両方が依然として存在していたことがうかがえる。 ストグラフの議事録(第52章)からは、両方の種類の修道院が認められていたことが見て取れる。さらに、ストグラフ(第85章)には、修道士たちが共同生活規則を遵守できない、あるいは遵守したくないという理由で、キノヴィイ型修道院から頻繁に去っていたことが記されている。 『ストグラフ』は、修道士たちが通常、個別居住の規則に従って生活していた新しい小規模な隠遁所(プスティンカ)の設立を禁止し、互いに近接して位置する小規模な隠遁所を単一の修道院に統合するよう命じたが、そのような統合された修道院にどのような規則を導入すべきかについては、規定には何も記されていない。 「誠実な修道院」に特に焦点を当てた第49章には、修道院の内部生活に関する一般的な規定が盛り込まれている。キノヴィイ修道院には、共同の食事の義務や、個室に食料を持ち込み、そこに保管することを禁じる規定が適用される。
16世紀から17世紀にかけて、修道院は依然として「個別居住型」と「共同生活型」に分けられていた。 個々の修行者たちの主導により、いくつかの新しい修道院規則が制定された。エレアザル(†1656)という名の著名な修行者は、17世紀前半に、白海のアンゼル島にある自身の隠遁地のために規則を著した。そこでは修道士たちは個別の独房で生活していた。 この規則には、修道生活に関する厳格な要件が盛り込まれている[620] 。モスクワのシモノフ修道院の院長であるアルヒマンドリト・ガヴリイル(ドメツキー)は、単独生活型(1683年)と共同生活型(1690年)の2つの規則を制定した。 これは、この頃の修道院がイディオリトミからキノヴィアへと移行したことを示唆しているか、あるいは修道院内で両方の規則が同時に適用されていたことを示している可能性がある。 この修道院はモスクワでも最大級の修道院の一つであり、特にアレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝(†1676)の時代には、皇室と親密な関係にあったことは特筆すべきである。 モスクワの別の修道院であるヴォスクレセンスキー修道院のイグメン、ニカノール(1688–1698)は、自身の修道者たちのためにキノヴィー様式の規則を制定した[621] 。これらの規則が制定された真の動機は、首都にあるこうした大規模で裕福な修道院における修道生活の衰退にあったと推測される (シモノフ修道院は広大な土地を所有していた)。この修道院が によって創設された当初(1370年)から、聖テオドール・ロストフスキーは厳格な共同生活規則を導入しており、聖ヨセフによれば、それは15世紀後半にもなお遵守されていたという。 修道士ジノヴィイ・オテンスキーは、自身の著作の中で、16世紀20年代にシモノフ修道院に滞在していた修道士兼公爵ヴァッシアン・パトリキーエフの時代[622] 、同修道院の修道士たちの生活が特に厳格で質素であったことに言及している。
教会階層からは、修道院の院長に対し、両種の修道院規則の遵守を監督するよう、度々一般的な指示が出されていた。これについては、1667年、1675年、1681年の公会議で言及され、教区主教が規則の履行を監督するよう決定された[623] 。 80~90年代からは、修道院の規則が破られないよう、様々な修道院に対して大司教から送られた数多くの注意喚起が、現在まで伝わっている[624] 。 現在まで保存されている、修道院の規則に関する問題を直接的または間接的に扱っているすべての文書は、16~17世紀のロシアの修道院において、共同生活と個別生活の両方が維持されていたことを示している。残念ながら、これら2種類の修道院の数の比率を特定することはできない。 資料では共同生活規律について言及される頻度が高いため、この規律はより広く普及していたか、あるいはより頻繁に違反されていたと推測される一方で、主に北部の荒野で適用されていた個別居住の規律は、より厳格に遵守されていたと考えられる。
修道院の規則は、明らかに修道院の内部体制の礎となるべきものであるが、実際にそうであったのかという疑問が生じる。修道院の生活においては、管理組織と規則の遵守という二つの側面を区別する必要がある。 前者に関しては、入手可能な資料から判断できる限り、概して両種類の修道院における管理組織は、実際には互いにほとんど違いがなかったと言える。重要な点は、両種類の修道院のほぼすべてが土地を所有しており、その耕作が特定の結果をもたらしていたという事実である。 修道院の規律には、三つの要因が影響していた。第一に、当時の修道生活における禁欲主義、その意味と目的に対する見解、第二に、キノイアとイディオリトメに対する一般的な態度、そして第三に、土地所有の結果として生じた、修道院内部の生活における過度な世俗化と規律の弛緩である。 修道生活の着実な世俗化は、管理組織、修道院当局の活動、そして修道規律のすべてに悪影響を及ぼした。 さらに、修道院の運営のあり方には世俗権力が影響を及ぼしており、世俗権力は教会事務に頻繁に干渉していた。これは、教会と国家の関係、修道院の植民地化、および修道院の経済運営に関する本論考からも明らかである。
規則によれば、16~17世紀の修道院長は、14~15世紀と同様に、修道士団によって選出され、教区主教によって承認されていた。一方、総主教の管轄下にあったいわゆるスタウロピギア修道院においては、院長の選出は総主教の承認を要した[625] 。 選出にあたっては、候補者の個人的な功績、厳格な生活態度、学識だけでなく、ボヤール(貴族)の出身であることや、領地の管理能力といった他の事情も考慮された[626] 。 いくつかの興味深い文書が残されており、そこから、新しい住職を選出する際、修道院の兄弟団は彼と一種の契約を締結していたこと、あるいは、より正確に言えば、兄弟団が彼に自らの「判決」を提示し、彼はそれに署名し、その後それに従わなければならなかったことがうかがえる[627] 。住職はしばしば他の修道院からの出身者であった。 16世紀後半から17世紀にかけて、修道士たちによる修道院長選出は稀になり、この慣習は遠隔地や小規模な修道院にのみ残った。大規模で裕福な修道院、およびモスクワのすべての修道院では、修道院長はツァーリや総主教の指示と意志によって任命された。 このような世俗権力による修道院の内部生活への介入 は、大公ヴァシーリー3世(1505–1533)の時代にも以前からあったが、この慣行は特にツァーリ・イヴァン4世(1547–1584)およびアレクセイ(1645–1676)の治世下で定着した[628] 。 『ストグラフ』(第86章)はこれについて次のように述べている。修道院長は、修道僧たちの請願に基づき、ツァーリの同意を得て、大主教または教区司教によって任命される。数多くの聖人伝からは、修道院の創設者が大主教、そして後に総主教によって任命されることがいかに頻繁であったかがうかがえる[629] 。
前述の規則は、修道院の修道士たちに対し、イグメンの意志に従う必要性を示している一方で、修道院長の権限と主導権を一定の形で制限している。この権限は、修道院の長老会――通常12名からなる、最も経験豊富な年長の修道士たちによる評議会――によって制限される[630] 。 エウフロシノスの規則では、この評議会は全く言及されていないが、対照的に、聖ヨセフの規則では、修道院の長老評議会に修道院の運営において重要な役割が割り当てられている(第13章および第14章)。これらの章から、長老評議会の制度が、イグメンの意志と権威と並行して機能していたことが見て取れる。 厳密に言えば、評議会は当面のところ修道院長権限を制限していなかったが、修道院の規律に関する問題においては、修道院長とほぼ同等の権利を有していた。というのも、聖ヨセフは評議会に対し、規律違反の修道士を懲戒する権利、および規律の遵守状況を全般的に監督する権利を認めていたからである。 この「憲法的」な特徴は、聖ゲラシム・ボルディンスキーの規則においてさらに顕著に表れている。すでに述べたように、この規則によれば、長老会議の長老たちは修道院長に対して指摘や叱責を行うことができた。 修道院長会の上級修道士たちが修道院長にその過ちを指摘する権利については、聖霊修道院のために作成されたマカリー大司教の規則にも言及されている。修道士が修道院長に従うことは、修道士が自分の師に無条件に従うこととは全く異なるものである。 おそらく、これが16~17世紀に(特にキノヴィイ派の修道院において)長老制度が広く普及しなかった原因であったのかもしれない[631] 。
修道院長と評議会の長老たちの権限が同等であることは、不和の種を内包していた。 修道院の規律に定められた禁欲的要件の違反と闘おうとしたイグメンが、イグメンの指示に従うことを望まず、規律に反する自身の習慣を放棄しようとしない修道士たちの抵抗に直面し、敗北を喫した例は数多く知られている。 数年間(1479~1482年)、トロイツェ=セルギエフ修道院を統率していた長老パイシイ・ヤロスラヴォフは、院長職を辞任し、ベロゼルスクの森へと戻らざるを得なかった。 長老アルテミイはこの修道院をわずか半年(1551年)しか統率できず、その後、修道士たちの不服従により院長職を辞任した[632] 。聖ヨシフもまた、修道士たちと対立せざるを得なかった。 イオシフ修道院の院長を務めていた大主教ダニイル(1522–1539)も、イオシフの死去から数年後、修道士たちとの関係に困難を抱え、さらには修道生活の基本を修道士たちに説明し、自身の指示を正当化する特別な論考を執筆したほどであった[633] 。 17世紀の修道院生活における否定的な現象について論じている著作のほぼすべてにおいて、修道士たちの不服従が言及されている。[634] 17世紀には一般的となった、修道院長選挙の廃止と任命制への移行は、当然のことながら、修道院内の修道院長の地位を強固なものとし、その一因は長老会議の存在にもあった。
修道院の長老会議([635] )は、通常12人で構成されており、そこには修道院の最古参の修道士だけでなく、修道院の運営において特定の職務を担う修道士たちも参加していた。 まず第一に、ケラール()が挙げられる。修道院における彼の地位は特に責任が重く、高いものであった。修道院の内部運営に関わるすべての業務は彼の手に委ねられており、修道院が土地を所有している場合は、その土地に対する全般的な監督権も有していた。 このような監督権に関連して、ケラール(15世紀末からは)は修道院の者や修道院の農民に対する司法権を有しており、これを自ら、あるいは代理人を通じて行使していた。大主教の定款(1500年頃)では、ケラールはイグメンの直後に言及されている。 1495年から1505年にかけてのトロイツェ=セルギエフ修道院の文書によると、ケラーリには修道院の領地の管理が委ねられており、彼は新たな領地の取得や、既存の領地の交換・売却にも携わっていたことが記されている。 16世紀のトロイツェ=セルギエフ修道院の文書のうち、管理や経済業務に関するものには、ケラール専用の印章が押されていた。 17世紀後半、トロイツェ=セルギエフ修道院のケラーは、同時に修道院事務局の書記も兼任していた[636] 。大規模な修道院には常にケラーの役職が存在した[637] 。聖ヨシフの規律書では、ケラーの部屋が最も重要な事柄に関する協議を行う場所として指定されている[638] 。 スーズダリのスパソ=エフフィミエフ修道院に対する皇帝の勅令(1640年)には、ケラールのすべての職務が非常に詳細に列挙されている。すなわち、内部の運営および修道院の所有地の管理、修道院の財宝の保管、金銭の支払いや受領、 地代の適時な納付および修道院農民によるすべての義務の履行に対する監督、修道院の会計帳簿の管理に対する監督、修道院の者および修道院農民に対する司法権、皇帝の命令機関や官庁における修道院の代表などである。[639]
16世紀後半、とりわけ17世紀には、小規模で貧しい修道院が、大規模で裕福な修道院に所属することが広く行われていた。これがいわゆる「所属修道院」である。 これは、小規模な修道院が自らの経済状況を改善し、また、自らの特権を傘下の修道院にも拡大しようとしていた有力な修道院の庇護下に入るために行われたものであった。 本院のケラーリは、付属修道院において行政権および司法権を有する人物であり、さらに、付属修道院の院長たちから、宗教裁判の権限も彼に移譲されていた[640] 。
修道院の運営そのもの――地下貯蔵庫、穀物倉庫、厨房、厩舎、家畜小屋――は、会計係、すなわち「クチュニク」に委ねられていた。彼はケラールの最も身近な補佐役であり、ケラールに従属していた。これは、修道院の兄弟たちによってこの職務のために一定期間選出された、年配で威厳ある修道士であった; おそらく、彼もまた修道院の長老の一人であった。彼の下には、修道院の経済活動の各分野を担当する修道士たちが従っていた。すなわち、地下室や倉庫を管理する副管理人、パン係、食堂係、厩務係、聖具係、そしてしばしばその補佐役などがいた。 修道院の領地を管理するため、ケラー(財務責任者)の下にも、副ケラー、村の長老たち、あるいは管理人といった、多くの補佐役が配置されていた。大規模な修道院では、特定の職務に就く修道士たちの数はかなり多かった。 例えば、17世紀のソロチンスキー修道院(リャザン県)では46名以上、サヴォ・ストロジェフスキー修道院では51名がおり、その一部は、礼拝に関連するものを含め、様々な奉仕を行っていた[641] 。
修道者たちの霊的指導において、修道院長の最も身近な補佐役は修道院の告解司祭であり、一部の修道院ではさらに霊的長老たちもその役割を担っていた。霊的長老たちは、見習い修道士や新入修道士たちの指導者であり、霊的父でもあった 。 修道院での礼拝は、司祭修道士と助祭修道士のみが行った。教区司祭(「白い司祭」、または「ベルツィ」)は、1503年および1551年の公会議で定められた通り、女子修道院でのみ奉仕した。 礼拝が規定通りに執り行われるよう責任を負ったのはエクレシアーク(規則担当)であり、これはティピコン(規則)に精通した年配の修道士であった。彼を補佐したのはカノナルク(礼拝長)――大規模な修道院では同時に2人か3人のカノナルクがいた――および詩篇朗読者、パラモナル(ポノマル)であった。 さらに、夜間の礼拝のために修道士たちを起こす「目覚め役」、礼拝用の蝋燭を配る「蝋燭係」、あるいは「蝋燭の長老」、 教会監督、あるいは教会長老――礼拝中の修道士たちの品行や聖堂の清浄さが守られているかを監視する者、プロスヴィルニク、鐘撞き[642] 。
当然のことながら、大小の修道院において、特定の務めに従事する修道士の数は異なっていた。共同生活の修道院、特に広大な領地を所有していたところでは、かなりの数の修道士が様々な農業部門に従事していた。 さらに、彼らが遠方の村や事業場(製粉所、製塩所、漁場、伐採現場など)へ管理者や監督者として派遣された場合、彼らは修道院の内部生活から完全に切り離されることとなった。 彼らは依然として修道院と強いつながりを持っていたものの、その結びつきはもはや精神的・宗教的なものではなく、純粋に世俗的な性質――すなわち修道院の経済運営に対する配慮と管理――を帯びていた。 小規模な修道院や隠遁地では、概して霊的な水準が高く、規則違反も少なかったが、この主張を一概に一般化することはできない。修道生活や修道院の生活構造そのものが世俗化の萌芽を内包しており、一般的な霊的水準を超えて高みへ至ることができたのは、ごく一部の修行者だけであった。
修道院への入所と、それに続く修道士としての剃髪は、自らの人生を特別なキリスト教的・禁欲的な意味と内容で満たそうとする者にとって、常に極めて重要な一歩であった。 この一歩の重要性は、修道生活に伴う宗教的責任と結びついていた。将来の修道士にとっての内面的・霊的な責任は、東方教会や正教会の修道界において、修道入りが古くから秘跡としての意義を付与されてきたという理由からも、さらに強められていた。 正教会の修道者たちから高く評価されているディオニシオス・アレオパゴス(5世紀末または6世紀初頭)は、修道入りを六つの秘跡のうちの第五とみなしている。聖テオドロス・ストゥディトス(†826)もまた、修道入りに秘跡としての意義を認めていた。すなわち、新たに修道に入った修道士にとって、それはいわば第二の洗礼のようなものである。 これらの見解は、東方教会の剃髪式に反映されている。将来の修道士に剃髪の宗教的かつ秘儀的な意義を説明する際、修道院長はこの儀式を「第二の洗礼」と呼ぶ。しかし、教義上、東方教会は剃髪に、単に礼拝儀式としての意義しか与えていない[643] 。
古代ルーシでは、社会のあらゆる階層がキリスト教的な禁欲や修道院生活への志向を示していた。その証拠は、古代ルーシの敬虔な修行者たちの伝記に数多く見られる。修道士の中には、古代も後世も、学識のある者も素朴な者もいた。修道院は身分による区別を行わなかった[644] 。
これらの伝記はまた、修道院への入会の際、特定の年齢制限などあり得なかったことも示しており、修道士が若いうちか、あるいは高齢になってから修道院に入ったことだけが明らかである[645] 。モスクワ・ルーシでは、人生の最後の数年を修道院で過ごす習慣が広まっていた。 前述の通り、修道院の財源に寄付金が納められ、修道院長との間で契約が結ばれた。この契約により、寄付者はその寄付の見返りとして、「神が命( )を延ばしてくださる限り」、修道院で修道士として残りの人生を過ごす権利を得た。これがいわゆる「出家寄付」であった[646] 。 16~17世紀には、町民や農民の共同体(「ミール」)がツァーリに請願書を提出し、修道院の設立許可を求める慣習も広まっていた。この共同体のメンバーは、自分たちや子孫、ひ孫のために「出家と追悼の儀式」を行う場所として、その修道院を「用意していた」のである[647] 。 こうした修道院では、出家式は高齢になってからしか行われなかった。また、ここでは戦争の負傷者やその他の身体障害者も出家していた。修道院に入会する際、金銭または現物で一定の寄付を行う慣習があった。一部の修道院、とりわけ共同生活を行う修道院では、かなり高額な寄付を要求することがあり、これについてツァーリに苦情を申し立てた事例も知られている[648] 。
出家式が必ずしも本人の意思によって行われたわけではなく、時には政府が、政治的に好ましくない人物を修道院に追放し、世俗や国家・政治生活へのあらゆる関与を排除するために、彼らの出家を強要することもあった。すでに私たちにもおなじみの修道士となった公爵ヴァッシアン・パトリキーエフも、こうした失脚した追放者の一人であった。 北部の修道院、とりわけキリロ=ベロゼルスク修道院では、多くの修道士がボヤール家の出身であった。このような出家式は、大公イヴァン3世(1462–1505)の時代にも、ツァーリ・イヴァン4世(1533–1584)の時代にも行われていた[649] 。
修道院に入門した後、試練の期間、すなわち見習い修道士としての修行が始まった。 すでにここで触れた個々の事実からも明らかなように、修道院長はしばしば、修道院での見習い期間の試練を経ていない者に対して剃髪式を執り行わざるを得なかった。そのため、実際には、修道院の規則のすべての要件を遵守して剃髪されたのは、自らの意志で、かつ若いうちに修道院に入った者たちだけであった。
修道生活の段階に応じて、ロシア正教会のすべての修道士は3つの段階に分けられる:1) リアソフォール、2) 小修道服の修道士、3) 大修道服の修道士。これらの段階は順を追ってのみ進むことができる。これら3つの段階に対応して、3つの剃髪式が存在する。
修道院に入った者は「見習い修道士」と呼ばれる。規定の見習い期間を終えると、彼らはラソフォール修道士として剃髪を受けるが、この剃髪は修道誓願を立てずに執り行われる。 しかし、彼らには、より高い段階の修道士たちが遵守するのと同じ厳格さで、修道院の規則を守る義務が課せられる。また、彼らは修道誓願を立てないものの、道徳的にはそれに縛られている。ラソフォール修道士は、所定の儀式を執り行った後、ラサ()とカミラフカ()を身に着ける権利を得る。 新しく剃髪した修道士は、103の結び目がある数珠()――ロシアの修道院では「レストフカ」と呼ばれていた――を受け取る。剃髪式の際、修道院長は修道士の頭髪を十字形に刈り上げ、その後、修道服を身にまとわせる。 リャソフォールとして剃髪した見習い修道士は、自らの意思で修道生活から離れることを禁じられている[650] 。
第二の段階は、小スキマ(parvi habitus)の修道士たちである。この名称は、大スキマの修道士たちと区別するために生まれた。スキマ()とは、内面の魂の悔い改めを象徴する、外見上の謙遜を意味する。 この悔い改めの程度によって、小スキマ()と大スキマ()が区別される。小スキマの剃髪式を行う際、修道士は修道誓願を立てる。彼は以下のことを守らなければならない:a) 肉欲を満足させるあらゆるものを拒絶すること;b) 死ぬまで誰に対しても従順であること;c) 決して財産の獲得を求めないこと[651] 。 小スキーマへの剃髪式において、修道士には、自発的な貧しさを象徴するものが着せられる。古ロシアの修道院では「スヴィトカ」と呼ばれ、後に「ヴラサニツァ」と呼ばれるようになったものである; ヴラシアニツァの上にはパラマン()が掛けられる。これは四隅に紐が付いた四角い布で、胸と肩にかけて着用される。パラマンは、修道士に対し、自発的に キリストの恵みある軛を自らに負うこと、そしてその重荷が軽いことを思い起こさせるものである。パラマンはきつく結ばれ、これはすべての地上の情欲が束縛されていることを象徴している; その上にマント()を羽織り、最後に、カミラフカに取り付けられた裾付きの特別な頭巾――(ロシア語では「クロブク」)を被る。 小スキマの修道士は修道生活を放棄することはできないが、これは特別な許可と極めて正当な理由があれば、リャソフォルの修道士にはまだ可能である。彼らは、教会法上および道徳上、死に至るまで自ら立てた誓いを遵守する義務を負っている。
大修道服の剃髪式では、剃髪を受ける者にパラマナに似た、しかしより大きな布がかけられます。これはアナラヴ()と呼ばれ、修道帽の代わりにククル()という、頭と肩を覆うフードのようなものが被せられます。 ククルには、額、胸、肩、背中の5か所に十字架が配置されている。剃髪後の最初の7日間、修道士はこれを外してはならない。 大スキマ(ロシア語で「スキムニク」)を受けた修道士は、特に厳格な断食と絶え間ない祈りの中で生涯を過ごすことを誓い、もはや自分の独房の外でいかなる奉仕も行わない。各修道士が大スキマに剃髪するための条件は、非の打ち所のない修道生活である。 修道院で30年間そのような生活を送った後、高い修道徳を備えていることを条件として、修道院長から大スキマへの剃髪に対する許可と祝福を受ける。剃髪は、修道士自身の自発的な意思によって行われる。リャソフォルの修道士は、30年間の非の打ち所のない修道生活を経て、直ちに大スキマを受けることができる。 もし修道士が大スキマへの剃髪前にすでに司祭修道士として叙階されていた場合、彼は典礼を執り行う権利を保持する。一方、主教は『ノモカノン』に従い、大スキマへの剃髪後はもはや主教としての務めを果たすことはできない[652] 。
修道士となる前の見習い修道士は、立派で経験豊富な年長の修道士の霊的指導の下に置かれなければならない。言い換えれば、将来の修道士は、少なくとも剃髪までは、長老の指導のもとで霊的修練を経ることが求められる。16~17世紀において、この要件がどの程度遵守されていたかを特定することは困難である。 この時代の長老制度の性質と普及状況については第XV章で詳しく述べるが、ここでは、この時代に、見習い修道士の霊的成長に捧げられた二つの著作が存在することに触れておく。
最初の著作は『新入修道士への長老の教え――長老のもとで従順に生きるべき姿』[653] と題されている。 将来の修道士の生活は、祈り、聖書の朗読(読み書きができる場合。できない場合は祈りのみ)、そして手仕事から成るべきであり、これらすべては長老の指示通りに実行しなければならない。 『伝承』によれば、見習い修道士は、「長老の祝福なしに、いかなる事柄にも踏み出してはならない」とされている。 修道士に余暇などあってはならず、その生活は常に神に喜ばれる行いで満たされなければならない。なぜなら、「真の修道士にとって、この地上に祝日などなく、復活祭もない。彼にとっての復活祭とは、(地上の)虚栄から永遠の安息へと移る時である」からである。
もう一つの著作は『ある長老が弟子に伝えた修道生活と、聖書に基づく修道院の規則について』という題名で、15世紀に聖パウロ・オブノルスキー修道院で執筆された。当時、同修道院では長老制度が盛んに行われていた。 17世紀にさかのぼる写本が存在することから、この著作は当時、実践的に活用されていたことがうかがえる[654] 。序文を読むだけでも、この著作が、修道服を着たばかりの兄弟、すなわち「リャソフォール」の修道士に対する霊的指導について論じていることがわかる。これは、おそらく見習い修道士を対象とした最初の著作とは対照的である。 両者の違いは、最初の著作ではむしろ修道生活全般に関する問題が取り上げられており、特に見習い修道士の行動の外面的な側面について多く語られているのに対し、 一方、第二の著作では、すでに一定の霊的経験を積んだ修道士に向けた助言が与えられ、イエス祈りの特別な重要性が強調され、修道士とその師との間の継続的な交流に関する基本的な規則が述べられている。
実践的・禁欲的な観点から、見習い修道士や初心の修道士にとって、修道院で定められた規則や修道院長による指導だけでなく、修道院全体の霊的な雰囲気や、修道院の日常の生活様式も大きな意味を持っていた。 この点において、一日の時間を様々な奉仕業務に配分する基礎となったのは、礼拝の順序であり、それが祈り、手仕事、休息の時間を定めていた。
年間礼拝周期の典礼的内容は、東方教会全体、そしてロシア教会を含むその典礼規則を決定づけている。「一方、神聖な典礼そのものの内容は、わが教会の典礼とは異なり、ほとんど不変である、 ――と、P・キリアン・キルホフは、東方教会の年間礼拝サイクルに関する簡潔ながらも内容豊かな小論の中で記している――礼拝のリズムに浸透する東方霊性の豊かさは、ほぼ例外なく、神聖な典礼に付随する礼拝の中に注ぎ込まれている。 教会礼拝の全容は、互いに補完し合い、相互に浸透し合う四つの礼拝サイクル――二つの年間サイクル、一つの週間サイクル、そして一つの日次サイクル――に集約されている」[655] 。 正教会の礼拝がこれほど内容豊かで多様であることは、修道院の生活に特別な影響を与えていた。そこでは、規定されたすべての礼拝が執り行われるべきであり、実際にも執り行われることができたのである。 このおかげで、特に見習い修道士や経験の浅い修道士を落ち込ませかねない単調さが生じることはなかった。同時に、教会の教義に貫かれた、正教会の礼拝の内容を構成する豊富な神聖な聖歌[656] は、修道院の礼拝に常に出席するあらゆる修道士や信徒に、 霊的な啓発の機会[657] をもたらした。二つの年間周期――復活祭に関連する移動祝日の周期と、救い主、神の母、そして聖人の記念に捧げられた固定祝日の周期――が基礎を成しており、 これらは、年間暦の典礼的内容が織り込まれた週単位および日単位の暦によって補完される。というのも、週の各日は聖書の歴史における特定の出来事や聖人の記念日に捧げられており、一日のうちには厳格に定められた時刻の祈りが捧げられるからである[658] 。 年間暦の祝日は年に一度しか訪れない日ですが、日課および週課の礼拝は絶えず繰り返される聖歌であり、修道院の日常[659] 、そして一日の修道院生活の全体的な秩序にとって極めて重要な意味を持っています。これらは、午後6時から始まり、一日を7つの部分[660] に分けています。 修道院の規則は、修道院生活の規律面 を定めており、修道院での一日のスケジュールは礼拝規則に依存している。その基礎をなすのは、数世紀にわたって形成されてきた正教会のティピコン(ロシア語で「規則」)である[661] 。
前述の聖サヴァと聖テオドロス・ストゥディトスの規則は、規律と礼拝という両方の側面を網羅しており、ルーシに伝わると、ロシア教会の礼拝規則の基礎となった[662] 。 典礼規定の部分は、共同生活を行う修道院と個別生活を行う修道院で、やや異なる形で発展した。おそらく14世紀には、スディテス規定の典礼部分は、いわゆる「エルサレム規定」によって徐々に置き換えられていった。 これは(礼拝に関する部分において)聖サヴァの規則に、主にアレクシオス総主教(1025–1043)とフィロフェイ総主教(1354–1355、1362–1376)によって加えられたいくつかの変更と補足が盛り込まれたものであった。 14~15世紀の古ルーシでは、この規則の3つの版が知られており、それらは細部のみが異なっていた[663] 。この規則に基づき、教区教会では、日曜日の前夜および主要な祝祭日の前夜に、聖体礼儀、晩課、早課、徹夜祷が執り行われた。 修道院では、時課、第1時課と第9時課、晩課、および深夜の祈りも執り行われた。この際、通常、後者の2つの礼拝は1つにまとめられ、第3時課と第6時課は聖体礼儀と結びつけられた。すなわち、第3時課は聖体礼儀の前に、第6時課は聖体礼儀の後に読まれた。 このような礼拝の順序は、とりわけ共同生活を行う修道院で定着していた[664] 。一部の修道院には独自の礼拝規程があり、例えば、トロイツェ=セルギエフ修道院やキリロ=ベロゼルスキー修道院などが挙げられる[665] 。15~16世紀の様々な文書によると、修道院において規程(ティピコン)の規定が常に遵守されていたわけではないことが示されている[666] 。 『ストグラフ』は、教区教会や修道院の教会において、礼拝が定款に従わずに執り行われていることを定めている(第6、8、41、5、7、16章)。主にスキトス定款が適用されていた北方の小規模な隠遁地では、礼拝の執り行いに特定の特徴が見られた。 まさにこの規則は、規律的な部分に比べて礼拝的な部分を非常に重視しており、特に日曜日の前夜や大祝日の前夜に行われる時課や徹夜祷においてそれが顕著であった。一方、共同生活を行う修道院では、日曜日や大祝日にはしばしば晩課のみが執り行われていた。 この点において、スキトス修道院の規則は、聖サヴァの初期の規則[667] により近いものであった。
修道院における礼拝の執行順序について、多くの興味深い資料を提供してくれるのが、いわゆる「日課書」であり、これらは修道院の日常的な内部生活の様子を私たちに明らかにしてくれる。これらの書物は、教会暦の全期間を網羅し、一種の修道院用カレンダーであった「修道院ディプティク」に関連して出現した。 その基礎をなしていたのは、移動祝日と固定祝日の年間サイクルであり、月暦からの補足が加えられていた。主の祝日、聖母マリアの祝日、聖人の祝日に関連して、修道院生活手引書には、祝日の前夜に修道院でどのような礼拝を行うべきかについての注記が記されていた。 また、ここに、特に修道院に慈善行為を行った故人や存命の大公や皇帝の名前、さらにはあらゆる階層の民衆からの他の慈善家たちの名前も記載され、これらの名前は教会での礼拝の際に追悼された。日課帳は、特定の修道院における日常生活を鮮明に伝えている。 それらは、 共同生活を行う修道院(例えば、イオシフォフ修道院、トロイツェ=セルギエフ修道院、ノヴォスパスキー修道院など)では、徹夜礼拝が日曜日の前夜や大祝日の前夜にのみ執り行われていたことを証明している。一方、個別の生活規則を持つ小さな隠遁修道院では、その週に大きな祝日がなければ、水曜日にも執り行われていた[668] 。
これらの日課書は、修道院の禁欲の歴史に関する多くの貴重な資料も提供している。なぜなら、そこには毎日、食事に関する指示が記載されており、東方教会で義務付けられている断食の遵守に関する規則の要件が厳格に考慮されているからである。すでにビザンチン教会においても、断食とその遵守の問題は重要な役割を果たしていた[669] 。 修道院の規律規定は、断食の遵守を修道士の最も重要な義務の一つとして、極めて特別な注意を払っていた。古ロシアの人々、とりわけ修道士は、他の種類の禁欲的実践と比較して、断食に、おそらくは過大評価されるほどの重要性を置いていた。
ロシア正教会では、4つの長期の断食が守られています。復活祭前の大斎(四旬節)は、チーズ週間の翌月曜日から始まります。 クリスマス前の断食(クリスマス前)は、使徒フィリッポの記念日(11月14日)の翌日から始まるため、一般には「フィリッポの断食」と呼ばれています;ペトロの断食は、ペンテコステ後の第2週の月曜日から、聖使徒ペトロとパウロの祝日(6月29日)まで続きます; 最後に、聖母被昇天の断食――聖母被昇天(8月15日)の2週間前に行われる。さらに、毎週水曜日(ユダの裏切りを記念して)と毎週金曜日(キリストの磔刑を記念して)にも断食が守られている; また、主の十字架の挙揚の日(9月14日)、洗礼者ヨハネの首斬りの記念日(8月29日)、キリストの降誕の前夜、および神現祭の前夜(1月5日)にも断食が行われます。 ティピコンの断食に関する規定に従い、修道院の生活規則には、年間を通じて修道士たちの食事について極めて詳細な指示が盛り込まれている。
ティピコンは、修道士たちが厳格に遵守すべき4種類の(あるいは4段階の)断食を区別しており、修道士たちに肉の摂取を完全に断つことを求めている[670] 。断食の最高段階は、大斎の第1週の月曜日と火曜日、および受難の金曜日に定められた完全な断食である。 その他の断食日には、ティピコンは1日1回、日没後の夕方にのみ食事を摂ることを許可している。第2段階の断食は(乾食)であり、大斎期間中に定められている。例外は土曜日と日曜日だけであり、その日は油を使わない茹で野菜を食べることができる。 (植物性)油を添えた茹で野菜の摂取はすでに断食の第三段階にあたり、魚の摂取は第四段階、つまり最終段階にあたる。魚は受胎告知の祝日(それが受難週に当たらない場合)および主のエルサレム入城の祝日に摂取される。
『ティピコン』には、ワインと油の摂取が許可される日が明確に列挙されている。これらの日には、水で薄めたワインを飲み、植物油を使った食事を摂ることができる。東方教会では、修道士による肉の摂取は完全に禁じられており、断食期間およびすべての平日には、乳製品や卵の摂取も控えることが定められている。 乳製品やバターを添えた野菜、牛乳やバター入りの粥、白パン、あるいはキャベツや魚を詰めたパイなどが、修道院の食卓に並ぶのは、日曜日や祝日のみである。 主の祝日や聖母マリアの祝日には、聖人の記念日や皇帝の命名記念日などの祝日よりも、修道士たちの食事は質も良く、量も豊富(3~4品)になります。修道院の規則書には、当時の敬虔さを示すもう一つの特徴が記されています。すなわち、聖母マリアの祝日には特に「質が良く、軽めの」食事が定められており、 また、特に崇敬される聖母マリアのイコン――例えば、 ウラジーミルやカザンのイコン――に捧げられる祝日にも、より豪華な食事が定められていた。修道院の創設者の帰天の日(彼が列聖された後は教会の祝日となった)や、その名日(イメニン)も厳かに祝われた。
例えば、ヨシフ修道院では、9月9日に聖ヨシフの帰天記念日を祝った。この日、修道院の修道士たちは、前日の9月8日の聖母マリアの誕生祭よりも上質な食事を与えられた。聖ヨシフの記念日には、食卓には最も高価なテーブルクロスが敷かれた。 9月8日と9日の両日、修道士たちは白パンを食べたが、9日には焼き魚の料理が3品出され、8日には茹で魚の料理が2品のみ、付け合わせ2品、西洋わさびとマスタードが添えられた。 9日には、修道院の創設者を称えて、具入りのパイや卵と蜂蜜入りのパイも振る舞われたが、8日には野菜スープと牛乳入りのお粥のみであった。聖ヨセフの記念日には、修道士たちは聖母マリアの誕生日に振る舞われるものよりも上質な蜂蜜クワスを飲んだ。 9月9日が水曜日や金曜日、すなわち断食日に当たった場合、修道者たちは昼食として、コショウ入りのエンドウ豆のスープ[671] 、パン4分の1、クワスのジョッキ1杯しか与えられず、祝祭の食事は翌日の9月10日に催された。 9月9日には、すべての物乞いや貧しい人々、巡礼者が修道院で腹を満たす食事を与えられ、大聖堂の長老たちは聖体礼儀の後、修道院の財源から小銭を物乞いに施した。興味深いことに、この日、修道士たちも修道院から金銭の贈り物(1コペイカずつ)を受け取っていた。
復活祭の初日、食卓はとりわけ豊かで「軽め」のものだった: 復活祭のクーリチ、修道士たちが制限なく、「思う存分」味わうことのできる白いパン、茹でて色付けした卵、新鮮な魚(2種類、焼きと茹でという2つの調理法)、ミルク粥、昼食には蜂蜜入りクワス、夕食には白いパンで作ったクワスが振る舞われた; 夕食には再び魚料理が振る舞われた。8月15日の聖母被昇天祭、すなわち修道院教会の主祭日には、すべての食事は皇帝の負担で用意された(16世紀の慣例であった)。これは皇帝から修道院への特別な贈り物であった。 また、大斎の第1週および受難週の月曜日と火曜日については、日課書に「食事も、パンも、水も一切禁止」[672] と記されている。
私たちが修道院の生活規則からこれほど広範な抜粋を引用したのは、修道者の禁欲の意義がいかに表面的に理解されていたか、そしてその理解がいかに歪められていたかを示すためである。確かに、ティピコンの断食に関する規則は厳格かつ厳密に遵守されていたが、その他の日には、修道院の食卓は修道者の禁欲の真意や要求に合致していなかった。 前述の通り、断食の意味と形式について長老ニロスの見解をすでに引用した(第IV章、2)。長老アルテミオスの著作からも、16世紀半ばにおいても、無所有者たちが断食の宗教的・禁欲的な意義について正しい理解を失っていなかったことが見て取れる[673] 。
しかし何よりもまず、修道院の創設者を記念する式典が典礼的に執り行われた。 祝日の前夜には徹夜祷が執り行われ、それはほぼ一晩中続いた。ティピコンに定められた早課の朗読は3つまたは4つの部分に分けられ、カノンの第6歌の後の最後の朗読には、修道院の栄光ある創設者である聖人の伝記が含まれており、それは修道者たちにとって、改めての戒めと教訓となるはずであった。 徹夜祷はしばしば朝まで続き、その後、修道士たちが教会に残る短い休憩を挟んで、祝日の聖体礼儀が始まった。これは修道院の院長と一人の司祭修道士によって執り行われた。 聖体礼儀は昼食時まで続き、修道院の守護を祈願する聖人を称える特別な祈願式をもって締めくくられた。礼拝の後、修道士たちは修道院長を先頭に、詩篇「わが魂よ、主を賛美せよ」(詩篇145)を歌いながら、ゆっくりと厳粛に食堂へと向かった。 食堂では、キヴォトの前、あるいはイコノスタスの前で(食堂はしばしば祭壇とイコノスタスを備えた教会として造られていた)、その日のトロパールが歌われた。 イグメンは、すでにテーブルに並べられていた食事を祝福し、教会から持ち帰ったプロスフォラを修道士たちに配った。これは、 数時間にわたる断食後の最初の食事であった。修道士たちが最後に食事をとったのは、その前の晩、徹夜祈祷の前夜のことだった。 イグメンの後に続き、修道士たちは十字を切ってから食卓に着き、黙って食事を始めた。静寂を破るのは、給仕する兄弟たちの足音と、聖人の伝記の朗読、あるいは修道院長が指定したその他の朗読だけだった。 昼食は、修道院の規則に定められた料理で構成され、感謝の祈りとトロパリオの再唱で締めくくられた。同じ順序で、修道士たちは「主よ、あなたの住まいはいかに愛すべきか!」 (詩編83)や「『主の家に参りましょう』と私に言った者たちを、私は喜んだ」(詩編121)を歌いながら、食堂から教会へと向かった。教会では、修道司祭の一人、あるいは修道院長自らが送別祈祷を唱え、修道士たちは次の礼拝まで休息をとるため、各自の独房へと戻ることができた[674] 。
修道院生活の真に禁欲的な体制にとっての主な障害は、共同生活を行う修道院や独立生活を行う修道院のための共通の規則の欠如でも、そのような規則が教会の大司教たちによって導入されなかったことでも、個々の修道院で適用されていた規則が互いに食い違っていたことでもなく、 むしろ、キリスト教の禁欲主義全般、とりわけ修道者の修行の真髄に対する正しい理解が、ごく一部の修道士や修道者グループにのみ残されていたことである。 ヨセフ派と非所有派との間の論争は、ヨセフとニロスの著作に反映されており、後世の修道院生活のあり方に影響を及ぼした。 聖ヨセフは、自身も厳格な禁欲者であり、その規則においても修道生活のあり方に対して厳しい要求を課していたが、禁欲を表面的かつ形式的に理解していた[675] 。彼が霊的生活の内面的基盤や修道院の典礼生活を軽視していたことは、実に驚くべきことである。 彼は、礼拝中や独房での祈りの際、修道士がどのように振る舞うべきかについて正確な指示を与えている一方で、修道士が精神的な集中力を保つ必要性については見過ごしている。宗教的形式主義がいかに広まっていたかについては、半世紀後にマクシム・グレクと長老アルテミイによってなされた、修道生活に対する批判的な指摘も物語っている[676] 。
この宗教的形式主義は、ヨシフ派の霊的指導者の敬虔さに影を落とすだけでなく、敬虔なツァーリ・フェオドル・イヴァノヴィチ (1584–1598)[677] や、儀式を極めて重要視したアレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝(1645–1678)の性格にも影響を及ぼした。そして、この傾向は17世紀の分裂において最終的な形を成し、何世代にもわたる人々が、血を流し、自らを焼き尽くすことで、宗教的形式主義への忠誠を証明したのである。
修道院生活の衰退は、歴史的な視点から私たちが見ているだけでなく、当時の人々も認識していた。修道士ヴァッシアン公や長老アルテミイのような「非所有者」たちだけでなく、聖ヨセフの最も忠実な弟子の一人であるダニイル都主教や、イヴァン4世皇帝までもが、この衰退について率直に語っている。 『ストグラフ』の決議や、この時代のその他の資料は、16世紀の修道院生活の全体像を補完しており、その結果、非所有主義者たちや、彼らに共感していたマクシム・グレクに対する鋭い批判も、党派的な偏見という色合いを失っている。
すでに言及したこの修道士である公爵の著作(もっとも、いくつかの指摘は、彼自身の運命に対する不満から生まれたものであり、著者の性格に起因するものであることは疑いようがないが)において、修道生活の世俗化は、修道院の世俗的な富の蓄積によって説明されている。 長老ニロスの見解に忠実であり続け、彼は修道士や教会全般の世俗的な富に何の価値も置いていない。「教会の装飾品は、火や野蛮人、あるいは盗賊によって奪われてしまうものだ。 しかし、それを貧しい者に与えるならば、悪魔でさえそれを盗むことはできない」と彼は述べている[678] 。この世的な富の蓄積という罪は、修道院だけでなく個々の修道士にも見られるものであり、それによって修道生活の基礎であるべき貧しさの誓いが破られると、ヴァッシアンは考えている。この共同生活規則の違反は、最も広まっていた悪であった。 この問題については、 ヴァッシアンやマクシム・グレックだけでなく、ダニイル都主教や『ストグラフ』[679] も言及している。また、個人居住型の修道院においても、修道士たちは修道院に入会した後、あまりにも多くの物や金銭を所持し続けていた[680] 。16世紀の一連の文書は、共同生活規則や貧困の誓いがいかに露骨に踏みにじられていたかを伝えている[681] 。 こうした弊害は17世紀の共同生活を行う修道院でも見られたため、1667年の公会議ではその是正を最も厳格に要求せざるを得ず、1681年の公会議でも、共同生活規律の厳格な遵守が義務であることを改めて強調した[682] 。 多くの修道院において、食事の節度を欠くことや、修道者たちの共同食事が行われていないことが指摘された。修道院長はしばしば特別な料理を調理するよう命じ、自身や来客、親族、そして裕福な信者たちのために、別個の食事を設けていた。 この横行した不正行為の広まりを契機として、若きツァーリ・イヴァンは、ストグラフ公会議に向けた質問の一つの中で、この醜態に公会議の注意を喚起した[683] 。 かつては修道士たちの厳格な禁欲的修行で知られていたキリロ=ベロゼルスク修道院でも、16世紀には衰退が見られ、それは1573年のツァーリの有名な書簡に記された非難に反映されていた。同様の現象はトロイツェ=セルギエフ修道院でも見られた[684] 。 1547年から1551年にかけて、 すなわち『ストグラフ』の直前に、「修道士たちによるツァーリ・イヴァン・ヴァシリエヴィチへの陳情書」と題された興味深い著作が現れた。その中で著者(あるいは著者たち)は、モスクワ近郊の修道院における共同生活規律の違反について記し、修道院での生活が規律に則るよう措置を講じるよう求めている[685] 。 おそらく、この「嘆願書」こそが、若きツァーリに非常に強い印象を与えたため、公会議において、彼は修道生活の基本原則に対する絶え間ない違反に関する多くの質問を投げかけたのである。
常態化していた悪習の一つが酩酊であった。すでに言及した修道院の規則は、この悪習を厳しく非難し、修道士が独房でワインを保管したり飲んだりすることを禁じている[686] 。「ストグラフ」(第49章)は、修道院において飲酒が極めて広まっていたことを示している。 おそらく、『ストグラフ』の判決に含まれる禁止事項は実質的な成果を上げなかったのであろう。というのも、20年後、ツァーリはキリロフ修道院への書簡(1573年)の中で、再び修道士たちの酩酊について言及しているからである[687] 。 1667年および1682年の教会会議の判決文は、この悪習が17世紀にも依然として広まっていたことを示している。[688]
16世紀前半の修道院生活の負の側面について、ダニイル都主教(1522–1539)は6通の書簡を捧げ、その中で共同生活規律の違反について述べている。これらの書簡は、特定の個人や修道院宛てに送られたものである。 著者は単に特定の悪習について述べるだけでなく、受取人に対して禁欲的修行の基礎を説明し、キノヴィアとイディオリトミアの違いを示し、共同生活の優位性を強調しようとしている。 彼は自らの主張を、聖書や禁欲主義の著作からの引用によって裏付けている。ダニエルのこれらの著作は、修道院の生活様式を評価するだけでなく、著者自身の禁欲主義的見解を特徴づけるための豊富な資料を提供している。 ダニイルはここで、師である聖ヨセフの思想に囚われたままであり、彼の著作には独創的なものは何もなく、この権力欲の強い教会高官――国家権力との交渉に長けた――を、自立した思想家たらしめるような個人的な特徴は一切見られない[689] 。
修道生活の禁欲的基盤に対する形式主義は、ダニイル大主教にもストグラフの司教たちにも共通する特徴であったが、修道院の生活に見られた悪習や横暴を克服する助けにはならなかった。 そして次の世紀においても、修道界の世俗化の進行を食い止めるような実効的な措置は講じられなかった。また、その時代の著作の中で、禁欲の真髄を解明しようとする試みがなされたものも、我々の知る限り存在しない。 14~15世紀に見られた真に禁欲的な修行の崇高な模範は、広範な修道者層の意識の中で色あせてしまった。ごく少数の者だけが、依然として古来の禁欲的伝統を守り続けていたが、その中には組織的な才能や改革への意欲を持つ人物はいなかった。 教会の上層部もまた、修道院生活の浄化に向けたいかなる措置も講じなかった。この時代――「動乱の時代」から、ロシア社会全体の生活を一新したピョートル大帝の改革に至るまで――は、その注目と力、そして情熱を別の方向へと向けていた。
16~17世紀の修道院生活を特徴づけるにあたり、モスクワ・ルーシにおける修道士の数を特定することが望ましい。17世紀末には1200を超える修道院が存在していた[690] が、修道士の総数に関する公式なデータは一切ない。一部の修道院における修道士の数を推定できるのは、散在する文書や史料によるのみである。
概して、修道院の修道士数は少なかった。 多くの修道院では、3人から10人の修道士が在籍していた。マカリイは『ロシア教会の歴史』の中で、16世紀には20人から50人の修道士を擁する修道院はわずか10か所であり、50人以上の修道士を擁する修道院は8か所か10か所であったと記している[691] 。 キリロフ修道院では、1582~83年に52人の修道士が暮らしていた。その中には、修道院長、ケラー(物資管理責任者)、教会の長老、2人の聖具係、7人の司祭修道士、3人の助祭修道士、そして36人の一般修道士が含まれていた[692] 。 当時、多数の修道士を擁していたのは、ソロヴェツキー修道院とトロイツェ=セルギエフ修道院の2か所のみであった。ソロヴェツキー修道院では、1584年から1594年にかけて約270名、1649年には約350名の修道士が在籍していた[693] 。 モスクワを訪れた外国人たちは、16世紀前半のトロイツェ=セルギエフ修道院には約300人の修道士が、世紀末には700人近くの修道士が暮らしていたと記している[694] 。17世紀には、修道院の数が増加したにもかかわらず、各修道院の修道士数はどこも依然として少なかった。 北部の修道院は通常、住職の数が少なかった[695] 。比較的修道士の人数が多かったのは、モスクワ市内の修道院であった。モスクワ近郊のサヴォ・ストロジェフスキー修道院は、ツァーリ・アレクセイ(1645–1676)から特別な寵愛を受けていたが、 1688年には165人の修道士がおり、その中には20人の司祭修道士と15人の助祭修道士が含まれ、様々な管理職には54人の修道士が就いていた[696] 。 百人会議は、近隣に位置する小規模な修道院は一つの修道院に統合されるべきであると決定した(第5章)が、それでも17世紀には、修道者の数が3人から10人の修道院が依然として一般的であった[697] 。 これらすべてのデータに基づき、修道院の居住者(修道士および修道女)の総数はおよそ25,000人であったと考えられる[698] 。
修道生活と修道院の規律の衰退は、修道者の管轄権に関する不確実性によって部分的に説明される。
修道士による修道規律の違反は、教区主教による宗教裁判の対象となっていた。しかし、修道院と主教との関係、特に服従と管轄権の問題に関しては、大きなばらつきが見られた。
いわゆるスタウロピギア修道院([699] )は、主教の管轄から完全に除外され、大主教の管轄下に置かれていたが、1589年以降はモスクワ総主教の管轄下に入った。 その他の修道院は、あらゆる宗教的事項において、管轄する教区の主教の裁判権下に置かれ、裁判で定められた罰金を支払う義務を負っていた。 このような教会法上の関係は東方教会のカノンによって定められており、ロシアの君主たちの勅令や特許状によっても認められ、確認されていた[700] 。しかし、その同じ君主たちは、修道院に特許状や免訴状を授与する一方で、大主教に対して発行した他の勅令や特許状に違反していたのである。
修道院の所有地における法的地位にとって、特許状および免訴状が持つ重要性については、すでに前述した。しかし、教会裁判の分野においてさえ変更をもたらすような免訴状も発布されていた。 その内容によって、免訴状は様々であった。あるものは修道院を教区主教の管轄から完全に免除し、あるものは修道院を宗教的事項において主教の管轄下に留め、またあるものは修道院を主教の役人の管轄からは免除したが、主教自身からの管轄からは免除しなかった[701] 。
ストグラヴァにおけるイヴァン王の質問(第5章、質問14)――すなわち、こうした「非審理の勅書」の正当性に関するもの――は、マカリー大司教の影響を免れて提起されたものではなかった。というのも、これらの「非審理の勅書」は、教会法上の観点というよりはむしろ実務上の観点から、司教団にとって望ましくないものであったからである。 したがって、ストグラヴァの司教たちがこれらに断固として反対の意を表明し、公会議が「今後、このような勅書は存在してはならない」と決定したことは明らかである(第67章)。 実際には、この決定は紙上のものに留まった。なぜなら、イワン王は公会議後も免訴状を発行し続けたからである[702] 。この決定に対する無視は17世紀にも続いた[703] 。このような政府の政策は、修道院の院長たちが教区の主教と紛争が生じた際、嘆願書を大主教ではなく王に提出していたことに関連していた。 この関係の不確実性と矛盾は、教会のカノニカルな秩序に反し、修道者たちの目から見て主教たちの精神的権威を低下させるものであり、必然的に結果をもたらさざるを得なかった。それは、主教たちが修道院の規律遵守に対して恒常的かつ厳格な監督を行うことを妨げるものであった[704] 。 一方、若きツァーリ・ミハイルが1625年にフィラレート総主教に授与した有名な勅許状は、ある意味で教会階層の司法権を回復するものであった[705] 。 1649年の法典および修道院局の設立は、教区司教と修道院との間の正常な関係に新たな混乱をもたらした。 ニコン総主教の抗議や、聖職階級のカノニカルな権利を全面的に回復しようとする彼の試みは、成功しなかった[706] 。1667年の公会議では、 その構成員は1666年の公会議にも出席しており、当時はツァーリとパトリアルヒ・ニコンの間の論争においてツァーリ側についていたが、今回は教会の管轄権の問題に関して、廃位されたパトリアルヒの見解に同意し、教会階層がすべての司法権を保持するという判決を下した。 アレクセイ皇帝がこの判決を承認したことは知られている[707] 。これは教会にとって完全な勝利であった。修道院はあらゆる点において自らの大司教の管轄下に入り、教区主教の司法権は強化され、主教と修道院との関係は正常な教会法上の性質を帯びるようになった。 1675年の公会議および 、共同統治時代のイヴァン・アレクセーエヴィチとピョートル両皇帝が主教たちに授与した勅許状は、1667年の判決の正当性を確認するものであった。こうして、17世紀末までこの状況は維持された[708] 。
教区の主教と、その管轄下にある修道院との間に、正常で秩序立った恒常的な関係が欠如していたことは、当然ながら、宗教裁判の運営に悪影響を及ぼした。 修道院の院長たちは、しばしば経済的な管理に過度の注意を払わざるを得ず、厳格な規律を維持するための時間も十分な権威も持ち合わせていなかった。 彼らの権利と義務は、修道院の規約や教区主教の指示というよりは、修道院に与えられた特権、あるいは単に慣習に由来するものであった。 すでに述べたように、例えばヨシフ・ヴォロコラムスキーの規則第14章は、評議会の長老たちに規則違反者に対して懲戒処分を科す権利を与えていた。 修道院長と修道院の長老たちが良好な関係を保っていれば、物事は順調に進んだが、もし彼らの間に摩擦や論争があれば、一致団結は失われ、修道院内で混乱が生じる可能性があった。こうした諸事情が、修道院における厳格な規律の維持を困難にしていた。 修道院の全体的な状況は、一方では教会当局による一定の措置を、他方では修道者自身の仲間から有能な人物を登用することを必要としていた。しかし、残念ながら、そのどちらも実現しなかった。
16~17世紀には、修道者たちは国の一般的な教会生活に参加し、修道院の壁の外で活動することができた。 大規模な修道院の院長が教会公会議の議事に参加することは、ごく当たり前のことだった。特に17世紀には、政府が様々な問題を議論するために時折招集した地方公会議においても、司教たちと共に修道院の院長たちが出席していた[709] 。 公会議の決議文の署名や、1575年から1584年までのツァーリ公文書館の記録から、すべての修道院が階級別に区分されていたことがわかる。この区分は、どの修道院が特別な敬意と尊崇を受けていたか、どの修道院の院長がアルヒマンドリトであり、どの修道院の院長がイグメンであったかを示している。 1561年、トロイツェ=セルギエフ修道院の院長がアルヒマンドリトの位に叙任されて以来、同院長はすべての院長の中で最上位の地位を占めていた。 名誉の2位は、ウラジーミルの由緒あるロジェストヴェンスキー修道院のアルヒマンドリットであり、その後にモスクワのノヴォスパスキー修道院、ノヴゴロドのユリエフスキー修道院、モスクワのチュドヴァ修道院およびシモノフ修道院の修道院長が続いた。 キリロ=ベロゼルスキー修道院のアルヒマンドリットは12位、イオシフォ=ヴォロコラムスキー修道院のアルヒマンドリットは19位を占めていた[710] 。これらの文書はいずれも最終的な決定事項のみを記載しているため、個々の人物の実際の役割について推測することはできない。
ルーシでは、東方教会のカノンに従い、司教に叙階されるのは修道士に限られていたため、教会の上層部と広範な修道者層との間には密接な結びつきが存在していた。 16~17世紀のロシアの主教は、それ以前の時代も同様だが、主教叙階の前に数年間を修道院で過ごしていた。大主教や総主教の称号は、本来、主教座の威厳に結びついた名誉称号に過ぎなかった。 教会行政上の観点からは、教区のミトロポリト、大司教、司教は同等の権利を有していた。修道院の院長が、そのままミトロポリト、大司教、あるいは司教に叙任されることは、ごく一般的なことだった。 例えば、1491年にはモスクワのシモノフ修道院のアルヒマンドリト・ゾシマが、また1495年にはトロイツェ=セルギエフ修道院のイグメン・シモン が、それぞれ直ちにモスクワ都主教に叙任された。 シモンの後継者であるヴァルラアム大主教は、シモノフ修道院のアルヒマンドリットから、大公の命令により大主教に就任した[711] 。ダニイル大主教は以前、イオシフォ・ヴォロコラム修道院のイグメンであり、イオアサフ大主教はトロイツェ=セルギエフ修道院のイグメンであった。 マカリイ(後のモスクワ都主教)は、モジャイスクにあるルジェツキー修道院のアルヒマンドリトを務め、その後ノヴゴロド大主教となった。 アファナシー大主教(1564–1566)は、モスクワのチュドフ修道院の修道士であり、それ以前は正司祭およびツァーリの霊的指導者を務めていた。大主教に就任する直前に修道士として剃髪した[712] 。 聖フィリッポス、モスクワ都主教(1566–1569)は、叙階されるまでの18年間、ソロヴェツキー修道院のイグメンを務めていた(1548–1566)。 17世紀、シモノフ修道院のアルヒマンドリトであったイオシフは、モスクワおよび全ルーシの総主教(1642–1652)に選出された[713] 。
修道院で過ごした年月は、特に当時においては、その人物の考え方に少なからず影響を与えたに違いない。修道院は彼にとって学校のような存在であり、そこで彼は修道生活の一般的な基礎を学ぶだけでなく、修道院内で広まっていた教会・政治問題に関する見解や考え方に触れ、それらが彼に影響を与えたのである。 その後、修道院の外での生活のあらゆる場面において、彼は自らの修道院の霊的な雰囲気を心に留め、その精神に従って行動し、自らの修道院の伝統に基づいて教会生活のあらゆる事象を評価することになる。
このような霊的な姿勢は、16世紀において重要な役割を果たした。ヨシフ・ヴォロコラム修道院は、この点においてロシア教会史において極めて特別な位置を占めている。聖ヨシフとその修道院には、16世紀の教会生活において最も影響力のある潮流が結びついている。 ロシア教会の全歴史を通じて、短期間であれ長期間であれ、この修道院ほど教会の生活において重要な役割を果たした修道院は他にない。さらに、ヨシフ派の潮流は、最近に至るまで、ロシアの教会生活全般に、時には弱く、時には強く、影響を与え続けている。 16世紀を通じて、より正確には1522年以降、少なくとも19人の修道士やこの修道院の院長が、その門をくぐり、様々な主教座に就き、修道院創設者の思想を教会の生活に深く浸透させた。 これらの主教のうち7人はかつて同修道院の院長であり、他は一般の修道士から叙階された者たちであった[714] 。1555年から1581年にかけて、カザン大主教座は常にイオシフォフ修道院出身者によって占められていた。 17世紀になると、ヴォロコラム修道院は、主教座の補充においてかつてのような役割を果たさなくなった。修道院長アレクサンドル(1682–1688)がヴェリキー・ウスチュグの大主教(1688–1699)に選出された事例が唯一知られている[715] 。 ヨシフォフ修道院の修道士たち、すなわちダニイル都主教、ヴァッシアン(サニン)司教、 ヴァシアン(トポルコフ)、サヴァ(チェルニー)といった司教たち、さらにはイオシフ派の精神を受け継ぐパフヌティエフ修道院出身のマカリイ都主教らは、自らの行動や著作を通じて、この学派の思想を広め、確立していった。 ストグラフ公会議で主流となった見解は、この潮流の代表者たちが表明したものである[716] 。修道院の精神は、その後も多くの聖職者たちの活動の中に受け継がれた。 同様に、聖セルギイの時代のトロイツェ=セルギエフ修道院の厳格な禁欲的な共同生活は、数多くの新しい修道院の創設者を育て上げ、彼らはそれぞれの修道院において、聖セルギイの修道院が実践していたのと同じ修道生活様式を導入した。 禁欲主義の「無所有者」の学派は、15世紀後半にヴォルガ川以東の荒野に広まっていたあの気風や思想なしには考えられない。 この精神――それが修道生活の発展にとって有益であれ有害であれ――が失われるやいなや、教会生活に多大な影響を与えるような傑出した人物はもはや現れなくなった。
17世紀にはソロヴェツキー修道院から数人の司教が輩出されたが、彼らに教会生活への特に顕著な影響を帰することはできない。 とはいえ、ソロヴェツキー修道院と密接な関係にあった聖フィリッポス・モスクワ都主教 (1566–1568) は、その行いと殉教的な最期によって、修道界において宗教的責任感が完全に失われてはいなかったことを証明した[717] 。
16~17世紀には、トロイツェ=セルギエフ修道院の13人の院長が司教となった[718] が、そのうち教会の歴史において重要な役割を果たしたのはわずか2人であった。 それは、ノヴゴロド都主教イオヴ(1697–1716)であり、彼の新しい学校の設立や白人聖職者の養成に関する功績は高く評価されるべきものである。そして、11年間にわたり (1656–1667)この修道院の院長を務めた。もっとも、高齢のパトリアルヒであった彼は、特に活動的な人物ではなかった。教会の権利を精力的に、かつ成功裏に擁護した1667年の公会議において、彼の役割はそれほど大きなものではなかった。
修道生活の世俗化という過程を考察するとき、なぜ司教団がこの流れを食い止めるための断固たる措置を一切講じなかったのか、なぜ少なくとも各司教がそれぞれの教区において、修道院の状況を改善するための措置を講じなかったのか、という疑問が自然と湧き上がる。 しかし、これらの司教たちは、自らも修道院で生活していたのである。そこでは、禁欲的な修行に割り当てられた場所は極めて限定的であり、宗教的な形式主義――硬直した「儀式崇拝」――が根付いていた。 17世紀の教会指導者たちの中には、修道院生活の浄化と改善に熱心に取り組んだ傑出した人物は見当たらない。リャザン都主教イラリオン(1657–1673)は、自身の管区内の修道院における修道生活の水準を引き上げることができた数少ない管区長の一人であった[719] 。 もう一人のイラリオン、スーズダリのミトロポリット(1682–1705)は、17世紀半ばにフロリシュチェヴァ修道院(ウラジーミル近郊)で極めて厳格な生活を送っていたが、 1694年、当時共同生活規則の違反が頻発していた同修道院の院長宛ての書簡の中で、自身が院長を務めていた時代に、そのような違反に対してどのような措置を講じていたかを記している。 彼の在任中、この修道院はその厳格な規則で知られていた。ツァーリ・フェオドール・アレクセーエヴィチはこの謙虚な修道院長を高く評価しており、彼の意向もあって、イラリオンは小さな修道院のイグメンからスーズダリ大主教の位に昇進した[720] 。17世紀後半において最も傑出しており、真に教養のある二人の聖職者 ――ノヴゴロド都主教イオヴ(1697–1716)とホルモゴル大司教アファナシー(1682–1702)――は、主に教区生活の改善と聖職者の養成に注力した[721] 。
教区主教たちが修道院の生活問題に無関心であったことは、修道生活の世俗化をさらに助長した。修道院局の廃止と1667年の公会議の後、教区主教たちはそれぞれの教区で活動を成功させるためのより多くの機会を得たが、それにふさわしい人物がいなかったことが成功の妨げとなった。
ロシアの司教団の中でも、特に際立って目立つ二人の聖職者がいる。モスクワ都主教聖フィリッポス(1566–1568)と、総主教ニコン(1652–1666)である。彼らの運命には共通点がある。それは、国家権力との衝突である。 これらの対立の教会史的な背景は異なり、むしろ正反対の性質を持っていたと言ってもよい。また、この闘争そのものの内容――聖フィリッポの場合は短期間であったのに対し、ニコン総主教の場合は長期にわたった――も、異なる性質を持っていた。 この二人の大司牧者が、ロシアの修道史において同等の位置を占めているとは断言できない。彼らの個人的な修道者としての経歴は、それぞれ異なる形で形成されていった。
教会の高貴な公爵としての華麗な装いは、ニコンの謙虚な修道服を完全に覆い隠していた。彼の行動の性質もまた、修道者の精神とは合致していなかった。 彼の関心事や目標は、主に教会全体の生活に関する問題と結びついていた。自らのエネルギー、才能、そして自らの行いの正しさに対する揺るぎない確信に傲慢にも頼り、彼が実現しようとした壮大な計画の中には、修道院生活に関わる問題のための余地はなかった。 ニコンは偉大な人物であった。彼はロシア民衆の厚みの中から現れたものであり、この人物の登場は、 、民衆の中にどのような力が秘められていたかを証明している。そして、彼の反対者たち――少なくとも同等に著名なプロトポープ・アヴァクームや他の分裂の首謀者たちを思い起こすだけで十分である――は、その力がどれほどのエネルギーをもって現れうるかを示した。 偉大な歴史的人物によくあることだが、ニコンにおいても、天賦の才は精神的な硬直性と結びつき、しばしば専制主義へと転じるエネルギーは臆病さと、原則主義は利己主義と結びついていた。 この人物は、敵対者や崇拝者、作家や研究者たちによって、呪いと栄光の両方に包まれてきた。ニコンに関する文献は膨大であるにもかかわらず、彼の個性や業績が網羅的に研究されているとは言い難い[722] 。
ロシアの修道史において、ニコンはそれほど目立つ位置を占めてはいない。 司教叙階前に修道院で過ごした年月は、彼の人生にとって何の意味も持たず、ソロヴェツキー修道院やエレアザル・アンゼルスキーのスキートで彼が経験した禁欲的な修行(そもそもニコンに関してそのような「修行」と呼べるものがあるかどうかは別として)は、彼の情熱的な性格に何の影響も及ぼさなかった。 質素な修道士のフードは、彼の気質にはふさわしい装いではなかった。むしろ、モスクワ総主教の豪華な金の礼装の方が彼の気質に合っていた。なぜなら、それらは外見上、彼の宗教的見解を体現していたからである。 ニコンの業績と運命を短い論考で特徴づけることは不可能である。なぜなら、それらを17世紀ロシアの教会政治的あるいは歴史的状況のみに基づいて理解することはできないからである。 ――それらは、一方ではキリスト教国家における国家と教会の関係という問題を解決しようとした教会階層の試みの結果、あるいはむしろその完結であり、他方では、同国の教会史にあまりにも深く根ざしていた教会内部の諸現象に対する彼の改革であったからである。
別の観点から見てみると、フィリッポス都主教の生涯が浮かび上がる。彼の活動は、ロシアの修道史の枠組みの中で十分に考察することができる。 すなわち、「モスクワ――第三のローマ」という思想の形成に積極的に関与し、その思想を提唱した聖フィリッポを、教会の大牧者としてこの思想を実践の場で試すよう推し進めた修道院生活である。 聖フィリッポとイヴァン大公との間の対立は、理論と実践がいかに大きく乖離していたか、そして前者が後者によっていかに頻繁に歪められていたかを浮き彫りにした。聖フィリッポにとって、それは世俗権力に対する大司教の義務に関する問題であり、彼は自身の聖職が求める通り、教会的・禁欲的な観点に基づいてこの問題を解決した。
聖フィリッポはボヤール家のコリチェフ家出身(1507年生まれ)で、俗名はフェドールであった。彼は、すでに私たちが概説した時代であるヴァシーリー3世の治世下、モスクワで青年期を過ごした。 G・フェドトフは、ミトロポリト・フィリッポスの伝記『[723] 』において、当時モスクワで繰り広げられていた政治的闘争の激しさを描き出している。この状況は、若きコリチェフにも無関係ではなかった。30歳の時、フェドールはモスクワを去ることを決意した。彼は北へと向かい、ソロヴェツキー修道院で修道見習いとなった(1537年)。 その伝記によると、彼はどんな肉体労働でも進んで引き受ける姿勢を特徴としており、謙虚に自分の職務の範囲内にあることはすべてこなしていた。その後、彼は修道士となった。彼の精神的指導者は長老イオナであった。 修道士フィリッポは、修道院の外にある鬱蒼とした森の中で、数年間を完全な隠遁生活を送った。修道生活11年が経過し、フィリッポがすでに41歳になった頃、引退するイグメンの提案により、修道院の兄弟たちは彼を新たな修道院長に選出した(1548年)。 その時、この謙虚な修行者の性格に新たな一面が現れた。彼は大きな熱意をもって修道院の運営に取り組み、この分野で並外れた才能を発揮した。おそらく、16世紀のボヤールの息子としての精力的な気質が、修道士の修道服によって一時的に抑えられていたが、この活動を通じてその活路を見出したのだろう。 フィリッポの統治期間は、修道院の経済的繁栄と富の蓄積の時代であった。 彼は修道院の建物を改築し、より広々とした新しい家畜小屋、レンガ工場、そして大きな製粉所を建設したほか、靴工房を設立し、伝記に記されているように、収穫作業用の複雑で正常に機能する機械さえも設計した。 しかし、修道院長は修道士たちが厳格な生活を送るよう配慮も怠らなかった。
フィリッポは18年間、修道院を統率した。1566年、彼はツァーリからモスクワへの召喚状を受け取った。どのような理由からツァーリの選択がフィリッポに及んだのかは定かではない。 モスクワでは、政治的にも教会的にも 、情勢が極めて緊迫していた。それは悪名高い「オプリチナ」の時代であり、何らかの理由、あるいは全く根拠なくツァーリの怒りを買い、失脚したボヤールやその他の人々が処刑される時代であった。教会事情においても、雰囲気は落ち着かないものだった。 ミトロポリトのアファナシー(1565–1566)は、おそらくイワンの狂おしいほどの激情を鎮めたり、せめて和らげたりする力も、その機会さえも持っていなかったが、当時の文書の一つに記されているように「病気のため」としてミトロポリトの座を去り、チュドフ修道院へと退いた。 新たな大主教候補であるカザン大司教ゲルマンは、就任式に先立ち、クンスキー公A.の証言を完全に信頼できるとすれば、ツァーリと交渉を行ったが、その結果、彼の候補指名は却下された。 フィリッポ修道院長は、アファナシーがまだ座に就いていた頃にモスクワへの招きを受けていたが、おそらくイワンは、フィリッポをモスクワの座には任命しなかったとしても、他の何らかの座に就かせるつもりだったのだろう。 フィリッポをモスクワ都主教の座に就けるという公式文書によると、イワンがフィリッポを都主教に選任するよう提案した後も、状況は依然として緊迫していたことがわかる。というのも、新たな候補者はオプリチニナについてツァーリに異議を唱え、その廃止を条件としてのみ都主教の座に就くことに同意したからである。 この提案は皇帝の怒りを買ったものの、皇帝はフィリップを大主教に据えたいという意向を改めて確認した。 ツァーリはオプリチニナの廃止要求を退け、主教会議に対して「オプリチニナはメトロポリタンの権限外である」と宣言したが、フィリップがメトロポリタンとして、オプリチニナ時代に形式的・事実上廃止されていた「ペチャロヴァニエ(国政への関与)」という古来の権利(および義務)を保持することには同意した。 このイワンの譲歩、そしておそらくは司教会議からの圧力により、フィリッポは自身の要求を撤回し、着座に同意せざるを得なくなった。 1566年7月20日の文書は、将来の都主教がオプリチニナの事柄に干渉しないという約束が盛り込まれており、フィリップと司教たちの署名によって裏付けられている点でも興味深い。この注目すべき文書は、モスクワ・ルーシにおける教会と国家の関係において、類を見ない唯一無二のものである。 もし私たちがあの時代に生きていたなら、「モスクワ――第三のローマ」という壮大なイデオロギー的構築物が、それによってどれほど壊滅的な打撃を受けたかを実感しただろう![724]
当初から、大司教の立場は容易なものではなかった。彼はツァーリの犯罪を見過ごすことを拒んでいたからである。1566年から1568年にかけては、特に処刑やその他の悪行が頻発した時期であった。大司教の伝記によれば、これらすべてが、ついに彼に与えられた「嘆き」の権利を行使せざるを得ない状況に追い込んだという。 しかし、これでは実質的に何の成果も得られなかったため、大主教は公然と行動を起こすことを決意した。1568年3月のある日、当時大主教が礼拝を行っていた教会に、オプリチニキに囲まれ、自らもオプリチニキの黒い衣装を身にまとったツァーリが入ってきた。 大主教はツァーリに祝福を与えようとはしなかったが、オプリチニクであるボヤールたちが、ツァーリが彼からの祝福を待っていると大主教に指摘すると、フィリップは声を張り上げて諭しの言葉を述べた。 その後、同じく礼拝の最中に起きた大主教と皇帝との衝突は、皇帝の怒りをさらに募らせたが、当時、大主教フィリップは、大牧者の務めを果たしているという確固たる自信に支えられていたため、皇帝は彼に対して公然と行動を起こすことをためらった。 伝記は両権力間の闘争を詳細に記述しており、他の資料は、王の傲慢で激しい言動と、大司教の謙虚でありながら屈しない姿勢という悲劇的な様相を補完している。 侮辱されたと感じた王の怒りは、復讐への渇望へと変わった。大主教の親族たちは迫害、財産没収、処刑にさらされ、 司教たちの間から現れたフィリッポの敵や、ソロヴェツキー修道院の修道士たちによる偽証者たちは、大主教を誹謗中傷し、とりわけ魔術を行使したという荒唐無稽な告発を彼に浴びせた。ついに、すでに殉教の道を歩み始めていた大主教に対して教会裁判が開かれた。 裁判は彼に聖職剥奪と、トヴェリのオトロチ修道院への幽閉を宣告した。1569年12月23日、修道院に、イヴァン4世の悪行における主要な側近であり、その直接の執行者でもあった悪名高いマリウタ・スクラトフが現れ、殉教者を絞殺した。
1590年、ソロヴェツキー修道院の院長は、イワンの息子であるツァーリ・フェオドールに、殉教者の遺骨が納められた棺を自院に移す許可を請い、それが認められた。墓を開けたところ、殉教者の遺骨は腐敗していなかった。 ソロヴェツキー修道院にある彼の墓の前では、癒やしやその他の奇跡が起こった。1636年、殉教者は聖人の列に加えられ、1646年にはその聖遺骨が修道院の大聖堂に移された。 数年後の1652年、アレクセイ皇帝は、当時ノヴゴロドの 大主教であり、後に総主教となるニコンを団長とする特別使節団をソロヴェツキー修道院へ派遣した。使節団は聖人の遺骨をモスクワへ運び帰った。 聖フィリッポスを称える礼拝において、教会は彼を「真理の擁護者」と呼び、それによってツァーリ・イヴァンに対する自らの判断を表明している。
16~17世紀は、ロシアの修道界にとって危機と世俗化の時代としか言いようがないが、この時代にもまた、別の種類の現象が見られた。灰の下の熱のように、修道院の壁の内側には、真のキリスト教的苦行の灯火が潜んでいた。 宗教的形式主義と無関心の厚い壁を突き破って、真の禁欲主義の精神が息づいており、修道者の大衆の中から、この悲劇的な時代の修行者の典型を体現する個々の人物が際立っていた。 概して、これらの修行者たちは、かつて14~15世紀には修道的な修行と世俗からの離脱の拠点であった、大規模で名高い修道院から遠く離れた場所で身を隠していた。ロシアの敬虔さと聖性は、次第に世の中から姿を消していったが、その後、 18~19世紀になって、慎重に、そしてまるで怯えるかのように世に姿を現すこととなった。それはまさに、燃え上がる火花や太陽の光のようで、それらを執拗に探し求める神を愛する者、あるいはその時代の修道院生活の深層を視線で探ろうとする研究者だけにしか見えないものである。
研究者にとっての難しさは、この時代に関するロシアの聖人伝文学が、14~15世紀に関する文献ほど豊富ではないという点にもある。ここでは二つの事情を考慮する必要がある。 マカリー大主教の活動と、なお生き続けていた禁欲的な伝承が、14~15世紀への関心の高まり、すなわちその時代の聖人たちの偉業を文学的に記述する動きを後押しした。しかしその後、修道院生活の世俗化や修道士たちの経済的配慮に追われるようになり、文学活動に費やす時間も力も残されなくなった。 17世紀には、前世紀の前半に見られたような論客や作家が修道界から現れることはなかった。それでもなお、17世紀の霊性の現れの一部は、もしピョートル時代の激動が教会の生活全体をこれほど激しく揺るがしていなければ、文学に反映されていたかもしれない。 多くのものが失われ、一部は断片や伝説、民衆の記憶の中にしか残らなかった。とはいえ、こうした資料が民俗伝承へと受け継がれたのは、同時代の人々による信頼できる証言が、勤勉な修道士の筆によって紙に書き留められなかったためである。修道界そのものも、もはや自らの環境における多くの霊性の現れに気づかず、それを評価することもなくなっていた。 禁欲的な功業への崇敬や、その意味の理解は、かつてのように当然のこととはもはや見なされなくなっていた。これらすべてから、16~17世紀の少数の修道士たちに関する我々の知識が、あまりにも不十分であることは明らかである。
精神的にはまだ15世紀の修道生活に属していた一部の修行者の名前は、すでに言及されている(第4章)。 彼らは、修道生活における危機がすでに顕在化し始めていた過渡期に生きていた。彼らは両方の時代に属していた。なぜなら、彼らはモスクワ・ルーシの修道生活における禁欲的功業の輝きの最後の残滓をその内に宿しており、その輝きは、新しい時代の入り口に立っていた敬虔な修行者たちの生涯を満たしていたからである。
ロシア教会の月暦には、16世紀後半から17世紀にかけて、教会全体によって称えられた聖人は少なく、むしろ地域的に崇敬される聖人の方が多い。 おそらくこれは、ロシア正教会が総主教時代および教会会議時代において、列聖の問題に時折しか注目しなかった一方で、民衆の敬虔さは、まだ列聖されていない多くの修行者を聖人として崇め続けていたことによるものだろう。 マカリー大主教の時代のように、上層部から発せられる列聖のイニシアチブは、17~19世紀においては極めて稀な現象であった。 そのため、ロシア正教会には、公式には列聖されていないものの、真に神に喜ばれた多くの修道者が存在しており、彼らの中にこそキリスト教の精神が輝いており、その光が時代の影を和らげているのである[725] 。
14~15世紀の修行者たちの模範に倣った、禁欲的な精神、すなわち世俗からの厳格な離脱の精神は、キリル・ノヴォエゼルスキー(†1532)、コルニリイ・コメルスキー(†1537)、アレクサンドル・スヴィルスキー(†1533)といった聖人たちに息づいていた[726] 。 17世紀初頭には、聖キリルの伝記が執筆され、また(1648年までに)彼の墓で現れた17の死後の奇跡に関する物語が記された。1648年、彼は聖人として列聖され、全教会的な崇敬を受けるようになった[727] 。 聖コルニリイは、死去直後から で地元での崇敬を受けていたが、全ロシア的な教会による列聖は1600年に総主教ヨブによって行われた[728] 。聖アレクサンドル・スヴィルスキーは、すでに1547年の公会議で列聖されていた。 極北の地では、その厳格な生活態度によって、シイのアンソニーとして知られる人物が際立っていた。彼は修道司祭として、シイ川(ホルモゴルスキー郡)のほとりに隠遁所を設立したが、それは後に広大な領地を持つ修道院へと発展した。 アントニーはイコン画家としても知られており、火災後も無傷で残った彼の描いた「聖三位一体」のイコンは、ロシア北部の最も尊ばれる聖遺物の一つである。1579年、アントニーは全ロシアの聖人として列聖された[729] 。
モスクワの聖人群において特に特徴的なのは、ニラ・ストロベンスキー(†1554)とニカンドル・プスコフスキー(†1581)の二人物である。両者とも隠遁生活を送った。前者はセリゲル湖に浮かぶ島の洞窟で、世を完全に捨てて20年以上を過ごし、後者は沈黙の修道士として修行に励んだ。 ニルは修道院も隠遁地も設立しなかった。彼の死後、その修行の地には隠遁地が築かれ、後に豊かな修道院となり、多くの巡礼者を惹きつけた。19世紀には、これはロシア中部で最も崇敬される聖地の一つとなっていた。おそらく16世紀末には、ニルはすでに地元で崇敬される聖人として称えられていた[730] 。 ニカンドルの生涯は、ニルの生涯ほど平穏なものではなかった。彼を訪ねてくる人々から身を隠すため、何度も場所を転々とした。彼の帰天の地には後に「聖母受胎告知修道院」が建立され、1686年には、彼の墓で現れた奇跡により、ニカンドルは聖人として列聖された[731] 。
すでに挙げた修道者たちに加え、ロシア正教会の聖人暦には、修道生活を送り、その謙虚な生き方、世俗からの離脱、そして敬虔さによって、周辺の住民から神に喜ばれる人々として崇められ、後にその地で崇敬される聖人として列聖された多くの聖人の名前が記されている[732] 。
17世紀のロシアの聖人たちの偉業に関する記述を読むと、二つの特徴的な点が浮かび上がる。 第一に、隠遁生活や閉鎖生活への比較的広範な傾倒であり、第二に、重い鎖を身に着けるなどの肉体的苦痛を通じて肉体を死に至らしめようとする傾向である。かつては、こうした現象はロシアの敬虔な修行者たちの間では特に広まっていなかった。
ガラクティオン・ヴォロゴダ(†1612)は、おそらく修道士としての剃髪は受けていなかったが、自身の小屋で隠遁者かつ柱上者の生活を送っていた。彼は自らを鎖で壁に縛り付け、小さな窓からパンと水だけの食事を与えられていた。 彼は、自身が住んでいたヴォロゴダ市がポーランド軍に占領されると予言し、それは1613年に現実のものとなった。そしてガラクティオン自身は、ポーランド兵の手によって殉教的な最期を遂げた[733] 。 彼の同時代人であるイリナルク(†1616)は、ロストフ近郊のボリソグレブ修道院に所属していたが、修道院の兄弟たちが彼の極めて厳格な生活態度に不満を抱いたため、修道院を去らざるを得なかった。彼の伝記は、「スムータ」の時代に修道生活が衰退していたことを物語っている。 イリナルフは別の修道院に移り、足と肩に重い鎖を巻きつけて独房に閉じこもった。しかし3年後、彼はボリソグレブ修道院に戻ることができ、再び独房に閉じこもり、自らをベンチに鎖で縛り付けた。彼はその姿勢のまま30年以上を過ごした[734] 。 ヴォロゴダ地方のトテム郡では、トテムまたはティクセンと呼ばれたヴァッシアン(†1624)が同様の修行を行っていた。彼は隠遁者であり、自分の独房で重い鎖で壁に縛り付けられて暮らし、小さな窓から食事を与えられ、時折聖体拝領のために教会に出るだけだった。 ソロヴェツキー修道院の修道士ディオドール(†1633)も、隠遁者「 」として暮らしていた。修道院生活に満足できなかった彼は、白海にある小さな島に移り住み、その後オネガ川沿いの鬱蒼とした森へと入り、ついにオロンツの町の近くに隠遁地を築いた。 チュドヴォ修道院での生活様式への不満から、ニコディムという名の別の修道士も修道院を去り、北へと向かい、カルゴポリ郡の広大な湿原の真ん中に居場所を選んだ。彼の過酷な生活ぶりはモスクワにまで知れ渡った。 ニコディムは30年以上にわたり湿原の真ん中で過ごし、1640年に死去した。[735] シモン・ヴォロムスキー(†1641)もまた隠遁者であり、ヴォロゴダの鬱蒼とした森に身を隠していたが、近隣の村の農民たちに殺害された。農民たちは、彼が修道院を設立しようとしており、そうなれば自分たちの土地が修道院に譲り渡されることになると考えたからである。 さらに、先住民であるヴォグル族にキリスト教を説いた厳格な修道士シメオン・ヴェルホトゥルスキー(†1642)や、ペルミの奥深い森に隠遁所を設立したレオニード・ウスネドゥムスキー(†1654)もいた。[736]
ソロヴェツキー修道院の生活は、真の修道生活を求めていた修道士エレアザルを、修道院を去ることを余儀なくさせた。 彼はアンゼル島(修道院から約25km)に定住した。数年後、厳しい修行に傾倒する他の修道士たちが彼の周りに集まると、エレアザールはスキート(小修道院)を設立することを決意した。修道士の独居房は、互いに1ヴェルスタ離れて配置されていた。 土曜日の夜だけ、スキートの修道士たちは共に集まり、共同の晩の礼拝と日曜日の聖体礼儀を行い、その後、再びそれぞれの独房へと戻っていった。スキートの規律は非常に厳格であり、エレアザル自身の生活そのものが兄弟たちの模範となっていた。 すでに述べたように、エレアザルは自身のスキートのための規則を制定した。彼は1656年に死去した。[737] スキート修道士エレアザルの生涯には、当時すでに強い世俗化が進んでいた共同生活を行う修道院とは対照的に、長い中断を経て、古代のスキート規則に基づく修道院の体制に立ち返ろうとする試みがうかがえる。
ここで言及した修道士たちの伝記を検討すると、当時の修道院で形成されていた状況に全員が満足していたわけではないことがわかる。この不満が、修道士たちを修道院を離れ、世俗からの完全な離脱によって救いを求めるように駆り立てたのである。 深い森や沼地の真ん中など、人里離れた僻地を探し求め、そこで何ものにも邪魔されることなくキリストのために修行に励もうとしたことは、新たな禁欲主義の潮流というよりは、むしろ修道院生活における世俗化への不満を物語っている。 17世紀のこれらの修行者たちは、もはや修道院生活の全般的な活性化をもたらすことはできなかった。彼らは、それぞれの個性を持った孤高の存在として留まっているが、17世紀の修道界全体の気風や世界観に何らかの変化があったことを示すものでは決してない。
モスクワ国家の領土拡大と異教徒の諸民族・部族の併合は、ロシア正教会にこれらの民族の間でキリスト教を宣教する機会をもたらした。修道界は、当然のことながら、この活動において相応の役割を果たすべきであった。しかし、残念ながら、この分野において修道界の貢献は必要な水準には及ばなかった。 教会の上層部からは、修道界の精神的力をこの使命の遂行に向けるための措置があまりにも不十分であった。とはいえ、モスクワ政府は、司教団や修道院にとっての宣教任務の重要性を繰り返し強調していたのである[738] 。この分野においても、個々の修道士による自発的な取り組みの方が、より大きな意義を持っていた。 記念碑には、修道服をまとった宣教師たちの名前がすべて刻まれているわけではなく、特にシベリアのような辺境の地域ではその傾向が顕著である。
すでに私たちにもお馴染みのプスコフ・ペチェルスク修道院の院長コルニリイは、その説教が大成功を収めた宣教師の一人であった。彼は異教徒であるエストニア人の間で説教を行い、さらに16世紀半ばにこの地に入り込んだカルヴァン派とも論争を繰り広げた[739] 。
北部および北西部の地域、すなわちラドガ湖周辺では、ヴァラアム修道院の修道士たちが異教徒であるカレリア人にキリスト教を説いた。中でも、アルセニー・コネフスキー(† 1447)は特筆に値する。 北方の異教徒の民の間では、聖キリル・チェルモゴルスキー(†1367)が成功裏に宣教活動を行った[740] 。
ペルミ地方およびヴィャーツク地方では、聖ステファン司教(†1396)が並外れた献身をもってキリスト教宣教に尽力し、 ピティリム司教(†1455)がその事業を成功裏に引き継ぎ、16世紀末には聖トリフォン・ヴィャーツキー(†1613)が活動した。また、ピスコル修道院の修道士たちもキリスト教の布教に多大な貢献をした。 極北のポモリエ地方では、15~16世紀にソロヴェツキー修道院[741] がキリスト教信仰の砦となったが、ロシアのキリスト教宣教の歴史において、フェオドリト・コルスキーとトリフォン・ペチェンギの二人が特別な位置を占めている。
1480年頃に生まれたフェオドリットは、14歳でソロヴェツキー修道院に入り、修道士となり、15年間、修道士ゾシマの精神的指導の下でそこで過ごした。 その後、聖アレクサンドル・スヴィルスキー修道院に移り、そこからキリロ=ベロゼルスキー修道院へ移った。1529年頃、彼はソロヴェツキー修道院に戻り、ゾシマが亡くなった後、隠遁生活を送ることを決意した; テオドリトスはコリ川のほとりに人里離れた荒涼とした場所を見つけ、ミトロファンという名の別の隠者と共に、世を完全に捨てて隠遁生活を送り、そこでほぼ12年間を過ごした。 1540年、二人の隠遁者はノヴゴロドの大司教マカリオスのもとを訪れ、マカリオスはテオドリトを司祭修道士に叙階し、自身の霊的指導者に任命した。 1542年、マカリイがモスクワ都主教に就任すると、テオドリトは数人の修道士を連れて再びコラ川へ戻り、そこでトロイツキー修道院を建立した。ソロヴェツキー修道院に滞在していた頃から、テオドリトはロパール人の言語を習得しており、この時、彼らにキリストの教えを説き始めた。 彼の宣教活動は大いに成功を収めたが、長くは続かなかった。修道士の禁欲的な厳格さに不満を抱く修道院の兄弟たちとの対立が彼の活動を妨げ、結局、フェオドリトは自ら設立した修道院を去らざるを得なくなり、宣教活動を中断せざるを得なかった。 その後、彼は数年間、ベロゼルスク地方にある小さな隠遁所の住職を務め、そこで無所有者たちや長老アルテミウスと親しくなった。 1551年、アルテミイが短期間トロイツェ=セルギエフ修道院を統括していた際、ツァーリは彼の推薦に基づき、フェオドリトをスーズダリのエフフィミエフ修道院のアルヒマンドリトに任命した。 1554年の教会会議において、バシュキンとアルテミイの件が審議された際、テオドリトの名も挙げられ、彼はアルテミイの共犯者として不当に有罪判決を受け、キリロフ修道院へ追放された。 しかし1557年、彼はツァーリの命を受けてコンスタンティノープルへ赴き、そこからイヴァン4世の即位を承認する総主教の書簡を持ち帰った。 コンスタンティノープルからの帰還後、フェオドリトはヴォログダ近郊のプリルツク修道院に身を隠したが、そこから再びコラへと向かい、キリスト教を説いた。 フェオドリトは1577年頃に死去した。こうして、この厳格な修道者の生涯は、当時の教会・政治的な出来事の渦に巻き込まれながらも、ロシア修道史における顕著な模範として残ることとなった[742] 。
もう一人の宣教師、聖トリフォン・ペチェンガの生涯は、フェオドリトのそれよりも穏やかなものであった。彼の伝記は現代まで伝わっている。若き日、彼は実家を離れ、ノヴゴロドの森で隠遁生活を送った。 その後、彼は北のコール地方へと向かい、フェオドリトの宣教活動が始まる以前から、ペチェンガ川のほとりで、現地の異教徒であるロパリア人たちに福音を説いた。続いてトリフォンは、教会の建設許可と福音宣教の祝福を得るため、ノヴゴロドへの長い旅に出た。 彼は数人の職人を連れて戻り、彼らは教会を建設した。すでにロシア人の入植地となっていたコールで、トリフォンは修道司祭を見つけ、その司祭に教会を奉献してもらい、自身も修道士としての剃髪を受けた。こうして彼は異教徒に洗礼を授けることができるようになり、彼の教会は宣教活動の中心地となった。 その後、トリフォンは教会に付属する修道院を設立し、1556年にはツァーリから近隣の土地と漁場に関する勅許状を授かった。彼は改宗した 先住民のために2つ目の教会を建設し、1583年にこの世を去るまでの約30年間にわたり、キリスト教を説き続けた。[743]
モスクワ政府はポニゾヴィエにおけるキリスト教宣教に特別な関心を寄せており、それはこの地域への修道院による集中的な入植という形で表れた(第VII章参照)。 1555年にカザンの初代大司教としてグリア司教(1555–1563)が任命された際、彼には異教徒やイスラム教徒のキリスト教への改宗に特に注意を払うよう命じられた[744] 。当時、多くの高貴なタタール人がキリスト教の啓蒙と改宗のために様々な修道院に送られた。 洗礼を受けた者、すなわち新改宗者たちは、自らの所有地を維持していた[745] 。修道院や、さらには教区教会でさえも多くの土地を授与されており、例えばカザン県では、すでに16世紀末には耕作地の65%が教会機関の所有下にあった。 前述(第VII章および第VIII章)では、ポニゾフ派の修道院が富を蓄積していく過程についてかなり詳細に検討し、政府がなぜそのような政策を推進したのかを説明した。 しかし、カザン都主教エルモゲン(1589–1606)の報告書からも明らかなように、イスラム教の聖職者たちがタタール人住民に対する影響力を徐々に回復させていったため、宣教活動は特段の成果を上げることなく進んでいた[746] 。 17世紀になっても、数多くの修道院による特に活発な宣教活動は見られなかった。さらに、多くのタタール人が参加したラジン蜂起(1667–1671)など、政治情勢が緊迫するたびに、すでに洗礼を受けていた人々が信仰から離反することになり、政府は対抗措置を講じざるを得なかった[747] 。 ポニゾヴィエの南西部、リャザン教区に属する地域では、先住民は異教徒のモルドヴァ人とイスラム教徒のタタール人から構成されていた。 ここでは、17世紀半ばに南へ進んだ植民地化(シャツキー、タンボフスキー、カドムスキー各郡)に関連して、リャザン大司教ミサイル(1651–1656)が特に活発な宣教活動を展開した。 この地域にもいくつかの修道院が設立されたが、その中でも特に言及に値するのは、プルディシェフスキー修道院のみである[748] 。
シベリアでは、修道院と都市が同時に建設された。「都市があるところには」と、シベリアの最初の歴史家スロヴツォフは記している。「そこには、ヴォエヴォダによる統治、火器、そして教会以外の修道院がある」[749] 。しかし、この地でのキリスト教化の過程は極めて緩慢であった。 1620年、トボリスクに独立した教区が設立された際、その初代司教キプリアン(1621–1624)は、フィラレート総主教から、異教徒やイスラム教徒の改宗に特に注意を払うよう指示を受け、 キプリアンは、福音宣教のために特別に数人の修道士をトボリスクに連れて行ったほどである。彼の後任であるマカリイ司教(1624–1635)には、異教徒の改宗について再確認する特別な書簡(「パミャート」)がモスクワから送られた[750] 。 特に言及すべきは、イセティ川のほとりにあるウスペンスキー修道院である(1644年に修道士ダルマトによって設立されたため、ダルマト修道院として知られている)。ここで修業に励んだ修道士たちは、宣教活動を厭わなかった。 世紀の終わり(1681年)になってようやく、東シベリア向けの特別宣教団が組織された。イグメン・フェオドシイと彼に随行する12人の修道士がセレンギンスクへ派遣され、すべての異教徒を正教の信仰へと改宗させるよう命じられたが、その際、彼らには一切の強制を行わないよう指示されていた。 興味深いことに、 のフェオドール皇帝は1682年の教会会議において、異教徒の改宗を目的として東シベリアに新たな教区を設立することを提案したが、司教たちはこの提案を却下し、トボリスクから時折、修道士や司祭を東シベリアへ派遣することのみが決定された[751] 。
宣教活動の規模がこれほど小さかった理由は、主に修道士たちの教育不足と、教会指導部側に福音宣教に対するイニシアチブや熱意がほぼ皆無であったことにあった。 ロシアにおける宣教活動が活気づくのは、次の世紀に入ってからであるが、その発端はむしろ、政治的な配慮に基づいた政府の主導によるものであった。
様々な歴史的文書から、修道院が16~17世紀以前からも慈善活動に従事していたことがうかがえる。16世紀の地籍台帳には、修道院の土地や農場について記述する際、修道院からの施しや恩恵によって生計を立てている貧しい人々のための特別な保護施設が頻繁に言及されている[752] 。 聖エウフロシンは、自身の修道院規則において、慈善活動に特別な章(第24章)を割いており、その規則によれば、修道院は参拝者が修道院に滞在する最初の3日間、無償で食事を提供しなければならない[753] 。 ニル・ソルスキーやアルテミイといった無欲の聖人たちは、その著作の中で、修道院に財産があるならば、それは貧しい人々を助けるために用いられるべきであると記している。 ヨシフ派のパフヌティイ・ボロフスキーやヨシフ・ヴォロツキーは、自らの修道院で貧しい人々に食事を提供しただけでなく、不作の年には近隣の村々にパンやその他の食糧を援助した。 キリロフ修道院も同様の活動を行っていた[754] 。すでに述べたように、8月15日の聖母被昇天祭――修道院の教会にとっての守護聖人の祝日――には、イオシフ修道院で貧しい人々に金銭が配られていた。トロイツェ=セルギエフ修道院は、その慈善活動で特に広く知られていた。 「そこへ」とゲルベルシュタイン(16世紀第2四半期)は記している。「毎年、聖地を参拝するために大勢の人々が集まってくる……そして、どれほど多くの人々が集まろうとも、皆に十分な食事が常に用意され、修道院の奉仕者たちの生計に必要な分も常に残っているため、そこでは決して不足も過剰もない」。 外国人たちは、他の修道院の慈善活動についても記している[755] 。1649年の法令によれば、修道院の敷地内に住み、修道院から食事を提供されている貧民は、教会裁判所の管轄下にある[756] 。
カザン征服後、ツァーリは捕虜たちをキリスト教教育のために各修道院へ送り分けるよう命じ、新たに洗礼を受けた者たちは修道院の費用で生活していた[757] 。 17世紀には、モスクワのパトリアルヒ管区にある修道院の領地からの収入を財源として、412人を収容できる貧民救済所が設立され、また主要な祝祭日には教会で施しが配られた。 チュドフ修道院は毎年、クリスマス、復活祭、そして「赦しの日曜日」に、モスクワの刑務所に、囚人たちのためにパン、焼き魚、お粥、クワス、そして金銭の贈り物を送っていた。 ノヴゴロドのイオヴ都主教(17世紀末)は、ノヴゴロドにある貧民のための救護所、2つの病院、2つの夜宿所を運営するために、教区内の修道院の財源から多額の資金を送っていた[758] 。 モスクワ近郊のサヴォ・ストロジェフスキー修道院には、修道士と一般信徒のための48床を備えた2つの病室があった。 (当時の状況を特徴づけるため、また世俗の権力やツァーリ自身が修道院の日常にどれほど細部にわたって干渉していたかを示すために、1688年にツァーリが病床数を30床に削減するよう命じたことを挙げておこう[759] 。)
「大動乱」の後、一部の修道院には孤児院が設けられた。 その設立は政府の意にかなったため、世紀半ば(1651年)には、トロイツェ=セルギエフ修道院に多くの孤児 ――戦いで戦死した従軍者の子供たち――が送られた。当時、そこには最大600人の孤児がおり、彼らは住居と生活費の提供を受けるだけでなく、読み書きや手仕事の指導も受けていた。 1636年の書簡からも明らかなように、多くの子供たちはソロヴェツキー修道院内に彼らのために特別に建てられた家に収容され、修道院の費用で養われていたが、その見返りとして修道院の菜園で軽い労働をこなさなければならなかった[760] 。 特にキリロ=ベロゼルスク修道院の孤児院は、よく組織されていた。子供たちは各独房に割り当てられ、修道院から食事や衣服、そして復活祭には贈り物を受け取っていた。この孤児院は、「孤児たちのための長老」と呼ばれる専任の修道士が管理していた。 子供たちは様々な仕事をこなし、年長の者は庭仕事や修道院の厨房での見習いとして働いた。18~20歳になると、彼らはすでに「デテニシャ」(これについては第VIII章を参照)と呼ばれ、修道院から土地付きの屋敷を割り当てられ、そこで自給自足の生活を送りつつ、修道院のためにいくつかの仕事を引き続き行っていた。 中には御者になる者もいた。何らかの手仕事を習得した者は、修道院のスロボダに定住し、修道院の職人として数えられた。孤児たちは主に、修道院の領地にある村々から来ていた[761] 。
ここではごく一部の事例しか挙げていないが、もちろんこれだけでは修道院の慈善活動の全容を把握することはできない。とはいえ、これらからも、この分野において多くの善行が行われていたことがうかがえる。 我々はすでに、スムータの時代や戦争中に、様々な修道院の財源から巨額の拠出が行われたことについて記したが、これらの拠出額は非常に多額であった。この点において、修道院の所有地は国家と社会の両方に利益をもたらしていた。
教会・政治的な論説の分野における修道者たちの活動は、16世紀前半のルーシの教会および政治生活にとって極めて重要であったが、修道者たちはこの分野だけでなく、他の分野でも活躍していた。 世俗化の進展にもかかわらず、修道界からは依然として多くの傑出した人物が輩出されており、彼らは国の教会生活に積極的に参加するか、あるいは教会生活における様々な現象に対する見解を文章で表明することを自らの義務と考えていた。 この宗教的責任感は、15世紀の最後の四半期から16世紀前半にかけて、信徒のさまざまな層で危険な宗教的動揺が見られた際、弁明的な著作を執筆せざるを得なかった修道士たちに特に顕著に表れた。 一方では、この動揺は外国の影響なしには生じなかったが、他方では、それはやはり純粋にロシア独自の教会生活の状況によって説明されるものである。 当時現れた新しい潮流には、正教会の教義からの明らかな逸脱が見られたため、教会階層や修道界の代表者たちは、直ちに異端的な動揺に対する精力的な闘争に乗り出した。 その結果、擁護論や論争的な著作が登場したが、それらは著者の神学的教養を物語ると同時に、教会界の宗教性の特徴を反映している。
すでに前述した(第IV章、3)ユダヤ主義者の異端運動は、 広範囲に拡散する危険性を秘めており、教会にこれに対する断固たる闘争を余儀なくさせた。とりわけ、ノヴゴロドの聖職者の一部がこの異端に関与しており、さらにはゾシマ都主教(1490–1494)でさえ、ユダヤ主義者たちの見解に対して一定の傾倒を示していたからである[762] 。
この宗派の代表者たちおよびその教義との闘いにおいて、イグメン・イオシフ・ヴォロツキーが、論客、擁護者、そして異端に対する最も精力的な反対者として、特別な役割を果たした。彼は非常に分厚い著作を著し、それは後に『啓蒙者』という名称で知られるようになった。 この書物は、疑いなく、古ロシアの教会文学における最も重要な著作の一つであり、これはロシアの歴史家たち[763] によっても、また近世にホルツヴァルトが行った綿密な研究[764] によっても立証されている。
『啓蒙者』は16の章、すなわち「言葉」から成り、2つの部分に分けられている。最初の12章は論争的・弁証的な部分を構成し、最後の4章では異端者との闘いに関する措置が論じられている。 『啓蒙者』は、ユダヤ教に傾倒していた人々[765] の思想を理解するための主要な資料であると同時に、ヨセフの神学的教養や、彼の時代における神学的知識全般についても示唆を与えてくれる。
最初の説教で、ヨセフは聖三位一体を否定した異端者たちを論破し、聖三位一体に関する正統的な教義を説いている。この教義は、彼がニコン・チェルノゴルツ(11世紀)の著作からほぼ逐語的に引用したものである[766] 。ユダヤ主義者たちによる聖三位一体の否定は、神の御子の受肉否定とも関連していた: 彼らにとってキリストは、モーセのような単なる預言者に過ぎない。ユダヤ主義者たちは、キリストの復活に関する教会の教えも受け入れなかった。ヨセフはこの誤謬に対して第二の説教を捧げており、その中で彼は、異端者たちを彼らの手口で打ち負かすために、旧約聖書の預言者たちの引用に依拠している。 第三の説教では、著者は「モーセの律法のみを守るべきだ」という主張と論争を繰り広げ、第四の説教では、ユダヤ主義者たちが否定していた神の御業と神の全能性について論じている。 続く3つの説教(第5、第6、第7)は主にイコン崇敬に関するものであり、ヨセフは教父たち(ヨハネス・クロイソストモス、ヨハネス・ダマスキノス、アンドレイ・クリテース、ヨハネス・クレマティコスなど)からの数多くの引用を根拠としている。 特に第七の説教は詳細にわたり、ヨセフは様々な主題のイコンについて解説し、イコン崇敬の意義全般について論じている。彼の解説は必ずしも独創的ではない(ここでは、イコン反対派に対するダマスコの有名な著作を引用している)が、この説教は文体の純粋さと明快さ、そしてそこに表れた信仰の力によって際立っている。 第9章と第10章は、使徒の書簡や教父たちの著作を否定する者たちの主張を反駁することに捧げられている。第11章と第12章において、ヨセフは修道生活の宗教的意義について解説している。
これらの12の説教は、『啓蒙者』[767] の神学的な部分を構成すると同時に、ヨセフの学識の高さを物語っている。彼は絶えず旧約聖書と新約聖書に言及し、聖書を頻繁に引用している。 旧約聖書からの数多くの引用は、ヨセフの論争術を物語っている。彼は、新約聖書を拒絶したユダヤ主義者たちの主張を、彼らが認めている旧約聖書への言及によって反駁している。 ヨシフは、自身の宗教的・教義的見解において、聖書のみならず、すべての「神聖な書物」の無謬性を認めることを前提としている。彼がこれらに含めるのは、教父たちの著作、殉教記録、聖人伝、さらには一部の外典的著作に至るまでである[768] 。 この点において、ヨセフ は、確固たる信念をもって自らの信仰を告白する典型的な古ロシアの神学者として、また、聖書と教会の伝承を同等の重要性と権威を持つものと見なす古ロシアの人物として、我々の前に現れる。 ヨシフは、教義や礼拝、さらには典礼の伝承さえも互いに切り離すことはなく、それらを密接に結びついたものとして捉え、その総体が宗教的教義と信仰の内容を構成していると考えている。 注目すべきは、ヨシフがイコン崇敬の問題に実に三つの言葉(第五、第六、第七)を割いており、それによって、それが正教世界における宗教生活においてどれほど重要な意味を持っていたかを強調している点である。 後ほど見ていくように、16世紀のロシアの宗教性を体現したもう一人の人物である長老アルテミイは、そのキリスト教的見解がヨシフの見解と多くの点で異なっていたにもかかわらず、聖ヨシフと同様に熱意をもってイコン崇敬を擁護し、それに同等の大きな宗教的意義を付与していた。
このように、教義と礼拝が一体となることは、モスクワ・ルーシの宗教性の特徴である。17世紀の分裂の時代において、このような同一視は悲劇的な出来事へと発展し、自らの信念を揺るがすことのない人々を殉教へと導くことになる。 これを形式主義と呼び、宗教生活の硬直化で説明するのは誤りである。地上のものに天上のものを見出し、人間の中に神性を見出すこの種の宗教性は、まだ理解と深い研究を必要としている。
『啓蒙者』の最後の四つの言葉は、異端と戦う手段に捧げられている。それらは、ある意味でヨシフの人格を特徴づけている。 まさにこれらの彼の見解が、異端を根絶し、その首謀者を処罰するために、教会や教会階層、さらには世俗権力が何ができるべきか、また何を行うべきかについて、極めて激しい論争を引き起こした。さらに、世俗権力が教会の自由思想家――すなわち異端者――に対して措置を講じる権限を持つのかという疑問も生じた。 これら両方の問いに対し、ヨシフは肯定的な答えを出している。 大公は、神から権威を授かったキリスト教の君主として、異端による歪曲から信仰の純潔を守り、異端者を処罰する義務を負っている。この見解は特に第14の説教において鋭く表明されており、そこでヨシフは大公に対し、異端者を「残酷な刑罰と死」に処すよう要求している[769] 。
ヨセフは、3通の特別な書簡においても異端者の処罰を強く主張している。ニフォンテ司教への書簡(1493年)の中で、ヨセフは、異端者は投獄だけでなく死刑に値すると記し、異端の罪を犯した司教のみは処刑してはならないとしている[770] 。 大公イヴァン3世に異端者に対する断固たる措置を促すため、ヨセフは1504年に彼の霊的指導者宛てに書簡を書き、その中で再び異端者の処罰と死刑について言及している[771] 。 彼は大公ヴァシーリーへの書簡(1505年以降)でも同様のことを記しており、罪人や異端者は人間の手による処罰だけでなく、教会の破門によっても滅ぼし、罰することができると主張している。これらは本質的に同じことである[772] 。このような見解は、他のヨシフ派の信者たちも共有していた。 例えば、ダニイル都主教は著書『権力者への服従と敬意の払い方』の中で、世俗の権力を用いて異端者と戦う必要性について詳述している[773] 。
ユダヤ主義の異端との闘い方に関するヨシフの見解、とりわけ異端者を処刑すべきだという執拗な要求は、他の修道界、すなわちヴォルガ川以東の修道院に所属する「無所有者」たちから、断固とした非難を招いた。 彼らは、ヨシフの主張を単に批判するだけでなく、この問題について自らの見解を表明することも自らの義務であると考えた。「ヴォロゴダ修道院の長老たちによるヨシフに対する書簡」は、おそらく、修道士であるヴァッシアン公の助言や支援なしには作成されなかったであろう[774] 。 『書簡』の序文(「ヴォロゴダのすべての修道院の長老たちが集まり、この件について尽力した」)から、非所有派の立場が最終的な形となったのは、事前の議論の結果であったことがうかがえる。 まず第一に、非所有派は、「悔い改めない異端者」 と、「悔い改め、自らの異端を呪う者」とを区別する必要があると考えている。 前者はせいぜい投獄に値するに過ぎないのに対し、後者については「神の教会は両手を広げて受け入れる」のである。なぜなら、「罪人のために神の御子は受肉し、失われた者を救うために来られた」からであり、 「私たちには、新しい恵みの中で、主がキリストを愛する結びつきを示してくださった。それは、兄弟が兄弟を裁くことなく、人の罪を裁くのは唯一の神のみであるということである」。
一方、ヴォルガ川以西の長老たちの『聖書』は、いわば厳粛な宣言であったのに対し、修道士であるヴァッシアン公は、有罪判決を受けた異端者たち[775] に実践的な援助を差し伸べ、非所有主義者の見解を広めようとした。 生まれながらの論客であるヴァッシアンは、まず言葉の力、すなわちおそらく説教や論争を通じて、迷える者たちを真の道へと導くよう努めるべきだと記している。 ヴォルガ川以東の長老たちが『書簡』で述べたように、ヴァッシアンもまた、悔い改めない異端者を教会の破門に処する教会の権利と義務を認めている。一方、世俗の権力は独自の判断で彼らを投獄したり処刑したりすることができるが、ヴァッシアンによれば、 すでに悔い改めた異端者が処刑されるならば、彼らはもはや異端者ではなく殉教者であり、その処刑者たちには、これらの処刑に対する罪が負わされることになる[776] 。
ここで直ちに疑問が生じる。結局のところ、対立する陣営の代表者であるヨセフとヴァッシアンが、それぞれの性格に忠実にこれほど鋭く意見を述べて争っているこの論争は、なぜ行われたのか。結局のところ、両者とも異端者の処刑を容認しているというのに? しかし、一見すると両者の立場は似ているように見えるものの、実際には異端者に対する彼らの態度は同じではなく、むしろ正反対である。
ヨセフにとって、偽りの教えの道に踏み込んだキリスト教徒は、キリスト教共同体から完全に追放される。彼の宗教的形式主義の下では、迷える者に手を差し伸べるための内なる力が欠けていたのだ。 一方、非所有派、とりわけヴァッシアンにとっては、異端者たちは教会から破門されるまでは依然としてキリスト教徒であり、その迷える魂を助けるべきなのは教会とすべてのキリスト教徒である。ここには、キリストの教えが持つ至高の恵みの力である「愛」が、実際に示されなければならない。 一方、ヨシフの異端者に対する態度は、有罪の修道士を罰する彼の修道院規則に特徴的な、あの鋭さと断固たる態度を露わにしている。どちらの場合も、迷える者の魂を理解し、その苦境を助けようという意思の欠如が表れている。 このような形式的な宗教的厳格さは、ヨセフだけに特有のものではない。この特徴は、その後もロシアの宗教性において非常に頻繁に現れた。それは、ヨセフに対して非常に批判的であったニコンや、アヴヴァクーム、総主教イオアキム、そしてロシアの分裂に関わったほぼすべての指導者たちにも見られた。
さらに別の問題においても、ヨシフと「非所有者派」との間に相違が見られる。 異端と戦う手段を模索する中で、ヨシフは教会と国家を区別せず、それらを単に懲戒し処罰する権力としてのみ捉えていた。この区別のない見方に、国家と教会の関係、両者の相互支援、そしてツァーリが教会に奉仕し、教会がツァーリに奉仕するという彼の思想の重心が置かれている。 これこそが、我々が考えるに、ヨセフ派と「モスクワは第三のローマ」という思想との間の重大な相違点でもある。後者は、世俗的権力と精神的権力の権利と義務の最終的な融合を想定していなかったからである。というのも、フィロフェイのイデオロギーは、正教の君主の権利ではなく、その義務に特別な重要性を置いていたからである。 また、フィロフェイが自身の思想を表明した著作が、ヨシフの異端者に対する著作が広く流通していた時期に発表され、ユダヤ教に傾倒した者たちの蜂起に関連する出来事の記憶がモスクワでまだ生々しかったことも忘れてはならない。というのも、修道士フィロフェイは、これらの出来事のほぼ同時代人であったからである。 異端との闘いにおける正教の君主の特別な権利と義務についての自身の見解を、彼は前面に押し出さず、むしろこの問題を避けていたため、彼の見解はヨシフの見解とは一致していなかった可能性が高い。 この問題に関するヨシフと非所有派の見解の比較を総括すると、非所有派は異端者に対する最高の教会的懲罰を破門とみなしており、世俗権力が異端者に対して適用しうる措置からは距離を置いていたと言える。
同様の異端および異端者に対する姿勢を、長老アルテミオスも自身の著作で表明している[777] 。その後、アルテミオスがリトアニアに居住し、そこでルター派に対する一連の弁証的・論争的な著作を執筆した際、 彼は、異端の宗教的・心理的な原因 が、個々の人々の生活においても、教会共同体全体においても避けられない宗教的探求に潜んでおり、これは善と悪の選択の間で揺れ動く人間の自由意志の現れであるという確信を、幾度となく表明した。 アルテミオスの見解によれば、堕落した人間の本性そのものが罪深さであり、それこそが、人間が容易に迷いの道へと踏み込む[778] 前提となっている。ある意味で「非所有者」運動を完結させたアルテミオスの論考には、宗教的問題が通常あまりにも形式的に解決されていた当時の宗教性としては、異例な何かが含まれている。 宗教的生活の過程を心理学的に探究しようとする傾向は、アルテミオスを長老ニル・ソルスキーに近づけている。 アルテミオスとニロスの見解には教父たちの影響が色濃く表れており、多くの問題において両者の間に一種の霊的な親和性が認められる。また、ニロスがアルテミオスに与えた影響も顕著であるが、アルテミオスの著作には、ニロスの作品にはあまり反映されていないようなテーマも見受けられる。 これについては後述するが、ここではアルテミイの姿をより明確に浮き彫りにするため、彼の伝記について詳しく見ていくことにしよう。その伝記は、いわゆるマタイ・バシュキンの異端と結びついており、この異端はヨセフ派と非所有派との論争の歴史における最後の章となったのである。
一方では、 バシュキン事件はアルテミイ事件の前史である一方、バシュキンの異端は、公式の正教会においても宗教的な模索が行われ、宗教的潮流が現れていたこと、また16世紀のロシア人が一定の精神的不満を抱えており、それが彼らを自らの疑問に対する答えを教会の外で探すように駆り立てていたことを示している。 ユダヤ教に傾倒した者たちとマトヴェイ・バシュキンとの間に直接的なつながりはないものの、彼らを結びつけているのは、教会の伝統に対する拒絶感である。
バシュキンは裕福な家庭に生まれ、当時としては非常に博識な人物であった。聖書を読む中で、彼には様々な疑問や戸惑いが生じた。この精神状態から抜け出すため、彼はあるモスクワの司祭を訪ね、告解の際に聖書の様々な箇所に関する自身の疑念を打ち明けた。 バシュキンの執拗な問いかけに、おそらくそのような信徒の告解に慣れていなかった司祭は驚かされ、彼はバシュキンのことを、ツァーリに近い存在であったシルヴェストル神父に報告することにした。 こうして事件は明るみに出た。バシュキンと彼の同志数名は尋問を受け、1553年にモスクワで招集された公会議において、バシュキンは自身の「異端の教義」を述べた[779] 。 バシュキンの自白と、公会議に出席した同時代人の証言を照らし合わせると、彼の教義は次のように特徴づけられる。バシュキンは、聖書――福音書と使徒書簡――を自らの理解に基づいて解釈することが可能であり、またそうすべきであるという見解を擁護していた。 これに基づき、バシュキンは教会の伝承や教父たちの教えを否定した。教義的な教えを否定する中で、彼は公会議の決定も認めなかった。彼はキリスト論の教えそのものも否定した。バシュキンによれば、神の御子は父なる神と等しくないため、キリスト教徒は祈りにおいて父のみに呼びかけるべきである。 キリストの受肉や救いの業も、彼にとっては存在しなかった。教会とは単なる信者たちの自由な共同体であり、悔い改めや聖体拝領は秘跡ではなく、聖体拝領において信者に与えられるのは単なるパンとワインに過ぎない; 罪の赦しには悔い改めは必要ない――信者にとっては、生活において道徳規範を守るだけで十分であり、礼拝には何の必要もない。バシュキンはまた、聖人、十字架、イコンへの崇敬も否定した。
バシュキンの偽教義は、主にユダヤ主義者の異端と同じような合理主義的な思想を含んでいた。1553年の公会議は、ユダヤ主義者に対して適用されたような死刑を宣告しなかった。バシュキンとその同志たちは、終身刑を宣告された。 尋問の際、バシュキンは、自身の教義を「リトアニアの人々」との会話なしには作り出せなかったことを認めた。当時、リトアニアではカルヴァン主義とソッツィーニ派が広まっていたため、バシュキンの自由思想が西欧の影響下にあったことは明らかである[780] 。
バシュキンとその信奉者たちへの尋問により、彼がヴォルガ川以西の隠遁地に住む一部の修道士たちと連絡を取り合い、彼らと様々な問題について議論していたことが明らかになった。 そこで、長老アルテミイの名前が挙がった。これだけで、彼もまた審問のために公会議に召喚されるには十分であった。アルテミイは、無所有主義の思想を熱心に説く説教者であり、ヨシフ派寄りの聖職者層にとっては目の上のたんこぶであった。 アルテミイが修道生活の水準向上に努めていたトロイツェ=セルギエフ修道院の院長在任中、彼は多くの敵を作り、彼らはこの状況を悪用しようとした。
1551年の終わりか1552年の初め、アルテミイは修道院長職を辞し、ザヴォルジエの隠遁地へと去った。 E. E. ゴルビンスキーは、当初アルテミイがバシュキンに対する公会議に、学識ある修道士として召喚された[781] と考えており、バシュキンや他の被告たちが「彼自身がキリスト教の律法に従っていない」と誹謗中傷した際、アルテミイは密かにモスクワから逃亡したが、途中で拘束され、すでに被告としてモスクワへ連れ戻されたと述べている。 公会議では、トロイツェ=セルギエフ修道院とキリロフ修道院の修道士たちが証人として出廷し、アルテミウスを宗教的な自由思想で非難した。 彼に対しては、イオシフ・ヴォロツキーとその著作に対する批判的な発言、ノヴゴロドの異端者(すなわちユダヤ教に傾倒する者)への迫害への反対、およびその他の「冒涜的かつ異端的な言辞」が非難の根拠とされた。これらの告発はすべて根拠のないものであり、しばしば不合理であり、アルテミイの実際の見解が歪曲されていた。 断食違反といった一部の告発については、アルテミイは否定せず、かつてツァーリの謁見の際に肉を口にしたことを公会議で認めた。また、プスコフ近郊のペチェルスク修道院に滞在していた時期に、「リトアニア人」たちと様々な宗教的問題について議論したことも否定しなかった。 アルテミウスの見解には異端はなかったが、彼は自らの宗教生活をヨシフ派の形式主義という狭い枠組みに閉じ込めようとはしなかった人物であった。 彼は修道院による土地所有に反対し、修道生活の基礎について、マカリー大主教や公会議の司教たち、そして復讐心に燃える偽証者たちとは異なる見解を持っていた。 アルテミイは、勝利を収めたヨセフ派の犠牲となる運命にあった。なぜなら、彼を非難することで、非所有派に対して一挙に二つの打撃を与えることができたからである。 その最強の代表者を排除し、すべての非所有派に異端の罪を被せることができたからである。これは言うまでもなく、彼らを教会・政治生活から排除し、その分野におけるヨシフ派の絶対的な支配を確固たるものにするものであった。
マカリイ・ブルガコフは自身の『ロシア教会史』において、非所有派の活動について嫌悪感を抱き、さらには偏った見方で記述しているが、資料にその根拠が全く見当たらないため、アルテミイを異端者と断じることは躊躇しており、彼を「信仰の神聖な事柄について、概して気ままに思索することを好んだ」人物と見なしている。 いわゆる「宗教的リベラル」であったと見なしている――それにもかかわらず、マカリイは公会議の判決を正当化している[782] 。E. E. ゴルビンスキーは、入手可能な資料すべてを綿密に調査した結果、アルテミイの異端が何にあったのかを特定できず、彼を教会・政治的な陰謀の犠牲者であると見なす傾向にある[783] 。
正教の教義の根幹そのものを実際に否定していたバシュキン事件における寛大な判決と比較すると、長老アルテミイは非常に厳しい判決を受け、すなわち聖職剥奪(彼は修道司祭であった)およびソロヴェツキー修道院への幽閉を宣告された。 当時、将来のフィリッポス都主教が修道院長を務めていたこの修道院に、アルテミイは長く留まることはなかった。詳細は不明だが、彼は脱走し、リトアニアに身を隠した。 そこで彼は、カルヴァン主義、そして一部はフェオドシイ・コソイ[784] を批判する、弁証的・論争的な内容の著作を数多く執筆した。 これらの著作は、その内容だけでなく、とりわけアルテミイの宗教的・禁欲的な思想を知る機会を与えてくれるという点で興味深い。
これらの思想は、アルテミオスの禁欲的生活に対する見解を特徴づけるものであり、そこには長老ニロスの見解からの若干の逸脱が見られるため、注目に値する。ニロスは、救いと神化への道における霊的実践の中心を「知的な祈り」と見なしていた()。 一方、アルテミオスは「霊的な愛」についてより多く語っており、これを禁欲的行いと修道生活の基礎と見なしている。その本質は、隣人への奉仕にある[785] 。この際、アルテミオスは修道生活に関する自身の考えを明らかにしている。 アルテミウスによれば、霊的な愛に到達するためには、まず隣人から離れ、修道的な孤独の中で修行に励む必要があり、そうして初めて愛に対する真の必要性が生じるという。 言うまでもなく、アルテミオスは共同生活を是認せず、むしろ拒絶している。とりわけ当時、キノヴィアの基礎は、ほぼ至る所で規律の遵守が怠られていたために損なわれていたからである。さらに、共同生活は「肉欲的な思索」へと導くものであり、その温床となるのが修道院の富である[786] 。 霊的な愛の達成は、「単独生活」を送る者、すなわちスキトの修道士にのみ可能である。そこでは、孤独に、あるいはせいぜい二人だけで、世俗を捨て、沈黙と霊的瞑想の中で生活することで、徐々に霊的な愛を培うことができる。 孤独、聖書や禁欲的な著作の読誦、沈黙、そして祈りが、スキトでの生活を満たさなければならない。外的な貧しさ、この地上の世界において自分はただの一旅人に過ぎないという感覚は、それらが地上の煩わしさから解放され、魂の集約に全身全霊を捧げる機会を開いてくれるという点で、特別な価値を持つのである[787] 。
禁欲的な生活を決意した人間における「魂の集め」の外的条件を述べた後、アルテミオスは、修行者の霊的・道徳的な性質の特徴へと話を移す。この性質は三つの部分から成り立っており、感覚的、精神的、そして霊的要素で構成されている。 霊的な完全性への道において、人間の本性は三つの段階を経る。アルテミオスは、教父たちの禁欲主義的な著作、主にイサアク・シリンの教えに基づき、これを「自己の十字架への釘付け」と呼んでいる。
第一の段階では、人の道徳的感覚が最後の審判への恐怖によって喚起され、人は自分の力の及ぶ限り善行を行うよう促される。アルテミオスが「肉の磔」と呼ぶこの行いは、他ならぬ感覚的・精神的欲望との闘いである。 この状態では通常、絶望に陥ろうとする誘惑が生じるが、それは忍耐と自制、そして神の恵み深い助けを求める祈りによって克服される。とりわけ祈りは不可欠である。なぜなら、主は絶え間ない祈りを常に聞き入れ、霊的な戦いにおける修行者に助けをもたらしてくださるからである。 修練に励むキリスト教徒は、善行を行うための新たな基盤を徐々に獲得していく。もはや恐怖から「奴隷」としてではなく、報いを求めて「僕」として善行を行うようになるのである。 そしてその時、修行者には第二の段階へ昇る機会が開かれる[788] 。もしその新しい状態が彼の中にしっかりと保たれているならば、彼は確かにこの第二の段階――「活動的な霊的な愛」の段階――へと昇る。彼は、審判への恐れや報いのためではなく、神への愛ゆえに、主の戒めを守る必要性を悟る。 神への愛は、人間の魂に浸透して、肉欲を根絶し、魂を聖化し、それを変容させる。修行者は徐々に「原初の清らかさ」の状態へと戻っていく。 もし彼が神への愛にとどまろうとする志を弱めなければ、その魂だけでなく、心も変容し、それによって霊的な観想の能力を獲得する。祈りは、この能力を得るための最良の手段であり、変容した心によって、人は自分が主の子であることを悟る。 この子としての自覚は、洗礼の時点で既に生じていたものの、罪によって断たれてしまったキリスト者と神との絆を強固なものにする。神の子であるという自覚は、人の霊的な存在全体に影響を及ぼす、恵み深い心の賜物である。 神の光は、自己犠牲の道を歩む人を、アルテミオスが「十字架の栄光」と呼ぶ、霊的完成の第三段階の境界へと導く。この自己犠牲の第二段階と第三段階の間の境界を、長老アルテミオスは、キリスト教徒が来世においてのみ越えることができる一線であると見なしている。 そこ、すなわち永遠の命において、主は、神の子としての身分を保った者たちに、神の神秘を直視する恵み( )を授け、それは悟りを得た者を言い表せない絶え間ない喜びで満たす。地上の生活において、「十字架の栄光」という神の恵みの賜物を受け、第三の段階に留まる者は、ごく少数の完全な聖人だけである([789] )。
自己磔は、人間に恵みある悟りをもたらす源であり、聖書に記された神の真理を目の当たりにさせるものである。悟りを開いた者だけが、真理を見出し、聖書を正しく理解することができる。 このように、自己十字架刑は、主の戒めおよび聖書全体を真に理解するための礎石である。自己十字架刑の業を成し遂げていないキリスト教徒は、聖書を誤って理解したり、さらには異端に陥ったりする危険にさらされている。 自己十字架は、謙遜と悔い改めの業である。啓発されていない心は傲慢の巣窟であり、それは主の戒めを正しく理解することのできない肉的な心である。その心は、神の真理を求めず、自らの利益を追い求めるため、戒めを理解できず、神の恵みの外に留まっている。 肉的な理性を持つ人は、神の聖典を読むが、それを全く理解しないか、あるいは歪めて理解してしまう。このような悪意は、人を誘惑者であるサタンの懐へと突き落とし、異端者にしてしまう[790] 。
アルテミオスのこれらの禁欲的な考察は、彼の弁証的・論争的な著作に散見されるものであり、彼の個人的な見解を特徴づけることはできるが、彼がリトアニアに滞在していた当時、正教会の教義を擁護するという目的には役立たなかった。 彼が教会の教義について執筆した対象となった人々は、リトアニアで活動していたカルヴァン派や反三位一体論者の強い影響下にあったため、アルテミオスの見解を受け入れなかっただけでなく、 聖父たちの禁欲主義と正教会の神秘主義に根ざした彼の禁欲的・神秘的な見解を、そもそも理解することさえできなかった。一方、宗教生活に関する様々な問題を論じている彼の著作の別の部分は、実践的な意義を持つようになった。 特に重要なのは、カルヴァン派の牧師シモン・ブドニーや他のリトアニアの人々に向けた著作である[791] 。
これらの著作、あるいはむしろ書簡(その中には非常に簡潔なものもある)において、アルテミオスは、キリスト教徒が聖書を正しく理解し、異端から身を守るために、聖書を知り、さらには定期的にそれを学ぶ必要性を強調しているが、福音書を犠牲にして旧約聖書に過度の注意を向けることには断固として反対している[792] 。 福音書が最優先される理由は、新約聖書におけるキリストの説教が旧約の律法を廃止したからである[793] 。シモン・ブドニーが反三位一体論的な発言の中で三位一体の教義を否定していたため、アルテミオスは彼の主張に反論せざるを得なかった[794] 。 彼はカルヴァン主義の教義に鋭く反対し、救いには善行が必要であることを強調している。 善行を伴わない信仰は、キリスト教の信仰ではなく、異端的な高慢であり、神からの離反である。とはいえ、アルテミイは道徳的完成や情欲との闘い、自己犠牲の重要性を極めて強調しており、これなしにはいかなる救いも不可能であると述べている[795] 。アルテミイは自身の著作において、キリスト教の礼拝を擁護している。 彼の二人の敵対者、シモン・ブドニーとイワン・ザレツキーは、聖体拝領とそれが信徒にもたらす恵みの影響、ひいてはあらゆる礼拝そのものを否定していた。 これらの誤りを反駁するにあたり、アルテミイは使徒パウロの書簡からの引用に依拠し、秘跡やキリスト教徒の典礼生活に関するプロテスタントの観解全般に対して論争を繰り広げている[796] 。 ブドヌイへの両書簡において、彼は伝承を守ることの必要性について記し、その際、旧約聖書 においても伝承[797] が認められていたことに言及している。 道徳的完成を求める要請に関連して、アルテミイは、キリスト教徒にとって自己否定とあらゆる事柄における節制をいかに重要であるかを強調し、断食の教育的意義について語っている。彼は反対者たちに対し、キリストご自身が荒野へ赴き、そこで断食されたことを想起させている。 したがって、修道生活は神に喜ばれる行いであり、人々の救いの道を助けるものである。その基礎は節制と自己否定、情欲や高慢との闘いにあるからである[798] 。最後に、アルテミオスが、十字を切る習慣や、聖人やイコンへの崇敬を擁護している点に留意すべきである[799] 。
アルテミウスのすべての弁証論的著作から、彼が正教会の忠実な信徒であったことが見て取れる。おそらく、1553年から1554年にかけての公会議で彼に対して提起された告発は、 当時は何らかの根拠があったのかもしれないが、その後、アルテミイは自身の宗教的自由思想(もしそれがかつて彼に特有のものだったとしても)から完全に離反し、リトアニアにおけるプロテスタントの宣伝に対抗する論争活動によってその過ちを償った。
アルテミイの弁証論において純粋な神学が補助的な性格を持つとすれば、オテンスキー修道院(ノヴゴロド地方)の修道士ジノヴィイの著作においては、それが第一義的な位置を占めている。ジノヴィイの伝記には空白部分があり、彼の精神的形成の過程は今なお十分に解明されていない。 彼は1568年にオテン修道院で死去したが、おそらく同修道院に幽閉されていたものと思われる。16世紀20年代、ジノヴィイは修道士マクシム・グレクと関わっており、マクシムが有罪判決を受けた後、おそらく追放されたか、あるいはオテン修道院に幽閉されたのである。 ジノヴィイがモスクワを去った理由(自発的なものだったのか、それとも当局の判決によるものだったのか)は、今なお明らかになっていない。 ジノヴィイが死去後、オテン修道院の大聖堂で聖イオナの墓の近くに埋葬されたという事実は、修道院の兄弟たちが彼に対して大きな敬意を抱いていたことを物語っている[800] 。修道院当局が、追放された人物にこれほどの栄誉を与えるなど、到底考えられなかっただろう。 とはいえ、一方で、ジノヴィイがオテン修道院に到着してから40年以上が経過しており、その間、彼の学識によって修道院の兄弟たちや院長たちからの尊敬を勝ち取っていた。さらに、首都の権力に対してしばしば反対の姿勢を示すノヴゴロド地方の風潮も考慮に入れる必要がある[801] 。
ジノヴィイは、当時の教会・政治生活には関与しなかった[802] 。修道院の独房での隠遁生活は、歴史にとって大きな幸運となった。なぜなら、彼のおかげで、16世紀において、自身の著作において一定の独自性と独創性を示した唯一の神学者を知ることができるからである[803] 。 彼の著作は、ヨシフの『啓蒙者』と同様、論争を目的として執筆されたが、ジノヴィイの論争は全く異なる性格を帯びている。それは、ヨシフのように引用で溢れかえっているわけではない。 ジノヴィイは、論じられている問題について独自の考察を行うことを好み、論争においては明確な概念を示し、相手の武器を用いて相手を打ち負かし、論理的な推論を行い、自らの主張を立証するために理性に基づく証拠を軽視することはない。ジノヴィイは2つの大著を著した: 『新しい教義について問う者たちへの真理の示し』と『コソイの邪知に対する長文の書簡』[804] 。前者の著作は非常に分量が多く、特別な意義を持つ。なぜなら、一方では コソイの異端的な見解の内容を明らかにし、他方ではジノヴィイを優れた論客かつ神学者として特徴づけているからである。
すでに言及した1553~54年のモスクワ公会議は、バシュキンの偽教義を調査するにあたり、ザヴォルジェ地方の修道院から多くの修道士を証人として召喚したが、その過程で、もう一つの「不敬虔な異端」を説く説教者、テオドシイ・コソイという名の修道士に注目し、彼を徹底的に尋問した。 残念ながら、尋問の議事録は失われており、テオドシイ・コスとその宗教的見解に関する情報の唯一の資料として残されているのは、ジノヴィイの著作『真理の証言』のみである。
コスに関する伝記的資料は、彼をあまり好意的な光で描いていない。彼はモスクワのあるボヤリンの召使いだったが、主人の金を盗んでベラルーシ地方へ逃亡した。 その後、コソイは修道院に入り、修道士の戒律を受けた。モスクワに連行され尋問を受けた後、彼は再び逃亡し、リトアニアに姿を現した。そこで定住し、少なからぬ成功を収めながら自らの思想を広めた。
ジノヴィイは、コソイの偽りの教えを偶然知ったと記している。ある時――1554年以降、しかし1566年以前、ジノヴィイが自身の著作を執筆していた時期に、 、オテン修道院に、近隣の修道院から二人の修道士と、彼らに同行した一人の平信徒が訪れ、教会の教義、救い、聖書とその信憑性、旧約聖書と新約聖書を本当に「神の御言葉」と見なすことができるかについて、彼に様々な質問を投げかけた。 対話は続き、計12回の対談が行われた。これらの対談の中で、ジノヴィイに質問を投げかけた者たちは、修道士テオドシイ・コソイの名に言及し、教会の教義に関する彼の見解を詳細に述べた。 ジノヴィイはコソイをアルテミイ(すなわち、我々が知る長老アルテミイ)の弟子と呼んでいるが、コソイの粗雑な合理主義的色彩を帯びた見解は、その著作に反映されているアルテミイの思想とはほとんど似ていないため、ジノヴィイのこの見解には同意できない。 コソイとバシュキンの見解にははるかに多くの共通点があるが、この二人の「異端の首領」がいつ、どこで交流を持ち、実際に互いを知っていたのかは正確には特定できない[805] 。 コソイが完全に独力で、あるいはモスクワでの知人を通じて、教会の教義に対する批判に至り、独自の教義を構築した可能性は排除できない――むしろ我々はほぼ確信している。 一方で、コソイの異端は、ユダヤ教に傾倒する人々の宗教的見解の一部が、モスクワ社会においてまだ完全に消え去ってはいないことを我々に示している。というのも、コソイの教義には、若干の逸脱や変更を伴いながらも、まさにそれらの見解が繰り返されているからである。 コソイもまた、旧約聖書の書物、すなわち「モーセの律法」のみを権威ある真実のものとして認め、新約聖書の書物を拒絶している。 コソイは教会の規範や教父たちの著作を無価値であると宣言しているが、一方で自身の宗教的見解の一部については、バシレイオス大聖人やヨハネス・クロソストモスの著作からの引用を用いて正当化しようとしている。 コソイは、三位一体、キリストの神性とその救いの業、秘跡に関する教義を断固として否定し、聖母マリアや聖人への崇敬を拒絶する。また、教会の礼拝やあらゆる典礼儀式を偶像崇拝と呼び、教会の階層制度も認めない。 コソイの思想に影響を受けた人々とのジノヴィイの対話からは、彼の教義のうち、肯定的な部分よりも批判的な部分の方がより顕著に見て取れる。後者は、真の宗教とは「霊において」唯一の神を崇拝することにあるという、極めて曖昧で漠然とした主張に過ぎない[806] 。
『真理の証言』は、ジノヴィイと彼に質問を投げかける者たちとの対話の形式で、ジノヴィイによって著された。しかし、本書の内容を綿密に検討すると、ジノヴィイの回答や反論からなるその肯定的な部分は、ロシア正教会の歴史家たちが考えるように、特にコソゴの誤った教えに対抗するために書かれたものではなく([807] )、ジノヴィイが他の考慮事項に基づいて執筆したものであることが明らかになる。 その根拠の一つは、回答に内在する論理的整合性にある。それらは、いわば相互に関連した神学的体系 を成している。また、彼の回答は、コソゴの誤った見解を反駁するためだけに必要な範囲をはるかに超えて、より詳細に記述されている。 ジノヴィイが身を寄せ、コソゴの信奉者たちと出会ったオテン修道院は、ノヴゴロド地方に位置している。ここには60年前にユダヤ教化派という宗派が誕生し、その偽りの教えは、政府や教会当局の措置にもかかわらず、完全に消滅することはなかった。 ノヴゴロド地方では、モスクワの中心部よりも、西洋とのつながりがより強く、より生き生きと感じられていた。異質な西洋の宗教的見解や意見が、さまざまな経路を通じてノヴゴロドに浸透していた。 その地域の住民は文化的観点から見て、モスクワよりも高い水準にあり、社会関係も北東ルーシの他の地域で形成されたものとは大きく異なり、全く異なる人間像を生み出していた。 また、ノヴゴロド社会の宗教生活においても、特定の特色と多くの独自性が認められる。ユダヤ教に傾倒する者たちに加え、教会問題に関するノヴゴロドの年代記作者の見解や、ノヴゴロドの聖人伝の特異な性格も挙げられる[808] 。 ジノヴィイがオテン修道院に到着した際、こうした現地の状況が持つ独自性は、彼にとって見過ごせないものであったに違いない。明らかに、彼の注意を真っ先に、そして何よりも引きつけたのは、宗教的・教会的な問題であった。彼は、自分の力と知識の範囲内で教会に奉仕する義務を感じた。 彼の独房に「コソイ」の信奉者たちが現れ、彼らとの対話が、新たな偽教義を批判するきっかけとなり、それによって彼の著作に現代的な意義を与えることとなった。こうして、彼の神学的・弁証学的著作は、大規模な弁証的・論争的な著作へと発展したのである。
ジノヴィイによる神学体系の展開には、一定の論理性が認められる。テオドシイ・コソイとその支持者たちは、神の存在そのものを疑うことはなかったが、それにもかかわらず、ジノヴィイはこの教義の議論から始めることにした。 その際、彼には他の古ロシアの教会著述家には見られない特徴、すなわち、自らの主張を理性(ratio)に基づく証拠によって説明し、裏付けようとする傾向が表れた。 この、論理的に正しい推論によって論点を立証しようとする傾向は、ジノヴィイの著作において一度だけでなく繰り返し見られ、聖書の合理的かつ適切な引用にも表れている。これは、この著作が、あらかじめ選ばれたテーマに関する準備作業を経て執筆されたものであり、会話の過程で即興的に生まれたものではないことを示している。 「科学的枠組み」を正しく活用する能力は、彼の著作の際立った特徴である。ジノヴィイは当時の学問的水準を凌駕しており、彼はまさに古代ルーシにおける科学的神学の第一人者と見なすことができる。
彼は宇宙の考察を通じて、神の存在を証明している。地上における生物の自然発生は考えられないことである。したがって、それらを創造した神が存在するのである。 すべての人々とすべての民族は、それが真実であろうとそうでなかろうと、神を信じている。これは、信仰の感覚が人間の本性に内在しており、神によって人間の魂に植え付けられていることを意味する。無生物の自然もまた無から生まれたわけではなく、それ自体が何もないところから生じることはあり得ない――したがって、宇宙を創造した神が存在する。 さまざまな自然の力が絶えず互いに争いながらも、安定した調和を保っている世界の維持は、創造主の摂理によってのみ可能である――ジノヴィイはこの論拠もまた、神の存在を証明するものとして挙げている。被造物と創造主とのつながりは、創造主の摂理に現れている[809] 。 宇宙論的および目的論的な神の存在証明を提示した後、それに基づいて、ジノヴィイは神の三位一体性と神の本質について解説する。有生物・無生物を問わず万物の第一原因であり、宇宙の創造主かつ守護者である神は、生ける本質、すなわち生ける神でなければなり得ない。 もし神が「生ける」ものであるならば、神は必然的に御自身の中に「御言葉」と「御霊」を持たなければならない。もし神聖な実体が「御言葉」と「御霊」を備えていなければ、それは「生ける神」ではないだろう。神は万物の第一原因であるため、神は永遠であり、始まりがなく、無限であり、全能である。そして、神の「御言葉」と「御霊」もまた、これらの性質を備えている。 ジノヴィイは、創世記などからの一連の引用を用いて自らの論拠を裏付けている。ジノヴィイは(第23~27章において)、キリストの受肉と御子の家造りに関する教会の教えに多くの注意を払っている。 これは、ユダヤ主義者たち、バシュキン、そしてコソイのいずれもが否定していたものである。 旧約聖書の約束に基づき、ジノヴィイは、神が初めから人間の将来の堕落を知っておられ、御子の受肉を予見しておられたと記している。このことについて、神は旧約聖書の時代にイスラエルに対して繰り返し、また多様に告げておられたのである。 人間は神の最も高貴で完全な被造物であるため、人類の救いを成し遂げることができたのは神の御子キリストのみであった。なぜなら、完全なものは最も完全な者によってのみ救われ、尊いものは最も尊い者によってのみ救われるからである。 救いの可能性、人間の理性を超えた神の受肉の神秘、そして処女から神の御子が誕生する可能性は、神の全能の中に秘められている。そして、旧約聖書には、主に旧約聖書に依拠していた反対者たちを説得するために、このことに関する多くの約束が記されていると、ジノヴィイは記している。
これらの問題の解説をもって、この著作の神学的な部分は締めくくられる。 続く章(28~42章)において、ジノヴィイは、イコン、聖人の遺骸、十字架、そして教会の伝承への崇敬を擁護するとともに、キリスト教徒にとっての悔い改め、祈り、断食の必要性を主張している。特に断食については、主に聖バシレイオス大主教の禁欲主義的な著作への言及によってその正当性を裏付けている。 ジノヴィオスはこれらの著作を、司教職、修道院、そして修道生活全般の存在を正当化するためにも利用している(第43~46章)。ここでジノヴィオスは、当時論争の的となっていた、修道院の土地所有権、すなわち修道院が居住地を所有し、そこから収入を得る権利について言及せざるを得なかった[810] 。
2番目の著作である『長文の書簡』は、最初の著作よりもはるかに短いもので、ジノヴィイはここで様々な非教義的な問題に触れている。この著作は、コソグの異端説に関する彼の見解を尋ねるために、リトアニアの様々な人物から彼に送られた手紙に対する、ジノヴィイによる8通の回答をまとめた一種の集録である。 そこには、共同の祈りのための教会が必要かどうか、イコンの崇敬、信者にとっての洗礼と聖体拝領の必要性、聖人やその聖遺物の崇敬、司祭職などに関する質問が寄せられていた。 最後の回答で、ジノヴィイは異端や異端者に対抗する教会の権利について記している。この著作には、『証言の真理』に特徴的な体系性は見られない。回答はジノヴィイによって、おそらく異なる時期に書かれ、後に一つの集録にまとめられたため、ここには繰り返しが多く見られる。
モスクワの書物界において特徴的な存在が、本論でもすでに何度も言及されてきたダニイル都主教(1522–1539)である。彼の教会・政治活動および著作については、V. シュマキンが著したロシア教会史に関する最高峰の単行本の一つで詳細に論じられている。 ダニイールの巧みな教会政治――それはしばしば彼を大公権力への卑屈な服従へと追い込んだ――、彼が情熱と憎悪をもって繰り広げた非所有主義者たちへの闘い、その傲慢さ、 ヨシフ派の思想への傾倒、そしてそれをロシア正教会の現実に具現化しようとした彼の志――これらすべてが、ダニイルを人間として、また教会の首長として特徴づけている。しかし同時に、彼は研究者にとって、古モスクワの教養と学識の模範としても映る。 ダニイルに関する同時代人の見解は極めて分かれている。ボヤリンのイワン・ベクレミシェフ=ベルセンは、彼を無能な教会の牧者だと見なしていた[811] 。一方、ダニイルのイデオロギー上の敵であり、その敵意の犠牲者でもあった修道士マクシム・グレクは、より客観的であり、彼を神学的に教養のある人物として特徴づけている[812] 。 マクシム・グレクの見解は、E. E. ゴルービンスキーも著書『ロシア教会の歴史』で共有している。文学史家たちは、ダニーイルを最も重要な古ロシアの作家の一人に数え、その生き生きとした言葉遣いとジャーナリスティックな才能を評価している[813] 。 修道院生活に関する著作(これについてはすでに で解説した)に加え、ダニイルはさらにいくつかの短文や書簡を執筆している[814] 。これらは2つの集成にまとめられており、その名称もそれぞれ「ソボルニク」と「スボルニク」となっている。 『ソボルニク』には16の説教が収録されており、そのうち6つは修道生活に関する問題に捧げられている。『スボルニク』には14通の書簡が収められている。これらの著作では、教義的および倫理的な問題が論じられている[815] 。
教義上の問題に捧げられたのは4つの説教(第5~7説教および第11説教)であり、これらは弁証的な性格を持ち、ダニエルがユダヤ主義者の誤った教えを明確に念頭に置いて執筆したものである。これらの説教の内容は、受肉とキリストの家庭建設に関する教義の解釈を成している。 第5の説教は、受肉という教義に関する教会の教えを解説するものであり、他の3つの説教への導入として機能している。 聖父たちの著作から巧みに選ばれた引用を用いて(興味深いことに、著者はヨセフやジノヴィイとは異なり、ほぼもっぱら新約聖書や聖父たち、時には礼拝用書物さえも参照している) ダニエルは、神の子が完全なる神であり完全なる人であるという教義を説き、キリストが人間の性質を単なる幻として受け入れたに過ぎないという、異端者たちの誤った教えに反映された憶測は、誤りであり異端であると指摘している。 キリストとは、二つの本性と二つの意志を持つ神人合一の存在であり(この第一の命題はダニエルの著作においてより明瞭かつ的確に表現されている)、罪を除けば、生まれざる父とも被造物である人間とも同一の本質を持つ。 キリストご自身は、非生み出された者でもなく、被造物でもないが、「すべての世に先立って生み出された」――ダニエルは、このように明確にキリスト論的教義を定式化している。 ダニエルの教義的見解には、例えば、修道士であり公爵でもあったヴァッシアンの見解に見られたような曖昧さや不明瞭さが存在しないことを認めなければならない[816] 。第6の説教は第5の説教と密接に関連している。 その中でダニイルは、キリストの受肉と十字架上の死こそが、罪深い人類に対する救い主の限りない愛の証しであると述べている。 したがって、ユダヤ主義者たちが「人間の性質を受け入れ、屈辱的な受難は神にふさわしくない」と主張したことは、その根底において誤りであり、そこには神とその御子による私たちへの恵み深い愛を軽んじようとする試みがある。 ダニエルは第7の説教において、御子の家造りにおいて、神の限りない知恵もまた表れたと論じ続けています。なぜなら、キリストの受肉によって、「悪者の狡猾さを出し抜く」ことが可能となり、「サタンは縛られ」、「地獄は滅ぼされ」、そして人間は贖われ、救われたからです。 最後の説教は、神の摂理、その意味、そして人間の生活におけるその現れに捧げられている。
第一集(『ソボルニク』)の残りの説教では、道徳神学の問題が考察されている。ダニエルは、人はあらゆる事において神の聖書に従って信じ、行動すべきであると教えている(第1説教)。これは、教会の真理を揺るぎなく、堅固に擁護する義務を負う教会の牧者たちにとって、とりわけ必要である(第2説教)。 神の聖書に加え、教会の伝承を尊び、そこに保存されている規定、儀式、規則、法律、および規範を遵守しなければならない。なぜなら、それによってこそ、私たちは人生において、見かけ上だけでなく本質的にキリスト者となるからである(第3の説教)。 第8の言葉は非常に興味深く、ダニエルはそこで、キリスト教徒の世俗の権力に対する態度と、権力が神によって定められたものであることについて語っている。国家権力は、その支配下にある人々に対して神の律法、すなわち信仰の律法の遵守を要求する義務があり、もしそれらが遵守されなかったり、何らかの異端者や偽教師によって歪められたりした場合には、有罪者を処罰しなければならない。 信仰の純潔を守り、異端者からそれを守ることは、すべての信者の義務である。残りの言葉(第9、第10、および第12~16)は、社会生活における人々の相互関係に捧げられている。 ここでは、嘘、怒り、高慢、虚栄、争い、中傷、陰謀といった、しばしば外的な形でも現れる内なる誘惑に打ち勝つ必要性が述べられている。それらは人々の関係を損ない、社会生活を蝕むからである。 ダニエルは、信者にとっての懺悔が持つ特別な宗教的・教育的意義を強調している(第12の言葉)。
「世について、また世にあって」と題された第13の言葉が、最も独創的であると言っても過言ではない。著者はその中で、当時の人々を大いに悩ませていた問い――世に留まり(すなわち、修道者とならずに)救われることは可能か――に答えている。 ダニイルは、キリスト教徒が社会生活においても家庭生活においても主の戒めに従って生きるならば、その者にとって天国の門は常に開かれていると確信を持って語っている。ダニイルは、卓越した技量と美しく生き生きとした言葉遣い を用いて、世俗に生きる人々のためのキリスト教的禁欲主義の基礎を説いている。 この世のあらゆるものからの離脱は、あらゆる活動を停止すべきだという意味ではなく、むしろ、活動的な人間であるべきですが、この世の価値に対して情熱的な執着を抱いてはならず、天国の永遠の至福を決して忘れてはなりません。この世の事柄に対する怠慢は、キリスト教徒にとって美徳というよりはむしろ罪です。 ダニイルは社会倫理の問題を極めて雄弁に論じ、それによって古ロシアのキリスト教社会学の発展に寄与していると言える。 第13の説教には、16世紀の道徳的風土や社会生活を映し出す多くの特徴的な詳細や事例が見られ、この著作を古ロシア文化史における貴重な資料としている[817] 。
『集録』と題された第2の集録には、すでに言及した修道生活に関する6通の手紙が収められている。 残りの書簡は様々な人物宛てのもので、道徳的な問題に触れており、比較的簡潔である(第13書簡のみがかなり長文である)が、その重要性は第1集『[818] 』に収められた言葉には及ばない。 大主教ダニイールの『集』を読むと、すでにここで引用したエ・エ・ゴルービンスキーの評価に全面的に同意すると同時に、16世紀のロシア人の性格の多様性や、その時代の歴史的状況における彼らの役割の多彩さに改めて驚かされる。 これらの著作を読んでいると、その著者が高慢で狡猾かつ復讐心に燃える教会の重鎮であり政治家であったことを忘れてしまう。仮にそれを思い出したとしても、一人の人間の中に、悪意に満ちた政治的狡猾さとこれほど大きな才能が共存し得たことに驚かされるだろう。 ヨシフの忠実な弟子であったダニイルは、いくつかの著作においてヨシフ派の枠を超え、その宗教的形式主義を乗り越えている。
しかし、彼の伝記に改めて目を向ければ、著作に表れたこうした「学派の枠を超えた姿勢」が、やはり彼の教会・政治的な経歴に影響を与えていたことがわかる。 『集録』には収録されなかった彼の書簡の一つは、将来のツァーリ・イヴァン4世が幼少であった時期に、ボヤール派内部の争いやボヤールたちの横暴を非難するものであった。 1539年1月に作成され、大司教の書簡としてすべての教区に送られたこの書簡は、彼の文学的・神学的活動を締めくくるものであり、この文書を送付してから1か月後に、彼は大司教の座を去らざるを得なくなった。 ダニイルは、かつて修道誓願を立てたイオシフォフ修道院で生涯を閉じた[819] 。
イグメン・ヨシフ、長老アルテミイ、修道士ジノヴィイ、そして大主教ダニイル――彼らは16世紀で最も傑出した教会作家たちである。しかし、ここに修道士フィロフェイの名前も加える必要がある。彼の著作は教会政治的な性格を帯びている。 これらはいずれも極めて興味深い人物であるが、その活動範囲や教会生活への影響力はそれぞれ異なる。彼らは、その後のロシアの教会史および精神史全体の根源を見出すことができる時代に属している。 教会・政治的な出来事の激しさと緊張感は、当時のあらゆる著作に見られる擁護論や論争、禁欲主義や教義論に反映されていた。なぜなら、まさにその時代、すなわち「ルーシのみ、モスクワのみが 「第三のローマ」においてのみ、正教の信仰の純粋性が保たれていることを自覚した世代が存命していたまさにその時代に、信仰の純粋性に疑問を投げかけ、教会の教義を攻撃し、新たな偽りの教えを説き始め、そして何よりも悪いことに、多くの支持者を獲得した人々が現れたのである。 この時代の神学的な創造活動はすべて、この現象と密接に結びついている。教会の擁護者たちが修道界から現れたことは明らかである。彼らは、自らの大義の正当性への確信だけでなく、 彼らは、ロシアの修道生活が全盛期を迎えた前時代の、すなわち14世紀および15世紀という霊的な源泉からも養われていた。その時代は、聖ニラ・ソルスキーの禁欲主義的な著作において理論的な完結を見出し、歴史的にはヨシフ派と非所有派との論争をもって幕を閉じたのである。 この時代の神学的著作には、将来の発展の萌芽を見出すことができる。当時書かれたものの多くは独創的ではなく、現代の学術的神学に対する我々の認識とは一致しないことは理解している。しかし、それによって16世紀の神学的業績の重要性が損なわれるわけではない。なぜなら、先駆者たちを、より に成熟した時代の基準で評価してはならないからである。 当時としては、それは鮮やかな閃光であったが、残念ながら、次の世紀にはその光は消え失せてしまった。というのも、16世紀後半および17世紀全体を通じて、ロシアの修道界からは、一人として重要な教会著述家が現れなかったからである。修道院の運営に没頭していた修道者たちは、沈黙を守っていた。 パトリアルヒ・ニコーンによる改革の試みと、17世紀の最後の四半期に激化した聖体の変容の時期をめぐる神学論争だけが、この沈黙を破った。しかしその前に、16~17世紀の修道院の教会活動および文学活動に関連するいくつかの現象について検討する必要がある。
16世紀と17世紀の修道者たちの文学活動を比較すると、17世紀においてその著しい衰退が明らかになる。 16世紀70年代初頭から17世紀末にかけて、教育、才能、雄弁さの点で、前述の段落で言及された人々と肩を並べられるような著述家は一人も現れない。 新しい世代は、一方で過去との内的なつながりを欠き、自らが生きる時代の激動の出来事に深く巻き込まれていた。他方で、修道院生活の世俗化の進展は、修道者の精神状態に否定的な影響を及ぼさざるを得なかった。 この一世紀の間に書かれたすべての著作とその著者の詳細なリストには、修道者の代表者たちの名前が数多く含まれるだろうが、これらの著者はロシアの教会文学にとって特に大きな意義を持つものではなかった[820] 。ここでは、我々の観点から見て最も重要かつ独創的な著作のみを挙げることにする。
聖人伝文学は、マカリー大主教の時代に最盛期を迎えたが、彼の死後、衰退していった。11世紀からマカリー以前、すなわち1528年(彼がまだノヴゴロドに滞在し、教養のある修道士やその他の人々を聖人伝の執筆に引き入れた時期)に至るまで、古ルーシではわずか33編の聖人伝が編纂されたに過ぎない。 マカリーの時代には、49の聖人伝やその他の聖人伝的内容を持つ著作が執筆され、そのうち28は修道士たちによって著された[821] 。16世紀後半および17世紀前半に執筆された聖人伝のうち、特に言及に値するのは以下のものである。
ソロヴェツキー修道院の修道士ミサイルは、民衆に大変愛された聖ヴァシリー・ブラジェヌイの伝記と、同聖人へのカノンを著した。 ノヴゴロドのアントニー修道院では、聖アントニー・ローマ人の伝記が改訂され、およそ1558年には、同修道院のニキフォールという名の修道士が、アントニーの新たな、極めて詳細な伝記を著した。 聖ニラ・ストロベンスキーの同時代人である修道士ゲルマンの記録に基づき、16世紀末、ボルディン修道院の修道士フィロフェイ・ピロゴフは、この聖人の伝記とカノンを著した。 1590年、ソロヴェツキー修道院において、聖フィリッポ大主教の聖遺骨がこの修道院へ移されたことを契機に、ある無名の修道士によって同聖人の伝記が編纂された。 ペレヤスラヴリのダニロフ修道院の修道士セルギイと、ヴォエヴォダS・R・オルフェリエフは共同で『聖ロマーン・ウグリチ公の物語』および聖ダニーイル・モスクワ公のカノンを編纂した。 1600年の少し前、コルニリエフ・コメル修道院の修道士ナファナイルは、この修道院の創設者である聖コルニリイの伝記と、彼に捧げるカノンを著した。 総主教ヨヴァの命により、ヴォログダ出身のアルヒマンドリト・イオナ・ドゥミンによって、聖アレクサンドル・ネフスキー公のもう一つの(これで3作目となる)伝記が編纂されたが、これは実質的に最初の2つの伝記を改訂したに過ぎなかった[822] 。
1627年から1632年にかけて、壮大な聖人伝集の編纂作業が進められた。修道士ゲルマン・トゥルポフ(† 1637)がこの膨大な著作の編集者を務めた。 彼はマカリー大主教の『ミネイ』を基礎とし、マカリー版『ミネイ』に含まれていない聖人伝で補完したほか、一部の聖人伝については複数の改訂版を自身の叢書に収録した。ゲルマンは聖人伝を一切の省略なしに全文書き写したため、彼の叢書には一定の学術的価値がある[823] 。
フィリッポス都主教の列聖に際し、ソロヴェツキー修道院の修道士ゲラシム・フィルソフは1652年に、聖人の伝記、彼を称える賛辞、およびカノンという3つの著作を執筆した[824] 。
16~17世紀の聖人伝文学を締めくくるのは、聖ディミトリ・ロストフスキー(†1709)の『チェティイ・ミネイ』であり、その第1巻は1689年に刊行された。 当初から非常に広く普及し、ロシアの人々に愛されたこの『ミネイ』は、物語形式で編纂されており、その作成には資料に対する相当な事前調査が必要とされた。ロシアの人々の間でのその人気は他に類を見ず、この『ミネイ』の著名な編纂者の名は、ロシアの最も辺鄙な地域でさえよく知られている。 南ルーシ出身(1651年にキエフ近郊で生まれた)で、キエフ・ブラツカヤ学校[]の卒業生であるディミトリ・トゥプタロは、ロシア国民のキリスト教教育に向けた熱心かつたゆまぬ活動に生涯を捧げた。 彼は卓越した説教者であり――その説教は今日に至るまでその価値を失っていない――彼が教会の奉仕に就いたあらゆる場所で、その業績は豊かな実を結んだ。南ルーシの修道院院長、その後シベリア都主教(1701–1702)、そして最後に ロストフ都主教(1702–1709)を務めた間、彼は魂と思いの清らかさ、そして教養、知性、そして深い宗教心に満ちた卓越した雄弁さで際立っていた。 自身の教区において、大主教は教区聖職者の教育と学校の設立に特に力を注いだ。同時に、彼は膨大な文学作品にも多くの時間を費やした。 彼の姿は、モスクワ・ルーシの修道界には珍しいものであった。聖ディミトリは、キエフ都主教区に属する南ルーシの修道界に身を置いていたが、そこでは修道生活、教会界の世界観、そして彼らの教養が、モスクワで形成されたものとは異なる歴史的条件によって決定されていた[825] 。
また、16世紀前半には、修道者たちが歴史的な内容の著作を執筆していたことも忘れてはならない。そして前述の通り、修道士たちは識字能力を持つ者として、古ロシアの年代記の編纂者や写本者でもあった。 16世紀20年代末、ノヴゴロドでいわゆる「ソフィイスキー・ヴレメンニク」――ノヴゴロド年代記――が編纂された。この事業の提唱と総指揮は、主にマカリイ大司教によるものである。 この年代記は1538年までのロシアの歴史を記しており、内容の充実さと歴史的信憑性で際立っている[826] 。すでに我々に知られている『ステペンヌイ・クニガ』も、その成立と編纂がミトロポリト・マカリイの名と密接に関連していることから、聖人伝の資料が広く用いられた一種の歴史書と見なすことができる。
古ロシアの歴史学の分野において、もう一人のモスクワ都主教――イオアサフ――の著作は、特に高く評価されるに値する。イオアサフ・スクリピツィンは当初、単なる修道士であったが、その後1529年から1539年にかけて、トロイツェ=セルギエフ修道院の院長を務めた。 1539年にモスクワ都主教に就任したが、この高位に留まったのは1542年までであり、イヴァン4世が未成年であった時期にボヤールの一派からの圧力により、強引に職を追われ、キリロフ修道院へ追放された。 1547年、イオアサフはマカリー大主教の庇護もあり、トロイツェ=セルギエフ修道院への復帰を許可され、そこで1555年または1556年6月26日に死去した[827] 。 その禁欲的かつ教会政治的な見解において、彼は「非所有派」に非常に近く、著名なマクシム・グレクと緊密な関係を築いていた。マクシム・グレクは、イオアサフの取り成しのおかげで、修道院の牢獄から解放されたのである。 イオアサフの反ヨセフ派的な見解は、彼が著したノヴゴロドの大司教セラピオンの『行伝』や、『ストグラフ』に対する批判的な所見に、非常に強く表れている[828] 。 彼の教会観および「モスクワは第三のローマ」というイデオロギーに対する姿勢は、特に『告白』において際立って表れており、そこでは、モスクワ都主教である自身が、コンスタンティノープル総主教 との間に持つ正統的な結びつきを強調している[829] 。 当時の基準から見て、イオアサフは非常に教養のある司教であり、私設の図書館を所有していたほか、トロイツェ=セルギエフ修道院で行われていた『ティピコン』(その礼拝に関する部分)の改訂作業にも参加していた。 近年、ロシア文学の歴史家たちは、イオアサフが『クロノグラフ』および16世紀半ばに編纂された『ニコノフ年代記』の西ロシア版における著者の一人、あるいは主要な著者であったという結論に達している[830] 。
また、プスコフ・ペチェルスク修道院の院長(1529–1570)であったコルニリイも、特に注目に値する[831] 。 イグメンとしてのコルニリイは、傑出した人物としての資質を発揮した。彼は修道院の生活体制の整備に尽力し、修道院内の新築工事の指揮を執り、エストニアの異教徒の間でキリスト教の布教活動を成功させ、修道院におけるイコン画の奨励にも多大な関心を寄せた。 彼が建設した新しい建物――より正確には、修道院を取り囲む堅固な城壁――は、彼の運命に決定的な役割を果たした。 1570年に修道院を訪問した際、当時ポーランド王ステファン・バトリアとの過酷で不毛な戦争を続けていたツァーリ・イヴァン4世は、修道院長を反逆の罪で告発した。すなわち、コルニリウスはステファンを支援するために、自らの軍隊に対抗してこの石の城壁を築いたというのである。 ツァーリは、年老いて威厳あるイグメーンを斧で殴りつけ、斬り殺した。修道院のシノディク(記録簿)には、この出来事について次のように記されている。「この儚き地上での生涯を終え、地上のツァーリによって天の王のもと、永遠の住まいへと送られたのは、7078年(1570年)2月20日のことである」[832] 。 殉教者の遺体は腐敗することなく保存され、コルニリイは修道院および周辺地域で聖人として崇められるようになった[833] 。近世になって、修道院長コルニリイが1547年の『スヴォド』に収録された『プスコフ年代記』の主筆であったことが判明した[834] 。コルニリイは『ペチェルスク修道院年代記』も著している。 特徴的なのは、自身の修道院の創設史を研究するにあたり、コルニリイが、しばしば伝説的な内容で溢れている史料に対して、厳格な、いわば科学史的な批判を加え、綿密に検証された資料に基づいて自身の『年代記』を執筆した点である。 この意味で、コルニリイはルーシにおいて、歴史学に批判的手法を適用した最初の人物の一人であった。「『ペチェールスク修道院年代記』」は、残念ながら、その著者の教会・政治的見解――彼がヨシフ派に近かったのか、それとも無所有派に近かったのか――について結論を下すことを許さない。というのも、歴史的事実に忠実な簡潔かつ明快な叙述の中で、彼はこれら二つの派閥を分断していた問題について言及することを避けているからである。 聖コルニリイ修道院長は、当時の教養ある人物として、精力的で実務的な性格の持ち主であり、ペチェールスク修道院の運営において、ある種の禁欲的な高みに立った厳格な院長として、私たちの前に現れる。 殉教的な最期は、彼の姿に数多くの伝説を紡ぎ出し、それらは後世の修道院の兄弟たちによって熱心に守られ、民衆における聖人への畏敬の念を強めることとなった。しかし、歴史家は、こうした伝説がなくても、イグメン・コルニリイを16世紀のモスクワ・ルーシにおける修道界の最上層を代表する最後の人物の一人として高く評価している。
16世紀の修道院に属していた作家たちの多面的な活動を概観するにあたり、その中でも最も独創的な著者の一人を挙げずには、その概観は不完全なものとなるだろう。この人物が文学史家の注目を集めたのはごく最近のことである。我々が言及しているのは、エルモライ・プレグレシュヌイ、あるいはエルモライ・エラズムのことである。彼の生涯については、ごく断片的な事柄しか知られていない。 わかっているのは、彼の活動が16世紀半ばに及ぶということだけである。彼はおそらく1550年から1555年にかけて、モスクワの にあるスパスカヤ教会のプロトポプを務め、その後、修道士となった。 エルモライは、1550年代にマカリー大主教の側近の一人であった。この時期、ロシアの「インテリゲンツィア」が文学作品を通じて初めてその存在を顕在化させ、その教養のおかげで、大主教による壮大な文学事業が実現したのである。 このサークルにおいて、エルモライ=エラスムスは並外れた論客として頭角を現し、当時の社会関係に関連するいくつかの問題に対して、独創性を欠かさない回答を示した[835] 。彼には16の異なる著作が帰属されているが、そのうち11作品は疑いなく実際に彼によって書かれたものである。
まず特筆すべきは『自らの魂への訓示』である。これは、悔い改めの意味全般、とりわけ権力と裁判権を委ねられた者たちの宗教的責任、聖職者の傲慢さ、すなわち「地上の権威」がもたらす道徳的危険性について、叙情的に考察したものである。 その際、著者は、霊的な権威が魂を支配し、世俗的な権威は人間の肉体のみを支配することを忘れずに指摘している[836] 。また、彼の『聖三位一体に関する書』も注目に値する。エルモライはそこで、三位一体の原理が「万物」の根底にあることを示そうとしている。 『書』の第1部では、聖書から厳選された引用を基に、聖三位一体に関する正教の教義を解説している。しかし、エルモライによれば、三位一体性は全宇宙に共通する性質であり、彼は『書』の第2部でこの点について論じている。 最高位の被造物である人間は、三位一体における統一性なしには考えられない。なぜなら、人間を構成する要素――霊、魂、肉体――は、そのような統一性によってのみ存在し得るからであり、逆に、これら三つの要素がなければ、人間の存在は完全かつ調和のとれたものにはなり得ないからである。 『書』の第3部は、詩的な形式で綴られた聖三位一体への祈りの言葉から成っている[837] 。明快さと内的な論理を欠くことなく書かれたエルモライの考察は、その言葉と表現の簡潔さが特徴であり、著者の知識と神学的な教養の高さは疑いようがない。
エルモライには社会問題への関心も見られる。「愛と真実についての考察、および敵意と虚偽の克服に関する言葉」[838] と題された彼の道徳的・神学的な考察が現存しており、その中で著者は16世紀50年代のモスクワ社会における社会的不平等について自らの見解を述べている。 彼はモスクワの上流階級、すなわち「貴族」たちを、キリスト教的な愛の欠如で非難している。彼らの財産は、他者、すなわち真に労働する民衆、とりわけ日々の重労働によってかろうじて生計を立てている人々の困窮を代償として増大しているのだ。 エルモライ=エラスムスのこれらの主張は、モスクワ社会における社会的不平等について述べた修道士公ヴァッシアンの指摘や、16世紀半ばの農民を圧迫していた税負担について語ったイオアサフ都主教の言葉と重なるものである。[839] さらに特徴的なのは、イヴァンへの「ツァーリへの書簡」や、彼がツァーリに献上した農民階級の経済的意義に関する論考である。 ここで彼は、土地の公正な分配と税負担の軽減(収穫の15分の1まで!)によって農民の状況を改善し、それによって彼らの生産力を強化できる、差し迫った土地改革のプログラムを提示している。 その結果、エラスムスは、王国の総体的な福祉が高まり、正義と愛というキリスト教の戒めが果たされ、王のさらなる栄光につながると考えている。併せて、著者は貿易の状況についていくつかの指摘を行い、様々な改善策を提案している[840] 。
この独特な「専門家」――修道士の修道服をまとった人物――の著作は、おそらく修道界というよりは、むしろその時代の全体像を特徴づけるものである。それは、ピョートル大帝の改革の時代と遜色ない歴史的緊張に満ち、ロシアの運命にとって同等の重要性を持ち得る時代であった。 歴史家が、ロシア史における政治的、社会的、経済的、そして教会政治的な様々な現象の原因や根源をピョートル大帝の改革の中に探ろうとするとき、その根源は よりもはるかに深く、16世紀、とりわけその前半にまで遡るという結論に達する。 確かに、現代の基準や認識からすれば、教会・政治および文化の舞台に登場したこれらの人物たちは、さほど重要ではないかもしれない。しかし、彼らの時代、そしてその時代の文化的・教会・政治的風土においては、彼らは重要かつ特徴的な人物であった。
17世紀は、より色あせ、個性に乏しく、創造性に欠ける時代であった。修道院の界隈では、精神的・文化的関心の衰退が見られる。この世紀の社会的・経済的な懸念や困難は、スムータ([841] )の余波だけによるものではない。本質的に、その原因は前世紀の状況に端を発していたのである。 ある意味で、これによって、すでにここで言及した論客たちの意見や評価が正当化される。彼らは、当時の状況に注目してはいたものの、将来の事態の展開を予測し、それに応じた結論を導き出すために必要な知識をまだ持ち合わせていなかったのだ。 修道界はこれらの困難に反応せず、散見される論説的な著作は言及する価値もない。教会・政治生活においては、例えば一世紀前に人々をこれほど動揺させた教会の土地所有問題のような、切迫した問題は存在しなかった。
16世紀において教会文学の分野で特に際立った活躍を見せたわけではないトロイツェ=セルギエフ修道院の修道士たちの中にも、やはり言及に値する数人の著者がいた。 同修道院のケラール(修道院管理者)であったアヴラアミイ・パリツィン(†1627)は、スムータの時代に、その有名な『トロイツェ=セルギエフ修道院包囲の物語』を著した。この著作は、概してスムータ時代の歴史に関する非常に優れた史料であり、その著者の文学的才能を否定することはできない[842] 。
この修道院のもう一人の修道院長、シモン・アザリン(†1665)は、主に『尊者セルギイ(ラドネジスキー)の新たに現れた奇跡について』という著作の著者として知られており、この著作は、同聖人のそれ以前の伝記を補完するものである[843] 。 アザリーンのもう一つの著作『我らの父、アルヒマンドリト・ディオニシオスの生涯と功績』も非常に人気があった。この著作では、この傑出した人物の活動について語られている。 この著作はパリツィンの『伝承』を補完するものであり、両者を併せて読むことで、修道院長をアルヒマンドリト・ディオニシイ(1610–1633)が務めていた「混乱の時代」において、同修道院が国家的な重要事象にどのように関与したかという全体像が浮かび上がる[844] 。 アザリーンの3番目の著作である『モスクワ国家の荒廃に関する物語』はあまり知られていないが、この中で著者は1654年の露・ポーランド戦争の原因について記している。これは、おそらく政府の依頼を受けて、民衆の目にこの戦争の必要性を正当化しようとする試みであった[845] 。 アザリーンの著作には、一年の祝祭日とロシアの聖人を網羅した膨大な月暦もあり、これは写本としてのみ現存している。「聖ディオニシウスへの祈願カノン」は、アザリーンの文筆活動を締めくくる作品である[846] 。
イェロディアコンのイオナ(通称「マレンキー」)が記した、エルサレムへの巡礼(1651~52年)に関する旅行記も興味深い[847] 。 イオナの物語には、エルサレムとその聖地に関する非常に詳細な記述が含まれており、その内容は簡潔で信憑性が高く、古ロシアの作家たちによる他の「聖地巡礼記」にありがちな虚構が一切見られない。
非常に膨大な著作を著したのは、修道士アルセニー・スハノフであり、彼もまたトロイツェ=セルギエフ修道院のケラー(物資管理責任者)を務めていた。礼拝書の改訂が計画されていたことに伴い、アルセニーはパトリアルヒ・ニコーンから、コンスタンティノープルへ赴き、現地で礼拝 の儀式や書物を直接確認するよう命じられた。 アルセニーはこの旅(1649年~1653年)の成果を、『プロスキニタリイ』[848] と題した書物にまとめた。 アルセニイの『プロスキニタリイ』は3つの部分に分かれており、第1部には彼の旅行日記が収められている(アルセニイはモルダヴィアのヤッサ、コンスタンティノープル、ギリシャ諸島の多くの島々、エジプト、エルサレムを訪れ、コーカサスとグルジアを経由してモスクワに戻った); 第2部は全編がエルサレムとその聖地の描写に捧げられており、第3部ではギリシャ教会の礼拝儀式について語られている。 さらに、アルセニイは典礼や神学に関する多くの写本(700点に及ぶ)を持ち帰ったが、これらはパトリアルヒ・ニコーンが着手した礼拝書の改訂の基礎となるはずであった。
神学文献そのものに関しては、17世紀以降、特に独創性に富んだ著作は残されていない。 当時執筆された著作の数は比較的多かったが、その内容としてはさほど重要ではない[849] 。しかし、聖体の変容の時期をめぐる論争の結果として生まれた著作や、ニコーンが着手した書物の改訂に関連して書かれた著作は、より注目に値する。 前者の問題は主に修道者たちによって議論されたが、聖書の改訂に関連して生まれた極めて豊富な文献においては、修道者たちはもはや主役ではなかった。しかし、最も注目すべき著作を挙げる前に、17世紀の教会文学について一般的な考察を述べておく価値がある。この文学の言語は独特である。 当時の著述家たちは、冗長さと修辞に特に傾倒する傾向があったが、そこには真の雄弁さは見られず、彼らは多くのロシア語化されたポーランド語、ラテン語、そして一部ギリシャ語の単語を乱用して言語を損なっていた。これは、西洋および南西からの影響による負の帰結であった。 これらすべてが相まって、読者を疲れさせ、理解を困難にした。それゆえ、同時代人であっても、これらの著作の実用的な価値は低下していた。おそらくこの理由から、その大部分は写本のまま残り、主に目録やアーカイブの簡潔な記述を通じてのみ我々の知るところとなっている。
修道士アントニー(通称ポドルスキー)によって書かれた『天国の御国について』(1626年)は、独創性に欠けるものではない。彼は、おそらく南西ルーシ出身であったと考えられる[850] 。 『言葉』の6つの章において、著者はまず聖三位一体の本質と、私たちの救いの源であるキリストの受肉について語り、その後、天国を描き出し、聖人たちの至福、彼らの朽ちることのない姿、そして彼らの「年齢」を提示しようとしている(第1~4章); 第二部(第5章および第6章)には、地上の価値と天国の至福との比較的な特徴付けが記されている。アントニーの『言葉』は、内部的な論理と誠実な敬虔さを欠いているわけではないが、過度な修辞性と気取った言葉遣いが、この著作の価値を損なっている[851] 。 さらに、創世記の注解書であるホルモゴル大司教アファナシー(1682–1702)の『六日間』、および同氏の『信仰告白』――使徒信条の解説――についても言及すべきである[852] 。
イグナティイ・リムスキー=コルサコフは、非常に多才な著述家であった。貴族出身で、 アレクセイ皇帝の宮廷でしばらくの間ストルニクを務めた後、1677年にソロヴェツキー修道院に入院し、1685年にはすでにノヴォスパスキー修道院のアルヒマンドリトとなっていた。聖体の変容をめぐる論争の最中、彼はパトリアルヒ・イオアキムを最も熱心に支持する者の一人であった。 新しい総主教アドリアンとの関係はあまりうまくいかず、シベリア都主教への任命は、おそらく一種の名誉追放であった。彼の生涯は悲劇的な結末を迎えた。イグナティイは精神を病み、1700年に引退を余儀なくされ、1701年に死去した。 1780年代から1790年代にかけて、彼は3つの聖人伝を著した。1)『聖アンナ・カシンスカヤ公妃の聖人伝』、2)『聖シメオン・ヴェルホトゥルスキーの聖人伝』、3)『総主教イオアキムの聖人伝と遺言』である。 最後の著作は、イオアキムの列聖を推進するという特定の目的で執筆されたものであり、その構想はアドリアン総主教の承認を得られなかったが、聖体の変容をめぐる論争における「正教会派」の立場と密接に関連している。 この著作は特に客観的とは言えず、讃辞的な性格を帯びているが、それでもなお、その時代の歴史に関する重要な史料となっている。 さらに、イグナティウス・ には、『神の知恵ソフィアの像の解説』、プロテスタントとカトリックを批判する2つの論争的著作、特に広く知られた分裂に反対する3つの著作、そして最後に、 『ロシア王国に関する報告』および1685年のクリミア遠征に関連して執筆された『軍勢への言葉』がある。後者の2つの著作は政治的な性格を帯びており、ソフィア王女の政権を支持することを目的としていた。 『ソフィアの像の解釈』にも、ソフィア王女の「英知」への言及が含まれている[853] 。
自身の教区における秩序の維持に尽力した主教の例として、リャザン都主教パヴェル(1681–1686)を挙げることができる。彼は、自身の教区の聖職者たちに向けた長文の「教区通達」の著者であった。 この書簡の中で、大主教は教区の聖職者たちに語りかけ、教区を巡回し教会を訪問した際、礼拝の執行において多くの不備を発見したと記している。彼は自身の訓示を聖書や教会法典からの引用で裏付けており、これは彼の優れた教養を物語っている。 パヴェルは、教区の司祭や修道院の院長に対し、礼拝がパトリアルヒ・ニコンの時代に修正され、その後も改訂された教会書に従って執り行われるよう強く求めているが、どうやらそれが至る所で実践されていたわけではなかったようだ。 ミトロポリト・パヴェルは、当時、口頭で説教を行っていた数少ない主教の一人であった[854] 。
モスクワ・ルーシでは、説教壇からの説教が特に重視されていなかったことが知られており、その理由は、聖職者の教育不足や怠慢だけでなく、古ルーシの宗教性の独特な構造にもあったとされる[855] 。 11~13世紀――ルカ・ジディャテ、聖テオドシオス・ペチェルスキー、イラリオン都主教、キリル・トゥロフスキー、聖アヴラアミイなどを思い起こせばよい――と比較して、この点において後世の時代ははるかに遅れていた。 17世紀、1654年以降、とりわけ1686年にキエフ都主教区がモスクワ総主教の管轄下に入った後[856] 、キエフからの教会的・宗教的影響がモスクワの生活に急速に浸透し始めた。その結果、教会の説教活動に一定の活気が見られるようになった。 特に言及に値するのは聖ディミトリ・ロストフスキーである。彼は、この世紀の最後の四半世紀における教会教育の歴史において極めて重要な位置を占めているものの、モスクワの修道界に典型的な人物ではなかった。というのも、彼の霊的形成は、独自の霊的教育システムを持つ南西ルーシにおいて行われたからである[857] 。 モスクワの修道界や司教団自体は、教会の説教活動の発展にほとんど貢献しなかった。 言及できるのは、説教台のから民衆に読み上げられ、説教の代わりとなっていた数通の巡回書簡のみである。そのうち3つを挙げよう。2通はパトリアルヒ・ニコンによるもので、1通はロストフのミトロポリト・イオナ(1652–1691)によるものである。 パトリアルヒ・ニコンは通常、自ら説教を行っていたが、これは当時としては極めて稀なことだった。残念ながら、彼の説教は失われてしまった[858] が、2通の回状(1656年)は現存している。そのうちの1通は、クレストヌイ修道院の創設に際して作成されたものである。 総主教は、キリストの十字架上の死の恵み深い意義について記し、三本の指による十字の印について教義的な解釈を示している[859] 。2通目の書簡は、モスクワ・ルーシで疫病が流行していた時期(1656年)に作成されたもので、民衆に向けられ、信者たちに悔い改めと道徳的な浄化を呼びかけている。 ここでニコンは、当時非常に広まっていた「疫病は神の懲罰であるため、いかなる対策をとっても罪である」という迷信的な信念を否定し、 聖書の引用を用いて、そうした対策を正当化している[860] 。 イオナ都主教によるこの広範な大司牧書簡には、教区の聖職者たちだけでなく、その教区の民衆にも向けられた道徳的な訓戒が含まれている。 イオナはその中で、司祭の職務とあるべき生活様式について記し、信徒のためのキリスト教道徳の基礎を説き、蔓延する酩酊という悪習を激しく非難している[861] 。
モスクワのチュドフ修道院に所属していた修道士カリオン・イストミン(†1717)は、独特の存在であった。彼は、モスクワ・ルーシの伝統や世界観がピョートル大帝の改革によって揺さぶられ、社会の精神的様相に新たな特徴が現れ始めた、二つの時代の境界に立っていた。 カリオンは、啓蒙の熱心な擁護者であり、その実践者でもあった。ザイコノスパス修道院におけるイオアニキイとソフロニー・リフフド兄弟の学校の最初の弟子の一人[862] であり、彼はキエフ・アカデミーでしばらくの間学んだ(1681年および1687年)[863] 。 モスクワでは、印刷局で校正官を務め、極めて保守的なイオアキム総主教(1674–1690)の最も親しい側近の一人であった――これはおそらくカリオンの「外交的」才能を物語っている――。また、総主教からいくつかの重要な任務を任されていた。 カリオンは、イオアキムの後継者であるアドリアン総主教(1690–1700)からも絶大な信頼を得て、彼にとって一種の私設秘書のような役割を果たした。 その後、彼は印刷局を統括した。1712年、カリオンはノヴゴロドへ赴き、ミトロポリト・イオヴが設立した学校で教鞭を執ったが、そこでの滞在は短期間に終わった。彼は聖ディミトリ・ロストフスキーと親しく交流し、彼の『ミネイ』のための聖人伝資料の選定を手伝った。 カリオン・イストミンは、いくつかの説教やその他の著作を執筆し、それらは「ヴェセリティ」(このタイトルは当時の乱れた言語を反映している)という奇妙な題名の写本にまとめられたほか、多くの詩、 「少年」だけでなく「少女」(!)の教育を目的とした『ブクヴァル』、さらには良識を教える教科書『良き道徳の市民』[864] までも著した。カリオンは、17世紀末のロシアの修道士における新たなタイプを体現している。このような人物については、本書の他のテーマに関連して、今後さらに触れていくことになる。 当時、出世のために修道士のフードを被るという風潮があった。しかし、一般および教会の教育水準の向上が求められていた当時の状況下では、こうした人々の活動は、やはり肯定的な性格を持っていた。
17世紀の最後の四半期、修道界は再びモスクワの宗教生活に積極的に関与するようになった。神聖な典礼における聖体の変容の時期をめぐる神学論争は、モスクワの修道界の中に「ギリシャ正教」と「西洋」、すなわち「ローマ・カトリック」という二つの潮流が明確に存在していたことを示している。 ローマ・カトリックの教義の浸透は、突発的かつ予期せぬものではなかった。それどころか、それは一連の歴史的状況の結果であり、文献では総称して「西洋の影響」として知られている。 ここでは、その多様性のすべてや、ピョートル大帝の改革以前におけるモスクワの生活や文化のさまざまな側面への影響について、詳細に検討する余地はない[865] 。我々が注目できるのは、宗教的世界観の分野に現れた影響に限られる。
これまでの説明からも明らかなように、16~17世紀のモスクワ人の心には、二つの信念が深く根付いていた。 第一に、キリスト教はギリシャ正教、あるいは「ロシア正教」という形態においてのみ、純粋かつ無傷の状態で保存されてきたという信念であり、第二に、人間社会の生活はキリストの教えを基盤として築かれ、それに沿って発展すべきであるという信念である。 これらの見解は、キリスト教化が始まった当初から、すなわち(第1章で触れた)イラリオン都主教の『説教』(11世紀)に遡るように、古くからロシア人の間で定着しており、それ以来、発展し、強固なものとなっていった。 修道士フィロフェイの著作と、そこに表現されたモスクワを「第三のローマ」とする思想は、こうした見解を厳粛に宣言したに過ぎなかった。
自らの正統性への確信、ひいては自らの独自性への確信とともに、ある種の宗教的驕りも根付いている。正教の真実性に対する確信は、それ自体としては全く正常で、罪ではない宗教性の表れであるが、不必要な誇張はしばしば真の教会精神の枠を超えている。 ロシア人は、自らの正統性への確信と、他のキリスト教の宗派に対する鮮明な敵意を結びつけ、ロシア正教以外のあらゆるキリスト教を異端と呼んだ。 この種の宗教的意識は、本質的にロシア特有のものではなく、客観的に言えば中世の宗教性全般に共通するものであったが、避けがたい「Una Sancta」(唯一の聖なるもの)の歴史において、ロシアによる、否定的な貢献も存在していた。 ロシアの宗教的意識におけるこうした特徴は、それ自体は正当なものであったアポロゲティカ(擁護論)が過度に過激な性格を帯び、言葉と行動による防衛が過剰な敵意をもって行われることにつながり、その一方で、西洋キリスト教に関する知識の欠如が露呈することとなった。
ローマ・カトリックの影響が、当初はキエフの教会生活に、その後キエフを経てモスクワ都主教区にも浸透した結果、ローマ・カトリックの教義はロシアの修道界の中でも支持者を獲得することとなった。 すでに14世紀には、信仰上ギリシャ正教であったロシア国民の一部は、ロシア正教会との一体性を、信仰とカノンの統一という観点でのみ維持しており、階層的な関係においては維持していなかった。というのも、彼らは特別なキエフ都主教区の設立の結果、母教会から切り離されていたからである (1448年、1458年に確定)[866] 。1569年、リトアニアと南西ルーシはリュブリンの合同の結果、一つの国家に統合され、キエフ都主教区のギリシャ・正教の教区は、それによって政治的にポーランド王の支配下に入った。 ポーランドはローマ・カトリックの国であった。カトリックと正教の住民間の経済的・文化的結びつきは、カトリックの影響が浸透する道を開き、とりわけその影響はポーランド政府から断固たる支持を得ていた。
歴史的な観点から見て、決定的な要因となったのは、ルーシがローマ・カトリック教会をポーランドのカトリック主義に基づいて判断していたという事実であった。なぜなら、ポーランドのカトリック主義は、ロシア国民と ロシア正教会とローマ・カトリック教会との間に深い溝を掘ってしまったため、相互理解や客観的な評価は困難を極め、さらには不可能さえとなった。 ロシア人は、ポーランドのカトリック主義と接することで、カトリック教会に対する認識を形成していた。ポーランド政府が、その支配下にあった純粋なロシアの領土において「 」という政策をとった結果、政治的状況と教会的状況が極めて密接に絡み合い、「ポーランド人」と「カトリック教徒」という言葉は、ロシア人にとって同義語となってしまった。 特に深刻な結果を招いたのは、ロシアの「スモータ」(偽ディミトリ出現時の愚かな政策)へのポーランドの介入と、ポーランドの聖職者たちがロシアでカトリックを宣伝しようとした不器用な試みであった。 「スモータ」後の数世紀にわたり、ロシアとポーランドの関係、論争、そして戦争は、一見すると民族・政治的な性格を帯びていたが、実際には国家の境界や勢力圏の問題だけにとどまらなかった。これらの出来事は、より深い教会史的な意義を持っていた。なぜなら、その結果として、両教会の統合の可能性が失われていったからである。 局地的な現象に基づいて性急な判断を下した両政府および教会指導部の過ち、各派の指導者たちの激化と、ポーランドおよび西ルーシにおけるユニオンの歴史全体を暗い色で染め上げた彼らの不名誉な行い――これらすべてが、二つのキリスト教宗派を敵対関係へと追い込んだ。 「分裂派」と「異端者」はこれ以降、互いに対立するようになった。これほど多くの相互の偏見、非難、中傷が交わされた政治や文学論争は他に例を見ない。これらは二つの敵対する陣営であったが、互いに切り離して存在することはできなかった。
西洋の文化的影響、とりわけ西洋の教養は、南西ルーシの精神生活にますます深く浸透していき、これは特に16世紀後半に顕著に現れた。徐々に新しい潮流はモスクワ・ルーシにも到達し、この過程は次の世紀にも続いた[867] 。 こうした影響は特に学校教育の分野に深く根付いた。多くの都市に、主に正教会の兄弟会によって設立された学校が現れ、そのカリキュラムや教授法には西洋の影響が見られた。 1615年にはキエフ兄弟会学校が設立され、1631年にはミトロポリット・ペトル・モギラがカレッジを設立し、そこから後にキエフ神学アカデミーが発展した。 キエフ・コレギウムの歴史から、そこでの学術的・神学的な教育システムは、スコラ的な教授法を採用していたイエズス会のコレギウムとほぼ全く同じであったことが知られている。次第に、南ロシアの神学文献には、カトリックの神学的教義の一部が浸透していった。 ここで教育を受けたり、こうした文献を読んで知識を深めたりした聖職者、修道者、司教の多くは、これらの教義を認める方向に傾き、こうしてキエフ都主教区の教会生活においてカトリックの見解を広める存在となった[868] 。 しかし、他の修道士[869] や司教たちは、ギリシャ正教会の教えを堅く守っていたため、すでにそこ、すなわちキエフ都主教区において、かなり激しい論争が生じ、その結果、数多くの神学論著が発表されることとなった[870] 。
モスクワではこの一連の事態を注視しており、キエフ都主教区で執筆されたほぼすべての教会文献を「ラテン異端」の疑いがあると見なし、防衛措置も講じられた。 その中でも特に注目すべきものをいくつか挙げておこう。例えば、1620年、フィラレート総主教の治世下でモスクワに公会議が招集され、カトリック教徒やユニエート教徒がロシア正教会への改宗を希望する場合、彼らに対して洗礼の秘跡を再度行うことを決定した( ); イオアサフ総主教(1634–1641)の時代には、この決定は『トレブニク』(1639)にも盛り込まれ、1667年の公会議において初めて、カトリック教徒の再洗礼が完全に禁止された[871] 。 1628年、ツァーリ・ミハイルと総主教は、チェルニヒフ出身のアルヒマンドリト・キリル・トランキリオンの著作を焼却するよう命じた。同時に、リトアニアで印刷されたすべての書籍、すなわちリトアニアまたはウクライナで出版された書籍も禁止された。 それまでは、これらの書籍はモスクワで広く流通し、修道院の図書館に収蔵されたり、聖職者や司教によって購入されたりしていた[872] 。 1644年には、「キリロフの書」として知られる叢書が刊行された。これは「ローマ人およびラテン人、またルター派やカルヴァン派」を糾弾し、「その異端の口を封じる」ことを目的としたものであった[873] 。 しかし、より広く普及したのは別の叢書である『信仰に関する書』であった。これは後に古儀式派(分裂派)にとって極めて重要な意味を持つこととなるが、キエフのミハイロフ修道院のイグメン・ナファナイルによって1644年頃に執筆され、モスクワでは若干の改変を経て1648年に印刷された。[874]
南ロシアの影響力の拡大を食い止めることは、政府にも教会当局にもできなかった。 また、30~40年代にはすでに、ポーランド人による迫害を逃れるため、多くの修道士が単独またはグループでキエフ都主教区からモスクワ・ルーシへ逃れ、移住し、各地の修道院に散らばっていたという事実も、重要な要素であった[875] 。 パトリアルヒ・ニコンが着手した礼拝書の改訂には、教養のある人材が必要だったが、彼はそのような人材をキエフ都主教区でしか見つけることができなかった。 これが、この時期にモスクワに南ロシアの修道院から多くの修道士が現れ、彼らが筆記者、校正者、翻訳者として書物の改訂に携わった理由である[876] 。アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝は、自身の教会に対する保守的な姿勢にもかかわらず、聖職者の教養と知識の欠如が教会生活に悪影響を及ぼしていることを認識していた。 西洋の影響は皇室にまで浸透しており、ソフィア王女とフェオドル皇太子は、かつての慣習とは全く異なる精神で育てられていた[877] 。 1649年、アレクセイ皇帝はキエフ都主教に対し、モスクワへ「ギリシャ語の聖書をスロボディアン語に翻訳するための教師を、我ら大君主に仕える間、派遣してほしい」と要請する特別な書簡を送った。 16世紀初頭に同様の業務を遂行するためにモスクワがマクシムを招いたのと同様に、今回も外部から適任者を必要としていた――それ以来の1世紀にわたる啓蒙活動の成果は、それほど微々たるものだったからである。当時、モスクワを訪れた人々の中には、特に言及に値する3人の修道士がいた。 彼らはアルセニー・サタノフスキー、ダマスキン・プティツキー、そしてエピファニー・スラヴィネツキーであった[878] 。
修道士エピファニー・スラヴィネツキーは、パトリアルヒ・ニコンの時代に着手された礼拝書の改訂事業においても、後に勃発した聖体の転置をめぐる論争においても、特に重要な役割を果たした。 彼は、モスクワにおいて一見して目立つような活動を見せた人物ではなかった。それどころか、常に陰に身を潜め、謙虚で才能に恵まれ、道徳的に清らかな人物であった。彼は、モスクワの喧騒から距離を置いていた典型的な学識者であった。 しかし、その人柄と教養のおかげで、彼は他の人々に影響を与え、後に社会生活の舞台で活躍する弟子たちを育てることができた。
エピファニーは、おそらく西ルーシのピンスクという町で、裕福な家庭に生まれた。彼は1631年以前、すなわちミトロポリス・ペトル(モギラ)による同校の改革が行われる前、まだギリシャ・スラブ派の傾向が支配的だった時期に、キエフのブラトスカヤ学校で学んでいた。 その頃、彼は な教育を受け、ギリシャ語やスラブ語において相当な文献学的知識を身につけた。エピファニオスは10年か12年間、ポーランド西部の何らかの学校で過ごし、そこでポーランド語とラテン語を徹底的に学ぶ機会を得た。 40年代初頭、彼はキエフ・ペチェールシク修道院で出家し、1642年には、かつて自身が学んだあのブラツカ学校で教鞭を執っていた。 彼はそこで1649年まで教鞭を執った。この頃、エピファニイは学問に打ち込む熱心さで際立っていた。しかし、モスクワで彼に注目が集まったのは、それだけではない。後に彼の弟子である修道士エウフィミイが著した 『最も賢明な修道士エピファニイ・スラヴィネツキーについて』からは、エピファニイが、ポーランド・カトリックの影響から距離を置き、厳格な正教徒であり続け、ギリシャ正教会の教えへの忠誠を守り抜いた、キエフの学者たちの少数派に属していたことがうかがえる[879] 。 まさにそのために、モスクワでは彼に対して信頼と評価が寄せられていた。礼拝書の修正の必要性に関する彼の見解が、ニコンの改革を断行する決意を固めた可能性も否定できない。この点についても、エウフィミオスの著作『最も賢明な修道士エピファニオスについて』に記されている。 エピファニオスは1675年に死去するまでの約30年間、モスクワで教典の修正や教父たちの著作の翻訳に従事していた[880] 。
当時、モスクワには無知な人々しかいなかったと断じるのは不公平だろう。よく知られた教会の保守主義や宗教的厳格主義と並行して、教育や知識への強い渇望も存在していた。 ある者たちが西欧に目を向ける一方で、他の者たちは古い源泉、すなわちギリシャ正教の世界から知恵を汲み取ろうとしていた。 チュドヴォ修道院で活動していたエピファニオスの周囲には、ギリシャ文化に傾倒する人々のグループが集まっていた――それが真の意味での学校だったかどうかは定かではない[881] ――彼らはエピファニオスと絶えず交流し、彼の書籍の写し書きを手伝ったり、様々な著作を読んだりすることで、自らの視野を広げることができた。
エピファニオスの周囲で際立った存在だったのは、修道士エウフィミオスであり、彼は後に、パトリアルヒ・イオアキムが「パン崇拝の異端」と戦う際に助力した。 エウフィミオス(†1705)はチュドヴァ修道院の平凡な修道士に過ぎなかったが、おそらく単なる偶然だけでなく、同じ修道院に身を寄せ、そこで働いていたエピファニオスとの出会いが彼を導いたのである。 エウフィミオスは生まれつき才能に恵まれ、非常に好奇心旺盛な人物であった。彼はギリシャ語を極めて流暢に習得し、エピファニオスの主要な補佐役となった。その後、神学的な知識をさらに深め、翻訳家および教会作家として頭角を現した[882] 。 神学論争における彼の対立者であり、「ラテン派」の支持者であった修道士シルヴェストル・メドヴェージェフは、自身の『悔悛の告白』の中で、彼を「真理の熱心な擁護者、教会の擁護者、そして信仰の守護者」と呼んだ[883] 。この言葉には、ある種の狡猾さや計算が込められていたとはいえ、 しかし、エフフィミイの生涯と活動は、彼が確固たる信念を持ち、自らの見解を表現する際に並外れた率直さを示し、非正教的なあらゆる影響に対して敵意に近い嫌悪感を抱いていたことを物語っている。80年代にモスクワの社会で聖体の変容をめぐる激しい論争が勃発した際、 エウフィミイはその主要な参加者の一人となり、教養の乏しいイオアキム総主教の最も熱心な補佐役となった。そして、おそらく彼こそが、「聖体礼拝の異端」に対するイオアキムの過激かつ厳格な措置の真の仕掛け人であったのかもしれない。 エウフィミイとイオアキムは、モスクワ保守主義の最後のモヒカン族であり、「モスクワは第三のローマ」という思想の最後の擁護者であった。
死にゆくモスクワの保守主義は、パトリアルヒ・イオアキム(1674–1690)ほど力強く、鋭く体現された人物は他にいなかった。 彼は1620年、さほど裕福ではないサヴェロフ家の士官家庭に生まれ、当初はキエフ近郊の南ルーシで軍務に就いていた。妻と子供たちを亡くした後、彼は修道誓願を立てることを決意し、1655年にキエフのメジゴルスク修道院に入った。 彼がどのようにしてパトリアルヒ・ニコンと知り合ったのかは不明だが、おそらく何らかの用事でモスクワに滞在していた際のことだろう。ただ、1657年にニコンが、自身が設立したイヴェル修道院の建設責任者に彼を任命したことは知られている。 イオアキムの同時代人であり敵でもあった助祭フェオドールは、当初は「パン礼拝派」の一人であったが、後に分裂派の熱心な支持者となり、毒のある皮肉を込めて、イオアキムは以前は読み書きができず、イヴェル修道院に入って初めて学び始めたのであり、それ以前は読むことも書くこともできず、 教会のことは何も知らず、礼拝の内容も全く理解していなかった(おそらくテオドールは、イオアキムが本来、宗教的ではない性格だったと言いたいのだろう。――I. S.)。彼は傭兵として、人里離れた村々に住み、ウサギを狩り(!)、教会には大きな祝日だけしかめったに足を踏み入れなかった[884] 。 たとえフェオドールが誇張しているとしても、当時の基準からしてもイオアキムは教養のない人物であったことは認めざるを得ない。しかし、彼には実践的な知性と健全な常識があり、それが、彼の側近として秘書のような役割を果たしていたエフフィミイの文学的才能と相まって、神学論争に参加する機会を彼にもたらしたのだ。 この健全な判断力――フェオドールの言葉を借りれば「狡猾さ」――のおかげで、イオアキムは教会権力の頂点へと急速に登りつめることができたのかもしれない。
自身も西洋教育の熱心な支持者であったボヤリンのF・ルティシェフの支援のおかげで――これは、イオアキムが自分と意見の異なる人々の間でも友人や後援者を見つける術を持っていたことを示している―― ――彼はモスクワの聖アンドレイ修道院の院長に就任し、その後、王室と特に親密な関係にあったノヴォスパス修道院の司膳長となり、1664年にはすでにモスクワのチュドフ修道院のアルヒマンドリト(修道院長)となっていた。 彼は、その「儀式への熱心さ」と気配りの良さによって、アレクセイ皇帝から特別な寵愛を得たが、これについては、やはりあの助祭フェオドールが皮肉を込めて指摘している。 1673年、おそらく皇帝の介入もあって、イオアキムがノヴゴロド都主教に任命されたとき、彼はすでに教会階層の最上位に立っていた。イオアキムはそこで権威ある聖職者として振る舞い、管区を厳格に統治し、教会の形式の遵守に主眼を置いていた。 とはいえ、イオアキムの行政措置の中には有益なものもあった。例えば、教区聖職者に関する彼の指令や、後に(1675年および1687年に)ロシア正教会全体に対して導入された、聖職者からの貢納徴収に関する新たな制度などが挙げられる。 彼は教区聖職者の経済的保障に多大な配慮を払い、各教区に土地を分配した。また、彼の在任中に修道院局が廃止され(1677年)、聖職者の管轄権の問題に関しては、世俗権力が教会裁判に干渉することを完全に排除することに成功した[885] 。
イオアキムの出世は、厳密に言えばパトリアルヒ・ニコンの恩によるものであったが、ニコンの追放先の最終地であるキリロフ修道院(これもイオアキムの仕業であった)に滞在していた時期における、元パトリアルヒに対する彼の態度は、人間的な観点から見て、彼の悪い側面を浮き彫りにしている。 ニコンの境遇を和らげようとするツァーリ・フェオドルのあらゆる試み、さらには懇願さえも、わがままで自尊心の強いイオアキムによって退けられた。一方で、イオアキムはニコンの改革の熱心な支持者であり、自らのイデオロギー的敵対者たちを迫害した。 彼は、残忍さ、宗教的狂信、そして妥協を許さない姿勢をもって、分裂派を迫害した。しかし、モスクワの生活において西洋の影響が垣間見えるあらゆる現象に対しても、イオアキムは断固とした抵抗と非難を示した。 彼にとって「外国人」や「ラテン人」は常に異端者であり、彼は外国の使節の受け入れを拒否し、皇帝の食卓で彼らと共に座ったり食事をしたりすることを拒み、自らが執り行う礼拝に外国人が立ち会うことも許さなかった。 彼の遺言を読むと、モスクワにおいて文化的・宗教的な形式主義がすでに衰退しつつあった当時にもかかわらず、宗教的狂信者であり形式主義者の姿が眼前に浮かび上がる。 イオアキムのような人物は、17世紀後半の において典型的な存在ではなかったものの、彼らの存在は、モスクワの宗教的保守主義と形式主義が、新たな人々や新たな思想に、決して容易ではない闘争の末に道を譲っていったことを証明している[886] 。
モスクワの生活への西洋の影響の浸透は、その内容だけでなく、はるかに大きな程度において、非常に成功を収めたその支持者たちの活動によって促進された。修道士シルヴェストル・メドヴェージェフは、「西洋派」、すなわち「ラテン派」の中心に立っていた。 彼の神学教育、ひいては彼の精神的形成の全過程は、そのような人々との絶え間ない個人的な交流によって形作られていた。彼らを通じて、彼は西洋的な思考様式を学び、西洋の教養を身につけ、その優位性を確信することができたのである。
その一例が、モスクワの文化生活に多方面にわたる影響を与えた有名なシメオン・ポロツキーであり、彼の活動は、聖体の変容をめぐる神学論争の背景へと私たちを導いてくれる。 1629年にベラルーシのポロツク地方で生まれたシメオン・ペトロフスキー=シトニアノヴィチは、文学史において通常「シメオン・ポロツキー」と呼ばれており、1663年にモスクワに定住して以来、同地における西洋啓蒙思想の主要な提唱者であった。 彼の同時代人であり、思想上の対立者であるエピファニー・スラヴィネツキーと比較すると、彼は全く異なる人物であり、彼が通った学校も、エピファニーが通ったものとは決定的に異なっていた。 1640年代、彼はキエフのコレギウムで学んでいたが、当時、同校の講師(1650年まで)および学監(1650年~1655年)を務めていたのは、南ロシアの著名な説教者であり学者であるラザール・バラノヴィチ (1620–1693)が、講師(1650年まで)および学監(1650–1655)を務めていた。同氏はその後、チェルニヒウ大司教(1657–1692)として、キエフ都主教区の教会生活において重要な役割を果たした[887] 。 ここで彼の名前を挙げるべき理由は、後のパトリアルヒ・イオアキムとの聖体の変容に関する書簡のやり取りにおいて、ラザール・バラノヴィッチがローマ・カトリックの教義を支持していたことにある。したがって、シメオンの神学的見解は、キエフ・コレギウムで学んだ時期に形成されたと推測される。 当時、カレッジではスコラ哲学に基づく教育体系が盛んであり、それは彼の精神性に影響を与え、その著作にも反映された。カレッジを卒業後、シメオンはキエフからポロツクに戻り、そこで修道士の誓いを立て、地元の学校の教師となった。 アレクセイ皇帝が同市を訪問した際、シメオン・ポロツキーは皇帝に直接面会し、この機会のために特別に書き下ろした歓迎の詩を捧げるという栄誉に浴し、それによって皇帝の注目を集めた。こうして、ポロツクで彼の将来のキャリアが始まったのである。
1660年、シメオン・ポロツキーはモスクワを訪れる機会を得て、再びツァーリに賛美の詩を捧げ、その注目を集める好機を逃さなかった。ポロツクがポーランド軍に占領された後(1661年)、1663年にシメオンはモスクワに移住した。 ラザリ・バラノヴィチ大司教から、当時モスクワに住み、アレクセイ皇帝の特別な寵愛を受けていたガズ大主教パイシイ・リガリド宛ての推薦状のおかげで、シメオンは皇帝の宮廷で人脈を築くことに成功し、その際、自身の詩的才能を巧みに活用した。 同時に、ザイコノスパス修道院の学校での教育活動も始まった。そこでは、後に修道士となるシルヴェストル・メドヴェージェフも彼の教え子の一人であった([888] )。シメオンの純粋な文学活動についてはここでは触れないことにし、彼のモスクワ時代の生活のうち、当時の教会情勢に関連する事実のみに焦点を当てることにする。
シメオンがモスクワに到着したのは、ツァーリ・アレクセイとパトリアルヒ・ニコンの関係が特に緊迫していた時期であり[889] 、同時に分裂派の指導者たちとの論争が勃発していた時期でもあった。シメオンには、分裂派の指導者たちの見解に対して徹底的な批判を加えることが命じられた。 こうして、彼の最初の主要な著作である『統治の杖』が誕生した。この著作は当初、1666年の分裂反対公会議の公式文書と見なされていた。 シメオンはこの著作を、かなりのスコラ的な洗練さと論争の技巧をもって執筆し、教会文学に対する卓越した知識を示した。その際、彼はマクシムス・グレコやジノヴィイ・オテンスキーの著作、さらには全聖会(ストグラフ)の決議からの引用さえ用いたが、 しかし同時に、彼の著作にはいくつかの誤りや、対立派の代表者たちの意見や発言の歪曲、分裂の指導者たちに対する粗暴な非難、さらには数多くの罵倒語の使用も見られ、これらもまた中世の論争術に特有のものであった[890] 。
彼のキャリアは輝かしいものとなり、彼は皇子たちの家庭教師の職を得た。最初は長男のアレクセイ皇太子、そして彼の死(1669年)後は、将来の皇帝フェオドルとソフィア皇女の家庭教師を務めた。後者たちが西洋文化に傾倒し、その文化の諸現象に共感していたことは、間違いなくシメオンの影響によるものと説明できる。 彼の人生で最も輝かしい時期が始まり、彼は贅沢な暮らしを送り、その活動の場は皇室となった。そこで彼は説教を行い、祝賀の詩や戯曲、その他の文学作品を執筆した。 彼は、モスクワにアカデミーを設立するという提案を熱心に支持した。その計画は、彼自身または彼の弟子シルヴェストル・メドヴェージェフによって草案されたもので、キエフのコレギウムをモデルとして組織されることになっていた。1680年に亡くなるまで、シメオンは尊敬される人物であり、認められた学者、そして著名な文筆家であった。
シメオン・ポロツキーが皇帝の宮廷やモスクワの社交界(彼は多くのボヤール家や聖職者たちと親交を結んでいた)で展開した多面的な活動、そして高まり続ける彼の人気は、モスクワにおける西洋文化の影響力の増大を物語っていた。 彼にとって偶然の産物であった修道士のフード、修辞と情熱に満ちた説教『[891] 』、そして性格や信念の点でシメオンの対立者であった厳格なイオアキム総主教とのやり取りにおける外交的な巧みさ――これらすべてが、モスクワの保守派からの疑念を彼から遠ざけていた。 彼は著作『信仰の冠』(1670年)において、自らの「正統性」を証明することに成功した。『信仰の冠』は、いわば正教会の教義学を体系化した試みであった。 シメオンはこの解説の基礎として、ニカイア・コンスタンティノープル信条ではなく、「使徒信条」(第4~16章)を据えたが、奇妙なことに、当初はモスクワの保守派から疑念を抱かれることはなかった。もっとも、モスクワではこれだけでも「異端的な傾向」と見なされる可能性があったが、確かに、 シメオンはここで、フィリオクエに関するローマ・カトリックの教義を鋭く批判している。後の論争において初めて、修道士エウフィミイは、この誤りと、アンセルムス、ドゥンス・スコトゥス、トマス・アクィナス、ベラルミンの著作から引用した論拠を用いたことを、シメオンの非難の材料としたのである。 その後、シメオンの説教に含まれるすべての「ラテン派の逸脱」は、エウフィミオスによって告発材料としてまとめられた[892] 。 シメオンの世界観全体がモスクワ流ではなかったことは明らかであり、彼と交流したり、彼から教えを受けた人々は、次第に西洋の啓蒙主義、そしてある程度は彼の「ラテン的傾向」の支持者となっていった。とりわけ、シメオン・ポロツキー以外にも、モスクワで同様の見解を広めていた人物が複数いたからである。
モスクワの文化的保守主義を断固として拒絶し、西洋文化の優越性を認めた人々の中には、もちろん、世俗名シルヴェストルとして知られる修道士シメオン・メドヴェージェフもいた。彼はその悲劇的な運命だけでなく、その性格においても傑出した人物であった。 彼が当時の神学論争において果たした役割の重要性は、彼に勝利した敵対者である修道士エフフィミーに、シルヴェストルの霊的形成の伝記を執筆させるきっかけとなり、その後、他の研究によって補完された[893] 。 1665年、シルヴェストル・メドヴェージェフは、アレクセイ皇帝の秘密省 の書記官を務めていた[894] 。そこで勤務したのは短期間で、1672年にはモルチャンスカヤ修道院に居住し、およそ1675年頃からはすでに修道士として知られている。 1年後、私たちは彼をモスクワのザイコノスパス修道院で目にする。当時、シメオン・ポロツキーも同修道院に滞在していた。二人は絶えず交流しており、この頃からシメオンがシルヴェストルに与える影響が顕著になっていく。 シメオン・ポロツキーとの対話、そして南ロシアや西欧の著作が多く収められていた彼の私蔵書(彼の敵対者エフフィミーは、まさにこのラテン語の書物の研究をシルヴェストルの非難の材料としていた)の読書は、シルヴェストルの教養を深め、探究心を育んだ。 彼はシメオン・ポロツキーの様々な研究を手伝っていた[895] 。シメオン・ポロツキーの死(1680年8月25日)後、おそらく彼の推薦により、シルヴェストルはザイコノスパス修道院の建築責任者の職を得て、シメオンの学校を率いることとなった。そこでは当時、彼にラテン語の指導も任されていた[896] 。
同年、シルヴェストルは神学に関する問題について初めて公の場で講演を行った。その経緯は次の通りである。その少し前に、ヤン・ベロボツキーという人物がモスクワに到着していた。彼は、ポロツキーがモスクワに高等学校を設立するという計画に関連して、まだ存在していなかったその学校での教職を得ようと画策していたのである。 彼の過去や宗教的信念は極めて不透明であった。彼は西ルーシ出身であったが、カトリック教徒ではなく、彼の言葉からは、そもそも特定の信仰に属していないことがうかがえた。さらに、彼はキリスト教会の聖体拝領の秘跡を断固として否定していた。 ベロボツキーの「ルター派の異端」に関する噂は総主教の耳にも届き、イオアキムは彼に「信仰告白」を述べるよう要求した。 ベロボツキーの書面による「信仰告白」への反論はメドヴェージェフに委ねられたが、この事実は、一方で当時メドヴェージェフが一切の疑いをかけられていなかったことを示しており、他方では、彼の神学教育が高く評価されていたことを物語っている。 1681年7月11日、総主教の私室で会議が開かれ、そこでメドヴェージェフは、カルヴァン主義的な性格を持つベロボツキーの見解を反駁し、聖体拝領の秘跡に関する東方教会の教義を述べた[897] 。 おそらく、この神学論争における勝利がメドヴェージェフに勇気を与え、さらなる神学研究へと彼を駆り立てたのだろう。彼は『生けるパン』と題した著作を、師と弟子の対話形式で執筆し、その中で聖体の変容の時期に関するカトリックの教義を率直に述べた。「弟子たちの質問: 神聖な典礼において、パンはいつキリストの至聖なる御体へと、ワインはいつキリストの至聖なる御血へと変容するのでしょうか? 師の答え:至聖なる御体と御血は、神聖な典礼において司祭がパンの上で『受けなさい』と唱えるキリストの御言葉によって変容するのです」[898] 。
メドヴェージェフが自身の著作で述べたローマ・カトリックの教義は、かねてより南ロシアの礼拝用書や教会文献に浸透していた。これは、ゲデオン・バラバンの『礼拝書』(1604年)やヴィリニュス版『礼拝書』(1610年)に明確に表れている。 最も広く普及したミトロポリタン・ペトル・モギラの『典礼書』(1629年版)には、まだギリシャ正教の教義が含まれているが、1639年および1646年の再版では、すでにローマ・カトリックの教義となっている。 さらに、この教義は、モスクワ・ルーシで広く普及した様々な南ルーシの神学著作にも述べられている[899] 。その中でも、当時非常に広く読まれていたフェオドシイ・サファノヴィチの著書『聖なる教会に関する解説』 (1667年)が挙げられる。同書は1667年から1674年にかけて南ロシアで4回の版を重ね、この本のロシア語訳(原著は小ロシア語、すなわちウクライナ語の方言で書かれている)は17世紀の写本に保存されている。 著者は、東方教会の礼拝に関する自身の解釈において、主にシメオン・テッサロニキ(†1429)の著作『聖なる礼拝の解説』([900] )や他の著述家の著作を引用しており、聖体の変容の時期に関する教義は、ローマ・カトリックの教義に従って述べられていた[901] 。 すでに述べたように、シメオン・ポロツキーもほぼ同時期に、自身の著作『統治の杖』(1666年)および1673年に行われたエピファニオス・スラヴィネツキーとの対話において、同様の教義を説いた。 しかし当時、ポロツキーは依然として非常に影響力のある人物であり、さらに、ニコンが追放された後のモスクワには確固たる教会権力が存在していなかった[902] 。 1682年にツァーリ・フェオドールが死去すると、政務を掌握したツァーリヴナ・ソフィアとその寵臣であるヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ・ゴリツィン公は、西洋の影響に好意的であった[903] 。そのため、しばらくの間、教会当局からは何の措置も取られなかった。 シルヴェストル・メドヴェージェフは平然と学問を続けることができ、まさにその時期に、すでにここで言及した著作『動物のパン』を執筆した。
本格的な神学論争が激化したのは、数年後、正教会派が「最も賢明な同胞」であるギリシャ人のイオアンニキイとソフロニー・リフーディ兄弟から強力な支持を得た時であった。彼らは1685年、コンスタンティノープル総主教からの推薦状を携えてモスクワに到着し、開校を控えていたアカデミーで教鞭を執ることになっていた[904] 。 シルヴェストル・メドヴェージェフは当初から、二人の兄弟に対して敵対的な態度をとっていた。彼らの到来が、彼の計画を台無しにしてしまうからである。実は、ポロツキー、すなわちシルヴェストルがアカデミーの定款を作成し、それをツァーリに献上していたのである。 しかし、その定款は承認されず、シルヴェストルにはザイコノスパス修道院の学校をこれまで通り運営することしか許されなかった。学校のために建設されたのは2棟の専用建物のみであり、これはおそらくイオアキムの介入なしには実現しなかったものと思われる[905] 。シルヴェストルはこれを自分に対する侮辱と受け取った。 その間、アカデミーの定款は改訂された (おそらく、修道士エウフィミオスもその改訂に関与した)。その結果、ラテン語の代わりにギリシャ語を教えることが決定された。アカデミーは、ギリシャ正教の純粋性を守る守護者となり、異端との闘いにおける砦となるべきであった[906] 。 また、リトアニアや南ロシアの地域出身者を教員として招くことも禁止された。「なぜなら、彼らは当初は極めて敬虔であるように見えるが、やがて少しずつ不道徳な言葉を信仰に植え付け、その清らかさの完全性を蝕み始めるからである」[907] 。
メドヴェージェフとリフーダ兄弟の間の個人的な関係も、決して友好的なものではなかった。シメオン・ポロツキーをいくぶん彷彿とさせるような主張を展開していたギリシャ人の兄弟たちに対し、彼らからの幾度かの要請を経て、シルヴェストル・メドヴェージェフが修道院長を務めていたザイコノスパス修道院内に、専用の石造りの家が建てられた。 こうして、まもなく激化した論争において敵対することになる者たちが、同じ修道院に住み、論争的な著作を執筆することになったのである。とはいえ、リフーダ兄弟とエフフィミーとの間には緊密な関係が築かれた。というのも、エフフィミーは彼らから神学的な知識を得ることができ、また彼らとメドヴェージェフとの間の不和を利用することができたからである。
しかし当初、おそらくメドヴェージェフの著作『動物のパン』をすぐに目にしたエウフィミイは、自らメドヴェージェフを攻撃し、『パン』への反論として『東方教会を擁護する聖なる父たちより』[908] を執筆した。 メドヴェージェフの主張を反駁するにあたり、エフフィミーは教父たちの言葉の抜粋やエピファニー・スラヴィネツキーとの対話を根拠とし、メドヴェージェフが述べた聖体の変容に関する教義は、1645年のペトル・モギラの『正教の告白』 1645年のペトル・モヒラの著作から借用されたものであると考えている。エフフィミーによれば、この著作は「ラテン的」なものであったという。 エウフィミイの論考がどの程度独自のものであったかは定かではない[909] 。しかし、エウフィミイがギリシャ神学の「健全な推論」を称賛している段落は、おそらく彼がリフドフ兄弟という学者たちから受けた助言を示唆しているのかもしれない。
メドヴェージェフは、おそらくエフフィミイによる「ラテン学」への嘲笑的な指摘に最も憤慨していたのだろう――とはいえ、それは全く正当な指摘であった。というのも、『動物のパン』は実務的で学術的な言語で書かれているからである――彼は今や、強い苛立ちと論争的な意気込みをもって『動物のパンのマナに関する書』を執筆している。その後、尋問(1689年秋)において、メドヴェージェフは[910] 、「マナ」を「ソフィア・アレクセーエヴナ王女の勅令により」執筆したと述べる[911] 。この「マナ」 (1690年の公会議の判決により焼却されたため、写本のみで知られる)メドヴェージェフの著作では、聖体の変容に関するローマ・カトリックの教義が、教父たちの著作や南ロシアの著作、さらにはゴアールの『典礼書』からの数多くの引用を交えて、改めて詳細に論じられている[912] 。
すでに『動物のパン』という著作が、エフフィミーに論争に踏み込むきっかけを与えただけでなく、最も強力な武器として、神学的な知識を持つリフドフ兄弟を味方につけることにもつながった。 兄弟たちはロシア語を話せなかったため、エフフィミイは彼らのためにメドヴェデフの著作を翻訳したか(これはありそうもないが)、あるいは「異端者」の主要な主張を兄弟たちに伝えたかのいずれかである。兄弟たちはギリシャ語で反論を執筆し、それは印刷局においてエフフィミイの編集のもと、スラブ語に翻訳された[913] 。 「アコス、あるいは毒蛇の咬傷に対抗する治療法」――著者たちは自らの著作にこのように題名をつけ[914] 、それが両王およびソフィア王女の命により、また総主教の祝福を受けて書かれたものであることを強調した。 このことから、1688年11月の神学論争には、ロシア教会の首座も参加していたことがうかがえる。
しかし、メドヴェージェフは孤軍奮闘していたわけではない。例えば、サヴァ・ドルギーという名の司祭は、モスクワで『マナ』からの抜粋や写本を熱心に広めていた。 さらに、あるアファナシーという助祭がおり、彼はメドヴェージェフの独房でこれらの写本を作成し、抜粋を行っていた。そして、著作の普及を早めるために、さらに数人の写本者を助手に引き入れた。尋問において、ザイコノスパス修道院の聖歌隊員は、1687年から1688年の冬に「彼のもとへ、 セリヴェルストクに、多くの高貴な人々(おそらく何人かのボヤールたちだろう。――I. S.)や警備隊が訪ねてきた……そして彼らの会話は、キリストの御言葉についてだった」(すなわち、聖体の変容の時期について)[915] 。
メドヴェデフの見解に賛同していたか、あるいはそれに対して一定の関心を示していたこうした人々の間から、もう一つの著作『新たに潜む狼たちへの告発』が生まれた。その著者は、「愚かな外国人」(すなわちリフーダ派)に対して、「狂犬」、 「忌まわしいコウモリ」、「盲目のフクロウ」、「キリストの羊たちを襲う手ごわい狼」といった罵詈雑言を用いて、「闇のような異邦人」(すなわちリフーダ)と激しく論争している。 かなり長めの序文の後、著者は主に南ロシアの著作[916] を根拠として、ローマ・カトリックの教義を論じている。リフーダ兄弟は『告発』の著者をメドヴェージェフだと考えていたが、それはおそらく事実ではない。 この著作の言語、数多くの罵倒、南ロシアの作家たちからの引用――これらすべてがメドヴェージェフの著作者説に反しており、彼の性格にも、著作の文体にも合致しない。修道士エフフィミーでさえ、この著作の著者を「無名の人」と呼んでいる。
当時、メドヴェージェフは自身の論争的な著作の執筆に忙殺されていた。それは『アコス』の主張を反駁するためのものであり、聖体変容の時期に関する正教の教義を極めて明快かつ明確に論じており、神学文献を幅広く引用していた。というのも、ギリシャ人の兄弟たちには神学的な教養があることは否定できないからである。 1688年の初秋、メドヴェージェフはついに『アコス』に対する批判を完成させた。その題名は『正教徒への真実の知らせ、およびモスクワ王国における古代の書物の新たな統治に関する世俗的な証言』であった。これは[917] に収録された、2部からなる膨大な著作である。 第1部は、全著作の約4分の1を占め、17世紀初頭からの礼拝書の改訂の歴史、主にニコン総主教の時代から1667年の公会議に至るまでを扱っており、この事業に対する著者の正当な批判的指摘も含まれている。 メドヴェージェフがなぜこの序文を書いたのかは完全には明らかではないが、おそらく彼は、自身の反対派が利用している著作に多くの誤りが混入していることを示そうとしたのだろう。その後、何の関連性もなく、第2部が続く。これは『[918] 』という学術的・神学的研究であり、著者はそこで自らの見解を断固として主張している。 おそらく、このメドヴェージェフの頑固さこそが、1688年の秋、彼が印刷局での校正官の職を失うことにつながったのだろう。そこでは、彼とエフフィミーが最も知識豊富で有能な専門家であったのである[919] 。
しかし、「正教会党」はメドベージェフに対する論争を続けていた。間違いなくエフフィミイによって執筆されたと思われる著作『真理の証言』が登場したが、著者はその中でソフロニイ・リフーダの名を借りて語っている[920] 。 その中でエフフィミーは、メドヴェージェフの『真の知らせ』だけでなく、「無名の人」による『告発』 に対しても論争を繰り広げており、エフフィミーは今回、この著作をメドヴェージェフのものと見なし、その内容の主張を彼に非難している。 さらに、教会階層の代表者であるホルモゴル大司教アファナシイもこの論争に加わった。彼の神学著作のいくつかは、すでにここで言及されている。 残念ながら、彼の著作のうち2点は写本としてのみ現存し、極めて不十分な記述からしか知られていないが、これらはギリシャ正教会の教えに基づく聖体の変容の問題に捧げられたものである[921] 。
しかし、この問題は次第に神学的な論争の枠を超え、両方の見解が民衆の間で広く普及していった。メドヴェージェフのもとには様々な人々が訪れ、彼と議論を交わした。モスクワの聖職者の中にも、彼と志を同じくする者たちがいた。司祭サヴァ、助祭アファナシーとヤコフ、修道士アントン・ムロメツである。 モスクワの駐屯地、すなわちストレッツィ連隊においても、「ラテン派」は関心を集め、支持者を獲得した[922] 。この時代の宗教性において非常に特徴的だったのは、一見説明のつかない状況、すなわち「ラテン派」が分裂派に近い層からも支持を得ていたという点である。 ニコンが着手した改革の過程で、ギリシャ人およびその神学の権威は、ニコンの反対者たちや、さらには懐疑的な人々の目にも低下した。メドヴェージェフは『真の知らせ』の第1部において、ニコンの修正に含まれる誤りを指摘し、この権威を改めて鋭く批判した。 また、「ギリシャ派」、すなわち「正教会派」を率いていたのが、その過激な措置や迫害によって、分裂派や密かに彼らに同情する者たちの敵意と憎悪を招いた総主教イオアキムであったという事実も、少なからぬ役割を果たした。 エフフィミオスが編集し、一部を執筆した『オステン』には、民衆の間で繰り広げられた白熱した議論について記されている。 この神学論争には、モスクワの人々にとって極めて重要であり、そうした議論の材料となった外的な側面も存在していたのである。聖体礼儀の儀式において、「受け取り、食べよ」という定めの言葉を唱える際、礼儀を執り行う司祭は頭を下げ、その瞬間に鐘が鳴らされる。 当時、聖体礼儀に参加せず、その時間に自宅や街中にいた人々が、十字を切るという広まった慣習があった。当時、こうした外的な儀式には「礼儀的な」意味が与えられており、分裂の時代は、この儀式信仰をさらに強めたのである[923] 。
神学上の論争は次第に社会全体の問題となり、モスクワの政治的風潮とも結びつくことになった。ソフィア王女と成長しつつあったピョートル皇帝との関係は、ますます緊張を帯びていった[924] 。 メドヴェージェフはソフィアの派閥に属していた。彼は、ストレレツキー・プリカザの長官であるオコルニチイのフェドール・シャクロヴィトと頻繁に交流していた。シャクロヴィトは自身の出世を王女に負っており、彼女に有利になるようストレレツキー連隊を扇動していた。さらに、 メドヴェージェフは、全能のヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ・ゴリツィン公――王女のお気に入り――[925] ――および王女本人からも寵愛を受けていた。これらが、メドヴェージェフに対して政治的な告発が提起された根拠であった。 当時、総主教はペトロの側に立っていた。ペトロの親欧米的な気質は、その頃まだソフィアやゴリツィンほどにはっきりと表れてはいなかった。さらに、ペトロはまだ若く、母であるナタリア皇后の派閥は常に、総主教が体現するモスクワの古き良き伝統を支持していた。 イオアキムがメドヴェージェフに対して抱いていた個人的な反感も一因となった。メドヴェージェフが彼について嘲笑的な発言をしているという噂が総主教の耳に入っていたのだ。これは後に、尋問において一部の証人が証言した通りである。 さらに、ゴリツィンの側近の間では、イオアキムに代わって メドヴェージェフを総主教に据えるか、少なくともイオアキムの後継者に据えることが決定されたという噂も流れていた[926] 。このような状況下で、イオアキムがメドヴェージェフを憎むようになったとしても不思議ではない。
1689年8月8日、ソフィアの政権は打倒され、彼女は修道女の衣をまとい、ノヴォデヴィチ修道院で人生の最後の15年間を過ごし、1704年に死去した。 9月9日、ゴリツィン公は流刑に処され、シャクロヴィティやその他のソフィアの支持者たちは逮捕され、偏った尋問と拷問を受けた。9月12日、シャクロヴィティは処刑された。メドヴェージェフは逃亡を余儀なくされたが、途中で身元が判明し、捕らえられた。 ピョートル皇帝に対する反逆者かつ陰謀者として、メドヴェージェフもまた尋問と拷問を免れることはできなかった。その際、彼の敵対者たちは彼に対して虚偽の証言を行う絶好の機会を得た。というのも、実際には、シャクロヴィティの事件に関する捜査から明らかなように、メドヴェージェフはその陰謀とは何の関係もなかったからである。 それにもかかわらず、メドヴェージェフは死刑を宣告された。彼は政治的・宗教的な激情の犠牲者となったのである。 「どうやら、メドヴェージェフの罪のすべては――『捜査記録』を徹底的に研究したE・ベロフが記しているように――、ソフィア王女とV・V・ゴリツィンが、彼の知性を高く評価し、自分たちの計画が成功した場合、彼を総主教に任命することを夢見ていたことにあるようだ」[927] 。 「メドヴェージェフは――聖体の変容をめぐる論争の全歴史を客観的かつ綿密に研究したI. シュリャプキンはこう記している――自身の性格や誤謬の犠牲となったのではなく、彼にとって不利に展開した歴史的状況とリフフド家の陰謀によって倒れたのである」[928] 。
しかし、メドヴェージェフは直ちに処刑されたわけではなく、当初は彼を総主教に引き渡され、教会裁判にかけられた。1690年1月、公会議が開かれたが、I・シュリャプキンが極めて正しく指摘しているように、それは「厳密には公会議ではなかった」。というのも、その議事にはわずか4人の主教と総主教しか参加していなかったからである。 メドヴェージェフは修道士としての資格を剥奪され(彼は修道司祭であった)、終身刑を宣告され、彼の著作『マナ』は焼却された[929] 。この判決にもかかわらず、世俗の権力はメドヴェージェフを処刑に付し、彼は2月11日に処刑された。 シュリャプキンは、おそらく十分に正当な根拠に基づいて、この出来事はヨアキムの介入なしには起こり得なかったと考えている[930] 。
『オステン』誌には、「元修道士シルヴェストル・メドヴェージェフに関する記事」が掲載されており、そこに彼の『悔悛の告白』が添付されている[931] 。 この「悔悛の告白」が本当にメドヴェージェフ自身によって書かれたものかどうかは不明である。メドヴェージェフの支持者として同じく教会裁判にかけられたサヴァ・ドルゴイの「悔悛」とは異なり、この文書には彼の署名がない; 自身の神学的見解に対する厳しい非難、聖体変容の時期に関する正教の教義の受容、そして最後に、あれほど熱意と確信を持って執筆された自身の著作への呪い――これらすべてが、読者に疑念を抱かせる。 おそらく、「告白」は、パトリアルヒの代表者たちがメドヴェージェフの独房を訪れ、彼に信仰放棄を迫った際に、彼に読み上げられたのだろう。彼らは彼の余命が限られていることをよく知っていたため、「告白」は署名なしのままにしておくこともできた。ヨアキムとエフフィミイにとって、この「告白」はまさに必要不可欠なものだった。 ヨアキムにとっては、それがメドヴェージェフの支持者たちへの打撃となったからである。彼の殉教的な死は、彼らの目には彼の信念の正しさを裏付けるものにしか映らなかったが、今やこの「告白」は、彼の神学的な論拠のすべてを無効にしてしまったのだ。 エフフィミイにとっては、それは「正教会派」の正しさを裏付けるものであり、論争に参加して負った労苦に対する一種の報いともなり得た。
メドヴェージェフの『告白』は、「ラテン派」の立場を揺るがす一助となった。というのも、キエフ都主教区の一部の司教たちは、公然と、あるいは密かにメドヴェージェフの神学的見解に賛同していたからである[932] 。また、モスクワの司教団においても、状況は単純ではなかった。 一方、ホルモゴル大司教アファナシイ は、すでに言及した著作が示す通り、明確に「正教会派」の側に立っていたが、カザン都主教アドリアン(後の総主教)や、 ヴィソコペトロフスキー修道院のアルヒマンドリト(後にノヴゴロド都主教となる)の立場は、もちろんアルヒマンドリト・ガブリエルとイェロディアコン・ダマスキンの指摘(前者は「ラテン派」、後者は「正教派」に属していた)[933] を信頼できるとすれば、必ずしも明確ではなかった。 「正教会派」を断固として支持していたのは、アルヒマンドリト・イグナティイ・リムスキー=コルサコフ(1692~1700年には シベリア都主教を務めた)が断固として支持しており、彼は『パトリアルヒ・イオアキムの生涯と遺言』を著した。この著作においてパトリアルヒは聖人として称えられており、著者はおそらく彼の列聖に向けた準備を意図していたものと思われる[934] 。両派の論争において中立的な立場をとっていたのは、例えば プスコフ都主教(1681–1690)およびカザン都主教(1690–1698)を務めたマルケルがいた。彼は教養豊かな人物で、ラテン語、フランス語、イタリア語に精通し、イオアキムの死後、総主教の座を争う候補者の一人であった[935] 。 リャザン都主教パヴェル(モラフスキー)(1681–1686)は、自身の教区の聖職者たちへの回状から判断するに、「ラテン派」の思想を共有していた[936] 。シモノフ修道院のアルヒマンドリト・ガヴリイル・ドメツキーも「ラテン派」に属していた。 当初は表舞台から遠ざかっていたが、メドヴェージェフの処刑後、イヴェルスキー修道院に転任した。 1704年、ドメツキーはノヴゴロドのユリエフ修道院(イオヴ都主教の管区内)を統括しており、その頃、彼は『105の質問』という著作を執筆した。その中で彼は、聖体の変容に関するローマ・カトリックの教義を擁護している。 チュドフ修道院の修道助祭ダマスキンによる著作『ドメツキーへの105の回答』は、聖体の変容の時期をめぐる論争に終止符を打った[937] 。
「ギリシャ派」、すなわち「正教会」と、「ラテン派」、すなわち「西方教会」との間の論争は、17世紀最後の四半世紀において極めて特徴的なものであった。メドヴェージェフの見解や著作が、疑いようもなく、教会生活に一定の影響を与えたことは間違いない。この影響の原因は何だったのだろうか? それは、カトリック主義がモスクワ・ルーシの教会生活に浸透したことによるものだったのだろうか?それによって、教会間の統合に向けた新たな可能性は生まれたのだろうか?最後の問いに対しては、断じて「否」と答えることができる。 仮にローマ・カトリック教会の神学的教義の一つが受け入れられたとしても(メドヴェージェフとその支持者たちが勝利し、彼らの見解がすべての人々に受け入れられ、上層部からも承認されたと仮定しても)、それでもなお、他にも多くの問題を解決しなければならなかっただろう。 さらに、ペトル大公が明らかなプロテスタントの影響下にあり、ローマ・カトリック教会を特に好んでいなかったことを忘れてはならない。17世紀後半の分裂の結果、あらゆる宗教的問題は極めて鋭く、痛ましい性格を帯びるようになった。 「ラテン派」は南ロシアの教会的影響によるものであり、小ロシアには「転移説」というカトリック教義の支持者が多くいたものの、ローマ・カトリック教会に対する敵意はあまりにも強かった。例えば、ラザール・バラノヴィチはカトリック教義に賛同していたが、ローマ・カトリック教会の断固たる反対者であった。 まさに南ロシアから、カトリックの影響と同時に、反カトリックの論争文学もモスクワに流入していた。前者は統合を促進する要因と見なせる一方で、後者は当然ながら、それに抗う手段であった。
メドヴェージェフとその支持者たちの活動や思想は、まったく別の観点から捉えるべきである。それは、モスクワ・ルーシの精神世界に、まったく新しい思考体系が浸透したことに他ならなかった。17世紀後半、とりわけニコライ改革期の激動を経て、モスクワの保守主義はもはや、その硬直した不動の状態にとどまることはできなかった。 西欧からの影響は、16世紀半ばにプロテスタントの影響がバシュキンやコソイの批判精神を育んだのと同様に、批判的思考の台頭を促した。そして、「改訳」をめぐる問題――とりわけそれに対する意見の相違ゆえに――は、新しく、成長しつつあり、解放を求める思考様式に、初めて実践的な応用機会をもたらしたのである。 まったくの偶然により、この問題は教義的なものとなってしまった。メドヴェージェフにとっては――もちろん、彼の反対者たちにとってはそうではないが――これは教義的な問題ではなく、科学的な 問題であったと言っても間違いではないだろう。メドヴェージェフは、正教会の教義がローマ・カトリックほど体系化されていないことに気づいていた[938] 。 それゆえ、著作『真の知らせ』は彼にとって特に特徴的なものである。メドヴェージェフの伝記においては、一方ではロシアの学術的神学の源流を探る必要があり、他方では、それはロシアの批判主義の歴史における一章を成しており、探求と不満を伴うロシアの気質と思考の恒常的な特性を体現している。 メドヴェージェフは、新しい、ピョートル時代のロシアという歴史の舞台において、よりふさわしい存在だっただろう。そこでは、彼の教養、知性、そして探究心にふさわしい役割を見出し、ピョートルの改革における側近の一人となることができたはずである。 メドヴェージェフの死に間違いなく責任のあるイオアキムは、ピョートルから将来の同志の一人を奪ってしまった――おそらくは、西側からモスクワ・ロシアに浸透してきたあらゆるものに対する憎悪と嫌悪から、意図的にそうしたのかもしれない。
17世紀は、ロシア国家にとってもロシア正教会にとっても「困難な世紀」であった。その幕開けは「大動乱」であり、終焉は分裂とペトロの改革の嵐であった。 「スモータ」は、新たな国民的・国家的自覚を生み出した。従来の身分に基づく自覚は根底から揺さぶられ、政治的・社会的激変の結果として、真に国民的な自覚が誕生した――ついに国家と国民の主要な課題が認識されるようになったのである。 スムタの影響は、荒れ狂う海のような17世紀全体を通じて感じられた: 政府の経済的・財政的苦境、民衆の動乱、数多くの地方議会、政府による国家生活の各方面の改革、あるいは少なくともいくつかの改善を導入しようとする試み、15~16世紀にすでに提起されていた国家的課題を解決すべきであった近隣諸国との戦争、そして最後に、 国の生活への絶え間ない西洋の影響の浸透――それは、古くから定着した人々の習慣や世界観を伴う旧来のモスクワの生活様式、さらにはモスクワ文化の構造そのものを蝕んでいた――これらすべては、わずか100年という期間にとっては、おそらくあまりにも多くの出来事だった。 これらすべての現象の背後には、将来のピョートル改革の萌芽が潜んでいたが、それでもなお、ピョートル時代のロシアは大きな苦難の末に誕生したのである……[939]
この「困難な世紀」におけるロシア正教会の生活もまた、平穏なものではなかった。それは、教会がこうした状況下で存続せざるを得なかったからだけでなく、政治的・社会的動乱が、キリスト教教会の内部体制や聖職者たちにも無傷では済まなかったからでもある。 聖職者の精神状態や世界観は、かつての堅固さと明快さを失い始めていた。16世紀にはまだ疑念など存在しなかった。後のロシアの宗教的模索の先駆者であるバシュキンやコソイは、その時代には異色の存在であった。 非所有者たちによる批判は、疑念からではなく、改革への健全な志から生じていた。 しかし、スモウタ(動乱)の後、「モスクワは第三のローマ」という思想は、かつての鮮明さや並外れた魅力を失い、国家的・宗教的理想でなくなる。なぜなら、政治的・社会的激動がその思想を無傷で通り過ぎることはなかったからである。 ある意味で、17世紀はこの思想に対する試練の時代であり、それが実際にどこまで実現可能か、そのすべてが何ら変化することなく残されるべきなのか、この思想のすべてが間違いなく正しいのかという検証の時代であった。 同時に、すべてのものが等しく宗教的な意義を持つのかという疑念が高まり、何が永遠かつ不変であり、何が一時的で変化しうるものなのかを理解する必要があった。こうした疑念や疑問は、教会の上層部だけでなく、その他の聖職者たち、さらには信徒たちまでもを揺さぶった。
聖職者階級は、現状を維持するための措置を講じるか、過ちを是正するかという間で揺れ動いている。一方では、第1四半期のように、 フィラレート総主教の時代も、最後のイオアキム総主教の時代も同様である――他方で、明らかな西欧の影響下にある学者たちを南ルーシから 招き入れざるを得ず、さらに、この一世紀を通じて様々な改善や是正に取り組まざるを得なかった。 したがって、教会の上層部が常にまっすぐな道を歩んできたわけではないのも不思議ではない。その仲間には「モスクワは第三のローマ」という思想を揺るぎなく信奉する者が多くいたが、この思想のために粘り強く闘う覚悟があった上層部はごくわずかであった。 そのため、決定的な局面において、「モスクワ=第三のローマ」というイデオロギー全体ではないにせよ、少なくともその個々の要素のために、確固たる信念を持って粘り強く戦ったのは、教会の上層部ではなく、下位の聖職者や大勢の信徒たちであった。 そして、これが起きたのは、上層部がこれらの要素を何らかの形で変更・改良しようとしたからだけでなく、まさにこれらの要素こそが、民衆の宗教的感情にとって大切なものだったからである。
典礼生活は、その時代の宗教性の中心であった。それは教義的意識や教義の知識に取って代わり、そこには民衆の信仰のすべてが込められており、信者の心の最も繊細な部分であった。 教義に関する知識が不十分であったにもかかわらず、モスクワの正教徒は、心の中で深く親しんでいた長い礼拝の内容をよく知っており、祈りの言葉や礼拝の儀式も熟知していた。 宗教的儀式は信者の心に容易に根を下ろし、教義よりも理解されやすいものである。とりわけ、教会や教会の階層がその保存に心を砕いている場合にはなおさらである。 ところが、教会の階層が、民衆の宗教心にとってこれほど大切な儀式を変えようとしたとき、次のような疑問が生じた。「このように振る舞う教会の階層は、誤った破滅的な道に踏み込んでしまったのではないか。その措置は背教や異端へとつながるのではないか?」こうした疑問が提起されたこと自体が、多くの同時代人の宗教的意識に衝撃を与えた。 このように、教義に対する知識の不足と、儀式や教会の慣習の重要性の過大評価の結果、本来は全く異なる二つの事柄の間に密接な結びつきが生じてしまった。 儀式の是正は信仰の変更と見なされ、信仰への裏切りとして非難された。この宗教的・心理的な土壌の上に、ロシア国民にとって運命的な17世紀の教会大動乱――いわゆる「分裂」――が生まれたのである。 一方、パトリアルヒ・ニコンの自身は、礼拝書の改正(彼の命令によって行われたが、彼自身が考案したものではない)のために断固として戦ったが、それはこの改正の必要性を原則的に認めたというよりも、むしろ自尊心と傲慢さによるものであった。
教会書の改訂や一部の礼拝儀式の変更に関するニコンの措置は、本質的に何ら新しいものを含んでおらず、それらは、彼の前にすでに実施されていたか、あるいは将来実施されるはずだった、一連の同様の措置の長い連鎖における最後の環に過ぎなかった。 ニコンの行動はあまりにも粗暴かつ過激であったが、それは差し迫った必要性によるものではなく、むしろ彼の性格に起因するものであった。彼はそもそも、自身の信徒たちの宗教的な精神を十分に理解していなかった。それゆえ、彼の「改革」は破局を招き、ロシア正教会に癒えぬ傷を負わせ、その信徒の一部を教会から離反させてしまったのである[940] 。 分離した一派(自らを「スタロヴェール」と呼んだ者たち、あるいは公式教会が長きにわたり「分裂派」と呼んだ者たち)が は、母なる教会から離れた状態であったため、ロシア正教会の主要部分にも影響を及ぼさざるを得なかった。なぜなら、その精神的力は、本来の職務の遂行から大きく逸れ、分裂との闘いに注がれていたからである。
ルーシのキリスト教化後、礼拝を行うために必要な書物や、典礼そのものは、ギリシャ人や南スラブ人から借用された。 長年の使用により書物は使い物にならない状態となり、新しい書物は古いものを書き写すことで作成されたが、主に修道士であった写本者たちの教育不足により、書き間違いや誤りが生じる結果となった。個々の写本者の発案によって行われた書物の訂正は、欠陥の数をさらに増やすこととなった。 その時代にさかのぼる聖書の写本でさえ、互いに 大きく異なることがしばしばあった。 さらに事態が深刻だったのは、礼拝用書物――『礼拝書』、『ティピコン』(典礼規則)、『トリオディ』、『時課書』、『オクトイコス』など[941] ――であり、誤りや異読は、礼拝の儀式そのものにも、その解説部分にも見られたからである。 ここで重要なのは、常に同一の典礼規則が用いられていたわけではなく、すでに指摘した通り(第VIII章)、当初適用されていたストゥディオス派の典礼規則が、後にエルサレム派の典礼規則に置き換えられたという事実である[942] 。参考とすべきギリシャ人やスラブ人の礼拝実践においても、統一性は見られなかった。
礼拝書に紛れ込んだ誤りを訂正しようとする最初の試みは、すでに14世紀、アレクシオス(1354–1378)およびキプリアノス(1390–1406)の両大主教の時代に試みられていた。 しかし、15世紀には、その後の聖書訂正の歴史に悲劇的な様相をもたらす二つの出来事が起きた。それは、フィレンツェ公会議(1439年)とコンスタンティノープルの陥落(1453年)である。 これらの出来事の結果、モスクワではギリシャ人の信仰の純粋性に対する疑念が生じた。その後、教会書の訂正にあたってはギリシャの書物が基礎とされたものの、それでもなお、これらの書物を完全な「正教」とは見なさない人々の声も聞かれた。 ギリシャ人の修道士マクシムが書物の改訂を任された際、彼はロシアの教会書物をギリシャ語のものと照合して、多くの重大な誤りを発見した。彼の見解によれば、それらの誤りのいくつかは、ほとんど異端的な色合いを帯びていたという[943] 。 「モスクワは第三のローマ」という思想の擁護者たちにとって、このような主張はまったく信じがたいものであり、このギリシャ人学者自身も異端的な思索を働かせたとして非難され、 さらに、ヨシフ派に傾倒するダニイル都主教による陰謀も加わった。彼にとって、マクシムと修道士であるヴァッシアン公との緊密な関係は、かねてより目の上のたんこぶとなっていたのである。 1525年および1531年の公会議は、マクシムに対するすべての告発(その大部分は根拠のないものだった)を検討し、彼を修道院への幽閉に処した[944] 。
百人公会議は、一部の礼拝儀式が場所によって異なる形で執り行われていることを認めざるを得なかった。 若きツァーリ・イワン自身も公会議で次のように述べた。「今や我々は、神の定めに加え、多くの教会儀式が完全に執り行われておらず、聖なる規則や定めに従っていないことを目にして耳にしている」[945] 、そして公会議はツァーリの主張に同意した。 ストグラフは、良質な翻訳に基づいて教会書を修正することを決定したが、それらの良質な翻訳をどこから、どのように入手するかについては何も言及されず、何より、そのための具体的な措置は何も講じられなかった。 ストグラフ公会議の後、モスクワに印刷所が開設され、教会書の写し書きの際に生じる誤りを回避できるようになったものの、実際にはテキストの訂正には何の効果もなかった。というのも、最初の印刷本はすでに誤りを含んでいた写本に基づいて出版されたためであり、 ある意味では、書籍の印刷はむしろこの取り組みに悪影響を及ぼした。なぜなら、その後、初期の印刷本は誤りのない基準として見なされるようになったからである。
教会記録の訂正に向けた最初の体系的な試みは、17世紀初頭に行われた。 1617年、この目的のために特別委員会が結成された。そのメンバーには、トロイツェ=セルギエフ修道院のアルヒマンドリト・ディオニシイ、ギリシャ語を比較的よく習得していた修道士アルセニー・グルホイ、修道士アントニー・クリロフ、そして司祭イワン・ナセドカが含まれていた。 1年半にわたる作業の末、この委員会は『礼拝書』を訂正すると同時に、他の礼拝書にも誤りが含まれているという結論に達した。しかし、ディオニシイの運命は、マクシム・グレクの運命と同様に悲惨なものとなった。 彼自身とその助手たちに対して、異端的な修正を加えているという告発がなされたのである。というのも、主の顕現の祝日(1月6日)における聖水祝福の儀式において、聖霊への祈りから「そして火によって」という言葉を、後世に追加された意味のない挿入句として削除していたからである。 この問題を審議した1618年の公会議は、その修正が正しいか誤りかを判断するために必要な資料を保有していなかった 。反対派や中傷者たちの熱意が勝ったのである。 全く無実であったディオニシウスとアルセニウスは、修道院への流刑を免れることはできなかった[946] 。幸いなことに、当時モスクワにエルサレム総主教テオファンが到着し、新総主教フィラレートに、ディオニシウスによる訂正が正しいことを納得させた。 1619年の公会議は、この不幸な人物を無罪としたが、「そして火によって」という挿入文は『典礼書』に残ったままであった。1626年になってようやく、エルサレムおよびアレクサンドリアの各総主教からモスクワ総主教フィラレート宛てに送られた書簡により、この挿入文が『典礼書』から削除されることになった[947] 。
フィラレートは教会書の訂正の必要性を認めていたものの、この問題には極めて慎重かつ遅々とした態度で臨んだ。1610年に印刷され、後に多くの誤りを含む書物であると認められた『礼拝規程』は、フィラレートの命令により使用禁止となり、焼却された。 フィラレートの治世下では、いくつかの書物が訂正された――これには、相変わらず修道士アルセニー・グルホイや司祭イワン・ナセドカらが携わっていた――そして、訂正された書物は印刷された。 しかし、多くの誤りを含んでいた旧版の書籍は回収されず、特に辺鄙な僻地などでは依然として使用され続けていた。当然のことながら、これは一部の祈祷文や礼拝儀式において不統一を招くこととなった[948] 。 イオアサフ総主教(1634–1641)およびヨシフ総主教(1642–1652)の時代には、ほぼすべての礼拝用書物が印刷されたものの、校正担当者の能力は不十分であり、この時代の出版物には多くの誤りや解説の不明確な箇所が含まれている。特に1633年の『ウスタフ』にその傾向が顕著である[949] しかし、最も重要な点は、モスクワではニコン総主教の以前から、書籍の訂正が絶対的に必要であることは認識されていたにもかかわらず、残念ながら、この作業に着手するにあたっては消極的で、非常に優柔不断であったということである。というのも、モスクワにはこの作業に備えて十分な教育を受けた人材が不足しており、彼らはまず第一にギリシャ語を熟知していなければならなかったが、 さらに、彼らには最も必要な資料さえ手元にありませんでした。1649年5月、アレクセイ皇帝はキエフ都主教シルヴェストル(コッソフ)に対し、「聖書をギリシャ語からスローヴェン語に校訂するための教師」をモスクワに派遣するよう強く要請しました[950] 。
まさにその頃、モスクワに3人の修道士――アルセニー・サタノフスキー、ダマスキン・プティツキー、エピファニー・スラヴィネツキー――が到着し、彼らは聖書の校訂作業において重要な役割を果たした[951] 。
1652年4月15日、総主教ヨシフが死去し、後任の総主教ニコンの下で、教会書の訂正の歴史は新たな段階に入った。
ニコンは農民の息子であり、1605年にニジニ・ノヴゴロドで生まれ、洗礼の際にニキタという名を与えられた。母親は出産直後に亡くなり、ニキタは継母に育てられたが、継母は子供を粗末に扱ったため、彼の幼少期は決して楽なものではなかった。 おそらく、その幼少期にすでに、彼には強い意志が培われていたが、それは時折、神経的な弱さに屈し、後年、彼の行動に頻繁に現れることとなった。 「ニコンは」とV・O・クリチェフスキーは記している。「恐ろしい痛みを冷静に耐え抜く一方で、ピンで刺されただけでうめき声を上げ、絶望に陥るような人間の一人だった。彼には、強靭だが忍耐力に欠ける人々がしばしば抱える弱さがあった。すなわち、彼は平穏な日々を退屈に感じ、辛抱強く待つことができなかった。 彼には常に動揺や、大胆な思想や壮大な事業への熱中、あるいは単に嫌な相手との口論でさえも必要だった。それはまるで、嵐の中でこそ本来の姿を見せ、凪の時にはマストの上で無力なぼろ布のようにたなびく帆のようだ」[952] 。 ニキータは体格が良く、堂々としており、才能に恵まれ、旺盛な好奇心を持つ人物だった。彼は非常に早い時期に読み書きを習得しており、それは彼の後の言葉や説教、そして現代まで残されている数少ない 著作によって裏付けられている。 読書――当時の書籍のほとんどは宗教的な内容であった――は、彼の精神的成長に一定の方向性を与えた。彼は修道士となるため、ジェルトヴォドスキー修道院に入所した。しかし、父親がその決意を思いとどまらせ、ニキータは実家に戻った。 20歳の時、彼は結婚し、司祭となった。そのための十分な読み書きの能力はすでに備わっていた。当初は田舎の教区で奉仕し、その後、推薦を受けてモスクワの教区に赴任した。自身の生活への不満、そして3人の子供全員の死が、ニキータ神父の思いを、かつて抱いていた修道士になるという志へと向かわせた。
彼は妻を説得して修道院へ入らせ、自身は北へと向かい、そこで、厳格な修道士エレアザル(すでに言及した人物)のスキートで、修道士の剃髪を受けた。しかし、ニコンは、禁欲的な修行の道に全身全霊を捧げられるような人物ではなかった。 一方、エレアザルは隠遁所を極めて厳格に統率し、弟子たちに対し、長老の精神的指導への完全な服従を要求していた。長老エレアザルとの不和の後、ニコンは隠遁所を去り、コジェエゼル修道院に入った。これはおよそ1639年から1640年にかけてのことである。3年後、修道院の兄弟たちは彼を院長に選出した。
1646年、ニコンは自身の修道院の用事でモスクワを訪れ、若く、感受性が豊かで、極めて敬虔なツァーリ・アレクセイに紹介され、アレクセイは彼と何度か会話を交わした。 イグメン・ニコンの全貌――その堂々とした風格、威厳ある姿、雄弁さ、強い意志、力強い顔立ち――これらすべてがアレクセイに大きな印象を与えた。本来、穏やかで物静かな性格であったツァーリは、精力的な人々を周囲に集め、国家や教会の要職に就かせる傾向があった。 ニコーンが皇帝に与えた印象は、おそらく非常に強かったため、後に、成人した皇帝と総主教の間で論争が勃発した際、アレクセイは長い間、ニコーンに断固として反対する決心がつかなかった。皇帝の意向により、ニコーンは皇室と親しいモスクワのノヴォスパスキー修道院のアルヒマンドリトに任命された。 敬虔なアレクセイはこの修道院を頻繁に訪れ、特にニコンが執り行う荘厳な礼拝に出席することを好んだ。その荘厳さは、ツァーリの好みに大いに合っていた。ニコンは彼と頻繁に会うようになり、毎週ツァーリの宮殿を訪れ、ツァーリのために早課を執り行い、彼と長い会話を交わした。 ニコンはこうした面会の機会を利用して、当局から不当な処罰を受けた、主に庶民である様々な人々への恩赦を皇帝に請うことがしばしばあった。事案を明確に説明したこれらの請願は、若き皇帝の理解を得ただけでなく、感受性の豊かなアレクセイの心を深く動かした。 皇帝のニコンに対する信頼と宮廷における彼の影響力は日増しに高まり、同時にノヴォスパス修道院のアルヒマンドリトの人気もモスクワ市民の間で高まっていった。
1649年、由緒あるノヴゴロドの主教座が空席となり、ニコンはノヴゴロド都主教に任命された。彼は自身の教区を、精力的に、威厳を持って、独断的に統治した。総主教本人よりもさらに多くの栄誉と特権に恵まれたニコンは、ここでまさに教会の君主として統治した。 修道院局の設立に際し (1649年)際、ニコンは当時まだアルヒマンドリトであったが、関連文書に署名した――後に彼が説明したように「やむを得ず」のことではあったが、彼はそのような局の存在を是認していなかった。なぜなら、彼の言葉によれば、それは「聖なる福音書、聖なる教父たちの規則、そしてギリシャの王たちの法律に、あらゆる点で反する」ものだったからである。 彼は1649年の『法典』を「不法な書物」と呼び、修道院局の布告を悪魔的であるとさえ述べた[953] 。彼の治世下、ノヴゴロド都主教区はあらゆる事案において修道院局の管轄権から解放され、法典に反して、ツァーリは都主教に数多くの領地を授けた[954] 。 ノヴゴロドにおけるニコンの活動は、彼がすでにそこで、教会生活における様々な欠陥を是正するための改革に傾倒していたことを示している。
彼とツァーリとの親交は続いた。ニコンはモスクワを訪れ、ツァーリと書簡を交わし、ツァーリは強い性格の持ち主であるニコンに精神的に完全に服従していた。1650年のノヴゴロドの反乱の際、ヴォエヴォダ・ヒルコフが動揺した中、まさにニコンこそが気概と意志を示した。 ニコンがソロヴェツキー修道院を訪れ、そこから聖フィリッポスの聖遺骨をモスクワへ移送する予定だった際、ヨシフ総主教が死去し、モスクワでは誰もが、ツァーリのお気に入りであるニコンが新たな総主教になることを知っていた[955] 。
その在位期間――短かったが激動の時代――において、ニコンは二つの問題を解決しようと努めた。 第一は、礼拝用書物の改訂であり、第二の問題は、ツァーリと総主教の間の複雑な個人的関係、より正確には、国家と教会の関係に関する後者の原則的な見解と前者の伝統的な見解との対立から生じたものであった(第X章参照)。 この問題については、ここでは詳しく取り上げることはできない。第一に、それが本稿のテーマに合致しないこと、第二に、世俗権力と宗教権力との間の論争には長い前史があり、それを詳述するにはあまりにも多くの紙幅を要するからである。 しかし、ここでは、N・カプテレフが4年にわたる研究に基づいてまとめ、当時かなり激しい論争を巻き起こした、パトリアルヒ・ニコンの人物像、その思想および活動に関する簡潔な特徴付けを読者に提示したい[956] 。いずれにせよ、この特徴付けは正しいものである。
「教会改革者としてのニコンは」とN・カプテレフは指摘する、「アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝によって作り出された存在であり、彼は自身の教会改革活動において、単にそのプログラムを実行していたに過ぎない。 ニコン自身は、一時は自身の教会改革活動に深く没頭していたものの、それを自身の総主教職における主要な任務とは決して考えておらず、そのため総主教の座を去った後は、もはや全く関心を示さなかった…… ニコンの総主教職の真髄、すなわち彼自身が総主教職の主要な任務でありその全意義と見なし、総主教の座に就いている間、絶えず粘り強く目指し、総主教の座を去った後もたゆまず情熱を注いで戦ったもの、 ――それは、当時国家権力が教会権力を支配していたため、単に教会権力を国家権力から解放するだけでなく、彼が擁護していた「聖職は王権に優る」という立場を確立することにあったのである」[957] 。
それ自体は正しい考えであったその理念に没頭していたため、ニコンには、聖書の訂正作業における細部をじっくりと検討する時間がなかった。概して言えば、ニコンが純粋に教会的、あるいは宗教的・道徳的な観点から、この訂正の必要性と妥当性をどの程度認識していたのかは、まだ明らかではない。 N・カプテレフの研究によれば、実際にはニコンは、彼の時代に起こった聖書改訂の主導者ではなかったことが証明されている。ニコンは聖書改訂の事業を継続せざるを得なかったが、この「やむを得なさ」こそが彼の性格に反しており、この事業に対する真の関心を彼の中に呼び起こすことはできなかった。
外見上、ニコンが書籍の修正措置を極めて厳粛に演出したことは否定できない。おそらく、この「厳粛さ」は、せっかくこの事業に時間を費やさなければならない以上、彼に多少の満足感を与えていたのだろうが、内心ではこれらすべてが彼にとって異質なものだった。 これこそが、「改革」の実施における性急さ、反対者の意見を完全に無視したこと、施策の実施における粗暴さ、そして反対者に対する過酷な措置を説明するものである。 この闘争において、ニコンは自身の気質の全容と一貫性を露わにした。改革に対する抗議を、彼は自分に対する個人的な敵意として受け止めた――この点において、ニコンは部分的に正しかったと指摘しておく必要がある――そしてそこから(同時代人というよりはむしろ後世の人々において)、彼が改革の事業に全身全霊を捧げていたかのような錯覚が生まれたのである。 この特質が、ニコン時代の聖書改訂の全歴史に劇的な色合いを与え、悲劇的な結果をもたらした[958] 。
私たちの目的は、分裂の歴史を詳細に述べることにない。私たちにとって重要なのは、抗議の波やニコンの改革に対する闘争において、修道院がどのような役割を果たしたかを示すことだけである。したがって、 ここでは、分裂の歴史と、改革に対する抗議における修道院の関与について、ごく簡潔な概説を読者に提示するに留める。
1652年7月25日、ニコンは盛大な式典をもってモスクワ総主教の座に就いた。ヨシフ総主教の時代から進められていた礼拝書の改訂作業は継続された。キエフから到着した修道士エピファニー・スラヴィネツキー、 アルセニー・サタノフスキー、ダマスキン・プティツキーといった修道士たちが照合作業を続け、修道士アルセニー・スハノフは、1650年にすでに東方へ派遣され、ギリシャ教会の典礼を視察し、必要な資料(ギリシャ語の書物、写本など)をモスクワへ持ち帰る任務に就いていた。 1649年に印刷に回され、ニコンの時代に刊行された『コルムチャヤ』[959] と、1650年に印刷された『シェストデネフ』は、ギリシャ語の写本と照合された上で訂正された。 1650年末、ナザレトのガブリエル都主教がモスクワに到着し、エルサレム総主教からツァーリおよびモスクワ総主教宛ての書簡を携えてきた。ガブリエルは、モスクワの礼拝儀式における「相違点」について度々指摘を行っていた。 また、モスクワを訪れていたエルサレム総主教パイシイも、ロシアを去る前(1650年)に、ツァーリと総主教ヨシフに対し、「モスクワの相違点」について言及していた。 当時まだノヴゴロド都主教であったニコンは、ツァーリとの絶え間ない交流のおかげで、当然ながらギリシャ人たちのこうした見解を知っていた。ニコンは、元コンスタンティノープル総主教アファナシイ(1633年、1633年~1635年、 1651年)からも同様の非難を耳にしていた。アファナシイは1653年4月にモスクワに到着し、ニコンのために『[960] 』に収録された「東方における司教による聖体礼儀の執行の儀式』[961] を書き写すよう命じた。その荘厳さは、特にニコンの好みに合っていた。
ニコンは1653年の春、自身の改革に向けた第一歩を踏み出した。大斎の始まりに先立ち、彼はモスクワのすべての教会の主任司祭に対し、次のような指示(「記憶」)を出した。 四旬節の礼拝において特別な位置を占める聖エフレムの祈りを朗読する際、礼拝の動作を厳格に「聖使徒および教父たちの伝承に従って」行うこと、すなわち17回の礼拝動作のすべてを地面に額を付ける形式で行うのではなく、4回のみ地面に額を付け、残りは腰まで屈する形式で行うこと。 この最初の「ギリシャ式の革新」は、一部のモスクワの司祭たち、とりわけイワン・ネロノフ、アヴァクーム・ペトロフ、そしてコストロマ出身のダニイルといったプロトポプたちに大きな動揺を引き起こした。彼らの名前と活動は、分裂の歴史において極めて重要な位置を占めている。 プロトポップ・アヴァクーム([962] )は、この動揺を、何千回も引用されてきた言葉をもって、痛烈かつ鮮烈に表現した。「我々は集まり、考え込んだ」とアヴァクームは自身の『自伝』に記している。「冬が迫っているのが見え、心は冷え切り、足は震え出した」。
ニコイア派の革新に反対した初期のモスクワの反対者たちのこの精神的な動揺は長く続き、そこからまず絶望の気運が生まれ、やがて「古き信仰」のために血を流す覚悟で戦う決意へと発展していくのである。 ネロノフは、正教の信仰の守護者としてのツァーリに請願書を提出することを決めた。これは分裂派にとって極めて特徴的な傾向であり、世俗の権力に助け、支援、そして保護を求めることである。分裂派は、「モスクワは第三のローマ」という理念への忠誠を神聖なものとして守り抜いた。 後に彼らは、正教の王国に対するこの揺るぎない信仰を失い、帝国を異端であると非難することになる。彼らは、長い間自分たちにとって聖地であったこの地を離れ、失われた「Civitas Dei」 [神の都]]を取り戻すため、至る所で世界の終わりが間近であることを告げ広めながら旅立った。結局、この分裂は結束を失い、個々の流派に分かれ、異端の恐るべき増殖を招くことになる。
ネロノフの請願書と、それに続く著者との論争、そしてモスクワの聖職者たちによるネロノフへの支持[963] は、ニコンに、自身の活動 を、自分一人の名において行うのではなく、より適切な方法で行うべきだと確信させた。彼はツァーリに対し、公会議[964] を招集し、そこで礼拝の儀式や聖書の修正について議論するよう要請した。 1654年の春、王宮で開催された公会議には、ツァーリと総主教のほか、5人の大主教、4人の大司教、1人の司教、数人の大修道院長や修道院長、そして13人の首席司祭[965] が集まった。 ニコンは、教義上の意義を持たない一部の礼拝儀式における歪曲に関する問題を公会議に提起し、ギリシャのティピコンを引用して自身の提案を裏付けた。 公会議は、すべての礼拝儀式をギリシャのティピコンに準拠するように修正し、以後はその修正された形式で礼拝を行うことを決定した。書籍の修正についても同様の決定がなされ、これらの改革を実施するため、パトリアルヒ・ニコンに全権が委ねられた。 ただ一人の公会議メンバー、コロメンスキーのパウロ司教のみが、自身の署名に、大斎期間中の礼拝の作法に関する問題については公会議の決定に同意できないという注記を添えた[966] 。
コロメンスキーのパウロ司教は当初から、計画された改革に激しく反対していた――これが司教と総主教との間の個人的な意見の相違に起因するものかどうかは定かではないが[967] ―― ――彼は保守的な修道者たちの間で最初の犠牲者となり、その後、古儀式派の著作において聖人として称えられ、分裂の最初の殉教者と見なされた。パヴェルに対する過酷な処罰は、マカリイ・ブルガコフが著書『ロシア分裂史』(1855年)[968] で正当化しようとしているように、決して正当化することはできない。 パヴェルは司教の位から追放され、北方のパレオストロフスキー修道院へ流刑に処され、さらには古儀式派の著作に記されているように、ニコンの命令により鞭打ちの刑に処された。
これでニコンには、修正・再版された書籍が各教会に配布され、古いものが回収されれば、まもなく改革に反対する新たな勢力が現れることが明らかになった[969] 。 しかし、ニコンの聖書修正を継続するという決断は、1654年と1655年にモスクワを訪れたアンティオキア総主教マカリオスとセルビア総主教ガブリエルも、モスクワの「相違点」に関する自らの見解を彼に隠さなかったという事実によって裏付けられていた。 ニコンは、さらに一つの公会議を招集し、自身以外の2人の総主教の出席によって、自らの決定により大きな権威を与えることを決めた。東方諸教会の総主教たちが参加したこの公会議は、1655年3月25日から31日にかけて開催され、聖書の修正を継続することを決定した[970] 。
公会議の直後、1655年5月初旬、コンスタンティノープル総主教パイシオスの使節がモスクワに到着した。 彼は、ツァーリとニコン宛ての書簡に加え、1654年の公会議とその決議についてニコンから送られてきた報告を審議・承認するためにパイシオスが特別に招集したコンスタンティノープル公会議の議事録を持参した。 興味深いことに、この公会議はパヴェル司教の聖職剥奪を承認した。ニコンは、パイスィオス総主教への書簡の中で、 聖書や典礼の修正に関する自らの措置に合法的な根拠を持たせるため、26の質問を投げかけた。 パイシイは、これらの質問への回答、信仰告白の本文、「ハレルヤ」の唱和、三本の指による十字切りのしるし、およびいくつかの典礼儀式に関する解説を彼に送った。 ニコンにとって特に重要だったのは、ニカイア(正しくは:ニカイア・コンスタンティノープル。 – 訳者注)の不変性に関する公会議の解説付き『使徒信条』を手にすることだった。この信条には一言も加えることはできず、一言も削除することはできない[971] 。使徒信条の第8条から「真の」という語を削除する修正が、古儀式派から最も激しい抗議を引き起こしたこと[972] は周知の事実であり、それは分裂の教義的根拠のようなものとなった。 1655年の公会議とパイシイの書簡の直後、修正された『典礼書』と『スクリジャル』が刊行された。後者には、三指礼と『信仰告白』に関する2つの付録が添えられていた[973] 。
1656年4月、ニコンは書籍の修正に関する3回目にして最後の公会議を招集し、そこに臨席した8人の主教、 22人のアルヒマンドリト、9人のイグメンは、二指および三指の十字切符について最終的な裁定を下した。二指による十字切符は異端であると宣言され、二指で十字切符を行う者は、教会の教えに従っていないとして非難の対象となった。 この公会議の議事録は、『スクリジャル』に特別な章として収録された([974] )。
1656年の公会議は、いわば、ニコンの総主教在任中に実施された聖書と典礼の是正に関する最後の公式な措置であった。 このように、この期間は4年にも満たず、ロシアの分裂の前史と見なすことができる。この時にロシア正教会における分裂への姿勢が定まり、同時に最初の分裂支持者たちも現れたのである。 改革の最初の反対者たちに注目してみると、彼らのほぼ全員が「ベリイ」、すなわち修道院ではなく教区に属する聖職者の出身であり、パヴェル・コロメンスキー司教だけが修道院に属していたことがわかる。 概して言えば、ニコンの施策は、主にモスクワの聖職者という狭い範囲にのみ影響を及ぼしたと言える。一般大衆や聖職者、修道者たちは、その時点ではまだ非常に曖昧な形でしか反対の意思を示していなかった。 ニコンは依然として権力の絶頂期にあったが、彼の運命に転機が訪れたとき、改革に対する抗議運動が広がり始め、分裂はモスクワ公国の最も辺境の地にまで拡大していった。これは、ニコンの改革に反対する者たちがモスクワを離れ、全国で改革反対の宣伝活動を展開し始めたことも一因であった。
1658年7月10日、ニコンは自発的かつ独断的に総主教の座を去り、モスクワを離れた。こうして、事実上、彼のロシア正教会に対する統治は終焉を迎えた。この行動には、彼の気まぐれな性格が如実に表れていた。 とはいえ、ニコンが自身の権力を強化し、アレクセイ皇帝との関係を改善するために企てたこの行動は、結局、彼自身に対する打撃となってしまった。この行動は、過去2年間にわたり皇帝との関係が冷え込んでいたことの結果ではなく、むしろ、世俗権力と宗教権力の関係に関するニコンの見解の結果、あるいはその直接的な表れであった[975] 。
総主教の座を去ったニコンは、聖書の改訂をめぐるその後の歴史からは身を引いたが、ロシアの分裂の歴史からは抜け出せなかった。 むしろ、ニコンの影と彼の行いは、彼を反キリストあるいは反キリストの先駆者と見なそうとした敵対者たちを安らかにさせず、その活動ではなくニコンという人物そのものを主題とした数多くの著作が現れたと言えるだろう[976] 。 ツァーリとの不和は、聖書の改訂に関する彼の改革の肯定的な側面を著しく弱め、ある意味で分裂の深刻化に寄与した[977] 。
モスクワで形成された改革への反対は、ますます広範囲に広がっていった。 その反対運動は多岐にわたって現れた:1)論争的な著作の執筆、2)「ニコニアン書物」に対する頑なな拒絶、そして最後に3)教会および世俗の権力に対する公然たる闘争であり、これは特にソロヴェツキー修道院の修道士たちによる有名な反乱において顕著に表れた。 「古き信仰」を守るための、新刊の書物に対する闘争には、司教団と修道者たちが参加した――前者はそれほどではなく、後者はより積極的に。
パヴェル司教は、ニコンの改革が始まった当初から、これに公然と反対を表明したロシア正教会の最初の司教であった。ヴィャーツク司教アレクサンドル(1657–1674)も公然と抗議し、1656年の公会議の決議には署名したものの、数年後の (1663年)、ツァーリと司教座を去ったニコンとの間の関係が特に緊迫していた時期に、ツァーリへ長文の書簡を送り、その中でニコンと彼が着手した聖書の改訂を糾弾した。とりわけ、彼は「信仰告白」から「真の」という言葉を削除することにも異議を唱えた。1667年の公会議において 、アレクサンドルは自身の非難を撤回し、自らの見解が誤りであったことを認め、公会議の決議を受け入れた。とはいえ、彼の著作によって、主教団の保守主義と反体制的な気風が改めて示されたことは指摘しておく必要がある[978] 。アレクサンドルには、心の中ではニコンの改革に反対していた他の主教たち――例えば ノヴゴロド都主教マカリイ(†1663)やヴォロゴダ大主教マルケル(†1663)など――しかし、彼らは公然と抗議する代わりに、改革の実施を遅らせたり、現代的な表現を用いれば、それを妨害したりすることを好んだ[979] 。 この司教グループには、匿名で『ニコン総主教に対する告発』を配布したある司教も数えられる[980] 。
教区の主教たちが改革に対してこのような態度をとっていたため、改訂された聖書は確かに遠方の都市や修道院に届けられたが、それは聖職者や修道者たちがそれに基づいて礼拝を行うことを意味するものでは全くなかった。 ニコンを支持していたロストフのイオナ都主教は、教区の信徒たちに向けて数通の回状を送り、礼拝儀式の是正――例えば、聖水の祝福を主の顕現の祝日の前夜(1月6日)にのみ行うこと――を求めることを余儀なくされた。 キリロ=ベロゼルスク修道院の修道院長と修道士たちは、後に同修道院に流刑となったニコンを侮辱し屈辱を与えたが、彼らは管轄主教のこれらの指示に従うことを拒んだ[981] 。 17世紀後半を通じて、多くの修道院で「ニコニアン派の書物」に対する強い反発が繰り返し生じていたことは、教区主教たちによる数多くの書簡からも明らかである[982] 。ソロヴェツキー修道院のアルヒマンドリト・イリヤは、1654年の公会議の判決文に自ら署名したが、 しかし、彼は決してニコンの改革の支持者として修道院に戻ったわけではなく、死(†1659年)に至るまで、1658年7月8日の修道院公会議において、新しい書物を受け入れず 、古い書物に基づいて礼拝を行うことを決議した修道士たちと一致団結し続けた。 ソロヴェツキー修道院ほど断固としてニコンの改革を拒絶した修道院は他にありませんでした。
概して、反対派の支持者たちの見解は、落胆から宗教的狂信までさまざまであった。もっとも、後者は当時の宗教的意識の病であり、プロトポプ・アヴァクムだけでなく、パトリアルヒ・ニコンのにも見られたものであった。 コジェエゼル修道院のボゴレプ・リヴォフ長老は、当初からニコンの「異端的な」改正を拒絶し、自身の信仰の「純潔」を汚さないために、10年間にわたり修道院の告解司祭による告解を拒み、20年間聖体拝領を行わなかった――これは、そのような狂信に極めて典型的な行動であった[983] 。 このような事例は決して孤立したものではなく、その数は年々増加しており、これは1667年の判決以前にもすでに起きていたことである。 もう一つの例を挙げよう。アヴァクームと密接な関係にあった、ニジニ・ノヴゴロド近郊のボゴロディツキー修道院の厳格な修道士アヴラアミイは、それまで祈りと世俗からの完全な離脱に満ちた生活を送っていた森の小屋を離れ、 モスクワへと赴き、ツァーリに嘆願書を提出した。その書簡の中で、彼はニコンの改革を激しく非難していた。 彼は、パヴェル・クルチツキーとイラリオン・リャザンスキーという二人の大主教による説得が実を結ばなかったことを受けて執筆した『問答集』からも明らかなように、ニコンを「反キリスト」と呼んだ分裂主義者の一人であった。ニコンに対する同様の見解は、彼の他の著作、 『神を愛する者への手紙』や『反キリストの惑わしに関する書』[984] 。 プストゼルスクへ流刑となったアヴラアミイは、そこですでに現れた反キリストについて説教を行い、1681年、総主教イオアキムの命令により、志を同じくする狂信的な古儀式派信者たちと共に火刑に処された。 ニコンの断固たる反対者の中には、アルヒマンドリト・スピリドン・ポテムキン(†1663)も含まれており、彼は『正しい信仰に関する書』[985] という長大な著作を著した。
最も著名な分裂の扇動者には、さらに二人の修道者が名を連ねていた。彼らは互いに密接に交流していたものの、それにもかかわらず、極めて異なる人物であった。ティフヴィン近郊のニコルスキー修道院のイグメン、ドシフェイは、あらゆる革新に反対する最初の説教者の一人であった。 信仰の純粋さを守るため、彼は修道院を去り、ポヴェンツァ(北部)近郊の小さな隠遁地へと向かった。そこから(1685年頃)、彼は南のドン川流域のコサックたちの元へと向かい、そこでは分裂派に多くの支持者が集まっていた。 政府がドン川流域での分裂派への弾圧を開始すると、ドシフェイはドン川を離れ、しばらくして(1688年以降)北カフカースに姿を現し、そこで1691年頃に亡くなった。 ドシフェイは至る所で古儀式派の熱心な説教者であり、初期の古儀式派において最も権威ある人物の一人と見なされていたが、彼は宗教的狂信に反対し、それを非難していた。とりわけ、80年代に狂信的な分裂派の間で広まった焼身自殺をも非難していた。 彼は、焼身自殺者たちを信仰の殉教者として認めることを拒んだ[986] 。
これとは対照的な人物が、もう一人の分裂の指導者である修道士コルニリイであった。彼は古儀式派において最も権威ある指導者の一人であり、彼らから聖人として崇めさえされていた。彼の伝記は、古儀式派の著作の中でも最も広く読まれたものの一つであり、分裂の初期の歴史に関する重要な資料となっている。 15歳の時、コルニリイはコルニリエヴォ=コメルスキー修道院で出家し、そこで20年以上を過ごした。その後、彼は修道院から修道院へと放浪し、ついにモスクワにたどり着き、チュドフ修道院に入院した。 そこで彼は、パトリアルヒ・イオシフのもとで、次いでノヴゴロド都主教アフォニイのもとで、そして最後にニコンのもとでパン職人として仕えた。こうして彼はニコンと個人的に親しくなった。ノヴゴロドでは、先ほど言及したイグメン・ドシフェイと知り合った。 ノヴゴロドからコルニリイは再びヨシフ総主教のもとに戻り、修道院の牢獄の看守に任命されたが、この職には長く留まらず、まもなく普通の修道士としてチュドフ修道院に移った。聖書の改訂が始まった当初から彼はニコンに反対しており、ドシフェイと共にドン川へ逃れた。 3年後、コルニリイはドシフェイのもとを離れ、キリロフ修道院へ移った。そこでも改革に対する強い不満があったが、結局、新しい聖書による礼拝が行われるようになると、彼はニロフの隠遁地へ移った。当時、そこは改革反対派の拠点の一つとなっており、コルニリイはこの反対運動の最も活発な活動家の一人であった。 ニロフの隠修院を離れることを余儀なくされた彼は、ヴィグ川沿いの森へと逃れ、そこにはすでに多くの古儀式派の信奉者が集まっていた。コルニリイは古儀式派の指導者となった。彼は共同体の設立を祝福し、その共同体は後に分裂の歴史において「ヴィゴフ共同生活体」と呼ばれるようになった。 コルニリイは、その伝記によれば、1695年3月21日、生後125歳で死去した。狂信的な宗教性の温床となったヴィゴフ共同体は、労働と世俗からの離脱に関する極めて厳格な禁欲的規則に基づいて設立されていた。これは、コルニリイが自身の霊的子らに求めたものであった。 18世紀、ヴィゴフ共同体は「司祭なし派」の分裂において極めて重要な役割を果たし、この派閥の分裂指導者のほぼ全員がここから輩出された[987] 。
修道院側が「ニコニアン改革」や改訂された典礼書に反対した姿勢は、ソロヴェツキー修道院の修道士たちによる反乱において特に顕著に表れた[988] 。 この修道院の反乱ほど、分裂の拡大に寄与した出来事は他にない。これは、ロシア民族の教会史において極めて特異な一ページである。 何世紀にもわたり教会と国家の忠実な支援者であり、古モスクワの文化や世界観の形成において主要な役割を果たし、そもそも教会生活における主要な原動力であった修道院共同体が、突如として教会階層に対しても、国家権力に対しても公然と反対の姿勢を示したのである。 修道院の修道者たちは、その性質がどうであれ、常に民衆の目には絶大な宗教的権威を持っており、古ロシアの修道院は依然として民衆の宗教心と敬虔さの中心地であり続けていたことを忘れてはならない。 多くの修道院で多かれ少なかれ顕著に見られていた反体制的な気運は、ついにソロヴェツキー修道院の修道者たちの反乱という形で、凄まじい勢いで爆発し、これが修道院のその後の歴史にとって決定的なものとなった。 この反乱は、修道界全体がニコンの改革に反対していることを証明した。その後、修道院や修道士たちは「ニコニアン改革」を受け入れたものの、それはニコンの改革に対する内的な宗教的同意やその事業を継承するものではなく、表面的な服従に過ぎなかった。 改革の受け入れは、教会の権威というよりは、むしろ国家の力に対する屈服を意味していた。修道界によるこの外形的かつ強制的な服従は、ロシアの教会生活におけるその将来の役割に重要な影響を及ぼした。 修道界と国家、修道界と教会との間の新しい関係形態の根源は、我々の見解では、修道院を教会生活の二の次へと追いやったピョートル大帝の改革だけでなく、分裂の初期の歴史にも求めるべきである。 修道院は、もちろん以前と同様にロシア教会の懐にとどまったが、かつての内部の絆や緊密な相互支援は深刻な傷を負い、18世紀から19世紀にかけてもその傷を完全に癒やすことはできなかった。上述したことは、この期間における修道院生活がいわば麻痺状態にあったように見える理由も説明している。
ソロヴェツキー修道院で起こった出来事は、比較的緩やかに展開した。というのも、世俗の権力は断固たる措置を講じることに躊躇し、教会の権力は傍観を貫いていたからである。 反乱に対する措置の遅れは、修道院がモスクワから遠く離れていたこと、モスクワ当局が修道院内の実情を十分に把握していなかったこと、そして何よりも、これらの出来事に対するツァーリの個人的な態度によっても説明される。 1658年から1666年にかけては、総主教とツァーリの間の極めて複雑な対立の糸を解きほぐすことに費やされていたことを忘れてはならない。これは間違いなくモスクワの立場を弱め、修道院の立場を強固なものにした。 修道院側の立場の方が有利だったのは、モスクワが修道院の事情を知るよりも、修道院の僧侶たちがモスクワで何が起きているかをよりよく把握していたからである。スタウロピギア修道院として、直接パトリアルヒの管轄下にあった ソロヴェツキー修道院は常にモスクワに代表者を置いており、彼らは当然のことながら、モスクワの な世論や「ニコニアン改革」に対する反感、さらにはこれらの改革に反対する勢力が有力なボヤール家や、さらには王室の中にも存在することなどを、遅滞なく修道院当局や修道僧たちに報告していた。 一方、モスクワの政府は、修道院長の公式報告に甘んじざるを得なかった。1654年の公会議(彼はその決議に署名していた)の後、修道院に戻ったアルヒマンドリト・イリヤは、新しい典礼書による礼拝に移行するための措置を何一つ講じず、修道院では相変わらず古い典礼書を用いて礼拝が行われていた。 1658年7月8日、修道院の修道士たちは「ニコニアン聖書」を一切受け入れないことを決定した。
モスクワから修道院へ、ニコンの改革に反対する100人以上の反対派が流刑に処されたことで、反対の気運はさらに高まった。彼らは修道院に到着すると、火に油を注ぐような行動をとった。 流刑者の中には、プロトポプ・アヴァクームの熱心な支持者であるリヴォフ公や、ここで「反キリストの王国」に関する著作を執筆した修道士フェオクティストがいた。さらに、革新に反対していた多くの修道士たちがそれぞれの修道院を離れ、ソロヴェツキー修道院に集まってきた。 例えば、ニカノール修道院のイグメン・サヴィナもここに逃れてきたが、彼は後に反乱の主要な扇動者の一人となった。
しかし、改革の反対者は、もちろん修道院の兄弟たちの間にもいた。ニコンの最も影響力のある敵の一人が、修道士ゲラシム・フィルソフであった。彼は気性の激しい人物で、典型的な指導者であり、非常に有能で、神学的な教養も備えていた。 すでに1658年、ゲラシムは『兄弟への指を組むことに関する書簡』を執筆した。これは教会文献を用いて二指礼を正当化しようとする最初の試みであり、この著作は後に古儀式派の間で広く普及し、認められるようになった。 1666年の公会議でゲラシムは自らの信念を見直し、悔い改めを表明したが、それはおそらく誠実なものではなかったようである。しかし、この著作は古儀式派の間でその権威を維持し続けた。 ゲラシムはイオシフォフ修道院へ追放され、そこで公会議の決定に従い、自身の『兄弟への書簡』に対する反論を執筆することになっていたが、彼はおそらくそれを望まなかったためか、その執筆を先延ばしにし、1667年に死去するまでそのような反論を執筆することはなかった。[989]
1658年から1666年にかけて、モスクワとソロヴェツキー修道院の間、またモスクワと、修道院の修道士たちを諭すために特別に派遣されたアルヒマンドリト・セルギイとの間で、書簡のやり取りが続いた。修道士たちは、ツァーリ宛てに5通の「信仰に関する請願書」[990] を送った。 特に注目すべきは、1667年9月23日付の最後の請願書であり、そこには修道僧たちの宗教的見解が表明されていた[991] 。この請願書は、いわば、修道僧たちが新しい書物も、礼拝儀式の変更に関する指示も受け入れることができない理由について、詳細に説明したものであった。 その内容から見て、9月23日の請願書は、学術的・神学的な批判というよりは、むしろ終末論的な色合いを帯びたイデオロギーの展開であり、それは当時、ニコンの改革に反対する者たちの間で形成され始め、後に分裂派の宗教的世界観全体を特徴づけるものとなった。
この請願書には、反キリストが現れるべき「終わりの時」が近づいていると記されている。世界中で信仰が衰退し、至る所にキリスト教信仰からの背教者や裏切り者が現れているが、ロシアだけは最近までその信仰を汚れのない純粋な形で守り続けていた。しかし、ニコンとその弟子たちが現れた。 今や彼らは、モスクワ王国の正教徒たちに「未知の新しい信仰」を押し付けようとしており、「真の」古文書を改竄し、ギリシャの背教者たちから借用した修正を加え、礼拝に罪深い改変を導入した。 これらすべてを目の当たりにすると、キリストが再臨の前に信仰が薄れることについて語られた言葉を思い起こす。「まことに、あなたがたに告げる。まもなく彼らに報いが下る。しかし、人の子は来たる時、地上にこの信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)。 しかし、ロシアとその正教徒たちは、もし皇帝が、神に喜ばれた先人たちの例に倣い、「ニコイア派の革新」を廃止し、損なわれていない「古き信仰」を回復するならば、まだ滅びを免れ、真の道に立ち返ることができる。 ソロヴェツキー修道院の修道士たちは、1666年から1667年にかけての公会議の決定や誓約を認めない。なぜなら、この公会議は正統ではないからである。そこに参加した司教たちは、真の古き信仰から離反した「ニコニアン派」であったからだ。 修道院の修道士たちは、血を流すことになっても真の信仰に忠実であり、必要とあれば、自らの魂を捧げ、古き信仰の中で死ぬ覚悟がある[992] 。
この書簡の執筆者たちの霊的な視界には、「モスクワは第三のローマ」という思想が崩壊し、ひいては世界の終焉が訪れるという現実的な可能性が浮かんでいた。それは彼らにとって幻想ではなく、確固たる、揺るぎない確信であった。 モスクワ国家こそが純粋なキリスト教の最後の砦であるという思想は、民衆の意識に深く根を下ろしていた。そして、ニコンの反対者たちにとっては、その思想の提唱者である修道士フィロフェイ自身よりも、さらに説得力のあるものとなっていた。というのも、この思想が提唱されてから経過した期間の間に、 この思想は、私生活から文化・政治に至るまで、教会、国家、そして民衆の生活のあらゆる領域に浸透していたのである。アレクセイ皇帝自身、ニコン、そして1666年の公会議の司教たちは、心と知性のすべてをこの思想に捧げていた。 ソロヴェツキー修道院の修道士たちは、ただ一点だけ見落としていた。彼らはこの思想を純粋に宗教的なもの、あるいは宗教的な側面のみから捉えていたが、ツァーリやニコンは、ビザンツからの離脱を許さないこの教会・政治的な構造の複雑さをすべて見抜いていたのである。 この思想の内容に対する解釈における極めて微妙な違いは、単にツァーリやニコン総主教のギリシャ崇拝にあるのではなく、この思想が彼らにどのような位置づけを与えていたかという点に起因していた。彼ら一人ひとりが、この思想の守護者であり、砦であり、生命力の源であった――一人は正教会のツァーリとして、もう一人は教会の最高司祭として。 しかし、アレクセイ皇帝とニコンの間の論争は、彼らでさえこの思想を同じように解釈していなかったことを示した。 この思想における国家・政治的な要素は、当然ながら、アレクセイにとってはニコンよりも重要であった。ニコンは、その重要性を否定はしなかったものの、この思想の確立において、皇帝が彼に割り当てようとした、あるいは割り当てたかった役割よりも、より重要な役割を果たそうとしていたからである。
かくして、同じ思想であっても、三つの立場からはそれぞれ異なる見方がなされていた。アレクセイの立場は、東方総主教たちがツァーリの側に立ったことによって強固なものとなり、その正当性を見出した。もっとも、それは原則的な考慮というよりはむしろ実務的な配慮によるものであった。というのも、一方では、 1453年以降の国家と教会の関係という問題は、東方諸教会の総主教たちにとって、モスクワとは全く異なる意味合いを持っていた。他方、彼らは世俗権力の意志に逆らうことを望まなかった。その権力は、トルコとの戦いにおいて物質的にも外交的にも彼らを支援することができ、実際に何度も支援を行っていたからである[993] 。 1666年から1667年にかけての公会議の決定は、ツァーリが当然ながら完全に正教的かつ公正であると見なしていたものであり、ニコンとの論争において宗教的・道徳的な観点から彼を正当化するものであったと同時に、ニコンの改革を支持し、世俗権力の助けを借りてロシア正教会においてそれを実行に移す必要性を彼に確信させたのである。 アレクセイにとって、改革の初期、例えばアヴヴァクームをめぐる問題などで抱えていた疑念や迷いの時期は、もはや過ぎ去っていた。 20年にわたる統治(1646年から1666年)の間に、ニコンの影響下にあった若者は、その国家・教会・政治に関する見解がより明確かつ明快になった専制君主へと成長した。 もう一つ忘れてはならない点がある。それは、ツァーリに対する西洋の影響、そしてそれに関連して、国家には教養ある人材が不足しているという認識である。 ツァーリは、ニコンによる改革の実施を、神学教育における一定の成果の証左とも捉えていた。これは、「モスクワ=第三のローマ」という彼の観念と矛盾するどころか、その理念そのものに内的な完全性を与えていた。ここにこそ、なぜツァーリと分裂派の指導者たちが敵対関係に陥ったのかという問いへの答えがある。 これらすべてを簡潔にまとめると、おそらく次のように言えるだろう。双方が「モスクワ=第三のローマ」という同じ理念を掲げていたが、 しかし、アレクセイ皇帝がこの理念を、凝り固まった状態や麻痺したままではいられない生きた有機体として捉えていたのに対し、もう一方の側、すなわち分裂派は、この理念が宣言された当時の姿そのままに保存されることを主張し、それを活性化させようとする試みを背教と見なしていた。 これにより、国家権力は、行き過ぎたソロヴェツキー修道院の反対運動に対し、ついに措置を講じざるを得なくなった。
事態がさらに深刻化したのは、1667年5月13日の公会議の判決が、不必要なほど急いで下された上、政府の介入を正当化する内容であったのに対し、修道院の修道士たちは、改革への抵抗を今や「古き信仰のための殉教」と見なしていたからでもあった。 1667年5月13日の最後の会議において、公会議は極めて深刻な結果を招く判決を下した。すなわち、ニコンの改革は最終的に承認されただけでなく、それを受け入れなかった者たちは教会から破門され、呪われたのである。 1654年から1666年にかけて修正・印刷された礼拝書を受け入れるという断固たる要求に続き、 また、これらの書物のみに基づいて礼拝を行うよう要求された後、すべての修正点が明確に に記述され(これは誤解や誤りを避けるために行われた)、その誤った解釈が非難された上で、公会議の判決には次のように記されている: 「この我らの公会議の命令および遺言を、前述のすべての正教会の聖職者たちに伝達し、すべてを不変に守り、聖なる東方教会に従うよう命じる。もし、誰かが我らから命じられたことに従わず、聖なる東方教会およびこの聖別された公会議に従わない、あるいは我らに異議を唱え、反抗し始めたならば、 我らは、全聖なる生ける御霊より与えられた権威をもって、そのような敵対者を――もし聖職者であるならば――追放し、あらゆる聖職の務めと恵みから剥奪し、呪いへと委ねる。 もし世俗の身分に属する者であれば、破門し、父と子と聖霊から切り離し、異端者かつ不服従者として呪いと破門に付し、正教会の全共同体と群れ、そして神の教会から、腐敗した不要な肢体として切り離し、 「彼が悟りを開き、悔い改めによって真理へと立ち返るまで」[994] 。
この判決により、古信仰、あるいはより正確には古儀式派の信奉者たちは正教会から破門され、したがって、1667年5月13日はロシアの分裂の始まりと見なすことができる。
この判決の後、アレクセイ皇帝は、判決の正当性を認めなかったソロヴェツキー修道院の修道士たちに対する自身の措置を十分に正当化できると考えていたものの、政府は修道院に対する措置を依然として先延ばしにしていた。 修道士たちとの追加交渉が行われた。新任のアルヒマンドリト・イオシフは、修道士たちに自分を修道院長として認めさせるため、ストレルツの護衛を伴って修道院に到着した(1668~69年)。 一方、修道士たちは、大量の食糧備蓄と、城壁や塔に設置された90門の大砲を手に、修道院に立てこもり、ストレッツォフ兵に向けて発砲した[995] 。
1672年、イェヴレフ指揮下のストレッツ部隊(775名)が再び派遣され、当初は修道士たちを服従させるよう説得するよう命じられた。 これらの試みが失敗に終わると、イェヴレフは修道院への砲撃を命じたが、修道院の方がストレッツィよりも火薬や砲弾を多く保有していた上、ストレッツィの陣地は整備が不十分で、修道院への包囲戦は停滞していた。 1673年5月12日、アレクセイ皇帝は、反乱を起こした修道士たちが修道院の門を開き、公会議の判決に従うならば完全な恩赦を与えると約束する勅令を発したが、修道士たちは頑強に抵抗し続けた。 ストレルツの間で壊血病が流行したため、ついにイェヴレフは包囲を解き、モスクワへ戻らざるを得なくなった。
1674年の秋、ソロヴェキには、1700人のストレッツと大砲を率いるヴォエヴォダ、イワン・メシェリャコフ公が派遣され、反乱を直ちに鎮圧するよう命じられた。修道院は再び砲撃にさらされ、修道士たちもまた、モスクワの部隊に向けて発砲し、少なからぬ成果を上げた。 1674年12月28日、修道士たちの総会において、礼拝の際にツァーリの名を唱えないことが決定されたが、財務官ゲロンティイや修道士パヴェルら一部の修道士はこれに同意せず、修道院の牢獄に投じられた。 包囲戦は1676年初頭まで続き、ついに1月22日、メシェリャコフは、修道院から脱走したテオクティストという名の修道士が修道院への秘密の通路を教えたおかげで、夜間に修道院へ突入することに成功した。本格的な戦闘が始まり、多くの修道士が殺害された。 の騒動の首謀者たち、例えばイグメン・ニカノールなどは死刑を宣告され、1667年5月13日の公会議の判決に従うことを拒んだ者たちは他の修道院へ追放された。一方、皇帝と公会議に従った少数の修道士たちは、自らの修道院に残った。 多くの修道士たちは逃亡して難を逃れることができた。
ロシア北部の森々に散り散りになり、荒野から荒野へと放浪する中で、これらの放浪修道士たちは分裂の主要な担い手となり、古き信仰の擁護者となった。彼らは語りの中でニカンを罵倒し、彼を「冥界の息子」、 「背教者」、「反キリストの先駆者」と呼び、民衆に古来の敬虔さを守るよう呼びかけ、少なからぬ成果を上げた。 ソロヴェツキー修道院の包囲と陥落は、古信の信奉者や彼らに共感する人々に深い印象を与え、戦士修道士たちは信仰の殉教者としての光輪と栄光を獲得し、この栄光を巡礼修道士たちは並々ならぬ熱意をもって国の最も辺鄙な隅々まで広めていった。 1682年5月15日に起きた有名なストレッツィの反乱は、ツァーリ・フェオドール(1676–1682)の死後、上層部に混乱が生じ、権力争いが始まった際に勃発したが、この分裂は少なからぬ役割を果たした。反乱の首謀者であるイ・A・ ホヴァンスキー公が古儀式派に抱いた同情は言うまでもない[996] 。
しかし、分裂の拡大とその内部的な発展、そのイデオロギー、とりわけ国家や形成しつつあった帝国に対する姿勢の確立においては、イオアキム総主教(1674–1690)の治世下で教会が講じた措置が大きな意味を持っていた。 総主教イオアキムは、自身の宗教的見解が古儀式派の見解とそれほど異なっていなかったにもかかわらず、分裂の断固たる敵であり、最も厳しい措置をもって分裂との闘いを繰り広げた。 1685年4月7日、[997] の勅令が発布され、これによれば、分裂派の支持者は国家に敵対する分子として迫害され処罰されることとなり、こうして国家は純粋に教会内の問題に介入することを決定した。 この勅令は、分裂派やそれに同情する者に対して様々な刑罰を科すことを脅かし、さらには古儀式派を反乱者や国家反逆者として火刑に処することまで規定していた。こうして、1667年5月13日と1685年4月7日というこの2つの日付が、分裂の歴史における出発点となった。 前者は古儀式派の宗教的な分離を、後者は分裂派の市民法上の分離を、極めて長きにわたって示すものとなった[998] 。
修道者たちにとって、この分裂は様々な、とりわけ極めて深刻な結果をもたらした。 ニコンの改革に対する反対運動の主導者として修道士たちが分裂に関与したことは、修道界と教会階層とを結んでいた絆を断ち切り、ピョートル大帝の時代には、国家への敵意を抱いているとの疑いを招くこととなった。これは、ある意味では根拠のあることでもあった。 最後に、分裂に参加したのは、世俗化の過程に最もさらされなかった修道者たちであったことを忘れてはならない。教会に残った修道者たちにとって、18世紀前半が文学的に全く実りのない時期であり、まるで麻痺状態に陥っていたかのように過ごしていたことは、極めて特徴的である。 分裂には、帝国時代において修道院が居場所を見失い、自分たちのための明確な使命を見出せなかった理由が根ざしている。 修道界は比較的長い間、まさに岐路に立たされたままであり、一部の修道者は自らの活路を見出したが、他方――その大部分――は1917年までこの状態にとどまった。
17世紀の最後の10年間、ロシアの修道界はその歴史における第三かつ最後の段階に入った。その内部の発展と外部の運命にとって、二つの出来事が決定的な意義を持っていた。それは、分裂と、通常「教会改革」と呼ばれるピョートル大帝の施策である。 しかし、改革前後のロシア正教会の状況を比較してみると、この用語は一定の な慎重さを以て用いるべきであることがわかる。確かに、17世紀末のロシアの教会生活は理想とは程遠く、多くの重大な変革を真に必要としていた――しかし、そうした変革は起こらなかった。 また、改革後も教会生活には以前の欠陥が残っており、これは改革が偏ったものであり、不完全なものであったことを示している。最も重要な課題である聖職者の養成においてさえ、差し迫った必要性のある措置さえ講じられなかった。
しかし、この改革は、国家のロシア正教会に対する姿勢に根本的な変化をもたらした。これらの変化は極めて重大なものであった――「宗教規則」は、教会と国家の関係を全く新しい基盤の上に築き上げたのである。 教会は法的独立性を失い、国家機関――正教信仰局――となった。この名称は19世紀の公式文書においても維持されていた。 『宗教規則』は、国家と教会との間に新たな関係を築いた。その特徴は、国家が教会に対する保護責任を引き受け、教会事務への国家の介入が法的規範となり、この原則が揺るぎないものとして維持された点にある。 もちろん、モスクワ・ルーシにおいても、すなわちピョートル大帝以前においても、世俗権力は頻繁に教会事務に干渉し、ロシア正教会は国家からの圧力をしばしば受けていたが、そのような干渉は正常なものとは認められていなかった。 ピョートル大帝以前と以後の国家と教会との関係に対する認識は、単に異なるというだけでなく、正反対であった。今やロシア正教会は、モスクワ・ルーシにおけるかつての極めて高い地位を失い、ピョートルの教会改革によって、単なる国家機関の一つへと格下げされた。 この役割は、教会に対して純粋に精神的な奉仕だけでなく、主に国家・政治的な奉仕を求めたピョートルの構想に完全に合致していた。ピョートルが構想した国家においては、その創設者の考えによれば、すべてが国家に奉仕し、国家に利益をもたらさなければならなかった――彼がその利益をどのように理解していたかという点において[999] 。
教会の上層部や修道者たちにとって、ピョートル大帝の改革によって生み出されたこの新たな状況は、国家と教会の関係が明確かつ確固たる法的定義を与えられたという理由だけでも、望ましくないものであった。 モスクワ国家には、世俗権力と宗教権力との間の法的関係について明確な定義が存在しなかった。これらの関係は、伝統や古き慣習、さらには古き時代の情緒とも言えるものに、また専制君主の事実上の権力と威光に基づいて構築され、維持されていたのである[1000] 。 1649年の『法典』でさえ、教会問題に多くの紙幅が割かれていたにもかかわらず、世俗権力と教会権力の関係を詳細に規定しておらず、これらの関係に関する明確な法的規範を示していなかった。世俗権力にとっては、統治の実務、ならびに国家・教会・政治的なイデオロギーが、依然として法典の代わりとなっていた。 例えば、いわゆる1654年の「憲章」には、本来、ロシアの財政問題に関する法的規範が定められているが、そこには慣習法からの若干の逸脱が見られるものの、それでもなお、「主なる神の御心に適うように、また我々、大君主にとって義にかなった、罪のない方法で」ツァーリが統治することが強調されている[1001] 。 もし1649年の『法典』が、国家と教会の関係について詳細な法的定義を示し、かつ国家の優位性を明記していたならば、教会もこれを認めていたことは、断言できるだろう。 1667年の公会議の判決は、ツァーリとパトリアルヒ・ニコンの論争において明らかにツァーリを支持したものであり、事後的に我々の推測を裏付けている。 以上のことから、パトリアルヒ・ニコンを除く教会指導者たちは、国家と教会の関係が原則としてどのような法的定義を持つかについてはさほど気にしていなかったが、原則ではなく、 実践の場において、すなわち自らの特権、管轄権、および教会所有地の に関して、教会に「status in statu(国家の中の国家)」という地位を維持させることに強い関心を示していた。彼らは1667年および1675年の公会議でこれを目指し、そのために修道院局の廃止(1677年)を勝ち取ったのである。
まさにこれらの状況こそが、ピョートルの国家・政治的計画にとって容認できないものであり、彼の教会改革、あるいはむしろその最初の試みは、まず第一にこの「status in statu」という状態に対抗するものであった。それは、その後、国家と教会の関係を最終的に明確にし、固定化するためであった。 修道者や修道院にとって、この教会改革の経緯は、1721年の総主教職の廃止や至聖統治シノドの設立よりも、はるかに深刻な影響をもたらした。
国家統治の舵取りを自らの手に握ったピョートルにとって、過去1世紀にわたる教会・政治上の出来事は、まだあまりにも生々しく、あまりにも危険なものだった。17世紀には、彼が熟成させてきた国家・政治的構想には到底受け入れられないような状況が、度々生じていた。 おそらく、ミハイル皇帝時代の国家統治におけるフィラレート総主教の役割、ニコンの教会政策、ロシア教会の特権に関する1667年および1675年の公会議の決定、修道院局を廃止し、あらゆる面で教会と国家の独立を擁護しようとしたイオアキム総主教の精力的な活動といった事象を、改めて想起しておく価値があるだろう。 修道院局を廃止し、あらゆる面で教会と国家の独立を擁護しようとした人物であり、いわば「小さなニコーン」であった彼の精神、そして最後に、1690年から1700年にかけてのピョートルと最後の総主教アドリアンとの個人的な対立といった現象について、改めて想起しておく価値があるだろう。 かつて広く流布していた、アドリアンが不作為あるいは消極的であったという見解は、根拠のあるものとは考えられない。彼の教会政策に特化した研究『[1002] 』で証明されているように、アドリアンは、その性格上、イオアキムの持つ活力やニコンの持つ闘争心には欠けていたものの、教会の特権を守ろうとする揺るぎない意欲を示していた。 この受動的な抵抗と彼の保守的な見解は、教会改革、ひいてはピョートルが構想したあらゆる改革に対し、彼が反対の姿勢を示すであろうことを示唆していた。 ピョートルの母であるナタリア皇后(†1694)が存命で、彼女の保守的な側近たちがモスクワの旧来の慣習を支持していた間は、アドリアンの立場は有利であった。さらに、ピョートルは依然として自身の「遊び」に夢中になっていた。 しかし、1694年以降、国家統治におけるピョートルの役割は著しく高まった。彼はもちろん、アドリアンが外国人、ひいては西洋の影響全般に対して抱く嫌悪感をよく知っていた[1003] 。1694年以降、ピョートルは教会問題に干渉し始めた。 これ自体は、もちろん目新しいことではなかった。というのも、すでに彼の父であるアレクセイ皇帝も同様の行動をとっていたからである。しかし、まもなくピョートルが「攻勢」に転じたことが明らかになった。とはいえ、ピョートルが「教会規則」によって国家と教会の間の新たな関係を確立するまでには、さらに20年の歳月を要した[1004] 。
アドリアン総主教の死去(1700年10月15日)後、ピョートルは暫定的な教会権力のみを樹立し、比較的若かったリャザン大司教ステファン・ヤヴォルスキーを総主教座の代理に任命した[1005] 。 教会改革の実施において、ピョートルの主要な補佐役であったテオファン・プロコポヴィチ大司教( )は、その著名な著作『君主の意志の正義』(1722年)[1006] において、君主が新しい法律を制定する権利を立証し正当化しようと試み、それによって「教会規則」[1007] に法的根拠を与えようとした。 「君主は、国民に対して合法的に命令を下すことができる」とテオファンは記している。「それは、自国の大いなる利益のために必要なことだけでなく、君主の気まぐれによるものであってもよい。ただし、それが国民に害を及ぼさず、神の御心に反しない限りにおいてである。 この君主の権力には、前述の通り、民衆が君主の意志に従い、自らに対するすべての権力を君主に委ねたという根拠がある。 そしてここには、あらゆる市民的・教会的な儀式、慣習の変更、服装、家屋の建築、宴会、結婚式、葬儀における作法や儀式などが含まれる」[1008] 。
我々がこの発言を特に引用したのは、それが心理学的観点から非常に興味深いからである。そこには、ニコンによる改革の余韻と、教会儀式におけるペトロの将来的な改革を正当化しようとする試みが見て取れるが、もちろん、ここではニコンの場合とは異なる視点からそれがなされている。 同様の正当化と根拠付けの性格を帯びているのが、「霊的規則」そのものであり、G・フロロフスキーが見事に指摘したように、それは「法典」というよりはむしろ「論考」であった[1009] 。というのも、「規則」の著者であるテオファンは、すべての立法上の決定を根拠付け、正当化することが必要であると考えていたからである: 反対勢力の亡霊が、テオファンとペトロの目の前に立ちはだかっていました! 実際にはそのような危険は存在しなかった。教会の内部勢力は分裂によってすでに著しく疲弊していた上、改革は主に聖職者や修道者の階級的利益に関わるものであり、教会の教義は手つかずのまま残されていた。したがって、一般大衆にとって、ピョートルの革新をニコンの改革と同じ視点で見る理由はなかった。 ピョートルの改革に対する宗教色濃い反対運動の根源は、その教会改革のプロテスタント的な精神ではなく、分裂によって引き起こされた世論の中に求めるべきである。
将来のロシアの教会生活、とりわけ修道生活にとって極めて重要だったのは、ピョートルが自らの改革によってモスクワ・ルーシを警察国家に変えてしまったという事実である。これ以降、私生活さえ含め、社会生活のあらゆる側面が国家によって規制されるようになった[1010] 。 この事実――すなわち、ピョートル改革の結果、モスクワのツァーリによる国家が警察国家へと変貌したこと――は、教会とその制度に少なからぬ影響を与えた。 教会事務への介入や世俗権力によるその規制は、もはや何らかの改善を図ろうとする意欲によるものではなく、国家や経済上の利益への配慮に由来するものが大部分を占めるようになった。利益への配慮は、ほぼ常にピョートル改革の主な原動力であった。 修道生活や修道院に関する数多くの勅令や指令には、まさに警察国家的な性格と「公益」への配慮が特徴として見られた。これらの勅令は、修道院の生活に関する周到に計画された全国的な改革の個別の段階というものではなく、ほとんどの場合、国家に突如として生じた必要性や要請に応じて発布されたものであった。 修道生活、修道院、および修道院の生活に関するすべての指令に共通していたのは、ただ一つの根本的な核心、すなわち、修道院を国家にとって有益なものにしようという志向であった。もっとも、もちろん、キリスト教的かつ教会的な制度としての修道生活に対するピョートルの独特な見方も、そこに見受けられた。
ピョートル大帝は無神論者ではなかった。それどころか、彼は敬虔な人物であったが、その信仰は教会的なものではなかった。 旧約聖書に基づくモスクワの敬虔な雰囲気の中で育ったピョートルは、神こそが世界の創造主であり、その摂理者であるという宗教的信念を生涯にわたって持ち続け、君主として神に対する責任感を常に抱いていた。 彼は自らを「キリスト教の君主」と呼んでおり、それは『精神規律』だけでなく、『軍規』(1716年)においても同様であり、専制君主制そのものを神の定めと見なしていた。 フェオファン・プロコポヴィチは、ピョートルを「キリスト教の君主、正統信仰および教会におけるあらゆる聖なる規律の守護者」[1011] と呼んだが、これこそがピョートル自身の確固たる信念でもあった。 この信念は、古くから彼の王家の先祖や国民全体に共通するものであったが、テオファンは今、これをロシアにおける国教制の導入を正当化するために利用した。 国家教会という考えは、国家における教会の役割と任務に関するピョートルの見解と完全に合致していた[1012] 。これらの見解は、モスクワのドイツ人居住区に住む外国人プロテスタントたちの影響を受けて形成されたものであった。 ピョートルにとって教会とは、主に道徳的・教育的力であり、国家の利益に奉仕すべきものであった。彼は教会の典礼生活を否定しておらず、自らも頻繁に礼拝に出席し、戦勝のたびに感謝の祈りを捧げるよう命じていた。 アゾフの征服(1697年)後には同地に修道院を建立し、後にサンクトペテルブルクにアレクサンドル・ネフスキー修道院を設立して、聖アレクサンドル・ネフスキー公の聖遺骨をそこへ移した――これらは彼の生涯における周知の事実である。教会の教義についても彼は無知ではなかったが、そのことは同時代の人々がツァーリとの会話から理解できたことである[1013] 。
ピョートルはあらゆるものを改革し、改善することを非常に好んだが、彼自身も、また教会の階層を代表して、17世紀に彼以前に行われていたような種類の革新を導入しようとする試みは一切行わなかった。 おそらく彼は、その健全な判断力と卓越した知性のおかげで、ニコンの戦術の誤りに気づいていたのだろう。ニコンは、自らの革新を導入する前に、まず霊的教育の向上に配慮し、その後に改革に着手すべきであったのである。 ペトロは、同時代の誰よりも、聖職者だけでなく国民全体の教育水準を高める必要性を理解しており、そうでなければ構想したロシアの変革を実現することはできないと悟っていた。 おそらくその原因は、国家における教会の本質と役割について、彼がロシアの聖職者や国民とは全く異なる見解を持っていたことにもあったのだろう。 まさに聖職者、とりわけ司教団や修道者たちを、ピョートルは信用していなかった。彼は、司教団も修道者たちも、[1014] 、教会・文化的な観点だけでなく、政治的な観点からも、自分や自分の改革をいかに敵意を持って見ているかを目の当たりにしていた。 彼にこれほど強烈で恐ろしい印象を与えたストレリツの反乱に、司教団や聖職者、修道者たちが関与していなかったと言えるだろうか? 彼は、総主教座の代理であるステファン・ヤヴォルスキーでさえ、自分が構想した改革を内心では支持していないと感じていなかっただろうか? ピョートルは、ロシア正教会がロシアのヨーロッパ化という自身の計画に賛同するためには、教会を根本から変革し、改革しなければならないという結論に達した。 そうして初めて、聖職者階層や聖職者が改革され、啓蒙によって彼の手中の従順な道具となったとき、初めて教会生活のより深い改革を試みることができるのだ。 しかし、教会改革に取り組む時間はピョートルに残されておらず、そのため彼が成し遂げられたのは、彼にとって最も重要だと見なされたこと――すなわち、国家と教会の間に全く新しい関係を築き、最高教会権力を再編すること――だけだった。
教会改革のマイナス面について、その責任をすべてピョートル一人に負わせることは不公平だろう。もし当時、ロシアの聖職者の中に、彼を助け、彼の信頼を得ていた人物がたった一人でもいたならば、1721年の教会改革は全く異なる性格のものになっていただろう。 しかし、当時の聖職者階層を率いていたのは、臆病で不誠実なステファン・ヤヴォルスキーであり、彼は国家・政治的な視野に欠け、さらに教会の真のニーズについても正しい理解を持っていなかった。 テオファン・プロコポヴィチに関しては、この主教はロシア教会の利益をほとんど顧みていなかった。自惚れ屋で、 野心的かつ復讐心に満ちた人物であり、ピョートル帝の治世下では何とか自制を強いられていたが、皇帝の死後、彼の性格の最悪な側面が余すところなく露呈した。
修道院や教会の所有地に関するピョートルの措置は、主に、キリスト教の禁欲主義に対する彼の否定的な態度、そして人間生活や国家生活におけるあらゆる種類の無為や無益さへの嫌悪によって説明される。彼の見解によれば、それらは修道院の生活において最も明白に表れていたのである。 もし修道院が所有する土地がもっと少なかったり、全く持っていなかったりしたなら、ピョートルはこれほど徹底的にこの分野に介入することはなかったかもしれない。 彼にとって、これらの土地は国家にとって失われたも同然に見えた。そのため、ますます多額の資金を必要とした北方戦争と時期を同じくして進められた改革に伴い、彼は修道院の富を国家の目的のために最も徹底的な方法で活用することに特別な注意を向けた。 一方、修道院生活の内部秩序に何らかの形で干渉する措置は、国家・政治的な観点から見て、修道院が敵対的な要素であるという彼の疑念に起因していた。 ピョートルは、教会的な側面だけでなく国家・政治的な側面からも判断した分裂における修道院の役割を十分に理解しており、修道院が西洋文化に対して抱く嫌悪感についても知っていた。要するに、ピョートルは、当時の修道院が改革の推進を妨げるだけであることに疑いを抱いていなかった[1015] 。 これらすべてが、ピョートルが四半世紀にわたり絶え間なく修道院を文字通り迫害し、修道院の日常生活の些細なことまで干渉していたという事実を説明している。 彼は修道制度を改革し、何らかの改善をもたらすためにほとんど何もしなかった。いや、それどころか、ピョートルは修道制度の権威を低下させ、その力を弱めるために、できる限りのことを行ったのである。
ピョートル大帝による教会改革は、ロシアに国家教会制を確立した。これこそが、以後、教会の機関、権力、財産が教会だけでなく国家にも奉仕することになるという前提となった[1016] 。 1721年1月25日は、ロシアにおける国家教会制の誕生日と見なすことができる。なぜなら、この日、「宗教規程」が、帝国内におけるロシア正教会の位置づけを定める基本法となったからである。もっとも、修道院に関する個別の改革は、その時点で既に本格化していた。 これらの措置(その最初のものは1696年から1698年にかけて行われた[1017] )は、1764年のエカテリーナ2世の治世下で終結した、長期にわたる世俗化の時代へと私たちを導くものである。 この70年間にわたる期間は、修道院の生活環境を改善することよりも、むしろ修道生活を、ロシア正教会および民衆生活におけるその立場を根本から変えるような状況に追い込み、国家の存立において修道生活を後景に追いやろうとする試みに他ならなかった。 こうした措置は、例えばアンナ・イオアンノヴナ女帝の治世(1730–1740)において、時にはまさに迫害の様相を呈し、修道院の内部生活を完全に混乱させ、その後も長くその影響を残したため、シノダル時代には修道生活はあたかも麻痺した状態に置かれていた。 聖シノドは、その200年にわたる存続期間中、修道院の問題について何度も真剣に議論したが、修道院生活の水準を高めるための措置を何一つ講じなかった。聖シノド、ひいてはシノド時代におけるロシア正教会の聖職階層全体が、修道院の状況に完全に満足していたかのように見えた。 修道生活が衰退したままだったのは、ピョートルの教会改革や彼の初期の施策ではなく、シノダール体制と18~19世紀のロシアの司教団に責任があると言っても過言ではない。
修道制度という教会制度に対するピョートルの見解は、比較的遅く、すなわち1724年1月31日の勅令において初めて明確に示された。この勅令は、ピョートルとテオファン・ ・プロコポヴィチ[1018] が共同で起草したものである。 この勅令の表題だけでも、その特徴がよく表れている。「修道制度がいつ、どのような理由から始まったか、古代の修道士たちの生活様式はどのようなものであったか、そして現在の修道士たちを、ある種の古代の模範に従ってどのように是正すべきかについての布告」。 これは、すでに着手されていた措置、そして同時にこれから行われる予定の措置に対する、遅ればせながらの正当化に他ならなかった。「真の修道士たちは、人々から何も求めなかったばかりか――『布告』にはこう記されている――人々に自分たちの姿を見られたり、自分たちのことを聞かれたりすることさえ望まなかったのだ…… その後、一部の偽善者たちがギリシャの皇帝たち、とりわけその妻たち(おそらく、ペトロスの最初の妻であるエウドキア皇后と、彼女の保守的な側近たちへのほのめかしである。 ――I. S.)に近づき、修道院をもはや砂漠ではなく、都市の中心部やその近郊に建設し始め、この架空の聖地のために金銭的援助を要求した。さらに悪いことに、自ら労を惜しむばかりか、他人の労苦の成果をただで享受しようと望んだ。これに対し、皇帝たちは……自らも…… 極めて好意的であった。 …この傾向は、わが国でも急速に広まり始めた…というのも、現在の修道士たちの生活は、単なる見せかけに過ぎず、他の法規に対する冒涜であり、多くの悪も生じているからである。彼らの大部分は寄生虫であり、あらゆる悪の根源は怠惰にあるため、どれほどの迷信や分裂、さらには扇動者たちが生まれたかは、誰もが知っていることである… 果たして彼らは、聖書や教えの真髄に忠実であるだろうか。決してそうではない。彼らは「祈っている」と言うが、ただ皆が祈っているに過ぎない……それでは、社会にとって何の益があるというのか? 実のところ、それはまさに古い諺の通りである。「神にも人にも役立たない」と。というのも、彼らの大部分は、税を逃れ、怠惰から、ただでパンを食べようとしているからだ。しかし、こうした怠惰な者たちにも、怠惰ではなく、神に喜ばれ、恥じることのない生き方がある。それは、真の貧者、老人、そして乳児に仕えることである」。 『布告』には、修道生活に対するピョートルの見解、および修道院の数を削減し、修道院の所有地を国家の目的のために活用するための彼のあらゆる施策の根拠が記されている。
修道院局は、すでに述べたように、1677年に廃止されたが、1696年、 ピョートルは特別勅令により、各教区の司教に対し、修道院および教区本部の収支について毎年、大宮殿事務局に正確な報告を行うよう命じた。 2年後の1698年、この勅令は再確認され、穀物備蓄に関する特に詳細な報告を求める要件が追加されたほか、皇帝の許可なくして修道院でいかなる建築や修繕も行わないよう命じる規定が加えられた[1019] 。1701年1月24日、修道院局が復活した[1020] 。 1701年の勅令およびそれに続く他の勅令は、修道院および修道院の所有地について遅滞なく目録を作成し、修道者の数を正確に把握することを求めた。 修道院には、礼拝の執行と資産の管理に必要な人数分の修道士のみを残すことが許可された(このように定められた各修道院の修道士数は「定員」と呼ばれた)、 出家していない修道院の住人は追放の対象となり、新規の修道士の受戒は、定員に空きが生じた場合にのみ許可された[1021] 。 『修道士に関する霊的規則の補遺』(1722年)[1022] は、30歳未満の男性の剃髪禁止を定めており、女性は50歳から60歳の間でのみ剃髪が許された。例外はシノドスの許可がある場合にのみ認められた。軍人や官吏の剃髪は完全に禁止されていた。 また、借金を抱えている者、既婚者、未成年の子供を持つ者も修道院への入所を許可されなかった。農奴は地主の許可を得て初めて出家することができた。文盲の者は、皇帝またはシノドの承認を得て初めて修道院に入ることが許された[1023] 。
「1701年の修道院局は、M・ゴルチャコフの見解によれば、活動全体を通じて、ペトロ大帝の改革目標に特に専念した、ロシア全土における最高の中央機関であった」[1024] 。 1720年に廃止されたが、1721年に再び設置され、1724年末まで機能した。この期間中、修道院局は、修道院の生活と何らかの形で関連するほぼすべての問題について、最高決定機関であった。 前述の「宗教規則の補遺」は、シノドの許可なしに新しい修道院を設立することを禁じていた。隠遁所やスキトの建設は完全に禁止された。 修道士が30名未満の小さな修道院や隠遁所は、閉鎖されるか、他の修道院と統合されることとなった。修道院が閉鎖された場合、その教会は教区教会となった。さらに、シノドは皇帝から、必要に応じて大規模な修道院を閉鎖する許可も得ていた[1025] 。
「補遺」(§ 35)では、読み書きができない修道士が読み書きを学ぶことも求められており、そのために修道院内には学習用の特別な部屋を設けることが義務付けられた; 1723年には新たな指令が出され、30歳未満の修道士全員を、教育を受けるためにモスクワのザイコノスパス修道院へ送るべきとされた。 この布告が教区の主教たちにどのように受け止められたかは、1723年から1727年にかけて、学習のために送られた修道士がわずか3名に過ぎず、そのうち2名は後に逃亡し、4名が自発的に学習に現れたという事実が物語っている[1026] 。 1724年の「布告」には、サンクトペテルブルクとモスクワに2つの神学校を設立する計画が含まれており、その卒業生はその後、同じ神学校の教員となることになっており、30歳に達した時点で希望すれば修道士になることもできた。 その後、彼らはアレクサンドロ・ネフスキー修道院で3年間の試練期間を経て、学問的な活動――例えば翻訳や説教の執筆など――に従事することになっていた。 これらの学識ある修道士には、一般の修道士に比べてより良い食事と衣服が与えられ、適切な勤勉さと模範的な行いを示せば、修道院の院長、神学校の学長、あるいは教区主教の候補者となることができた[1027] 。 当面は紙上の計画にとどまっていたこの構想には、将来の「学識ある修道者階級」の萌芽が含まれていたが、後述するように、これはロシア正教会の生活において必ずしも肯定的な現象ではなかった。
あらゆる産業分野を改良しようとするピョートルの志は、ここでも顕著に表れており、実用主義と空想的な計画主義が融合していた。例えば、『プリバジェニエ』は、男子修道院に「工芸」を導入し、そこで大工仕事やその他の手工芸に従事することを推奨している。 女子修道院では手仕事が非常に普及しており、1724年の「布告」には、ブラバント、すなわちリール市から「熟練した」レース職人をロシアに招き、女子修道院に教師として派遣するという計画が盛り込まれていた[1028] 。 同時に、修道院や修道院の建物は慈善目的にも利用されていた。多くの修道院には孤児、病人、精神疾患患者、戦争による障害者らが収容されていたが、一部の修道院は過密状態となり、これらの人々を養う食糧が不足するほどであった; 多くの修道士が粗暴かつ無礼に修道院から追放され、修道院の領地は管理者のいない状態となった。 その後、修道院局は、崩壊した修道院の運営を立て直すため、追放された修道士たちを再び修道院に戻さざるを得なくなった。修道院の新たな居住者たち、特に戦争障害者はしばしば暴れ回り、喧嘩やその他同様の事件が頻発し、時には修道院が強盗の被害に遭うこともあった[1029] 。
国家当局は、修道院の内部生活にも目を向け、その改善に向けた一連の指令を発した。「『霊的規則』の補遺」には、修道院長は修道者たちによって選出されなければならないと記されている[1030] 。 また、同規則には、修道院が共同生活規律に従って生活することの要件も盛り込まれていた。出家時の費用を徴収することは禁止され、修道士が死亡した後は、その独房にあったすべての物が修道院または聖公会の所有となり、修道士が遺言を作成することも禁じられた。 かつてはごく一般的であった他修道院への移籍は、これより厳しく禁止された。修道士には生涯に一度のみ、かつ修道院長の書面による許可を得た場合に限り、移籍が認められた。教区の主教たちは、この規定が厳格に遵守されるよう監督する義務を負った。 修道院長は、修道者の名簿を管理し、修道士の逃亡について責任を負うことが義務付けられ、逃亡した修道士は逮捕後、足枷をはめられていた。修道院からの外出は、修道院長の許可を得て、かつ短期間に限られて[1031] 。修道院での生活は、修道士の知人や親族の訪問によって乱されることがあってはならなかった。 修道士たちは、確かに年に4回、親族を訪ねることを許されていたが、その都度、修道院長の許可が必要であった。一方、修道女たちにはそれさえも禁じられており、年配で信頼できる修道女に付き添われて初めて親族を訪ねることができ、それも誰かの病気や死の場合に限られていた。 修道士たちが請願書や、反対的な性格を持つあらゆる文章を作成する機会を奪うため、彼らは自室に筆記用紙、インク、羽ペンを所持することが厳重に禁じられていた[1032] 。
1720年、修道院当局は、修道院内に保管されていたすべての勅許状、免訴状、およびこの種のその他の「奇妙な文書」を、遅滞なく修道院事務局へ送付し、今後修道院内に保管しないよう命令を受けた。 この措置のおかげで、修道院局は修道院の所有地に関する重要な文書を入手することができた。 それまでは、同局では常に文書が不足しており、修道院の経営状況について明確な把握ができなかった。これは、1701年に実施された農民世帯の調査において、一部の教区が一切の情報を提出しなかった事実からも明らかである[1033] 。
この指令は、修道院、修道院の所有地、およびそこに居住する人々の管轄権の問題と密接に関連していた。 修道院局の復活に伴い、1667年の公会議の判決は公式には取り消されなかった。なぜなら、それらを無効にできるのは新たな公会議の判決のみであったからであり、単に政府の指令によって効力を失ったに過ぎない。 これは、聖職者および教会所有地の管轄権の問題において、1649年の法典で定められた法的規範を復活させたものに他ならなかった。 1701年以前にも、多くの政治裁判、特に1682年および1698年のストレッツィの反乱に関連して、聖職者や修道士たちは、教会代表者の裁判への参加なしに尋問を受け、有罪判決を下されていたが、これは1667年の決定に違反するものであった。 修道院局は、しばしば教会の代表者を置かずに、世俗の裁判官の手によって裁判を裁いていた。さらに、多くの裁判は修道院局ではなく、プレオブラジェンスキー局――いわばツァーリの私設事務局――で行われていた[1034] 。
1725年1月28日、ピョートル大帝が死去した。彼の死後、修道院に関する新たな政府の措置は、彼の政策を引き継いだだけでなく、特にアンナ女帝の治世(1730–1740)においては、さらに厳しいものとなった。 エカテリーナ1世の治世(1725–1727)においては、まず第一に、ピョートルの数多くの勅令が再確認された。例えば、修道院から逃亡した修道士については、修道士としての地位を剥奪し、世俗の裁判所に引き渡し、公開の鞭打ち刑に処するよう命じられた。 また、病人、戦争による障害者、精神障害者、さらには有罪判決を受けた犯罪者(囚人)を修道院に送り込むよう命じられた。修道士への剃髪は、妻を亡くした司祭にのみ許可され、それ以外の者はシノドに対して剃髪の許可を申請しなければならなかった。 かつては成果を上げられなかった、ザイコノスパス修道院付属の学校へ若い修道士を送り込むという勅令が、改めて発布された。実のところ、この勅令にはもはや意味がなかった。というのも、それ以前に実施された一連の措置の結果、修道院には若い見習い修道士がもはや残っていなかったからである[1035] 。
特に小規模な修道院において修道士の数が著しく減少したため、ピョートル2世(1727–1730)の治世下で、この種の修道院に対して以前講じられていた措置を緩和するいくつかの指令が発布された。 いくつかの小規模な修道院が再開され、修道士たちがそこへ戻った[1036] 。フェオファン・プロコポヴィチが一時的にシノドおよび教会行政における以前の地位を失った、ピョートル2世の短い治世の期間は、修道界に対する様々な規制緩和が行われ、反対勢力の気運が高まった時期であった。 しばらくの間、総主教制の復活という構想が再燃した。未成年のピョートル(1727年当時、わずか11歳)の周囲では、保守的な姿勢をとるA・G・ドルゴルーキー公爵一家が主導的な役割を果たしており、その末娘エカテリーナは、若き皇帝と婚約していた。 ピョートル2世は、ピョートル大帝の息子であり、不運な運命をたどったツァレヴィチ・アレクセイの息子であった。反対派の教会関係者たちも、このアレクセイに希望を託していた。ドルゴルーキー家や一部の教会指導者たちは、若きピョートル2世の治世において、ピョートル大帝による教会改革の余波を解消することを夢見ていた。 しかし、1730年1月18日にペーテル2世が天然痘により急死したことで、これらの計画は頓挫した[1037] 。
アンナ・イオアンノヴナ女帝の10年にわたる統治期間(1730年~1740年)は、ロシア正教会にとってとりわけ耐え難いものであり、とりわけ修道者たちにとっては最も過酷な時期であった[1038] 。 その後、エリザベータ女帝の治世下において、才気あふれる説教者であるディミトリ・セチェノフ大司教は、アンナの治世を「不穏な時代」と評した。 「キリスト教の教義は……寓話と見なされ、何の価値も認められず、神の聖なる御使いたちは崇敬されず、使徒たちの伝承や聖なる教父たちの教えは拒絶された。そして何よりも、敬虔さの擁護者たち、すなわち聖職者たち――主教、司祭、修道士たち――に対する激しい迫害が行われ、彼らは拷問され、処刑され、聖職を剥奪された…… 修道士や司祭、敬虔な人々は、遠く離れたシベリアの都市へと……連行された。 そして、彼らをこれほどまでに恐怖に陥れたため、もはや牧者たち、すなわち神の言葉を説く者たちでさえも沈黙し、敬虔さについて口を開くことさえ敢えてしなかった」[1039] 。これは「ドイツ人の支配」の時代であり、「彼らにとって、今まさに黄金時代が始まったばかりだった」と、K・シュテリンは著書『ロシア史』の中で記している。 ――「彼らはこの大国の絶対的な支配者となった」。ビロンは「あらゆるロシア的なものに対して軽蔑の念を抱いていた」が、「時が経つにつれて彼がその軽蔑をますます隠さなくなったという事実は、もともと十分に正当化されていたロシア人の異民族の隷属に対する怒りを、さらに二倍も理解しやすいものにしている。 この軽蔑は、完全な政治家となるには明らかに多くのものが欠けていたこの人物に対する、ロシアの歴史学界の評もよく説明している。彼は 馬の優れた通として知られていたが、ロシア人は、彼が女帝に次ぐ極めて高い地位に就いていたにもかかわらず、自国民に対する同等の理解を彼に認めることはなかった」[1040] 。 ドイツ人の支配は、あらゆる階層の人々に憎悪と恐怖を引き起こしていた。傲慢な寵臣ビロン、冷酷なオスターマン(彼は優れた外交手腕と陰謀を兼ね備えていた)、そして精神的に狭量で、極めて粗暴かつ残酷な性格の皇后自身[1041] 、そして最後に、 ビロンの手先たちがすべてを牛耳っていた秘密事務局――これらの人物たちがロシアを支配しており、彼らの権力の手段は流刑と断頭台であった[1042] 。
この頃、ピョートル大帝の教会政策を主に継承していたのはテオファン・プロコポヴィチであり、彼はアンナとビロンの信頼を勝ち取ることに成功した[1043] 。死(1736年)に至るまで、テオファンは聖公会において絶大な権力を持つ高官であり、かつての敵全員に復讐することができた。 すでに1731年には、シノドはオステルマンが統率する内閣に完全に従属していた[1044] 。以前の勅令は確認され、新たな勅令によってさらに厳格化された。教区の主教には、管轄下の人々の些細な法違反に対しても全責任が課され、100ルーブルの罰金が科されることとなった。 その後、1734年には、法律を無視して修道士に剃髪させたことに対する罰金――剃髪が許可されていたのは未亡人の司祭と退役軍人だけだった――が500ルーブルに引き上げられ、 この場合、修道院の院長は終身流刑に処され、新たに剃髪した修道士自身は修道士の称号を剥奪され、体罰に処された[1045] 。教区の主教は、世俗の機関に修道士を自身の代表として派遣すること、また彼らの仲介を通じてそこで交渉を行うことを禁じられていた[1046] 。 修道院の院長には、修道院内の秩序を維持するだけでなく、修道士によって犯されたすべての違法行為を直接シノドに報告する義務が課せられており、有罪とされた者は兵士として徴用されるか、シベリアの鉱山へ流刑に処された。 聖公会は司法案件から完全に排除されており、有罪者の修道士資格を剥奪することしかできなかったが、それさえも政府の指示に基づいて行われていた[1047] 。 当時の修道院の生活を示す良い例として、モスクワのヴォズネセンスキー女子修道院が、その当時サンクトペテルブルクで尋問を受けていた修道院長に代わって、セメノフスキー連隊の大尉によって1年以上も管理されていた状況が挙げられる[1048] 。
修道院生活や修道者たちにとって特に壊滅的だったのが、いわゆる「修道士審査」であった。 こうした審査において、多くの修道士が、主に政治的な告発を理由に修道院から追放された。若い者は兵士として徴用され、年配者は修道士の地位を剥奪され、ウラルやシベリアでの強制労働に送られた。 こうした粛清を実施したのは、すでに言及した秘密事務局であり、その結果、修道者の数は大幅に減少した。 報告書によれば、1724年には修道院に25,207人の修道士と修道女がいたが、アンナ女帝の治世末期にはわずか14,282人(修道士7,829人、修道女6,453人)にまで減少していた。 ロシア正教会に多くの災いをもたらした女帝の死後、聖公会は政府向けに報告書を作成し、修道院生活の衰退という衝撃的な実態を描き出した。一部の修道院は完全に空っぽになっており、他の修道院では修道者がごくわずかしか残っておらず、しかも彼らは老衰が進んでいたため、礼拝を執り行う者がいなかった。 調査の過程で、特に多くの修道院長が解任され、 に拘束され、修道院の管理は極めて悲惨な状態に陥っていた。修道院の日常生活には、修道生活の特徴さえ見られず、神学校には教師がおらず、その代わりとなる人材を招くこともできなかった。 教会会議の報告書では、ロシアの修道生活は完全な消滅の瀬戸際に立っているとの結論が示され、そのため教会会議は、修道士への剃髪式を再び許可するよう要請し、その条件として、3年間ではなく、わずか6ヶ月間の見習い期間を経ただけでよいとした。アンナ摂政の政府はこの請願を好意的に受け止め、これを承認した[1049] 。
政府には正当な理由も、ましてや合理的な根拠もなかったこのような教会政策の下で、教会生活が悲惨な様相を呈していたことは明らかである。しかし、国と国民が完全に軽視され、蔑まされていたため、当時のロシア社会の他の側面においても、政府の全般的な政策に関連して同様の状況が見られた。 「ドイツ人の支配は10年間続いた」とS・プラトノフは記している。「10年間、ロシア人はその最も高貴な共感や感情において侮辱され続けた」[1050] 。
エリザベータ女帝(1741–1761)の治世下で、教会と修道界はようやく安堵の息をつくことができた。少なくとも、敬虔な女帝は、彼女以前には常態化していたような措置には頼らなかったが、多くの問題において、彼女は父であるピョートル大帝の方針に忠実であり続けた。 個人的な敬虔さゆえに、彼女は教会に対する不必要な攻撃を控えていたが、その教会政策は行政政策の一般的な原則に左右されていた[1051] 。 修道士に対する弾圧は中止され、女帝は国庫の資金を用いて、特に崇敬されていたヴァラアム修道院とコネフスキー修道院の2つの修道院を再建することを許可した。これら両修道院は、18世紀に行われた措置の結果、完全に荒廃していた。また、彼女はトロイツェ=セルギエフ修道院を「ラヴラ」と改称するよう命じた (1744年)と改称するよう命じた。多くの修道院が金銭的援助を受けた[1052] 。しかし、修道士への剃髪は依然として政府によって管理されており、南ロシアの教区(小ロシアの修道院)においてのみ、司教およびキエフ・ペチェールスク修道院の院長が、自らの裁量で剃髪を執り行う権利を有していた。 1761年、死去間近になってようやく、女帝は自由な出家式を許可する勅令を発布した。彼女の治世の間、修道院は依然として、戦争の障害者、高齢の兵士、精神障害者、および少年犯罪者たちのための保護施設としての役割を果たしていた。 1758年には、これらの住人を修道院から移し、彼らのために特別な保護施設を建設し、その運営費を修道院の土地所有から賄うという計画が議論されたが、この計画は紙上のままに終わった[1053] 。 ピョートル3世の治世(1761–1762)には、大ロシアの教区だけでなく南ロシアの教区においても、修道士への自由な入会の禁止令が再び発令された[1054] 。
修道院の生活を築き上げるというよりはむしろ破壊する傾向にあったこうした一連の政策の結果、修道生活は悲惨な状態に陥った。1762年には、修道士はわずか7659人、修道女は4733人しか残っておらず、これは1740年よりもさらに少ない数であった。[1055] 18世紀前半については、修道院の内部生活について把握するための資料があまりにも少ない。数多くの勅令や指令は正確な理解をもたらさない。それらは(特にアンナ統治下において)特定の施策を正当化するために、ある種の意図を持って作成されたものであることを常に考慮しなければならない。 修道院生活の健全化と活性化という点において、こうした弾圧はほとんど何の役にも立たなかった。当時、精神的活力も、修道院生活の健全化への正しい道を見いだせるような、精力的で才能ある人材も不足していたのである。 その後、18世紀後半には、この方向に向けて一定の努力がなされたが、 、修道界はまず、国家権力によって実施されたもう一つの改革を経験しなければならなかった。その必要性は、一方ではすでに長い間熟していたものの、他方では、その実施には多くの欠点がつきまとっていた。 それでもなお、この改革は修道院生活の世俗化を助長していた最も重要な原因を取り除いたため、ついに、修道院の内部生活における抜本的な改革について考えることができるようになったのである。
1764年の世俗化は、修道院の土地所有権を制限し、その収益の一部を直接国庫に納めるよう定めた一連の措置の集大成であった。一方で、所有権自体は依然として修道院に留まっていた。 その理由は、ピョートル大帝が明確な計画を策定しておらず、後継者たちも中途半端な措置で満足していたことにある。修道院の所有地は、政府が資金を必要とする際に資源を汲み取ることができる源泉となった。 ロシアの財政は、主にピョートル大帝の改革に伴う支出、そしてその後の数十年における不適切な統治のため、絶えず財政難に陥っていたため、政府はたびたび修道院や教会の所有地からの収入に手を伸ばした。これはまさに略奪に他ならなかった。 修道院当局は、いかなる経営上の改善にも全く関心を失ってしまった。彼らにはそれを行う能力はあったが、政府は目先の利益にしか関心がなく、そうした改善が実を結ぶまで待つことを望まなかったのだ。 修道院の領地からの収入は、さまざまな目的や機関によって使用されており、政府自身もその配分について明確な把握を持っていなかった。さらに、これらの領地に対する監督や管理は、次々と再編が繰り返され、これもまた事態の改善にはつながらなかった。
1701年1月24日、修道院局に修道院の所有地の監督権が移管された際、同局は同時に、勅令に明記されている通り、かつての総主教、教区、および修道院が所有していたすべての教会所有地に対する管理権も付与された。 しかし、修道院局はその権限の範囲について明確な指示を受けていなかった。同局は約20年間存続したが、その間、明確な組織体制を確立することはなかった。 その任務は、監督、収入の徴収(これらはピョートル自身の指示に従って使用されることになっていた)、そして最後に、土地台帳の作成[1056] にあった。この台帳作成作業は10年近く続き、その結果は「1710年の台帳」として知られているが、現存するのはその一部のみである。 1701年12月30日の勅令およびそれを補足するいくつかの後の勅令[1057] から、ピョートルは当初、修道院の所有地からの収入の活用に関して、やはりある程度の計画を持っていたことがうかがえる。その一部は修道院の維持費に充てられ、もう一部は様々な啓蒙活動や慈善目的に充てられることになっていた。
このようにして、修道院局では、収入を2つのカテゴリーに区分するようになった。すなわち、教会機関(修道院を含む)の維持に充てられる「指定収入」と、ピョートルが指定した啓蒙・慈善目的に充てられる「非指定収入」である[1058] 。 土地が著しく不足していた修道院は、賦税が免除され、これらのいずれのカテゴリーにも含まれなかった。1701年における修道士1人当たりの維持費は、年間10ルーブルと穀物10チェヴェルティと定められていたが、その後「1710年のタベリ」により により削減され、最終的に1724年には年間6ルーブルと穀物5チェヴェルティに引き下げられ、修道院長や司祭修道士にはわずかな上乗せが加えられた[1059] 。しかしこれ以外にも、特に北方戦争の時期には、修道院の経営などに関する全く予期せぬ皇帝の命令が頻繁に発せられた。 皇帝が騎兵隊用の馬を必要とした場合、西部の郡にある修道院は馬を供給しなければならなかった。竜騎兵の馬に干し草が必要となれば、修道院は直ちに 干し草の供給を引き受けなければならなかった。 海外から招かれたタバコ栽培の専門家(タバコマイスター)が住居や食事を必要とした場合、その手配も修道院が担わなければならなかった[1060] 。 修道院の所有地からの収入の一部を慈善目的に充てるというピョートルの当初の計画は、戦争遂行のための支出により実現不可能となり、金銭および現物収入は主に軍事需要や、国庫のその他の予期せぬ支出に充てられた[1061] 。 一部の修道院所有地は、プレオブラジェンスキー局や郵便局といった個別の局の管轄下に置かれ、他のものは工場に配属されていた。これらの所有地からの収入を増やすため、修道院局は、賃借人が追加の賃料を支払う条件で契約を結ぶことに同意する場合、それらを民間人に賃貸していた。 事態は、かつての所有者、すなわち教会機関でさえ、適切な契約を結ぶ用意があれば、これらの土地を借り受けることができるという段階にまで至った。
この現象は1710年以降、最も一般的なものとなったが、同時に修道院局の重要性と活動規模は徐々に衰退していった。 この過程は、1720年8月17日の勅令により、修道院局が廃止されたことで完結した。1720年10月16日の勅令により、領地は元の所有者に返還され、その管理は再び修道院の院長たちに委ねられた。 修道院局によって以前に定められた納付金のみ、修道院は引き続き支払いを続けたが、修道院所有地からの収入の徴収は、これ以降、カマー・コレギヤ(財政局)[1062] が管轄することとなった。
ピョートルにとって最も重要だったのは、法的な側面ではなく実務的な側面であり、つまり、領地の所有者が誰であるか、あるいは誰とみなされるべきか――国家か教会か――という問題には関心がなかった。これは、「宗教規程」においてこの問題にほとんど注意が払われていないという事実からも明らかである。この問題については、ここではごく大まかな概要としてのみ触れられている。「評議会は、誰がどのように教会の土地を所有しているか、また、穀物や収益(金銭的なものである場合は)がどこへ、何のために支出されているかを検討しなければならない。そして、もし誰かが教会の収益を盗んで奪った場合、聖職評議会はその者を追及し、奪われたものを返還させなければならない」(第3部、§9)。シノドが、特に1720年10月16日の勅令以降、誰が教会の所有地を管理すべきかという問題に特別な注意を払わざるを得なかったことは明らかである。この問題は、1721年2月14日のシノド第1回会合ですでに議論されており、皇帝に対して次のような内容の照会がなされた: 「領地……は、それらが世俗の管理者によって荒廃し、空虚な状態となったため、また、聖職者会議が忠誠と同様に、他の会議に対して皇帝陛下の利益を追求することについても、宣誓によって同等の義務を負っていることから、聖職者会議が管理すべきか。 また、『宗教規則』には、そのような統治は宗教評議会に委ねられるべきであると定められている。」これは前述の条項に対するかなり自由な解釈であったが、皇帝は「その通りとする」との決定を下し、領地は再び教会機関の管理下に戻された[1063] 。
シノドがこれらの領地の経営状況およびそこから得られる収入の徴収体制を徹底的に検討した結果、再び修道院局を設立することを決定したが、今回はシノド自体の管理機関としてである。 1721年3月10日のシノドからの請願に応じ、ピョートルは修道院局を再び設置するよう命じたが、今回はシノド傘下での設置となった。シノドには、修道院局を通じて収入を徴収し、それを財務局(カマー・コレギヤ)に引き渡すことが委任された[1064] 。 シノドス付属修道院局は、1724年12月14日に「シノドス統治庁会計局」と改称され、この名称で1726年9月29日まで存続したが、その日に再び改称され、今度は「シノドス統治庁経済局」となった。 この経済局は1738年4月15日まで存続したが、この日、アンナ女帝の勅令により、シノドスの管轄から外され、元老院の管轄下に移管された。この日から、すべての教会所有地は政府機関の管轄下に移った[1065] 。
この期間中、シノド所属の修道院局および財務局の活動は、専ら領地からの収入を徴収し、それを国庫に納めることに限られていた。 こうした当初は純粋に管理的な措置が示すように、政府は次第に、教会財産(修道院の土地所有権を含む)を国家の財産とみなすべきであるという立場を取り始めたが、この見解が国家法としての効力を得るまでには、さらに数十年を要した。
すでにピョートル大帝の治世の末期には、「指定された」領地からの収入は、もっぱら国家の必要に充てられていた[1066] 。 修道院の維持費を削減し、「指定された」領地からの収入の一部を解放するための重要な一歩となったのが、1724年の勅令であった。この勅令は、修道院の定員を定めることを命じたものであり、我々が何度も引用してきた有名な勅令であり、そこにはピョートルが修道院や修道生活に対して抱いていた態度が特に余すところなく表れていた。 しかし、この勅令はイデオロギー的な意味というよりは、むしろ実用的な意味合いを持っていた。すなわち、修道士の数を削減し、それによって教会への支出を削減することが想定されていたのである。 1724年5月22日、シノドはピョートル大帝からの個別の指示に基づき、いわゆる「1724年の定数表」を策定したが、皇帝の死により、しばらくの間その施行は行われなかった[1067] 。 1726年のシノド行政経済局では、すべての業務が聖職者ではなく世俗の官吏によって行われるようになり、事実上シノドの管轄から外れ、重要な事案については元老院に諮るようになっていたが、 1724年の定数を承認せず、エカテリーナ1世(1725–1727)に対し、これを施行しないよう請願した。これに対し、彼女は同意を示した[1068] 。1724年の定数が承認されなかった結果、最高権力機関は修道院の領地問題を議論の対象とした。 最高秘密評議会と元老院は、すべてを現状のままとし、1724年の定数を導入しないことを決定した。これはある意味で、シノドの勝利と見なすことができた。なぜなら、経済局は依然としてシノドの一部門として機能しており、それによってシノドが同局の業務運営に及ぼす影響力が、ある程度維持されていたからである。 この状況は、その後、1727年2月6日の勅令によって確認された。[1069]
公式には経済局は依然としてシノドの管轄下にある機関であったが、アンナ女帝の治世下において、1733年3月17日の勅令により、同局はシノドではなく元老院に報告書を提出する義務を負うこととなり、シノドは元老院を通じてこれらの報告書に関する照会を受けることができた[1070] 。 このような比較的複雑な官僚的な報告制度は、1738年4月15日の勅令により廃止され、修道院の領地に関する問題は、シノドの管轄から完全に除外された[1071] 。
1738年4月から1744年7月15日まで、経済局は完全に上院の指揮下にあった。同局は、1677年以前および1701年以降に旧修道院局が有していたすべての権限を継承した[1072] 。教会および修道院の所有地にとって、これは最も過酷な時代であった。 一方、シノドにとっては、1739年1月2日の勅令が特に不快なものであった。 以前は、「教会規則の補遺」に従い、亡くなった司教や修道院長個人の財産や金銭はシノドの所有に移っていたが、このたび、すべての遺産を遅滞なく経済局の管理下に引き渡し、女王陛下の勅令がない限りそこから引き出さないという規定が導入された。[1073] 領地が荒廃したのは、その収入を上回る賦税が課されていたためであり、 さらに、ビロンが設立した馬産場の経費などに関連して、これらの賦税は頻繁に増額されていた。多くの領地には未納税が積み上がっており、既定の領地も未定の領地も、その状況は同様に耐え難いものだった。 アンナ女帝の時代に設立された滞納税徴収局は、滞納税を強制的に徴収するために軍隊を派遣した。修道院の領地の金庫や穀物倉庫が空っぽになっている場合、修道院の農民たちは文字通りの略奪にさらされた[1074] 。
エリザベータ女帝の治世下で、再び緩和策や改革が始まった。彼女が即位した直後(1741年)、シノドは教会の状況に関する書簡を女帝に提出し、その中で経済局の無能さを非難した。 しかし、それから3年後の1744年7月15日になってようやく、女帝は経済局を廃止し、教会および修道院の所有地の管理を再びシノドに委ねるよう命じた。この目的のために、シノド内にはシノド経済管理局([1075] )が設置された。 この事務局を管理するため、シノドは2人のアルヒマンドリトと1人のイグメーンを任命した。しかし、これらの行政改革は、修道院領地の経済状況の改善にはほとんど寄与しなかった。依然として、それらの領地には収入を上回る賦税が課されており、アンナ統治の年月を経て、これらの領地の農民たちは完全に破産状態に追い込まれていた。 新たに任命された管理者――これも昔と同様に、村の長老たちであった――は、極めて強硬な姿勢で業務に取りかかった。事態は、修道院の農民たちの反乱にまで発展した[1076] 。敬虔なエリザベータの治世において、政府が教会所有地に対する態度を改めるだろうというシノドの期待は、裏切られた。 これらの領地からの収入は、とっくに国庫に流れ込んでおり、国庫はもはやそれらなしでは成り立たなくなっていた。内面的な敬虔さや、教会階層や修道院に対する好意にもかかわらず、エリザベータは純粋に国家的・経済的な理由から、シノダの要望に応えることはできなかった[1077] 。 さらに、彼女は父であるピョートル大帝の考え方が正しいと固く確信していた[1078] 。政府は、教会所有地の完全な世俗化が必要であることを認識するようになった。 その準備として、1757年9月30日の勅令が発布された。これによれば、これらの領地の管理者に退役将校が任命され、これらの領地は地主が所有する領地と同様に課税対象となったが、修道院の維持のために徴収される貢納金は従来の額のまま維持された[1079] 。
エリザベータの後継者であるピョートル3世も、同様の方向へ断固たる一歩を踏み出した。1762年3月21日の勅令により、これらの領地の管理権はシノドの手から剥奪され、旧来の経済局が再び設置された。 上院に属する国家権力機関として、同局は退役将校を通じて領地を管理したが、これはすでに1757年9月30日の勅令で規定されていた[1080] 。1762年3月21日の勅令は、財政面についても全く新しい基盤の上で規定した。 これらの領地の農民は、全員に共通する人頭税(男性1人につき)70コペイカに加え、さらに1ルーブルを支払わなければならなかった。しかし、以前は教会や修道院の領地所有者のために耕作していた土地は、今や彼らの個人的な利用に移行した。 これにより、彼らは現物租税や強制労働から解放された国家農民となった。ルーブルによる税金は経済局に納められた。修道院および教区の司教たちは、1724年5月22日の定数表に基づき給養を受け、それは[1081] に増額さえされた。 この勅令の第6項は極めて特徴的である。地主と農民の間で、未納税や農民の反乱をめぐるすべての訴訟は、 殺人容疑を除き、取り下げられ、裁判記録は破棄されることとなった。 これは真の恩赦であり、エリザベータの治世における農民の騒動に関連するすべての訴訟を一挙に終結させた[1082] 。また、第7項も興味深い。これによれば、領地を管理していた将校は、収入が増加した場合、その増加分の10%を報奨金として受け取ることになっていた。 1762年4月6日の上院勅令により、経済局の設置と、修道院の運営のための定員表をできるだけ速やかに作成することが命じられた[1083] 。
この勅令が、教会階層の間で非常に大きな失望と不満を招いたことは知られている。モスクワ都主教ティモフェイは、著名なロストフ都主教アルセニイ・マツェエヴィチに次のように書き送っている。 「Nunc non Vestram Sanctitatem, sed omnes nos dolenda ista tetigit metamorfosis, quae vitam nostram ad gemitus et dolores ducit」[貴殿のみならず、私たち全員を、この悲しむべき変革が襲い、私たちの生活を嘆きと苦痛へと導いている][1084] 。 しかし実際には、モスクワ都主教が考えるような「変容」ではなく、多少の揺らぎはあったものの、エリザベータが実施してきた施策の論理的な延長線上にあった。この問題を解決するには最も適切な時期が到来していたが、おそらくはまずいくつかの予備措置を講じるべきだったかもしれない。さらに、この勅令は、A. ザヴヤロフが考えるほど「不公正」なものではなかった[1085] 。
エカテリーナ2世(1762–1796)の教会政策は、全体として彼女の個人的な宗教的見解の影響を免れてはいなかったが[1086] 、1764年の世俗化は、何よりもまず18世紀に行われた一連の施策の継続であり、その完結であった。 エカテリーナは、自らをピョートル大帝の改革事業の継承者と呼ぶことを好んだが、それこそが彼女の世俗化に対する根本的な姿勢を決定づけていた。彼女の個人的な宗教的見解は、改革が最短期間で実施される一因となった。 この改革が、教会の所有地の問題だけでなく、修道院や修道者の数にも及んだのは、エカテリーナが修道生活をキリスト教教会の制度と見なしていたことに関連していた。
おそらく、彼女の見解について簡潔に概説しておくことは無駄ではないだろう。 我々はすでに別の論考(注1081参照)で述べたように、18世紀のこの偉大な女帝は、表向きは母国の福音派とロシアのギリシャ正教という二つの信仰に属していたものの、内面的な敬虔さとは無縁であり、 彼女は宗教や教会に関する問題を、もっぱら国家・政治的な観点からのみ判断していた。このため、彼女は父親を落胆させるだけでなく、もし彼らが啓蒙時代のデイズム的思想の強い影響下に置かれていなければ、正教徒の臣民たちをも驚愕させることとなったのである。 エカテリーナ2世の宗教的見解は、デイズムの枠組みを超えるものではなかった。その卓越した知性と歴史的洞察力のおかげで、彼女は自らの宗教的見解を国民の大衆に押し付けることを控えた。 即位前から、エカテリーナは教会の儀式のあらゆる側面をいかに高く評価しているかを皆に示していた。 それによって女帝は、教会の上層部や民衆からの支持をますます獲得していった。これは、皇太子として、そして後に皇帝となった夫とは対照的であった。夫は儀式を軽視していたため、ロシア国民にとっては「よそ者」、すなわち「ドイツ人」であり続けたのである。 まさにこの「正教徒」である皇帝によるロシア正教会の伝統からの逸脱、そしてエリザベータ女帝の「良き時代」の後に再び国家による教会への露骨な干渉を露呈した彼の勅令こそが、聖職者層を深く不安にさせたのである[1087] 。 エカテリーナはこの心理的状況をよく理解しており、1762年6月28日のマニフェスト において、皇帝廃位の理由は何よりもまず宗教的な観点から説明された。「ロシア祖国のすべての直系の子らにとって、この一件そのものがロシア国家全体にどのような危険をもたらし始めたかが明らかになった。すなわち、 我らの正教のギリシャ法は、何よりもまず自らの動揺と教会伝承の抹殺を痛感した。そのため、我らのギリシャ教会は、ロシアにおける古来の正教の変容と異教の法の受容という、究極の危機に極めてさらされたままとなっていた」[1088] 。
エカテリーナは自らを「正教の女帝」と呼ぶことを好んだ[1089] 、そして彼女自身が著した治世の歴史には次のように記されている。「Catherine ytoit montée sur le trône; elle y avoit été mise pour défendre la foi orthodoxe」[エカテリーナは正教の信仰を守るために王座に就いた]。 彼女はまた、自らを「chef de l’Eglise grecque」[ギリシャ教会の長]あるいは「chef de son église」[自身の教会の長]とも称していた[1090] 。 彼女は、自らの活動を宗教的義務と捉えていることを喜んで強調しており、彼女の世界観においては、召命――「職業」――に対する宗教的態度というルター派の思想が、正教会の君主としてのキリスト教的義務という観念と結びついていた。 彼女が自身の「遺訓」のモットーとして選んだボシュエの言葉は、おそらくこうした彼女の信念と結びついて受け止められていたのだろう。「Seigneur mon Dieu! Sois attentif à ma voix et donne-moi de l’intelligence pour juger Ton peuple selon Ta sainte loi et selon la justice」 [わが神よ、私の声に耳を傾け、あなたの聖なる律法と正義に従って、あなたの民を裁く知恵を私に与えてください][1091] 。これが彼女の宗教性の公式な側面であった。しかし、エカテリーナの内面的な宗教生活を探ってみると、まったく異なる雰囲気が浮かび上がってくる。彼女の書簡や側近たちとの会話からは、別の姿が浮かび上がる。 彼女は「教会的な」人間ではなかった――教会の律法や慣習は彼女にとって単なる必要に過ぎず、内なる衝動からそれらに訴えることは決してなかった。このことが、ミハイル・ミハイロヴィチ・シェルバトフ公爵にとって、次のような疑問を投げかける根拠となった。「彼女には神の律法に対する信仰があるのだろうか? もし信仰を持っていたなら、神の律法そのものが彼女の心を正し、その足を真理の道へと導いたはずだ。しかし――そうではない! 彼女は新進作家たちの無意味な著作に酔いしれている。キリスト教の律法(彼女はかなり敬虔なふりをしているが)を、決して尊んではいない」[1092] 。 エカテリーナの教会政策は、即位前から彼女が述べた次の言葉によって最もよく特徴づけられる。「Respecter la religion, mais ne la faire entrer pour rien dans les affaires d’Etat」[信仰を尊重するが、決してそれを国政に介入させてはならない][1093] 。
エカテリーナの即位直後から、教会や修道院の所有地に関する問題が議論されるようになった。 1762年7月16日、すなわち彼女の即位から2週間後、上院は「聖職者たちの請願に基づき」、教会機関に領地を返還する決議を採択し、修道院の農民からは、1人当たりの賦税70コペイカに加えて、さらに1ルーブルを徴収することとした。 人頭税に加え、さらに1ルーブルを徴収することとし、これを2つに分割することとした。すなわち、50コペイカは傷痍軍人の扶養のために国庫へ、残りの50コペイカは修道院の農民が帰属する教会機関へ納められることとなった。 これらの領地の管理は、教会機関によって任命された管理者ではなく、農民によって選出された村長が行うこととなった。この勅令から2日後の7月18日、上院とシノドの合同会議が開かれたが、 この際、シノドのメンバーの意見は分かれたが、 、ディミトリ・セチェノフ大司教は、聖職者と政府の代表者からなる特別委員会を設置し、その委員会が教区司教座および修道院の定員を策定し、領地からの収入の配分方法を決定すべきであるとの見解を示した。
この会議の報告を受けたエカテリーナは、この件についてまだ明確な見解を固めておらず、1762年8月12日付の彼女のマニフェストは、おそらくA・P・ベストジュエフ伯爵とこの問題について協議した後に公布されたものと思われる[1094] 。 この極めて冗長なマニフェスト[1095] は、前述のピョートル3世の勅令に対して不承認の意を示しており、エカテリーナが、ピョートルの教会所有地に対する姿勢を理解できず、彼が始めた事業をその精神に沿って継続しようとしなかった先王たちの施策に対して、批判的な態度をとっていたことを示している。 「我々は、教会の財産を自らに帰属させる意図も願望も持たない――」とマニフェストには記されている。「ただ、神から与えられた権威をもって、神の栄光と祖国の利益のために、それらをより良く活用するための法律を定めるのみである。 そのため、神の御加護のもと、我々は、最も愛すべき我らの祖父である皇帝ピョートル大帝が従った教会法に準じて、聖職者全体の制度を完璧なものとするつもりであり、そのために、聖職者および世俗の人物からなる特別委員会を、我々の直接の指揮下で設置する」。 さらに、上院の決議(7月16日付)および聖公会の請願に言及し、この勅令は、当該委員会が活動を開始し、決定を下すまでの間、1)所有地を聖職者に返還すること、2) 経済委員会を廃止し、将校たちを管理職から解任すること、3) 修道院の農民から1ルーブルの頭割り税、あるいは「その土地の状況や必要性に応じて」徴収すること。農民は引き続き労働に動員するが、その際「いかなる過剰な徴収や不必要な労働によっても疲弊させてはならない」。
1762年11月29日、新たな皇帝勅令により教会所有地委員会が設置され、その委員のうち3名は教会を、5名は政府を代表していた[1096] 。委員会はその活動のために特別な指示書を受け取った。 「我々は、」と指示書の末尾には記されている、「教会の財産が、神の御業、すなわち敬虔の確立と国民の利益のために、最善の形で活用されることを望む」。 マニフェストの目的は立派なものだったが、残念ながら、それは敬虔さの向上にはつながらず、国民にも利益をもたらさなかった。この委員会の設置に関連して、政府はさらにいくつかの追加勅令を公布した。
1763年1月8日には、エカテリーナによる新たなマニフェストが発表された。そこから読み取れるのは、第一に、ピョートル3世の勅令と8月12日のマニフェストが、修道院の農民たちに混乱と、追加の人頭税を納めることへの抵抗感を引き起こしたこと、そして第二に、 聖職者たちは、おそらく自らの手に返還された領地の管理にあまりに熱心に取りかかったため、最後のマニフェストでは、農民を「良好な秩序」のうちに「維持」するよう勧告がなされた[1097] 。1763年5月12日、エカテリーナは聖職者領地経済局を設立した[1098] 。 経済局は世俗の官吏で構成され、女帝と元老院の直属機関であったが、純粋に宗教的な事案に限り、シノドに諮らなければならなかった。 そしてついに、1764年2月26日、教会所有地に関する有名な勅令が公布され、1503年から続く教会と国家間の長きにわたる論争に終止符が打たれた[1099] 。
この立法措置の最も重要な規定は以下の通りであった。1. シノド、教区司教座、修道院、および教区が所有するすべての領地は、経済局に最終的に移管された。すべての教会機関は、これらの領地の管理から排除された。 これらの領地に住む農民は、1760年の調査時点で910,866「レヴィズ・ドゥシュ」(すなわち男性のみの人数であり、この数にはさらにその家族が加算される)に上り、経済局の管轄下に移管され、以後「経済農民」と呼ばれるようになった。 2. 1764年1月1日以降、農民は労役や各種の賦課に代わり、1人あたり1.5ルーブルの頭税を納める義務を負うこととなり、この税金は 経済局を通じて国庫に納められた。 3. かつて土地を所有していた教会機関――教区司教座、修道院、および教区教会――の維持のために、経済局は一定の金額を割り当てることになっていた。 4. 教区は3つの階級に分けられ、その維持費は階級に応じて割り当てられた。5. 修道院については、当初は「大ロシア」の修道院のみ、すなわちキエフ都主教の管轄下にあったものを除く修道院を対象に、修道院定数表[1100] が作成された。
修道院の定数は、私たちにとって2つの点で重要である。第一に、そこには、これらの定数に従って毎年維持費を受け取っていた修道院の数が明記されていること。第二に、定数に含まれる修道院が3つの階級に分けられていたことである。
後のロシア修道史において、前者の点は後者よりも重要であることが判明した。修道院の数は大幅に削減され、すなわち多くの修道院が完全に閉鎖されるか、他の修道院と統合された。しかし、定数に含まれていなかった一部の修道院――いわゆる「定数外修道院」――は存続が認められた。 これら2つのカテゴリーの修道院の将来は、財政面だけでなく、とりわけ重要な点として、その内部における霊的発展の面でも異なっていた。こうして、修道院だけでなく修道士においても、2つの異なるタイプ、2つの異なる修道生活様式、2つの異なる禁欲の道が生まれたのである。 修道生活の基盤である修道院規則は、長い間その重要性を失っていた。
1700年から1701年にかけて、ロシアには1201の修道院があり、そのうち965が男子修道院、236が女子修道院であった[1101] 。 1721年1月21日、ピョートル大帝は、一部の修道院を閉鎖し、修道者の数が少ない他の修道院をより大規模な修道院に統合するとともに、修道者の数を削減するよう命じた。 『布告』(1724年)にも、修道士の数を削減する旨の指示が含まれている。「宗教規則」(§46、修道士に関する条項)では、1つの修道院における修道士の数が30人を超えないよう推奨されていた。 18世紀、1764年までに相応の措置が講じられ、この期間中に175の修道院(男子141、女子34)が閉鎖または統合により規模が縮小されたが、一方で1700年から1744年にかけて、33の新しい男子修道院と4つの女子修道院が開設された[1102] 。 これらのデータは必ずしも信頼できるものではない。なぜなら、聖公会とその機関が情報を得ていたのは、領地を所有してその収入で運営されていた、いわゆる「指定修道院」に限られていたからである。領地を所有せず、「非指定修道院」や「小規模修道院」に分類されていた小さな修道院は、しばしば消滅していたが、聖公会にはそのことに関する情報が一切なかった。 1738年から1741年にかけて、維持費を受けていた修道院は624か所あった[1103] 。
1764年2月26日の法令に基づき、修道院の定員には以下が盛り込まれた:
第1級 第2級 第3級 計
大修道院(アレクサンドロ・ネフスキー大修道院およびトロイツェ=セルギエフ大修道院) 2 – 2
男子修道院 15 41 100 156
女子修道院 4 18 45 67
経済局から支給されるべき維持費は、以下の額(ルーブル)に定められた:
第1級 第2級 第3級 合計
ラヴラ(アレクサンドロ・ネフスカヤおよびトロイツェ=セルギエヴァ)[1104] 2 10070 – - 2
男子修道院 15 2017.5 41 1311.9 100806.3 156
女子修道院 4 2009,[1105] 18475,8 375,6 67 225 207750,4
1762年1月1日付の[1106] の聖会報告によると、全教区において、領地を有するものとしないものを合わせて954の修道院があり、11,153人の修道者が在籍していた[1107] 。1764年の世俗化後、聖会は418の修道院を廃止することを決定した。 残った536の修道院のうち、226は国家から維持費を受けており、残りの310の修道院は民衆の自発的な献金によって存続しなければならなかった[1108] 。こうして、「定額給制」と「非定額給制」という2種類の修道院が生まれた。 1764年3月31日、非国営修道院も3つの階級に区分するという追加の布告が出された。第1階級は20の修道院、第2階級は56、第3階級は85で、計161の修道院に1247人の修道士が所属していた。 これらは、民衆の自発的な献金、あるいは修道院の近くに位置する無人地を修道士たちが自らの力で耕作することで維持されることになっていた。残りの149の修道院も閉鎖の対象となった。こうして、正規の修道院226カ所と非正規の修道院161カ所、計387カ所が残った[1109] 。
1764年の世俗化改革は、大ロシアの修道院にのみ及んだ。 22年後の1786年には、キエフ、チェルニヒウ、ノヴゴロド・セヴェルスキーの各州でも同様の措置が講じられ、1788年にはハリコフ、エカテリノスラフ、クルスク、ヴォロネジの各州でも実施された[1110] 。
定数で定められた修道院への支給額は、実際にはあまりにも少なすぎた。 その額は修道者たちの生活費をまかなうのがやっとで、修道院の建物は年々老朽化し崩壊していったが、修道院長たちは、そのことを報告すれば修道院が廃止されてしまうことを恐れて、シノドに報告しなかった。修道院の財政状況を改善するため、修道院長たちは定数で定められた修道者の数を削減しようと努めた。 そのため、最大規模の修道院を除くすべての場所で、修道士の数はまもなく定数よりも少なくなってしまった。すでに1771年には、修道院には527の空席があった[1111] 。
これが、1764年の世俗化直後の修道院の外部状況と修道院生活の実態であった。修道院と修道生活は、その歴史における新たな時代へと突入した。 状況は厳しいものであったが、教会の上層部と修道士たちは自らこれらの困難を克服する道を探さなければならなかった。そして、修道院が貧困化した今、純粋に禁欲的な基盤の上に修道生活を改革することが可能となった。
1764年の教会所有地の世俗化は、ロシア正教会における修道生活にとって全く新しい状況を生み出した。一見すれば、世俗化は、修道生活に対する経済活動による世俗化の影響に終止符を打つはずであった。 聖会および各教区の主教たちは、この状況を踏まえて、修道院生活の改革を策定するか、少なくともその改善に向けた実効性のある措置を講じる必要があった。しかし、何一つ行われず、この問題はそもそも真剣に議論されることもなかった。 世俗化から20~30年が経過した後のことになって初めて、個々の司教による(しかも彼ら自身の個人的な主導による)修道院の生活環境を何らかの形で改善しようとする試みが見られるようになったが、それは世俗化の過程が修道生活の中にますます深く浸透していった時期に行われたものであった。 一方では、これらは限定的で局所的な性格を持つ孤立した事例に過ぎず、他方では、これらの試みの背後には、よく練られた改革プログラムが感じられなかった。それでもなお、後で見るように、これらの試みは個々の修道院の生活に無影響で終わったわけではなく、そこに有益な影響を与えた。 しかし、こうした な改善の好影響が現れた際でさえ、聖公会は好機を活かすことはなかった。聖公会側は、中途半端な措置を講じるか、あるいは直接的な対抗措置とはいえないまでも、修道院生活においてすでに生じていた改善の効果を弱めるような、否定的な性格の措置を講じていた。
1764年の世俗化の実施に際し、教会界ではこの改革に対して二つの異なる見解が形成された。 一つの見解は、国家が教会の財産を世俗化する権利を原則的に否定するものであった。もう一つの見解は、純粋に実践的な性格を帯びており、すなわち、世俗化が教会とその機関に及ぼす影響についての考察、そのマイナス面とプラス面の比較検討、そして新たな状況に適応したこれらの機関の運営体制の構築に焦点を当てたものであった。 我々の研究から明らかなように、教会は以前から国家によるそのような行為の権利を決して認めておらず、世俗化後の現在においても、国家によって略奪されたと見なしていた。とはいえ、国家は没収された財産の代わりに国庫から教会に維持費を支払っていたが、 確かに没収された領地からの収入には及ばなかったものの、それでも少なからぬ額であり、本質的に教会を絶望的な状況に追い込んだわけでは決してなかった。さらに、後述するように、この維持費は後に増額されたのである。 世俗化は、ピョートル大帝の時代に導入され、エカテリーナ時代に最終的に定着した「国家教会制」の論理的な帰結であった。エカテリーナ治世における絶対主義的な皇帝権力の強化に伴い、国家教会制に対する教会のあらゆる抵抗は絶望的なものとなった。 したがって、教会にとっては、世俗化の実務的な側面を考慮し、新たな立場に適応することが必要であった。エカテリーナの改革のこの側面を考慮することは、修道界にとって特に重要であった。なぜなら、新たな状況を認めることで、修道院の内部生活における抜本的な改革に取り組むことができたからである。 しかし、修道界はそうしなかった。もし教会が、教会所有地に対する権利の回復に全力を注いでいたならば、このことは正当化できたかもしれない。 教会の上層部は密かに、世俗化を一種の教会に対する略奪と見なしていたが、表立った反対は、ロストフ都主教アルセニイ・マツェエヴィチによる有名な演説にのみ表れ、彼は上層部や修道界の中で明確な支持を得ることができなかった。 おそらくこれは、世俗化による経済的影響が、聖職者階級や修道者たちのすべての関心を惹きつけていたためであろう。 修道界は明確かつ実効性のある反対を示さなかった――18世紀のあらゆる政府による措置を経て、修道界はそれを行うにはあまりにも力を失い、内部から押しつぶされており、教会生活に対する影響力があまりにも乏しくなっていたため、世俗化に反対したり、公然と抗議したりする勇気を持てなかったのだ。
アルセニー・マツェエヴィチは、南ロシア、すなわちマロロシア出身であり、ピョートル大帝の時代にロシア正教会内でますます影響力を増していった18世紀の主教の一人であった。 大ロシアの司教団を信用していなかったツァーリは、南ロシアの聖職階層の代表者たちに好意を抱き、彼らを喜んで主教座に任命した[1112] 。 アルセニーは1697年、ヴォロディミル=ヴォリンスキー(ヴォリニ地方)の教区司祭の家庭に生まれ、当初はポーランドで学んだ。1715年にはすでにキエフ神学アカデミーの学生となっていたが、1年後に同校を中退し、修道院に入門した; 修道院で2年間を過ごした後、教育を修了するために再びアカデミーに戻った。 1723年、彼は修道司祭となり、アカデミーの付属教会で説教者となった。その後、さらに2、3年(1728年~1730年)を修道院で過ごしたが、1730年にシベリアのトボリスクへ教区説教者として派遣された。 彼はそこに長くは留まらず、ソロヴェツキー修道院に短期間滞在した後、1734年にカムチャツカ半島への遠征隊の告解司祭として赴いた。 病気のためアルセニーはロシアに戻り、しばらくヴォロゴダの主教邸で暮らしたが、1738年にはサンクトペテルブルクで修道司祭兼教理教師を務めた。 まったく予期せぬことに、1741年3月26日、彼はトボリスク都主教に叙任されたが、トボリスクでの務めは長くは続かず、1742年には由緒あるロストフ主教座に就いた。ここで彼は、卓越した説教者であり、威厳ある教区主教としての才能を発揮した。
アルセニーは極めて強い性格の持ち主で、頑固かつ病的なほど短気だった。彼の教会・政治に関する見解は、もしピョートル大帝の時代に生きていたならば、強い不信感を抱かれたであろうようなものであった。 アルセニーは、 のロシアにおける国家と教会との新たな関係に断固として反対しており、ピョートル時代の国家主導の教会政策に対しては、極めて否定的な態度と非難を示していた。ピョートル3世の時代、同皇帝が教会の所有地に関する勅令を発布した際、アルセニーは皇帝の勅令に最も強い不満を抱く聖職者たちの先頭に立っていた。 エカテリーナ帝の治世下、1762年8月12日および11月29日のマニフェストに基づき、教会および修道院の所有地の目録作成が命じられた際、アルセニーはこれらの措置に公然と反対した。彼はシノドに2通の「上申書」[1113] を送り、その中で11月29日の勅令を極めて厳しく非難した。 彼は、教会の財産は不可侵であるという立場を貫き、教会の所有地を奪うことを敢えてしなかった異教徒のタタール人のハンたちを例に挙げた。 アルセニーは、国家が教会の機関の経済活動に干渉し、その所有地からの収入を国家の目的のために使用する権利を認めなかった。彼は、ピョートル大帝によって導入された教区司教座や修道院の定数制度を強く非難していた。 もし事態がこのまま進めば、アルセニーは、ロシア帝国はプロテスタント国家、あるいはさらに悪いことに無神論国家へと変貌し、司教団と修道院は完全に衰退し、教会と敬虔さはほぼ消滅してしまうだろうと考えていた。
シノドは、ロストフ都主教の「報告書」を女帝に提出することを決定した。 皇后は、これらの著作の内容と表現に憤慨し、そこに自分に対する個人的な侮辱を感じ取ったため、シノドに対し、陛下への侮辱、反逆的な気風、そして国民の福祉に敵対する見解を理由に、アルセニイの司教職を剥奪し、北方の僻地にある修道院へ追放するよう命じた。 1767年、アルセニイが自らの見解を変えておらず、自身を不当に有罪とされたと考えていること、また民衆からは真理のための殉教者として崇められていることが明らかになった。さらに、皇后への報告によれば、彼は会話の中で、彼女の即位に関するある事情や、ピョートル3世の突然の死についてほのめかすような発言を平然と行っていたため、 ――エカテリーナは、アルセニーを再び裁判にかけるよう命じた。今回、彼は修道士としての資格を剥奪され、レヴェル要塞に投獄された。 アルセニイはさらに5年間、獄中で過ごした。名簿には「犯罪者アンドレイ・ヴラル」という名前で記載されていた。彼は極小の独房に収容され、そこで1772年に死去した。[1114] 要塞の司令官宛ての手紙の中で、エカテリーナはアルセニーを「悪党であり偽善者」と呼んでいた[1115] 。もちろん、これは囚人の性格とは全く合致しないものであった。なぜなら、偽善的だったのは彼女自身であり、マツェエヴィチの運命は、エカテリーナ自身にも、彼女の教会政策にも、いつまでも影を落とすことになるからである。
ロストフ都主教の悲劇的な運命は、教会の上層部に強烈かつ不気味な印象を与え、彼らに世俗化の進行を黙って見守ることを強いた。 トボリスク都主教パヴェル・コニュスケヴィチ(1758–1768)だけが、自身の教区における修道院の閉鎖に抗議したが、成功しなかった[1116] 。修道者たちもまた、公然と抗議する勇気は持てなかった[1117] 。
1764年の世俗化によって生じた状況は、そのまま固定されたわけではなかった。事実上(de facto)、教会の所有地は消滅したが、法的に(de jure)、国家は教会機関の土地所有権を廃止しておらず、その後の100年間にわたり、国家の立法は教会の土地所有に対して様々な優遇措置を定めた。 19世紀における個々の修道院の土地面積は、16~17世紀ほどの規模にはもはや達していなかったが、それでも修道院は相変わらず土地の購入をかなり成功裏に行っていた。 19世紀になっても、一部の修道院は富を蓄積していった。さらに、金銭の寄贈や宝石の寄付により、個々の修道院は相当な富を築いた。 、16世紀と同様に、19世紀においても多くの修道院は多額の資本を保有しており、修道院長は修道院の繁栄を図るためにそれを非常に巧みに活用していた。
世俗化は修道院数の増加に歯止めをかけることはなかった。1764年から1917年にかけて多くの修道院が廃止されたが、同時に新しい修道院も開設された。1701年から19世紀半ばまで、1764年の世俗化の前後を含めて、閉鎖された修道院はわずか822に過ぎなかった[1118] 。
閉鎖された修道院(シベリアを除く) 男子 女子 計
18世紀初頭から1764年まで 141 34 175
1764年の世俗化の際 471 118 589
1764年以降から18世紀末まで 35 8 43
19世紀前半 13 2 15
合計 660 162 822
再開(シベリアを除く) 男性 女性 合計
18世紀 18 4 22
19世紀 15 2 17
合計 33 6 39 33 6 39
世俗化後も、226の正規修道院と161の非正規修道院、計387(大ロシアにおいて)が残っていた。 19世紀初頭、南ロシアとベラルーシで40の修道院が閉鎖された際、帝国全体に残っていたのはわずか452の修道院のみであった。19世紀における修道院数の推移は以下の通りである:
年 男子修道院 女子修道院 合計
1810 358 94 452
1825 377 99 476
1836 360 101 461
1855 415 129 544
1887 469 202 671
1893 507 235 742
1907 522 448 970
1914 550 475 1025
なお、男子修道院の数は、主に廃止されていた古い修道院が復活したことによるものであったのに対し、女子修道院は新たに開設されたか、あるいは修道女共同体が修道院へと改組されたものだった(これについては第XIV章4節を参照)。 このように、19世紀の間に修道院の数は2倍以上に増加した(女子修道院の数は94から475へと増加した)。1764年には帝国全体で約1070の修道院があったが、1914年にはさらにその数が増加した[1119] 。
この修道院数の増加を後押ししたのは、1764年以降、修道院に関する多くの新しい勅令が公布され、それらが1764年の法制度を大幅に変更したという事情であった。エカテリーナ帝の治世の時点で、すでに最高権力者の承認と許可を得て、新しい修道院を開設したり、古い修道院を再開したりすることが認められていた[1120] 。 エカテリーナの息子であるパヴェル1世皇帝(1796–1801)は、一部には修道生活への好意から、また一部には母のすべての布告に反対していたことから、1764年の法令を大幅に緩和した。 1797年、修道院は、所有する未利用の土地(菜園、草地、および一部の放牧地)を30デシチンまで拡大することが許可された; また、修道院は、修道院の建物からかなり離れた場所(以前は15ヴェルスト以内)に水車小屋や養魚用の池を設置する権利を得た[1121] 。 同時に、修道院の定数 が変更され、修道士たちの生活費の支給額が引き上げられた。定数外の修道院も、国庫から毎年300ルーブルの支給を受けるようになった[1122] 。 1805年6月8日の勅令により、すでにアレクサンドル1世(1801–1825)の治世下で、修道院は、土地を必要とする場合、寄贈や遺贈によって無人地を取得できるようになったが、土地の購入には最高権力者の許可が必要とされた。 修道院にとって非常に重要だったのは、特定の種類の土地を地租から免除するという規定でもあり、これは後に1857年の法典で確認され、いくつかの変更を加えられつつ、1917年まで法律として効力を保った。[1123] この政策はニコライ1世の治世(1825–1855)においても継続され、1797年の勅令は単に再確認された(1835年)だけでなく、個別の事例においては土地取得の条件がさらに有利になった。 最高権力者の許可を得て、教区司教座や修道院が、最大300デシチンまでの無人地を取得することが非常に頻繁に行われていた。 ただ、居住地に関しては、政府は1764年の法令の立場を堅持した。1841年、それまでまだ保有されていた西部諸州の修道院からそのような土地が没収され、これらの修道院に対しては1842年に特別な定員表が作成された。[1124]
1836年から1861年にかけて、さまざまな修道院が国営林務局から9,000デシチンの耕地と16,000デシチンの森林を取得した。この種の取得は、19世紀の70年代から80年代にかけても珍しくなかった。[1125] 1861年の新定数表に基づき、修道院への年額支給額は168~200ルーブル増額された[1126] 。1867年には、定数外の修道院のみが国家からの金銭的補助金の支給停止となった[1127] 。1881年、定数内の修道院は国庫から最大425,000ルーブルを受け取った。[1128]
19世紀における修道院の経済状況は絶えず改善していった。修道院は、さまざまな階層の人々、とりわけニコライ1世の治世下で急速に富を築き、数百万ルーブルの資本を蓄積した商人たちから多額の寄付を受けていた。 修道院には金銭や貴重品(イコン、鐘、祭服など)が寄贈され、慈善家たちは自費で修道院の教会やその他の建物を建設した。修道院自体も大規模な建設事業を展開したため、大きな石造りの教会や建物が登場したことで、その外観は劇的に変化した。
こうした建物は、正規の修道院における共同生活規律の導入に関連して建設されることが多かった。その一例として、ニコロ・ウグレシュ修道院(モスクワ近郊)の院長であったアルヒマンドリト・ピメンの『回想録』が挙げられる。 この『回想録』には、19世紀初頭から70年代末にかけてのモスクワ教区における修道生活の細部が数多く記されている。修道院は都市部に大きな石造りの家屋を取得しようと努め、そこから少なからぬ利益を得ていた。19世紀半ばには、一部の修道院が収益性の高い酪農や野菜栽培を営むことに成功した。 さらに、修道院には多額の寄付も寄せられていた。アルヒマンドリト・ピメンの『回想録』によれば、19世紀には多くの修道院の財政状況は十分に回復しており、18世紀後半の貧困ぶりについては、もはや修道院の年代記や、修道院の古参者たちの語りからしか知ることができなかった[1129] 。
他の教区における修道院の富の蓄積に関する興味深い詳細は、サヴァ・ティホミロフ大司教(1819–1896)の『私の生涯の年代記』に多く記されている。 彼はその長い生涯の間に、ポロツク教区(1866–1874)、ハリコフ教区(1874–1879)、トヴェリ教区(1879–1896)の3つの教区を統括した。 極めて詳細に記され、多くの文書や書簡などを含む彼の『年代記』は、中流および富裕な商人階級、貴族、その他の階層の人々から、修道院へとどれほど多くの寄付が寄せられていたかを物語っている[1130] 。
聖シノドの首席検事による年次報告書からは、19~20世紀にかけて、様々な階層の人々から修道院が受けた、貴重品や不動産といった数多くの寄進について知ることができる。 これらの寄進がいかに多大であったかは、例えば、オルロヴァ=チェスメンスカヤ伯爵夫人が1848年に作成した遺言書において、340の修道院に少なくとも170万ルーブルを寄付するよう指示した事実から推し量ることができる。 (修道院1か所あたり5,000ルーブル)を寄付するよう遺言で定めたことからも、その規模の大きさがうかがえる。さらに、彼女はソロヴェツキー修道院、ユリエフ修道院、およびポチャエフ大修道院(ヴォリニ地方)に貴重な品々を寄贈した[1131] 。しかし、修道院がこれらの富のすべてを運営資金として活用することはできなかった点に留意する必要がある。 第一に、多くの寄進は――これは寄進者の宗教心による特徴であるが――教会の豪華な装飾や礼拝のためにのみ用いられ、 具体的には、金枠や宝石をあしらった数多くのイコン、金や宝石で装飾された祭服、礼拝用器物、金や銀で装飾されたイコノスタスなどが挙げられる。 華やかな礼拝への傾倒と愛着は、16世紀のみならず、19世紀や20世紀においても、ロシアの敬虔さに特有の傾向であった。[1132] しかし、すべての寄進がそのような性質を持っていたと断じるのは不公平だろう。すでに言及した アルヒマンドリト・ピメンの『回想録』やサヴァ大司教の『年代記』から、特定の啓蒙・慈善目的、すなわち孤児院や病院、学校の建設のために修道院へ多額の金銭が寄進され、そこで多くの子供たちに奨学金が支給されていた事例が数多く知られている。 こうした寄付のおかげで、主に女子修道院は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、大規模な啓蒙・慈善活動を展開することができた[1133] 。その成否は、修道院長の考え方に大きく左右された。 例えば、それほど裕福ではなかったヴェルコル修道院(ロシア北部)は、修道院長であるアルヒマンドリト・フェオドシイ・オレホフ(1829–1882)の精力的な取り組みにより、1870年代に大規模な啓蒙活動を展開することに成功した[1134] 。
もちろん、すべての修道院がその財力に見合った慈善活動を行っていたわけではなく、それはしばしば社会からの批判を招き、特に1860~70年代の新聞や雑誌ではその批判が激しかった。 全体として、20世紀初頭のロシアには、 修道者たちや修道院そのものを維持するのに十分な資金を持たない修道院は存在しなかったと言える(もっとも、これらの資金は各修道院間で不均等に分配されていたが)。そうでなければ、彼らは慈善活動を拡大することはできなかっただろう。
シノダル時代、修道院生活の負の側面が目に付くものであり、教会の上層部にも知られていたにもかかわらず、当初は状況の改善に向けた真剣な措置が提案されることも、実施されることもなかった。
『霊的規則の補遺』(1722年)は、修道生活、修道院の生活、および修道院の管理に関連するすべての問題に特化して扱っていた。この文書では、修道生活について以下の5つの章が割かれている:1)「誰を、どのようにして修道士として受け入れるか」; 2)「修道士の生活について」;3)「尼僧について」;4)「修道院について」;5)「修道院長について」。その内容から見て、これは厳密に定式化された指令でもなければ、修道院の規則でもない。 『補遺』は過度に一般化された形式で書かれており、修道生活のためのものというよりは、むしろ修道生活について記されたものである。 修道院の院長に関する章でさえ、同様の様式で構成されている。それでもなお、「補遺」は、すべての修道院に共通する統一的な共同生活規則を策定するための基礎となり得た[1135] 。おそらく、「補遺」の編纂者であるテオファン・プロコポヴィチは、この方向でさらに作業を進めるつもりだったのだろう。
1723年、彼はおそらくピョートルの意向により、サンクトペテルブルクに新設されたアレクサンドル・ネフスキー修道院のための規則書――『アレクサンドル・ネフスキー修道院の修道士たちの修道生活に関する記述』[1136] ――を執筆した。これは4つの章から成っている:1) 「修道生活に関する記述」;2)「教会集会および共同の祈りについて」;3)「修道士たちの食事の集いの儀礼に関する記述」;4)「代理修道院長(ナメストニク)の職務」。
その1年後、1724年1月31日付の、我々が知るあの勅令が公布された。そこには、すでにここで引用した、いわゆる「修道生活に関する布告」[1137] が含まれている。「布告」もまた、規則というよりはむしろ論説の性格を帯びている。 これらテオファンの論考はいずれも共同生活を称揚していたものの、結局のところ単なる論考にとどまり、修道院の生活に実効的な影響を与えることはなかった。教区の聖職者たちからも、キノヴィアの原則に基づいて修道院生活を再構築するための特別な措置は講じられなかった。
一方で、修道院の領地に関する布告や、アンナ女帝時代の調査は、修道者たちにとって無影響で済んだわけではなく、むしろ肯定的な影響よりも否定的な影響をもたらした。修道院の内部生活が、18世紀前半に見られたような衰退をこれほどまでに経験したことはかつてなかったと断言できる。 公式には、共同生活規律を遵守する修道院もあれば、個別生活規律を遵守する修道院もあったが、実際には修道士たちの生活はこれほどまでに混乱と無秩序に陥っており、その中に見られる様々な現象は、公布された規定や勅令に対する理解不足によってのみ説明し得るものであった。 シノド自身も、摂政アンナ・レオポルドヴナへの報告書の中で、修道界には「現在……衰退が見られる」との結論に達し、ロシアの修道界が完全な消滅の瀬戸際に立っているとの懸念を表明した[1138] 。
この調査がどれほど恐ろしい結果をもたらしたかについては、例えば、1692年に設立されたサロフの修道院の歴史が物語っている。 イオアン(†1737)とドロフェイ(1731–1746)という両住職の精力と禁欲的な姿勢のおかげで、ここでは当初から厳格な共同生活規則が導入され、修道士たちの生活は相当な霊的高みにあった。 しかし、アンナ帝の治世下で始まった修道者への迫害により、2~3の十年間で全てが混乱と無秩序に陥り、その結果、18世紀後半になってようやく、 の修道院長エフレム(1758–1777)とパホミイ (1777–1794)が、再び共同生活規律を復活させ、この修道院を真に禁欲的な修行の場へと変えることに成功した[1139] 。
重要なのは、新しい修道院の創設や古い修道院の復活が、実績のある修行者たちに委ねられていたという点である。 例えば、イグメン・フィラレート(1773–1841)の活動は成功を収め、彼はアトス山の厳格な共同生活規則を導入することで、グリンスカヤ・ボゴロディツカヤ隠修院(クルスク教区)の生活を文字通り一変させることに成功した。その結果、19世紀前半には この修道院は、禁欲主義の理想の復興において大きな役割を果たした。さらにフィラレートは、『新入修道士への詳細な教訓』を著し、これは当時、修道界で広く普及した[1140] 。 修道院の共同生活の復活に向けて特に多大な貢献をしたのは、サンクトペテルブルクおよびノヴゴロドのガヴリイール・ペトロフ大主教であり、彼はまた、修道院における長老制の導入を奨励したが、これについては後述する。 彼の教区では、18世紀60年代、そしてその後80年代から90年代にかけて、共同生活規律に基づき、6つの修道院の生活が再構築された。 ガブリエルは長老テオファン・ソコロフの協力を得て『共同生活規則』を策定し、これを管区内の各修道院の院長に送付して、修道士たちにこの種の修道生活への意欲を喚起させた[1141] 。
前述の通り、1764年の修道院規定により、残存する修道院は「正規」と「非正規」の2つのカテゴリーに分類された。 非国営修道院は、信者たちの自発的な献金や寄付によってのみ存続することができた。この結果、多くの非国営修道院は完全に消滅し、他の修道院では住職の数が絶えず減少し、多くの者がまだ空きのある国営修道院へ移ったり、南ロシアへ向かったりした。 高い禁欲精神を持つ修道士たちはアトス山やモルダヴィアへと去っていったが、そのうちの何人かは後に再びロシアに戻り、18世紀最後の四半世紀における修道生活の復興において重要な役割を果たした。
国営修道院の状況はより良好で、国家から、質素ではあるものの確実に定められた給養を受けていた。そこでは、共同生活の規則を回復し維持するための適切な条件が整っていた。 しかし、残念ながら、教会当局からはこの方向に向けた重要な措置は一切講じられなかった[1142] 。19世紀の様々な史料から見てとれるように、国営修道院は、ごく稀な例外を除き、共同生活規則ではなく個別生活規則に基づいて運営されており、しかもその規則さえも厳格には遵守されていなかった。 修道士たちは修道院から個室と食事を支給されていたが、食事は時に食堂ではなく個室に保管されていた。生活に必要なその他すべてのもの、例えば衣服などは、自ら調達しなければならず、そのための資金として修道院から一定額が支給されていた; 彼らにはいかなる奉仕の務めも課されていなかったが、もし何らかの奉仕の務めを任された場合は、その見返りとしてより多くの金銭が支給された。義務とされていたのは礼拝に出席することだけであり、それ以外の時間には修道士たちは修道院の外に出ることができた。このような状況下では、修道院長は修道士たちを常時監督することなど到底できなかった。 当然のことながら、常設修道院におけるこのような修道士たちの生活様式は、修道生活の禁欲的な原則に合致していなかった[1143] 。常設修道院の秩序回復に向けた様々な措置が講じられたものの、それらはあくまで個別の修道院に限られたものであり、19世紀には修道生活の精神的レベルは低下の一途をたどった。 1821年にフィラレート・ドロズドフ大司教が管区を初めて巡回した際、彼は 、特に国営修道院における修道士たちの生活に強い不満を抱いた[1144] 。 その大部分は共同生活規律を遵守しておらず、修道者たちは極めて自由気ままな生活環境に慣れきっていたため、共同生活を導入しようとする試みには激しく反発した。
アルヒマンドリット・ピメンは『回想録』の中で、共同生活規律への拒絶が国営修道院で非常に広まっていたと記している。 才能に恵まれ、活動的なフィラレート都主教でさえ、自らの名において共同生活規則を導入することを恐れ、個々の修道院長を通じて、彼らがそれぞれの修道院で徐々にこの規則を浸透させるという迂回的な方法を好んだ。 例えば、ウグレシュ修道院では、創設(1380年)当初から1764年まで共同生活規律が採用されていたが、修道院長は1853年になってようやく、修道士たちの抵抗を乗り越えてこれを再び導入することに成功した。その後、一部の修道士は修道院を去った。 19世紀の60~70年代には、モスクワ教区(モスクワ市外)の正規修道院のうち、共同生活規則に移行したのはわずか10か所のみであったが、これは主に、ここで言及したピメン[1145] の尽力によるものである。個々の修道院長の個人的な率先垂範が、この件において最も重要な役割を果たした。 ニカンドロヴァ修道院(プスコフ県)では、1800年に院長によって共同生活規則が導入されたが、修道院生活の基盤として修道士団によって最終的に受け入れられたのは1817年になってからであった[1146] 。 イラリオン修道院長も、ラドガ湖の島にあるコネフスキー修道院の院長(1805–1823)として、極めて厳格な共同生活規則を復活させようとした際、同様の困難に直面した(当時、この修道院は公認外であり、完全に荒廃していた); ティフヴィンのウスペンスキー修道院を統括していた時期(1823–1851)にも、彼には同様の困難が降りかかった[1147] 。こうした状況下で、個々の修道院長による個人的なイニシアチブがどれほど成功を収めることができたかを示すのが、ヴォロゴダ教区のイオナ修道院長による活動である。 19世紀前半の20年間にわたり、彼は文字通り6か所以上の修道院の生活を再構築し、変革した。彼は農民の家庭に生まれ、特別な教育を受けることはできなかったが、厳格で、物欲のない修道士であり、優れた行政能力を備えた修道院長であった。 彼は、禁欲主義の文献というよりはむしろ、自身の修行体験から、真の修道生活に関する正しい認識を汲み取り、修道院生活から様々な悪習を排除する方法や、世俗化した常勤修道院の修道士たちを共同生活の規則の遵守へと導く方法を熟知していた[1148] 。
18世紀には、教区の宗教行政に活用するために修道院から優秀な修道士を引き抜くという、広く行われていた慣行の悪影響が明らかになった。この慣行は一世紀にわたって続き、その結果、修道院において真の修道生活の手本となり得た優秀な人材が、修道者たちから奪われてしまった[1149] 。 また、教区の主教たちが、不品行に対する懲罰として、都市部の修道院から田舎の修道院へ修道士を転属させるという、極めて広範に見られた事例も、修道院生活に悪影響を及ぼした。そこでは、特に共同生活規則のない常設の修道院において、彼らは修道者たちに極めて誘惑的で堕落させるような影響を及ぼしていた。 このような状況は19世紀半ばまで続いた。[1150]
修道院長任命の手続きも定まっていなかった。一方では、17世紀にまで遡り、「霊的規則」で定められた旧来の慣行、すなわち修道院の修道者たちによる修道院長の選出は廃止されなかったが、他方では、18世紀には教会会議自らが修道院長を任命していた。 その根底を17世紀に遡るこのような慣行は、廃止されたり完全に荒廃したりした修道院が再建される際に正当化されていた。 混乱した修道者たちの間から新しい修道院長を選出することは、疑わしいことだった。なぜなら、そのような修道院長は通常、修道者たちからの権威を得ることができず、修道院の生活から不正や悪習を排除しようとする彼の な努力は、それゆえ最初から失敗に終わることが決まっていたからである。 アルヒマンドリト・ピメンは『回想録』の中で、住職の選出はそもそも容易なことではなく、善良で厳格な生活を送る修道士すべてが住職に適しているわけではないと記している。 ピメンの時代、すなわち19世紀40~70年代には、国営修道院の修道者たちは、自分たちの仲間から院長を選出することに自ら反対していた。さらに、国営修道院に共同生活規則が導入された際、外部から招かれた新しい院長の方がより大きな成果を上げることができたという実例があった[1151] 。
しかし、主に19世紀後半に聖公会によって頻繁に採用された措置、すなわち懲罰として、あるいは引退の願いに基づき、教区の主教を修道院の院長に任命するという方法は、非現実的であった。 この際、以下で詳しく述べるように、シノドス時代のロシアの司教団は主に学識ある修道者から選出されていたが、学識ある修道者たちはほとんど修道院に住んだことがなく、修道院の事情に疎かったという点を考慮しなければならない。 そのような司教は、自分に委ねられた修道院を自分の領地のように見なす傾向があり、彼らにとってしばしば極めて奇妙に理解されていた「司教の尊厳」が、修道院の規約の要件に従って院長としての職務を遂行する妨げとなっていた。 また、修道院の礼拝生活においても、東方教会における主教の礼拝の特殊性ゆえに、主教による修道院長職は、何らかの利点をもたらすというよりは、むしろ不便を招く結果となっていた[1152] 。
多くの修道院(正規・非正規を問わず)には明確な修道院規則が存在しなかったため、そこでは礼拝の慣行も乱されていた。19世紀には、都市部の修道院において、参拝者の生活状況を考慮して礼拝が短縮されることが多かったが、郊外の修道院においても、そのような短縮が行われることは珍しくなかった。 アルヒマンドリト・ピメンは、自身が管轄するウグレシュ修道院において、礼拝の際、ティピコン[1153] のすべての規則と要件を完全に遵守させることは容易ではなかったと記している。
聖公会は、修道院にキノヴィアを導入するために自発的に断固たる措置を講じることはなかった。1869年には、修道院において共同生活が修道生活の不可欠な基盤として導入されることを望む旨を表明したに留まり、1862年にすでに示していた勧告を繰り返したに過ぎない。[1154] 最高教会当局が修道生活にどれほど関心を払っていなかったかは、いわゆる「修道院監事への指示」の歴史からも明らかである。1797年12月、皇帝勅令により、そのような「指示」を策定し導入することが推奨された。しかし、実際にそれが行われたのは1828年になってからであった。 「指針」が作成され、各教区の主教たちに送付されたが、それは20世紀初頭まで変更されることなく残っていた。ただ、新しい版では教会スラヴ文字が市民文字に置き換えられ、いくつかの段落の順序が入れ替えられただけである。「指針」には、修道院の管区長たちの権利と義務についてのみが記されている[1155] 。 1910年になって初めて、シノドの指示により、修道士セラフィムが、修道院生活の基礎となるべき新しい共同生活規律を策定したが、この規律がどの修道院でも導入されたかについては、残念ながら何も知られていない。 その膨大な分量ゆえに、この規則は、実践的・禁欲的な目的を果たすというよりは、むしろ修道士や誠実な修道院長たちに恐怖を抱かせる結果となった[1156] 。
このような状況は1917年まで続いた。修道院には2つのタイプが存在したが、どの規則を適用し遵守するかは、修道院長たちの熱意と精神的な姿勢に依存していた[1157] 。 概して、都市部の修道院での生活は、郊外の修道院に比べて厳格さは低かった。 修道院の生活様式には多くの違いがあり、信者や巡礼者なら誰でもすぐにそれに気づくことができた。非常に特徴的なのは、19世紀を通じて、そして20世紀初頭においても、聖公会が修道院生活の問題に真剣に取り組んだことは一度もなく、その些細な細部にのみ時折注意を向けていたことである。 1906年、1904年から1905年にかけての革命運動を受けて基本国家法が改正されたことを契機に、司教団や聖職者の間では改革への志向が顕著になり、聖公会も、主にサンクトペテルブルク都主教アントニー (ヴァドコフスキー、1898–1912)の主導により、ニコライ2世皇帝との協議を経て、 1906年1月14日、「教会会議準備委員会」を設立した。同委員会は、教会生活における様々な改革の実施可能性について議論することを目的としていたが、修道生活については再び、いわば忘れ去られていたと言え、少なくとも修道院の問題を扱う特別な小委員会は設置されなかった[1158] 。
19世紀には、修道者の数が著しく増加し、修道院の数も顕著に増えた。この現象は、2つの理由によって説明できる。 18世紀の敬虔さの衰退後、民衆のさまざまな階層で再び宗教心の高まりが見られた。この高まりは、主にロシアの修道院長たちの影響、および18世紀の崩壊後に修道院の状況が改善されたことによるものである。こうして、修道院と修道生活は再び、民衆の敬虔さに対する観念に合致するようになった。 また、1861年の農奴制廃止という外的要因も忘れてはならない。これにより、農民は自らの運命を自由に決定できるようになった。これは特に女子修道院の状況に影響を与え、そこで修道見習いの数は年々増加していった。
ピョートル大帝によって導入された修道入会の制限は、18世紀を通じてほぼ完全に維持されていたが、19世紀に入ると、これらの国家の規定は以前のような厳格さをもって執行されなくなった。 1738年の国勢調査のデータによると、国内の修道院居住者は14,282人に上り、そのうち7,829人が男性、6,453人が女性であった(この数には、修道士・修道女、見習い修道士・見習い修道女が含まれる)[1159] 。 1764年の修道院定員規定では、226の定員制修道院に対し5105人の修道士・修道女が定められていたが、さらに161の定員外修道院が存在し、そこでは修道者の数に制限は設けられていなかった[1160] 。 1840年には、修道士と修道女の数は15,251人(見習い修道士・修道女を含む)にまで増加し、50年後にはロシア国内で修道士が12,712人、修道女が27,574人(合計40,286人、見習い修道士・修道女を含む)となった。 1907年には、男子修道院の住職数はすでに24,144人(見習いを含む)に達し、女子修道院では65,989人(見習いを含む)となった。修道院の数は970(男子522、女子448)であった(表XおよびXI参照)[1161] 。特に尼僧の数は急速に増加したが、これは19世紀のロシア女性の間で禁欲的な気風が高まったことに起因する。ロシアの女子修道院の歴史は、教会史家たちにとって特筆すべきものであり、将来、十分な資料が揃った暁には、このテーマに関する綿密な研究が執筆されることになるだろう。 ここでは、入手可能な資料に基づき、この歴史の主な点にのみ触れておくことにする。
19世紀における女子修道院数の著しい増加は、我々の見解では、ロシア人女性の間で禁欲的な気風が高まったことだけで説明できるものではない。それは単なる宗教的探求の表れだけではなかったからである。 宗教的な高揚や探求は非常に強かったが、こうした精神的探求が修道院生活の枠を超えて広がらなかったという事実は、長老たちの影響によるものである。また、19世紀後半のロシアの精神的歴史全般における、純粋に歴史的・文化的な状況も一定の意義を持っていた。
ロシアをヨーロッパ化することを目的として行われたピョートル大帝の改革は、家庭や社会生活における女性の地位に変化をもたらした。こうした変化は、人々の各階層において緩やかに、また様々に現れたものの、その帰結として、どこでも女性の自立や教育への志向が強まった。 こうした志向が社会生活に顕著な影響を及ぼし得たことは、19世紀第2四半期の初めにはすでに、ロシアの精神史においてロシア人女性が果たした役割が証明している[1162] 。 ロシアのロマン主義、西欧主義、スラブ主義の歴史を深く掘り下げ、それらの思想世界が各潮流の代表者たちによる膨大な書簡に最もよく反映されていることを考察し、ロシアの魂の「嵐と激動」のこの時代の数多くの回顧録を読み解けば、 ――至る所で、才能豊かで知的好奇心旺盛な女性たちの姿に出会うことになる。彼女たちは、同時代の男性たちに良い影響を与えたか、あるいは自らの精神的成長を通じて、その時代の思想的生活に貢献していたのである。その際、宗教的な問題も無視されることはなかった。 それらの議論は、しばしばまだ宗派的な性格を帯びていなかったり、アレクサンドル1世時代の神秘的な探求の時期のように、正教会の教義から逸脱していたりしたが、それでもなお、宗教的な問題がロシアの女性の精神生活において重要な位置を占めていたことは断言できる。同時に、女性たちはこれらの問題を抽象的にではなく、個々人として、人格的に解決しようと試みていたのだ[1163] 。 まさにこの、特に注目に値するロシアの女性たちの精神的探求の特徴こそが、多くの求道する魂を長老たちとの出会いへと導いたのである。もちろん、宗教的探求が、ある特定の長老の影響下でのみ修道者の頭巾を被ることで完結したと言いたいわけではない。多くの者は、霊的な導きなしに、この決断に至ったのである。
先ほど、ロシアの精神的歴史において書簡がどれほど重要な位置を占めているかについて述べたばかりである。手紙は、印刷された著作よりも、執筆者の精神生活の多様性をよく反映しており、相手に対して自らの魂を開くという特に好ましい機会を与える――これは、19世紀30~40年代 また、手紙への返信においては、特別な信頼感、説得力、そして細やかな気配りを示すことができた。 多くの長老たちは、とりわけ女性との交流において、手紙を通じて求道者の魂を導くことが非常に多かった。つまり、このような宗教的・禁欲的な教育法は、そうでなければ告白する勇気を持てなかったであろう受信者たちの心に響いていたのである。
上述のことは主に教養のある女性たちに当てはまるが、女子修道院には農民出身の修道女が特に多かった。1861年の農奴制廃止は、農民家庭における女性の地位に少なからぬ影響を与えた。 そこでは依然として保守的で家父長的な慣習や風習が残っていたものの、法的には農民の娘、ましてや未亡人は、改革後に相対的な自由と自立を手に入れた。彼女は今や、年長の家族成員の意思に反してさえ、より頻繁に独自の決断を下せるようになった。 19世紀後半(2 )にロシア国民のあらゆる階層を強く席巻した教育への渇望は、修道院においても満たされることができた[1164] 。まさにこの時期、女子修道院が民衆啓蒙の分野で広範な活動を展開したが、この事実はこれまで学術文献において十分に取り上げられてこなかった。 また、彼女たちは、ロシアの女性にとって常に身近な存在であった社会福祉・慈善活動にも成功裏に取り組んだ。ロシアの農民の娘たちは、修道院での日常の生活の中で、実家でも慣れ親しんでいたような活動、すなわちあらゆる種類の家事や農作業を見出していた。 修道院への入会は、生活様式の抜本的な変化を必要とすることなく、彼女たちの精神的な探求に満足感を与え、同時に社会的地位を高め、人生全体に深い意味をもたらしたと言えるだろう。 したがって、女子修道院における出家者の増加は、特に強い禁欲的な気風によるものとは解釈すべきではない。 ロシアの女子修道院の歴史には、極めて過酷な苦行の事例も数多く見られるが、大多数の修道院では、生活は節度ある禁欲の環境の中で営まれ、主な関心は世俗への奉仕に置かれており、世俗からの完全な離脱には向けられていなかった。
社会福祉活動は女子修道院の生活において主要な役割を果たしており、男子修道院の慈善活動よりもはるかに広範なものであった。 これは、単に男性と女性の気質の相違によるだけでなく、多くの女子修道院がまさにその社会・慈善活動という使命のおかげで発展し、この点において他の修道院の模範となり、民衆からの承認と愛を得たことにも起因している。
ロシア正教会は、文化の分野での活動が不十分であるとしてしばしば非難されてきたが、それに対する反論として女子修道院の活動を挙げれば、こうした非難の大部分は意味をなさなくなるだろう。 確かに、この活動が確固たる基盤を築き、特に大きな成功を収めようとしていたまさにその瞬間に、すべては中断されてしまった。歴史家にとって、この活動は未開拓の領域のままである。なぜなら、それに関する資料の大部分は失われており、いつか基礎的な研究において、これを包括的かつ完全に提示できるかどうかは不明だからである。
女子修道院の隆盛において、主要な役割を果たしたのは修道女たちの個人的な発起であった。これらの修道院は、いわば自発的に成長し、教会当局のいかなる支援もなく民衆によって築き上げられたと言える。教会の上層部が新しい修道院の開設を妨げなかったことだけでも、すでに幸いなことである。
1764年、1786年、1788年の世俗化を経て、18世紀80年代末には、ロシア全土で女子修道院はわずか80か所(正規75か所、非正規5か所)しか存在しなかった。 一方、1810年にはロシアにはすでに94の女子修道院が存在しており、これは19世紀におけるその数の急激な増加を評価する上での出発点と見なすことができる。 40年後の1855年には、修道院はすでに129か所(正規97か所、非正規32か所)に達し、修道女2508人と見習い修道女6606人が在籍していた(表XおよびXI参照)。
なお、両カテゴリーの女子修道院の状況は、第一に物質的な面において、第二に内部の組織体制において、男子修道院の状況とは大きく異なっていた。男子の正規修道院は、非正規の修道院よりも物質的に恵まれた状況にあった。 一方、女子修道院においては、この差はそれほど顕著ではなく、むしろ、非公認の女子修道院の方が公認の修道院よりも裕福な場合が多かった。創設者の個人的な発案によって設立された新設の女子修道院のほとんどは、当初は非公認とみなされていた。 創設者(まれに創設者)は、その修道院に動産および不動産を寄進した。さらに、女子修道院(公認・非公認を問わず)には常に男子修道院よりも多くの住職がおり、そのため公認の修道院でさえ、規定人数よりも多くの修道女や見習い修道女が在籍していた。 さらに、男子修道院が女子修道院よりも国家から手厚い支援を受けていたことを考慮すれば、女子修道院のイグメーニャが、女子修道院の住人一人あたりに割り当てられる金額は、男子修道院の院長が割り当てられる金額よりもはるかに少なかったことが明らかになる。 しかし、女子修道院は農業経営(乳牛や家禽の飼育、野菜の栽培)を大いに成功させていたため、収入を大幅に増やすことができ、 、男子修道院と女子修道院の経済状況の差は緩和されていた。 とはいえ、女子修道院における修道女や見習い修道女の生活費は極めて質素なものであった。というのも、農業からの年間収入の大部分を、社会福祉や慈善活動に充てていたからである。 すでに私たちにもお馴染みのアルヒマンドリト・ピメンは、自身の『回想録』の中で、彼が修道院の管区長を務めていた当時の、モスクワ教区の共同生活を行う修道院の生活について、非常に興味深い詳細を伝えている。これらの回想録は1960年代末のものであり、そこには女子修道院の経済状況に関する多くの情報も含まれている。
60年代のアナシノ・ボリソグレブスキー修道院は共同生活を行う修道院であり、180人の修道女と見習い修道女が修業に励んでいた。同修道院は1823年に設立されたが、当時はわずか10人ほどの修道女が身を寄せていたに過ぎなかった。 1860年代、修道院の年間収入は5,000~6,000ルーブルであり、この金額は信者からの寄付、レース工房、酪農、養鶏場からの収益で構成されていた。また、修道院には菜園もあり、そこで採れた野菜は修道院の食卓に供されていた。 その他にも、修道院は病院と、修道院に所属する高齢の修道女たちのための老人ホームを運営していた。
スパソ=ボロディンスキー修道院も共同生活を行う修道院であり、170人の修道女と見習い修道女が暮らしていた。 1830年に創設され、当初は12人の修道女が修行に励んでいた。修道院の年間収入は5000ルーブルで、これもまた信者からの献金と修道院の農場からの収益で賄われていた。修道院内には慈善施設は一切存在しなかった。
トロイツェ=オディギトリエヴァ・ゾシモヴァ女子修道院(共同生活を行う修道院)は1826年に設立され、当時は約40名の修道女が修業に励んでいたが、60年代の終わりにはすでに160名の修道女と見習い修道女がいた; 修道院の年間収入は4000ルーブルに達し、その内訳は寄付金、修道院の農場からの収益、および修道院に寄贈されたモスクワにある収益性の高い家屋からの収入で構成されていた。この修道院は、特別な社会福祉・慈善活動には一切携わっていなかった。
共同生活規則に基づくスパソ=ヴラヘルヌイ女子修道院は1854年に設立され、60年代の終わりにはすでに170人の尼僧と見習い尼が在籍していた。 修道院の年間収入は最大5,000ルーブルに達し、これもまた寄付金や修道院の農場、そしてモスクワの収益物件からの利益で構成されていた。この修道院もまた、特別な慈善活動には一切携わっていなかった。
1856年に共同生活規約に基づく「十字架の昇架修道会」が設立され、100人の修道女が所属していた。修道院の年間収入は寄付金で構成され、約2000ルーブルに達した。同修道会は無料の学校を運営し、30人の少女が学んでいた。
ここで挙げた修道院のうち最初の4つは、修道院付属の宿舎も運営していたが、それらは収入をもたらさなかった[1165] 。
これらは、モスクワ教区だけでなく、19世紀半ばのロシア全土の多くの女子修道院に典型的な例である。当時は、修道院が社会福祉・慈善活動をまだ始めたばかりの時代であった。 一方、1880年代の聖シノド首席検事による報告書や、この時代に関する教区の記述を参照すると、まったく異なる状況が浮かび上がってくる[1166] 。 例えば1887年には、修道院が93の病院と66の高齢者施設を運営しており、その3分の2は女子修道院によるものであった。一方、当時の男子修道院は469あったのに対し、女子修道院はわずか202に過ぎなかった(1887年の報告書)。 1880年代から1890年代にかけて、アレクサンドル3世の時代(1881–1894)には、政府が教区学校の設立を奨励していたため、ほぼすべての女子修道院で、通常は女子を対象としたそのような学校が開設され、その費用は常に修道院自身の資金によって賄われていた[1167] 。
広範な慈善活動が徐々に発展していった素晴らしい例として、聖母マリア・レスニンスキー修道院の歴史が挙げられる(1914年までは、ロシア西部の セドレツ県 (現在はポーランド。――訳者注)、ビャワの町の近郊)[1168] の物語が挙げられる。1683年、森に囲まれたレスニの村(ビャワ地区)の近くで、2人の羊飼いの農民が森の中で、並外れた輝きを放つ聖母マリアのイコンを発見した。 そのイコンは赤い石から彫り出されたもので、右手に幼子キリストを抱き、左手に書物を持った聖母マリアを描いていた。書物の上には、聖霊の象徴である鳩が描かれていた。 総じて、極めて珍しい構図である。ギリシャ正教の司祭たちはこのイコンをブコヴィチ村の教会に運び込み、そこで周辺の村々の住民から深く崇敬されるようになった。 数年後、イコンが発見された場所に聖パウロのローマ・カトリック修道院が設立され、ポーランド当局(当時、この地域はポーランドに属していた)は、イコンをこの修道院に移すよう命じた。やがて、地元住民はユニオン派に改宗した。 1863年、ポーランド蜂起の後、レスネのローマ・カトリック修道院は、反乱軍を支援したとしてロシア政府によって閉鎖されたが、修道院の教会とそこにあるすべてのイコンはユニエートの手に残った。 1875年以降、この地域では多くのユニエート教区が――自発的に転向した教区もあれば、政府の圧力によって転向した教区もあった――ユニエート教会からロシア正教会へと移り、1881年にはレスネの教区教会もギリシャ・正教会となった。 当時、聖パウロ修道院の古い建物がまだ残っていたため、レオントイ大司教はレスナに修道女共同体を設立することを決めた。こうして1884年、聖母マリア共同体が誕生した。
設立当初の数年間は、共同体に資金がまったくなかったため、修道院長にとっても5人の修道女たちにとっても厳しいものでした。しかし、修道院長のエカテリーナ修道女(旧姓エフィモフスカヤ伯爵夫人、1925年セルビアにて没)は、精力的で才能豊かな女性でした。 当初、共同体の生活は、その大部分がユニエート教会に属していた近隣住民との関係がうまくいかなかったために苦境に立たされていた。 エカテリーナ修道女と、さらに2、3人の修道女は医学教育を受けており、彼女たちの慈善活動は主に病気の農民の看護に専念していた。その後、子供たちのための学校を開設する試みがなされ、この試みは成功を収めた。わずか2年後には、修道女たちはあらゆる信仰を持つ80人の子供たちに授業を行っていた。
1889年、レスニンスカヤ共同体は共同生活の女子修道院へと改組され、その代表者は修道院長となった。修道院は急速に発展し、1914年にはすでに20人の修道女と、300人のラソフォール修道女[1169] および見習い修道女がそこに身を寄せていた。 多くの者が非常に長い間、修道服を着用する修道女のままであった。これは、イグメーニャのエカテリーナ修道院長が、修道女たちの剃髪に急ぐことなく、剃髪を望む修道女が霊的にその準備が整っていることをしっかりと確信して初めて、同意を与えていたからである。 25年間(1889年~1914年)の間に、かつては小規模だった修道共同体は、病院、高齢女性のための養護施設、薬の支給を行う無料診療所――患者への外来診療は特に広範な規模で展開された――を擁する大規模な修道院へと成長し、さらに、 修道院は自らの資金で、これらの医療施設で働く修道女や見習い修道女たちに医学教育を提供していた。子供たちのための学校に加え、様々な手工芸を教える中等学校が開校され、この学校の教師たちも修道院の費用で教育を受けていた。 修道女や見習い修道女たちは、製本工房、刺繍教室、靴工房、教会用祭服の製作工房、そしてイコン画工房を設立したほか、温室を備えた素晴らしい果樹園や菜園を開墾し、養蜂場、酪農場、養鶏場も運営していた。 1914年の直前に、修道院は近隣に学校、薬局、診療所を備えたさらに4つの小さな共同体を設立した。 当然のことながら、こうした慈善活動全般には資金が必要でした。政府は、この修道院の修道女たちの活動が、ポーランド人住民に対する正教会の布教活動にとって大いに有益であると見なし、1914年までに1200デシチンもの耕作地と4つの農場を修道院の管理下に委ねました。 1914年には、修道院の資金により、2つの国民学校、2つの教員養成所、中等学校、農業学校、そして孤児院が運営されていた。
第一次世界大戦が勃発すると、修道女たちと修練生たちは当局の要求により修道院を離れ、他の修道院へ移った。多くの修道女たちはベッサラビアの修道院を受け継ぎ、そこで2つの教区学校と農業学校を設立した。 1920年、レスニンスキー修道院のイグメナであるマザー・ニーナを筆頭とするこの修道女グループは、セルビアへ渡り、そこで廃墟となっていたホポフ修道院に定住するよう招待を受けた。 修道女たちは、ベッサラビア住民のルーマニア化という自国の政策の妨げと見なし、修道院の活動を不審に思っていたルーマニア政府と様々な困難を抱えていたため、 イグメナ・ニーナは、自修道院の姉妹たちと共にその招待を受け入れ、ホポフ修道院(ノヴィ・サド市近郊)に移り住んだ。資金が限られていたレスニンスキー・ホポフ修道院は、ここで孤児院を1つしか運営することができなかった。
レスニンスキー修道院の歴史は、19世紀の多くの女子修道院に典型的なものである。 明らかに、彼女たちの社会福祉・慈善活動は政府から特に高く評価されていた。政府は、その活動に教会・政治的宣教の手段の一つを見出し、それゆえに修道院に対して物質的な支援を行っていたからである。しかし、純粋に教会の観点から見ても、この修道院はその努力を正しい方向に向け、そのすべての活動が民衆の利益に資していた。
もう一つの例として、エカテリンブルク近郊のウラル地方にあるノヴォ・ティフヴィンスキー女子修道院の歴史を挙げよう。 1799年、そこに小さな修道女共同体が設立され、1809年に共同生活を行う修道院へと改組された。1900年までに、そこは6つの教会と数多くの石造建築物を擁する大規模な修道院となり、450人の修道女と見習い修道女がそこで暮らしていた。 修道院は2つの農場を所有していたため、教区学校、孤児院、病院、老人ホームを運営することができた。信者たちは惜しみない寄付を通じて、修道院の慈善活動を支援していた[1170] 。
さらに、農民出身の修道女たちの功績を示す2つの例を挙げておきます。
ザドンスク近郊の森には、聖ティホン・ザドンスキーがしばしば人里離れた場所で祈りを捧げていた場所に、1813年に礼拝堂が建てられた。その近くにある小さな小屋には、主に近隣のチュミノ村出身の女性たちが住み着き、1827年にはその数はすでに50人に達していた。 彼女たちは祈りと手仕事――亜麻の織物――に時間を費やし、自分たちの仲間の中から代表者を選出した。1860年、農民の女性E.P.ボガレワの提唱により、この集落は修道女共同体の地位を得、さらに7年後には共同生活を行う修道院へと改組された。
同じヴォロネジ教区のトロイツコ村(ノヴォホペルスキー郡)にも、20人の農民女性からなる修道共同体が設立された。 1878年には自費で教会を建立し、裕福な農民の未亡人であるH. E. パシュコワが土地を購入し、修道女たちが共同生活を送るための住居を建設した。1890年にこの共同体は聖シノドによって承認され、1895年に共同生活修道院へと改組された[1171] 。
1887年、タンボフ教区には13の女子修道院があり、そのうち10は設立当初、姉妹共同体であった。最初の共同体は1783年に誕生したが、当時、教区内には女子修道院が1つ(1690年設立)しかなかった。 ペンザ教区では、11の女子修道院のうち10が当初、共同体であった[1172] 。
すでに述べたように、19世紀に設立された23の新しい女子修道院は、これらの共同体から発展したものである。これらの共同体は、ごく稀な例外を除き、共同生活規律を遵守していた。それらは常に、個々の修道女たちの主導によって設立された。 女性や少女たちは、何らかの手仕事をするために集まり、その作業は共同の祈りで始まり、祈りで終わりました。また、読み書きのできる者たちは、作業中に禁欲的な書物――聖人の伝記など――を声に出して読み聞かせました。やがて、修道女たちが共同生活を送る共同体が形成されていきました。彼女たちは、自分たちで作った品を販売して得た収入で生計を立てていました。 共同の祈り( )は、次第に正式な修道院の礼拝の導入へとつながり、神聖な聖体礼儀は近隣の教区の司祭たちによって執り行われた。ついに、シスターたちは、自分たちの共同体を女子修道院へと改組するよう、聖公会に請願した。 彼女たちのうち、一部は修道女として剃髪したが、他の一部は長期間にわたり、修道服を着用するシスターや見習い修道女のままであった。しばしば、このような共同体は教区主教の注目を集め、主教自らが共同体を女子修道院に改組することを提案することもあった。
例えば、1823年には、アノシノ村(モスクワ県)にボリソグレブ女子修道院が設立された。その創設者は、エウドキア・メシュチェルスカヤ公妃(1774年生まれ、旧姓チュチェワ)であった。 彼女はメシェルスキー公爵と結婚したが、結婚から2ヶ月後に夫はインフルエンザで亡くなった。数年後、公爵夫人の所有地であるアノシノで、彼女を中心に少数の女性たち(全員が彼女の農奴であった)が集まり、まさに前述のような生活を送っていた。 公爵夫人は長年にわたり、この小さな共同体を女子修道院に変えるという夢を温めていた。ヴォロネジのアンソニー司教やモスクワのフィラレート大司教との彼女の書簡は、非常に興味深い人間的な記録となっている。結局、彼女は1823年に、その共同体を女子修道院へと改組することに成功した。
公爵夫人は自身の領地を娘に譲り、自らを修道生活に捧げた。彼女はフィラレート大司教に対し、新しい修道院の修道院長を任命し、自身も修道院に残れるよう許可を求めた。 しかし、大司教は「適切な修道院長がいない」ことを理由にこれを拒否し、彼女自身を共同体の暫定長として任命した。彼女の修道女としての剃髪は延期された。新しい修道院は、共同生活の規則に厳格に従って運営されていた。 公爵夫人は、仕事においてかつての自分の農奴たち(その中にはすでに修道女として剃髪した者もいた)と距離を置くことはなかった。1年後、彼女は予期せず大司教のもとへ出頭し、修道院での生活について報告するよう招かれた。フィラレートは大司教として厳格さで知られており、恐怖に駆られた修道院長はモスクワへ向かった。 そこで彼女は、明日、大司教が礼拝を執り行う教会に来るよう告げられた。彼女は何も疑うことなくそこへ向かったが、礼拝の最中に、彼女が以前希望していた通り、大司教自らが彼女をラソフォール修道女として剃髪すると告げられた。 翌日、フィラレートは修道女エフゲニア(彼女の新しい修道名)を修道院のイグメーニャに任命した。彼女は14年間にわたり修道院を統率し、1837年に逝去した。この間、彼女は修道院における共同生活規則の遵守をますます厳格に徹底させた。 そして、おそらくまさにこの点が、修道生活における高潔な行いを志す女性たちを彼女の修道院に惹きつけたのだろう。40年後には、この修道院にはすでに180人の修道女と見習い修道女が身を寄せていた[1173] 。
同様に、1812年の戦争で名声を博した将軍の未亡人であるM. M. トゥチコワによって設立されたスパソ=ボロディンスキー女子修道院も誕生した。[1174] モスクワ近郊のクレストヴォズドヴィジェンスカヤ修道共同体は、農民の女性P. R. サヴァチュギナによって設立された。 ウスマンスキー女子修道院(ヴォロネジ州のウスマーン市近郊)は、1799年に「少佐の娘」N・フェドロワによって設立された。彼女は自らの資金で、廃止され老朽化していた修道院を再建し、改修された修道院に自身の財産を寄贈した。[1175] 。
新しい女子修道院や修道女共同体の設立は、当然ながら、常に迅速かつ円滑に進んだわけではなかった。19世紀のシノダル行政の官僚主義は、国家機関のそれよりもさらにひどかったからである。 例えば、すでに私たちにもお馴染みのアノシノ・ボリソグレブスキー修道院の修道女パラスケヴァ・ザグレベンナヤが、ウラジーミル教区に隠遁所を設立しようと決心した際、この件に関する書簡のやり取りは4年以上も続いた[1176] 。
時折、こうした修道女共同体は、長老たちの支援によって設立されることもあった。19世紀、長老たちは宗教的探求に熱中するロシア人女性たちの霊的指導に多大な関心を寄せ、彼女たちを教会生活へと導こうとしていた。
この分野で最初に活動した人物の一人が、長老ゾシマ・ヴェルホフスキーであった。18世紀後半、ブリャンの鬱蒼とした森の中には、極めて厳格な生活を送る修道者や隠者のグループが身を隠していた(彼らについては次の章で詳しく述べる); これらの修道者たちは、モルダヴィア出身の長老パイシイ・ヴェリチコフスキーと霊的な交わりを持っていた。その中には、弟子たちを率いてここで修業に励んでいた長老アドリアンもいた。その弟子の一人が、高官の息子であり、かつては将校で貴族でもあったザカリー・ヴェルホフスキーであった。 これらの修道士たちのスキート(小修道院)には、しばしば浮浪者や強盗が襲いかかった。彼らは、指導や助言を求めて訪れた人々が持ち込んだ金や銀が、修道士たちの質素な小屋に隠されていると考えていたのだ。この襲撃は、ついには耐え難いものとなり、長老アドリアンとザカリーは森を去ることを決意した。 アドリアンはすでに、サンクトペテルブルクおよびノヴゴロドのガブリエル大主教から、彼の元へ赴き、いくつかの修道院の再建を手伝うよう招かれていたため、ザカリーと共にサンクトペテルブルクへ向かった。大主教はアドリアンに、サンクトペテルブルク教区のコネフスキー修道院に共同生活規則を導入するよう命じた。 ザカリーも彼に同行し、そこでゾシマという名で修道士としての剃髪を受けた。彼は約10年間、長老アドリアンの霊的指導の下、この修道院に留まったが、その後、沈黙と祈りを求めて森の奥深くへと去っていった。 その後、ゾシマはある手紙の中で、世を完全に捨て去り、神の御前に立つことを実感するために、隠遁生活と祈りに身を捧げる人の内面の状態について記述している[1177] 。
その後、ゾシマは修道士ヴァシリスクと共に、はるか遠くのシベリアへと向かった。彼らはトゥリンスク市の近くの鬱蒼とした森に定住した。ヴァシリスクは完全な孤独と沈黙の中で暮らしていたが、ゾシマは時折、近くの村へ出向き、そこで食料を少し調達していた。そうして20年が過ぎた。 近隣の村の人々はゾシマと知り合いになり、しばしば彼に霊的な助言を求めた。 ある日、ある未亡人がゾシマを訪ね、自分の霊的指導を引き受けてほしいと頼んだ。長い懇願の末、ゾシマは彼女に、自分の隠遁所から約30ヴェルスタ(約25km)離れた村に住み、そこで時折彼と語り合うことを許可した。その後、霊的な助けや助言を求めて、他の女性たちもやって来た。 こうしてしばらくすると、約40人の女性が集まり、共同体を形成して、ゾシマの霊的指導の下、肉体労働と祈りに満ちた生活を送るようになった。長老のゾシマとヴァシリスクは、互いに相談した末、この共同体を本格的な修道院にしたほうがよいと決断した。 トゥリンスク市には、廃止された修道院の建物が今も残っている。すでに60歳前後になっていた長老ゾシマは、トゥリンスクに女子修道院を設立する許可を得るため、困難を伴う遠路の旅を敢行し、サンクトペテルブルクへ向かった。 ゾシマはなんとか許可を勝ち取ったが、教区の主教がこの件に関して長老に様々な妨害を加えた。そこでゾシマは、そこで計画を実現できることを期待して、自分の霊的な娘たちと共にロシアへ向かうことを決めた。共同体の大部分が彼と共に出発した。 1826年、彼女たちは全員モスクワに到着した。バフメティエワという名の裕福な未亡人が、シスターたちを自宅に迎え入れた。その後、彼女たちは未亡人のモスクワ近郊の邸宅に移り住み、その一部を未亡人が女子修道院の設立のために寄進した。こうして、しばしばゾシマ修道院とも呼ばれるトロイツカヤ修道院が誕生した。 長老ゾシマは引き続き共同体を霊的に導き、1833年に逝去した。1856年、ゾシマ修道院は共同生活規則に基づく女子修道院へと改組された[1178] 。
トロエクーロフ村(タンボフ県)にあるドミトリエフスキー女子修道院も、1853年から1854年にかけて設立された修道女共同体から発展し、1871年に共同生活制の修道院へと改組された。 この共同体の創設者は、厳格な修行者であり隠遁者であったイラリオン・フォキン(1758–1853)であった。 当初、彼は南ロシア(キエフ近郊)で修行に励み、その後数年間、19世紀には非常に一般的であったように、修道院から修道院へと放浪し、ついに1824年にトロエクーロフ村に定住した。そこへ、 、人々が助言や霊的な助けを求めて彼のもとに集まり始めた。 人々は彼に寄付金を捧げ、イラリオンはその資金で土地を購入し、その上に修道女共同体のための建物を建てた[1179] 。
ロシア人女性への霊的指導の歴史において、聖人セラフィム・サロフ(†1833)[1180] は極めて特別な位置を占めている。1780年に設立されたカザンのディヴェエフスカヤ共同体を[1181] は、長年にわたり、その内部の宗教的・禁欲的な生活において、聖人セラフィムと極めて密接に結びついていた。 彼はさらに、メルニチナという女子共同体も設立した。1842年、これら二つの共同体はセラフィム・ディヴェエフスカヤ共同体へと統合され、その後1861年にセラフィム・ディヴェエフスカヤ女子修道院へと改組された。 この地域には、聖セラフィムによって霊的に指導されていた修道院がさらに二つあった。ポクロフスキー女子修道院(アルダトフ市)とスパソ=ゼレノゴルスキー修道院である。 これらはいずれも、修道院の規則を厳格に遵守すること――完全な共同生活、禁欲的な修行、そして礼拝の規則を厳守すること――で広く知られており、とりわけセラフィム・ディヴェエフスキー修道院は名高かった。
19世紀のもう一人の偉大な長老、アムブロシイ・オプティンスキーも、敬虔な女性たちの霊的生活を慈しむことに心を砕いていた[1182] 。彼はシャモルディナ(オプティナから15km)にある修道女共同体の創設者であった。 長年にわたり同共同体の霊的指導にあたった彼は、1891年にシャモルディノを訪れていた際にこの世を去った。
この点に関連して、もう一人の修道者、テオファン・ザトヴォルニク司教の名を挙げることは不可欠である。彼のロシア人の宗教生活への影響は極めて大きかった。彼の活動には、前述の長老たちには見られない二つの特徴が認められる。 ここでは、異なるタイプの長老による霊的指導が見て取れる。他のロシアの長老たちにとって、霊的・禁欲的な指導において最も重要だったのは直接的な個人的な交流であったのに対し、テオファン司教は、特に霊的な娘たちに対して、手紙のやり取りを通じて指導を行っていた。 一方では、これは彼自身の隠遁生活という行いそのものに起因するものであったが、他方では、テオファンは性格上、文学活動に向いており、彼の関心の中心にあったキリスト教の魂の生活の基礎に関する自身の考えを、一貫した宗教的・禁欲的な体系として展開しようと試みていた。 さらに、テオファンは神学アカデミー(キエフ、1837年~1844年)で哲学および神学の教育を受け、ヴィシェンスカヤ修道院での隠遁生活においても、学術的・神学的な研究を絶やすことはなかった。 これらすべてが、彼の書簡や著作に、他の長老たちの口頭による教えには見られないような特徴的な様相と表現様式を与えていた。 そのため、テオファンの影響は、主に、あるいはほぼ例外なく、教養ある人々、すなわち19世紀後半に様々な宗教思想の潮流が見られたロシアの知識人層、とりわけ女性たちに及んだ。
彼の数多くの著作の中でも、特に有名で広く普及しているのが、1868年に初版が刊行され、その後何度も再版された『救いへの道』という本や、1860年に刊行された『キリスト教生活に関する手紙』――P. S. ルコムスカヤ公妃宛ての手紙を集めたもので、1860年に刊行された。現在、この本はドイツ語訳『[1183] 』として出版されている。『手紙』の翻訳者兼出版者は、テオファン司教が「人間の霊的生活の方向性を示し、キリスト教的な魂の在り方の模範を示そうとした」と指摘している。彼の手紙には、キリスト教的な生き方に関する助言が込められている…… これらの書簡は独特の魅力を持ち、感情の清新さ、心からの共感、素朴さ、そして水晶のように澄んだ思考の明快さに心を打たれ、ロシアの敬虔さの本質を内側から垣間見る機会を与えてくれる」。 著書『長老たちの生涯と教え』[]において、 私たちはすでにヴィシェンスクの隠遁者の姿を描こうと試みた。ここでは、ロシア人女性の宗教的探求の特徴に関連して、ただ一点付け加えるに留める。「キリスト教的生活に関する手紙」は、 当初、テオファン司教が個人的に知っていたある特定の女性宛てに書かれたものであったが、その形式は、日常生活における事柄においても、内面的な心の苦悩や迷いにおいても、他の多くの女性の魂に大きな益をもたらすものである。 それゆえ、テオファン(1894年1月5日没)の没後半世紀を経た今も、これらの書簡は熱心に読まれており、私たちが個人的な経験から知っているように、今日に至るまでロシアの女性たちに多大な影響を与え続けている。 テオファンの著作は、非常に多くの女性を修道院への入所に駆り立て、世俗に残った女性たちの生活様式にも影響を与えたと断言できる――これは主に教養のある女性たちに当てはまる。
ロシア人女性たちの霊的指導にあたったのは、すでに言及した長老たちだけではありませんでした。他にも多くの尊厳ある厳格な修行者たちがおり、その活動は同時代の女性たちの宗教的探求にとって大きな意義を持っていました。彼らは、直接の交流を通じて、あるいは手紙を通じて、弟子たちを導いていました。 ゲラシム(ドブロセルドフ;1809–1878)司教に言及しておこう。彼は一部の尼僧たちと文通を行い、彼女たちに霊的指導を与えていた。特に素晴らしいのが、彼の『霊的父から尼僧への手紙』[1184] である。 オプティンスキーの長老アムブロシウスもまた、男性と女性の双方に向けた、キリスト教的・禁欲的な生活様式に関する数多くの手紙を残しており、その中で彼は、彼特有の柔和さと温かさ、率直さと深遠な思索をもって、最も複雑な人生の問題を解決している[1185] 。
修道院の壁の中で生活を送ったロシア人女性の中には、女子修道院における真に修道的な生活様式の確立に貢献した多くの修道女たちがおり、そのうちの何人かは特に言及に値する。
そのような修道女の一人が、イグメニア・テオファニア・ゴトフツェワ(1787–1866)であった。彼女は由緒ある貴族の家に生まれ、サンクトペテルブルクのエカテリーナ貴族女子学院で教育を受け、特に外国語の学習において優れた成績を収めた。 彼女はA・S・ゴトフツェフ将軍と結婚した。しかし、その結婚生活はわずか2日間しか続かなかった。夫は戦場へ赴くよう命じられ(これは1809年、ロシア・スウェーデン戦争中のことだった)、そこで銃弾に倒れたのである。 彼女の幼い娘は4歳で亡くなり、その数年後の1818年、ゴトフツェワは12人の自分の身分の低い娘たちと共に、ゴリツキー女子修道院に修道見習いとして入りました。1837年、彼女は修道誓願を立て、修道服を着用することを決意しました。 ゴトフツェワは修道見習いの頃から、キリロ・ノヴォエゼルスキー修道院の長老テオファン・ソコロフと長年にわたり文通を続けていた。 彼女の禁欲的な思想や、修道院における共同生活規律の導入に向けた尽力も、この文通と深く結びついている。というのも、長老テオファン・ソコロフは、修道院の共同生活[1186] の最も熱心な支持者かつ擁護者の一人であったからである。 1845年、修道女テオファニア(彼女は長老テオファンを偲んでこの修道名を受けた)は、皇帝ニコライ1世(1825–1855)から謁見の招待を受けた。興味深いことに、この招待は教会当局ではなく、世俗の権力者から発せられたものであった。 これは、シノダル時代においては珍しいことではなかった。というのも、シノダルの聖職者階層は修道生活にほとんど関心を寄せていなかったからである。皇帝はテオファニアに対し、サンクトペテルブルクに厳格な共同生活規則を定めた女子修道院を設立するよう要請し、彼女自身を修道院長に任命するよう命じた。 こうして1845年、ノヴォデヴィチ・ヴォスクレセンスキー修道院が設立され、そこで修道院長テオファニアは、その死(1866年)に至るまで、尽きることのないエネルギーと驚くべき手腕をもって修道活動に励んだ。 創設当初から、復活修道院は皇室の庇護下にあり――修道院長は宮廷で大きな尊敬を集め、数人の大公女たちの名付け親でもあった――、社会福祉・慈善活動においてその規模の大きさが際立っていた。 修道女や見習い修道女(19世紀末にはその数は300人を超えていた)は、様々な工房で働いていた。彼女たちは 金糸や真珠を使った刺繍を行い、靴や司祭の祭服を製作し、孤児院や老人ホームの洗濯物を洗っていた。 19世紀末、修道院は女子学校、農村の女教師を養成する学校、男子学校、そして素晴らしい金糸刺繍工房を開設した[1187] 。
ロシアのまったく別の地域で、それほど恵まれた環境ではなかったにもかかわらず、スキイグメニア(修道院長)テオファニア・シドロワも、それに劣らない労力を注いでいた。彼女はヴォログダ出身で、裕福ではない商人の家庭に生まれた。1800年に生まれ、裕福な商人シドロフと結婚したが、まもなく未亡人となった (1827年)。20年以上にわたり、彼女は修道院から修道院へと放浪し、パレスチナの聖地への巡礼も果たした。この敬虔な未亡人は、自身の全財産を教会や慈善活動のために寄付した。 60歳になってようやく、彼女はホルモゴルスク女子修道院(北部、後に廃止された)で修道誓願を立てる決心をし(1860年)、5年後にはテオファニアという名で大修道衣を着用した。 1年後、彼女は当時まだ小規模だったシェンクルスク市(白海のほとり)の女子修道院のイグメーニャに任命された。彼女は14年間にわたり修道院を統率し、彼女の在任中、修道院では共同生活の規則がすべて厳格に遵守されるようになった。 1880年、テオファニア修道院長は病に倒れ、頻繁に、かつ長期間にわたり寝たきりの状態となったが、それでも修道女たちの主要な精神的指導者であり続け、1888年に大往生を遂げた。 人里離れたツンドラに位置するこの北方の修道院は、その厳格な規則と修道女たちの生活様式で知られており、1900年には36人の修道女と86人の見習い修道女がそこで暮らしていた[1188] 。
そして、同じ世界からもう一人、フィラレタの修道院長、本名はヴァルヴァラ・シュリッペンバッハ男爵令嬢で、半分はドイツ人である。フェオファニア・ゴトフツェヴァと同様に、彼女は貴族出身であり、首都ではサンクトペテルブルクの「貴族女子愛国学院」を卒業した。 ごく若い頃、ヴァルヴァラは、12世紀に創設されたノヴゴロドの由緒ある聖霊修道院([1189] )の修道見習いとなり、後にキエフのフロロフスキー女子修道院([1190] )に移り住み、1848年に修道誓願を立てた。 8年間、彼女は教育活動に従事し、オデッサのミハイル・アルハンゲリスク女子修道院に付属する(聖職者の孤児である)少女たちのための学校を指導した。1858年、フィラレータ・シュリッペンバッハは、レベディンスキー・ニコラエフスキー修道院 (キーウ州チギリナ近郊)の修道院長に任命された。そこで彼女は、農民の子供たちのための日曜学校、女子学校、そしてイコン画の学校を設立した。1875年、彼女は慈善活動の最中にこの世を去った[1191] 。
タイシア・ソロポヴァ修道院長による『手記』[1192] は、19世紀後半の女子修道院の内部生活を私たちに明らかにしている。 彼女は、自身の個人的な宗教的課題や困難、当時の修道院生活のマイナス面とプラス面、修道院と教会当局との関係について、心からの率直さで綴っている。これらすべてについて、彼女はロシアのさまざまな修道院で生活する中で深く研究していたのである。 彼女の記述からは、修道院生活の適切な運営において、禁欲的な伝統、共同生活規則の遵守の有無、そして修道院長の労苦と模範がいかに重要であったかがうかがえる。彼女の『手記』は、女子修道院においても男子修道院と同様に、修道生活が教会当局の指示によってではなく、 その霊的な力は、民衆の敬虔さ、あるいは「公式の精神」がシノダル期において支持しようともしなかったばかりか、しばしばそれに反対さえした禁欲的伝統のいずれかから汲み取られていた。ロシアの宗教的探求と教会生活の歴史において知られるすべてのキリスト教の修行者たち—— ——は、これら二つの源泉から霊的な滋養を得ていた。
ロシアの女性修道者の歴史については、まだ徹底的な研究が待たれている。多くの問題について資料が不足しており、いくつかの潮流や現象の起源をたどったり、例えば長老たちからの影響など、様々な影響を徹底的に研究したりする必要がある。すべての現象をこの影響だけで説明できるわけではない。 内面的で個人的な敬虔さは、ロシアの国家・政治および経済生活の浮き沈みに伴う一時的な盛衰はあったものの、決して完全に消え去ることはなかった。もっとも、教会の公式な精神への不満から、しばしば世の中から離れて、ある種の霊的な隠遁生活へと身を引くことがあった。 この民衆の敬虔さによって、ロシアの女性修道者たちは、いかなる社会階層出身であろうとも、その信仰を強められていた。この意味において、彼女たちは皆、同じ源泉から汲み取っていたのである。我々が挙げた例は、どの階級もこれらの源泉から切り離されていなかったことをよく示している。後述するロシアの「スターツェ」の歴史は、この現象をさらに鮮明に浮き彫りにするだろう。
ロシアの女性たちの献身的な活動、隣人への愛、そして神への献身の源流には、ユリアニア・オッソリーナ(あるいはオッソルギナ;†1605)の姿が見て取れる。 彼女の個人的な敬虔さにおいては他の女性と特に際立った点はありませんでしたが、その社会福祉・慈善活動は驚くべきものでした。彼女は伝染病の患者の世話をし、自らも飢えを強いられるほど施しを配りました; この姿からは、16世紀末の風潮には見られない精神が漂っているが、その一方で、19世紀の多くのロシア人女性の姿と通じるものがある[1193] 。
聖セラフィム・サロフスキーの影響下で形成された修道女たちの輪において、最も特徴的な点は、神への完全な献身であった。聖セラフィムは、霊的指導において、祈りと隣人への霊的な愛を特に重視し、社会福祉活動は奨励しなかった。 セラフィム・ディヴェエフスキー修道院の歴史から、聖セラフィムは、女性の霊的指導に従事した他の長老たちよりも、おそらくさらに強く、自身の霊的な娘たちに対して禁欲的な修行を求めていたことが見て取れる。 修道院にはすでにそのための土壌が整っており、彼が引き継いだ禁欲的な伝統がそこに存在していた可能性も否定できない。というのも、禁欲的実践の強固な基盤は、修道院の創立者であり共同体の長であった修道女アレクサンドラ・メルグノヴァ(†1794)――聖人は彼女と個人的に面識があった――によってすでに築かれていたからである。 キリストにあって聖なる狂人ペラゲイア・セレブリャコワ(†1884)や、これらの女子修道院の他の住人たちの姿は、聖人の帰天後も禁欲の伝統が途絶えることなく、[1194] で受け継がれていたことを物語っている。
『18世紀および19世紀のロシアの敬虔な修行者たちの伝記』[1195] のページからは、多くの女性修行者たちの姿が浮かび上がる。タンボフ近郊のズナメンスキー修道院のイグメーニャ・ドロフェイ(1月号)、トゥーラ教区カシラ近郊のスレテンスキー修道院のイグメーニャ・アントニア (同上);モスクワのイオアンノフスキー修道院の修道女ドロフェイ(2月);カシラ近郊のスレテンスキー修道院のスキモナヒニ・アヴラアミイ(2月);ニジニ・ノヴゴロド州アルザマス修道院のスキモナヒニ・マルファ; ハリコフ出身の隠遁修道女マルファとエウドキアの二人(3月);ニジニ・ノヴゴロド県アルザマス市のアレクセーエフ修道院の院長であるスキヒグメナ・オリンピアダ(8月);カシラ近郊のスレテンスキー修道院の修道女エリザヴェータ(9月)。あるいは、例えば、 修道女イラリア・コベレワ(1810–1892)は、13歳でクルスクのトロイツキー女子修道院に修練生として入り、19年間の厳しい修道生活を経て修道衣をまとい、この修道院で70年間を過ごし、その間ずっと絶え間なく慈善活動に従事した[1196] 。
この一覧からも、一部の修道女たちが同じ修道院出身であることが見て取れる――これは、その修道院に生き生きとした禁欲の伝統が受け継がれていたことの証左である。 特徴的なのは、セラフィモ・ディヴェエフスカヤ修道院が位置していたニジニ・ノヴゴロド州において、修道的な禁欲主義が特に隆盛を極めていたことである。おそらくこれは、19世紀のロシアの敬虔さの頂点を体現した聖セラフィム・サロフスキーの霊的偉業の反映であったのだろう。 すでに述べたように、ロシアの女性たちの敬虔な修行の道のりにおいて、多かれ少なかれ研究されているのはごく一部の道に過ぎない。これらの道が歴史学にとって完全に失われてしまったわけではなく、いつかロシアの女性たちの禁欲的功業の全体像を明らかにできることを願いたい。
シノダル期における修道史には、もう一つの特徴がある。それは、かつての主教団との緊密な結びつきが断たれたことである。 18世紀までは、司教団は修道界の内部から輩出されていた。表面的には司教の位が司教を一般の修道士から隔てていたものの、内面的には司教も修道士たちと同じ禁欲的かつ教会政治的な見解を堅持していた。 司教団の肯定的・否定的な特徴は、主に支配的な伝統との内的結びつきによって説明された。もし司教たちが修道院生活の改善にほとんど貢献しなかったとすれば、それはまさに、修道院生活が彼らにとって日常的かつ慣れ親しんだものであり、私たちが知っているように、それについて客観的な判断を下すことができた司教はごくわずかだったからに他ならない。 修道院と司教団とのこの結びつきについて、ピョートル大帝は非常によく理解していた。修道院に関する施策と並行して、彼は自らの計画や教会改革に共感する人物たちから司教団を形成しようと努めた。 彼は、この目的に適した人材を、リトル・ロシアの教会階層に見出した。そこでは、グレート・ロシアの修道士や主教たちの見解とは一線を画しており、この階層はピョートル改革を全面的に受け入れる傾向が強かったか、少なくとも、その管轄下にある聖職者たちに対して、反対を煽動したり、隠れたプロパガンダを行ったりすることはなかった。
アレクセイ皇太子事件――この事件を契機に、保守的な旧モスクワ派の聖職者や修道者たちが結束を図ろうとした――の後、ピョートルはグレート・ロシアの主教たちへの信頼を失った。教会改革や教会に関連する様々な施策を推進する上で、彼の主要な補佐役となったのはテオファン・プロコポヴィチであった。 彼は南ロシア出身であり、大ロシア人の主教たちに対して特別な好意を抱いていなかった。ピョートルは、比較的若いステファン・ヤヴォルスキー司教を総主教座の代理に任命したが、彼もまた「チェルカッス」 (すなわち「マロロシアン」)であり、モスクワの人々は嘲笑を込めて、そして少なからず敵意を込めて彼をそう呼んでいた。ピョートルは、ステファン・ヤヴォルスキーが心の中では自身の教会改革に共感していないことに気づくと、彼を二の次へと追いやった。
1700年から1721年まで続いた代理統治の期間がどれほど長かったかは特徴的である。ピョートルは、総主教職の廃止にすぐには踏み切ることができなかったのだ。 そして、最高教会権力の形態という根本的な問題が解決されない限り、ピョートルは自らの政策を継続した――教会階層にリトル・ロシアンを登用し、修道院の院長にも通常、キエフ都主教区出身の修道司祭や大修道院長が任命された。 このような政策は18世紀前半を通じて続き、特にエリザベータの治世(1741–1761)には一貫して実施された[1197] 。
大ロシアの修道院の修道者たちは、ピョートル以前の伝統に忠実であり、小ロシア人を「ラテン人」として強い不信感を持って見ていた。かつて、総主教イオアキムやアドリアン、修道士エウフィミイらも同様に彼らを見ていた。 イオアサフ・ゴルレンコ司教(†1754)は、その書簡の中で、大ロシア人が至る所で小ロシア人に対して不信感を抱いていると記している[1198] 。さらに、小ロシアと大ロシアの聖職者の間には社会的格差も存在していた。 第一に、ポーランド王冠の支配下にあった時期(西ロシアの多くの住民はロシアへ移住したが、その地域自体は依然としてポーランドに属していた)、ポーランド・リトアニアの法律により、一部の権利において貴族(シュリヘト)と同等の地位が認められていた。 1728年まで、キエフ都主教区の聖職者は、貴族と同様に、土地を購入したり、領地を寄贈されたりする権利を持っていた。 アンナ女帝の時代になっても、彼らは依然として、大ロシアの聖職者には なかった特権のいくつかを保持していた[1199] 。これもまた、小ロシアと大ロシアの聖職者間の相互の敵意の原因の一つであった。なぜなら、前者は後者を軽蔑の眼差しで見下していたからである。 小ロシア出身の司教たちは、とりわけ傲慢であり、厳格な統治を行い、配下の教区聖職者や修道者に対して残酷な扱いをすることで知られていた。そのようなタイプの司教としては、例えば、スモレンスキー司教ゲデオン(ヴィシュネフスキー)(1728–1761)、 ティモフェイ(シェルバツキー)モスクワ都主教(1757–1767);アムブロシウス(ゼルティス=カメンスキー)モスクワ大主教(1767–1771)、1771年に「ペスト暴動」の際に民衆によって殺害された; パホミイ(シマンスキー)、タンボフ主教(1751–1766);アルセニー(マツェエヴィチ)、シベリア都主教(1741–1742)およびロストフ都主教(1742–1763); パヴェル(コニュスケヴィチ)、シベリア都主教(1758–1767);キリル(フロリンスキー)、セフ司教(1766–1778)[1200] 。
マロロス出身の司教たちは、しばしば極めて急速な出世を遂げた。 説教によって女帝エリザベータに深い感銘を与えたゲデオン(クリノフスキー)司教は、わずか27歳でサヴォ・ストロジェフスキー修道院のアルヒマンドリトとなったが、同修道院を統括することはなく、サンクトペテルブルクに居住していた; 1年後、彼は聖シノドの委員およびトロイツェ=セルギエフ修道院のアルヒマンドリトに任命された。31歳でプスコフ教区を任されたが、さらに2年後(1763年7月22日)、彼の輝かしいキャリアは突然の死によって途絶えてしまった[1201] 。
1764年の世俗化以前、教区座は修道院と同様に広大な領地を所有し、そこから多額の収入を得ていた。特に、これらの教区座を小ロシア人の司教が務めていた場合、非常に多くの使用人を抱えていた。使用人と管理人の総数は31人から135人に及んだ。 ロストフ教区は、16,796人の農民が暮らす土地を所有しており、農民たちは最大5,000ルーブルの地代を納めていたほか、聖職者から徴収される「貢納金」もあり、こうして主教の総収入は8,000ルーブルに達していた。 一方、1764年の定員表によれば、ロストフ主教座の運営費として割り当てられていたのはわずか2014ルーブルに過ぎなかった。おそらくこの事情こそが、ロストフ都主教アルセニー・マツェエヴィチによる世俗化への抗議の理由となったのだろう。彼は、単なる原則的な考慮だけからではなく、エカテリーナの改革に対してこれほど断固として鋭く反対したのだ[1202] 。
まさに、マロロスの司教であるアルセニー・マツェエヴィチとパヴェル・コニュスケヴィチから、世俗化に対する公然とした抗議が相次いだのである。 これが原因となり、エカテリーナはマロロシヤ人に対して不信感を抱くようになり、1764年以降は、主教の座をヴェリコロシヤ人が占めるよう配慮するようになった。 当時(1763~64年)、26人の教区主教のうち、グレート・ロシア人はわずか12人であった。しかし、エカテリーナの措置は、その性質上やや限定的なものであったため、主教と聖職者層の間に生じていた溝を埋めることはできなかった。その溝は、時が経つにつれてますます深まっていったのである[1203] 。
18世紀半ば、ある興味深い著作が登場した。その著者は、「司教」と「長老」は同じ聖職の恩寵を授かっているとし、両者の位階の違いは、歴史的に形成された比較的後世の現象であると主張している。 同時に、著者は司教団や修道生活全般を非常に厳しく批判している。なぜなら、それらは外見的にも内面的にも、古代教会の精神から遠ざかってしまったからである[1204] 。この匿名の著作は聖職者の間で広まっていたが、研究者たちは、モスクワ・クレムリンのアルハンゲリスク大聖堂の聖職者であった首席司祭ペートル・アレクセーエフの著作であると見なしている。 彼は、モスクワ都主教プラトン、ひいては司教団や修道生活全般に対する反対姿勢で知られており、これは、女帝エカテリーナの霊的指導者であり、影響力のある大司祭パンフィロフとの書簡のやり取りからも明らかである。 アレクセーエフは、「 にふさわしい司祭が、修道生活を経ずに司教に叙任されることは可能か」と題するもう一つの著作を執筆しており、その論旨は『司教たちに対する論考』[1205] と非常に近いものである。 このような論考は、白衣の聖職者と、18世紀後半に急速に台頭していった、いわゆる「学識ある修道者」との間の社会的・物質的な立場の違いによって説明できる。後者は、司教団や修道院の修道者たちとともに、「黒衣の聖職者」を構成していた[1206] 。
学識ある修道僧とは、神学アカデミーで高等教育を受け、その後修道士となった者たちを指す。 学識ある修道士たちは、17世紀にはすでに南ロシア、すなわちキエフ都主教区や西ロシアからモスクワ・ルーシへとやって来ていた。当時、彼らのほぼ全員がキエフ神学アカデミーの卒業生であった。その中には、例えば、すでに我々が知っているシメオン・ポロツキーも含まれていた。 17世紀後半、彼らはモスクワを訪れ、教養ある神学者が不足していたため、当初はモスクワのスラブ・ギリシャアカデミーで、18世紀には新設された神学校においても、教育活動全般を担うようになった。
1724年の「修道に関する布告」により、神学アカデミーの卒業生で教職に就いている者は、30歳に達した時点で修道士となることが許可された[1207] 。彼らは修道院の修道士よりも高い俸給を受け取り、通常は直ちに司祭修道士に叙階された。 その後、神学セミナリーの学長を務めた場合、同時に修道院の院長にも任命され、その際は2つの給与を受け取ることになった。1799年、パヴェル皇帝の治世下で、教育活動に従事する司祭修道士は都市の大聖堂に所属させられ、その収入の一部を受け取るという勅令が発布された。 すでに1766年には、司教や学識ある修道士は自身の財産(金銭、書籍、衣服)を自由に処分することが許可されていたが、一方、修道院の修道士については、ピョートル大帝の勅令によりそれが禁じられていた。 司教や学識ある修道士は自身の財産を親族やその他の者に遺贈することができたのに対し、修道院の修道士が所有する財産は、彼らの死後、国家の管理下に移管された[1208] 。 このように、学識ある修道士たちは、修道院の修道士や教区司祭(大都市の大聖堂や裕福な教区教会の主任司祭を除く)よりも裕福であり、世俗の身分にとどまっていた神学アカデミーや神学校の教員といった同僚たちと比べても、経済的に恵まれていた。
1724年の「修道に関する布告」に含まれる、30歳に達して初めて出家できるという規定も、彼らに関してはしばしば遵守されなかった。1832年5月29日の聖シノドの勅令により、この教会法の違反は合法化された。 これ以降、修道院での見習い期間を免除することが公式に認められ、神学アカデミーの卒業生で修道入りを希望する者や、修道士となることを決意した未亡人の司祭に対しても同様の措置が適用された[1209] 。 神学アカデミーの学生については、出家するための年齢制限が25歳に引き下げられ、彼らもまた、見習い期間を経ずに直ちに出家することが認められた[1210] 。 神学アカデミーの卒業証書を取得したこうした学生たちは、知識と能力の面で教職に就くことが可能であり、かつ修道入りを希望する場合、かなり単調な人生の道を歩むことになった。 剃髪後まもなく、彼らは司祭修道士に叙階され、神学校で教職に就いた(特に才能のある者はアカデミーの助教授として残った)。その後、彼らは神学校の監察官や学長を務め、神学校の学長をアルヒマンドリトに昇格させることも慣例となっていた。 その後に神学アカデミーの学長職が続いた。こうしたアルヒマンドリト兼学長には、28歳から35歳の人物が就任することも珍しくなかった。名目上は修道院の院長に任命されていたが、実際には一度だけ立ち寄ったか、あるいは一度も訪れたことのない修道院も多かった。 この出世の連鎖における最後の 段階は、司教の叙階[1211] であった。この場合、その司教はこれまで一度も修道院で暮らしたことがなく、本来は独身聖職者[1212] であったことになる。 18~19世紀にかけて教区数が3倍に増加し、多くの教区に代理主教が任命されたため、学識ある修道士が10~12年後に主教に就任することは決して珍しくなかった。
18世紀後半には、学識ある修道士出身ではない司教は極めて稀な存在となった。この場合、彼らはほぼ例外なく極めて高潔な人物であったが、教会のヒエラルキーの最前線に押し上げられることはなかったため、ロシア正教会の歴史家たちでさえ、すぐに彼らのことを忘れてしまった。 私生活においても、またその思想においても、彼らは正教会の修道生活における真に禁欲的な伝統と極めて密接に結びついていた。
おそらく、その中では大主教ヴァルラアム (ペトロフ;†1802)を第一に挙げるべきかもしれない。彼は叙階後、残りの生涯である34年間を同じ教区で過ごしたが、当時も、その後の19世紀においても、これは極めて稀なことであった。彼はシベリアで、トボリスク大主教(1768–1802)として奉仕した。 彼は司教の法衣をまとった真の禁欲者であり、謙虚で、慈愛に満ち、私心のない人物で、自身の収入のすべてを困窮者に捧げていた。教区の聖職者たちはヴァルラアムを限りなく愛していた。それは、前任者のミトロポリート・パヴリ・コニュスケヴィチの下で、厳しい行政措置により多くの苦難を強いられていたからである。 また、司教の真にキリスト教的な人柄を高く評価した民衆も、彼を愛していた。彼は修道士としての青年期を、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院で、長老ドシフェイの指導の下で過ごし、この長老は彼を真の修道士かつ修行者として育て上げた。 ヴァルラアムは、ノヴゴロドおよびサンクトペテルブルク都主教ガブリエルの兄弟であった。この血縁関係が、修道院での短期間の院長職を経て、ヴァルラアムが司教に叙階される一因となった。とはいえ、その人柄から言えば、彼は同時代の司教たちの大多数よりもはるかに司教職にふさわしい人物であった[1213] 。
エカテリノスラフ大司教ヨブ(ポテムキン;1750–1823)は、我々が確認できた限りでは、モルダヴィアで修道生活を送っていた長老パイシイ(ヴェリチコフスキー)の精神的指導の下で形成された、18世紀のロシア人司教としては唯一の人物であった。 彼は有名なG・A・ポテムキン公の従兄弟であり、輝かしい軍人としてのキャリアが待っていた[1214] が、それを軽んじて29歳で突然退役した。 1779年、彼はモルダヴィアへと向かい、そこでパイシイと関わりのあった長老たちの指導の下、数年間を過ごした。 その後、彼はベッサラビアのウスペンスキー修道院の院長(1785–1793)となり、その後、ヨブはフェオドシイの司教(1793–1797)、続いてミンスクの司教(1797–1812)となり、ついに エカテリノスラフ教区の大司教(1812–1823)となった。教区の大司教として、彼は並外れた活力、聖公会との関わりにおける独立した態度、そして修道院生活の改善に向けた施策を断固として推進する粘り強さで際立っていた[1215] 。
ガブリエル大主教がトヴェリ教区を統括し(1763–1770)、そこで修道院生活の復興に向けた最初の試みを始めた当時、彼の最も身近な補佐役であったのは、オトロチャ修道院の院長(1765–1773)アルセニー(ヴェレシュチャギン; 1736–1799)であった。その後、すでにノヴゴロドおよびペテルブルク都主教となっていたガブリエルは、その事業を継続し、それによって修道院長としての歴史に名を刻んだ。一方、アルハンゲリスク教区(1773– 1775)、 トヴェリ教区(1775–1783)、ロストフ教区(1783–1799)――を統括していたアルセニー・ヴェレシャギン大司教は、至る所で大規模かつ成功裏に、教区聖職者の教育の充実と神学校の組織化に取り組んだ[1216] 。
19世紀においても、学識ある修道者出身ではない司教は、依然として稀な存在であった。ここで2人の司教を挙げておこう。リトアニア大司教(1898–1904)ユヴェナリイ(ポロヴツェフ;1826–1904)と、 (ゴロデツキー;1840–1912)、キエフ都主教(1903–1912)[1217] 。ユヴェナリイ・ポロフツェフは、オプティナ・プスティニの長老たちの指導を受けた唯一の主教であった。 生まれながらの貴族であり、高等砲兵学校を卒業した将校であった彼は、1847年にオプティナ・プスティンに入り、そこで長老マカリー(イワノフ)のもとで7年間、見習い修道士として過ごした。その後、修道司祭となり、エルサレムのロシア宣教団で長年にわたり活動した。 その後、クルスク主教(1893年~1898年)、続いてリトアニア大主教(1898年~1904年)を務め、 ユヴェナリイはロシア正教会において最も立派な聖職者の一人であり、彼自身の生き方と周囲の人々への霊的な影響は、彼がオプティナで学んだ教訓を忘れていなかったことを物語っていた。彼は、オプティナ・プストイニの長老たちへの深い感謝の念を、著作『修道院長モーセの伝記』[1218] に込めた。
三人目にして最も傑出した教会の指導者であり、華々しい外見上の経歴は築かなかったものの、真の修道者の生き方という高みに立っていたのが、イグナティイ・ブリャンチャニノフであった。 彼は、古代東方教会の禁欲的・神秘的な伝承から自らの見解を汲み取り、その伝承を生活と活動の基盤とした、ごく少数のロシア人主教たちのグループに属していた。 ユヴェナリイ・ポロフツェフ大司教と同様に、いや彼以上に、イグナティイはロシアの長老たちの弟子であり、彼は自身の著作においてこの伝統を受け継ぎ、それらはロシアの修道界における新世代の霊的成長に大きな役割を果たした[1219] 。
しかし、修道院の教育を受けていない学識ある修道者たちの間において、修道生活の禁欲的な基盤の意味や重要性が完全に失われていたと断じるのは不公平だろう。 教会生活の内的分裂にもかかわらず、その結果として修道界には二つの並行する潮流が形成された。一方には、古代の禁欲的伝統に立ち返るためのいかなる努力も行わなかった「シノダール派の修道生活」、他方には、互いに豊かさを与え合う「長老制」やその他の真の禁欲的実践があったが、 ――しかし、長老制と真の禁欲主義は、それでもなおその周囲に宗教的な雰囲気を醸し出し、世の中に強い影響を与えていた。 19世紀前半のロシアの精神文化を、偏見なく真剣な注意を払って研究する者は、この文化において、修道院の壁の内側だけでなく、その外側においても、いかに強力な地下の禁欲主義の潮流が存在していたかを必ずや発見するだろう。 これは、ロシアのキリスト教が持つ精神的力の遅れて現れた表れであった。その力は、モスクワ時代には適切な発揮の場を見出せず、不敬虔な18世紀には隠れて潜むことを余儀なくされていたが、今や至る所でその姿を現し、表面的にはそれほど強くはなかったとしても、結果を残さないほどではないほど十分に強烈に作用していたのである。 学識ある修道者たち、そしてその環境から生まれた の司教団も、この影響を免れることはできなかった。シノダル時代の司教たちの伝記を調べてみると、司教たちは主に三つのグループに分類されることがわかる。
第一のグループは、若き頃から修道生活に傾倒していた者、あるいは先ほど述べたような禁欲的な雰囲気の影響を受けた者たちである。神学校での教鞭や司教座での行政活動は、彼らを満足させるものではなかった。 数年間の主教職を経て――その間、彼らは外的なキャリアよりも自身の内面的で霊的な生活について深く思索を重ねていた――彼らは主教座を離れ、修道院へと去っていった。18世紀において、この種の現象の最も典型的な例は、ヴォロネジの主教である聖ティホーン・ザドンスキーの生涯である。19世紀の歴史からも、いくつかの名前を挙げて思い起こすことができる。
その中でもまず挙げなければならないのは、最も傑出した人物の一人であるペンゼン司教アムブロシウス・オルナツキー(1778–1827)である[1220] 。 サンクトペテルブルク神学アカデミーを卒業後、アムブロシウスはしばらくの間ノヴゴロドの神学校で教鞭を執り、27歳の時に修道誓願を立て(1805年)、その後(1808–1816年)3つの修道院で相次いで院長を務めた。 おそらく、モスクワのノヴォスパスキー修道院での滞在は、当時の同修道院において禁欲的な修行への関心が再燃し、厳格な禁欲精神で知られるサロフのプスティン([1221] )との緊密な関係が築かれていた時期であり、若きアルヒマンドリト・アムブロシウスにとって無意味な経験ではなかっただろう。 その後の3年間、アムブロシウスはノヴゴロド教区の副主教(1816–1819)を務め、その後ペンザ教区を単独で統括した。しかし、行政業務は彼の好むところではなく、1825年に彼はシノドに対し、引退を願い出る請願を提出した。
アムブロシウスはキリロ=ベロゼルスク修道院でわずか2年間を隠遁生活として過ごしたが、その禁欲的な生活は、以前、修道院長を務め教区を統括していた頃と同様、隠遁者の生活そのものであった。 彼は一日中、質素な独房から一歩も出ることなく過ごし、訪問者を受け入れたり修道士たちと会話したりすることを好まなかった。食事は質素で、一日のうちにプロスフォラをたった一つ口にするだけで、調理された食事には手をつけなかったことも多かった。自分の金(主教の年金)は、困窮している人々に施していた。 彼に届く手紙は、小部屋の入り口で開封されないまま置かれていたが、それらの返事は、後に彼の侍者が証言したように、あたかもその修道士が手紙を読んだかのように書かれていた。 夜になって初めて彼は修道室を出て、夜明けまで両手を天に掲げたまま教会の扉の前に立ち尽くしていた――1000キロメートル離れたサラフの森で、長老セラフィム(彼らは同時代人であった)も同様にそうしていた。 ――夏であろうと、最も厳しい冬の寒さであろうと、その間ずっと沈黙の祈りを捧げていた。1827年12月27日、この修行者は主教の位にあるまま、天の御国へと旅立った。彼はとっくの昔から、すべての思いと魂を注いで、その御国へと向かっていたのである。 世を捨てて、彼はあらゆる心配や気遣いを脇に置き、いわば時間を超越したかのように生きていた。彼は長老ではなく、ただ内面の完成と個人的な救いの獲得のみを志した東方教会の修道士の一人であった。
イェレミヤ司教(ソロヴィエフ;1799–1884)は、若き頃から禁欲的な生活に傾倒していたが、謙虚に、たとえ自らの意志に反してであっても、彼に定められた人生の道を歩んでいった。 彼はセフスクの神学校を優秀な成績で卒業し、そこでギリシャ語を教えたが、突然その職を辞して、ブリャンスク近郊のペチェルスク修道院に修道見習いとして入った。そこでは家畜の世話をしなければならなかったが、1823年に修道服を着用した。 しかし、神学校の学長であり、後に著名な説教者となるインノケンティ(ボリソフ)大司教が、彼を説得して神学アカデミーへの入学を勧めました。 アカデミーで3年間学んだ後、同級生全員を能力で凌駕していたイェレミヤは、突然試験に現れなかった。これは、修士号を取得しないためであった。彼によれば、修士号の取得への志向は、修道者の謙虚さとは相容れないものだったからである。 それにもかかわらず、アカデミーは後に試験なしで彼に修士号を授与した。 その後の数年間(1827年~1841年)、彼は教鞭を執らざるを得なかった。司教叙階後はいくつかの教区を統括し、その最後がニジニ・ノヴゴロド教区(1850年~1857年)であった。 司教としての務めはイェレミヤにとって容易なものではなかった。なぜなら、彼はその内面において、シノダールな 教会組織の狭量な精神とは相容れなかったからであり、この務めは彼にとって悲しみと葛藤に満ちたものだった。 1857年、彼はアンブロシウス司教と同様に司教座を離れ、修道院に入った。そこで大修道服を着用し(1861年)、残りの生涯(†1884年)を修道院の独房で過ごした[1222] 。
さらに、言及に値する人物が数名いる。メレティウス(レオンティヴィチ;1784–1840)は、ハルキウ大主教(1835–1840)を務め、その教区で絶大な尊敬を集めていた。また、ヤコフ(ヴェチェルコフ; 1792–1852)、ニジニ・ノヴゴロド大司教(1847–1850)。ニカノール・ブロフコヴィチによれば、彼は「断食による消耗で……間違いなく亡くなった」とされる。アントニー(アンフィテアトロフ)、カザン大司教(1866–1879)[1223] 。
これらの例を挙げるのは、教育や行政活動そのものが、私生活において修道誓願を厳格に遵守することにとって、乗り越えられない障害ではなかったことを示すためである。もちろん、世俗においてこれほど責任重大かつ高位の職務を全うしつつ、私生活では世俗から離れるためには、精神的な落ち着きと強い気概が必要であった。 19世紀の司教たちの伝記や活動をたどってみると、世紀の前半と後半の司教たちとの間に大きな違いが見て取れる。世紀の前半に生きた司教たちは、世紀の後半の司教たちよりも、より個性的で強い人物たちであった。 彼らは、教会生活の核心にますます深く浸透していく「シノダルの精神」に苦しんでいたが、表立った反対を示さず、それに自らの霊的な力を費やすことを望まず、その力を個人の修養に注ぎ込んだ。 ここでまず挙げられるべきは、二人の重鎮たる聖職者、すなわち同時代の二人、モスクワ都主教フィラレート(ドロズドフ)(1821–1867)と、キエフ都主教フィラレート・アンフィテアトロフ(1837–1857)である。
46年間にわたりモスクワ教区を統率し、半世紀近くにわたってロシアの教会生活の中心的存在であったフィラレート大主教(1782–1867)[1224] ; 彼は、そのすべての著作に貫かれた見解と精神が、死後もなお教会の生活に影響を与え続けた聖職者であった。彼は強い気性と、計り知れない霊的な力とエネルギーを兼ね備えた人物であり、これらの資質のおかげで、自らの魂に潜む内なる悲劇を巧みに隠すことができたのである。 外見上、フィラレート(ドロズドフ)は公式教会の支柱であり、驚くべきことに、真の教会的精神の支柱でもあった。この人物に対する評価が分かれていることは、彼が内面の魂の悲劇を巧みに隠すことができたことを物語っている。 彼の内向性と控えめな態度、そして発言の中に本音を表に出さないという驚くべき能力が、内面の悲劇を抱えながらも、教会の中心に立ち続けることを可能にした――それも、ニコライ1世皇帝の時代という、まさにその時代に! フィラレートの最も忠実な弟子であり崇拝者であったサヴァ・ティホミロフ大司教(1819–1896)は、彼と特に親しく、誰よりも頻繁に彼の元を訪れていたが、並外れた几帳面さで書かれた『私の生涯の年代記』の中で、フィラレートに関する多くの情報を伝えている。 しかし、それらはすべて、この聖職者の外見的な特徴を描写するものであって、その魂を明らかにするものではない。もっとも、サヴァは当然、記した以上のことを知っていたはずである。さらに、サヴァはフィラレートの大臣としての活動に関する膨大な資料も出版しており、それらは今なお研究者によって完全に解明されていない。 これらの の書物のページからは、まるで天の主と地上の主という二人の主人の僕であるかのような、教会の公爵の姿が浮かび上がる。 確かに、フィラレートは国家と教会の関係について批判的な発言をしばしば行っていたが、それは常に一定の限度内にとどまっていた。シノダル時代の他のどの高位聖職者も、ロシアの国家・政治体制やその専制政治を宗教的に正当化し、擁護するために、フィラレートほど多くのことを成し遂げた者はいなかった。 国家に対する教会の奉仕は、彼の教会観と矛盾するものではなかった。その教会観は、おそらくヨシフ・ヴォロツキーの保守的な見解[1225] と関連づけることができるだろう。彼は、その偉大な権威のすべてを、差し迫った改革を提案するために用いることはなかった。 ニコライの死後、ロシア正教会の生活に「60年代」の精神という新たな気風が徐々に浸透し始めた際、フィラレートは、自身も慎重にいくつかの提案を行ったものの(それは真の改革というよりは、むしろ教会運営の方法に関するものであった)、それでもなおこの気風に断固として反対した[1226] 。
おそらく、我々のこの評価には批判的な異論が寄せられるだろうが、フィラレート(ドロズドフ)の内面を我々が理解できた範囲において、この聖職者は当時の国家による教会統制の断固たる反対者ではなかったという結論に至った。 彼は単に、その枠組みの中で教会により大きな自由を確保したいと望んでおり、国家による教会への保護に干渉することなく、教会生活からいくつかの不健全な現象を排除することで、依然として国家の保護下にとどまるべき教会を霊的に強化しようとしたのである。 明らかに、フィラレートのこうした見解は単なる対症療法に過ぎない。「賢者フィラレート」――皇帝ニコライが彼をそう呼んだ――は、教会の精神的力が国家との自由をめぐる闘争に耐えるにはあまりにも弱すぎると考えていた。しかし、彼の同時代人の中で、フィラレート自身以上に教会の内情を熟知していた者など一人もいなかったのだ。 フィラレートの時代は、政府が後見権を行使して教会の内部事情にさらに深く介入しようとしていた時期であり、前述のすべてにもかかわらず、 まさにフィラレートこそが、政府のこうした動きを部分的に食い止めることに成功した原動力であった――ただし、それは彼が「国家と教会のシンフォニー」において不協和音が生じ得ないと考えていた分野に限られていた。
もう一人のフィラレート、キエフ都主教(1779–1857、 1837–1857)――ニコライ皇帝が「敬虔なるフィラレート」と呼んだ人物――は、その思想においてフィラレート・ドロズドフに近い立場にあり、同じく保守派であったが、その保守主義はモスクワのフィラレートのそれとは異なる源泉に根ざしていた。 彼はロシアにおける国教化に対して断固として反対の立場を取り、自身がメンバーであった聖シノドの会議に出席しないことでその反対の意思を示していた。しかし、教会における彼の権威は極めて大きかったため、政府はこのような妨害行為を黙って容認していた。 自らも厳格な禁欲主義者であり、教会階級の威厳と個人的な謙虚さを両立させる術を知っていた彼は、フィラレート・ドロズドフと同様、過激な改革の支持者ではなかった。もっとも、ある一点において、彼らの見解は正反対であった。 フィラレート(ドロズドフ)は、聖書を教会スラヴ語からロシア語へ翻訳することを支持していたが、これに対しニコライ1世の政府は不快感を示していた。一方、キエフのフィラレートは、そのような翻訳に断固として反対していた[1227] 。修道生活に対する彼らの見解も異なっていた。 モスクワのフィラレートは、スターチェスト(長老制度)を奨励する傾向にはなく、むしろ、スターチェストを教会の階層制度に対するある種の侵害と見なしていたため、ある程度はこれを是認していなかったと言ってもよい。 一方、フィラレート・キエフスキイは、カルーガ教区を統括していた当時(1819~1825年)から、自身の管轄下にあったオプティナ・プストイニにおいて、スターツェ制度が深く根付くよう多大な尽力を行い、その後も常にスターツェたちに対して好意的かつ庇護的な態度を示していた。 その文学的遺産の量は、フィラレート・ドロズドフの遺産とは比べものにならないが、著者の人柄は、モスクワのフィラレートの書簡よりも、彼の書簡においてより鮮明かつ明確に表れている。 「敬虔なるフィラレート」は、モスクワのフィラレートほど雄弁でも、論理的に一貫した議論を展開するわけでもなく、その手紙は簡潔で、 だが、それらは謙虚さ、深遠な思索、精神的な力、そして驚くべき素朴さに満ちている。 彼の書簡に触れると、読者はすぐに、キエフのフィラレートが教会の権力による公式な気風にどれほど疎遠であったか、また国家による教会支配にどれほど苦しんでいたかを察するだろう。しかし、彼はその苦しみを禁欲的な謙虚さをもって耐え抜いた[1228] 。
モスクワのフィラレートの立場と、国家教会体制に対する彼の慎み深さは、司教たちに一定の影響を与えた。19世紀の司教たちのうち、比較的多数を占める第二のグループは、まさに彼の教会政策から教訓を導き出した司教たちによって部分的に構成されていた。彼らは、国家教会体制の枠組みの中で振る舞う術を知っていた司教たちであった。 その一部は、単にシノダル時代の精神に対して公然と反対しなかっただけであり、他方――特にK・P・ポベドノスツェフのオーバー・プロキュロル在任期間(1881–1905)[1229] およびその後の1917年まで――は、その精神の確固たる推進者であった。 彼らは行政活動に全身全霊を捧げ、それが彼らの時間と力のすべてを吸い取ってしまったため、自らの魂の救いを顧みる時間や機会はもはや残されていなかった。 このタイプの司教たちと、彼らの教区の信徒たちとの結びつきは、弱く、脆弱なものであった。ニカノール・ブロフコヴィッチ大司教(1826–1890)は、 自身もこの傾向から無縁ではなく、おそらくその代表者の一人であったが、自身の『伝記的記録』の中で、1850年代から1870年代にかけての多くの主教たちについて語り、彼らの活動がどのような雰囲気の中で行われていたか、また主教たちの関係が、聖公会だけでなく社会や民衆に対しても、いかに異常であったかを示している[1230] 。
この司教たちのグループの中には、多くの優れた説教者や卓越した管理者たちがいるが、そのすべてを列挙することはできない――そうすれば、本題からあまりにも逸れてしまいすぎるからだ。 19世紀半ばからすでに実践されていた、そして後にシノドの首席検事K・P・ポベドノスツェフの時代には完全に意図的なものとなった、主教を教区から教区へと頻繁に異動させる慣行は、主教たちの多かれ少なかれ成功した活動を著しく妨げていた。 司教たちは2~3年間教区を統括した後、別の教区――しばしばロシアの反対側の端にある、以前の場所とは地域的・国家的状況が全く異なる場所――へ異動させられた。 このため、彼らは聖職者や信徒と緊密な関係を築く間もなく、教区に滞在する短い期間では、有益な施策を打ち出し、それを完遂することもできなかった。 ニカノールの『手記』には、聖公会と大検事によって作り出されたこの統治体制の結果、個々の教区主教による多くの優れた有益な取り組みが、未完成のまま残されたり、あるいは完全に水泡に帰したりした事例が数多く挙げられている。 ポベドノスツェフの時代だけでなく、それ以前にも、ある程度の独立性を示したり、真実を語ったりした司教――例えば、トムスクの司教アガピト (ヴォスクレセンスキー;1834–1841;† 1854)やドンスキー大主教イオアン(ドブロズラコフ;1847–1867;† 1872)のように、ある程度の独立性を示したり真実を語ったりした司教は、引退を余儀なくされた[1231] 。特に有名になったのは、イルクーツク大主教イリネイ (ネステロヴィチ; 1783–1864)の運命が特に知られている。彼はニコライ1世の治世下で、国家による教会への干渉の犠牲となり、当初は精神異常者とさえ宣告され、残りの生涯を修道院で静かに過ごした[1232] 。
第3のグループの司教には、修道服を身にまとった学者であった司教たちが挙げられる。彼らの運命も、必ずしも平坦なものではなかった。 ロシアの神学、主に教義学、比較神学、弁証学、典礼学は、ニコライ1世の時代、そして一部はその後も、国家による統制とフィラレート大主教の保守的な見解のため、客観的な学術研究を行う機会が与えられていなかった。
すでにここで何度か言及されたニカノール・ブロフコヴィッチ大司教は、神学の分野で多大な貢献を果たしたが、神学アカデミー在学中およびその後、彼自身だけでなく多くの同時代人も直面せざるを得なかった困難について語っている。 彼は、1950年代の神学アカデミーでは、鋭い問題は口にしないのが通例であり、才能ある教員はしばしば「危険な学科」の担当から外され、自らの知識を犠牲にして、ギリシャ語やキリスト教考古学といった「危険でない」分野で働くことを余儀なくされていたと記している[1233] 。 ニカノールの『手記』は、50~60年代の神学校の状況だけでなく、学識ある修道者の置かれた立場をも浮き彫りにしている。シノダル時代の特徴を補完するために、探究心と才能に恵まれながらも悲劇的な運命をたどった、さらに二人の人物の名を挙げておこう。
その一人こそ、アルヒマンドリト・マカリイ・グルハレフ(1792–1847)であった。彼は生来の才能と、ヘブライ語および旧約聖書に関する卓越した知識に恵まれており、それにより多岐にわたる学術活動に従事することができた。 彼は、謙虚さと愛に満ちた開かれた心を持ち、同時に、聖書をロシア語に翻訳するという一つの明確な目標に向けたエネルギーと情熱を兼ね備えていた。当初、彼は修道誓願を立てるつもりはなかった。しかし、神学アカデミー卒業後に配属されたエカテリノスラフ神学校の講師となった後、 すでに私たちにもお馴染みのイオヴ(ポテムキン)主教や、イオヴの周辺にいたモルダヴィア出身の他の数名の修道士たちと親しくなり、こうして長老パイシイ(ヴェリチコフスキー)の学派が持つ禁欲的な精神に触れることになった。 彼は修道誓願を立て、グリンスカヤの隠遁地で長老フィラレートの元でしばらく過ごし、禁欲主義の著作を学んだ。 その後、彼はコストロマ神学校の学長に就任した。聖書をロシア語に翻訳し、その翻訳版を出版するという彼の学術的計画は、聖公会の承認を得られず、聖書翻訳の試みを中止するよう勧められることさえあった。 傷つき、憤慨した彼は学長の職を辞し、グリンスカヤ修道院に戻った(1825年)。しかし、マカリイは単に修道院に籠もって瞑想的な生活に身を委ねるような人間ではなかった。彼の中には、シベリアの異教徒の民の間で宣教活動を行うという計画が熟成しつつあった。
1829年、彼はシベリアへと向かい、その1年後の1830年にはアルタイ宣教団を設立し、その活動に全力を注いだ。彼の宣教の功績は、ロシア宣教史において最も輝かしいエピソードの一つとなった。 言語学的な知識と言語の才能のおかげで、マカリイは先住民の言語を容易に習得した。彼は辞書を作成し、詩篇、祈り、マタイによる福音書、洗礼の儀式の手順などを現地の言語に翻訳した。 彼はアルタイで14年間、疲れを知らず献身的に活動したが、シノドスの官僚たちからは本格的な支援を得ることはなかった。彼らは宣教活動のために、年間わずか570ルーブルという、笑止千万なほどわずかな金額しか支給しなかったのだ。 マカリイは、いかなる代償を払ってでも多くの改宗者を獲得し、シノドに印象的な統計を提示しようとはしなかった。キリスト教を説くにあたり、彼は先住民に対して圧力をかけることも、甘言で誘惑することもなかった。彼にとって重要なのは、改宗者の数ではなく、教会の新たな子らに対する真にキリスト教的な啓蒙であった。 アルタイでも彼は聖書の翻訳作業を続け、自身のメモを通じて、翻訳の必要性と有益性をシノドに説得しようとしたが、 、その試みは実を結ばなかった。精神的に疲れ果て、肉体の病にも苦しんだマカリイは、1843年にロシアへ戻らざるを得なくなった。 晩年はオルロフスカヤ教区の修道院で過ごし、回復すればエルサレムの聖地への巡礼を果たそうと意気込んでいたが、1847年5月18日に死去した。 「マカリイはキリスト・神の真の僕であった」と、モスクワ都主教フィラレートは彼の死後に語ったが、この称賛は遅すぎた。才能ある学者であり、卓越したヘブライ語学者であり、厳格な修道士であった彼は、すでにあの世へと旅立っていた。彼は、自身のたゆまぬ労苦よりも、むしろシノダル制の犠牲者であったのだ。 彼の運命は、この制度が、教会の利益のために自らの支配下にあった人材をいかにうまく活用できなかったかを示すさらなる証拠となり得る――その石のように硬く、凝り固まった精神を持つ制度は、しばしば彼らを単に破滅させてしまったのである[1234] 。
「アルヒマンドリト・フェオドール・ブハレフの物語」は、ロシアが精神的歴史において極めて劇的な時期を経験していた1860年代に繰り広げられた。当時、教会生活、あるいはより正確に言えば、聖職者や教会階層の一部は、政治思想の動揺と接触していたのである。
フェオドール・ブハレフ(1824–1871)は、学生時代からすでに教師たちの注目を集めていた。 1846年、彼はモスクワ神学アカデミーを卒業すると、直ちに修道士となった。後に彼は、これを自身の病弱さと心の安らぎを求めるため、さらには神学研究に全身全霊を捧げるために決断したと公然と認めている。
彼がモスクワ神学アカデミーで行った聖書解釈学の講義は、学生たちに大きな感嘆を呼び起こした。その講義の深遠さと比喩的な表現、そして(同学科の先任者たちに特徴的だった)スコラ的な手法を排した解説の仕方により、この若き学者は学界に新鮮な風を吹き込むことができた。 自身もスコラ主義的な気風を完全に排していたわけではないフィラレート都主教でさえ、当初はフェオドールに好意を抱いていた。 福音書や使徒時代の生き生きとした比喩的な解釈は、ブハレフの著作『聖使徒パウロに関する数編の論文』(1861年刊)にも特徴的であり、この著作には旧約聖書と新約聖書の深い対比が盛り込まれている。 かつて激しい論争を巻き起こしたゴーゴリの有名な『友人との書簡集』は、ブハレフに非常に強い印象を与えた。ゴーゴリを擁護するため、彼は『三通の手紙』(1848年)という小論を執筆し、それをフィラレート都主教に見せたが、都主教はこれを断固として認めなかった。 (『三通の手紙』が刊行されたのは1861年になってからであった)。一方、この若き講師は、主に講義に含まれていたいくつかの説明が「自由主義的」かつ「プロテスタント的」すぎると見なされたことを理由に、学長との関係において、アカデミー内で困難や摩擦に直面した。 まもなく、ブハレフはアルヒマンドリトの位に叙され、カザン神学アカデミーへ異動となり、よりリスクの少ない教義神学の教席に就いた。
カザンでの講義もまた、学生たちから共感と熱狂を呼び起こした。というのも、ここでもブハレフは新しい手法を披露し、新たな評価を示し、まったく新しい科学的・批判的アプローチに基づいていたからである。彼の説教は、社会において彼に大きな人気をもたらした。 宗教的な問題が活発に議論され、彼自身が主たる演説者であった「フェオドール神父の夕べ」は、カザン社会の精神的活動の中心となり、これまた当局の不満を招くこととなった。 ブハレフは今回、サンクトペテルブルクの宗教検閲委員会へ異動となった。そこでは、人を精神的に消耗させる業務が、彼の過剰な血気から彼を癒やすだろうと期待されていたのである。
新しい赴任先で、ブハレフは敵を作ってしまった。それは雑誌『家庭の対話』の発行者V・I・アスコチェンスキーであり、彼は厳格な宗教的保守主義の体現者であり、後にブハレフが「陰鬱な狂信者」と評した人物であった。 アスコチェンスキーのいくつかの記事が禁止されたことで、彼はブハレフに対して抑えきれない憎悪を抱くようになった。 アスコチェンスキーがブハレフを告発するためにモスクワ・アカデミーの学術評議会に送った書簡は、その文面があまりにも粗暴であったため、学術評議会はこの書簡をブハレフに転送し、名誉毀損でアスコチェンスキーを訴えるよう勧告したが、ブハレフはそれを行わなかった。
1860年、彼の著書『現代社会における正教会について』が刊行された。これは、キリスト教の教義の基礎に立脚し、キリスト教と社会・政治的生活との調和を通じて社会関係を調整しようとする試みであった。 著者の論考の一部は、現代の読者にとっても依然として興味深いものであり、この著作では、当時のロシア社会における社会改革の必要性に関する支配的な見解に沿って、「キリスト教社会主義」という問題の解決に向けた第一歩が踏み出されている[1235] 。 ブハレフの著書はアスコチェンスキーからの批判と罵倒を招き、彼は著者を「異端者」「無神論者」と呼び、礼儀の限界を完全に逸脱した。 それにもかかわらず、ブハレフは検閲官としてこの批判を印刷に許可し、自身の反論を雑誌『祖国の息子』に掲載して、キリスト教の社会的課題に関する自らの論考を改めて述べた。 しかし、アスコチェンスキーの陰謀は実を結び、アルヒマンドリト・ブハレフは検閲官の職を失い、ペリャスラフのニキツキー修道院へ転任させられた。彼が長年にわたり執筆に没頭していた新作『黙示録』は、検閲によって出版を許可されず、アスコチェンスキーによる攻撃は続いた。 肉体の病や精神的な打ちひしがれ感によって特に激化した激しい内面の葛藤に苛まれながら、フェオドール大修道院長は修道院の位を退く決断を下した。 それは1863年の夏のことだった。彼はこの決断を、修道誓願によって従うことを義務づけられていた者たちに対して、心の底から抗議していたため、もはや修道士であり続けることが不可能になったからだと正当化した。
この決断は、彼の運命の悲劇性をさらに深めることとなった。生計の手段もなく、多くの人々から軽蔑され、わずかな友人からの援助のみに頼って、ブハレフはその後さらに7年間を生き抜いた。1863年の直後に彼がとったもう一つの行動――結婚――を理解するのは難しい。 職を見つけるための彼のあらゆる試みは、すべて失敗に終わった。彼は、雑誌への短い寄稿によるわずかな原稿料と、ごく少数の知人から与えられた金で生計を立てていた。フィラレート都主教も、何度か密かに彼に金を送っていた。1871年、ブハレフは長い闘病の末に亡くなった。
1865年と1866年、彼はさらに2冊の本を出版することに成功した。これらには、彼の初期の著作と同じテーマが論じられている。 そのうちの2冊目である『私の弁明』(1866年)は、キリスト教の社会的課題に関する彼の見解に対して、保守派と自由派の両陣営から寄せられた批判に答えるための最後の試みであり、また、彼に対して向けられた多種多様で、しばしば根拠のない非難に対して自己弁護を試みるものでもあった[1236] 。 ブハレフは、教会の保守主義だけの犠牲者ではなかった。というのも、リベラル派の界隈においても、彼は真の理解を得ることができなかったからである。修道院を去った後、これらの界隈で支持者を見つけ、それによって何らかの貢献ができるという彼の希望は、虚しいものとなってしまった。
ブハレフにとって、出家という出来事は、魂を揺さぶるような転機にはならなかった。他の学識ある修道者たちと同様、出家は、学術活動への新たな可能性を切り開くというよりは、むしろ悲劇的な内面の葛藤を引き起こすものだった。 彼の私生活は、1950年代末から1960年代初頭という不健全な雰囲気の中で展開された。すなわち、ロシアの保守主義が「改革の時代」の気風と闘い、教会および国家・政治生活のあらゆる分野において自らの原則を確立しようとしていた時期である。 この保守主義の対極にある1960年代の自由主義も、教会に敵対する、あるいはあからさまに無神論的な潮流から完全に自由ではなかったが、やはりブハレフの見解を受け入れることはできなかった。 彼らにとって、ブハレフの著作に感じられる神秘主義は、全く受け入れがたく、むしろ幾分疑わしいものでさえあった。なぜなら、それは著者がリベラル派とは異質な世界観に属していることを示していたからである。 実のところ、彼らの見解は正しかった。なぜなら、ブハレフは、シノダル制の硬直した精神によって教会界から追放されたが、それは単に、他の者たち――例えば、後のニカノール・ブロフコヴィッチ大司教――が長い内面の葛藤の末、心の奥底に隠し通したような疑念を、彼があえて声に出して表明してしまったからに他ならない。
高等神学校もまた、時代の気風の影響をまともに受けた。1960年代の特徴として、学生や教員の間で修道者となる者の数が減少したことが挙げられる。 かつて、サンクトペテルブルク神学校の学長をミトロポリート・フィラレート・ドロズドフやアルヒマンドリート・グリゴリー・ポストニコフ(1856~1860年にサンクトペテルブルク都主教を務めた)が務めていた時代、彼らは学生の間での出家運動の主要な推進者であった。 しかし現在では、学長や教授陣による学識ある修道者の育成に向けた取り組みは極めて乏しい。このグループに属する助教授や教授の数は著しく減少した。主教の座を継ぐに適した候補者の選定にさえ困難が生じている。
1970~80年代には、この不足は、妻を亡くした司祭が修道誓願を立て、修道司祭となり、その後アルヒマンドリト(修道院長)となり、ごく短期間で主教に叙階されることで補われていた。 19世紀末から20世紀初頭にかけて、未亡人となった司祭出身の主教の数は非常に多かった。未亡人となった司祭が主教の叙階を受けることは以前から可能であったが、それは稀なケースであった。しかし、この頃には、主教のほぼ半数が教区司祭として奉仕を始めていた。 これは主教団にいくつかの新しい特徴をもたらした――それは教会の見解という意味ではなく、なぜなら教区聖職者出身の主教たちは、修道士出身の主教たちよりもさらにシノダル制に忠実であったからである――主に教区運営の分野においてであった。 教区聖職者の生活をよく知っていた彼らは、教区聖職者により多くの関心を払い、そのニーズにもより配慮した。この状況がもたらした結果は極めて肯定的なものであり、歴史家としては、おそらくこのテーマに特別な研究を捧げる価値があるだろう[1237] 。
1880年代後半、学識ある修道者たちの新たな擁護者が現れた。それは、若く、才能豊かで、聡明かつ精力的なアルヒマンドリト・アントニー・クラポヴィツキー(1863–1936)であった[1238] 。 半世紀にわたりロシア正教会の生活に多大な影響を与え続けた人物であり、その影響はしばしば肯定的なものであったが、時に否定的なものでもあった。一方では、彼はシノダル制に反対の立場をとっていたが、他方ではこの制度を支持していた。 修道生活を尊ぶ者でありながら、修道者は瞑想的な生活に専念すべきではなく、ロシアの教会・政治生活に積極的かつ実効的に影響を与えることを使命としていると考えていた。 彼は、強大な権力を持つ総主教が率いるべき司教団の専制を支持していた。 ロシア正教会の歴史において、彼が最も愛した英雄が総主教ニコンであったのも、当然のことである[1239] 。アントニーの念願は総主教座の復活であり、彼は総主教制こそがロシアにおける君主制の主要な支柱となるべきだと語っていた[1240] 。 アントニー・クラポヴィツキーは、ツァーリと総主教の意見の一致こそが、ロシアおよびロシア正教会にとって唯一可能な国家・教会・政治の道であると見なしていた。このように、彼の見解に触れることで、「モスクワは第三のローマ」という思想が、「新たなニコーン」への夢とともに再び息を吹き返している様子がうかがえる。
アントニー・クラポヴィツキーは、教会生活における影響力ある制度として修道生活を奨励したが、何よりもまず、主に学識ある修道者たちを後援していた。 彼自身、非常に早い時期に修道誓願を立てた。貴族の家庭に生まれ(1863年)、ギムナジウム卒業後、サンクトペテルブルク神学アカデミーに入学し、わずか18歳で学位を取得した(1881年)。 4年後、彼は修道士となった(1885年)が、数ヶ月後(22歳の時)に司祭修道士に叙階された。 ホルム神学校での教職活動を開始し、1887年に哲学の学位論文を提出した後、修道司祭アントニーはペテルブルク神学アカデミーの旧約聖書学科の助教授に任命された[1241] 。 27歳の時にアルヒマンドリトとなり、ペテルブルク神学校の学長に就任したが、この職務はわずか4ヶ月間しか務めず、モスクワ神学アカデミーの学長に転任した(1890年)。 1897年、34歳の時に司教に叙階され、カザン教区の副司教に任命されたが、学長の職は引き続き務めた。3年後(1900年)、ウファで独立した司教座に就いた(1900年~1902年)。
3つのアカデミーの助教授、教授、学長を務めたアントニーは、その才能と卓越した雄弁さによって、学生たちに多大な影響を与えた。 彼はどこへ行っても、若者たちに修道入りを勧めた。当時、1880年代には、学界の若者たちが修道生活に対して極めて批判的であったため、修道士になる決心をした学生の数は極めて少なかった[1242] 。 若きアルヒマンドリト兼司教による熱烈な啓蒙活動は、3つのアカデミーすべてで成功を収め、まもなく学生や教員の間の出家者数が著しく増加した。 アントニーは小冊子『学識ある修道生活について』(1889年)を出版し、これは学生の間で広く配布された。彼の助言に基づき、未亡人の妻を持つ司祭出身で、カザンにてアントニーによって出家させられた若きアルヒマンドリト・イノケンティ(ベリャエフ)は、大著『修道生活への出家について』を執筆した[1243] 。 修道生活の擁護者 には、サンクトペテルブルク都主教アントニー(ヴァドコフスキー;1898–1912)もいた。彼はサンクトペテルブルク神学院の学長を務めていた時期(1887–88)に、非常に多くの学生を修道生活へと導き、そして最後に、サンクトペテルブルク神学院の新学長となったセルギイ司教 (ストラゴロドスキー;1901–1903)が挙げられる。彼は後にモスクワ総主教(† 1944)となった。
アントニー・フラポヴィツキーの活動は、1917年までのロシア正教会の修道者階級および司教団の存続における最終期、いわば現代にさかのぼるものであるため、この終焉期に関する客観的な資料は極めて乏しい。 もし結論として、これら二つの教会制度の本質について総括的な結論を導き出そうとするならば、学者修道士も司教たちも、自らを修道生活の真の代表者と見なしており、ロシアの一般社会もまたしばしばそう受け止めていたにもかかわらず、実際には両者とも、真のロシアの修道生活からは一線を画していたと言わざるを得ない。 この誤解の原因は、主教の座を埋める候補者を必要としていた教会当局が、修道生活の水準を、修道院の修道士たちの中からそのような候補者を見つけられるほどまで引き上げられるとは、もはや期待していなかったことにある。 19世紀の教会生活は、言うまでもなく16世紀よりもはるかに複雑であり、司教団は、その教養において、国と国民の文化的生活に見合った水準に立たなければならなかった。 学識ある修道者という階層の創設は、その発展が別の道を進んでいれば肯定的に評価できたかもしれないが、当時の教会は神学校で教えるための教養ある人材も必要としていた。 学識ある修道者階級は、19世紀初頭に教育上の必要性とロシア教会の運営のためにこの階級の形成を奨励し始めたフィラレート大主教が当初構想した通り、これら両方の目的に奉仕せざるを得なかった。 しかし、その計画の実践的な実施の結果、学識ある修道者層およびそこから輩出された司教団は、実質的にロシアの修道史の外に置かれることになってしまった[1244] 。
これまでの説明から明らかなように、ロシア修道生活の発展は、その起源から19世紀末に至るまで、摩擦や複雑化を伴って進んだ。 この発展における困難は、修道院生活が常に世俗化の危険にさらされていた点にあり、それは、修道院の住人たちが修道院の壁の外での社会・慈善活動に特に傾倒していなかった時代でさえも同様であった。 ロシア正教会において、修道院は、周知の通り、民衆の生活から完全に隔絶されることは決してなかった。当初は、それらが国の文化の中心地であったためであり、その後、16世紀初頭からは、その頃までに修道院が国家の政治的・経済的生活の構造に深く根ざしていたためであり、これが修道院を世俗化の過程へと巻き込んでいったのである。 この過程は極めて進み、修道院生活の深層にまで深く浸透していたものの、修道的な禁欲主義の目的と意義に関する正しい認識は、決して取り返しのつかないほど失われてはいなかった。 ある時点で、ロシアの修道生活を内側から再び活性化させようとする強い志が生まれ、この復興の精神的源泉となるはずだったのが、東方教会の に根ざした禁欲的かつ神秘的な伝統であった。 これを志した人々は、上からの修道院改革の計画をでっち上げるのではなく、修道界そのものの中で禁欲的・神秘的な精神を復活させる道を通じて、修道生活の精神的刷新を模索した。 18世紀後半から1917年に至るロシアの長老制度の歴史は、この志が実を結んだことを物語っている。 世俗化の過程は、修道生活の健全な力を破壊しなかった。これを証明するのは長老制度だけではない。長老たちの精神的影響力の範囲外においても、真の修道生活の多くの例が見られ、これは、キリスト教の禁欲主義の意味と目的についての正しい理解が、完全に歪められてはいなかったというさらなる証拠となり得る。
多くの真のキリスト教的修行者を育て上げた長老制度と、長老たちの精神的影響力の及ばない領域における禁欲主義は、シノダル時代の活気のない陰鬱な雰囲気を照らし、温めていた。 修道生活の擁護者たちとその同時代人たちが、長老制度に、ロシアにおける修道生活のさらなる復興と繁栄への希望を見出していたことは明らかである――その希望は、部分的にしか実現されなかった。
長老制度については、以前『長老たちの生涯と教え』[ ]という著書で既に論じており、そこでは、特に傑出していると我々が考える長老たちの事例を基に、その性格と本質、主要な特徴、そして世への影響の特質を明らかにしようと試みた。 本稿では、ロシアの修道生活全般の歴史に関連して、長老制度の簡潔な歴史についても述べる[1245] 。
アトス山やその他の正教会の修道院で今日まで受け継がれている長老制度は、古くから東方教会の修道院に存在していた。なお、この制度は教会当局によって上から導入されたものではないことを、まず明言しておく必要がある。 それは初期の修道院にすでに現れ、東方最古の修道院という恵まれた土壌の中で育まれていった。古代キリスト教の禁欲的・神秘的な精神から生まれたスターチェストは、修道院の規律と、将来の修道士たちへの霊的指導の基盤となった。
古代エジプトの教父たちの禁欲的偉業を伝える資料からは、師弟関係がすでに聖アントニオス大聖人(†356)の時代にそこで栄えており、修道生活に入ったばかりの修道士たちを霊的に育成するための主要な手段であったことがうかがえる。 その本質において、聖なる隠遁者の聖人伝という形式で編纂された古代の文献に語られる師弟関係は、単に修道院の外的規律を強化する手段であっただけでなく、 キリストの教えに基づくその完全性の内的な意味を、キリスト教の完全性を求める若き修行者に明らかにし、その教えの精神に彼を根付かせる役割も果たしていた。 歴史的に見て、長老の重要性は、正教会の修道院における霊的指導者の重要性が高まるにつれて、同時に増していった。霊的に経験豊富な年配の修道士は、最も古い禁欲主義の著作、例えば5世紀後半の記念碑であるエジプトのパテリコン『エジプトの教父たちの言葉』や、別のパテリコンである『Verba seniorum』 [『教父たちの言葉』]において、patēr pneumatikōs または pater spiritualis(霊的父)と呼ばれていた、霊的に経験豊富な年配の修道士は、厳密な意味での司祭や霊的指導者([1246] )ではなかった。 その大部分は司祭ではなく、修道院長からの祝福や許可を得て、若く修道生活を始めたばかりの修練者たちの霊的指導にあたり、修道院における修道生活の意味を彼らに説いた修道士であった。小規模な修道院では、通常、修道院長自身が霊的父の役割を果たしていた[1247] 。 このような霊的指導者――ここでは「スターツェル(старцев)」と呼ぶことにする。というのも、このスラブ語およびロシア語の語は、pater spiritualisが自身の霊的子らにとって何であったかを完全に表しているからである――は、見習い修道士たち自身によって選出された。これは当初から彼らの権利とみなされており、宗教的・牧会的観点からも理解できることである[1248] 。 原則として、スターツは現在の「霊的指導者」という言葉の意味において、同時に修練生たちの霊的指導者でもあったが、修練生たちにはスターツの他に、修道院全体の霊的指導者という特別な存在がしばしばいた。しかし、 この場合、新入修道士たちの霊的成長に特に大きな影響を与えることはなく 、また、長老の霊的指導の妨げとなったり、見習い修道士の修道者としての道を困難にしたりしないよう、そのようなことを意図することもなかった。
長老の任務は、若い修道士の魂と意志を導くことにあった。古代の禁欲主義者たちの見解によれば、この任務は極めて重大な責任を伴うものであった。長老のもとでの見習い生活は、初心者の修道士にとって容易なものではなかったが、若い修道士を弟子として受け入れる長老自身もまた、重い十字架を背負うこととなった。 師匠としての役割は、ある意味で、師匠自身にとっても、彼に託された見習い修道士にとっても、キリスト教的な完成への手段であった。 教会の最も偉大かつ厳格な修道者の一人である聖エフレム・シリンは、長老の義務について次のように記しており、それによって、長老が託された魂に対してどれほど大きな責任を負っていたか、また、見習い修道者の指導が長老自身の霊的成長に資するものであったことが、私たちにも理解できるようになる。 「兄弟よ、あなたには魂が託されている」――聖エフレム・シリンは、そのような長老に向かってこう語りかける――「男らしく腰に帯を締めよ。なぜなら、あなたが成し遂げようとしている業は小さなものではないからだ。あなたは、完全な魂たちの務めを引き受けたのだ。 それゆえ、極めて自制せよ。この務めは多大な注意を要する。それを軽んじてはならない。それどころか、我々の互いの交わりはあらゆる聖さにおいて行われるべきである。そうすれば、我々の不注意によって、敵が従者の従順さを利用し、自らのものをまき散らすことがないように。 また、年長者は年少者にとってあらゆる美徳の模範でなければならない。そうしてこそ、過ちを望む者たちに、私たちに非を犯させる隙を与えないのだ……都市は部分ごとに築かれ、統治によって争いが生じる。経験の浅い者は、熟練者ほど弓を巧みに扱うことはできず、少年が成人と同じ速さで走ることは不可能である。 もし若者にその力に合わない重荷を課せば、彼に害を及ぼすことになる。また、彼の教育に心を配らなければ、彼は何の役にも立たなくなる。同様に、初心者を指導する際は分別を持って接し、虚栄心から重荷を課したり、その魂を軽んじたりしてはならない。 しかし、賢明に考えよ。あなた自身が年長者にどのように従っていたかを思い返し、そののと同じ方法で、少しずつ彼に修行の教えを与えていけ……もし、徹夜祈祷や通常の規則を終えた後、あなた自身がさらに起きているつもりであっても、部下が少し眠りたいと望むなら、彼に休息を与えよ。 なぜなら、前述の通り、少年が成人と同じペースで走ることは不可能だからである……もし彼が体力が弱ければ、彼を拒絶してはならない。むしろ、彼と共に労を惜しまず、自分の畑に良質な作物を植えた賢明な農夫のように、彼に対して忍耐強く接しなさい。 そして、彼の体を、神に喜ばれる生ける供え物として捧げるよう、全力を尽くしなさい。そうすれば、私たちも、使徒が「敬虔の外見は持っているが、その力は捨て去っている者たち」(Ⅰテモテ3:5)と非難している者たちと共に裁かれることがないでしょう。 それゆえ、弟子にはあらゆる善い行いを教えなさい。なぜなら、「もし、ふさわしくない者からふさわしい者を引き離すなら、あなたはわたしの口となるであろう」[1249] と書かれているからである。霊的指導という務めは、長老に対し、その世話に委ねられた修練者や修道士との関係において、大きな忍耐と謙遜を要求した。
長老たちは、霊的指導の基礎としてキリスト教的禁欲主義の要求を重視していた。その特別な意義については、この伝統を丹念に守り続けてきた教会の教父たちが、理論的見解と実践的経験に基づいて説いていた。この霊的育成の体系には、禁欲的経験と正教会の神秘主義が融合している。 このようにして、長老制は、アスケティックな実践と神秘的な観想――長老制が登場する時点で既に100年以上の歴史を持っていた、人格を完成させるこれら二つの道――と密接に結びついていった。まさに長老制のおかげで、アスケティズムと神秘主義は、霊的指導という一つの体系に統合されたのである。 こうして徐々に、正教会の禁欲主義における霊的育成の体系全体を通常「内面的実践」と呼ぶ特定の伝統が形成されていった。その最高の目的は、修行者の神化であり、それは神への長く困難な登攀を前提としている。情欲や誘惑からの浄化は、この登攀における第一歩である。 霊的実践、体験的実践と観想、そして知的な祈りを通じてこの登攀を成し遂げて初めて、修行者は最高の段階に近づき、そこで彼には、神秘的な観想と沈黙という霊的状態へと導く門が開かれる。この段階において、彼は神との合一と神化にふさわしい者となる[1250] 。 東方教会の二人の偉大な修道士であり神秘家である カリストスとイグナティオス・クサンフォプーロス(4世紀末)は、その著作『百人隊』において、正教会の修道士たちの霊的実践について詳細に記述している[1251] 。
修道院に入門したばかりの修道士に対し、長老たちが教えようとした最も重要なことは「従順」であり、入門したばかりの修道士が自分の長老に従うことは、修道士が霊的完成への階段を登るための第一の必要条件である。 すでに言及した『アポフォグマタ』、『ヴェルバ・セニオルム』、『ラヴサイク』などの古代キリスト教のパテリコンには、多くの素晴らしい物語や逸話が収められており、それらは読者に、禁欲的な教育において従順がどのような位置を占めていたかについての理解を与えてくれる。
聖父たちの著作は、修道者の修練における従順の重要性について非常に詳しく述べている[1252] 。聖バシレイオス大聖人は、その『規則』の中でこの美徳に非常に多くの紙幅を割いており、従順を修道生活の基盤であり、師と弟子との関係の基盤であると考えている。 東方修道生活の精神的父となったカッパドキアの偉大な教父は、次のように述べています。弟子が師に対して示す真の、そして完全な従順とは、師の意志に従って不合理な行いを控え、師の意志なしには称賛に値する行いでさえ行わないことに表れるのです。 彼は、修道生活の初心者に、細心の注意を払い、熟考を重ねた上で、自らの生涯を非の打ち所なく歩み、神へと向かう修道者たちを賢明に導き、聖書の意味を深く理解している人物を見つけるよう助言している。 バシレイオス大聖人の言葉によれば、神が御自身のしもべたちに完全な献身を求められるのと同様に、神の律法に照らして自らの要求を定める霊的父もまた、霊の子らに無条件の服従を求める権利がある[1253] 。
バシレイオス大聖人の同時代人である聖エフレム・シリン(†373)は、従順と謙遜の内的なつながりについて記し、修道士たちに謙遜の最も偉大な模範を示しています: 「それとは対照的に、私たちの共通の主であるキリストが、私たちのために御自身をへりくだらせ、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたことを心に思い描け。」 「私が言うことを理解せよ。主があなたに万事についての知恵を与えてくださるように」[1254] 。聖ヨハネ(† 650年頃)の『梯子』を読んだことのある人なら、この聖なる修道士が従順にどれほどの重要性を置いていたかを知っているだろう。彼にとって、従順とは「意志の棺」であり、「自発的な死」である[1255] 。
修道士たちの教育および自己修養の手段としての従順に加え、正教会の禁欲主義は、初心者の修道士に、霊的完成のための最も重要な手段であり、救いの道具である祈りの術を教えることにも特に重点を置いている。 なぜなら、祈りは情欲との戦いに勝利する助けとなるだけでなく、修行者の霊的昇華の基盤であり、経験的な実践から神秘的な観想へと導く「霊の梯子」そのものだからである。
すでにエジプトの教父たち、例えばマカリオスが『霊的対話』の中で、キリスト教徒の霊的生活における祈りの重要性について語っている。修道士であり神秘家であるシナイのニロス(†453)は、祈りの神秘を「霊と神との対話」として提示しようとした最初の人物である。 「完全な者たちには至高の祈りがある」と彼は言う。「それは、ある種の精神の高揚であり、感覚的なものからの完全な離脱であり、言葉にできない霊の嘆きによって、心の状態を見通す神に近づくものである。その心は、 のように開かれた書物のように、無声のイメージによって自らの意志を表現している。 こうして、パウロは第三の天にまで引き上げられ、自分が肉体の中にいるのか、それとも肉体から離れているのかさえ分からなかった」[1256] 。
ヨハネス・クレマティコスは、祈る者の状態を次のように描写している。 「祈りとは、その本質において、人間と神との交わりであり、結びつきである。しかし、その実効的な働きとしては、平和の確立、神との和解、涙の母であり娘でもあり、罪の贖い、試練を越えるための橋、悲しみから守る壁、争いの鎮めである…… 祈りの際の多弁はしばしば心を散らし、空想で満たしてしまうが、一言の祈りは通常、心を一つに集めるのである」。 ヨハネス・クレマティコス(『霊の梯子』の著者)の著作において、私たちは初めて、祈りによる魂の恍惚状態についての記述を見出す。この神秘的な伝統を受け継いだのが、聖シメオン・ニュー・テオロゴス(†1022)の『賛歌』である([1257] )。
言葉のない、あるいはごくわずかな言葉のみを伴う祈りは、いわゆる「心の祈り」()として表現された。この技法は、聖アトス山の修道士や隠者たちによって細心の注意を払って守られ、彼らはそこに禁欲的な修行であると同時に、魂を神秘的に集約する道をも見出していた[1258] 。 後期ビザンツの禁欲主義と神秘主義を代表する最も偉大な人物の一人であるグリゴリオス・シナイテス(†1346)は、禁欲的・神秘的な内容を含む多くの著作を残しただけでなく、知的な祈りがどのように行われるかについての記述も私たちに残してくれた。彼の著作である『沈黙する者への訓示』、 『沈黙と祈りについて』、『沈黙について』[1259] ――は、修道者たち、とりわけ教会の禁欲的伝統を忘れなかった長老たちから非常に高く評価されていた。長老制度が栄えたあらゆる場所で、知的な祈りは、新世代の修道士たちを導き、霊的に育成するための最も重要かつ主要な手段であった。
18世紀後半、東方の正教会修道院、さらにはアトス山においてさえ、禁欲的・神秘的な生活が衰退した時代を経て、禁欲と神秘主義の復興が再び始まった。これらは、14世紀のイシハストたち[1260] において、最後に特に力強く現れていたものである。 アトス山のギリシャ人修道士ニコディモス・スヴィャトゴレツ(1748–1809)は、内面的修行に関する東方教会の教父たちの著作の研究に多くの時間を費やし、1782年にヴェネツィアでギリシャ語で『フィロカリア』[「愛善」]という題名で出版された叢書を編纂した[1261] 。 ニコディモスのこの著作は、霊的指導の糧となる資料が初めて一冊のアンソロジーにまとめられたという点で、極めて重要な意義を持っていた。 長老たちにとって『フィロカリア』は、一種の参考書や手引書のようなものとなった。修道士たちは、偉大な修道父たちからより手軽に学ぶことができるようになり、長老たちが弟子や修練生に与える個人的な影響も、より深いものとなった。
18~19世紀の長老制度の歴史に目を向けると、すぐに次のような疑問が生じる。すなわち、古代ルーシやモスクワ・ルーシの修道院において、長老制度は存在していたのか。もし存在していたとすれば、どのような形態をとっており、当時どれほど普及していたのか。 古ルーシの修道院生活史に関する当論考では、この問題を意図的に省略した。その理由は、ここにおいて、過去2世紀にわたる長老制度の歴史と関連付けて、この問いに答えるためである。
キエフ・ルーシの最も重要な修道院である聖テオドシウス・ペチェールスク修道院における修道士たちの生活を考察しても、そこでは、新入修道士を育成するための特別な制度としての「スターチェストヴォ」の痕跡は一切見当たらない。 聖テオドシウスは、聖アントニウスから授かった知識や、コンスタンティノープルから持ち帰られた規則書『 』に記されたビザンツの修道院生活に関する知見を、自身の修道院運営の基礎とした。 アントニオスは、聖アファナシオスが彼に反対したアトス山の修道者たちを打ち負かした直後にアトス山を訪れており、その当時、聖山ではそれまで採用されていた単独生活規則の代わりにキノヴィアが導入されていたため、聖テオドシオスにとって共同生活こそが修道生活の最良の形態であると見なされていたのである。 そして、聖テオドシオスによって導入された規則は、修道生活の初心者を霊的に導く基礎として、キノヴィアを採り入れていた[1262] 。
この事実は、5~9世紀の東方教会において、長老たちが共同生活を行う修道院でも、単独生活を行う修道院でも、修道生活の初心者を霊的に指導していたという点で注目に値する。 すでにパホミオス大聖人のキノヴィアには長老制度が存在していた。その後、パレスチナの聖サヴァ・オスヴィャシェンヌイのラヴラでは、その規則がキノヴィアとイドリオリトムの融合を特徴としていたが、長老たちの指導の下で共同生活の訓練を修了した修道士のみが、単独生活規則に従って暮らすことを許されていた。 通常、長老の指導下には数人の新入修道士がいた[1263] 。聖アファナシオス(10世紀)がアトス山において共同生活規則の導入を求めて闘争を繰り広げていた当時、アトス山の独立生活型修道院で長老制度が維持されていたかどうかは不明であるが、おそらくアトス山の修道院やコンスタンティノープルでは、長老制度は特に普及していなかったと考えられる。 聖テオドロス・ストゥディテス(†826)が「pater spiritualis」について言及する際、彼が念頭に置いているのは修道院の院長である。偉大なるストゥディテスは、修道院内のすべての権限が院長の手に集中しているような共同生活形態の熱心な擁護者であった[1264] 。 ペチェール修道院でテオドシオスが導入した修道院規則は、すでに述べたように、ストゥディオス規則の特別な改訂版である。聖テオドールと同様に、テオドシオスは当初から、自身の修道院の院長であり、同時に修道士たちの霊的指導者でもあった。 彼はまた修道院の霊的指導者でもあり、この霊的指導こそが修道士たちを導く主要な手段となった。この際、彼が修道士たちから享受していた多大な権威を忘れてはならない。そのおかげで、古代エジプトの修道院でしばしば見られたように[1265] 、彼一人に修道院長と霊的指導者の両役がこれほど見事に融合したのである。 聖テオドシウスの活動において、修道院長(イグメン)の権威が長老制を後景に追いやったのは、一部には、ルーシにおける修道生活の初期において、修道院長の権威を極限まで高め、それによって修道士たちの服従の精神を深めることが極めて必要であったためでもある。 そのため、聖なる創設者の死後の修道院の生活について記した『キエフ・ペチェール修道院伝』にも、長老制度の存在に関する記述は一切見られない。
同様に、キエフ・ルーシの他の修道院においても、各自が独立して生活する規則に従って運営されていたものについては、長老制に関するいかなる証拠も見当たらない。
キリル・トゥロフスキー(12世紀末)の著作においてのみ、長老制度の最初の痕跡が見られる。彼の著書『修道服の位階に関する物語』の中で、彼は次のように記している。「そして、兄弟よ、あなたもまた、キリストの霊を持ち、美徳に飾られ、その生活において従順さを備え、 とりわけ主への愛を持ち、修道院長への従順(!)、そして兄弟たちへの謙虚さを持ち、神の聖書を理解し、それによって天の主へと導く者である。 「ハレブがイエスに身を捧げたように、あなたの全意志を彼に委ねなさい」[1266] 。これらの言葉には、古代の修道者たちの間で築かれていた、長老とその弟子との相互関係が描写されている。
アブラアム・スモレンスキー(†1221)と周辺住民(第II章参照)との関係は、より定義が難しい。おそらくそれは、長老としての役割の表れというよりは、この聖なる修行者が大衆に与えた多大な影響力の証であり、それは19世紀のオプティナ修道院の長老たちにおいてのみ見られた現象であった。 アブラアムに助言や 教訓を求めて訪れた多くの人々、彼の神秘主義への傾倒、そして(前述した)彼の学識――これらすべては、当時の[1267] において極めて稀な現象であった。
古ロシアの「スターツェ」制度を研究する上で、大きな難点の一つは、「スターツェ」という言葉の多義性にある。まず第一に、「スターツェ」という言葉は、司祭の聖職に就いていない――すなわち、イエロモナフではない――高齢の修道士を指していた。 さらに、「ソボルヌイ・スタレツ(総会長)」とは、修道院長と共に修道院を統括する修道士たちを指し、しばしば「スタレツ」という呼称は修道院長自身にも与えられていた。そして最後に、「スタレツ」とは、見習い修道士たちに霊的な指導を行う修道士たちを指すこともあった。 この点に関して、ノヴゴロド大司教シメオン(1417–1421)がスネトゴルスク修道院に送った書簡は非常に特徴的である。この書簡において、「スタルツ」という言葉は、2か所では私たちの意味での「スタルツ」――pater spiritualis(霊的父)――を指し、他の2か所では「ソボルヌイ・スタルツ」――[1268] ――を指している。
ロシアにおける修道生活と隠遁生活の全盛期を代表するこの最も偉大な聖人、聖セルギイ・ラドネジスキーの事績と功績に目を向ければ、彼は、そう表現しても差し支えないならば、 ロシア修道史における一つの学派の創始者であり、その代表者たちは彼の禁欲的な業を継承し、自らも一連の修道院を設立したことがわかる。私たちにとって特に重要なのは、聖セルギイと彼の弟子たちとの間にどのような関係があったのかを明らかにすることである。 トロイツェ=セルギエフ修道院に「長老制度」が存在したと言えるだろうか。聖セルギイや、彼の修道院から出た修道者たちの伝記には、そのことを示唆する記述は一切見当たらない。聖セルギイは共同生活規律に基づいて修道院を運営しており、何よりもまず、修道院長であり、霊的指導者であった。 彼の修道院運営は、聖テオドシウスのペチェール修道院を彷彿とさせるが、聖セルギイがペチェール修道院の生活様式について具体的な知識を持っていたとは、ほとんど考えられない[1269] 。少なくとも、トロイツェ=セルギエフ修道院に長老制度が存在したという資料は一切残されていない。
14世紀には多くの小さな修道院が現れ、そのうちのいくつかは、ヴォルガ川以東の地域でセルギイの弟子たちによって設立された。ヴォルガ川とベリェ湖の間に広がるこの広大な地域は、禁欲的な修行の新たな舞台となった。 修道士たちは2人または3人でここに定住したが、彼らはしばしば同じ修道院の出身者であり、時には旅の途中で知り合い、その交流が親密な兄弟愛へと発展することもあった。時が経つにつれ、当初は2~3の独房しかなかった彼らのスキートは、特に熱心な修道士たちが教会を建立することに成功した場合、修道院へと発展していった。 この時期、修道士たちの間、とりわけ経験豊富な修道士と新入りの修道士との間に、長老制度に似たものが生じていた可能性は否定できないが、これについてはやはり確かな資料は残されていない。
聖キリル・ベロゼルスキー(†1427)もまた、厳格な共同生活に基づいて自身の修道院を運営しており、修道院内のすべての権力は修道院長の手中にあった。 アンドレイ・モジャイスキー公への書簡の中で、彼は自身の「霊的な子」――アンドレイ公と、彼が修道院長に任命しようとしていた修道司祭イノケンティ――についてさえ言及している。 しかし、彼らの間にどのような霊的な関係が築かれていたのか、聖キリルが単に公爵の霊的指導者であったのか、それともある意味で彼の「スターツェル(霊的指導者)」であったのかは定かではない。一方、インノケンティとの関係には、確かに「スターツェル」としての特徴がいくつか見受けられる[1270] 。
古ルーシにおける師弟関係の存在を示すさらなる証拠は、聖パウロ・オブノルスキー(†1429)の修道院に見出すことができる。 パウロは聖セルギイ・ラドネジスキー修道院の修道士であった。聖セルギイの祝福を受けた後、彼はヴォルガ川上流の荒野の森へと向かい、オブノラ川のほとりに定住した。 しばらくして、その地に修道院が建てられ、パウロがその院長となった。この修道院では15世紀に『ある長老が弟子たちに伝えた修道生活に関する教訓』が執筆され、17世紀の写本として現存しているが、これはおそらく、当時この『教訓』が実際に実践されていたことを示している。 この著作には、初学の修道士に対する長老による指導の基礎や、修道院での生活、長老たちとの関係に関する様々な助言が記されており、知的な祈りやイエス・キリストの祈りについても言及されている[1271] 。 さらに、聖パウロの伝記から、聖人が長老への服従を求めた新入修道士たち( )が、経験豊富な修道士たちの霊的指導に委ねられていたことが分かっている[1272] 。
さらに、第IX章4節で言及されているもう一つの著作『新入修道士への長老の教え――長老のもとで従順に生きるべき姿』は、15世紀末から16世紀初頭にかけて、一部の修道院において、見習い修道士や新入修道士の指導を長老たちが担っていたことを示している[1273] 。 16世紀初頭にさかのぼるものとして、「弟子への教訓――修道室でいかに注意深く座すべきか」という、同じく長老制度に捧げられた禁欲的な著作がある。この著作の原本は、おそらく14世紀に書かれたものと思われる[1274] 。これが実際に実践されたかどうかは定かではない。 いずれにせよ、エジプトやシリアの正教会修道院で広まっていた古代の長老制度は、16世紀前半のモスクワの修道界でも知られていた。[1275] 例えば、モスクワ都主教聖フィリッポス(†1568)の伝記には、フィリッポスがソロヴェツキー修道院に入門した後、数年間、「神に奉仕する修道士」イオナに従属していたことが記されている[1276] 。
長老としての在り方が最も明確に表れているのは、「偉大なる長老」である聖ニラ・ソルスキー(1433–1508)の周囲や、その霊的弟子たちの間に見られる。彼の『規則』やスキト生活に関する『伝承』からは、彼が長老としての在り方を非常に深く理解しており、自らも長老としての役割を果たしていたことがうかがえる[1277] 。 15世紀末から16世紀初頭にかけての様々な小著に基づけば、ザヴォルジェ地方の小さなスキートで修行に励んだ、実に3つの「世代」にわたる長老たちとその弟子たちを含む、彼の「流派」が存在したと言ってもよいだろう。付録では、彼ら間の霊的な関係図を掲載している(表VII)。 ニール自身は、おそらくアトス山で長老の教えの基礎を学んだ。彼は、当時の著作において「長老」と呼ばれ、おそらく実際に長老であった修道士パイシイ・ヤロスラヴォフの助言に従ってアトス山へ巡礼を行い、そこで彼のもとで禁欲的な修行を積んだのである。 おそらく、パイシイ・ヤロスラヴォフ(†1503年直後)の影響を受けて、ニールは聖山へ向かうことを望むようになったのだろう。 パイシイ自身は、スパソ=カメンヌイ修道院で修道生活を始めました。そこでは、アトス山出身のギリシャ人で、後にロストフの司教となったディオニシイ(1389–1418)修道院長のおかげで、聖山の修道士たちの生活や功績がよく知られていました。 その後、パイシイはキリロフ修道院に身を寄せた。そこで、彼よりはるかに年下のニールが彼と知り合い、その霊的指導の下に入った。アフォン山への巡礼は、ニールの長老制度に関する知識を補完するものであった[1278] 。
聖カッシアン・マングープスキーの伝記によれば、彼はおよそ1488年から1494年にかけて、ザヴォルジェのフェラポント修道院で長老フィラレートの弟子であったことがわかっている。 聖カッシアンはギリシャ出身で、出家前はクリミアのマンギュプ・カレという町出身のコンスタンティン公であった。彼は、後にイヴァン3世の妃となるソフィア・パレオロゴス王女と共にモスクワへやって来た。 1488年、あるいはその数年後、彼はフェラポントフ修道院に入り、そこで出家して長老フィラレートの弟子となった。 1494年、カッシアンは共同生活規則が導入された隠修院を設立した。彼自身はそこで質素な修道士として修行に励み、120歳でこの世を去った。カッシアンがニロスの弟子であったという説は、後の研究によって否定されている([1279] )。
この事例はフェラポンティ修道院において例外的な現象ではなかった。その証拠として、修道士ガラクティオンが、 キリストのために聖なる狂人(†1506)として知られ、後に聖人の列に加えられた 人物が、この修道院に滞在していた際、その代理者である聖マルティニアンと、長老と弟子のような関係にあったという事実がそれを裏付けている[1280] 。
前の章ですでに触れた長老アルテミイは、おそらくザヴォルジェの長老の一人の助けを借りて、その禁欲の修行を積んだものと思われる[1281] 。 しかし、16世紀に非所有派が受けた迫害は、ヴォルガ川以東の荒野の修道者たちに無傷では済まなかった。ヨシフ派と非所有派との論争は、ロシアにおける長老制度の発展に全般的に有害な影響を及ぼした。 ニラと彼に近い弟子たち――長老アルテミイは、おそらくこの学派の最後の教養ある信奉者かつ擁護者であった――による禁欲的・神秘主義的な潮流は、16世紀の支配的な教会・政治的潮流に敗れ、徐々に衰退していった[1282] 。
それでもなお、17世紀の剃髪式典の慣例から、当時、新入修道士を経験豊富な修道士の霊的指導に委ねるのが通例であったことがわかる。それは、長老制が修道士の霊的育成に不可欠な手段と見なされていたからではなく、単に修道伝統への忠実さからであった。 その際、修道院長は、新入の修道士と経験豊富な修道士の双方に対して、15世紀の『伝承』に記されている言葉とほぼ全く同じ言葉を述べていた。しかし、スターツェと弟子たちの間の日常的な関係――これこそがスターツェ制度の性格を決定づけるものである――については、残念ながら正確な情報を持っていない[1283] 。
以上が、18世紀以前のロシアの修道院における長老制度について我々が知っていることのすべてである。長老制度の歴史は極めて不完全ではあるが、そこから、長老制度がモスクワ・ルーシにおいて確かに知られていたことがうかがえる。もっとも、その時代には十分に花開くことはなかったものの。 18世紀末から19世紀にかけて初めて、長老制度はロシアの修道院に真に根付くことができたのである。
18世紀最後の四半期における修道生活と長老制度の復興は、厳格な修行者であり、東方教会の古代修道伝統における禁欲的・神秘的な伝承の熱烈な擁護者であった人物と密接に関連している。我々が指すのは、長老パイシイ・ヴェリチコフスキーであり、その名は我々の教会の歴史に永遠に刻まれることとなる。
俗名では、パイシイはペトル・ヴェリチコフスキーと呼ばれていた。彼は牧師の息子であった。1722年12月21日にポルタヴァで生まれ、幼少期を敬虔な家庭で過ごした。その家庭では、日常生活においてすべての教会の規則や規定が厳格に守られていた。 ペトルは物静かで無口な子供で、読書が好きだったが、家には当然ながら、両親の敬虔な考え方に合致する本しか置かれていなかった。 当時最も普及していた本は『時課書』であり、これは通常、子供たちが最初に読む本として用いられ、その次に『詩篇』、そして最後に聖人や敬虔な修行者たちの伝記が続いた。若いピョートルは、これらすべてを、強制されることなく、自らの意志と、心の傾きと志によって、しっかりと学び込んだ。 13歳の時、彼は「兄弟学校」に入学を許可された。母は、末っ子が先祖たちや父、長兄と同様に教区司祭となり、当時一般的であったように兄の教区を引き継ぐことを望んでいた。 しかし、ペトロはすでに若くして修道院に入り、修道士になりたいという願望を抱いており、その願望は年を重ねるごとにますます強くなっていった。自身の観察からよく知っていた教区司祭の務めは、おそらく彼を満足させるものではなかったのだろう。 禁欲的な著作を読むことは、彼の人生計画に影響を与えた。エルサレムへの旅、アトス山への巡礼、あるいは敬虔な修道士たちが修道院の静寂の中で修行に励むような修道院への赴任――これらすべてが、教区司祭としての生活よりも彼を強く惹きつけていた。 彼の伝記において、この若き生徒の敬虔な夢は、著者に称賛された。「主は彼に、若き頃からすでに、知恵と賢明さと謙遜の心という白髪のような知恵を授けられたのである」。
ある夜、ペトルはこっそりと学校から逃げ出し、キエフを後にして長い旅に出た(1739年)。道中、彼はドニエプル川沿いのリュベチ市近郊にあるリュベチ修道院に立ち寄った。修道院の院長は彼を温かく迎え入れ、修道院に留まることを祝福し、さらには個室まで割り当ててくれた。 こうして計画実現への第一歩が踏み出された。というのも、ペトルが修道生活への志を打ち明けていた霊的指導者であるイェロスヒモナフのパホミイは、まずリュベチ修道院へ向かうよう彼に助言しており、そこで今後の道筋が示されるはずだったからである。見習い修道士として受け入れられたペトルは、修道院で様々な仕事をこなした。
パイシイの自伝に記されている、彼がリュベチ修道院を去った理由に関する記述は、当時の修道院の生活を如実に物語っている。 この記述から、修道院の院長にはその職務に適した修道士が就くことがいかに重要であったかがわかる。というのも、非常に強固な兄弟共同体が崩壊するのは、往々にして修道院当局の責任によるものだったからである。 ペトルが修道院で数ヶ月を過ごしていた頃、新しい修道院長が任命された。その人物は、修道服をまとったわがままな粗野な男で、修道士たちの苦行の生活にはほとんど関心を示さず、自らの務めを全く異なる精神で捉えていた。 彼は兄弟たちと一緒に食堂で食事をすることをせず、自分用に特別な料理を用意させ、それを修道院長室へ運ばせるよう命じた。ある日、修道院長からの正確な指示を受け取っていなかったペトロの不注意により、修道院長に間違った料理が運ばれてしまった。 怒りに任せて、彼は罪のないペトロの頬を平手打ちした。もし別の修道院長であり、状況が異なっていたなら、この若い修道見習いは謙虚にその平手打ちを受け入れたかもしれない。しかし、その時は心の動揺から、ペトロは修道院から逃げ出し、修道生活を送るための別の、より良い場所を探すことを決意した。彼は修道院を去り、南へと向かった。
運命は彼をモルダヴィアへと導いた。そこでは、彼が聞いていた通り、多くの修行者が身を寄せていた。そして彼は、すでにモルダヴィアにある、ティアスミン川の真ん中の島に位置する聖ニコラエ修道院にたどり着いた。彼は修道院長に申し出、見習い修道士として修道院に受け入れられた。 ここにはリュベチ修道院とは全く異なる精神が息づいており、ペトルは熱心に自分の務めを果たした。しばらくして、19歳になった時、彼は修道服をまとい、最初は「リャソフォール」として、プラトンという名を与えられた。 彼はここで安らぎを感じ、修道生活は彼の霊的成長に寄与した。しかし、この修道院からも去らざるを得なくなった。ユニエート派による迫害が始まり、修道院の教会は閉鎖され、修道士たちは追放されたのである。
そこでプラトンはキエフに戻り、彼の霊的指導者であるイェロスヒモナフ・パホミイが修業していたペチェールスカヤ・ラヴラの修道士となることを決意した。 彼の願いは叶い、プラトンはロシア最古の修道院の修道士となった。彼は読み書きができたため、ラヴラの印刷所で奉仕を任され、さらに銅板にイコンを彫る仕事も任された。 ラヴラでの生活やこれらの仕事はプラトンの精神的な志向に合致していたものの、彼は経験豊富な修道士の指導の下、完全な隠遁生活を送って救いを求めるという以前の計画を諦めなかった。かつて学校の同級生であり、プラトンがしばしば隠遁生活について語り合っていた人物との予期せぬ再会が、新たな巡礼の旅のきっかけとなった。
プラトンは他の二人の修道士と共に、聖アトス山にたどり着くことを願って、再び南へと旅立った。 その間、巡礼の道は、この巡礼者を「トレイステニー」と呼ばれる聖ニコライのスキートへと導いた。古代パレスチナのラヴラ(修道院)の住人と同様に、一部の修道士たちはここで共同生活の規則に従って暮らしていたが、他の年配で経験豊富な修道士たちは、スキートの周囲にある小屋で、単独生活の規則に従って修行に励んでいた。 ここでプラトンは、アトス山の規則に従って執り行われる礼拝で初めて祈りを捧げ、また、イディオリトムの規則を厳格に守る厳格な隠遁者たちを初めて目にした。 しばらくして、スキートで様々な奉仕をこなし、この小さくて貧しい修道院の生活をよく知るようになったプラトンは、キルクル・スキートへと派遣された。そこで彼は、年配の長老ヴァシリーとオヌフリーの指導の下、霊的に成長し続けた。 当時、モルダヴィアの修道院やスキート――共同生活を行うものも、個別の住居を持つものも――では、修道生活はとりわけ厳格であった。長老制度は修道士を導く手段として極めて広く普及しており、非常に多くの修道士が長老たちの指導下に置かれていた。プラトンは、自ら望んでいた長老による指導を身をもって体験することができた。 1746年までの3年間、プラトンはこの修道院に留まっていたが、ついに彼が長い間待ち望んでいた時が訪れた。アトス山を訪れる機会を得たのである。師の許可と修道院長からの祝福を得て、プラトンはもう一人の修道士と共に聖山へと向かった。
キルクル修道院にいた頃から、彼はアトス山の修道者たちの生活について語られる話を胸を躍らせて聞いていた。伝記作家の言葉によれば、アトス山への移住をもって、プラトンにとって見習い修道士としての期間は終わり、自立した修行生活が始まった。陸路と海路を巡る困難な旅の末、彼はついに聖アファナシオス大修道院に到着した。 彼は修道院の近くにある独房を与えられた。そこでは、完全な貧しさ、世俗からの離脱、そして沈黙の中で、多くの修道士や長老たちが救いを求めていた。しかし、プラトンが長老の指導下に入りたいという願いは叶わなかった。誰も彼を修道見習いとして受け入れることを望まなかったのだ。 「主の御心によりそのような者を見出せず、また魂が望む従属の機会も得られなかったため、彼はすべてを神の御摂理に委ね、独り座していた」。
長老の助けを借りずに霊的な戦いを繰り広げていた若き隠遁者の心的・霊的な状態について、修道士グリゴリー (1836年)が、私たちに描いている。彼は、どうやら禁欲的な著作や自身の経験ではなく、ニャメツ修道院の写本に保存されていた長老パイシオス自身の語録[1284] に基づいて記述しているようだ。孤独と沈黙、魂の集約、 絶え間ないイエス祈りの実践を伴う生活は容易なものではなかったが、パイシイは「精進し、霊的な力から力へと成長し、日々、心の中で昇天を思い描き、偉大な功業への神聖な熱意に燃え上がり、同時に、炎を帯びた神の御摂理を享受していた」と、著者の修道士は記している。この生活は三年続き、その後、プラトンは修行者にとって喜ばしい出会いを経験した。アトス山に、かつての師であるモルダビア出身の修道士ヴァシリーが到着し、若き修行者と話をした後、彼を小修道服に剃髪させ、「パイシイ」という名を授けた。
その際、長老ヴァシリーは、イディオリトマや隠遁生活は年配で経験豊富な修道士には適しているものの、共同生活を行う修道院に移るよう彼に助言した。パイシイの著作から、その後彼もまた共同生活規則の支持者となったことがわかるが、見習いや新入修道士に対する長老制度は維持していた。 ロシアのさまざまな修道院で修行に励んだパイシイの弟子たちも、共同生活規則の導入を通じて修道生活の改善を目指したが、彼ら自身は師匠の役割を果たし、個々の修道士を霊的な指導下に置いていた。 さらに、パイシイの著作の中には『共同生活の規律と規則に関する声明』があり、その中で彼はキノヴィア([1285] )をあらゆる面で推奨している。しかし、その後も3~4年間、パイシイは孤独なまま、自己修養の道を歩み続けた。 その後、数人の若い修道士たちが彼の元を訪れ、パイシイ自身はまだ若かったにもかかわらず、彼らは彼に修道見習いとして受け入れてくれるよう懇願した。彼らは主に、モルダヴィアやワラキア、あるいはバルカン半島のスラブ諸国からやってきた修道士たちであった。彼らの切実な願いを受け、パイシイは司祭に叙階され、修道司祭となった。 これは1758年、彼が36歳になった時のことだった。
パイシイはこうして人生の第二の段階に入った。彼は自らの完成のために霊的な闘いを続けるだけでなく、修道院長および長老として他の修道士たちを霊的に導き、その功績により、ロシアにおける真の修道生活の復興における中心人物となった。
パイシイの周りに集まった少数の修道者たちは、絶えず増えていった。 幸いなことに、彼はアトス山大修道院の院長から、パントクラトール修道院の近くにある、古く半壊状態の聖預言者エリヤの修道院を譲り受けることに成功した。修道者たちと共に、彼は教会、食堂、そして60の独房を建設した――それほどまでに修道者の数は増えていたのだ。 新しい修道院は大きな困窮に直面していたものの、修道士たちは日ごとに増え続け、修道院の施設はすぐに手狭になってしまった。しかし、修道士たちの間にも、激しい嫉妬やその他の悪意に満ちた感情が完全に消え去ったわけではなかった。 パイシイのスラヴ系修道院は、おそらくその卓越した規律と、修道院長が絶えず高まる権威ゆえに、アトス山の他の修道院に所属するギリシャ人修道士たちから敵意を抱かれ、パイシイ神父とその弟子たちについて不当な噂が広まったほか、トルコ 当局もまた、あらゆる種類の妨害を行った。 そこでパイシイは、モルダヴィアに戻り、そこで山や森に囲まれた場所に新しい修道院を設立することを決意した。
1763年、長老パイシイは60人の修道士と見習い修道士を率いて旅立ち、モルダヴィアに到着したが、そこには適した場所が見つからなかった。 ヤッサになって初めて、彼はモルダヴィア都主教から、聖霊降臨を記念するドラゴミル修道院を譲り受けることに成功した。パイシイはここで、アトス山の共同生活規則と礼拝規律を導入した。しかし、まったく新しい規則があった。それは、夕方の礼拝の合間に、修道士たちが食堂に集まるべきだというものであった。 パイシイはそこを訪れ、様々な禁欲的な著作を読み上げ、その都度、独自の解説を加えた。修道士たちは一部がモルダヴィアやワラキア出身、一部がスラブ諸国出身であったため、この朗読会はルーマニア人とスラブ人のために、1日おきに別々に行われた。礼拝は常に教会スラヴ語で行われた。 このようにして、パイスイの長老としての才能が花開いたドラゴミル修道院での修道士たちの生活は営まれていた。
1774年、露土戦争の後、モルダヴィアの一部がオーストリアに割譲され、ドラゴミルヌ修道院が位置していた地域もその対象となった。 オーストリア当局の管轄下における修道院の将来を懸念した長老パイシイは、トルコ領のまま残ったモルダヴィアの一部へ移ることを決意した。彼は大主教に対し、自身と兄弟たちが、半分ほどが廃墟となっていたセクル修道院へ移住することを許可してほしいと願い出た。 パイシイはこの許可を得たが、しばらくすると修道者の数が大幅に増え、新しい修道院でも手狭になってしまった。そこで長老は、セクルから2時間の道のりにある大規模なニャメツ修道院を管理下に置くことになった。 彼は修道士たちを二つの修道院共同体に分けることを余儀なくされたが、両修道院とも彼の管理と精神的指導の下にとどまった。彼が亡くなる頃には、ニャメツ修道院にはすでに400人、セクル修道院には100人以上の修道士がいた。
パイシイ自身は、長い秋や冬の夜、ギリシャ語を話す2人の修道士の助けを借りて、聖父たちの禁欲的な著作をモルドバ語および教会スラヴ語に翻訳することに取り組んだ。 こうして、聖イサアク・シリンの『教訓』、聖マクシム・殉教者の『問答集』、聖テオドロス・ストゥディトスの『教訓』、アッバ・バルソノフィオスの『教訓』などが翻訳され、さらには教会スラヴ語版の『慈愛』も完成した。 『慈愛』の翻訳は1793年に完成し、分厚い手書きの2巻本となった。この翻訳は、すでに言及した修道士ニコディモスの著作(1782年のヴェネツィア版に基づく)[1286] に基づいて行われた。
実り多い働きに満ちたパイシイの地上での生涯は、1794年11月15日に幕を閉じ、72歳で彼は永遠の眠りについた[1287] 。
彼の活動の最後の期間は31年間に及び、その名声は修道院の壁をはるかに超えて知れ渡り、霊的指導に特別な賜物を持つ長老としての評判は、ロシアにまで広まった。 長老テオファン・ソコロフの自伝によれば、70年代初頭にはすでに、パイシイの評判を耳にした、禁欲的な修行を志す数人の修道士や信徒が、彼から教えを受けるため、あるいは彼の霊的指導の下で永遠にそこに留まるために、ドラゴミルヌイ修道院やニャメツキー修道院へと向かったことがわかる[1288] 。
パイシイの最初の弟子の一人は、長老であり修道司祭のクレオパ1世(†1778年以降)であり、彼は長老制の基礎をオストロフのヴヴェデンスカヤ隠遁地(ウラジーミル教区)に伝えた。この敬虔な修行者に関する伝記的情報は極めて乏しい: クレオパは謙虚さと慎み深さの模範であった。彼の弟子である長老テオファン・ソコロフでさえ、彼の過去の生活について多くを語ることはできなかった。クレオパは南ロシアの出身で、数年間アトス山で過ごし、そこでパイシイと知り合い、おそらく彼と共に聖預言者エリヤのスキートに身を寄せた。 1760年から1778年にかけて、彼は前述のヴヴェデンスカヤ修道院の建設者であり、その内外の整備を任された。クレオパのおかげで、この修道院は真に修道士たちの修行の場となった。 彼はロシアにおいて真の修道生活を開拓した先駆者の一人であり、自身が復興させたこの修道院において、長老制度の創始者でもあった[1289] 。 クレオパがこの修道院に導入した共同生活規則は、後に彼の弟子である修道士イグナティウスとマカリオスによってニコロ・ペスノシュスキー修道院に移されたが、残念ながら、この規則はそこでは長くは続かなかった[1290] 。
その後、厳格な生活を送る多くの修行者たち――長老パイシイの弟子たち――が現れた。 彼らはロシア全土に散らばり、修道院から修道院へ、隠遁地から隠遁地へと巡りながら、「敬虔で驚くべき父パイシイ」の知らせを至る所に広め、こうして長老の教えに共感する新たな信奉者たちを獲得し、彼らは弟子となっていった。 パイシイの第一世代の弟子たちの中には、特に言及に値する人物が数名いる。当初、彼らの影響力はそれほど広範囲ではなかったが、主に南大ロシアの最も小さく、最も貧しい隠遁地――カルーガ、オルロフ、クルスクの各州――に定住していた。
その一人に、長老でありアルヒマンドリトのフェオドシイ・マスロフ(1720–1802)がいた。 彼はグルホフ(チェルニゴフ県)の商人の家庭に生まれ、当初はスヴェンスキー修道院に身を寄せたが、その後、そこの修道士たちの生活に不満を抱き、モルダヴィアへ渡り、著名なモルダヴィアの長老ヴァシリー(†1767)[1291] のもとへ赴いた。 前述の通り、パイシイもこの長老の弟子であった。1767年から1778年にかけて、フェオドシイはティアスミン修道院およびメルロポリャンスキー修道院の院長を務め、1779年には修道院生活の再開のため、モルチャンスカヤのソフロニエフ修道院に招かれた。 彼はそこで死去するまで(† 1802年12月9日)滞在した。フェオドシイは、この隠修院にアトス山の共同生活規則を導入した[1292] 。
さらに、パイシイの弟子として、長老である修道士クレオパ2世(†1817年)――パイシイによって出家させられた――と、修道長老テオドール(1756–1822)の2人を挙げるべきである。
クレオパ2世は1800年にベロベレジュスカヤ修道院を訪れた。当時、同修道院の院長を務めていたのは長老ヴァシリー・キシュキンであった。ここでクレオパは、当時この修道院で修行に励んでいた修道士レオニード・ナゴルキンと知り合い、その後二人は共に様々な修道院を巡った。 クレオパは1817年、ヴァラアム修道院で死去した[1293] 。
イェロスヒモナフ・フェオドールもまた、カラチェフ(オルロフ県)出身の商人の息子であり、若くして実家を離れ、プロシュチャンスカヤ修道院へ向かった。両親は彼を家に連れ戻したが、彼は再び家出し、今度は遠く離れたベロベレジュスカヤ修道院へと向かった。 ある日、ペチェルスク大修道院へ向かう途中、若き修道見習いは「不思議な長老パイシイ」の話を耳にし、彼のもとへ遠く離れたニャメツキー修道院へと向かった。そこでパイシイは彼に剃髪を行い、自身の弟子の一人として受け入れた。 フェオドールは学識に富んでおり、パイシイの翻訳を書き写すことで彼を手伝っていた。パイシイの後継者である修道院長ソフロニイは、フェオドールにスキーマを授け、彼をベロベレジスカヤ隠修院へ戻した。 しかし、教区の主教は、彼に小さく貧しいチョルンスカヤの隠修院へ赴き、そこで院長職を引き受けるよう求めた。だが、フェオドールはこの提案を断り、院長補佐になることのみを承諾した。彼の助力により、この隠修院には長老パイシイの共同生活規律とアトス山の礼拝規律が導入された。 その間、フェオドールのもとには助言や指導を求める人々があまりにも多く訪れるようになったため、彼は修道院を去らざるを得なくなった。彼はベロベレジスカヤ修道院に移り、そこで8年間を過ごした。 やがて、長老クレオパ2世と修道士レオニード(後のオプタイン派)と共に、当時長老テオファン・ソコロフが統率していたノヴォエゼル修道院へ移り、 そこからパレオストロフスキー修道院へ、次にヴァラアム修道院(ここで彼の同行者であった長老クレオパ2世が帰天した)へ、そして最終的にはアレクサンドロ・スヴィルスキー修道院へと移り、そこで最期(1822年4月7日)を迎えるまで滞在した。
フェオドールの生涯にある一つのエピソードは、修道者たちがどこでも修道生活の改善に熱心だったわけではないことを雄弁に物語っている。長老テオファンは、彼にニロ・ソルスカヤ隠遁地へ行くよう頼んだ。そこは16世紀に長老ニロによって設立されたが、当時は非正規の修道院として扱われていた。 そこでの修道生活の水準は著しく低下していた。修道者たちは長老テオドールに非常に敵対的な態度で迎え、修道院の秩序を回復しようとする彼の努力は実を結ばなかった[1294] 。
長老であり修道士のアファナシー・ザハロフ(†1823)も、パイシイの禁欲主義の流派に属していた。 貴族の家系に生まれ、フサール連隊のロトミストルであったザハロフは、華やかな軍服を脱ぎ捨てて修道服を身にまとい、ロシア・トルコ戦争の際にモルダヴィアで知り合った長老パイシイのもとを訪れた。 1777年には、彼はすでにフロリシュチェヴァ修道院(ウラジーミル教区)に身を置いており、その後、プロシュチャンスカヤ修道院(オルロフ教区)に避難し、そこで長老を務めた。将来のオプティナ長老マカリイ・イヴァノフは、13年間にわたり彼の修道見習いとして仕えた[1295] 。
パイシイの5人目の弟子には、かつて官吏であり、スキモナフであったもう一人のアファナシーがおり、彼はミトロポリト・ガブリエルに『ドブロトリュビヤ』の教会スラヴ語訳を献上した。 彼はその後、ロズラヴリの森で、完全な隠遁生活を送り、世俗から遠ざかって修行に励み、後にスヴェンスキー修道院(オルロフ教区)に移ったが、そこで長老を務めていたという証拠は一切ない(† 1811)[1296] 。
パイシイの6人目にして最年少の弟子は、長老フィラレート(†1841)であった。彼はグリンスカヤ修道院の院長(1817–1841)として、アトス山の規則に基づき同修道院を改革した。 彼は『 「新入修道士への詳細な教訓」』(1824年)を著し、修道士たちへの長老としての指導に尽力した[1297] 。
モスクワのシモノフ修道院の修道士パヴェル[1298] 、ソフロニエフ修道院の修道士ゲラシム、およびオプティナ修道院のスキモナフ・テオファン(† 1819)は、パイシイの弟子たちであるこの世代の最後の代表者たちであった[1299] 。 (ロシアの修道院における「長老パイシイの学派」のその後の歴史については、表VIIIを参照のこと。)キエフ・ペチェールスカヤ・ラヴラ出身の修道士テオファンは、ペチェールスカヤの長老ドシフェイの弟子であり、後にソローヴェツキーの隠遁者として知られるようになった人物[1300] だが、しばらくの間、ニャメツキー修道院でパイシイのもとで暮らしていた。
これらのパイシイの弟子たちは、自らあるいは弟子たちを通じて、さまざまな修道院における禁欲的伝統の復興や共同生活規律の導入に多大な貢献をしたが、パイシイを厳格な隠遁者たちのグループと結びつける他の修道生活熱心家たちもいた。彼らはいわゆる「ロスラヴリの森の長老たち」であった。 ロスラヴリの森はスモレンスク州の南部に位置し、ブリャンの森と合わせて、広大で人跡未踏の、鬱蒼とした森林地帯を形成している。18世紀後半、この森は裕福な地主ブロネフスキーの所有であった。この修道者グループの出現の経緯は完全には明らかではない。
ブリャンスクの森で最初に隠遁生活を送ったのは、おそらく修道士あるいは修道長イオアサフ(1692–1766)であり、彼は隠遁生活を開始して数年後には、もはや孤独な隠者ではなくなっていた。 彼の厳格な生活ぶりの評判はプロシュチャンスカヤ修道院にも届き、イオアサフは、その修道院を悲惨な状態から救い出すために、修道院長になるよう打診された。イオアサフはそこで5年間を過ごし、その後、森の小屋へと戻った。 彼はおそらく周辺の村々の農民たちから尊敬を集めており、慰めや助言を求める多くの人々が彼のもとに押し寄せた。 長老と民衆との交流は、教会当局にとって不審に映った――ここで指摘しておくべきは、ブリャン森林の南部には多くの分派信者が潜伏していたということである――。そこでセフスカヤ教会評議会は警察にイオアサフの逮捕を命じ、彼は数え切れないほどの尋問を受けた。 教区主教との対話によってのみ、長老イオアサフは流刑――おそらくシベリアへさえ――を免れることができた。パスポートを持たない不審な人物として、彼はシベリアへ送られる可能性もあったのだ。主教の指示により、イオアサフは釈放され、自身の森へと戻り、そこで1766年にこの世を去った。
この頃、ロスラヴリの森で、所有者の許可を得て、数人の隠遁を好む修道士や信徒たちが身を寄せ、極めて厳しい苦行生活を送っていることが知られるようになった。 その中でも最も有名なのは、長老バルナバとその二人の弟子イラリオンとヨセフ、ニキータ(†1793)、テオファン、元修道助祭アナスタシイ、そして長老ヴァシリー・キシュキン (1745–1831)[1301] 、長老修道士アファナシイ、すでに言及したパイシイの弟子の一人で、スラヴ語版『ドブロトリュビヤ』を献呈したメトロポリタン・ガブリエルを訪ねた後、この森に戻ってきた人物である。 また、この地でヴァシリスクとゾシマも修業の道を歩み始めた。前述の通り、彼らは後にシベリアへ去り、そこでヴァシリスクは亡くなった。ゾシマは、女子修道共同体を指導したことで知られるようになった。 最後に、同地では、ヴァシリスクとゾシマの師であった修道士アドリアンも修行に励んでいた。その後(1790年)、彼はガブリエル都主教から、共同生活規律『[1302] 』に基づき、コネヴェツ修道院における修道生活を復興させるよう命じられた。 また、アルセニーという名のもう一人の隠遁者は、かつてパイシイの弟子であり、モルダヴィアからロズラヴリの森へとやって来た。 これらすべての長老たち には弟子たちがおり、彼らは後に修道院生活の復興に貢献し、マロヤロスラフ修道院の院長アナトリー(†1865)やオプティナ隠遁所の院長モーセ(†1862)といった院長たちに霊的な影響を与えた。 警察は彼らを修道院に移住させようと企て、時には力ずくで小屋から追い出すなどして迫害したが、その中には警察の追跡をかわして身を隠すことに成功した者もいた。例えば、ドロフェイ(† 1865)は、森の中で60年近くも隠遁生活を送った[1303] 。
ロスラヴリの森に住む隠遁者たちのグループは、時代の破壊的な影響にもかかわらず、その霊的な力と真の修道生活への志を失わなかった修道界の一派から生まれた。この志は修道界の内部から生じたものである。したがって、修道界を特徴づける上で、この点は特に高く評価されるべきである。 もし教会当局がこの潮流に目を向け、修道院生活により強い影響を与える機会を与えていれば、それは広範囲にわたる改革の源泉となり得たであろう。 しかし今、この現象を歴史的な視点から考察すると、聖シノドが自らの行政的英知に依拠して、この禁欲的な潮流を上から指導しようとしなかったこと、 ――シノドの200年にわたる存続期間中、シノドの司教たちは一度たりともそのような英知を示さなかったのだ!――そして、その指導は神の摂理に委ねられた。それゆえ、これらの霊的な力は、自らにとって肥沃な土壌を見出し、修道生活の新たな復興を育むことができる場所へと、自由に導かれていったのである。
しかし、教会階層の優れた代表者たちからは、修道院や修道生活における必要性も、修道界に現れた霊的な潮流も、決して隠されてはいなかった。この点において、特に高く評価されるべきは、後にノヴゴロドおよびサンクトペテルブルク都主教となった、トヴェリ大主教ガブリエル・ペトロフの活動である。 外見上は輝かしい地位にあったにもかかわらず、ガブリエル大主教は、キャリアがもたらす破壊的な影響にも、時代の風潮にも、その道徳的な姿を決して歪められることのない人物であり、聖職者であり続けた[1304] 。 彼の侍者であり、後に著名かつ称賛されるようになった長老テオファン・ソコロフは、ガブリエルについて簡潔ながらも印象的な人物評を残している[1305] 。気さくで、皇后陛下との会話においても、ごく普通の修道士や教区の司祭との会話においても、等しく飾らない態度で接し、 ガブリエルはどこでも尊敬と愛を受けていたが、教会の高位聖職者たちだけは彼に対してある種の懐疑的な態度をとっていた。彼らは、ガブリエルの気さくな振る舞いが司教の品位を損なっていると見なしていたからである; 彼らは、接待の際にガブリエル主教が、エンドウ豆の餡を詰めたパイや粥といった質素な料理を振る舞うたびに、自らの威厳を傷つけられたと感じていた。この修道に励む大主教にとって、粥はとりわけ贅沢な料理であった。というのも、彼自身はキャベツのスープで満足しており、 しかも、それは数日分まとめて調理されていた。彼は自分の給仕をほぼすべて困窮者に配っており、従者のテオファンは、彼がすべてを配り尽くさないよう見張らなければならなかった。 シノドでの多忙な業務や教区運営に関わる多くの仕事にもかかわらず、聖ガブリエルは毎日教会で礼拝に参加し、修道者の祈りの規則を欠かさず守っていた。
B・ティトリノフが著したガブリエルの伝記によれば、彼の影響力は教会生活のあらゆる分野に及び、極めて肯定的なものであったという。しかし、私たちにとって今重要なのは、修道生活復興におけるガブリエル主教の役割を評価することである。 すでにトヴェリでの主教在任中(1763–1770)に、ガブリエルはこの方向性に向けた最初の取り組みを行った。彼は主に、正規の修道院と非正規の修道院の両方に共同生活規則を導入し、 その実質的な遵守を実現することを目指していた。 ニロ=ストロベン修道院は、民衆から最も崇敬され、1764年の官制においても 特権修道院に分類されていたニロ・ストロベン修道院では、ガブリエルの尽力により、見習い修道士や新入修道士の指導が、経験豊富で年配かつ信頼のおける修道士たちに委ねられた。つまり、長老制度の基礎が築かれたのであるが、残念ながら、その後、同修道院ではこの制度が順調に発展することはなかった[1306] 。 これに続いて、クロプスキー、ティフヴィンスキー、モデンスキー各修道院の改革措置が講じられた。
その後、すでにサンクトペテルブルク都主教となっていた1782年、ガブリエルはアレクサンドロ・ネフスキー大修道院における修道生活の復興を図るため、その規律と生活が厳格であることで知られるソフロニエフ修道院から5人の修道士を同修道院へ移した[1307] 。 18世紀前半の火災によりほぼ完全に破壊され、修道生活が完全に衰退していたヴァラアム修道院は、サロフの荒野から来た厳格な修道士ナザリウス(†1809)という新任の院長(1782–1801)の尽力により、再建された。 ナザリイは、かなり厳格でありながら、謙虚で質素な修道士であった。ナザリイ神父をガブリエル主教に推薦したのは、タンボフのテオフィロス司教(1788–1811)であり、彼自身も管区内の修道院の生活改善のために多大な貢献をしていた。 しかし、修道院長と修道士たちは長老を失いたくなく、修道院長はガブリエル主教への手紙の中で、ナザリウスを素朴で、学識がなく、ほとんど愚かな人物だと描写した。「私には賢い者がたくさんいる――」とガブリエル主教は修道院長への返信に書き、「あなたのところの愚か者を私に送ってくれ」と続けた。 ヴァラアム修道院でも、ガブリエル主教は共同生活規則を導入した[1308] 。パイシイの弟子である長老アドリアンには、コネヴェツ修道院の復興が任された[1309] 。 長老テオファン・ソコロフ(1793–1832)が統括していたキリロ・ノヴォエゼル修道院では、すでにここで言及したガブリエルの修道院従者のおかげで、共同生活規律の導入とテオファンの長老としての指導により、全く新しい環境が生まれ、ほぼ廃墟と化していた修道院は、禁欲的な修行の場となった[1310] 。 修道院生活の改善に向けたガブリエルの助言や提言は、彼の教区外にある多くの修道院にとっても、決して無視できない影響を与えた。 例えば、モスクワのシモノフ修道院の復興は、主にガブリエル大主教によるものである。というのも、ガブリエルは、ティフヴィン修道院から、パイシイの最後の弟子の一人であるアルヒマンドリト・イグナティウスを同修道院の院長として派遣したからである[1311] 。
ガブリエル大主教の偉大な功績は、修道士たちが禁欲的な内容の著作にアクセスできるよう努めた点にもある。彼の尽力により、サンクトペテルブルクで『ドブロトリュビヤ』の初版が刊行された。この著作集は、修道士たちの禁欲的な読書リストに確固たる地位を築き、後に信徒たちにも広く読まれるようになった。 19世紀前半という後の時代の修道院の生活に影響を与えたガブリエルのあらゆる活動は、真に禁欲的な修道生活の基盤を築くための第一歩であり、スターチェスト(長老制度)の発展に大きく寄与した。 そのおかげで、師弟関係が根付かなかった場所であっても、修道士たちの生活には、やはり良い方向への著しい変化がもたらされた。
18世紀の最後の四半世紀、とりわけ19世紀前半において、住人の生活が特に厳格であった修道院の一つとして、比較的新しいサロフのプスティンが挙げられる。 その隆盛は、一連の修道士や修道院長たちのおかげである。ここには、たとえ少数の修行者がいるだけでも、修道院の生活全体を一変させ、そこに真に修道院らしい雰囲気を長く築き上げることができるという好例が見て取れる。
タンボフ教区のテムニコフ市から40km、隣接するニジニ・ノヴゴロド教区との境界付近に位置するサロフの隠遁修道院は、これら両教区およびその修道院にとって、即座に精神的中心地としての重要性を獲得した。 その創設は比較的遅く、1692年頃のことである。創設者はイェロモナフ・イサアク(†1737)であり、彼は1731年までこの修道院の院長を務めた後、運営をイグメン・ドロフェイ(1731–1746)に引き継ぎ、 自身は1731年に大スキマを受け、ヨアンという名をとった[1312] 。彼はアトス山の規則に似た非常に厳格な共同生活規則を導入し、それは後継者たちの時代にも守られ続けた。サロフの修道院にとって大きな幸運だったのは、150年間にわたり、その運営が真の修道士たちの手中にあったことである。 この時代の修道院長は、ドロフェイ(1731–1746)、フィラレート(1746–1749)、エフレム(1758–1777)、パホミイ(1777–1794)、イザヤ1世(1794–1807)、 ニフォント(1807–1842)、イザヤ2世(1846–1858)――は、立派な修道士たちであった。修道院を統率するにあたり、彼らは共同生活の規則を厳格に遵守するだけでなく、それらの規則に命を吹き込み、内なる霊的な意味を与えることを目指した。 彼らは、サロフの修道院に集まってくる新入の修道士たちを正しく導く術を心得ていた。当時、サロフの修道院において、修道院長は、古代教会でしばしば見られたように、霊的指導者(pater spiritualis)でもあったと言える。修道院の内面的で霊的な生活は、古代キリスト教の禁欲主義に深く根ざしていた。
サロフ修道院の歴史をたどると、厳格な生活を送り、この修道院の名声を高め、修道生活を始めたばかりの修道士たちにとっての集いの場とした多くの修道士たちの姿が見て取れます。 その中には、特に言及に値する人物がいます。修道司祭イオアキム(1732–1802)は、約50年間途切れることなくこの修道院で過ごし、聖歌隊員や図書館司書を務め、 (マカリアス大聖人、エフレム・シリンなど)[1313] の写本作成に多くの時間を費やしたが、修道院の塀の外にある世俗の世界も忘れず、近隣の住民に多大な影響を与えた。おそらく、彼のおかげで、この修道院は民衆の間で聖地として崇められるようになったのだろう。 すでに私たちにもお馴染みの長老ナザリウス(1735–1809)は、ヴァラアム修道院へ移るまでここで身を寄せ、またここで生涯の最後の数年を過ごした。 さらに、彼の弟子であるマルク・プスティンニク(†1817)、聖セラフィムの同時代人である修道司祭ピティリム(†1789)、そしてヴァラアム修道院出身で長老ナザリの弟子である修道司祭イラリオン(1776–1841)についても言及すべきである。 イラリオンは1797年にサロフに来て、修道院で44年間を過ごし、修道院の霊的指導者としてその霊的な雰囲気を維持することに大きく貢献した。彼の遺した『書簡』はキリスト教の生活について綴られた素晴らしいものであり、その内容は聖セラフィムの影響を物語っている。 彼の死後、修道院の主たる支柱となったのは、裕福な商人の息子であるイサイア2世(プティロフ;1786–1858、1846–1858年に修道院長)であった。 彼は1805年にサロフに来て、1858年までここで修業に励み、一度も修道院の塀の外に出ることはなかった。彼の修道院長在任中、彼の提唱により、修道司祭アヴェルは修道院の歴史を著した『[1314] 』。
しかし、この修道院をこれほどまでに称賛したのは、1903年にロシア正教会によって聖人の列に加えられた、その謙虚な修道士――聖セラフィム・サロフスキー――に他ならない。 そして、セラフィムのように、世からの離脱と世への奉仕をその生き様の中でこれほど見事に融合させ、真のキリスト教的聖性の模範を示したロシアの聖人は他にいない。我々は以前、この修道士であり神の御心にかなう者について特徴を述べたことがあるが、ここではそれを簡潔に繰り返す[1315] 。
聖セラフィムは、自身はこの世の出来事とは無縁に暮らしていたにもかかわらず、世俗に生きる多くの人々を助けていた。古代のキリスト教の修行者たちや、サロフの荒野で共に修業した兄弟たちの何人かと同様に、 セラフィムは50年以上にわたり、森の隠れ家で隠遁生活を送りました。この世での生涯(1759–1833)の最後の数年になって初めて、長い修行の末、霊的な成熟を自覚した彼は、8年間にわたり (1825–1833)にわたり、この世の苦難や困窮に応え、世俗の人々に霊的な助けを与えるという大胆な試みを始めた。彼の長老としての奉仕は、彼自身が内面において最後まで克服した、この世に対するキリスト教的な愛の素晴らしい光を放っている。
他の多くのロシアの修道者たちと同様、セラフィムも裕福な商人の家庭に生まれました。これは、数世代にわたる先祖に特有の世俗的な実務的な雰囲気の中で育った、敬虔なロシアの修道者たちの伝記に見られる非常に特徴的な点です。 ――彼らには、この世の恵みを享受し、この世からの離脱など考えもしない機会が数多くあったにもかかわらず、敬虔の精神がロシアのキリスト教家庭の生活においてその力を発揮し、多くの人々に対して、この世の誘惑よりもはるかに大きな支配力を及ぼしている例を、私たちは繰り返し目にするのである。 プロホール・モシュニンもまた、若き頃からこの世の価値を何とも思わなかった人々の一人であった。若く、たくましく、堂々としたプロホールは、修道生活に惹かれていた。
20歳頃、彼はキエフ・ペチェールスカヤ・ラヴラへの巡礼の旅の途中で、そこで隠遁生活を送っていた長老ドシフェイ(†1788)から受けた助言に従い、サロフの修道院を訪れた。7年間にわたる見習い期間中、プロホールの指導役を務めたのは、修道士ヨシフであった。 1786年、プロホールはセラフィムという名で修道士となった。その直後、この隠修院と密接な関係を持っていたテオフィロス司教によって、セラフィムは司祭助祭に叙階された(1793年)。 この頃、彼が臨終間際に語ったところによると、彼には幻視があった。すなわち、至福の聖母マリアとイエス・キリストご自身が現れ、彼を祝福されたのである。 他のどのロシアの聖人においても、聖母マリアが聖セラフィムほどに神秘体験の中心であり、これほど敬虔な崇敬の対象であった例はない[1316] 。 セラフィムのこの宗教的・神秘的な体験の特徴は、彼を同時代の修行者たちとは一線を画すだけでなく、ロシアの神秘主義の歴史、あるいはより正確に言えば、ロシアの神秘的探求の歴史において、彼を特別な位置に据えている。本書では、この点を特に強調し、詳細に解説している。
1794年の終わり、セラフィムは、修道院から2時間の道のりにある、密生して立ち入ることのできないトウヒ林の中に建てられた小さな森の小屋へと身を隠し、そこで30年間(1794年~1825年)にわたる隠遁生活が始まった。 彼は黒い修道服を脱ぎ捨て、白いポドリュスニクを身にまとい歩いた。セラフィムは、あまりにも強靭な肉体を死に至らしめるため、石を詰めたリュックサックを常に背負っていた。 聖なる福音書は常にどこへでも持ち歩き、下着の上の胸には重さ20ポンドの重い鉄の十字架を身につけていた。背中には同じ十字架を、腰には鉄の帯を巻いていた。 冬には、自分のストーブのために森で薪を割ったが、厳しい寒さの中では、そのストーブは彼の小部屋をほんの少ししか温められなかった。夏には菜園で働き、自分で育てたもので食いつなぎ、やがては森で摘んできた草や枯れ草だけを煮て食べるようになった。 セラフィムは3年間、1000日以上もの昼夜を、巨大な岩の上にひざまずき、両手を天に掲げたまま絶え間ない祈りを捧げ、こうして柱頭修行の偉業を成し遂げた。そして、これらすべては、彼の禁欲的な修行のほんの始まりに過ぎなかった。
そこで、彼は誘惑にさらされることになった。ある日、聖人が森で薪を割っている最中、強盗たちが襲いかかり、彼らが「敬虔な信者たちから受け取った」と推測した金銭を要求した。 聖人が「何も持っていない」と答えると、彼らは斧で彼を殴りつけた。セラフィムも手に斧を持っており、強盗たちから身を守るだけの力は十分にあったが、彼は彼らに抵抗しようとはしなかった。深夜まで、彼は血まみれで意識を失ったまま地面に横たわっていた。 そして早朝、血まみれのまま修道院に戻った。修道院長は彼に医者に診てもらうよう命じたが、疲労と衰弱のため、セラフィムは医者が来る前に眠り込んでしまった。 後に聖人自身が語ったところによると、その瞬間、彼の前に再び聖母マリアが現れた。頭には王冠を戴き、その左右には使徒ペトロとヨハネが立っていた。それは、彼が最初に見た幻視と全く同じ光景であった。 セラフィムが聖母を呼ぶのを好んだ「天の女王」は、後に聖人が目覚めた時に医師たちが立っていた方向へと顔を向け、病人を指差してこう言った。「なぜ苦労しているのですか?」――そして、使徒たちに向かってこう語りかけた。 「この人は我らの血筋である!」――そして 、その瞬間、セラフィムは目を覚ました。聖人は医師たちの助けを拒み、数週間、起き上がることなく独房に横たわっていた。彼の強靭な体質は持ちこたえ、ついに病床から立ち上がったが、背中は永久に曲がったままとなり、杖なしでは歩くことができなくなってしまった。 イコンに描かれる彼は、白いローブをまとい、藁草履を履き、石で満たされた重いリュックサックを肩に背負っている――このリュックサックは回復後も持ち続けたが、彼の顔立ちは変わらなかった。
数ヶ月後、聖人は修道院から森の小屋へと戻った。イサイア1世修道院長が逝去(1807年)した後、修道士たちはセラフィムに院長職を引き受けるよう懇願したが、彼は謙虚にこの栄誉を辞退した。 こうしてセラフィムは新たな修行に取り組み始めた。三年間、彼は完全な沈黙を守り、神聖な典礼を行うためのプロスフォラや、食事用のパンを届けてくれる修道士たちとも、一切会話を交わさなかった。誰かが近づいてくると顔を隠し、人々の目から顔を隠そうと努めた。 沈黙の修行は、セラフィムにとって、新たな、より高次の修行への準備に過ぎなかった。
1810年5月8日、彼は再び森から、実に3年間も訪れていなかった隠遁地へと戻ってきた。聖ニコラオス(聖人にして奇跡行者)の祝日の前夜、彼は晩課の時間に修道院に現れ、黙って自分の独房へと向かった。 祝日の当日、聖セラフィムは早朝のミサに参列し、聖体拝領を行い、修道院長ニフォン神父から祝福を受けた。その後、彼は再び独房に戻り、そこに閉じこもった。セラフィムは新たな修行――隠遁の修行――に着手した。 彼は十五年半を隠遁生活の中で過ごした。冬の間、彼は暖房のない独房で過ごしており、その部屋は「天の女王」のイコンの前に置かれたランプの光でかろうじて照らされていた。 当初は薪の上に座って眠っていたが、やがては自ら彫り出した棺の中に横たわって眠るようになった。以前、森の小屋にいた時と同様、セラフィムは体に鉄の鎖を巻いていた。さらに自らを苦しめるため、彼は小部屋の片側からもう片側へと薪を運び続けた。 昼間は聖書を声に出して読み、夜は「主イエス・キリスト、神の御子よ、私を憐れんでください」という内面的祈りを捧げ、断食と心の清めに努めた。 この頃、聖セラフィムは祈りの最中に様々な幻視を経験し、それについて後に数人の弟子たちに語った。日曜日や祝日には、修道院長の祝福のもと、早朝の聖体礼儀の後、彼の独居室の扉にある小さな窓を通して聖体を受け取っていた。 ある時、教区の主教が修道院を訪れ、彼の独房に近づいたが、その扉は主教の前でも開かなかった。10年間の隠遁生活を経て初めて、セラフィムは人々に独房に入ることを許し、無言でその祝福を与えた。
1825年11月25日、隠遁の部屋の扉が開かれ、それ以来、セラフィムにとって長老としての時代、世への奉仕の時代――果てしない愛に満ちた、偉大で恵み深い功業――が始まった。信者たちは群れをなして彼の部屋を訪れた。 彼らと語り合い、教えを説きながら、長老セラフィムは、絶えず主を心に留め、常に祈り、とりわけ「心による祈り」を捧げるよう助言した。 セラフィム神父は、この祈りの中にすべての節制と徹夜祷が込められていると常々語っていました。この祈りは常に魂と心に留め、歩いている時も座っている時も、仕事中も、礼拝が始まる前の教会でも捧げるべきだと説きました。 神の御名を呼び求めれば、平安と、魂と体の清らかさを得ることができ、あらゆる善の源である聖霊があなたの上に宿り、神への畏れと清らかさの中であなたを守ってくださるでしょう。 対話の終わりに、長老は送りの祈りを唱え、祝福を与え、「キリストは復活された、わが喜びよ!」という言葉とともに訪問者に口づけをした――そしてその人は、感極まって涙を浮かべながら、長老の庵を後にした。
隠遁生活が終わる少し前、セラフィムからは並外れた力が発せられていた。彼は、長年にわたり足の麻痺に苦しんでいた地主ミハイル・マントゥロフ――敬虔なキリスト教徒――を癒やしたのだ。 そしてこれは、数多くの奇跡的な治癒の始まりに過ぎなかった。聖人の祈りによって、長く重い病に苦しんでいた人々や、突然病に倒れた人々が、再び健康を取り戻したのだ。多くの人々が、彼が世に尽くす姿を目撃した。彼の予言の多くも的中した。 その一例を挙げよう。1831年、ポーランドの反乱の最中、ある連隊の1個中隊がサロフの修道院を横切って行軍していた。中隊長――おそらく信仰深い人物だった――は、長老の祝福を受けるために兵士たちに立ち止まるよう命じた。長老はその願いを聞き入れ、兵士一人ひとりに個別に祝福を与えた。 そして突然、この中隊の誰も命を落とさないだろうと告げた。その中隊はポーランド戦役を全うし、ワルシャワの攻城戦にも参加したが、その中から命を落とした兵士は一人もいなかった。
長老は、来訪者の一人である、足の病に苦しんでいたニコライ・モトヴィロフを特に慈しみ、その病を癒やした。 1831年11月、1825年以降、聖セラフィムが修行に励み、来訪者を受け入れていた小屋( )近くの森の空き地で、モトヴィロフは長老から聖霊の獲得に関する教え([1317] )を受け、聖人と共に聖霊の恵みの顕現を目撃する栄誉に浴した。 さらに、聖セラフィムの生涯において、女性修道者たちへの霊的指導が大きな位置を占めていた。これは、後に修道院へと改組されたディヴェエフスカヤの女子修道共同体の歴史からも明らかである。
長老セラフィムの生涯は、その帰天前の最後の8年間、まさに聖人の生涯そのものとなりました。愛に満ちたその行いによって、彼はとっくにこの地上の世界の境界を越えていたのです。 そして、彼の森の中の庵を訪れた信仰深い巡礼者たちにとって、彼はもはや単なる人間ではなく、人々への愛ゆえにただ肉体を保ち続けている聖人そのものであった。彼の外見には、異世界、すなわち天上の世界の輝きを帯びた特徴が現れていた。
1833年1月1日(日曜日)、長老は神聖な聖体礼儀において最後に祈りを捧げた。彼は自分の独房で一日中復活祭の聖歌を歌い、自分の墓として選んだ場所へ三度足を運んだ。 翌日、1月2日、彼は「ウミレニエ」と呼ばれる「天の女王」のイコンの前で、祈りの姿勢のままひざまずいているところを発見されたが、すでに息を引き取っていた。聖セラフィムは永遠の命へと旅立ったのである。 数世代にわたる信者たちが畏敬の念を抱き、彼の墓前で祈りを捧げるなど、深く崇敬されていたにもかかわらず、聖公会はこうした崇敬に対してあまり好意的ではなかった。 公式に聖セラフィムが聖人の列に加えられたのは1903年になってからであり、1903年7月19日に彼の朽ちない聖遺骨の移葬が行われた。ロシアに住んだことのある人なら、この聖人が国民のあらゆる階層からどれほど深く崇敬されているかを知っているだろう[1318] 。
19世紀のロシアの精神的・宗教的生活において、オプティナ修道院は極めて特別な位置を占めている。修道院そのものと、オプティナの長老たちが修行に励んだスキート(小修道院)は、時を経て全国的にその名を知られるようになった。 ここで形成された「オプティナ学派」は、ほぼ一世紀にわたり(1828–1922)、ロシアの精神生活に多大な影響を及ぼした。まず第一に、長老レオニード(1828–1841)、マカリー(1841–1860)、 アムブロシウス(1860–1891)、ヨシフ(1892–1911)、ヴァルソノフィウス(† 1913)、ネクタリオス(† 1928)、アナトリー(† 1922)といった長老たちを挙げなければならない。 この隠遁修道院は厳格な共同生活規則に従って運営されていた。修道院長も修道士たちも私有財産を一切持たず、全員が修道院長と共に食堂で食事をとった。衣服や靴は言うまでもなく、お茶や砂糖といった些細な物でさえ、修道士たちは修道院から支給されていた。 スキト(小修道院)の長老たちのみ、食事は別々に調理され、彼らのケリヤ(個室)まで運ばれた。 各修道士にはそれぞれの個室があり、19世紀初頭には約300名いた見習い修道士や修道士たちは、修道院長または物資管理責任者から任務を割り当てられていた。礼拝の規則は特に厳格に遵守され、ティピコンで定められたすべての礼拝が適切な順序で行われ、修道士たちはそれらに出席する義務を負っていた。 修道院内の「荒野の精神」は極めて統一されており、住職や長老たちが修道士たちを何かに強制したり、叱責したりする必要がないほど、その精神は住職たちの意識と魂に深く浸透していた。 この精神は、修道院に滞在し、同様に定期的に礼拝に参列していた巡礼者や訪問者たちにも影響を与えた。
このような修道院の内部生活の体制が確立されたのは19世紀になってからであるが、オプティナ修道院自体は古代に創設されていた。 オプティナと内面的には密接なつながりを持っていたプロトイェレイ・セルギイ・チェトヴェリコフは、 外見的にもその禁欲的な風貌から長老のようであり、修道院を何度も訪れ、自身の観察と印象に基づいて、オプティナ・プストイナに関する素晴らしい著書『[1319] 』を著した。
この古くからのロシアの修道院は、オカ川の支流であるジズドラ川のほとり、幅は狭いが水深のある場所に位置し、広大で鬱蒼とした松林の縁に建っている。修道院は白い石の壁に囲まれており、四隅には小さな塔が立ち、四方の壁の中央にはそれぞれ門が設けられている。 壁と塔は、修道院が軍事防衛の準備を整えていることを示唆する一方で、信者には、霊的な敵の攻撃から自らの魂を守る必要性を思い起こさせる。 修道院の壁の内側にはいくつかの教会が建っており、その中でも最大のものは、聖母マリアの聖堂への奉献を記念して建てられた本堂である。壁沿いには修道院の独房や、あらゆる種類の生活用建物が並んでいる。ここには修道院の共同墓地もあり、そこで亡くなった修道士たちが埋葬されている。 心に響く墓碑銘は、故人たちとその修道生活について思いを巡らせるきっかけとなる。例えば、長老レオニードの墓に建てられた記念碑には、「自らの悲しみの中で慰めを得た多くの人々の心に、その記憶を残した」と刻まれている。 オプティナ・プスティニの教会は豪華でもなく、特に美しいわけでもないが、そのすべてが調和を保ち、質素で気取らない。すべてがこれほど居心地が良く、慰めとなるため、そこから出たくなくなるほどだ。礼拝は長引くこともなければ短縮されることもなく、深い霊感に満ちている。
オプティナの長老たちは、通常、スキートで暮らしていた。スキートとは、静寂と孤独を求める修道士たちが身を寄せる、修道院の一部である。オプティナのスキートは森の中にあり、修道院本院から0.5キロメートルの距離にある。 そこへの道に詳しくない人は、すぐには見つけられないだろう。スキートは木製の柵で囲まれている。門には聖人のイコンが描かれている。聖なる門の右側には、長老アムブロシウスが住んでいた小さな小屋があり、左側には、彼の師である長老マカリイが身を隠していたもう一つの小屋がある。 敬虔な気持ちで、頭巾を脱いだ参拝者は小門を開け、祈りと深い敬虔の場であるスキートの聖なる敷地へと足を踏み入れる。そこでは、砂が敷かれた広い小道の両側に咲く花々の濃厚な香りが彼を迎えてくれる。 花々は教会を取り囲み、パペルティ(教会前の階段)のすぐそばまで迫り、食堂や修道室、養蜂場の蜂の巣箱、池、ヒノキの並木道、そして墓地へと続く小さな小道に沿って咲いている。 そして、この壮麗な風景の真ん中には、小さな透き通った窓を備えた、明るく清らかな隠者の修道室がひっそりと佇んでいる[1320] 。
オプティナ修道院の外部史は、古ルーシの他の多くの小さな修道院の歴史と似ている。 15世紀に創建されたが、動乱の時代にはポーランド軍によって完全に破壊された。古いシノディク(修道院記録)に基づけば、破壊されるまでこの修道院は「男女共修」の修道院であったと推測され、動乱の直後に再開された後に初めて男子修道院となった。 1717年、ピョートル大帝の治世下でこの修道院は数年間閉鎖されたが、1726年に再開された。しかし、18世紀を通じて、修道士の人数が10人に満たない小さな修道院のままであった。 モスクワ都主教プラトン・レフシン(1775–1812)は、ガブリエル・ペトロフ都主教と同様に、自身の教区内の多くの修道院を再開し、整備した[1321] が、川のほとりに絵のように美しく位置するこの修道院にも注目した。 彼は、ペスノシュ修道院の院長(1788–1811)であるアルヒマンドリト・マカリイ(ブリュシュコフ)に、修道院の整備を命じた[1322] 。このマカリイは、長老パイシイ・ヴェリチコフスキーの学派と関わりがあり、彼とは文通を交わしていた。 マカリイは、後にオプティナ修道院の院長となる修道士アヴラアミイをこの隠修院に派遣し、アヴラアミイは主に隠修院の外部整備に従事した。
修道院の内部生活の整備における主な功績は、修道院長モーセ・プティロフ(†1862)によるものである。彼は以前、ロズラヴリの森林に身を隠しており、そこである隠遁所の修道院長を務めていた。 1820年、カルーガのフィラレート司教(アムフィテアトロフ、後にキエフ都主教)がオプティナ近郊にスキート(小修道院)を設立した際、モーセはそこに定住し、1825年に司教からそのスキートの住職に任命された。モーセはさらに数人の隠遁者 (アントニー、イラリイ、サヴァティイ)を招き入れ、彼らは皆、パイシイの教えに則った厳格な共同生活規則を支持し、それを厳格に遵守した。モーセの住職時代(1825–1862)は、オプティナ特有の精神、その内部生活の独自の体制が形成される上で最も重要な時期であった[1323] 。
ここでの長老制度は、レオニード・ナゴルキン神父(1768–1841)によって導入された[1324] 。レフ・ナゴルキンは町人の家庭で育ち、ある商人のもとで約10年間仕えたが、その後その職を辞し、1794年にオプティナに来て、そこで2年間を過ごした。 そこから彼はベロベレジュスカヤ修道院(オルロフ教区)に移り、そこでは長老パイシイの友人である長老ヴァシリー・キシュキンが住職を務めていた。 ヴァシリー神父は彼を修道士として剃髪し、レオニードという名を与えた。レオニードは、長老ヴァシリー・キシュキンを通じて、アトス山の規則と伝承に触れ、パイシイの教えを知ることとなった。 ヴァシリー神父が隠遁生活を送るために住職の職を辞した際、修道院の兄弟たちはレオニードを新たな住職に選出した(1806年)。レオニードはまた、当時ベロベレジスカヤ修道院で修行に励んでいた長老テオドール(†1822年)の弟子でもあり、彼もまたパイシイの長老の弟子の一人であった。 4年後、レオニードは修道院長職を辞し、長老テオドールと共に再び修道院を取り囲む森へと戻った。そこでは、すでに我々が知っている長老クレオパが、完全な隠遁生活を送っていた。 森の中で、レオニードは大修道服を着用した。しかし、これらの修行者たちの隠遁生活は長くは続かなかった。修道生活を求める敬虔な人々が彼らのもとに訪れるようになったのである。そこで彼らはヴァラアム修道院へ移り、そこで小さなスキート(小修道院)で修行に励んだ。 この頃、レオニード神父は指導者としての役割を果たし始め、彼を訪ねてくる人々に霊的な助言を与えていた。当時、彼は40歳前後であった。当時、指導者としての役割はすべての修道士に認められていたわけではなく、特に上層部からは強い疑念の眼差しを向けられていた。彼らは、レオニードの存在を自らの名誉や地位を貶めるものと見なしていたのである。 おそらく、ヴァラアム修道院の院長も同様の疑念を抱いていたのだろう。なぜなら、フェオドールとレオニード(長老クレオパは1817年に死去していた)は、ヴァラアムを去り、アレクサンドロ・スヴィルスキー修道院に移住せざるを得なかったからである。 1822年、長老フェオドールは逝去した。1829年まで、レオニードはこの修道院で身を寄せ、多くの弟子――その中には信徒の巡礼者たちも含まれていた――を持ち、霊性豊かな長老としての彼の評判は修道院の壁をはるかに超えて広まった。
長老パイシイ(ヴェリチコフスキー)、ヴァシリー・キシュキン、クレオパ、そしてフェオドールは、ほぼもっぱら修道院の住職たちを霊的に導いていた。彼らは新入修道士を弟子として受け入れ、その主な関心事は修道者の霊的育成にあった。 レオニードは、この長老制度の時代を締めくくり、新たな時代を切り開いた。彼は長老制度を修道院という閉ざされた世界から引き出し、外界へと広め、霊的な助けや助言を求めるすべての人々にとっての祝福とした。このようにして、長老レオニードの功績は、長老制度の歴史における新たな時代の幕開けとなった。
この新しい時代は、1829年に特に鮮明に現れました。この年、レオニード神父はオプティナ修道院に戻り、1841年10月11日にこの世を去るまでそこで修業に励み、修道院に長老制度の礎を築きました。 レオニドの功績により、オプティナはロシアの精神的中心地へと変貌を遂げ、キリスト教生活に関する多くの問題について助けや霊的助言を求めて、多くの人々がそこへ集まるようになった。 この長老の伝記には、この恵みに満ちた修行者が、時には厳しさで、時には柔和さで、そしてしばしば深遠な冗談をもって、世の中から彼のもとを訪れる人々を霊的に助けた多くの例が記されている。オプティナの他のどの長老よりも、レオニードは独特な素朴な人柄と教えで際立っており、それゆえにロシア国民の最も幅広い層に親しまれていた。 民衆は、そのような接し方を愛し、高く評価していた。なぜなら、民衆自身も、自らの冗談やことわざに、一見した以上に深い意味を込めているからである。レオニードの振る舞いには、キリストにおける聖なる愚者らしさ、すなわち「sancta simplicitas」(聖なる単純さ)が多く見られ、それは[1325] (最も学識ある教え)よりも、民衆に多くのことを語りかけていた。
オプティナにおける長老の伝統を受け継いだ長老マカリイ・イワノフは、まったく別の人物であった。彼のおかげで、多くのロシアの作家、詩人、思想家たちが、キリスト教の禁欲的な精神に深く感化されることができた。 19世紀ロシアの精神的歴史において、長老たちの影響は間違いなく極めて特別な位置を占めており、それなしには、その時代の人々の世界観や哲学的構築について明確な理解を得ることは不可能である[1326] 。長老マカリイは貴族の出身であった。 プロシュチャンスカヤ修道院への巡礼の旅の途中、彼はその修道院長であり、パイシイの弟子である長老イエロモナフ・アファナシイと知り合った。 修道院の雰囲気全体や、長老アファナシイとの対話は、若き貴族の繊細で感受性豊か、そしてある種芸術的な気質に影響を与え、彼は修道士となることを決意した。 彼は24年間(1810年~1834年)修道院で修行に励み、そのうち13年間(1810年~1823年)は長老アファナシイ(†1823年)の指導下にあった。マカリイは彼から、聖父たちの禁欲的な著作を深く研究する傾向を受け継いだ。
マカリイは、他の長老たちよりも、自身の修道活動において、単なる自身の霊的修行体験だけでなく、教父たちの著作に大きく依拠していた。数多くの書物で埋め尽くされた彼の独房は、訪問者に学者の書斎のような印象を与えた。 「彼の長老としての活動には、独特の特徴があった。訪問者とは、冗談を交えることなく、穏やかに語り合った。レオニードには、本質を素早く捉える才能があり、それは聡明なロシアの農民に特徴的な機知と相まって、経験豊かな人生を通じてさらに磨かれていった。 マカリイは全身全霊で禁欲主義の著作の研究に没頭しており、生涯を通じてそれらをより深く理解しようと努めていた。彼の会話は引用句に満ちていた。 彼は、素朴で敬虔な信者とも、学識ある神学者とも、哲学教育を受けた訪問者とも、同じように自然体で会話を交わすことができた……長老マカリイの木造の小部屋は、レオニード神父の小部屋よりもさらに多彩な訪問者たちを受け入れていた。 本やイコンで埋め尽くされたこの小部屋は、まるで人間の知恵がキリスト教の敬虔さとここで融合しているかのようで、訪問者はその敷居を跨いだ瞬間から、この場所に漂う極めて独特な気配を感じ取ることができた。そして、長老との一、二時間の対話を経て、その見方は一変することもあった…… 多くの人々は、マカリイが最も難解な神学上の問題を、いかに簡潔かつ軽やかに解決するかに驚嘆した。社会に対する霊的指導において、ロシアの最も辺鄙な地域にまで届いた彼の手紙は、特に重要な役割を果たしていた。 彼は、一度も直接顔を合わせることなく、多くの霊的な息子や娘たちを手紙を通じて導いた。いくつかの女子修道院も、このような霊的指導の下にあった。彼の極めて膨大な書簡集は、後に数巻にわたり刊行されたが、それでもこの出版物は彼の手紙の一部しか網羅していなかった」[1327] 。
20年間(1841年~1860年)にわたり、長老マカリイはオプティナ修道院の霊的生活の中心に立っていた。そして、彼にはもう一つの功績がある。彼の指導の下、多くの教父文学や禁欲主義の著作がロシア語に翻訳され、出版されたのである。 哲学者であり神学者、モスクワ神学アカデミーの教授であるF・A・ゴルービンスキー、スラブ主義思想家のI・V・キレーエフスキー、そして当時オプティナで修業に励んでいた数名の教養ある修道士たちが、この事業において彼の助手となった。 長老の独居室は編集部のようであり、ここでは教父たちの著作が翻訳されていた。その際、翻訳の言葉一つひとつが慎重に吟味されたため、オプティナ出版物は優れた文体と、禁欲的・神秘的な著作に含まれる最も難解な表現の意味を正確に伝えている点で際立っている。 最も重要な出版物をいくつか挙げてみよう。長老パイシイ・ヴェリチコフスキーの伝記と著作、長老ニル・ソルスキーの著作、アッバ・バルソノフィイの著作、シメオン・ニュー・テオロゴスの伝記と著作、 聖テオドロス・ストゥディトスの『偉大なる説教集』、聖イサアク・シリンの著作全4巻、聖マクシムス・殉教者による『ファラシウスへの問答』などである。[1328]
1860年代初頭、オプティナ修道院は大きな損失を被った。 1860年9月7日、長老マカリイが逝去し、その2年後には長年にわたり修道院の院長を務めたアルヒマンドリト・モーセが亡くなり、1865年には、彼と共にロズラヴリの森からオプティナへやって来て、修道院の霊的生活において重要な役割を果たした、厳格な修行者である弟のアントニーも逝去した。 しかし、長老レオニードとマカリイの弟子である新任の修道院長アルヒマンドリト・イサアク(1862–1894)の登場により、修道院は再び良き牧者を得た。 さらに、修道院の禁欲的な精神の維持と深化に貢献した二人の修行者についても言及すべきである。それは、スキタの住職であった修道司祭イラリオン(1860–1873)とアナトリー(ゼルツァロフ;1874–1894)であり、両者とも長老マカリーの弟子であった。
19世紀後半、オプティナの霊的生活の中心となったのは、長老で聖修道士アンブロシウス(グレンコフ、1812–1891)であった。 彼を個人的に良く知り、対話を交わしたプロトイェレイのS・チェトヴェリコフは、「アムブロシイ神父」の生き生きとした肖像を描いてくれた。彼はその人柄と長老としての指導において、二人の先達――レオニードとマカリー――の賜物を巧みに融合させていた。 「アムブロシウスは『大きく、慈愛に満ちた心』を持っていた」とS・チェトヴェリコフは記している。「彼は神学的に非常に教養があり、人生における深い知恵と、生き生きとして陽気な性格、実践的な活動への強い傾向を備えており、人々と交流することを好んだ」。 長老たちであるレオニードやマカリーとは異なり、アレクサンドル・グレンコフ(世俗名はアムブロシウス)はタンボフの神学校を卒業し、その後しばらくの間、聖職者の子供たちに初等教育を行う神学校で教鞭を執った。 彼の信仰心に満ちた魂の中には、次第に修道生活への強い志が芽生え、病気(彼は生まれつき病弱だった)を患った後、アレクサンドルは修道士になることを固く決意した。 故郷の村の近くで隠遁生活を送っていた長老の助言に従い、グレンコフはオプティナ修道院へ赴き(1839年)、しばらくの間、長老レオニドの指導下にあった。死の直前に、レオニド長老はマカリイ神父に対し、アムブロシウスを指さしながらこう言った。「彼を、床から床へと引き継ぐ。 彼は私たち長老たちに、実に親しげに寄り添っているのだ」と語った。こうして、長老の意向により、アムブロシウスはマカリイ神父の指導下に移った。アムブロシウスは、禁欲主義の著作の出版準備に取り組んでいたマカリイ長老のために、自らの知識と力を捧げる者の一人となった。
アンブロシウスにとって非常に特徴的なのは、自身の身体の不調について述べた次の言葉である。「修道院では、少し病気を抱えているほうがよい。修道士は本格的な治療を受けるべきではなく、軽く手当てをするだけでよいのだ」。
長老アムブロシウスの影響力は、その先人たちよりもさらに広範なものであった。マカリイと同様、彼はオプティナの修道士たちだけでなく、修道院の壁の遥か彼方に住む多くの人々にとっても、霊的な父となった。 彼の長老としての時代は、1874年から1891年までの20年間にわたり、彼は1891年10月10日に永眠した。
多くの信者が長老アムブロシウスを訪れ、助言や霊的な助けを求めて彼の元を訪れ、スキートの小さな小屋から慰められ、喜びに満ちて立ち去っていった。アムブロシウスは自身の独房で、ウラジーミル・ソロヴィヨフや F・M・ドストエフスキー、レフ・トルストイといった、互いにこれほどまでに異なる人々とも長い対話を交わした。彼らを評価する見方は様々だろうが、いずれにせよ、彼らは皆、傑出したロシアの思想家であり、その著作は祖国を越えて広く普及し、認められていた。 そして、おそらく、彼らの見解やその変化について考察する読者すべてが、ここでオプティナ修道院の精神や、オプティナの長老マカリイとアムブロシイがいかに大きな役割を果たしたかを知っているわけではないだろう。 著名な者から無名の者まで、多くのロシア知識人を教会と和解させる上で、オプティナの長老たちの影響は決定的な役割を果たした。同じ方向性で活動したのがテオファン・ザトヴォルニク司教であり、彼は自身の著作によって、多くの迷える人々を教会へと導き戻すことに成功した。
長老アムブロシウスの膨大な書簡のやり取りは、オプティナ修道院が世に及ぼす影響を著しく拡大し、深める一助となった。 すでに述べたように、彼は女性の宗教生活にも多くの注意と時間を割いていた。ディヴェエフ修道院が聖セラフィムの霊的指導に身を委ねたのと同様に、長老アムブロシウスによって設立されたシャモルディン修道院の女子共同体は、彼の霊的指導の下にあった[1329] 。
オプティナ修道院の生活と精神をよく知っていたS・チェトヴェリコフは、自身の著作の結語において、長老アムブロシウスの死後、「オプティナ修道院における長老の伝統は消え去ったわけではないが、かつてのような力や影響力をもはや持ち得なかった」という結論に達した[1330] 。
アムブロシイの長老の弟子であるヨシフ長老(†1911)は、師の業を引き継ぎ、内面の苦悩や悩みを抱えてオプティナを訪れる信者たちから尊敬と愛を集めた。 彼の死後、修道院の霊的生活の中心となったのは、アナトリー長老(† 1922)であった。彼は「若きアナトリー」(修道院の院長である「長老アナトリー」と区別するため)と呼ばれ、同じくアンブロシイ長老の弟子であった。 S・チェトヴェリコフ(アナトリー長老を個人的に知っていた人物)によれば、彼は訪問者に対する慈悲と温かさに満ちた接し方において、聖セラフィム・サロフスキーを彷彿とさせたという[1331] 。 アナトリー神父と同時に、オプティナでは、修道長アナトリー長老の弟子である長老ネクタリー(†1928)が修行に励んでいた。 ネクタリイは少年時代に、内面的に孤独を求める傾向を持って修道院に入り、スキートで修行に励んだ。長老ヨシフの死後になって初めて、彼は長老としての務めを引き受けたが、世に対する彼の影響力は他の長老たちよりも限定的であった[1332] 。
長老たちの絶え間ない系譜は、もちろん、オプティナ修道院の内部生活にとって極めて重要な意味を持っていた。 しかし、オプティナの長老たちは、長老制度の歴史全体において一つの時代を築き上げた。なぜなら、オプティナの長老たちは自らの霊的な力を、世俗に生きる人々に捧げていたからである。これは、ロシアの修道生活における一種の愛の業であり、その主眼は、一人ひとりの人間がその重荷を背負えるよう助け、その必要に応じて奉仕することにあった。 とはいえ、長老たちはキリスト教の愛の精神で人々に奉仕するだけでなく、それ以上に、教会の門戸に立っている人々を教会へと導き入れ、その後、彼らの生活がキリスト教の道徳の精神に基づいて築かれるように努めた。おそらく、 長老たちのこの活動における成果は必ずしも十分に明白ではなかったかもしれないし、将来の歴史家は、彼らの活動が展開された当時の歴史的状況において、長老たちが世に実際に与えた影響そのものを疑問視するかもしれない――それでもなお、長老制度は、シノダル期における修道史において強力な禁欲主義の潮流であり、ロシアの教会生活において極めて実り多い現象であった。
いずれにせよ、この時代の長老制は、上層部や聖職階層からのいかなる影響も受けず、下から自発的に発展した、一体感のある現象であった。 それは、「国家教会」が信者や修道士たちの魂の周りに築き上げた障壁を突き破る、一種の突破口であった。スターチェストには、古代キリスト教の禁欲的精神を復活させようとする志が表れており、その強さは修道院によって異なっていた。
ロシアのスターチェストは、文字通りの意味で、過去2世紀にわたる修道生活における禁欲主義的な運動、あるいは潮流であった。なぜなら、サロフやオプティナだけがその中心地ではなかったからである。長老パイシイの直弟子たちの尽力により、古代教会の禁欲主義的精神を甦らせたこの潮流には、他の修道院も加わった。 これらは、パイシイの弟子たちが長期にわたり、あるいは少なくとも一定期間、修行に励み、その労苦が実を結んだ修道院や隠遁地であった。
そのような修道院の一つに、1659年、ポニゾヴィエ地方への修道院の進出期に設立されたサナクサル修道院(タンボフ教区)がある。当時、ここは最も辺鄙な修道院の一つであった。 この修道院の修道士数は常に極めて少なく、1753年にはサロフ修道院の管轄下に編入された。 長老であり修道司祭のフェオドール・ウシャコフが2度にわたり院長を務めた時期(1762年~1774年、1783年~1791年)になって初めて、修道院の修道生活は正しい軌道に乗り、共同生活規律が導入された。 18世紀の最後の四半世紀から19世紀前半にかけて、この修道院では禁欲的な修行が最盛期を迎えた。この修道院は、サロフ修道院や、厳格な禁欲的生活様式を特徴とする他の修道院と密接な関係にあった[1333] 。
禁欲的な修道活動のもう一つの中心地は、ここで度々言及されてきたプロシュチャンスカヤ修道院であり、1764年に非正規の修道院に分類された。 特に言及に値するのは、1741年から1746年にかけてこの修道院の院長を務めた長老イオアサフ、および1772年にシモン修道院に移った長老アレクシー(ブリンスキー;1722–1812)である。 長年にわたりこの荒野で修行に励んだのは長老アファナシー(ザハロフ;†1823)であり、彼の精神的指導の下、後にオプティナの長老となるマカリイ・イワノフ神父がここで救いを求めた。 アファナシー長老のもう一人の弟子であるアレクサンドルは、スパス修道院の院長を務めていた時期(1810年~1820年頃)に、共同生活規律[1334] を導入し、同修道院の修道生活を真に刷新した。
長老パイシオスの弟子たちの尽力により、ベロベレジュスカヤ修道院(オルロフ教区)の修道士たちの生活も一変した。 この修道院は比較的遅く、1661年頃に、イエロモナフのセラピオン(大スキマ修道服を着用した際に名乗ったシメオンという名でよりよく知られている)によって設立されたが、18世紀初頭にはすでに完全に荒廃していた。 1721年に、ブリャンスクのポクロフ修道院の院長であるアルヒマンドリト・ピティリムによって再興されたが、1764年に廃止された。 それにもかかわらず、数人の修道士が修道院に残った――いわば、聖会には忘れ去られていたが、神には忘れられてはいなかった――そして彼らの労苦によって、この修道院の生活は相当な禁欲的な高みにまで引き上げられた。1817年になってようやく、修道院は聖会によって「公式に復活」した。 1801年から1809年にかけて、パイシイの弟子であるイェロスヒモナフ・フェオドールがここで修行に励み、18世紀末から19世紀初頭にかけては、クレオパ2世の長老の弟子であるマカリイ・ズロビン(†1839)もこの修道院に身を寄せた。 すでに述べたように、長老ヴァシリー・キシュキンと長老レオニード・オプティンスキーが数年間、ここで住職を務めた(1806年~1811年)。 この小さく貧しい修道院は、主に長老ヴァシリー・キシュキン(1800–1806年および1811–1827年の住職)のおかげで、修道者たちの厳格な生活様式によって修道者たちの間で名声を博した[1335] 。
16世紀に創設され、その後タタール人によって破壊されたものの、1630年頃に再建され、「聖母ソフロニー修道院」の名で知られるようになったボゴロディツカヤ・ソフロニー修道院においても、修道士たちの生活水準は高かった。1656年まで、この修道院はプティヴリにあるモルチェンスキー修道院 (クルスク教区)に属していた。ソフロニーとニコンという二人の厳格な修行者の尽力により、ニコン総主教はこの修道院に独立を認め、修道院長ソフロニーは長期にわたり修道院を統率する間、そこで修道生活を適切な水準で維持した。彼の死後、この修道院は一般に「ソフロニエフ修道院」と呼ばれるようになった。 1764年の規定においても、この修道院には30人という少なからぬ数の修道士が割り当てられていた。 1779年、長老テオドシイ・マスロフがティアスミン修道院の修道士の大半を率いてソフロニエフ・プスティンに移り住み、1803年までここで修行に励んだ。彼の在任中、この修道院にはアトス山の共同生活規則が導入された。 また、パイシイの弟子であり、厳格な隠遁生活者であった修道士ゲラシムも、ここで身を寄せた[1336] 。
長老パイシイの禁欲的な教えを特に大切に守り続けたもう一つの修道院が、キリロ・ノヴォエゼルスキー修道院[1337] であり、そこでは、これらの教えの熱心な擁護者である長老アルヒマンドリト・テオファン・ソコロフが、40年間(1793–1832)にわたり長老職と院長職を務めた。 その長い生涯(1752–1832)において、テオファンは当時の厳格な修行者や長老たちのほぼ全員と直接知り合い、彼らからの影響を身をもって体験することとなった。 彼はソコロフ家の貴族の出身であり、14歳の時 、フェオドール(彼の俗名)は修道院に入ることを決意したが、両親は彼を行かせようとしなかった。1771年、彼はモスクワに住んでおり、そこで官吏としての職務に就き始めた。 当時モスクワで猛威を振るっていた恐ろしいペスト(テオファンは後に自身の『手記』でこれを記述している)と、それが引き起こした災難は、彼の修道生活への志をさらに強めた。1772年か1773年、彼はついにその願いを叶えることができた。
彼はサナクサル修道院に入り、そこで長老フェオドル・ウシャコフが住職を務めていた。テオファン・ソコロフは彼から修道生活の禁欲的な基礎を学び、生涯を通じて修道院の長老制度の信奉者であり続けた。 この頃、彼は禁欲的な生活を送るティホン・ザドンスキー司教と知り合い、この出会いは若き修道士にとって決して無意味なものではなかった。 1774年、長老フェオドール・ウシャコフが世俗当局の干渉と陰謀により修道院を去らざるを得なくなった際、修道士フェオファンもまた修道院を離れ、当時長老クレオパ1世が修行に励んでいたヴヴェデンスカヤ・オストロフスカヤ修道院へと移った。 ここでテオファンは、クレオパの長老の霊的指導の下で3年間を過ごし、アトス山の修道士たちの生活や長老パイシイについて多くを学んだ。その後、彼は自身の長老からアトス山へ行く許可と祝福を受けた。 道中、フェオドール・ソコロフと同行した数人の修道士たちは、当時長老フェオドシイ・マスロフが住職を務めていたティアスミン修道院に立ち寄った。フェオドールの懇願にもかかわらず、長老フェオドシイは彼がアトス山へさらに進むことを祝福せず、彼はティアスミンに留まることを余儀なくされた。 ここでフェオドール・ソコロフは「テオファン」という名で修道士としての剃髪を受け、長老フェオドシーは彼を自身の霊的指導下に置いた。
テオファンは、長老フェオドシーの指導の下で過ごした日々を、常に深い温かさを込めて回想していた。 残念ながら、その生活は長くは続かなかった。1774年のキュチュク・カイナルジ条約によりロシアとトルコの間でオスマン帝国に割譲されたモルダヴィアの一帯にあるギリシャ正教の修道院は、トルコ当局による様々な迫害のため、極めて厳しい状況に置かれていた。 そのため、長老フェオドシイは、ティアスミン修道院の修道士たちをロシアへ移住させることを決めた。 ここで言及しておくべきは、修道士たちの間にアファナシーという名の修道士がいたことで、彼は極めて謙虚な人物であり、修道院で最も過酷で汚い仕事を喜んで引き受けていた。このアファナシーこそ、すでにここで言及したイオヴ司教の兄弟であり、強大な権力を持つG・A・ポテムキン公の親族に他ならなかった。 この謙虚なアファナシイの秘密を知っていたのは、長老テオドシイただ一人であり、彼は、移住の請願を携えてアファナシイをペテルブルクへ派遣すれば、その家族関係のおかげで、この取り組みが成功に終わることを期待していた。 アファナシイは、長老テオドシイの祝福を得て、同行者として修道士テオファンを選んだ。 テオドシイの請願は成功を収め、皇后の命令により、長老テオドシイは修道院の兄弟たちの大部分と共にロシアへの移住を許可され、そこで彼らのためにソフロニエヴァ修道院が割り当てられた。 当初、テオファンもこの修道院に残っていたが、まもなくガブリエル都主教の意向により、ティアスミンから移住してきた一部の修道士たち――その中にはテオファンも含まれていた――は、修道院生活を整えるため、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院へ呼び戻された。
こうしてテオファンは、長老テオドシウスのもとで従順に過ごす代わりに、首都へと赴くこととなり、まったく異なる雰囲気に身を置くことになった。その環境は、当然ながら彼の禁欲的な気質には合わなかった。しかし、そこで彼を高く評価したのが、他ならぬガブリエル大主教自身であった。 テオファンは修道院のケラー(物資管理係)として長く留まることはなかった。ガブリエル大主教が彼を自身の侍従として迎え入れたからである。瞬く間にテオファンは大主教の腹心兼秘書となり、大主教はすぐに、テオファンが修道院における真の修道生活の復興に役立つと悟った。 純朴で謙虚なガブリエル大主教は、テオファンを厳格な修道士としてだけでなく、彼の助言を必要としていたためにも高く評価していた。 というのも、テオファンは長老たちとの交流や修道院での生活を通じて、修道生活の衰退の原因を正しく見極めるだけでなく、その是正策を提案することもできたからである。こうして、修道院改革の推進において、テオファンの名はガブリエル大主教の名と密接に結びつくことになった。 テオファンの助力により、これらの改革は長老パイシイ・ヴェリチコフスキーの禁欲的な思想に基づいており、テオファンがガブリエルに推薦した修道士たちによって実施された。10年間にわたり、テオファンは都主教の侍従を務めたが、実際には単なる侍従ではなく、彼の主要な補佐役兼助言者であった。 そしてこの間ずっと、彼は単なる修道士であり続けた。彼の意思に反して、大主教はテオファンを司祭修道士に叙階し(1785年)、1791年には、ほぼ完全に破壊されていた修道院を再建させるため、モデンスキー修道院(ノヴゴロド教区)の院長に任命した。 ここで修道司祭テオファンは2年間修業に励み、1793年にはキリロ・ノヴォエゼルスキー修道院の院長として赴任した。
ベロゼルスクの住民たちは、かつては名高かったこの古刹に、もはや真の修道生活の名残すら残っていないことを度々大主教に訴え、修道院が完全に荒廃するのを防ぐための措置を講じるよう求めていた。 テオファン神父が到着した際、修道院は極めて悲惨な状態にあった。そこでは老衰した修道司祭が務めていたが、老齢による衰弱のため、もはや礼拝を執り行うことさえできなかった。時折、近隣の農村教区から司祭が招かれて、修道院で礼拝を執り行っていた。 修道院の修道者たちは、わずか2人の修道士と8人の見習い修道士で構成されており、彼らは各自の裁量で生活していた。修道院の建物は完全に老朽化していた。何十年もの間、何の対策も講じられていなかった上、資金不足のため、教会やその他の建物を崩壊から守るための措置を講じることもできなかったからである。
キリロ=ノヴォエゼルスキー修道院の運命は、多くの辺境の修道院にとって典型的なものと言える。これは18世紀に行われた政府の措置の結果であり、当時、経済局は修道院を文字通り略奪し、修道院の建物――しばしば非常に立派な石造りの建物――を、 実用的な目的に活用する代わりに、自然の猛威にさらされたまま放置した。 穴の開いた屋根からは、年々雨が降り込み、雪が降り積もった。修道士たちは、すっかり荒廃した独房から、比較的まともな別の独房へと移り住み、修道院の建物の保全を気にかける者は誰もいなかった。 さらに、世俗化と1764年の定額給制度が導入されたが、修道院に割り当てられた定額給は、少数の修道士たちを養うのにやっと足りる程度だった。19世紀初頭になって初めて、すでに述べたように修道院の経済状況が改善し、新しい建物を建設する余地が生まれた。 多くの修道院の歴史から、19世紀前半には修道院の資金のすべてが建設に費やされていたことが知られている。すでにここで言及したアルヒマンドリト・ピメンは、自身の『回想録』の中で、修道院長在任中にどれほど多くの時間を建設業務に費やしたかを語っている。他の修道院でも同様のことが起きていた[1338] 。
テオファンもまた、修道院の外部整備に多くの時間と労力を費やすことを余儀なくされ、その結果、彼の住職在任期間中に修道院の様相は一変した。 しかし同時に、彼は修道院の内部生活も再構築していった。共同生活の規則を導入し、修道院の修道士数は年々増加していった。テオファンは、多くの見習い修道士や新入修道士たちに霊的な指導を行い、修道院長としての職務を大いに成功させた。 テオファンが亡くなる少し前、当時まだ若い見習い修道士だったアルヒマンドリト・ピメンがキリロ=ノヴォエゼルスキー修道院を訪れた際、彼はそこで大きな変化を目の当たりにした。修道院の外観も内部の状況も格段に良くなり、 そこには秩序が保たれ、禁欲的な精神が感じられ、修道院は再び信者たちからかつてのような愛を取り戻していた。長老テオファンはこの修道院で30年以上にわたり修業に励み、ここでパイシイ派の修道生活に関する見解を根付かせた。
テオファン神父の精神的影響力は、彼の監督下に置かれた近隣の修道院にも及んでいた。その中にはゴリツキー女子修道院もあり、長老テオファンはゴリツキーの修道女たちを指導し、この修道院を深く愛していた。 生涯の最後の3年間、テオファン神父はもはや修道院長ではなかったが、ゴリツキー修道院の修道女たちへの長老としての指導は引き続き行っていた。
1832年12月3日、長きにわたり実り多い生涯を送った長老テオファンは、この世を去った。彼の姿は、後世の世代にとってオプティナの長老たちの姿に覆い隠されてしまい、テオファン神父はロシアの長老史においてあまり知られていない。 しかし、研究者の責務として、修道史における彼の役割を特に強調しておかなければならない。なぜなら、彼は18世紀末の修道生活の復興に多大な貢献をした人物の一人であったからである[1339] 。
テオファンの姿をもって、パイシイ・ヴェリチコフスキーの学派に属した長老や修道者たちの特徴を締めくくることができる。しかし、挙げられた霊的中心地や人物だけでは、 当時の禁欲主義的潮流を網羅することはできない。パイシイの学派の枠を超えても、この潮流は同等の勢いで現れ、修道界に痕跡を残さずに過ぎ去ったわけではない。
この禁欲主義の潮流をじっくりと見つめると、聖セラフィム・サロフスキーの素晴らしい姿の傍らに、もう一つの驚くべき姿――聖ティホン・ザドンスキー――が私たちの眼前に浮かび上がる。
これらの聖人、 ティホンとセラフィムは、信仰深いロシアの人々から特別な崇敬を受けている。それは、彼らが近世において真のキリスト教の精神で生きたからではなく、彼らの苦行と聖性の姿が、謙遜、質素、世界に対して開かれた心温かさ、そしてこの世界との内的な結びつきを重んじてきた人々の敬虔な理想に、とりわけ近いからである。 聖セラフィムや聖ティホンといったロシアの修道者の伝記を読み、思わずカトリック教会の聖人たちと比較すると、私たちは聖フランシスコ・アッシジを思い起こす。その姿は、ロシアの敬虔さが体現するキリスト教的理想に極めて近いものである。 一部の研究者が聖フランシスコを聖セラフィムと比較したのも、決して偶然ではない[1340] 。
聖ティホンは1724年、貧しい農村の聖歌隊員の家庭に生まれ、ごく幼い頃に父を亡くした。家族全員が、わずかな賃金で農民のもとで働く母親の乏しい収入で生計を立てていた。 1735年、少年はノヴゴロドの神学校へ送られ、1740年には同校の優秀な卒業生の一人として、同地の神学校に入学した。 その模範的な行いと勤勉さのおかげで、彼は卒業試験を受ける前から低学年のギリシャ語教師に任命され、試験終了後は修辞学の講師となった。 極度の貧困の中で暮らす親族たちは、家族の生活を立て直すために、村の司祭の職に就くよう彼を説得した。しかし、ティモフェイ・ソコロフスキー(俗名ティホーン)はこの要請を断った。後に彼は、自分にとって別の道を選ぶよう天からの示唆として受け止めた、自身に起こったいくつかの出来事について語っている。
比較的遅い34歳の時、ティモフェイは1758年4月10日にティホンという名で出家した。数ヶ月後、彼は司祭修道士に叙階され、神学校の検査官(学監)に任命された。 その1年後(1759年)、彼はアルヒマンドリトとなり、ジェルトコフ修道院の院長およびトヴェリの神学校の学長に就任した。こうしてティホンは、学識ある修道士としての通常の道を歩み始めた。まさにこの時期、学識ある修道士たちは独自の階層として完全に確立され、安定した形態を帯びていた。 しかし、教育活動は、どこか遠くの修道院に入り、隠遁生活を送りたいという彼の内なる霊的な願望には応えられず、彼の心の中では禁欲的な修行への渇望が強まっていった。
1761年5月13日、ティホンは大主教に叙階され、ノヴゴロド教区の副主教に任命された。しかし、1763年2月3日には、ティホン大主教はヴォロネジ教区の独立した管轄権を委ねられた。当時、この教区は最も貧しい教区の一つであった。 経済委員会の施策により、修道院や主教座は完全に荒廃し、教区教会は数が少なく、極めて貧しかった。さらに、教区内には多くの古儀式派が住んでおり、彼らはエカテリーナ帝の治世下でより多くの自由を得ていたほか、正教徒とされていた人々の多くも分裂派に傾倒していた。 国の辺境に位置するこの教区は、不安定な要素で溢れかえっており、民衆の間では迷信や悪習が極めて広まっていた。 ティホン司教にはあまりにも偉大で責任の重い任務が待ち受けていたため、当初は勇気を失い、シノドスに引退を願い出たが、その願いは却下された。
ティホン主教は、4年半以上にわたり教区主教の座に就いていた。当初の戸惑いはすぐに消え去り、短期間のうちにティホン主教は多くの成果を挙げることができた。教区の聖職者たちは教育面でも道徳面でも水準が低かったため、ティホンは熱意を持って霊的教育の分野に尽力し始めた。 主教は、過ちを犯した者たちをその不品行に対して非常に厳しく懲戒した。彼は聖職者たちのために、教会の教えを明らかにする様々な教訓や解説をまとめ、司祭の義務、司祭職の道徳的基盤と意義、教区における魂の牧会、その他のテーマについて執筆した。 また、神学校と、自ら設立した2つの神学学校に多くの時間と労力を捧げた。 各教区を巡回する際、ティホーン主教は説教において 、人々にキリスト教的生活の意義を説明するよう努め、また信徒のために書面による説教も作成した。ティホーン主教の在任期間におけるヴォロネジ教区の歴史から、この聖職者は決して手を休めることなく、大牧者の職務に全身全霊を捧げていたことが知られている。 教区内に13か所あった修道院も、常に彼の注目の的であった。その後、彼は修道士たちに向けた数編の教訓と、『修道者への訓示』および『この虚しい世からキリストへと回心した者への助言』という2つの特別な著作を著した。
ティホン主教は、民衆の間に広まっていた迷信に対して並々ならぬ熱意をもって戦い、説教の中でそれらを糾弾した。彼の言葉に込められた内なる力は人々の心を動かし、それまで民衆の生活に広く根付いていた多くの異教的な慣習を根絶することに成功した。
これほど活発かつ多忙な行政業務に追われていたにもかかわらず、主教は自身の内面的・霊的な生活も疎かにしなかった。夜は祈りに費やし、様々な著作を執筆したり、教父たちの著作、特に彼が非常に高く評価していた聖ヨハネ・クラマトリオスの著作を読んだりして過ごした。 しかし、彼の体質はこれほど過酷な生活に耐えきれず、しばしば病に倒れた。主教は、引退を願い出るため、再び聖公会に申し入れざるを得なかった。今回、聖公会はその願いを認め、1767年にティホン主教は司教職を退いた。
当初、主教はトルシェフスキー修道院で隠遁生活を送っていたが、健康に悪影響を及ぼす気候のため、同じヴォロネジ教区内のドン川岸に位置するザドンスキー修道院へ移住せざるを得なくなった。こうして、彼が自らのすべてを内面的で霊的・禁欲的な修行に捧げた、生涯の最後の時期が始まったのである。 外見上、聖人の生活は質素で、ほとんど貧しいほどであった。彼は小さな独房に住み、古びて擦り切れた小さな毛皮のコートをかぶって薄い藁のマットレスの上で眠り、粗い布で作られた質素な修道服を身にまとい、独房では常に藁草履を履いていた。 彼の全財産は古い革のリュックサックに収まるほどで、革装丁の本だけが、彼の小部屋の質素な環境に彩りを添えていた。司教の食事は極めて質素で乏しかったため、彼の執事であるチェボタレフは、しばしばこの修行者に「せめて何かもう少し食べてほしい」と説得しようとした。 彼の人生の主たる内容は祈りであり、毎日すべての礼拝に出席し、礼拝での朗読や、聖歌隊の修道士たちと共に歌うことを好んだ。 最初の数年間、ティホン主教は主教の礼服を着て聖務を執り行っていたが、その後、謙遜の心から、シンプルな修道服のまま礼拝に参列するようになった。ただ、食堂での昼食の際だけは、時折マントやエピトラヒルを身にまとっていた。 礼拝の合間には聖書の読解に没頭し、昼食時には、修道院の規則に従って、執事が聖書を声に出して読み聞かせていた。聖ティホンは夜を、ほとんど眠ることなく、祈りに費やしていた。
彼は侍者に、様々な誘惑と闘わなければならなかったと語っていた。とりわけ彼を苦しめたのは、主教の位が課す義務から逃れ、もはやキリスト教徒に仕えることをやめ、ただ自分の魂の救いだけを考えることに専念する内的な権利が自分にあるのかという考えであった。 心の動揺はますます強まり、ティホンはある時期その代理を務めていたサンクトペテルブルクのガブリエル都主教に手紙を書き、何らかの任用を請うことに決めた。しかし、手紙を送る前夜、主教は夢を見て、その手紙を破り捨てるよう示唆された。 その頃、彼にはもう一つの出来事が起こり、それが修道院に永遠に留まるという決意を固めるきっかけとなった。ある日、聖ティホンは独居室の敷居に腰を下ろし、後に「自惚れの誘惑」と呼ぶような思考に深く沈み込んでいた。 すると突然、修道院に住むカメネフという名の聖なる狂人が駆け寄って来て、主教の頬を叩きながら、「高慢になるな」と言った。この平手打ちに、ティホン主教は自身の内なる弱さへの告発を見出した。 聖ティホンほど、自らの内面の苦悩や、肉体的・霊的な誘惑、内なる無気力や落胆について、これほど率直に語った者はいなかった。肉体を疲れさせるため、彼は庭で働き、薪を割った。
同時代の人々は、彼の謙遜さ、人々へのキリスト教的な愛、そして洞察力について多くを語った。次第に聖人の内面生活は内なる平安を見出し、彼は外向的な活動的な生活からますます遠ざかり、もはやほとんど隠遁者のように修行に励むようになった。断食の期間はますます長くなり、祈りに捧げる時間もますます増えていった。 最後の3年間は、もはや隠遁所から一歩も外に出なかった。
彼が隠遁生活を選んだきっかけは、夢の中で見た幻だった。かすかな夢の中で、彼は透明な水晶の宮殿の前に広がる草原での宴を目にした。その草原へ行きたいと思ったが、何らかの力が彼を阻み、その時、ある声が聞こえてきた。「3年後なら入ってもよい。今は努力しなさい」。 隠遁生活では、彼は自分の (執事)であるケレイニクとしか会話をせず、それも極めて稀だった。聖セラフィムと同様に、彼は聖母マリアと二人の使徒を見た。ある時、彼は夢の中でまたしても頬を叩かれる体験をした。司祭が、布で覆われた赤ん坊を両手で祭壇から抱き出してきたのだ。 ティホンが赤ん坊の右頬に口づけをすると、赤ん坊はそれに応じて彼の左頬を叩いた。聖人が目を覚ますと、左頬と左足が麻痺しているのを感じた。これは彼の死の1年前に起こったことである。最期の頃、彼の声は極めて弱くなり、修道室の従者だけがその言葉を聞き取ることができた。 ある日、ティホンは侍者に「自分の命はあと3日しかない」と告げ、その期限が過ぎると、彼は確かに主のもとへ旅立った。それは1783年8月13日の早朝のことだった。
民衆によるティホンの崇敬は、彼の死後まもなく始まった。特に、修道院の教会にある彼の墓の前で、年を追うごとに奇跡的な治癒の事例が相次いだことがその理由であった。1863年に聖人列聖が行われるまでに、ここでは100件もの治癒が公式に記録されていた。 すでに1845年には、聖人の遺骸が腐敗していないことが確認されていたが、ニコライ1世皇帝は聖ティホンの列聖を許可しなかった。アレクサンドル2世の治世下、1863年8月13日になってようやく、その聖遺骨が厳粛に開棺され、聖ティホンは教会による列聖を受けた。
聖ティホン・ザドンスキーは、ザドンスキー修道院に滞在中、主に道徳神学の問題に焦点を当てた一連の著作を執筆した。その代表作が『真のキリスト教について』 (1770–1771年)であり、また『友人への手紙』および『修道院内書簡』(両集とも1772–1775年に執筆)がある。これらは、彼に寄せられた質問や手紙への回答という形式でまとめられた、様々な種類の訓示や教訓を含んでいる。 晩年(1777–1779年)、聖人は『この世から集められた霊的な宝』という著作に取り組みました。これは短い瞑想録(計157編)の集大成であり、聖人の数多くの神秘的な体験について語られています。 『宝』は、その著者である禁欲主義者かつ神秘家としての霊的な姿を卓越して映し出している。また、ここに収められた、自然現象とその意味に関する聖人の考察も素晴らしいものである。 聖ティホンの著作は数多くの版を重ねており、信者たちの間で最も広く読まれている書物の一つに数えられている。聖ティホンの著作『真のキリスト教について』は、おそらく、聖人が高く評価していたアルントの同名の著作の影響を受けて執筆されたものと考えられる[1341] 。
18世紀および19世紀のアスケシズムの主な特徴をより完全に理解するためには、さらにいくつかの人物を思い起こす必要がある。
18世紀の教会階層の中で、その内面的な敬虔さによって特に際立っていたのが、イオアサフ・ゴルレンコ司教(1705–1754)である。聖ティホンのように、彼は柔和さ、心温かさ、そしてキリスト教的愛の体現者であった。 ベルゴロド主教(1748–1754)として、イオアサフは民衆と聖職者から多大な愛を勝ち取った。これは、主教と聖職者の間に通常、越えがたい壁があった18世紀においては稀な現象であった。 教区運営のあらゆる事柄において、イオアサフ主教は貧しい農村の司祭たちの境遇を深く理解し、聖職者の物質的な困窮を和らげるためにあらゆる努力を尽くした。私生活において、イオアサフは極めて厳格な禁欲主義者であった。おそらく、彼の早すぎる死の原因は、その過酷な断食にあったのだろう。 イオアサフの帰天直後から、信徒たちによる彼への崇敬が地元で始まり、その墓の前ではしばしば病人の癒やしが起こった。 墓が開かれた際、その遺骸は腐敗していない状態で発見され、1911年9月4日、彼はロシア正教会によって聖人列に列せられた( 聖人[1342] )。聖イオアサフと聖ティホン・ザドンスキーは、司教団と信徒との間の緊密な相互関係の模範を示しており、 それは、教会階層と信徒との隔たりがますます顕著になりつつあった時代のことである――この現象は、シノダル期に極めて広く見られ、民衆の宗教生活にとって極めて有害なものであった。
イグナティイ・ブリャンチャニノフ主教(1807–1867)もまた、教会の階層における傑出した人物であり、その禁欲的な生活、長老たちとのつながり、そして著作によって、修道者たちから特別な評価を得ていた。イグナティイの霊的形成は、19世紀の主教たちにとって一般的なものとは言い難い。 ドミトリー・アレクサンドロヴィチ・ブリアンチャニノフは、ヴォロゴダ州の地主の息子であった。「私の幼少期は悲しみに満ちていた」と、ブリアンチャニノフは後に語っているが、これは、息子が貴族の身分にふさわしい職業を選ぶことを望んでいた父親との対立にも一部起因していた。 しかし、若きドミトリーは修道院の独房を夢見ていた。彼は謙虚に父の意志に従い、ペテルブルクへ赴き、軍事工兵学校で将校としての教育を受けることとなった。
彼の人生の表向きの流れにおいて、工兵学校への入学は極めて重要な出来事となった。というのも、そこでブリアンチャニノフはその才能により、軍事工兵学校を特に後援していたニコライ・パヴロヴィチ大公の注目を集めたからである。そして1825年、 ニコライがロシア皇帝の座に就いた際、彼は勤勉な軍事技術者であるブリアンチャニノフのことを忘れてはいなかった。しかし、学業はブリアンチャニノフに内なる満足をもたらさなかった。「私の心の中に、ある種の恐ろしい空虚が生まれ、すでに大きくなっていた。飢えが現れ、神への耐え難いほどの切望が湧き上がった。 私は自らの怠慢を嘆き、信仰を忘れ去ってしまったことを嘆き、失ってしまった甘美な静寂を嘆き、手に入れてしまったあの空虚を嘆いた。その空虚は私を重く圧迫し、恐怖に陥れ、孤児のような感覚や、生命を奪われたような感覚で満たしていたのだ。 まさに――それは、自らの真の命である神から遠ざかってしまった魂の渇きだった。思い出す。ユンカーの軍服を着てサンクトペテルブルクの街を歩いていると、目から涙が雨のように溢れ出ていた……厳粛な思いに駆られ、私はユンカーの軍服を脱ぎ、将校の軍服を身にまとった。 私はユンカーの軍服を惜しんだ。その軍服を着ていれば、神の教会に足を運び、兵士たちの群れや庶民の群れの中に混じり、心ゆくまで祈り、泣きじゃくることができたのだから」[1343] 。彼は後年、自身の精神状態をこのように記述している。 しかし、ドミトリーと彼の友人たちの何人かは、授業や訓練の合間を縫って、自らの内なる精神的な欲求を満たす時間を見つける術を知っていた。 ドミトリーと彼の友人ミハイル・チハチェフの周りには、宗教的な志向を持つ若い士官候補生たちの小さなサークルが形成され、彼らは講義や礼拝が終わった後の夕方に、宗教的な問題について議論するだけでなく、祈りを捧げるためにも集まっていた[1344] 。 1827年の初めに、ブリャンチャニノフは将校に昇進したが、同年末に重病を患い、ようやく辞職願を提出することができた。その願いは認められ、彼は軍務を解かれた。これで、修道院に入るという自身の決意を実行に移すことができた。
当初、彼はアレクサンドロ・スヴィルスキー修道院へ向かった。当時、その地で長老レオニードが修行に励んでおり、彼と面会するためであった。ブリアンチャニノフはキリロ・ノヴォエゼルスキー修道院で、長老テオファン・ソコロフの指導の下、見習い修道士としての修行を積んだ。ドミトリーは彼のもとで約3年間、従順の修行に励んだ。 その後、彼はしばらくの間プロシュチャンスカヤの隠遁地で修行に励み、そこからオプティナに移り、そこで再び長老レオニードと再会し、ついにヴォログダ近郊のグルシツキー修道院に入りました。ここで1831年、彼はイグナティという名で出家しました。
その直後、すでに司祭修道士となっていたイグナティは、小規模ながらも由緒あるペルシェム修道院の院長に任命された。ここ、ヴォログダの鬱蒼とした森の奥深くで、イグナティは世俗から離れた生活を送ることができ、彼の若き日の夢がついに叶ったかのように思われた。 しかし、まさにその頃、ニコライ皇帝が工兵学校を視察した際、彼のことを思い出し、校長から、ブリアンチャニノフが辞職し、さらには修道士になったことを知らされた。 皇帝はサンクトペテルブルクの総主教にブリアンチャニノフの所在を尋ね、彼が小さな修道院を管理しているとの報告を受けた。 の勅命により、イグナティイはペテルブルクへ派遣された。そこで26歳の修道士はアルヒマンドリトに「昇進」させられ、皇帝は彼を首都からほど近い修道院の院長に任命するよう命じた。
そこは、荒廃していたセルギエフ修道院であった。 皇帝の資金によって修道院は再建され、イグナティイ神父は24年間にわたりその運営にあたった。若き修道院長のアスケティックな思想と献身的な努力のおかげで、修道院には真の修道生活が復活した。皇帝はかつて彼にこう語った。「お前は以前と変わらず、私の気に入っている! お前は、私が与えた教育と、お前への私の愛に対して、私に恩義がある……私はお前にもセルギエフスカヤ・プスティンを与える。そこで暮らし、首都の目から見て修道院の模範となるような修道院にしてほしい」。しかし、この皇帝の願いがなくても、イグナティイの修道院長としての在任は修道院の利益となるはずだった。 というのも、彼の修道生活に対する見解は、個人的な経験だけでなく、とりわけ長老レオニードとテオファンからの影響を受けて形成されていたからである。彼らから、彼は修道生活の基礎に関する正しい理解と、共同生活規則の利点に対する確信を受け継いでいたのだ。
そして、イグナティウス自身にとっても、荒野で過ごした年月は大きな意味を持っていた。 それは彼の霊的成長の時期であり、修道士、厳格な修行者、そして禁欲者として確立されていく時期であった。また、教父たちの著作を綿密に研究した時期でもあり、その研究は後に執筆された『禁欲的体験録』の基礎となり、この著作は修道界で高く評価された。
1857年、アルヒマンドリト・イグナティウスは司教に叙階され、スタヴロポリ(当時はカフカース)教区に任命された。1861年、彼は教区を退いて隠居し、ニコロ・ババエフ修道院(コストロマ教区)に移り住んだ。 没する(1867年4月30日)まで、彼はここで世俗から離れた場所で修業に励み、著作の執筆に没頭した。また、ここから多くの信者たちと広範な文通を行い、彼らはしばしば、修道生活や世俗生活について彼に助言を求めた。 彼の最も重要な著作は、『禁欲的体験』、『禁欲的説教』、『現代の修道生活への捧げもの』(修道士の対外的な振る舞いの規則および内面的実践に関する指針)、『イエスの祈りについて。 長老と弟子の対話」、「苦難の忍耐について」などである。[1345]
彼の著作は、イグナティウスが禁欲主義者であり、かつ神秘主義者でもあったことを物語っている。彼は、禁欲の究極の目的を単なる魂の救いではなく、神化であると見なした東方キリスト教の代表者の一人であった。 これまで度々言及してきたアルヒマンドリト・ピメンは、イグナティウス主教を個人的に知っていたが、イグナティウスは当時の修道生活に非常に不満を抱いており、世俗の喧騒から遠ざかったからこそ本来の清らかさを保つことができた古代の修道士たちを模範として挙げていたと記している[1346] 。 イグナティウス大主教は、1960年代初頭に特徴的だった修道生活への激しい非難を深く嘆いていた。こうした非難は、修道士たちの生活の中に否定的な現象が見られたことだけでなく、社会の自由主義的な層に見られた反キリスト教的な気風によっても説明される。 イグナティウスの確信によれば、これは単なる修道生活への批判ではなく、修道院の壁の外でも営まれていた修道生活の一部を、あらゆる手段を用いて様々な誘惑にさらそうとする試みであった。 したがって、イグナティウスは、修道士たちにとって世の中からできるだけ距離を置くことが最善であると考えていた。第一に、道徳的な清らかさを保つためであり、第二に、そのような批判の口実を与えないためである[1347] 。
イグナティイ・ブリャンチャニノフ司教の霊的姿は、東方教会の禁欲的伝統から霊的な力を汲み取り、ロシアの修道界の健全な部分とのつながりを保っていた、シノダル時代(教会会議時代)のロシアの司教たちに特徴的なものであった。 彼らは自らキリスト教的禁欲の実践の模範となっただけでなく、修道生活の復興にも寄与した。彼らの労苦や著作によって、個々の修道士や、さらには修道院全体が正しい 禁欲の道へと歩み出し、修道院生活から多くの欠点が排除されることにつながった。 キリスト教の禁欲の精神に従って生きようとする志は、修道界において決して消えることはなく、修道士たちが自発的に、あるいは聖ティホン・ザドンスキー、アンブロシウス・オルナツキー司教、テオファン・ザトヴォルニク司教、 イグナティイ・ブリャンチャニノフ司教らに感化され、自ら進んで世俗を捨て去る道を歩みながら、霊的な戦いを繰り広げた、真の禁欲主義の例を数多く挙げることができる。
アルヒマンドリト・ニコディムの著作『18世紀および19世紀のロシアの敬虔な修行者たちの伝記』([1348] )には、ロシアの主教、修道士、信徒の中から選ばれた多くの修行者たちについて記されている。しかし、彼ら一人ひとりについて、ここで伝えられる情報の信頼性を検証できるほど十分な信頼性の高い資料が、我々の手元には集められていない。 多くの立派な修道者たちについては、不正確でしばしば互いに矛盾する物語や回想録、あるいはそもそもこれらの修道者たちについて正しい理解を得ることを不可能にするような情報しか、我々の手元には伝わっていません。 そのため、本概説においては、一方で特に著名な修行者に限定せざるを得ず、他方で、詳細な伝記的資料が欠如している場合には、単に名前を簡潔に言及するにとどめざるを得ない。
特に広く知られているのが、ゲオルギー・マシュリンの名である。彼は禁欲主義者であり隠遁者であり、キリスト教的な謙虚さと、「天使に等しい位階」である修道士となるに値しないという自覚から、生涯を通じて見習い修道士にとどまった。マシュリン(1789–1836)は貴族であり、フサール連隊の将校であった。 本書では、18~19世紀に多くの人が華やかな将校の軍服を修道服に替え、輝かしいキャリアを築くことができた人々がキリストの戦士となることを選んだことについて、繰り返し述べてきたが、マシュリンもまた、そうした戦士の一人であった。 1818年、彼は退役し、かつて聖ティホンが修行に励んでいたザドンスキー修道院に修道見習いとして入りました。1年後、彼は冬の間、特に厳しい寒さの時にのみ暖房が入れられる小さな独房に閉じこもりました。 ゲオルギーは自分の独房の下に洞窟のような穴を掘り、昼間はそこでひざまずいて祈りを捧げ、夜は聖書や禁欲的な著作を読みふけり、食事も毎日とるわけではなかった。 この修行は約5年間続き、その後、彼は洞窟を離れ、独房に籠もるようになった。ゲオルギーは民衆から深く尊敬されており、多くの人が長老として彼に助言を求めに来た。しかし、彼が訪問者を独房に招き入れることは極めて稀であった。 多くの信者とは文通を交わし、世俗での生活について助言を与えていた。これらの手紙は1870年までに5回の増刷を重ね、オプティナの長老アムブロシウスやテオファン・ゴヴォロフ司教の手紙に劣らず、とりわけ世俗の人々の間で広く読まれていた。 ゲオルギー・マシュリンは、形式的には修道士ではなかったが、その生き方においては、修道服を身にまとった多くの人々よりも修道士らしい、稀有な修行者の例であった。彼の隠遁生活は17年間続いた[1349] 。
厳格な禁欲者、隠遁者、そして砂漠の修道士であったのが、テオファン・ソロヴェツキー(1739[?]-1819)である。おそらく彼は南ロシアの出身であった。 当初はキエフ・ペチェール大修道院に入り、長老ドシフェイ(†1788)の指導の下で修行に励んだ後、巡礼の旅に出た。最初はニャメツキー修道院の長老パイシイ・ヴェリチコフスキーのもとへ赴き、そこから徒歩でソロヴェツキー修道院へ向かった(1778年)。 そこで彼は長年にわたり森の小屋で過ごし、人々とは一切交流を持たず、ソロヴェツキー修道院の修道士たちとも接することはなかった。彼に捧げられた非常に興味深い手書きの物語があり、そこには、隠者の小屋に頻繁に現れて、彼に隠遁生活を放棄させようと迫った悪魔とのテオファンの闘いが描かれている。 ロシアの聖人伝や修道者の生涯に関する物語において、このような悪魔学的な話は比較的珍しい。物語によると、テオファンは1819年7月26日、120歳で、老衰により完全に力を失った状態で死去し、最期の日々をソロヴェツキー修道院の病院で過ごした[1350] 。 ソロヴェツキー修道院のもう一人の厳格な禁欲者は、テオファンの同時代人であるスキモナフのゲラシム(1740–1848)であった。当初、彼はアルセニイ長老の指導の下、ロスラヴリの森で修行に励んでいた。 1823年、 聖地を巡る長年の放浪の末、彼はソロヴェツキー修道院にやって来て、そこで10年間(1823–1833)は森の中の小さな洞窟で、その後は森の小屋で修行に励んだ。
キエフ・ペチェールスカヤ修道院でも、18世紀後半から19世紀前半にかけて、数人の傑出した修道士たちが修行に励んでいた。まず、すでに言及した長老ドシフェイを挙げよう。彼は長年にわたり、洞窟に閉じこもって過ごした。 彼こそが、当時まだ若き見習い修道士であった将来の長老パイシイに対し、モルダヴィアのヴァシリー神父のもとへ赴き、そこで修道生活の基礎を学ぶよう助言した人物である。数十年後、彼は同じ目的でテオファン・ソロヴェツキーを、今度はパイシイのもとへと送り出した。 長老ドシフェイは30年間を閉鎖生活の中で過ごし、極老齢で死去した(†1788)。おそらく、彼の弟子にはスキモナフのミハイル(†1815)がいた。ここには、かつて(1816年)皇帝アレクサンドル1世が長時間対談したイェロススキモナフのヴァッシアンも修行に励んでいた。 この修道院のもう一人の厳格な修行者、イェロスヒモナフであり長老のパルフェニー(1790–1855)は、特に著名で敬愛されていた。彼は訪問者や霊的な子らに対し、ただ一つのキリスト教的美徳のみを求めた。それは、労働や世俗的な活動から解放されたすべての時間を、祈りに捧げることである。 彼の伝記には、彼が授かった幻視について記されている。その幻視の中で、神の母が現れ、彼は修道士としての義務は何かと尋ねたところ、「ただ一つの義務がある。それは、全世界のために絶え間なく祈ることだ」という答えが返ってきたという[1351] 。
隠遁者であり聖職者ディアクンであったメルキゼデク(1715–1840)の姿は、私たちをロズラヴリの森の修行者たちの時代へと連れ戻してくれる。彼はスミー市(ハリコフ近郊)の裕福な商人の家庭に生まれた。25歳の時、父の望みにより婚約した。 ある時、マクシム(世俗名はメルキゼデク)は偶然、ある老僧と出会った。その老僧は、彼に「世俗で生きる必要はなく、修道院へ行くべきだ」と告げた。彼はキエフ・ペチェールスカヤ・ラヴラへ巡礼に出かけ、そこで見習い修道士として留まることになった。その後、彼はソフロニエフの隠遁地へ身を寄せた。 そこでマクシムは他の修道士たちからのいくつかの誘惑にさらされ、ベロベレジュスカヤ修道院へと移り、そこでミハイルという名で出家した。数年後、彼はメルキゼデクという名で大修道服を着用し、聖職助祭に叙階された。 この頃(1800年)、修道院に新しい院長である長老ヴァシリー・キシュキンが着任し、当時すでに高齢であったメルキゼデクは、彼と絶えず霊的な交わりを保っていた。メルキゼデクはベロベレジスカヤ修道院で50年間を過ごした。 彼がすでに95歳になっていた1810年、伝記作家が記すところによれば、不可解な理由から突然、ロスラヴリの森へ向かい、そこで森の小屋に定住することを決意した。当時、この森にはイザヤやアンドレイといった他の隠者たちも修行に励んでいた。 長老メルキゼデクは、多くの訪問者によって安らぎを得ることができなかったため、モサルスク(カルーガ県)近郊の別の森へ移ることを決意し、そこで12年間、イザヤ神父と共に修行に励んだ。そして再び、人々が彼を訪ねてきて、彼と語り合い、慰めや助言を求めるようになった。 イザヤが亡くなると、メルキゼデクは別の修道士ミハイルを弟子として迎え入れ、二人でロスラヴリの森に戻ることを決めた。そこでメルキゼデクは弟子と共に、生涯の最後の3年間を過ごした。彼は1840年7月9日、125歳でこの世を去った[1352] 。
トロイツェ=セルギエフ修道院付属のゲフシマン修道院でも、同様に数名の非常に尊敬される修行者や長老たちが修行に励んでいた。洞窟に身を隠して修行したフィリッポ、長老のイシドール、アレクサンドル、 グリゴリー、ゲルマン(†1918)、イラリオン[1353] 。とりわけ有名なのは、長老ヴァルナヴァ・メルクロフ(1831–1906)である。彼は 農民の息子(世俗名はヴァシリー)であり、板金職人の技術を習得した。 20歳の時、彼はトロイツェ=セルギエフ大修道院を訪れ、見習い修道士として入山した。彼の霊的指導者は長老グリゴリーであった。まだ見習い修道士であった頃、ヴァシリーはある女子修道共同体の設立に参画し、後にその共同体の長老を務めた。 長老グリゴリーが逝去した際(1862年)、ヴァシリーはダニイルという名の別の長老のもとへ移った。ダニイルは1865年に他界したが、臨終の際、ヴァシリーに対し、彼も将来は長老になるだろうと告げた。1865年、ヴァシリーはヴァルナヴァという名で修道誓願を立てた。 1872年、彼は司祭修道士となった。その当時、若さにもかかわらず、すでに彼のもとを訪れる人々が現れ始めていた。彼はゲフシマン修道院に居を構え、1873年から1906年2月17日に亡くなるまで、長老バルナバは多くの信者たちを惹きつけた。 敬虔な人々に対する彼の接し方は、オプティナ派の長老レオニードやアムブロシウスの作風を彷彿とさせるものであった。彼は、教えや助言をことわざや冗談の形で伝えることを好んだ。 彼が1878年にヴィクセ村(ニジニ・ノヴゴロド教区アルダトフ近郊)に設立した修道女共同体は、後に女子修道院へと改組され、長老ヴァルナヴァは常にその修道院の修道女たちの霊的指導者であり続けた[1354] 。
19世紀前半、モスクワではノヴォスパスキー修道院の長老フィラレート(1752–1842)が深く敬われていた。彼はロズラヴリの森からやって来たが、そこで11年間(1799–1810)を完全な隠遁生活の中で過ごしていた。 彼のおかげで、著名なロシアの思想家イ・V・キレーエフスキーは、自身のデイズム的信念を捨てて教会に復帰した。キレーエフスキーの妻は長老フィラレートの霊的な娘であり、夫に長老のもとを訪れるよう勧めたのも彼女であった。 その後、長老フィラレートの死後ではあるが、彼の助言に従って、キレーエフスキーはオプティナの長老マカリーと知り合い、彼の禁欲主義的な著作『[1355] 』の出版を手伝うようになった。長老フィラレートは、フィラレート・ドロズドフ大主教の霊的指導者でもあった。
19世紀には、ヴァラアム修道院が特に名声を博した。1782年、長老ナザリイがミトロポリト・ガブリエルからこの修道院を再建するよう命じられた当時、同修道院は外見上は荒廃し、内面的にも霊的な衰退に陥っていた。 1723年の火災により修道院の建物のほぼすべてが焼失し、ナザリイ神父が到着するまでは、わずか数人の修道士だけがそこで身を寄せていた。ナザリイはいくつかの修道院の建物を再建した後、修道院生活の内部体制に主眼を置くようになり、彼のもとで修道生活を送る者の数は絶えず増加していった。 数十年後、この修道院はとりわけ厳格な生活様式で知られるようになった。しかし、19世紀20年代の終わりには、再び規則からの様々な逸脱が見られるようになり、そのため1829年、長老レオニードはそこを去り、オプティナ・プスティンへと向かった。
19世紀半ば、ヴァラーム島の修道士でスキモナフのフェオクティストは、その過酷な修行によって名声を博した。出家前は海軍に勤務し、1827年にヴァラーム島へ赴き、1835年に修道誓願を立て、1853年には大スキマ(厳格な修道服)を着用した。 最後の10年間は森の小屋で隠遁生活を送り、その修行の厳しさで特に際立っていた。彼のもとには若い修道士たちが訪れ、彼は彼らに修道生活についての教えを与えた。1863年、高齢でこの世を去った。
この頃、ヴァラアム修道院は民衆の間で特別な名声を博しており、巡礼者や訪問者の数は年々増加していた。 修道院の外観は大きく変化した。ダマスキン(コノノフ、1839–1871)とイオナファン(ドミトリエフ、1879–1891)の両修道院長は、大規模な建設事業を展開し、石造りの教会、修道士の住居、 巡礼者用の宿舎、そして数多くの経済施設(製粉所、ポンプ場、発電所など)を備えた現在の姿は、これらの経済的で進取の気性に富んだ修道院長たちの活動を彷彿とさせる。 とはいえ、ダマスキン修道院長は、 経済的な進取の気性に加え、修道院内の秩序を維持する能力も兼ね備えており、修道士たちはこの厳格な修道院長の厳しい統制を身をもって感じていた。彼の在任中、修道士数は300人を超えた[1356] 。
前述のアルヒマンドリト・ニコディムの著作には、過去2世紀にわたりロシアの様々な修道院で生きた、多くの敬虔な修行者たちの伝記が収録されている。これらの修行者たちのおかげで、多くの否定的な現象に悩まされたシノダル時代の陰鬱な色合いが和らげられている。 この時代においても、禁欲的な精神は消え去ることはなく、多かれ少なかれすべてのロシアの修道院に見られた。それは特に、概して少数の修道士しかいない修道院に身を寄せた長老たちの偉業の中に、際立って強く息づいていた。
修道院生活における長老制度の重要性と、禁欲的な著作への関心により、学術研究においては、一方では正教会の禁欲主義の歴史全般に、他方では長老制度の歴史に、特に注目が集まるようになった。 東方教会の禁欲的・神秘的な生活の歴史と本質に焦点を当てた著作が登場している。モスクワ神学アカデミーでさえ、一部の学生が学位論文のテーマとして長老制度とその歴史を選んでいる。 1911年にトロイツェ=セルギエフ修道院で開催された、各修道院の修道者代表による会議では、修道院の最も重要な任務として、新入修道士への長老による指導を含む「長老制」の維持、および古代の禁欲的伝承への忠実さが定められた[1357] 。 この「スターチェスト」の重要性を理論的に認めたこと自体が、長老たちの労苦が無駄ではなかったことを示す最良の証拠である。しかし、1911年の会議で表明されたこうした志は、実践に移されることはなかった。というのも、数年後にロシア正教会の修道生活が途絶えてしまったからである。
本書はロシアの修道生活の詳細な歴史を記述するものではないが、最も重要な現象や最も顕著な人物については概説している。
この歴史の三つの時期を通じて、修道生活の様相は変化していった。これは修道院の生活にも、修道士たち(たとえ同じ世代に属する者同士であっても)が抱く修道生活の本質に関する認識にも当てはまり、それは特に16世紀初頭に勃発した禁欲主義の意義をめぐる論争において、顕著に表れた。
我々の観点からすれば、これら二つの潮流の存在は、その後のロシア修道生活全体の歴史にとって極めて重要な意味を持っていた。この論争は、何よりもまず、ロシアにおける修道生活が5世紀にわたり存続し、14~15世紀に修道生活が最盛期を迎えた後、 キリスト教の禁欲主義の本質全般、とりわけ修道生活の基礎を明らかにする必要性、そして修道生活を正しい道へと導くために、これらの基礎を可能な限り正確に定義する必要性が生じていたことを示していた。
この取り組みは、古代の修道生活が持つ禁欲的・神秘的な精神との緊密な結びつきを確立しようとした修道士たちのグループによるものであり、この点において、長老ニール・ソースキーとその同志たちは、ロシアの修道史において特に高く評価されるに値する。 注目すべきは、彼らの取り組みが15世紀の最後の数十年に行われたことであり、当時、世俗化の過程は16世紀初頭ほどにはまだ顕著には現れていなかった。 このことから、ニールとその同志たちが禁欲的な見解に至ったのは、世俗化と闘おうとしたからではなく、修道生活の真の基盤が何であるかを自覚したからであると結論づけられる。
彼らの対立勢力であるヨセフ派は、修道生活の課題に関する自らの見解を、主に「非所有者派」の提唱に対する反論という形で提示せざるを得なかったが、 しかし、それゆえに彼らの見解が歴史家にとってその重要性を失うわけではない。それはその政治的内容のためではなく、むしろ、 、ロシア修道生活の将来の歴史にとって極めて重要であることが判明したからである。したがって、この論争が激化した時期を、我々は修道生活の発展とその自己認識の歴史における転換点と呼んだのである。
16~17世紀、修道界の対外・対内情勢は、ほぼ例外なく「ヨシフ派」という勝利者たちの精神の下で展開され、その精神は修道院の生活に多くの悪影響をもたらした。 修道院の状況を鑑みると、改革の実施は待ったなしであり、これこそが教会階層の主要な課題であった。1764年の世俗化は、修道院からその土地所有権を剥奪したことで、ある意味では、土地所有に伴う負の現象が消滅したため、そのような改革の実施を容易にした。 しかし、シノダル期における教会権力が上層部から特に重要な措置を講じなかったため、修道生活はおそらく完全な衰退の危機に瀕していた。とはいえ、これまで見てきたように、修道生活そのものにおいて、健全な力がすべて失われたわけではなかった。
この点において、修道院生活の復興における最大の功績は、18~19世紀のロシアの「スターツェ」たちに帰すべきであり、ロシアにおいては、それはスターツェ・パイシイ・ヴェリチコフスキーの名と直接的かつ極めて密接に結びついている。 真に禁欲的な修行の他の現れは、世俗化の危険が、修道生活の将来にとってどこでも等しく脅威であったわけではないことを示している。 長老たちの功績と偉業は、修道生活、とりわけ18世紀末から19世紀にかけての若い世代の修道士たちの中に、依然として健全な力が宿っており、真の修道生活への渇望がそこに大きく存在していたことを証明している。 この事実は、教会史家だけでなく文化史家の注目に値する。なぜなら、それは民衆のあらゆる階層において宗教的志向がいかに強かったかを物語るだけでなく、民衆の敬虔さが、ある意味で外部から修道院生活に影響を与えていたことも示しているからである。
19世紀の長老たちは、修道院の壁の外で暮らす修道士たちだけでなく、一般信徒の霊的生活にも影響を与えた。長老たちが世に対して行ったこの奉仕を通じて、ロシアの修道界は、正教会の修道生活に典型的な閉鎖性と自己没頭性を失っていった。これはかなり重要な点である。 ほぼすべての長老たちが霊的なつながりを保っていたパイシイ・ヴェリチコフスキー神父の禁欲主義の学派は、当初はこの閉鎖的な性格を保っていたが、やがて修道士だけでなく、世俗に生きる人々にも奉仕するという使命を担うようになった。こうして、東方教会の禁欲主義の伝統は、ロシアの長老制度において新たな形を身につけたのである。 これは、一般の信徒たちと真の内的つながりを持ち得なかった教会当局からのいかなる圧力もなく、自発的に、自然に起こったことである。長老制度の本質そのものが、修道界と民衆との間の霊的な絆が徐々に回復されることにつながったのである。
修道界が、霊的な成長を続け、信徒である民衆との緊密な絆を維持するのに十分な健全な力を備えていたのか、またキリスト教生活の良き実がどれほど早く熟したのかという問いには、確信を持って答えることはできない。というのも、20世紀の20年代の終わりには、 ロシアの修道史は、ロシアの国家・政治史上の出来事の結果として、外部からの影響を受けて途絶えてしまったからである。ロシアで修道生活がいつ、どのように復活するのか、その際にはどのような姿をとるのか、あるいはそもそもそれがいつの日か実現するのか――これらの問いには、相当な時間が経過した将来、このテーマに取り組む歴史家たちが答えることになるだろう。 しかし現在、ロシアの修道生活の歴史は、歴史的視点からその始まりから終わりまでを俯瞰できる、完結した現象として捉えられる。
本研究の締めくくりとして、ロシアの修道史に精通した、西洋ではあまり知られていない思想家、セルゲイ・ニコラエヴィチ・トルベツキー公(†1905)の言葉を、読者の皆様に改めて紹介させていただきたい。 「修道院は、私たちの生活における最も貴重な宝であり、私たちの誇りである。たとえ、霊的生活を知らない者や、これほど多くの人々がなぜこの犠牲的な道を選ぶのかについて考えることさえ望まない者たちが、どれほど傲慢な軽蔑の眼差しを向けていようとも。 もちろん、一部の修道院における道徳の堕落や、修道士たちの怠惰、無為、そして彼らの悪癖について語ることもできるだろう――理想と現実の対比がこれほど大きかった場所は他にないが、同時に、それがこれほど深く、苦痛を伴って体験された場所も他にないのだ。 私たちは、教会の教えが生活そのものに表れた機関として、修道院を高く評価している……私たちは、その欠点や弱さにかかわらず、修道院の壁の向こうから輝きを放つ聖人 の真珠たちのために、修道院を高く評価している。修道院は、民衆の精神的・道徳的な教育の場であった」[1358] 。
[1] 参照:『ロシア正教会の歴史』。モスクワ、1997年。第8巻。第1~2部。
[2] I. K. スモリチの略歴については、『ロシア正教会の歴史』(モスクワ、1997年、第8巻、第1部、5–16頁)を参照のこと。
[3] ロシア修道史に関する史料の状況と性質についての概要については、本書15–18頁を参照のこと。
[4] 翻訳テキストは、モスクワ総主教庁出版局よりご厚意により提供された。
[5] このリストの作成にあたっては、『Jahrbücher für Geschichte Osteuropas』(1971年、第19巻第4号、629–630頁)に掲載された資料を利用した。
[6] 概説として:シュテリン K. 『ロシアの歴史』第1巻(1923年);クリュチェフスキー V. 『ロシアの歴史』第1巻(1925年);レーア G. 『ロシア帝国の起源』(1930年); ジャコノフ M. 『古代ロシアの社会・国家体制に関する概説』(1928年);フィラレート大司教. 『ロシア教会の歴史』第2巻(1872年);ボンヴェッチ N. 『ロシア教会史』(1923年); ハルナック『最初の3世紀におけるキリスト教の宣教と普及』第2巻(1924年)、797頁; クラコフスキー・ユー. 『タヴリダの過去』キエフ、1914年; ストラトノフ・I. 「クリミアと東スラブ人のキリスト教化におけるその意義」、『Kyrios』第1号、381–395頁。
[7] レーア。前掲書;ヘイドゥク J. 『ルーシ族のキリスト教化の始まり』。ウィーン、1888年;ライプ、『11世紀末のローマ、キエフ、およびビザンツ』。パリ、1924年(必ずしも客観的とは言えない);パルホメンコ。 『ルーシにおけるキリスト教の始まり』。ポルタヴァ、1911年;トマシェフスキー・スト。 「ウクライナにおける教会史への序論」、『Analecta Ordinis S. Basilii Magni』第4巻(リヴィウ、1932年)所収。
[8] 古代の修道生活に関する最新の文献からは、最も重要な著作のみを挙げる:コッホ・ヒューゴ『古代教会の禁欲と修道生活の歴史に関する資料』(1933年);ロット=ボロディン・M.『11世紀までのギリシャ教会における神化の教義』、Rev. de l’histoire des religions. 55–56(1932)、57–58(1933);Heussi K. 『修道生活の起源』(1936);ハイラー(Heiler Fr. 『初期教会と東方教会』(1937)p. 365 以降)に引用されている文献を参照のこと。 また、Enchiridion Asceticum(M. Ruet de Journal 編、フライブルク、1936年、p. 144–147、360–367、410–416、635–637(パホミオス)、645以降(サヴァ))も参照のこと。
[9] Holl K. 『Enthusiasmus und BuЯgewalt』. p. 156 以降;参照:Kranich. 『Die Asketik in ihrer dogmatischen Grundlage bei Basilius d. Gr.』(1896年)。
[10] パレスチナについては:オルタルジェフスキー F. 『4世紀から6世紀までのパレスチナの修道生活』、PPS 15、第2部(1896年)、51頁。聖サヴァの規則については、Kurtz E.、BZ 2(1894年)を参照; ヴェルツァー『教会事典』第10巻第1部、434–37頁。シリアについては:ヒューゴ・ボール『ビザンチン・キリスト教。三つの聖人伝』。ミュンヘン、1932年;アナトリー(司祭)『6世紀半ばまでのシリア修道制の歴史的概説』、TKD A(1911年)所収; スミルノフ・イ. 『シナイのパテリコン』。セルギエフ・ポサド、1917年。
[11] 例えば以下を参照:グラニイ B. 『ユスティニアヌス法に基づくギリシャ修道院の法的地位と組織』、BZ. 29 (1929–30) に収録;ニーセン W. 『9世紀末までのローマ帝国における修道制度の規制』(1897); 参照:フォイクト K. 『コンスタンティノス大帝からカロリング朝末期までの国家と教会』(1936年)。103頁以降;マリン E. 『コンスタンティノープルの修道士たち――都市の創設からフォティオスの死まで』(1897年)。
[12] オストロゴルスキー G. 『ビザンツの聖像論争史に関する研究』(1929年);マックス(ザクセン公)『聖テオドール、ストゥディオンのアルキマンドリト』(1929年);ヴァシレフ A. 『ビザンツ帝国の歴史』第1巻(1932年)。333頁以降、373頁以降。
[13] マリン。前掲書;ソコロフ・イ. 『9世紀半ばから13世紀初頭までのビザンツ教会における修道制の状況』(1894年)。
[14] ヴァシリエフスキー。『ロシア・ビザンツ断章』第6巻:『ステファノス・ノヴォス(新)の生涯』、掲載:『ロシア正教会月報』1877年6月号、299、307、308頁;『聖ステファノス・ノヴォスの生涯』、掲載:ミグネ『PG』第100巻、1117頁。
[15] ステファン・スロジスキーの伝記、ヴァシリエフスキー『著作集』第3巻(1915年)所収。238頁、序文;参照:ストラトノフ、前掲書、387、389頁。
[16] 聖テオドールの伝記、Migne. PG. 99. P. 253, 1344, 1350;クラコフスキー。前掲書。p. 74;ヴァシリエフスキー。著作集。3. p. 159。
[17] ストラトノフ。前掲書、392頁。ここで後に設立された修道院(スヴィャトゴルスキー修道院およびディヴノゴルスキー修道院)が、洞窟を修道室および礼拝堂として利用していたことは興味深い。参照:ズヴェリンスキー。『正教会修道院史資料』第1巻、169頁、421頁。
[18] ラーエ。前掲書;パルホメンコ。同上。
[19] ゴルービンスキー。『ロシア教会の歴史』第1巻第1部(第2版)。63–104頁。
[20] プリセルコフ。『随筆集』。98頁。
[21] イラリオン。「律法と恵みに関する説教」、ポノマレフ編。第1巻、71頁以降。
[22] ゴルービンスキー。1. 1。553–557頁;ヤコフ修道士著『ウラジーミルへの追悼と賛辞』を参照:ゴルービンスキー。1. 1(第2版)。238頁以降。
[23] プリセルコフ『随筆集』84–87頁;さらに参照:シャフマトフ『研究』
[24] 『ラヴレンティエフ年代記』1037年条(第3版)。148頁。
[25] ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。698頁;トロイツキー S. 「ビザンツおよびネマン川沿いのセルビアにおけるクトイトル権」、『セルビア王立アカデミー紀要』第84号(168)(1935年); ジシュマン J. v. 『東方教会における寄進法』(1888年)。
[26] D. アブラモヴィチ、L. K. ゲッツ、M. プリセルコフ、A. シャフマトフの各論考を参照。
[27] 『ラヴル年鑑』1051年版;プリセルコフ。 『論集』。88頁以降;ゲッツ『アルトゥルランドにおける国家と教会』(1908年)。82頁;ゴルービンスキー『1. 1』(第2版)。297、300頁;マカリイ『2』(第2版)。5–13頁。
[28] シャフマトフ『研究』434、271、257頁;参照:プリセルコフ『論考』166頁。
[29] 参照:シャフマトフ。前掲書。第12章;プリセルコフ。『論考集』。253頁、264–274頁;Goetz. 『Das Kiever Höhlenkloster』. 17;ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。647頁。
[30] ゴルビンスキー。1. 1(第2版)。286頁;イラリオン=ニコンについては参照:プリセルコフ。 『論考』172–189頁;同著『年代記作家ネストル』(1924年);同著『独立したロシア正教会の闘士としての大主教イラリオン(修道名ニコン)』、S. F. プラトノフ記念論文集(1911年)所収、188–201頁。
[31] 聖テオドシオスの伝記は6回刊行された:1. ボディアンスキーによる、『読本』1858年3号;2. ヤコヴレフによる、『12・13世紀ロシア文学の記念碑』(1873年);3. A. ポポフによる、『読本』1889年1号; 4. シャフマトフによる、『チェテニヤ』1899年、第2号;5. アブラモヴィチによる、『スラブ・ロシア文学の記念碑』第2巻:『キエフ・ペチェルスク修道院伝』(1911年);6. アブラモヴィチによる、『キエフ・ペチェルスク修道院伝』(1930年)。 参考文献は以下を参照:Goetz. 『キエフの洞窟修道院』. p. 15, 注。参照:ラヴラ年鑑 155; 『パテリク』 第1章。
[32] ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。607–627頁、494–507頁、776–790頁;ミグネ。PG。99。P. 1704;ラヴラ・レトピス、1051年項;プリセルコフ。 『論考』202頁;『パテリク』「ペチェルスク修道院の創建について」の章。
[33] 『パテリク』。大ニコンの逝去に関する章;ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。588、746頁。
[34] ラヴラ年鑑、1064年;プリセルコフ『論考』206、235頁;ゴルービンスキー1. 1(第2版)682頁;1、2 776頁;シャフマトフ『研究』435頁。
[35] ゴルビンスキー。1. 2(第2版)。585–587頁、746頁;ゲッツ。『キエフの洞窟修道院』。57頁;ラヴラ年鑑、1091年および1094年の項;ズヴェリンスキー。第1580号。
[36] ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。746頁;マカリイ(1. 200頁;2. 95頁)は18の修道院を数えている。
[37] ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。748、760頁。
[38] ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。746–776頁;PSRL。2。78、111、114、192頁。
[39] コノプレフ。『ヴォロゴダ地方の聖人たち』(1894年)。14頁;ズヴェリンスキー。2。623頁;ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。775頁;マカリイ。3。78頁。
[40] ゲッツ。『キエフの洞窟修道院』。第3巻;参照:ニコルスキー, N. 「古ロシアのキリスト教について」、『ロシア・ミール』1913年、第6号;フェドトフ。248頁。
[41] ドミトリエフスキー。『典礼写本の解説』第1巻。キエフ、1895年。 序論。XCV-XCVI頁、1–152頁;リシツィン。13–160頁;参照:ディール、『BZ』第1巻、521頁;クラスノセルツェフ。『コンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂の典礼規則』。オデッサ、1892年。
[42] 聖テオドロスの規律、Migne. 99. P. 1704 以降、1813 以降;また、ドミトリエフスキー。1. pp. 224–238。序論。p. CVII 以降;参照:リシツィン。 161頁以降。アレクシオスの規律:ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。494–507頁。キエフ・ペチェール修道院のパテリク(1911年)。24–26、28、14頁。
[43] パテリク(1911年)。14–56頁;チャゴヴェツおよびフェドトフの研究を参照。
[44] フェオドシイの教訓:ポノマレフ編『1』所収;教訓の同一性については、参照:シャフマトフ、『イオリアス』1893年、827–33頁;ニコルスキー『10世紀および11世紀のロシアの作家とその著作に関する年代順リストのための資料』サンクトペテルブルク、1906年。 157–166頁。
[45] 『パテリク』(1911年)。26、27、29、39、41、43頁。ラヴラ年報 6559、6582、6583、6599、6604年分;Goetz. 『キエフの洞窟修道院』。
[46] 『パテリク』(1911年)。83–86頁;プリセルコフ。『エッセイ集』。246、367頁;ゲッツ。207頁。
[47] 参照:注4;アブラモヴィチ。133頁以降;シュナイダー。『テオドール・フォン・ストゥディオンとその時代』(1892年)。40頁。
[48] 聖テオドシオスの禁欲的伝統を体現する修道士たち:ニコラ・スヴィャトシャ、プロホール、グリゴリー、スピリドン、アリピイ;参照:『パテリク』。第20、27、28、31章。
[49] スモレンスクの文化的隆盛については、ニコルスキー『ミトロポリート・クリメント・スモリャティチの文学的著作について』(1892年)p. 138;ラヴロフスキー『古ロシアの学校について』(1854年)p. 49;クリチェフスキー『古ロシアの聖人伝』(1871年) 54頁。アヴラアミイについては:レドコフ。前掲書;フェドトフ。前掲書、『プラヴ・ム』2(1930);マカリイ。3。64–67頁、205–210頁。 「天の力に関する言葉」:『ロシア科学アカデミー紀要』9(1860–61)。188頁以降;さらに参照:ヴィリンスキー。『聖ヴァシリー・ノヴォイの生涯』1(1913)。311頁; ヴェセロフスキー・A・N. 『ロシアの宗教詩に関する研究』(1889年)。121頁;その他:シェヴィレフ. 『ロシア文学史』. 3 (1858年). 15頁;ブスラエフ. 『ロシア民衆文学・芸術の歴史的概説』. 2. 119頁。
[50] カライドヴィチ。『12世紀のロシア文学の遺作』(1821年)。102–131頁(2通の書簡);3通の書簡すべては『我らの聖なる父キリル、トゥロフ司教の著作集』(1880年)に収録されている。 90–127頁;キリル自身については、以下の文献を参照:『著作集』所収の「序文」;ゴルビンスキー。1. 1(第2版)。797頁;ポノマレフ。1. 98頁以降;『パテリク』(1911年)。28頁。
[51] ゴルービンスキー。1. 1(第2版)。743頁;シャフマトフ。『研究』。437–438頁;プリセルコフ。『論考』。215頁以降;『パテリク』(1911)。27、53、57頁;マカリイ。3。 p. 101。クティトル権については、トロイツキー・イ.「ビザンツおよびネマン統治下のセルビアにおけるクティトル権」、『グラス・スルプスケ・アカデミエ・ナウク』(1935年)168号(セルビア・クロアチア語)を参照。
[52] 『パテリク』(1911年)。24–26頁;Goetz. 128–134頁;『ラヴル年代記』1051年、1074年、1086年、1096年、1108年などの項;『パテリク』(1911年)。 39、41頁など;『イパト年鑑』1154、1158、1187、1113年などの項目;Goetz. 165頁。 また、S. ゲルベルシュタインの著名な著作『Rerum Moscoviticarum Commentarii』に収録されている、聖ヴァルラアム・フティンスキー(1112年)の遺言状の抜粋も参照のこと。Antverpiae, 1557. P. 29–30.
[53] スミルノフ『古ロシアの遺言書』(1914年)。第1章。
[54] 注50を参照。
[55] ニコルスキー, N. 『12世紀の作家、クレメント・スモリャティチ大主教の文学作品について』(1892年)。 もう一人のロシアの説教者、ヴラジーミル司教セラピオン(†1275)についても言及できる。彼は一時期、ペチェールスク修道院のイグメンを務めていた。彼の説教(計5篇)は深遠であり、文学的にも非常に優れている。
[56] ニコルスキー『資料集』(1906年)。75–76頁;プリセルコフ『 随筆集;ポノマレフ。1。48–58頁;ゴルービンスキー。1. 1(第2版)。844頁;「律法と恵みに関する説教」:ポノマレフ。1。59–79頁。
[57] シャフマトフ。『ヴラジーミルの洗礼に関するコルスンの伝説』(1906年);同著。『研究』;パルホメンコ。『ルーシにおけるキリスト教の始まり』(1911年); プリセルコフ。『年代記作家ネストル』(1924年)。52頁、74–77頁;参照:Baumgarten N. de. 『聖ウラジーミルとロシアの改宗』(1932年)、『Orientalia Christiana』第79号所収。
[58] プリセルコフ。『独立したロシア正教会の闘士としてのイラリオン大主教(修道名ニコン)』、S. F. プラトノフ記念論文集(1911年)所収。188–201頁;同著。 『随筆集』;同著。『年代記作家ネストル』(1924);参照:シャフマトフ。『研究』
[59] 注25を参照。
[60] 『パテリク』(1911年)。21、24、33頁;プリセルコフ。 『随筆集』。206、235頁;ゴルビンスキー。第1巻第1部。687頁;第1巻第2部。776頁(第2版);シャフマトフ。『研究』。435頁。
[61] ゲオルギエフスキー。『モンゴル侵攻以前のロシア人のキリスト教理解』(1893年);スムツォフ。『モンゴル侵攻以前のルーシにおける国民的自覚について』(1905年);シャフマトフ・A. 『研究』(1908年);シャフマトフ・M. 『古ロシアの政治思想史に関する試論』第1巻。 プラハ、1927年。古ロシア年代記に関する総説は、スペランスキー『古代ロシア文学史』第1巻(1914年)、301–318頁;第1巻(1920年)、325頁以降に掲載されている。
[62] プーシキン・A・S. 『ボリス・ゴドゥノフ』。
[63] 古ロシア年代記の成立史については、以下を参照:シャフマトフ・A. 『研究』(1908年)。420–460頁;同著『年代記』(1916年);スペランスキー。前掲書;ボグスラフスキー。 ネストールの文学的活動の性格と規模に関する問題について、IORYAS(1914年)第1号、131頁;第3号、153–191頁;イストリン『ロシア年代記の始まりに関する考察』、IORYAS(1921年) 45–102頁;(1922年)。207–251頁;ニコルスキー・N. 『年代記』。1(1930年)。 年代記に関する文献については、ニコルスキー『資料』(1906年)を参照。ドイツ語訳:『ネストル年代記』。K. トラウトマン編。ライプツィヒ、1931年、『Slav. – Baltische Quellen und Forschungen』第6巻所収。
[64] プリセルコフ『ネストル・年代記作者』(1924年);ペトゥホフ『ロシア文学。古代期』(1916年)。16–18頁;注56の文献を参照。
[65] ゴルービンスキー。1. 1(第2版)。743頁;「パミャート」。同上。238–247頁。シャフマトフ。『研究』。34–40頁、437頁以降; ニコルスキー。『資料』(1906年)。225、228、230–233頁;セレブリアンスキー。『古ロシアの公爵の伝記』(1915年)。48–51頁。
[66] 概観として以下の文献を推奨する:Stöhl Karl. 『ロシアの歴史』第1巻(1923年)。66–134頁;Goetz L. 『アルトロシアにおける国家と教会、988–1240年』(1908年);さらに:クリュチェフスキー. 『ロシアの歴史』(1925年)。 2. 第14章。
[67] リュバフスキー, M. 『大ロシア民族の主要な国家領土の形成。中心部の定住と統合』(1929年);プレスニャコフ, A. 『大ロシア国家の形成』(1918年);リュバフスキー, M. 「モスクワの台頭」、収録:『過去と現在のモスクワ』第1巻(1912年)。
[68] D. ラゾフスキーの新しい著作を参照:1. 『ルーシおよびハンガリーにおけるペチェネグ人、テュルク人、ベレンデイ人』、『Seminarium Kondakovianum』第7号(1935年);2. 『ポロヴェツ人』。同上、第7~10号(1935~1938年)。
[69] 第1ノヴゴロド年代記、6732年(1224年)の項。
[70] 前述のリュバフスキーおよびプレニャコフの著作を参照のこと。
[71] 「13世紀末までに記録された100以上の修道院のうち」とV. クリチェフスキーは記している、「そのような小規模な隠遁修道院は10にも満たず、しかもその大半はまさに13世紀に集中している。 その一方で、14世紀以降、北ロシアの修道界において森林の隠遁地への動きは急速かつ力強く発展した。この世紀に設立された隠遁修道院の数は、新しく設立された都市部の修道院の数と拮抗していた(42対42)。 15世紀にはその数を2倍以上(57対27)上回り、16世紀には1.5倍(51対35)となった。 このように、この3世紀の間に、モスクワ・ルーシの領域内では、現時点で判明している限り、150の荒野の修道院と104の都市および郊外の修道院が建設された」(クリュチェフスキー『ロシアの歴史』第2巻、259頁)。
[72] ボヤールや従臣の出身者には、セルギイ・ラドネジスキー(†1392)、キリル・ベロゼルスキー(†1427)、フェラポント・ベロゼルスキー(†1426)、パヴェル・オブノルスキー(†1429)、グリゴリー・ペルシェムスキー(†1441)、 ヤコフ・ジェレズノボルスキー(† 1442年);エウフロシン・プスコフスキー(† 1481年);パフヌティイ・ボロフスキー(† 1478年)――改宗したタタール人の家系出身;マカリイ・カリアジンスキー(† 1483年);ニール・ソースキー(† 1508年); ヨシフ・ヴォロツキー、あるいはヴォロコラムスキー(† 1515);イノケンティ・オフレビニン(約1481年)、コメルスキーとも呼ばれる;キリル・ノヴォエゼルスキー(† 1532);コルニリイ・コメルスキー(† 1537);アルセニー・コメルスキー(† 1550); ダニーイル・ペレヤスラフスキー(† 1540);ステファン・コメルスキー(† 1542);サヴァ・ヴィシェルスキー(† 1460);フェラポント・モジャイスキー(† 1426);公爵家出身:イグナティイ・ヴォロゴドスキー(† 1523)。 商人または都市住民からは:ディミトリ・プリルツキー(† 1392);ディオニシイ・グルシツキー(† 1437);アレクサンドル・スヴィルスキー(† 1533);アルセニー・コネフスキー(† 1447);ゲラシム・ボルディンスキー(† 1551); エレアザル・アンゼルスキー(† 1656)。裕福な農民の家系からは:アレクサンドル・オシェヴェンスキー(† 1479);アントニー・シイスキー(† 1556)。司祭の家系からは:エフフィミー・ノヴゴロドスキー(† 1458)。
[73] このテーマについては、私の論文を参照のこと:Smolitsch. Studien zum Klosterwesen RuЯlands. 2, in: Kyrios. 3 (1938). 第4号。
[74] 聖セルギイの伝記は、その弟子エピファニオス・プレムドリー(† 1420)によって執筆されたが、アギオグラフのパホミオス(† 1484年以降)による改訂版として現存している。原本ではあるが短縮された版の伝記は、『ニコノフ年代記』(ПСРЛ. 11. p. 127–147)にのみ保存されている。パホミイによる改訂版は、1. 『OLDP』58。モスクワ、1885年;2. 『VMCH』9月号、第3部(9月25日)。サンクトペテルブルク、1883年;3. シモン・アザリーンの編。 モスクワ、1646年;4. トロイツェ=セルギエフ修道院刊行。1853年。参考文献:クリュチェフスキー, V. 『歴史的資料としての古ロシアの聖人伝』。モスクワ、1872年;ゴルービンスキー, E. 『尊者セルギイ・ラドネジスキーと彼が創設したトロイツェ修道院』。 モスクワ、1892年;第2版、1909年。エピファニオスについては、カドルブフスキー、A.『古ロシアの聖人伝文学史に関する論考』ワルシャワ、1902年、171–178頁を参照。 パホミイの聖人伝的著作の文体については、ネクラソフ, N. 『15世紀の作家パホミイ・セルブ』オデッサ、1871年;ヤブロンスキー, V. 『パホミイ・セルブとその聖人伝的著作』サンクトペテルブルク、1908年;およびカドゥルボフスキー、179–188頁を参照。
[75] クリュチェフスキー『ロシアの歴史』第2巻(1925年)、263頁。
[76] これらは:1. キルジャチにある修道院;2. モスクワのアンドロニコフ修道院(1360年);3. ロストフ近郊のボリソグレブ修道院(1363年);4. モスクワのシモン修道院(1370年);5. コロムナ近郊のゴルトヴィンスキー修道院 (1381年);6. ボゴロドスク近郊のドゥベンスキー修道院(1381年);7. ドゥベンスキー=オストロフスキー修道院(1380年);8. セルプホフのヴィソツキー修道院。これはセルギイの祝福のもと、その弟子アファナシーによって設立された(1374年)。ズヴェリンスキー。 同著 2. 第864、675、1990、1212、1313、753項;1. 第72項。ゴルービンスキー。同著 75–79頁。
[77] 私の著書参照:Smolitsch. 『長老たちの生涯と教え』p. 65–70。
[78] ズヴェリンスキー。前掲書 2. 第598、597号;3. 第1915、2031号。クリュチェフスキー。『古ロシアの聖人伝』。196、276頁。マカリイ。4. 196、195頁。ゴルービンスキー。『聖セルギイ』。81頁。
[79] ズヴェリンスキー。2. 第754号。
[80] ズヴェリンスキー。2。第796号。ゴルビンスキー。前掲書。82頁。
[81] ズヴェリンスキー。1巻、第404号;ゴルビンスキー。79頁;ズヴェリンスキー。2巻、第1140号;ゴルビンスキー。80頁。
[82] ゴルビンスキー。82–84、86頁。ズヴェリンスキー。2巻、第1959号;1巻、第524号;2巻、第1330号。マカリイ。4巻。 p. 142, 147, 211. クリチェフスキー。前掲書。p. 96. 『読本』。1878年。第3号。p. 43.
[83] ゴルービンスキー。前掲書。84頁;クリチェフスキー。前掲書。159頁;カドルブフスキー。前掲書。182–187頁;ムラヴィエフ。『ロシアのフィヴァイダ』。 147頁以降;『ロシア考古学雑誌』1巻、第21、22、25、26、55、56、32号;聖キリルの伝記はカドルブフスキー(1912年)により『ヤブロンスキー。パホミイ・ロゴフェト』(1908年)に収録;抜粋は『マカリイ。 4. 付録。356–360頁;伝記の要約はフィラレート『ロシアの聖人たち』6月号、206–222頁に収録。 参照:バルスクフ『資料』297–306頁、および前述のヤブロンスキーの著作。聖ヨセフ・ヴォロツキーによるキリルに関する見解については、同氏の『聖なる父たちに関する物語』(『LZAK』第2巻、82頁)を参照。 ズヴェリンスキー。第2巻、第867号。聖キリルの規律については、ニコルスキー『キリル・ベロゼルスキー修道院の共同生活と独房生活』、『キリスト教論文集』1907年、224号、163頁を参照。
[84] 聖ニールについては第IV章を参照。
[85] ズヴェリンスキー。2. 第1151号;サヴィッチ。『15~17世紀のソロヴェツキー領地』(1927年);ここでは資料に関する新たな重要な評価がなされている。
[86] ズヴェリンスキー。2. 第606号。聖マルティニアヌスについては、ブリリアントフ『フェラポントのベロゼルスキー修道院』17頁を参照。 ゴルスキー。『聖三位一体・セルギエフ・ラヴラの歴史的記述』(1890年)。69頁。マルティニアンはヴォジ湖のほとりに修道院を設立したため、しばしばヴォジェエゼルスキーと呼ばれる。参照:ズヴェリンスキー。2. № 1188。
[87] 聖コルニリイについては、コノプレフ『ヴォロゴダ地方の聖人たち』、『チェテニヤ』1895年、第4号、86–101頁を参照。クリュチェフスキー、前掲書、303、308、389、393、401頁。ムラヴィエフ。 同上、64頁;その定款については『IRI』第4巻、673–704頁を参照;抜粋はコノプレフ著、94–100頁(ムラヴィエフによる要約)。マカリイ。第7巻。 p. 49, 69;AAE. 1. No. 222, 380–397。同修道院が所有していた領地に関する問題については、参照:AYU. 1. No. 76。ズヴェリンスキー。2. No. 884。
[88] ズヴェリンスキー。2. 第868号、1157、557。表IおよびIIを参照。
[89] スパソ=カメンヌイ修道院の歴史については、15~16世紀の傑出した人物である長老パイシイ・ヤロスラヴォフによる『スパソ=カメンヌイ修道院の伝承』が残されている。彼は1503年以降に没した。『伝承』については、『Prav. sob.』1861年版を参照。 197–214頁。ズヴェリンスキー。1. 第446号。表IIIを参照。
[90] コノプレフ。前掲書。43–53頁、ここには聖ディオニシオスの生涯に関する優れた要約がある;クリュチェフスキー。前掲書。493、415、462頁;ズヴェリンスキー。2. 第766、767号;3. 第1150号;サヴィッチ。 14~15世紀におけるロシア北部の修道院による開拓の主要な側面、『ペルミ大学論文集』第3号(1929年)、25頁。
[91] 聖グリゴリー・ペルシェムスキーの伝記:『VMCh』9月号、第3部(9月30日);その他:コノプレフ、前掲書、60頁以降;ズヴェリンスキー、第2巻、第909号;クリチェフスキー、前掲書、196頁。
[92] ズヴェリンスキー。第2巻、第1173号、第1208号;セミゴロド修道院もまた、ディオニシウスの弟子たちによって設立された。同上。第2巻、第1144号。
[93] ズヴェリンスキー。第2巻、第605号、第1189号;クリチェフスキー。前掲書、300頁、372頁。
[94] ズヴェリンスキー。第2巻、第1055号、第1158号。
[95] ズヴェリンスキー。2巻、第607号、第1215号;1巻、第344号、第193号。
[96] セレブリアンスキー。『プスコフ地方の修道院生活に関する論考』(1908年)。
[97] グレコフ。『聖ソフィア修道院』(1914年)。
[98] 『ヴァラアム修道院とその修行者たち』(1889年)。
[99] イオシフ・ヴォロツキー。『聖なる父たちに関する伝承』、掲載:『読本』1847年、第7号;参照:リャザン司教レオニードによるツァーリ・フェオドル・イオアンノヴィチ(1584–1598)への書簡、掲載:ティホーンラヴォフ『ロシア文学および古代の年代記』第5巻。 第3巻、142頁;A.I. 1. 第410号。年代記の記録(PSRL. 8. 183頁)によれば、パフヌティイは1443年に修道院を設立した。
[100] クリチェフスキー。前掲書。294頁、439–453頁;カドルブスキー。前掲書。209頁以下。
[101] ヨシフの伝記:『聖人暦』9月9日。455–498頁;同修道院の規則(「霊的憲章」):同上。499–615頁。 ヨシフについては、以下の文献を参照のこと:フルショフ『ヴォロツクの敬虔な修道院長ヨシフ・サニン(1868年)の著作に関する研究』;その他、ブルガコフ、ジマキン、カドルブスキー、フェドトフの各著作。
[102] このヨシフの巡礼の記述は、彼の規則第10章第2部に含まれており、また『LZAK』第2巻(1862/63年)に単行で掲載され、『Chteniya』1847年7号には要約版が掲載されている。
[103] ディオニシイについては、ゲオルギエフスキー『フェラポントフ修道院のフレスコ画』(1911年)を参照のこと。同書には、1545年時点のイオシフ修道院の詳細な資産目録も掲載されている。修道院の資産増加の経緯については、イオシフからB・V・クトゥゾフへの書簡(『DRV』14巻 p. 177)およびマリア・ゴレニナ公妃への書簡(『フルショフ』p. 255–260);また、『フルショフ』p. 39 以降; ズヴェリンスキー。2. 第845号;ゲロンティ(クレアノフスキー)、大修道院長。イオシフォフ・ヴォロコラム第二級修道院(1903年)。
[104] 聖セルギイ修道院では、最初の石造教会が彼の没後30年を経て建設された。ゴルスキー・A. 『聖三一・セルギイ・ラヴラの歴史的記述』第1巻(1890年)。6頁。
[105] しかし、ヨシフの社会活動に関するG. フロロフスキーの結論(『ロシア神学の道』1937年、18頁)は必ずしも正確ではないことに留意すべきである。参照:私の書評『Jahrbuch für neuere Geschichte Osteuropas』第3巻(1938年)、262頁。
[106] 参照:『VMCh』9月号、499–615頁;参照:『フルシチョフ』、59–63頁、75–80頁。
[107] この点において、ヨシフの主要著作『啓蒙者』における第7の言葉、および修道院規則の遵守に関する彼の訓示(「修道院規則を遵守しない兄弟の一人に対する聖ヨシフ・ヴォロツキーの訓示」)が特に重要である。DAI. 1. № 211。
[108] 第IX章を参照。そこにはヨシフの修道院規則について詳しく述べられている。
[109] 『VMCh』9月号、491頁;ジマキン『ミトロポリト・ダニイル』、110頁以降、129、138、452–456頁;パヴロフ『 『世俗化の歴史的概説』。86頁;クルブスキー。『伝説』(第2版)。42頁。ダニイルは、大公ヴァシーリー3世の指示によりモスクワ都主教に選出された;PSRL。6。254頁;8。269頁。
[110] ゴルビンスキー。2. 1. 734頁;ディアコノフ。『モスクワ大公の権力』(1880年)。108頁;ジマキン。「16世紀前半のロシアにおける思想の闘争」、掲載:『ジマキン・ナショナル・ペリオディカル』1882年4月号。160頁; パヴロフ。前掲書。109頁;マカリイは、おそらくパフヌティエフのボロフスキー修道院の修道士であった。ゴルビンスキー。2. 1. 747頁;ザウツィンスキー。「全ロシアのミトロポリト、マカリイ」、掲載:『ЖМНП』。1881年10月。
[111] 『ストグラフ』。コジャンチコフ編(1863年)。19–20頁;参照:『AI』第1巻、第216号。
[112] 「モスクワは第三のローマ」という思想については、第V章を参照のこと。
[113] 聖ニール・ソースキーについては、私の著書『Leben und Lehre der Starzen』(1936年)を参照のこと。71–76頁;同書(77–89頁)には、彼の主要著作『弟子たちへの伝承』からの最も重要な抜粋が掲載されている;アルハンゲリスクイ。ニール・ソースキーとヴァッシアン・パトリキーエフ (1881);ジマキン。前掲書;プラフディン。「聖ニール・ソルスキーと彼のスキト生活に関する規則」、『キリスト教論文集』1877年 第1号、114–157頁;グレチェフ。「ニール・ソルスキーとヴォルガ川以東の長老たち」、『BV』 1907年、7–8号;1908年、5、9、11号;スモリッチ・イ. 『偉大なる長老ニール・ソースキー』、『プーティ』19号(1929年);フェドトフ. 『古代ルーシの聖人たち』(1931年)。166–175頁。
[114] 15世紀第3四半期のキリロ=ベロゼルスキー修道院の状況については、イオシフの『ドゥホヴナヤ・グラモタ』第10章、およびニコルスキーを参照のこと。 15世紀、16世紀および17世紀初頭のキリロ=ベロゼルスキー修道院における共同生活と独房生活については、『クリスト』1908年号、225および227頁;同著『キリロ=ベロゼルスキー修道院』(1897年)第1巻を参照。
[115] ゴルスキー、A. 『ロシア教会と聖山修道院との関係について』(1848年);ソロヴィエフ、A. 『アフォンにおけるロシア修道生活の歴史』、掲載:『ベオグラードのロシア科学アカデミー紀要』第7号(1932年)、137–156頁。
[116] ソボレフスキー。『モスクワ・ルーシの翻訳文学』(1903年)。 5–6頁;イリインスキー。「スラブ文字史におけるアフォンの意義」、『ЖМНП』1908年、11号;オルロフ・A. 「16世紀のルーシにおけるイエスの祈り」、『ПДП』185号(1914年)。
[117] イシハスト論争およびアトス山の修道者たちの生活については、以下を参照のこと:Engelhardt G. 『アルセニアン派とイシハスト派』、Z. f. hist. Theologie(1838)所収;Stein F. 『イシハスト派に関する研究』(1879);ポルフィリー(ウスペンスキー)司教『キリスト教東方。アトス山』第3巻 第2部(1892年);ウスペンスキー・F. 『ビザンツ教養史概説』(1891年);マイヤー・Ph. 『アトス修道院史の主要文献』(1894年)およびアトス修道院の近現代史と現状に関する同氏の論文、Z. f. Kirchengeschichte 第2巻 (1907);ソコロフ・イ. 『ヴァルラアムとヴァルラアミ派』、『ロシア百科事典』第3巻;ラドチェンコ・K. 『トルコ征服前のブルガリアにおける宗教的・文学的運動』(1898);ハウスヘル・I. 『ヘシカスト的祈りの方法』、『OCА』 9. 2 (1927); アレクシイ司教『14世紀のビザンツ教会神秘主義者たち』(1906);オストロゴルスキー・G.『アトス山のヘシカスト派とその反対者たち』、掲載:『ベオグラード・ロシア学術協会紀要』5 (1931);私の著書。 前掲書、45–58頁;ヴンダーレ、G. 『アトス山の聖なる世界から』(1937年)、『東方キリスト教』第2巻所収;同著、『ヘシカスト的祈りの心理学について』(同上、新シリーズ第2巻)。第2版(1947年)。 重要なヘシカストの著作として、カリストス・クサンフォポウロスの『センチュリー』(「百篇」)があり、これは最近A. M. アムマンによってドイツ語で刊行された:Ammann A. M. 『パラマ派ヘシカズムにおける神の顕現』(1939年)、『Das Östliche Christentum』第6/7号所収。 ヴァシリー、修道士。『聖グレゴリオス・パラマスの禁欲的・神学的教義。1296–1351』(1939年)(同上 8)。
[118] イシヒアを禁欲的・神秘主義的および神学的・神秘主義的な潮流として理解するためには、以下を参照のこと:シルク『ティルノフ総主教エウフィミオスの時代と生涯』(1898年);シュミット、B. 『霊的祈り』(ハレ、神学博士論文、1916年); バウアー I. 『ギリシャ教父神学における神化論に関する研究』、掲載:『神学季刊』、98–100(1917/18);ジュジー M. 『東方キリスト教徒の教義神学』第2巻(1933)。 p. 47 以降;ロット=ボロディン M. 『11世紀までのギリシャ教会における神化の教義』、『宗教史評論』55号(1932年)。p. 1–35;56号(1933年)。 p. 325–374;57(1933)。p. 8–55;また、修道士ヴァシリーの著書にある参考文献も参照のこと。前掲書、p. 9。
[119] 参照:ロスティスラヴォフ A. 「ニロスの荒野のスキート」、『スタリー・ゴディ』(1913年)4月号。
[120] 私は、ニロスの主要な著作『私たちの尊い父ニロス・ソルスキーが弟子たちに伝えたスキトでの生活に関する伝承』(1849年)を参照している。p. 22。
[121] 伝承。27、28、29、31、32頁。罪を犯す人間の姿は、ニールによって古代の禁欲主義的伝承に基づいて描かれている。 私の著書を参照のこと。前掲書、24–59頁、81–89頁;A. M. アムマン、前掲書、「カリストスとイグナティオス両修道士の『センチュリア』」(43頁以降)。
[122] 伝承。67–68頁;69–103頁。この情動の図式は、エヴァグリオス・ポンティオス(†402)の著書『アンティリティコン』(Migne. PG. 40. P. 1272A-1276A)にすでに記載されている。この図式は、後世の禁欲主義の著述家たち、例えば、シナイのニロス、ヨハネス・クラティコス、ヨハネス・カッシアンらによって受け継がれた。例えば、以下を参照のこと:シナイのニロス。 『Tractatus de octo spiritibus malitiae』(八つの大罪について)、PG. 79. P. 1145, 1164。
[123] 『伝承』。36–40頁;私の著書も参照のこと。前掲書。82、48頁;その他:シュミット E. 『Das Geistige Gebet』(1916年)。
[124] 『伝承』。70頁;断食についてはニロスを参照。同上。69–80頁。
[125] 伝承。18–20頁。
[126] マイヤー・P. 『アトス修道院史の主要文献』(1894)および同氏によるアトス修道院の近現代史および現状に関する論文、『Z. f. Kirchengeschichte』第11号(1890); ソコロフ・イ. 『9世紀半ばから13世紀初頭までのビザンツ教会における修道生活の内部状況 842–1204』(1894)、『Prav. sob.』1893年号所収。 3. ニール・ソースキーは、隠遁生活とは常にスキト(小修道院)を意味すると理解していた。古代ルーシにおいて、スキトはしばしば独立生活(オソボジテリェ)のいくつかの特徴を備えていた。古代ルーシにおけるこの種の修道生活を理解するためには、参照:『AI』1巻、第26号および第181号;『PSRL』6巻、284頁。 一部のロシアの歴史家は、ニールを誤ってアナホレット(隠遁者)と呼んでいる。例:ニキツキー『ノヴゴロドの内史概説』p. 86。ザヴォルジエ(ヴォログダ地方)には1371年までキノヴィーは存在しなかった(マカリイ 4. p. 214)、しかしその北、白海付近では、15世紀半ばにはすでに共同生活を行う修道院が存在していた(アユ。第110号。6。p. 145)。ノヴゴロドとその周辺には、そもそも単独生活を行う修道院しかなかった。PSRL。6。p. 284。
[127] 『伝承』。p. 6–65、69以降、107以降。
[128] ニルは、以下の教父および禁欲主義の著述家たちを引用している:マカリア、 バシレイオス大聖人、ヨハネス・クラマティス、ニロス・シナイオス、イサアク・シリン、エフレム・シリン、アブ・ドロフェイオス、イシキオス・イェルサレムス、カッシアン、ヨハネス・クレマティス、マクシムス・ホモロガス、ペトロス・ダマスキノス、教皇グリゴリオス・デュオロゴス、テオドロス・ストゥディトス、 フィロフェイ、シメオン・ニュー・テオロギスト、とりわけグリゴリオス・シナイティス、その他を敬愛していた。
[129] 古ロシアの年代記には、修道士アドリアン(『ニコノフ年代記』1004年条)とあるドミトリー(その20年後)の「異端」に関する記述が比較的曖昧である点が指摘できるが、これはおそらくブルガリアのパウリキアン主義と関連していた可能性がある。 さらに、マルティンという名のアルメニア人長老を挙げることができるが、その生涯や教義については極めて曖昧な情報しか残されていない;参照:ゴルービンスキー。1. 2(第2版)。795頁。 水曜日と金曜日の断食(12世紀)および「アリルヤ」(14世紀)に関する論争は、異端的な色彩を帯びてはいなかった。
[130] この運動については第X章を参照のこと。
[131] ミトロファンおよび大公ヴァシーリー・イヴァノヴィチへの書簡、『チェテニヤ』1847年、第1号;ニフォンテ司教への書簡、『RIB』第6巻、825頁以降。
[132] 非所有主義者たちの回答――『ヴォロゴダの長老たちへの書簡』、DRV 14(1792年)、424–428頁。
[133] 『PSRL』第6巻、49頁;第8巻、244頁。
[134] この問題に関する文献はかなり広範であるが、ここでは最も重要な著作のみを挙げる:ミリュティン。「聖職者の不動産について」、『チェテニヤ』1859年4号;1860年3号;1861年1号、2号;ゴルチャコフ。 『ロシアの総主教、パトリアルヒおよび聖シノドの土地所有について』(1871);同著『修道院局』(1868);パヴロフ、前掲書;ジマキン、前掲書。概要については、ゴティエ著『ロシアにおける土地所有の歴史概説 (1915年)。北ロシアにおける修道院の経済運営を多角的に研究しようとした試みは、以下の著作に見られる:サヴィッチ・A. 『15~17世紀のソロヴェツキー領地――ロシア最北端における経済と社会関係の研究事例』。ペルミ、1927年。第VI章および第VIII章を参照。
[135] 1553年にモスクワを訪れたアダム・クリメントは、修道院について次のように記している。「Plurima ibi exstruuntur Basilianorum coenopia (coenobia); 彼らの農地の収益は莫大であり、全帝国の土地の3分の1を修道士たちが所有している」と記している(同書には多くのバシリアン派のキノヴィアがあり、彼らは多くの土地を所有しており、全帝国の土地の3分の1が修道士たちに属している)。『Rerum Moscoviticarum scriptores varii』所収。フランクフルト、1600年。152頁。
[136] 教会はその権利を、全地公会議および地方公会議のカノンや規則に基づいていたが、それらはむしろ土地所有に反対する内容であった。すなわち、使徒規則第38条、第7回全地公会議規則第12条(『聖使徒、聖公会議および聖父たちの規則と解説』 モスクワ、1876年。87頁、668頁)および特に861年の第2コンスタンティノープル地方公会議の第6規則(『九つの地方公会議の議事録』。カザン、1877年。 238頁)に規定されている。聖テオドロス・ストゥディテスは、同修道会の兄弟たちに対し、最も厳格な貧しさを求め、修道士が私有財産を所有する権利を否定した。ドブロクロンスキー、A. 『尊者テオドロス、殉教者にしてストゥディオス修道院のイグメン』。オデッサ、1915年。498頁。
[137] モスクワ都主教キプリアン(1381–1382、1390–1406)からは、イグメン・アファナシイ宛ての書簡(1395/1405年)(『アファナシイ集』 1. 第253号)が残されており、その中で彼は修道士の個人所有権の問題に触れ、この権利を聖父たちの見解に反するものとして否定している。しかし、共同生活を行う修道院の土地所有については、その所有地が修道院に必要な物資をすべて供給する平信徒の管理下にある場合、その正当性を認めている。 この見解は、聖セルギイ・ラドネジスキーと聖キリル・ベロゼルスキーも共有しており、彼らは原則として共同生活を行う修道院の土地所有権を認めていたが、個々の修道士による個人所有権は否定していた。 両聖人はそれぞれの修道院において最も厳格なキノヴィアを導入し維持しようと努めたものの、修道院に寄進された土地、とりわけ公爵たちからの寄進については、これを拒むことはできなかった。パヴロフ。前掲書。11、66頁;マカリイ。8(1874)。 p. 154;ニコルスキー。『キリロ=ベロゼルスキー修道院』1. 2(1910年)。p. 11。 キリロ=ベロゼルスキー修道院では、修道士たちが二つの派閥に分かれ、その間の対立は15世紀後半を通じて続き、修道院の所有地に対して断固として反対した「非所有主義者」の修道士グループの形成につながった。ニコルスキー。 キリロ=ベロゼルスク修道院における共同生活と独居生活、『キリスト教雑誌』1907年8月号、155–173頁。参照:『VMCh』9月号、550頁。おそらく、まさにこれらの論争が、ニラ・ソルスキーに独自のスキトを設立させるきっかけとなったのだろう。
[138] 『伝承』81、14、18頁;『補遺』10、505頁。
[139] 『補遺』第10巻、508頁。
[140] クリュチェフスキー. 『ロシアの歴史』第2巻、127頁。
[141] 15~16世紀におけるモスクワ国家の成長に関する一連の問題への導入として、以下の著作が参考となる:クリュチェフスキー。前掲書 2巻。第1、2、5章;シュトールリン・カール。『ロシアの歴史』1巻(1923年)。197頁以降; プレスニャコフ・エ. 『大ロシア国家の形成』(1918年);リュバフスキー. 『大ロシア民族の主要な国家領土の形成』(1929年);プラトノフ・S. 『ロシアの歴史』(1927年)。
[142] モスクワ大公は以下の地域を支配下に置いた:1463年――ヤロスラヴリ公国(平和条約により);1472年――イヴァン3世の弟ユーリー公の領地:ドミトロフ、モジャイスク、セルプホフ;1472年――ペルミを征服; この土地の一部は、すでにイヴァン1世・カリタの時代に併合されていた;1478年――ヴェリキー・ノヴゴロドを征服;1481年――イヴァンの弟アンドレイの領地が併合された: ヴォログダとタルーサ;1482~1493年 – チェルニゴフ地方およびノヴゴロド・セヴェルスキー地方の小公国:ヴィャズマ、チェルニゴフ、スタロドゥブ、ノヴゴロド・セヴェルスキー;1485年、トヴェリ公国を征服; 1485年には、強制された遺言に基づきヴェレイの領地が併合された;1489年にはヴィャトカが征服された;1492年には、兄アンドレイ・ボリショイの領地であるウグリチが併合された;1503年には、リャザン公フェオドル・リャザンスキーの遺言に基づき、リャザン公国の部分が併合された。 これらはすべて、イワン(1462–1505)の巧みな政治の成果であった。その息子である大公ヴァシーリー3世(1505–1533)の治世下でも、モスクワの台頭は続いた。1510年にはプスコフが、1513年には小さなヴォロコラム公国が服従した。 1514年――リトアニアからスモレンスク公国を奪還;1517年――リャザン大公国を併合;1523年――セヴェル公国を併合。参考文献については、前の注を参照のこと。
[143] クリュチェフスキー。2巻、116頁。
[144] ロシュコフ。『ロシア史』。第3巻、25頁;プレニャコフ。前掲書、458頁、429頁。
[145] プラトノフ。『ロシア史講義』。第9版(1915年)。p. 156。参照:この用語の意味に関するクリュチェフスキー(2. p. 126)およびディアコノフ(『モスクワ君主の権力』(1889年)。p. 54以降)の見解。
[146] 参照:ディアコノフ、前掲書;ロシュコフ、『ロシアにおける専制政治の起源』(1906年);Philipp W. Ivan Peresvetov(1935年)、第4章;ウラジミールスキー=ブダノフ、『概説』;セルゲイヴィチ、『ロシアの法学的古代史』。
[147] 参照:シュトールリン 1;クリュチェフスキー 2(1925);プラトノフ『ロシアの歴史』(1927);プレスニャコフ『教育』(1918);ウーバースベルガー H.『15世紀末以降のオーストリアとロシア』(1906); フォレストロイター K. 『中世のプロイセンとロシア。13~17世紀における両者の関係の発展』(1938);バルバショフ A. 『ヴィートヴィト。統治の最後の20年』(1891)。
[148] シュテリン. 1. 216頁以降。その他:グレコフ B. およびヤクボフスキー A. 『黄金のオルダ。13~14世紀の形成期および全盛期におけるジュチ・ウルスの歴史概説』(1937年); シュプラー B. 『黄金オルダの対外政策』、『東欧史年報』第5号(1940年);同著『黄金オルダ』(1941年)(豊富な参考文献付き);筆者の論文「15世紀および16世紀のロシアの東方政策の歴史について」、『東欧史年報』第6号 (1941年)。55–84頁。タタール・ハンたちのロシア正教会に対する態度については:プリセルコフ M. 『ロシア都主教に対するハンの勅書』(1916年)。
[149] 参照:プリセルコフ M. 『10~12世紀のキエフ・ルーシの教会・政治史概説』(1913年); プレニャコフ『教育』;ソコロフ・D.『ロシア都主教区の分裂史』(1900);ソコロフ・P.『ビザンツ出身のロシア主教と15世紀初頭までのその任命権』(1913);マカリイ5–6(関連する章)。
[150] ソコロフスキー『参加』(1902年);プレニャコフ『教育』;マカリイ第6巻;ディアコノフ『モスクワ大公の権力』(1889年)。 国家権力の支持を目的とした大主教たちの政策は、大主教座の下で編纂された年代記集成にも表れている。参照:プリセルコフ, M. 『11~15世紀のロシア年代記史』(1940年)、特に149~155頁、162頁; シャフマトフ・A. 『14~15世紀の全ロシア年代記集成』、掲載:『ロシア歴史学会誌』1900年、9~10、11号;プレスニャコフ・A. 『14~16世紀の年代記事業』、掲載:『19世紀までのロシア文学史』(A. グルジンスキー編)第1巻(1916年)。
[151] Ziegler, A. 『Die Union』(1938年)。本書にはこの問題に関する参考文献が掲載されている。参照:Philipp, W. の書評、『Jahrbuch für Geschichte Osteuropas』第5巻(1940年)、213頁以降。また、Shpakov, A. 『国家と教会』(1904年)。この著作はツィーグラーの著書には掲載されていない。
[152] フィリップ。前掲書、213頁。
[153] まさにその理由から、年代記にコンスタンティノープル(ツァーグラード)の陥落に関するこれほど詳細な記述が含まれていることは驚くに値しない。「ツァーグラード陥落の物語」は『PSRL』第12巻、83–97頁に収録されている;ドイツ語版は「Bericht über die Eroberung Konstantinopels」。 (ニコノフ版年代記に基づく)翻訳および注釈:M. ブラウン、A. M. シュナイダー。ゲッティンゲン、1940年。 この『物語』、あるいは『ツァーグラードの伝説』は、古ロシアのジャーナリズムにおける重要な資料であるため、数多くの批評文献を生み出した:ヤコヴレフ・V. 『ツァーグラードの伝説』(1868年);スレズネフスキー・I.、『ロシア科学アカデミー第II部学術紀要』(1854年); オルロフ・A.、『イオリアス』12(1908);レオニード大修道院長『15世紀のネストル=イスカンダーによるツァーグラード物語』、『PDP』62(1886)。参照:ペトゥホフ、p. 101。
[154] ジマキン『大主教ダニイル』364頁、362–367頁;参照:『AI』1巻、第282号、513頁;『Prav. sob.』1860年、第2巻、337頁;マクシム・グレック『著作集』1巻 p. 132;ジノヴィイ・オテンスキー。『真理の証言』。p. 48–49;長老アルテミイ。『書簡集』。RIB. 4. 1221。終末論的気風全般については、以下を参照:Bonwetsch N. 『Methodius v. Olympus』. 1 (1891); サハロフ・イ. 『古ロシア文学における終末論的著作と伝承』(1879);マリニン。長老フィロフェイ。p. 426, 429, 430;RIB. 6. p. 800, 806, 810。
[155] クリュチェフスキー。2。p. 115, 123。 「イヴァン3世が大公の座に就いた当時、――クリュチェフスキーは述べている(同上、p. 115)――モスクワの領土は1万5千平方マイルをわずかに超える程度であった。イヴァン3世とその息子の領土拡大により、この領土は少なくとも4万平方マイル増加した」。
[156] 『PSRL』第12巻、97頁;『物語』、33頁。
[157] ビザンツ宮廷儀礼の神聖な性格に関連する一連の観念や教義については、以下を参照のこと:Treitinger O. 『Die oströmische Kaiser-und Reichsidee』(1938年); 資料が豊富な著作:Döler F. 『Rom in der Gedankenwelt』;さらに:サヴァ・V. 『モスクワのツァーリとビザンツのバシレウス』(1902年)。 ビザンツの皇帝観における神聖な要素が、ビザンツ人の意識において非常に古い伝統を持つことについては、Baynes N. H. 「エウセビオスとキリスト教帝国」、『Annuaire de l’Inst. de Philos. et Hist. d’Orient』第2号(1934年)、13頁以降を参照。
[158] クリュチェフスキー。2巻、126頁。
[159] ディャコノフ『モスクワ君主の権力』;ヴァルデンベルク『古ロシアの教義』(1916年)。「サモデルジェツ」という称号の歴史については、オストロゴルスキー・G.『オートクラトルとサモデルジェツ。ビザンツおよび南スラブにおけるサモデルジェツの称号の歴史』を参照。 付録:「ロシアにおけるサモデルジェツの称号」、掲載:『グラス・スルプスケ・K・アカデミエ』第2巻第84号(1935年)、95–181頁(セルビア語);参照:私の書評、『Kyrios』第2号(1937年)、79–80頁。 その他:ヴェルナツキー、『Byz. – Neugriech. Jb.』7;ロシア語版は『N. V. コンダコフ記念論文集』(1926年)所収。
[160] 王の称号の意義と意味に関する興味深い見解は、16世紀のロシアの論客イヴァン・ペレスヴェトフに見られる;参照:Philipp. 前掲書。
[161] 国家権力の協力を得て異端と戦うという問題において、キリスト教のツァーリが教会に対して負う義務に関するヨシフ派の考え方を特徴づけるものとして、以下の書簡を参照のこと:ノヴゴロド大司教ゲナディによるスーズダリ司教ニフォンへの書簡、掲載:フルショフ。 同著、付録XXIII;同著、ロストフ大司教イオアサフ宛、掲載:『読本』1847年、8号;同著、ゾシマ都主教宛、掲載:『ロシア正教会史料集』6、775頁(『ロシア古代史料集』1、第380号にも収録);同著、 1490年の公会議について、『RIB』第6巻、779頁、764頁;このテーマに関する詳細な解説は、ヨシフ・ヴォロツキーの『啓蒙者』第13章に収録されている;同著。大公への書簡、『DRV』第16巻、424頁。 司祭ゲオルギー・スクリピツァによる、主教間の紛争を解決する王の義務に関する見解は興味深い。この見解は、彼によってすでに1503年に表明されていた(『読本』1848年、第6巻、第4部)。もちろん、世俗権力にそのような権利があることを最初に提唱したのは、ヨシフ派の人々だけではなかった。 すでに13世紀の著作『キリスト教徒の生き方』において、この考えが表明されていた(『法典集』1859年。 p. 128 以降;14世紀に属する著作として、「聖母マリア修道院の修道士アキンディンによる大公への書簡」がある(『ロシア文学史』第6巻、p. 155 以降);そこでは、教会階層による異端との闘いに対する大公の監督についてのみ言及されている。 参照:ヴァルデンベルク。前掲書、137頁およびゴルービンスキー。2. 1. 106頁。ベネシェヴィチ(『古スラブ語の航海指針』、739頁)は、アキンディンの見解をユスティニアヌスの第6ノヴェッラと比較している。 A. パヴロフの古い著作『トヴェリの大公ミハイル・ヤロスラヴィチへの二通の書簡』(『法学叢書』1867年、第2巻、236–253頁)は、今日においても興味深いものである。
[162] 『ヨシフ・啓蒙者』(1896年)。第16章、547頁。 ヨシフの世界観について包括的な見解を示しているのは、以下の新著である:ホルツヴァルト、イレーネ『ヴォロコラムスクのヨシフ、啓蒙者』(ベルリン哲学博士論文、1944年、タイプ原稿);モスクワ大公を指す際にヨシフが用いた様々な称号については、同書250頁以降を参照。
[163] フェオドシイはヨシフ・ヴォロコラムスク修道院の修道士であった。1531年、彼はノヴゴロドのフティン修道院の院長を務め、後にモスクワ都主教となるマカリイ大司教と親密な関係にあった。マカリイ自身も熱心なヨシフ派の信奉者であった。 マカリイがモスクワ都主教に就任すると、フェオドシイはマカリイの推薦により、ノヴゴロド教区を任された(1542年)。
[164] 1545~46年の書簡は、大公によるカザン・タタール人への遠征に際して書かれたものである。フェオドシイは大公をコンスタンティヌス帝に例え、「キリストの敵」である「不信心なタタール人」に対するこの遠征の宗教的意義を強調している(出典:DAI. 1. 第37号;1年後(1547年)、フェオドシイは再び若きツァールに書簡を送り、今回はノヴゴロドで犯されている様々な犯罪について言及している: 「これらについて、神に認められた君主よ、私はあなたに書き送る。それは、あなたの鋭い知性と高貴な英知を戒めたり懲らしめたりするためではなく――我々が自らの分を知らず、そのようなことに手を出すのはふさわしくないからである――むしろ、弟子が師に、しもべが君主にそうするように、あなたに思い出させ、今、絶えず祈り求めているのである: なぜなら、君主よ、天の権威に倣い、天の王はあなたに地上の王国の力の笏を与え、人々が真理を守るよう教えるためである…… 「敬虔なる王よ、あなたは敬虔さのためにあらゆる努力を尽くし、あなたの治める民を、精神的および肉体的な動揺から救うべきである」、『DAI』第1巻第41号。 55頁。以前、フティン修道院の院長であったフェオドシイは、大公ヴァシーリー3世の死去直後、ボヤリンのイヴァン・シゴネに次のように書き送っている(1534年)「……深く暗い夜が私たちを襲い、堅固で強靭な支柱であり、牧者であり、教師であり、義なる王……そして、その群れすべてを霊的な救いへと導き、養う方を失ってしまった」(AI. 1. № 294. p. 537)。
[165] ゴルービンスキー。2. 1. p. 744。
[166] マカリイ。第2版。6。p. 211。マカリイ都主教については、レベデフ・N.『マカリイ、モスクワ都主教』(1880年);ザウツィンスキー・K.「マカリイ、全ロシア都主教」、『ЖМНП』1881年、第10–11号; アンドレーエフ・N. 「宗教芸術の活動家としてのマカリイ大主教」、『Seminarium Kondakovianum』第7号(1935年);『マカリイ』第6–7巻;ゴルービンスキー。第2巻第1部。744–875頁;その他:クリューチェフスキー。『古ロシアの聖人伝』(1871年)。 p. 221–297;カドルブスキー・A. 前掲書、p. 219–284;ゴルービンスキー。『列聖の歴史』(1903);ヴァシリエフ。『列聖の歴史』(1893)。
[167] ジマキン『16世紀前半のロシアにおける思想の闘争』、掲載:『ジマキン・メモワール』1882年、第4号、160頁;ディャコノフ、前掲書、108頁;パヴロフ『ロシアにおける教会領の世俗化に関する歴史的概説』(1871年)。 p. 109。マカリイは、イオシフォフ修道院と密接な関係にあったパフヌティエフ修道院で禁欲的な修行を始め、その後、ルジェツキー修道院(モジャイスク近郊)の院長となり、1526年から1542年にかけてノヴゴロド大司教を務めた。ゴルービンスキー。 2. 1. 745頁;マカリイ。6. 210頁;ザウツィンスキー。213頁。
[168] DAI. 1. 第25号。マカリイからイヴァン4世への書簡:第1通は1547年の彼の結婚に関するもの(AI. 1. 第40号)、第2通はカザン・タタール人との戦争(1552年)に関するもの(AI. 1. 第160号)。正教会のツァーリの宗教的義務は、「ツァーリ即位式典の儀礼」(DAI. 1. № 39; PSRL. 13. 1. p. 151)にも規定されており、これは1547年1月16日のイワンの戴冠式のためにマカリイ自身が作成したものである。 参照:ヴァルデンベルク。前掲書、277頁。この儀式の神聖な側面については、バルソフ・E.『古ロシアの王位戴冠の聖なる儀式に関する資料』(1883年);ロパレフ『戴冠式について』(1887年); ポポフ『聖なる戴冠式の儀式』(1896年);プロゾロフスキー『ツァーリの称号の意義について』(1875年);サヴァ『前掲書』;マルツェフ『Die heilige Krönung』(1896年);カッテンブッシュ第1巻、374–393頁。 また、以下の興味深い研究も参照のこと:EnЯlin W. 『Gottkaiser und Kaiser von Gottes Gnaden』、Sitzber. Bayer Ak. d. Wiss., Phil. – hist. Abt. (1943) に収録、および:Treitinger. 前掲書。
[169] ビザンツの教会的意義については、Holl, Karl. 『中世におけるコンスタンティノープルの教会的意義』、『全集』第2巻(1928年)、416頁(以前には『Z. fur Theologie und Kirche』第11巻(1901年)、83–96頁にも掲載)を参照。
[170] 参照:Kljutschewskij. 2. p. 129。モスクワの国家・法的観念における伝統(古きもの)の意義については、Philipp W. Ivan Peresvetov (1935) の著作を参照のこと。 42–60頁;この研究は、ペレスヴェトフの独特な人柄を多角的に描き出しており、16世紀のモスクワ社会の見解や、当時の教会および政治思想の論理を理解する上でも重要である。
[171] クリュチェフスキー。2. 127頁。
[172] 「モノマフ」の異名を持つ大公ウラジーミル(II)・ヴェセヴォロドヴィチは、1113年から1125年まで統治した。コンスタンティノス9世モノマフ皇帝は、1042年から1054年まで統治した。
[173] ここで言及されているのは、1157年から1328年にかけて(数回の中断を挟みつつ)ロシア大公たちの都であったクラーズマ川沿いのウラジーミルであり、そのため、この伝説的な年代記の物語は『ウラジーミル公たちの物語』と呼ばれている。 16世紀前半(1533年以前)に、この物語は改作され、「モノマフの冠の物語」という名称でも知られるようになった。参照:ペトゥホフ、103頁、101頁および以下。
[174] このテーマに関する文献全般については、ヴァルデンベルク、前掲書;ディャコノフ、 同著;ソコルスキー。同著;ジダノフ・イ.「バビロンの物語」および「ウラジーミル公たちの伝説」、掲載:『ジMNP』1891年9号。シェーダー・H. 『モスクワ、第三のローマ』(1929年)。
[175] 15世紀末の教会・政治的風土を特徴づけるのは、ディミトリ大公の荘厳な戴冠式(1498年)である。彼はイヴァン3世の孫であり、早世した息子イヴァン(†1490年)の息子である。 ディミトリは、イヴァン3世(†1505)の存命中に、大公位ではなく、ツァーリの位に戴冠した(!)(『SGGD』第2巻、第25号);この戴冠式の際のイヴァン3世の演説も参照のこと(Kljutschewskij. 第2巻、 S. 133)。2度(1517年と1526年)モスクワを訪れたヘルベルシュタインは、その著名な著作『Rerum Moscoviticarum Conmentarii』の中で、「大公たちが王位に就く方法」と題された特別な章において、この荘厳な儀式について詳細に記述している。 私が入手しているのは、新しいドイツ語版『Moskovia von Herrn Sigmund Freiherrn zu Herberstein, Neyperg und Guettenhag』のみである。V. F. シュタイネンによるドイツ語訳。 H. カンダース編。エアランゲン、1926年。59–64頁。初版は1549年にウィーンで、第2版(改訂版)は1556年にバーゼルで刊行された。 ヘルベルシュタイン自身による最初のドイツ語訳は、1557年にウィーンで出版された。ヘルベルシュタインの著作は、E. ザミスロフスキーの『ヘルベルシュタインと彼のロシアに関する歴史・地理的記録』(サンクトペテルブルク、1884年)で明らかにされているように、非常に貴重かつ信頼できる資料である。
[176] このメシアニックな教義に関する最も重要な著作を以下に挙げる:マリーニン『エレアザロフ修道院の修道長フィロフェイ』(1901年);ディアコノフ、前掲書(1889年); ヴァルデンベルク。前掲書(1916年);キリロフ(1914年);ルキヤノフ(1913年);パヴロフ。『教会法講座』(1892年、第2版1905年);ソコルスキー。前掲書(1902年); パヴロフ。『エレアザロフ長老によるヴァシリー・イヴァノヴィチ大公への書簡』、掲載:『法学叢書』1863年、第1巻、337–348頁;シュパコフ。前掲書 1(1904);ゼルノフ。『モスクワ――第三のローマ』(1936)。 ドイツ語では、このテーマに関する以下の著作がある:Schaeder H. 『モスクワ、第三のローマ』(1929年);書評として参照:Woltner M. 『Z. f. Sl. Philologie』(1931年)およびOstrogorskij G. 『Hist. Z.』146(1932年)、368–371頁。
[177] ここで留意すべきは、プスコフが「正教」のモスクワ公国と、「異端」の西方との境界に位置しており、西方に対してロシア人は宗教的な不信感、あるいは嫌悪感さえ抱いていたということである。 プスコフでは、以前から様々な宗教的潮流が現れていた。断食の時期や「アリルヤ」をめぐる論争があり、その後、1770年代には「ストリゴルニキ」運動が勃興した。 参照:セレブリアンスキー N. 『プスコフ地方の修道院生活史に関する論考』、掲載:『チェテニヤ』1908年;また、マカリイおよびゴルービンスキーによる関連巻;クリュチェフスキー『プスコフの論争』、掲載:『プラヴ・ソブ』1872年、12号;同著『Geschichte RuЯlands』2巻; ゲーリング・ヨハン『ロシア教会の宗派』(1898年);アルハンゲリスクイ『ニール・ソースキー』(1882年)。256頁以降。セレブリアンスキーによる綿密な研究は、プスコフ地方において修道院生活が熱心な宗教的活動に満ちていたことを立証している。
[178] シャフマトフ・A・A. 『M・G・ミシュリャ・ムネヒンの東方旅行記および1512年版『クロノグラフ』』、掲載:『イオリアス』1899年1号、215頁。
[179] 同上。214頁。
[180] この見解は、フィレンツェ合同に関連するすべての著作に表れている。 参照:Ziegler. 同上およびシュパコフ. 同上。「ギリシャ人」に対する厳しい批判は、イヴァン3世がノヴゴロド大司教イオネに宛てた書簡(1465~1470年頃)にも見られる(RIB. 6. p. 710)。
[181] 参照:注149。ヒリアズム、すなわち「千年の王国」と「最後の審判」への期待は、ロシア人の宗教的意識に共鳴し、広く普及した。これはキリスト教とともにビザンツからルーシにもたらされたが、 この点において、メフォディオス・オリンピオス(† 311年頃)の著作が大きな役割を果たした。彼は古代ルーシでは通常「パタルス」と呼ばれており、その著作は『啓示』という題名で、早くも11世紀にはスラブ語訳として登場していた(1096年の年代記)。 この『私たちの聖なる父、パタラの大司教メフォディオスによる終末論』の翻訳は、N. S. ティホーンラヴォフによって『排斥されたロシア文学の記念碑』第2巻、268–281頁に刊行されている。 V. イストリンの真剣な研究『ビザンツおよび古ロシア文学におけるパタラのメフォディオスの啓示とダニエルの外典的幻視』(1897年)を参照;また、Bonwetsch(注149)も参照。 ここでは、BdKV第40巻(第2版)370頁に掲載された彼の『シンポジウム』の第9演説のみに言及する:「……第七千年紀にこの世界が滅び、宇宙の終焉の後、神が喜びのうちに私たちと共に住まわれるとき」。また、Alzberger. 『前ニケヤ時代におけるキリスト教終末論の歴史』(1896年)。497頁、およびキルシュ、ヨハン・P. 『古代ギリシャ・ローマ文化世界における教会』(1930年)。234頁、319頁。また、『ディダケー』(『十二使徒の教訓』)も参照。 第16章:「…終わりの日には、偽預言者や破壊者が増え、羊は狼に変わり、愛は憎しみに変わるであろう」(BdKV. 35. 第2版 p. 16);ヨハネの『黙示録』(第20章); バルナバの手紙(第15章):「さあ、わが子らよ、六日後、すなわち六千年後には、すべてが終わりを迎える。そして七日目に、主(神)は安息される」(BdKV. 24. 第2版 S. 129)。 その多くが終末論的・千年王国論的な色合いを帯びている多くの外典的著作は、信者たちに豊かな思索の糧を与えた。 すでに12世紀、ルーシのスモレンスクで修道士アブラアムによって、その内容において終末論的な著作が執筆された(上記第II章2節参照)。おそらくこれは、世界の終わりを7000年と結びつけた最初の国内の著作であった(参照:Philipp W. Ansdze. 1940年、46頁)。 1492年までしか記載されていない古ロシアのパスカリアは、次のような予言的な言葉で締めくくられていた。「ここに恐怖あり、ここに悲しみあり、まるでキリストの磔刑の如く、この循環は終わり、この夏、ついに現れよう。我らはその中にあって、汝の全世界への再臨を待ち望む」 (ジマキン『ミトロポリト・ダニイル』364頁、362–367頁)。1492年以降の復活暦の続きを編纂したのは、ノヴゴロド大司教ゲナディイであった。彼は1489年にイオアサフに書簡を送り、 ロストフ大司教に書簡を送り、当時、おそらく教会界で大きな神学的権威を誇っていた長老パイシイ・ヤロスラヴォフとニル・ソルスキー(両者ともイオアサフの教区に住んでいた)に、世の終わりについての見解を尋ね、その見解を彼、ゲナディイに伝えるよう依頼した (アルハンゲリスク。前掲書、16、30頁;マリニン。前掲書、429頁)。1492年、モスクワ都主教はゲナディイに対し、迫り来る千年紀に向けた復活暦を作成するよう命じた(マカリイ。第2版、6巻、 p. 103);この著作(同上。付録III、p. 376–383)において、ゲナディイは旧約聖書と新約聖書を引用し、世界の終わりが近づいているという説を反駁するとともに、期待されていた世界の終わりが訪れなかったことを理由に正教徒を嘲笑していたノヴゴロドのユダヤ教化派と論争を繰り広げた。 このテーマについては、ヨシフ・ヴォロツキーも――主にユダヤ教化派の異端的な見解を反駁するために――自身の著書『啓蒙者』の第8章および第9章で論じている(参照:Holzwart, p. 119 以下)。
[182] 彼の著作のうち、私たちにとって特に重要なものは以下の通りである。1. 1510年から1520年の間に執筆され、プスコフの聖職者M. G. ミシュリャ・ムネヒン宛てに書かれた『占星術師およびラテン人への書簡』(マリーニン編『著作集』159頁;同書『付録』 45頁、および『Prav. sob.』1861年版 2巻 95頁);2. 「大公ヴァシーリー・イヴァノヴィチへの書簡」(1533年以前)、(マリーニン『所著集』付録 49–55頁;『Prav. sob.』1863年版 1巻 337–348頁);3. 「ツァーリ・イヴァン(IV)・ヴァシリエヴィチへの書簡」(マリーニン『所著集』付録、62頁以降およびDAI 1、第23号)。注171の文献およびSchaederを参照。 前掲書、55頁以降。「Roma mobilis」(移動するローマ)に関する学説は、西洋においても解釈者を見出した。参照:Limnacus Johannes. Juris publici Imperii Romano-Germanici. Argentorati, 1629. 第1巻第1章第4節第16項。
[183] マリーニン。前掲書。付録。45頁。
[184] 同上。49、55頁。
[185] フィロフェイは、これらの思想の全体像を、若きツァーリ・イヴァン4世への書簡において改めて詳述した。この書簡は、彼の他の2通の書簡ほど簡潔で内容豊かではなく、より長文となっている(マリニン。前掲書。付録。62頁)。 フィロフェイの思想が反映されている箇所として、イヴァンがクルブスキー公A. M.に宛てた最初の書簡を参照されたい。「神の御言葉の御計画は至る所で成就し、神の御言葉に仕える者たちは、まるで鷲が飛び回るかのように全宇宙を巡り、その敬虔の火花はロシア王国にまで届いたのである。 この真の正教に基づくロシア王国の専制政治は、神の御心により、聖なる洗礼をもってルーシの地を照らした大公ウラジーミル、 彼はギリシャ人から最も高貴な栄誉を受けた者であり、また、不信心なドイツ人に対して大いなる勝利を収めた勇敢な大君主アレクサンドル・ネフスキー、そしてドン川を越えて不信心なアガリア人(すなわちタタール人。 – I. S.)に対してドンの川を越えて大いなる勝利を収めた者、さらには不正への復讐者であり、我らの祖父である大君主イオアン、そして古来より続く祖先の地を取り戻した者、 至福の記憶に留まる我らの父、偉大なる君主ヴァシリー、さらには我々、謙虚なるロシア王国の王笏を執る者たちに至るまで」(『書簡集』p. 26)。前述の『ウラジーミル公たちの物語』は、もちろん、若きツァーリにも知られていた。 イワンが専制君主の義務について抱いていた見解も参照のこと(同上、40頁)。
[186] フィロフェイの「モスクワ――第三のローマ」に関する教義は、教会からも国家からも公式にex cathedraとして宣言されたものではなかったが、その反映は公式文書、すなわち1589年の総主教座設立の理由を説明した文書(『ウロジェンナヤ・グラモタ』)に見出すことができる(『ロシア国家文書集』第2巻、97頁)。 総主教座の設立直後、17世紀初頭、モスクワで『ロシアの聖人に関する語られる書』と題する聖人伝が執筆された。 あとがきの中で、著者は、真の信仰はビザンツで衰退したが、モスクワ公国とロシア正教会は、その正統な信仰と数多くの聖人のおかげで、正教世界において第一の地位を占めたと述べている。 このあとがきは、I. マンスヴェトフによって『ウヴァロフ伯爵賞第21回授与に関する報告』で初めて印刷され、全文は『チェテニヤ』1887年4号に掲載された。
[187] 私の論文『ロシア教会の歴史の時代区分に関する問題』を参照:『Kyrios』第5号(1940–1941年)、66–81頁。
[188] 上記第II章を参照。
[189] 私の著書『Leben und Lehre der Starzen』(1936年)にある個別の事例を参照のこと。
[190] ロシアの聖人伝については、以下を参照のこと:クリチェフスキー『古ロシアの聖人伝』(1871年);セルギイ修道院長『東方聖人暦全集』全2巻(1875年);カドルブフスキー『 『エッセイ』(1902年);ヤホントフ『ポモール地方の聖人伝としての歴史的資料』(1881年);コノプレフ『ヴォロゴダ地方の聖人たち』(1895年)、また『チェテニヤ』1895年4号にも収録;セレブリアンスキー『古代公爵の聖人伝』、『チェテニヤ』1915年3号; また、非常に有益な研究として以下を参照のこと:ボグスラフスキー S. 『北ロシアの聖人伝における文学的伝統』、『イオリアス』101号(1928年)。ロシア正教会における列聖に関する文献:ヴァシリエフ『ロシアの聖人の列聖』(1893年)、『論文集』1893年号にも収録; ゴルビンスキー『ロシア教会における聖人列聖の歴史』(1903年)、『チェテニヤ』1903年号にも収録;Peeters P. 「ロシア教会における列聖」、『Analecta Bollandiana』33(1914年)。ネクラソフ。 「大ロシア北部における国民文学の萌芽」(1870年)(古くなった);ヴェリュジスキー。『ヴォロゴダ地方の聖人たちの生涯に関する歴史的伝承』(1880年);フェドトフ・G. 『古代ルーシの聖人たち』。パリ、1929年。
[191] 11~15世紀の聖人についてはすでに述べた(第II章および第III章)。16世紀までに、以下のロシアの聖人たちが、地域的あるいは全ロシア的に崇敬されるようになった:1. 殉教者聖ボリスおよびグレブ公(† 1015);2. 聖ウラジーミル公(† 1015); 3. 聖公妃オルガ(† 969);4. 聖レオントイ、ロストフ司教(† 1072);5. 聖ミハイル・チェルニゴフ公とその家臣フェオドール(† 1245);6. 聖イグナティウス、ロストフの司教(† 1288); 7. 聖ペトロ、モスクワの大主教(† 1325); 8. 聖アレクシオス、モスクワの大主教(† 1378); 9. 聖セルギイ・ラドネジ(† 1392); 10. 聖イザヤ、ロストフの司教(† 1190);11. 聖バルラアム・フティンスキー(† 1192);12. 聖テオドール・スモレンスキーおよびヤロスラヴリの公(† 1299)とその息子たち、ダヴィドおよびコンスタンティン; 13. 聖アントニー・ペチェルスキー(† 1073); 14. 聖テオドシウス・ペチェルスキー(† 1074); 15. 聖キリル・ベロゼルスキー(† 1427); 16. 聖ディミトリ・プリルツキー(† 1391); 17. 聖アヴラアミイ・ロストフスキー(† 11世紀); 18. 聖ニキータ・ペレヤスラフスキー(† 1186)。参照:セルギイ。前掲書 1. 付録 15。
[192] ザウツィンスキー。前掲書、229頁;マカリイ(ブルガコフ)。『ノヴゴロドのマカリイ派チェティイ・ミネイに関する覚書』、ティホーンラヴォフ編『ロシア文学・古代史年鑑』1(1959年)、第5部、68頁以降; クリチェフスキー。『聖人伝』。228–231頁;マカリイ。第2版。7巻。407頁以降。
[193] クリチェフスキー。前掲書。228頁。
[194] 全集の内容については、マカリイ。第2版。第7巻。409頁以降を参照。『ヴェリキー・ミーネイ・チェティイ』の完全な目次は、『チェテニヤ』。1877年。第4号。第4部。
[195] スペランスキー。『古ロシア文学史』(1911年)。161頁;クリュチェフスキー。前掲書。222頁。
[196] 同上。222–296頁。
[197] 1537年までに、ミハイル・クロプスキーの伝記にはすでに2つの版が存在していた(同上、209頁);これらは『古ロシア文学の記念碑』第1巻に収録されている;トゥチコフ版は同上、第4巻に収録されている。
[198] フェオドシイ大司教の依頼により『ミネイ』のために執筆された伝記は、『ミネイ』の8月30日の項に掲載されている。マカリイ。第2版。7巻。418頁。
[199] 『VCHM』9月9日。455–498頁;マカリイ。第2版。7巻。418–419頁;クリチェフスキー。同上。292、293頁。
[200] クリチェフスキー。前掲書。293頁;リジガ。「16世紀ロシアジャーナリズム史に関する試論――ジャーナリストとしてのマクシム・グレック」、TODRL 1(1934)。8頁。この伝記は以前、ネヴォストルエフによって刊行されていた:CHOLDP 1865。
[201] ネヴォストルエフ。前掲書。
[202] ザウツィンスキー。前掲書、『ЖМНП』118号(1881年)。30頁。
[203] ゲロンティイ。『イオシフォ・ヴォロコラム修道院の記述』(1894年)。47頁;クリチェフスキー。前掲書。296、312頁;マカリイ。第2版。8。47、61頁。
[204] クリチェフスキー。前掲書。295頁。この修道士カッシアンは、ツァーリ・イヴァン4世の洗礼の代父であり、これもまた、イオシフォフ修道院と大公家との親密な関係を物語っている。カドルブフスキー。 同上、掲載:『ロシア文学』第45巻(1901年)。35頁以降;クリチェフスキー。同上。289頁、294–295頁。カッシアン・ボソイの『聖人伝』もまた、この『物語』に含まれている。 「パテリキ(PaterikЈ)」として知られる古代キリスト教の禁欲主義的文集の影響については(参照:クルンバッハー、1897年、188頁)、カドゥルボフスキー、前掲書、51–70頁を参照のこと。
[205] カドゥルボフスキー。前掲書、掲載:『ロシア文学』第45巻(1901年)。35頁以降;クリチェフスキー。前掲書。289頁、294–295頁。カッシアン・ボソイの伝記も、この『物語』に含まれている。 「パテリキ(PaterikЈ)」という名称で知られる古代キリスト教の禁欲主義的文集の影響については(参照:クルンバッハー、1897年、188頁)、カドゥルボフスキー、前掲書、51–70頁を参照のこと。
[206] クリチェフスキー。前掲書、272–273頁;IRI. 6、849–853頁、853–855頁。
[207] スパソ=カメンヌイ修道院に関する伝承、『正教叢書』1861年、第1巻、197–214頁;クリュチェフスキー、前掲書、275頁。ヨシフの当地における崇敬については、ゴルービンスキー『列聖の歴史』149頁を参照。 非所有主義者たちの見解は、聖ダニイル・ペレヤスラフスキー(†1540)の伝記にも反映されている。この伝記は、ツァーリの要望により、1547年および1549年の公会議の後、1553年頃に、匿名の著者によって執筆された。この伝記は、古ロシアの聖人伝文学における至宝の一つである。 参照:クリュチェフスキー。前掲書、282頁;マカリイ。第2版、7巻、433頁。
[208] セレブリアンスキー『古ロシアの公爵の伝記』43頁;ウラジーミルの伝記の最も古い簡略版は、12世紀末または13世紀初頭に編纂された(同書44頁); 修道士ヤコフによって書かれた『ヴラジーミル公の記憶と称賛』は、11世紀半ばより前に現れたものではなく、聖ヴラジーミルに関する教会文書の最初の試みである(同上、40頁)。参照:マカリイ。第2版、第7巻、436頁。
[209] マカリイ。第2版。7巻。421頁;クリチェフスキー。前掲書。238頁;参照:ボグスラフスキー。 「アレクサンドル・ネフスキー大公の伝記の原典に関する一考察」、『イオリアス』1914年、第1号、261頁。この伝記はマンシッカによって刊行され、『PDP』180(1913年)に掲載されている。
[210] マカリイ。第2版。7巻。422頁;クリチェフスキー。前掲書。238、240頁;カドルブフスキー。前掲書。64頁。
[211] マカリイ。第2版。第7巻。421頁;クリチェフスキー。前掲書。247頁;ニコンの『聖人伝』の最初の、古くからの版は、それよりさらに以前に、15世紀の著名な聖人伝作家パホミイ・ロゴフェトによって編纂されていた。同上。248、152、119頁。
[212] マカリイ。第2版。7。421頁;クリチェフスキー。前掲書。272頁;コノプレフ。前掲書。68頁;カドルブスキー。前掲書。47頁。
[213] イオシフ・ヴォロツキーはマカリイ・カリアジンスキーを個人的に知っており、彼の修道生活について深い敬意を込めて記している;イオシフの「霊的書簡」を参照:『VMCh』9月号、第1部、558頁。
[214] クリチェフスキー。前掲書、289頁;マカリイ。第2版、第7巻、21–22頁、423–424頁。
[215] クリチェフスキー。前掲書。222–225頁、228頁;セルギイ。前掲書。第1巻。194–196頁
[216] AAE. 第1巻、第213号;ゴルービンスキー。『列聖の歴史』。94頁;ハーマン。『De fontibus』。50頁。
[217] 最も古いものとしては、ノヴゴロドの大司教ヨハネ(†1186)およびソロヴェツキー修道院の創設者であるサヴァティイ(†1435)とゾシマ(†1478)の伝記が朗読された。マカリイ。第2版。7巻。420頁; クリュチェフスキー。前掲書。198、269頁。
[218] 全ロシアで列聖されたのは、2人の聖主教、9人の尊者、そして1人の大公である:1. ノヴゴロドの大司教ヨハネ(† 1186);2. モスクワの総主教イオナ(† 1461); 3. トロイツェ=セルギエフ修道院のイグメン、ニコン(† 1426); 4. パヴェル・オブノルスキー(† 1429); 5. サヴァティイ・ソロヴェツキー(† 1435); 6. ディオニシイ・グルシツキー(† 1437); 7. ミハイル・クロプスキー(† 1452年);8. パフヌティイ・ボロフスキー(† 1478年);9. ゾシマ・ソロヴェツキー(† 1478年);10. マカリイ・カリアジンスキー(† 1483年); 11. ネフスキーと称された大公アレクサンドル・ヤロスラヴィチ(† 1263)、および 12. アレクサンドル・スヴィルスキー(† 1533)。ゴルービンスキー『列聖の歴史』100頁;『マカリー』第2版、7巻 219頁。地方で崇敬されていた聖人として、1人の聖主教、5人の公爵、3人のキリストのために狂人となった者(salo…)(彼らは修道誓願を立てていなかった)が列聖された:1. アルセニー、トヴェリ主教(† 1409);2、3、4. コンスタンティン、ムロム公(† 1129)、およびその息子ミハイルとフェオドール;5および6. ペトル、ムロム公、およびその妻フェヴロニア;7. プロコピイ・ウスチュジ(† 1285)、おそらくドイツ系; 8. イオアン・ウスチュジ(† 1494);9. マクシム・モスクワ(† 1433)――最後の3人はキリストのために聖なる狂人となった。ゴルービンスキー。同上。100頁;マカリイ。第2版。7。 219頁。キリストのために聖なる狂人たちの伝記は、おそらく彼らの列聖後に初めて登場した。クリュチェフスキー。同上。277、278、246頁。ロシアの聖なる狂人については、フェドトフ『古代ルーシの聖人たち』(1931年)205–219頁を参照。
[219] マカリイ。第2版。7。219頁。
[220] これは、1547年の公会議後に編纂された聖アレクサンドル・ネフスキーの伝記における挿入部分によって証明されている。マカリイ。第2版。7。 227頁、注記、ならびにミトロポリト・イオナの伝記(クリチェフスキーによれば、いわゆる「第3版」。同著、241頁)における詳細な序文。この挿入部分はクリチェフスキーの著作(同著、460–463頁)にも掲載されている。
[221] この挿入部分に基づき、以下のリストを作成することができる:聖人:1. ステファン・ペルムスキー(† 1396);2. エウフィミイ、スーズダリ大司教(† 1405);3. エウフィミイ、ノヴゴロド大司教(† 1458); 4. イオナ、ノヴゴロド大司教(† 1470);5. ヤコフ・ロストフスキー(† 1391);そしておそらく、6. ニキータ・ノヴゴロドスキー(† 1107)(クリュチェフスキー。前掲書、460頁、注); 7. ニフォント・ノヴゴロド(† 1156);リトアニアの異教徒によって殺害された3人の殉教者:アントニー、ヨハネ、エウスタフィオス(† 1347);6人の修道士:1. アヴラアミイ・スモレンスキー(† 1219-20); 2. サヴァ・ストロジェフスキー(† 1407);3. グリゴリー・ペルシェムスキー(† 1441);4. エウフロシン・プスコフスキー(† 1481); 5. エフレム・ペレコムスキー(† 1492)および 6. サヴァ・ヴィシェルスキー(† 1460);1人の公:ヴセヴォロド=ガヴリイル・プスコフスキー(† 1138)。同上。462–463頁;セルギイ。前掲書 1. 194–196頁;ゴルービンスキー。『列聖の歴史』。103–105頁。1549年の公会議については、ゴルービンスキー。2. 1. 772頁;ヴァシリエフ。前掲書。183–203頁を参照。
[222] また、イヴァン4世の書簡に言及されている聖人の名も参照のこと。A.I. 1. 第213号。
[223] スペランスキー。前掲書(1921年)。172頁。
[224] 同上、173頁。「ステペンナヤ・クニガ」は『PSRL』21(1908)に収録されている。ヴァセンコ・P.『帝室系図書(ステペンナヤ・クニガ)と古ロシア歴史文献におけるその意義』1(1904);第2巻は未刊。
[225] 参照:ディアコノフ。前掲書。108頁;ザウツィンスキー。前掲書、『ЖМНП』1881年、218号、32頁;スペランスキー。前掲書。172–173頁;マカリイ。第2版、7。 434頁。実のところ、最初の準備作業、いわゆる「古代版」は、もちろんマカリイ都主教にも知られていたが、パホミイ・ロゴフェトによって行われたものである。 参照:クリュチェフスキー。前掲書、242頁;セルビア出身、あるいはセルビアで生まれた聖人伝作家パホミイについては、ヤブロンスキー・V.『パホミイ・セルブとその聖人伝著作』(1908年);クリュチェフスキー。 同上、119頁、および古くからの研究:ネクラソフ・イ. 『パホミイ・セルブ、15世紀の作家』(1871年)。
[226] 彼の書簡「嫌われ者について」を参照:『補遺』第10巻、505頁、509–510頁。対照:パヴロフ『歴史的概説』46頁。
[227] ニコルスキー。前掲書、『クリスト・チェティ』1908年、第8号、178–188頁。
[228] クリチェフスキー『ボヤール・ドゥーマ』(1880年);同著『講座』第2巻、第27–28章;ディャコノフ 同上(1889);シュトールリン。1巻、244頁以降。ボヤール階級の見解を如実に表しているのが、ボヤール・イ・N・ベルセン=ベクレミシェフと修道士マクシム・グレクとの間の有名な「対話」(1525年)である(AAE. 1. № 172)。 モスクワのボヤール階級は、自らの国家・政治的イデオロギーと、国政における役割を維持するためにほぼ1世紀にわたり闘争を続けたが、「オプリチナ」の時代(16世紀60年代から70年代)に最終的な敗北を喫した。オプリチナについては、プラトノフを参照。 『モスクワ国家における「動乱の時代」の歴史に関する論考』(1899年、第2版1912年);同著『イヴァン・グロズヌイ』(1924年);シュトールリン、269頁以降;ハインリヒ・フォン・シュターデン『モスクワ国家に関する記録』。F. エプシュタイン編、Hamb. 大学――『外国学分野の論文集』第34巻、第1シリーズ、5;ブドヴニク・イ. 『ロシア歴史文学におけるイヴァン・グロズヌイ』、掲載:『歴史紀要』21(1947年)、271–330頁(広範な参考文献付き)。
[229] 非所有者たちの思想の内部的雰囲気を最もよく伝えているのは、以下の著作である:ニコルスキー・N. 『15~16世紀および17世紀初頭のキリロ=ベロゼルスク修道院における共同生活と独房生活』、掲載:『キリスト教論文集』1907–1908年;また:グレチェフ。 『ザヴォルジエの長老たち』、『BV』(1907年)7–8号。
[230] パトリケエフ家の起源については:『PSRL』第7巻、254頁。
[231] 『PSRL』第8巻、227–228頁、256頁;第4巻、164頁。
[232] イヴァン3世はすでに、最初の結婚で生まれた息子イヴァンを共同統治者兼後継者に指名していたが、彼は1490年に突然死去し、7歳の息子ディミトリを残した。 二度目の結婚で、ギリシャ人のソフィアとの間にイヴァン3世には息子ヴァシリーが生まれた。ソフィアが自分の息子を後継者にしようとしているとの疑いから、彼女は失寵し、ヴァシリーは幽閉され、ディミトリは1498年にツァーリとして戴冠した(!)(注170参照)。 しかしその後、ボヤールの陰謀の結果、イヴァン3世は後継者問題を再び、そして今度は決定的にヴァシーリーに有利な方向で見直し、ディミトリイは母のエレーナと共に追放された。 ヴァシーリーの治世(1505–1533)中に、彼は1509年に死去したが、おそらく一酸化炭素中毒で窒息死したものとみられる。パトリケエフ家の父子両名は、ディミトリー派に属していた。
[233] 『PSRL』12巻、248頁;『Chteniya』1847年、第9号、第4部、9頁。
[234] PSRL. 7. p. 236; 『読本』. 1847. 9. 第4部. p. 9.
[235] 『補遺』第10巻、505頁。ヴァッシアンがニロスの熱心な信奉者であったことについては、彼の著作『ヴォロツクの修道院長ヨシフに関する、聖なる父たちからの集録――隠遁者ヴァッシアンの著』が最もよく物語っている(『正教叢書』1863年、第3巻)。 204–210頁。ヴァッシアンはニルを自分の師と呼び、自身をその弟子としている。同上、208頁。
[236] ジマキン。ダニイル都主教。65頁。 ジノヴィイ・オテンスキーが示したヴァッシアンに対する極めて否定的な評価(『真理の証言』900頁)は、我々の見解では、完全に客観的とは見なせない。というのも、ジノヴィイはやはりヨシフ派に同情しており、その記述は1531年のヴァッシアンの追放後に書かれたものだからである。
[237] ジマキン。前掲書、65頁。ジマキンの著作には、ヴァッシアン、ひいては非所有主義者やヨシフ派の思想や活動に対する正しい評価が見られる。一方、マカリー・ブルガコフ都主教の『ロシア教会史』(第2版、第6巻、 195–204頁)における見解はあまり客観的ではない。というのも、彼は他のロシア教会階層の代表者たち(19世紀の者たちでさえ)と同様、ヨシフ・ヴォロツキーの思想に共感していたからである。
[238] マカリー。第2版、第6巻、127頁;フルシチョフ。前掲書、『古代と現代のロシア』所収。1875年、第3巻、270頁。
[239] 『正教叢書』1863年、第3巻、207頁。ゴルービンスキーによれば、ヴァッシアンがモスクワに到着したのは、1509年2月14日に死去した不運なディミトリ大公の死後になってからであった。ゴルービンスキー、第2巻第1部、654頁。
[240] フェラポントフ修道院の修道士パイシイは、ヴァッシアンが宮廷を頻繁に訪れ、大公と長い「心の通い合う対話」を交わしていたと述べている。ヴァシリーの二度目の結婚(1525年)に関する彼の著作を参照のこと:『読本』。 1847. 8;この著作に関するマカリーの見解(第2版 6. 175)を参照;また、パヴロフ。 『歴史的概説』。87頁;ゴルビンスキー。2. 1. 732、892頁。もう一人の同時代人であるミハイル・メドヴァルツェフも、ヴァッシアンを個人的に良く知っており、彼をヴァシリーの寵臣、ヴァシリーの「偉大なる一時の人」と呼んでいる(『チェテニヤ』1847年、7号、 第2部、11頁。また、公式文書からもヴァシリーがヴァッシアンを信頼していた証拠が見出せる。1523年、カザン・タタールへの遠征に出発する際、ヴァシリーはヴァッシアンの立ち会いのもと、大主教ダニイルに遺言書を託した。SGGD. 1. № 150. 416頁。ゴルービンスキー(2. 1. 654頁)は、ヴァシリーがヴァッシアンを寵愛したのは、修道院の所有地をめぐる論争において、教会階層に対抗するために彼を利用するという、特別な教会・政治的な配慮によるものだと考えている。
[241] ヴァルラアムの就任については:PSRL. 6. p. 252; Herberstein. Op. cit. (1926). p. 66。ヴァルラアムの品行について、彼は次のように述べている。「私がそこへ派遣されたとき(1517年のモスクワへの最初の旅を指す ――I. S.)マクシミリアン皇帝によって派遣された際、大司教はバルフォロメイ(すなわちヴァルラアム。――I. S.)であり、彼は聖人であると見なされていた」(同上、66頁)。この著作の次の段落は、ヴァルラアムのその後の運命について述べているが、事実とは必ずしも一致しない。 参照:ゴルービンスキー。2. 1. 637–645頁;ヴァルラアムが非所有主義者の思想に近かったことについては:PSRL。6. 252頁;8. 252頁。残念ながら、ヴァルラアム都主教に関する情報は極めて乏しい。
[242] ヴァッシアンはある著作の中で、1515年9月9日に死去したヨシフからの返書について言及している。このヨシフの返書は現存しないが、ヴァッシアンが宮廷で持っていた影響力が、ヨシフの論争活動を妨げていたと推測される。 しかし、ヨシフがボヤリンのV. A. チェリャドニンに宛てた書簡は現存しており、その中で彼は、大公に対し、自身の「著作」、あるいは我々の見解では、ヴァッシアンの攻撃に対する反論を広める許可を請うよう取り成してほしいと懇願している。参照:フルショフ。前掲書、260頁。 1517年、ヴァッシアンはすでに自身の『コルムチャ』の編纂を終えていた。これは2~3年を要した、容易ではなく非常に分量の多い作業であった; したがって、論争的な著作は1515年以前に執筆されたと見なすことができる。論争的な著作の執筆にあたり、ヴァッシアンは、自身の論争的論拠に特別な説得力を与えるはずの、正統な規則の集成書に目を向けることになった。
[243] ヴァッシアンが念頭に置いているのは、アンティオキアのライフ修道院の修道士、ニコン・チェルノゴルツ(† 1092年頃)である。 ニコンの著作『Pandљkthj』および『TaktikТn』は、古ルーシにおいて広く普及し、非常に高く評価されていた。ゴルービンスキー。1. 1. 910–912頁;スレズネフスキー・イ. 『ニコン・チェルノゴルツのパンデクタ』、掲載:『ロシア科学アカデミー紀要』21. 194頁; ソコロフ・イ. 『9世紀半ばから12世紀初頭までのビザンツ修道院の道徳的・知的状況(842–1204)』、『法学叢書』1893年、第2・3号、608–610頁。
[244] 参照:修道士兼公爵ヴァッシアン・パトリキーエフの論争的著作、『法学叢集』1863年。 3. 第1篇 – 102–104頁;第2篇 – 104–112頁;第3篇 – 180–206頁;第4篇 – 206–210頁。第1篇は、第2篇および第3篇への序論となっている。
[245] 参照:ティホーンラヴォフ『ロシア文学および古代史年表』第5巻(1863年)。第3部。139–141頁。
[246] 『コルムチャヤ・クニガ』、あるいは『コルムチャヤ』――聖使徒、全地公会議および地方公会議、ならびに聖父たちの規則を集めた書物――については、ハーマン『De Fontibus juris ecclesiastici Russorum』 p. 23 以降(広範な参考文献一覧付き);ロシア語版については、マカリイ。8. p. 143 以降;ゴルービンスキー。1. 1. p. 659 を参照。
[247] 『教会法集』1863年版、第3巻、104–112頁。
[248] 同上。183頁。
[249] ヴァッシアンの主張が歴史的に十分に裏付けられていることを示したのはパヴロフである。前掲書、69頁、注。 なお、11~13世紀の修道院の領地――ヨシフは聖テオドシウス・ペチェルスキーについても言及している――は、15世紀末から16世紀初頭のものとは全く異なる性格を持っていたことに留意すべきである。参照:ゴルービンスキー。1. 1(1880)。435頁。
[250] 「…長老ヴァシヤンとの論争」、『チェテニヤ』1847年、9、6;『プラヴ・ソブ』1863年、3、200–210頁、192頁;『プリバヴェニヤ』10、505頁。
[251] 聖人ニール・ソースキーとそのスキト生活に関する規則(1864年)。7–9頁、175頁。
[252] 『法典集』1863年、第3巻、109、110頁;ニルの見解については、アルハンゲリスクイ『ニール・ソルスキーとヴァシアン・パトリキーエフ』72頁を参照;マクシム・グレック『著作集』第2巻。 37、89、41、95、110頁。ヴァシアンが自身の主張を論争的な熱意からではなく行ったことは、全ロシア教会会議の公式決議によって裏付けられている(『AAE』第1巻、第227号、218頁)。
[253] 『正教叢書』1863年、第3巻、112、187、105、184、109、190、184頁。我々は、マクシム・グレクの著作に見られるモスクワ・ルーシにおける農民の地位に関する数多くの言及が、ヴァッシアンの影響と関連していると考えている。参照: マクシム・グレク。『著作集』第2巻。「伝説」-94頁、98–100頁;「悔い改めに関する説教」-130頁、131頁、132頁;「魂に有益な説教」-34頁、38頁。
[254] マカリイ。第2版。6。141、205頁。参照:ジマキン。前掲書。65頁。
[255] ゴルービンスキー。2. 1. 665頁。マクシム・グレコに関する文献は比較的豊富である。主な著作:イコンニコフ(1915年);また:クロスターマン R. A. 「伝説におけるマクシム・グレコ(Maksim Grek in der Legende)」、『ZfKG』53(1943年)。177–228頁; デニソフ E. 『マクシム・グレックと西洋』. パリ・ブーヴェン, 1943年. P. XIX-XXXIV.
[256] 前述のE. デニソフの著作を参照のこと。同著者は、様々なイタリアおよびギリシャの史料や文献に基づき、マクシムの幼少期からモスクワ到着までの生涯を辿ろうとしている。また、ゴルービンスキー『2. 1.』667頁以降も参照のこと。
[257] 『詩篇』の翻訳に関してマクシムが大公に送った書簡については、『補遺』第18巻、184頁を参照。
[258] マクシム・グレック。『著作集』第3巻、158頁、194頁。
[259] 同上。158頁。
[260] グジイ・N. 『マクシム・グレックとルネサンス時代への彼の姿勢』、掲載:『キエフ大学』1911年、第7号。
[261] マクシム・グレック。『著作集』第2巻、377頁。
[262] マカリイ。第2版。第6巻。159–160頁;PSRL。第6巻。257頁;第8巻。259頁;デニソフ。 前掲書、329–333頁。大公の書簡(勅書)およびヴァトペド修道院のアルヒマンドリトによる返答(未完)は、『ヴレメンニク』第5巻、第3部、30頁に収録。ミトロポリト・ヴァルラアムへの書簡は、『AI』第1巻、第122号に収録。
[263] ゲラシモフの手紙:『補遺』第18巻、190頁。
[264] マクシム・グレック。『著作集』第2巻、299頁以降。この著作は前述の2通の手紙を補完するものであり、そこからマクシムがただ一つの特定の翻訳を遂行するために派遣されたことがうかがえる。
[265] マクシムは、聖使徒行伝に対する匿名の注釈書を、大主教のために自ら翻訳したことで、大主教の好意と感謝を勝ち取った。マカリイ。第2版。6。166頁。
[266] 残念ながら、このマクシムスの著作については、マクシムス自身の数点の言及以外、何の情報も残されていない。著作集 1、33、37頁。 参照:ゴルービンスキー。2. 1. 683頁。マクシムに関するゲルベルシュタインの記述(前掲書、91頁)は事実と異なる。おそらく、1526年にモスクワを訪れたゲルベルシュタインは、モスクワで流れていた様々な噂を根拠にしていたのだろう。
[267] ゴルビンスキー。2. 1. 665頁。
[268] マクシム・グレク。『著作集』。カザン神学アカデミー刊。全3巻:第1巻(1859年、第2版1894年)、第2巻(1860年)、第3巻(1862年、第2版1897年)。 第2版:セルギエフ・ポサド、1910–1911年。全3巻(教会スラヴ語の原本からのロシア語訳)。マクシムの著作については、ゴルービンスキー。2. 2. 232–263頁。デニソフ。前掲書。35–40頁。マクシムの論説については:リジガ。「16世紀ロシア論説史に関する試論。論説家としてのマクシム・グレック」、TODRL 1(1934年)。
[269] 参照:プレオブラジェンスキー(1881);イコンニコフ(1915)。
[270] マクシム・グレック『著作集』第2巻、89–119頁。正確な題名は「ある有名な修道生活に関する物語。 競い合うフィロクティモンとアクティモン、すなわち貪欲な者と無欲な者」。ルジガの見解によれば、この物語は1531年から1537年の間に執筆された。ルジガ。前掲書、105頁。
[271] マクシム・グレック。著作集 2。114頁。
[272] 同上。第2巻、5–52頁。「この言葉は、それに耳を傾ける者にとって極めて有益である。知性が自らの魂に語りかける。そこには貪欲についても語られている」。42頁;これも1531年から1537年の間に執筆された。ルジガ。前掲書、105頁。
[273] マクシム・グレック。著作集 3。178–205頁(第2版 145–167頁):「恐ろしくも記憶に値する物語、そして完全な修道生活について」。205頁(第2版 167頁)。
[274] マクシム・グレク。『著作集』第2巻、147頁。
[275] 同上。2:a) 「偽りのない悔い改めと、知られた修道生活についての説教」。119–144頁;b) 「ある敬虔な修道女たちへの、修道生活の是正に関する回想的説教」。394–415頁; c) 「悔い改め、そして飽くことのない食欲と数え切れない悪について、罪を犯している修道者たちへの説教」。148頁。修道院の所有地に関する問題については、マクシムスは『教訓の章』という著作でも触れている。同上。157–184頁。
[276] 同上。3。178–205頁。
[277] パヴロフ。前掲書。79頁。
[278] マクシム・グレック。著作集 2。172頁。
[279] 長老アルテミオスについては、第X章の参考文献を参照のこと。
[280] ゴルスキー、A. 『聖三位一体・セルギエフ・ラヴラの歴史的記述』第1巻(1890年)。78頁。
[281] 『ロシア考古学年報』第1巻、第238号。
[282] 『ロシア考古学アカデミー紀要』第1巻、第238号、251頁。
[283] 同上。246頁。
[284] AAE. 1. 第72号. 第238号; AI. 1. 第132号. クルブスキー. 『伝説』(1842年)。 136頁。アルテミイ。『書簡集』、RIB第4巻、1388、1383、1386、1390、1440頁。
[285] クルブスキー。前掲書。134頁;ゴルスキー。前掲書。84頁;AAE. 1. 第238号。
[286] イヴァン王への書簡、『RIB』第4巻、1440頁、1432–1441頁。この著作はおそらく1553年に執筆されたものであり、その中でアルテミイは王に対し、以前の会話について想起させるとともに、修道生活に関する自身の言葉を繰り返している。 参照:ゴルービンスキー。2. 1. 836頁。
[287] 参照:ジュダノフ、『ЖМНП』1876年、第7号、67頁;ゴルービンスキー、第2巻第1号、836頁。
[288] 『対話』の最初の出版者であるO. ボディアンスキー(『読本』1859年、第3号)は、『対話』の著者は修道士であるヴァッシアン公であると見解を示した。この主張は多くの人々から異議を唱えられた。A. S. パヴロフ (『歴史的概説』、136頁、注)は、『対話』が修道界から生まれたものではないと考えていた。E. E. ゴルビンスキー(第2巻第1号、655頁)もまた、ボディアンスキーの見解に異議を唱えた。 ボディャンスキーの版は非常に不完全であったため、V. ドルジニンとM. ディアコノフが新版を編纂した(『LZAK』第9巻);言語と文体の綿密な研究に基づき、彼らもまた『対話』が修道院のサークルから生まれたものではないという結論に達した; 同様の見解をイ・A・ストラトノフも表明している(『地方議会史に関する覚書』、掲載:『カザン大学学術紀要』1906年、第3号)。ボディャンスキーの見解は、S・L・アヴァリアニ(掲載:『BV』 1909年、第1号)からも支持を得た。同氏もまた、『ベセダ』の著者を修道士公ヴァッシアンとみなし、その執筆時期を1531年から1537年としている(同上、380頁)。これに対し、他の文学史家たち――N. グジイ(『ロシア文学史』1913年、 3)やG. ベルチェンコ(1914年)などが異議を唱えた。最近では、『対話』はザヴォルジエの農民層から生まれたという見解が示されている。これは、ザヴォルジエにおいて修道院の領地が急速に拡大したことが、農民たちの強い不満を招いていたためである。 「皇帝は政策を遂行するにあたり、農民の代表者(ミール)と協議すべきである」という指摘が頻繁になされたことから、I. スミルノフ(『歴史紀要』第15号、1946年、 p. 257)が、「『対話』は農民の環境から生まれた論説的な著作である」と論じることを可能にした。
[289] 『ベセダ』(1890年)。4、5、3、10、7、8、21、17、24、13頁。
[290] 残念ながら、スミルノフの見解は『ベセダ』の文脈全体をもって立証することはできない。とはいえ、まさに北方の自由農民(「黒土農民」)こそが、修道院の創設者たちに対して極めて激しく、かつ頻繁に闘争を繰り広げていたことは指摘しておく必要がある(後述の第VII章参照)。 北方の農民について一般的には、以下を参照のこと:ボゴスロフスキー, M. 『17世紀ロシア北方におけるゼムスコイ自治』1(1909年)。
[291] 『ベセダ』(1890年)。14、22、24頁。『ベセダ』の著者たちの見解の一部は、ダニイル都主教の『書簡』に表明された見解に近いことに留意すべきである。これらの『書簡』については後述する。
[292] 『修道院の財産を擁護する簡潔な論説』。A. D. グリゴリエフ編、『チェテニヤ』1902年、第2号;参照:アヴァリアニ、『BV』1908年、第3号、374頁。
[293] 同上。序文。XXV–XXVII頁。
[294] 同上。12、16、24、29–31、48頁。参照:ゴルービンスキー。2. 2. 635頁、およびマイコフ。『イオリアス』。1900年。2. 377頁。
[295] プリセルコフ。『ハンのヤルリク』(1916年)。61頁。黄金オルダのハンたちによって発行されたヤルリクは、ロシア正教会の権利を証明し、ハンへの貢納から同教会を免除する文書であった。
[296] マカリーの著作は、ティホーンラヴォフ『年代記』第5巻第3部、129頁;ゴルービンスキー第2巻第1部、800頁に収録されている。ツァーリの勅令は、『ヴレメンニク』第20巻第3部、41頁に収録されている。
[297] クレメント・アダム。掲載:『Rerum Moscoviticarum scriptores varii』(フランクフルト、1600年)。p. 152。
[298] 第VII章および第VIII章の参考文献を参照のこと――S. ロジェストヴェンスキー(1897年)、N. ロシュコフ(1899年)、Y. ゴティエ(1915年)、V. ミリュティン(1859–1861年)、ゴルチャコフ(1868年)の研究;また、Kljutschewskij. 『ロシアの歴史』第2巻;シュテリン第1巻、296頁以降;パヴロフ=シルヴァンスキー・N. 『君主に仕える者たち』(1909年)。
[299] PSRL. 4. p. 216–217. ニキツキー. 『ヴェリキー・ノヴゴロドにおける教会の内部史に関する概説』(1879年)。p. 126.
[300] パヴロフ『歴史概説』p. 32;グレコフ『ノヴゴロドの聖ソフィア教会』(1914年)p. 246–247。
[301] PSRL. 4. 271頁;また、ノヴゴロド共和国に属していたベロゼルスク地方では、多くの農民の家屋が国家の管理下に引き渡された。S. A.Yu. 第5号。 詳細は以下を参照:グネヴシェフ・A. 『モスクワへの編入後のノヴゴロド州農村住民の経済的・社会的生活に関する論考』第1巻(1915年)。 3–8頁、276–307頁、347頁以降、355頁以降(要約版:『БВ』1911年、第2号);ヤニツキー・N. 「16世紀のノヴゴロド地方における経済危機」、『キエフ大学』1914年、第7号、12–14頁。
[302] 『AAE』第1巻、第227号、219頁;パヴロフ『歴史的概説』、37頁。
[303] IRI. 3. p. 714. 書簡の最初の段落から、このような規則がグルシツキー修道院だけでなく存在していたと推測できる。残念ながら、この規則が普遍的であったことを証明する文書は現存していない。
[304] PSRL. 4. p. 299. モスクワ司法省公文書館に所蔵される文書および案件の目録. 1 (1869). p. 169 (No. 1736);アレクサンドロ・ネフスカヤ年代記、RIB. 3. p. 248.
[305] 参照:『ストグラフ』第98章(カザン版、412頁)。
[306] 『AAE』第1巻、第227号、219頁。
[307] 『AI』1、第154号、IV。
[308] AI. 1. 第154号. XIX. パヴロフ(『歴史的概説』p. 142)およびゴルチャコフ(『土地所有について』p. 62)は、この勅令の発布年を誤って1573年としている。
[309] 『SGGD』第1巻第200号(『AAE』第1巻第308号、372頁に掲載された版は誤り)。
[310] SGGD. 1. 第202号。594、595頁。
[311] この事実は、すでにS. F. プラトノフによって明らかにされている(『動乱期の歴史に関する論考』(1899年)。593頁);また、彼の傑作『ボリス・ゴドゥノフ』(1924年)82頁も参照のこと。A. シュパコフ (『モスクワ国家における国家と教会の相互関係。ロシアにおける総主教職の設立』(1912年)。85、39頁)は、タルハンの復活は、修道院からの請願を断ることができなかった敬虔なツァーリ・フェオドルの意向によって行われたと考えていた。
[312] 例えば、以下を参照:『ヤロスラヴリのスパス修道院の歴史的文書』第1巻(1896年)。第58、59、60号; シュマコフ・S. 『経済局の文書目録』第4巻(1917年)。第1798号;カタエフ・I.およびカバノフ・A. 『ウヴァロフ伯爵のコレクションの文書目録』。 歴史的文書(1905年)。第58号――すでに1584年10月11日付のもの;ペトロフ・V. 「タルハンの廃止に関する1584年のソボルノエ・ウロジェニエ」、S. F. プラトノフ記念論文集(1922年)所収。191–201頁。
[313] AAE. 1. 第323号。
[314] ニコルスキー。『キリロ=ベロゼルスキー修道院』第1巻、第2巻。付録:XLII、LVI、LXXV、LXXVIII。 ツァーリ自身がソボルの判決に違反していた。例えば、1575年には、もともと最も裕福な修道院の一つであったキリロフ修道院に土地を寄進した(アユ。第126号);1583年には、再びこの修道院に3つの村を寄進している(マカリイ。8。255頁)。
[315] 『トヴェリ文書集』。S. シュマコフ編。1(1896年)。第19、20、75号;『ウグリチ文書集』。1(1898年)。第46、48、70–73号など。
[316] 教会階層が教会所有地の不可侵性を主張し続けたことについては、1589年に新たに就任したヨブ総主教がグルジア都主教に送った書簡もこれを裏付けている。マカリイ。10。68頁;同書簡は『クリストス・チェティ』1869年。2。 p. 867–893。S. プラトノフの主張によれば、ツァーリ・ボリス(1598–1605)の治世初期には、タルハンの廃止に関する1584年の判決が再び効力を発揮したが、 しかし、フェオドール帝の治世である1593~1594年には、実際にはボリス・ゴドゥノフが実権を握っていた政府は、修道院の文書を再調査せざるを得なくなり、修道院が一切の書類を保有していなかった領地は、国庫に没収された。プラトノフ。 ボリス・ゴドゥノフ(1924年)。149–150頁。残念ながら、この「再調査」については、公式文書もその他の歴史的資料も残されていない。
[317] 今日に至るまで、S・F・プラトノフの著作『モスクワ国家における「動乱の時代」の歴史に関する論考』(1899年;第2版1912年)は、「動乱の時代」の原因と出来事に関する最良の研究である。
[318] 「動乱の時代」における教会や修道院からの財政的支援については、後述する。
[319] フィラレート総主教はツァーリから新たな広大な土地の割当を受けた。さらに、多くの領地が購入や寄贈によって取得されたが、その際、16世紀の判決は一切考慮されなかった。ゴルチャコフ『土地所有について』(1871年)。 329–336頁。統治問題におけるフィラレートの大きな影響力については、スタセフスキー『ツァーリ・ミハイル・フェオドロヴィチの治世史に関する論考』(1913年)およびマカリイ『11』1–75頁を参照。 ここでは、1625年の有名な勅令についても言及しておく必要がある。この勅令は、総主教の司法権を大幅に拡大し(ゴルチャコフ『修道院局』p. 53)、「総主教管轄区域」の修道院にとって大きな意義を持っていた。
[320] 例えば、1619年のゼムスキー・ソボルの判決によれば、スムータの期間中またはその後に教会や修道院の土地に定住したポサドやウエズドの住民は、勅許状やタルハーンに基づいて行われていた慣行とは異なり、税やその他の義務から免除されなかった。 AAE. 3. № 105.
[321] PSRL. 5. p. 64; 参照:SGGD. 3. No. 4 および スミルノフ『総主教フィラレート』、CHOLDP. 1873年6月号、p. 829。
[322] 地方指令局の布告簿。N. ストロジェフ編。第6号、『法務省アーカイブの文書および案件目録』第6巻(1896年)所収。
[323] 同上。第96号。
[324] ディアコノフ『16~17世紀モスクワ公国の農村人口史に関する論考』(1898年)。180頁。ボゴスロフスキー、前掲書、『チェテニヤ』1909年、第1号、59頁。特徴的なのは、修道院当局がこの勅令を容易に回避できたことである。 例えば、アルハンゲリスク修道院は、1624年から1648年にかけて、まさにウスチュグ市において、土地の購入および抵当設定に関する取引を50件以上締結した。この期間、他の北部の修道院においても、さらに42件の同様の取引が行われた。同上。86頁以下。
[325] A.I. 3. 第92号。33頁。「定年」の問題については、修道院の経済活動に関する章で改めて取り上げる。
[326] 1648~49年のゼムスキー・ソボルは、礼拝に関するいくつかの問題を取り上げた1649年のソボルと混同してはならない。ベロクーロフ『1649年モスクワ教会ソボルの議事録』、掲載:『チェテニヤ』1894年、第4号。 1648~49年のゼムスキー・ソボルおよび1649年の『法典』については、ラトキン・V.『古代ルーシのゼムスキー・ソボル』(1885年);プラトノフ・S.「アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝の『法典』の史料」、『法学報』1889年 11(極めて貴重な研究);アルハンゲリスクイ『正教ロシア教会に関する1649年のアレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝のソボル法典について』、掲載:『キリスト教論文集』1881年2号、42–134頁、300–365頁;シュトールリン1. p. 379 以降。『法令』の成立に至る経緯と歴史については、公会議に出席した各階級の意見や要望に焦点を当てた P. スミルノフの著作が極めて貴重である:1. 『法令』の起源と1648–49年の地方公会議について、『ЖМНП』1913年9号;2. 『1648~49年のソボル法典およびゼムスキー・ソボルの歴史に関する数点の文書』、『チェテニヤ』1913年、第4号(別冊「雑録」);3. 『17世紀前半における全都市の貴族およびボヤールの子弟による請願書』、『チェテニヤ』1915年、第3号;4. 外国人追放に関するモスクワ商人たちの新たな請願書、『ネストル・レトピスツァ協会論文集』22(1912年)第4号。スミルノフの研究は、教会や修道院の所有地の拡大に対して、各階級がいかに大きな不満を抱いていたかを改めて示している。
[327] 『ロシア歴史アーカイブ』(ААЭ)第4巻、第33号。1649年の法典が実際に施行されていたこと(特にスロボダの国庫への移管に関して)については、『ロシア歴史アーカイブ』(ААЭ)第4巻、第35、36、39号;『ロシア史料集』(АИ)第4巻、第32号; PSZ. 1. 第35号;2. 第731号。
[328] RIB. 12. p. 261, 910, 932.
[329] 1652年、このような権利が北部のイヴァノフスキー修道院およびグレデンスキー修道院に付与された(RIB. 12. p. 261);1663年には、両修道院は、その所有地が以前の所有者やその相続人に返還される必要がないとする勅許状を受け取った(同上、p. 372)。これは1622年8月27日の勅令に反するものであった。 この特権は、おそらく広く実用されていたと考えられる。というのも、他の修道院も請願書に基づいて特別な権利を付与されていたため、17世紀には、国家のさまざまな地域において、貴族が負債に苦しんでいたことから、土地の相当部分が修道院の所有に移ったからである。 参照:ゴティエ『ザモスクワ地方』(1937年)、232–233頁;シュマコフ『ベジェツキ文書』、掲載:『チェテニヤ』1899年、第1号;A.Y.U. 第119号、3;同著『ウグリツキ文書』、同上。
[330] 寄進を受けたのは、1682年にサヴォ・ストロジェフスキー修道院、1682~83年にパトリアルヒ・イオアキム、1683年にロストフ都主教イオナ、1685~86年にノヴォイェルサリムスキー修道院、 1692~93年――ゴリツキー修道院;1689年――ロストフのロジェストヴェンスキー修道院。ゴティエ。前掲書、224、222頁。 1672年、勅令により、各郡の荒れ地や未開墾地を総主教、主教座、および修道院に譲渡することが許可された。その1年後、新たな取得の機会を拡大する新たな勅令が発布された。PSZ. 1. 第521、549、552、554号。
[331] 修道者の管轄権については第IX章を参照のこと。修道院局については、ゴルチャコフ『修道院局』(1868年)――今日に至るまでその学術的意義を失っていない研究――を参照のこと。 また、以下の著作にも注目すべきである:シムコ・イ. 『総主教府公庁』(1894年)、およびもう一つの著作:ゴルチャコフ『全ロシアの都主教、総主教および聖シノドの土地所有について』(1871年)。
[332] 特に、修道院局の設立に対して激しく抗議したのはパトリアルヒ・ニコンであった:「『法典』に関するパトリアルヒ・ニコンの見解」、『ORSA紀要』第2号(1861年)。 456–497頁、特に451頁;教会財産に対する教会の権利については:453、449頁。参照:ゴルチャコフ『修道院局』。19頁、およびジュコフ・A.『世俗権力と教会権力の関係に関するニコン総主教の見解』、 世俗権力と教会権力の関係に関する見解」、『法典集』1916年、3–4号。もっとも、ニコンが抗議したのは聖職者の管轄権の変更に対してのみであった。修道院局に対する不承認は、1667年の公会議で表明された意見にも見られる(『PSZ』 1. 第412号;『AAE』4. 第167号。同公会議は、聖職者の管轄権が修道院局に属することを廃止しようとしていた。参照:ゴルチャコフ、前掲書、95–97頁。
[333] 『AI』第1巻、第149号。
[334] ネヴォリン K. A. 『イオアン3世からピョートル1世までの行政機構の形成』、収録:全集 6。
[335] ゴルチャコフ『修道院局』40頁;同書における大宮殿局の略史を参照。
[336] 例:AI. 1. 第155号;2. 第353号;AAE. 1. 第299号。
[337] イ. 3. 第65号;AAE. 2. 第277号;AI. 2. 第355号;SGGD. 2. 第219号。
[338] AI. 1. 第192号など。
[339] AAE. 4. 第16号、第82号;DAI. 2. 第37号;参照:ゴルチャコフ。前掲書、42頁。
[340] AI. 1. 第155号、第158号;2. 第249号;3. 第162号;AAE. 4. 第56号、第315号。
[341] ゴルチャコフ。前掲書、42頁;AI. 3. 第162号;AAE. 1. 第227号;2. 第56号。
[342] ゴルチャコフ。前掲書。68頁。異なる見解については参照:ウラジミールスキー=ブダノフ M. 『概説』(1888年)。210頁。
[343] ゴルチャコフ。前掲書。95頁。PSZ。1. 第412号。
[344] ゴルチャコフ。前掲書。101頁。一部の修道院は、土地所有権に関連する事案について、大宮殿事務局に申し立てを行うことを望んでいた(例:AI. 4. 第166号)。
[345] PSZ. 2. 第699号。ゴルチャコフ。 同上、101頁。この勅令の発布は、1675年の公会議の判決が大きな要因となった。そこでは、管轄権の問題において、聖職者を世俗権力の干渉から守る試みがなされていたからである。AAE. 4. 第204号および第205号。
[346] ゴルチャコフ。前掲書、112頁;PSZ. 1. 第412号。1669年の教会会議はこの判決を承認し、聖職者や修道院が所有し、その管理人が運営していた商店やその他の商業施設を、ツァーリの名義に移す、すなわち国家に譲渡するよう命じた。 PSZ. 1. 第442号、§12;AAE. 4. 161頁。
[347] ゴルチャコフ。前掲書。114–115頁。
[348] 教会の宣教的使命については、イヴァン4世がカザン初代大司教グリー(1555–1563)宛ての書簡の中で言及している。AAE. 1. № 241。興味深いことに、この考えはスヴィヤジスク神学修道院のフレスコ画にも明確に表現されている: アイナロフ, D. 「スヴィヤジスクの聖母マリア修道院にある聖母被昇天教会のフレスコ画」、『ドレヴニ』ロシア考古学会論文集 21. 1 (1906); ネクラソフ, A. N. 『古ロシアの造形芸術』(1937)。p. 292。
[349] クリュチェフスキー『講座』第2巻(1907年)。263頁。16世紀のポニゾヴィエにおける修道院の創設に関する問題を研究した結果、我々はクリュチェフスキーのデータには修正が必要であるという結論に達した。実際、16世紀に創設された修道院の数はそれよりも多かった。
[350] ズナメンスキー『ロシア正教会の歴史ガイド』(1896年)。279頁。18世紀初頭、ロシアには1201の修道院があった。ヴェルホフスキー『聖シノドの居住用不動産…』(1909年)の付録8には、居住用不動産を所有していた500以上の修道院が挙げられている。 しかし、聖シノドが作成した1762年の表には954の修道院が計上されている。この数から、南ロシアの約70の修道院を差し引く必要がある。ザヴィャロフ『エカテリーナ2世帝時代の教会領地に関する問題』(1900年)。 346–348頁。17世紀のチェルニゴフ教区の修道院の一部は、モスクワ総主教庁の管理下にあった。残念ながら、これらのデータを検証することはできなかった。というのも、本書の最終校正段階において、V. ズヴェリンスキーの著作を入手できなかった上、当初その著作から抜粋した資料も紛失してしまったからである。 このため、修道院の拡大について論じる際、各地域における新設修道院の数に関する正確なデータを提示することもできない(ポニゾヴィエ地域を除く――この地域に関するデータは筆者の手元に残っている)。 しかし、ここでは、新しく設立された修道院の中でも最も重要なもの、すなわち後にロシアの修道史において一定の役割を果たしたものが考慮されていると期待している。結論として、18世紀の聖シノド自身が修道院の数について非常に矛盾した情報を伝えていたことを指摘しておきたい。これは、歴史家にとってある程度の言い訳となり得るだろう。
[351] 17世紀初頭のモスクワ公国の各地域、およびそれらの政治的・経済的意義については、プラトノフ著 『スムータの歴史に関する論考』(1899年);チェチュリン『モスクワ公国の都市』(1889年);ヤコブレフ・A.『モスクワ公国の境界線』(1916年);スミルノフ・P.『17世紀のモスクワ公国の都市』(1918年)。
[352] マカリイ。第2版。7。p. 2, 14;ブルガコフ。『ハンドブック』。p. 76–82。
[353] マカリイ。第2版。7。20、23、15頁。ブルガコフ。60、73–74頁。
[354] ブルガコフ。103頁;『聖人歴史辞典』(1862年)。187頁;ウスペンスキー・V. 『ニロヴァ修道院の記述』(1886年)。
[355] ムラヴィエフ・A. 『聖山とオプティナ修道院』(1852年);チェトヴェリコフ・S. 『オプティナ修道院』(1926年)。
[356] 生前、聖アントニーはツァーリから(1544年)12平方キロメートル以上の土地を寄進された(SGKE. 1. 1. № 97)。1764年、修道院は3333軒の農民の家屋を所有していた。IRI. 3. p. 103–104。マカリイ司教『アントニー・シイ修道院に関する歴史的記述』、掲載:『チェテニヤ』1878年、3号;参照:ルンケヴィチ『アルハンゲリスク教区の記述』、掲載:『ПБЭ』1巻、p. 1113–1117。 修道院の経営について:『アントニエフ・シイ修道院の預金台帳』。A. F. イジュモフ編、『論文集』1917年、第2号。参照:マカリイ、第2版、第7巻、42頁。
[357] マカリイ司教。『クラスノゴルスク修道院の歴史的記述』、『チェテニヤ』1880年、第3号。 参照:マカリイ。第2版。7。41。1763年、この修道院は極めて貧しく、毎年聖シノドから25ルーブルの援助(ルグ)を受けていた。ザヴヤロフ。385頁。
[358] IRI. 4. 530. バルソフ. 「オロネツのクリメネツ修道院」、『読本』1870年、第4号。
[359] ブルガコフ。61–62頁。
[360] IRI. 2. p. 279.
[361] 同上。6。412–413頁。
[362] 同上。5。134頁;ブルガコフ。184頁;ゴルビンスキー。『列聖の歴史』。136頁;クリチェフスキー。『聖人伝』。324頁。
[363] IRI. 6. 593頁。
[364] ズヴェリンスキー。2。第1144号。
[365] ズヴェリンスキー。2。第868号および第557号。
[366] マカリイ。第2版。7。p. 34。参照:私の論文「ロシアの敬虔さと民俗宗教における聖母マリアの崇敬(Die Verehrung der Gottesmutter in der russischen Frömmigkeit und Volksreligiosität)」、『Kyrios』5(1940-41)。p. 208。
[367] マカリイ。第2版。7。38頁。
[368] 一級プスコヴォ・ペチェルスキー修道院(1893年);マカリイ。第2版。7。39頁。
[369] IRI. 3. 413頁;マカリイ。第2版。7巻。18–19頁。
[370] 参照:ボルディンスキー・ドロゴブジ修道院の収支帳簿、『RIB』37(1923年)。
[371] IRI. 5. p. 588.
[372] モスクワ国家に特徴的な行政区域の境界の曖昧さは、個々のプリカズ間の機能区分が不明確であったことに関連していた。 基本的に、ポニゾヴィエは「カザン宮殿」――極めて曖昧な権限を持つ特別なプリカズ――によって統治されていたが、17世紀には、新たな領土行政機関(プリカズ、とりわけ「チェティ」)の出現に伴い、その権限は絶えず変化していた。 この状況は、修道院の所有地がどのプリカズに管轄されるかという点においても重要であり、特に修道院プリカズ(1649–1677)がこの問題に関して極めて多様な権限を付与されていた時期には顕著であった。 1574年の直前に設立されたカザン宮殿は、ピョートル大帝による行政改革(1708年)まで存続した。参照:ペレティャトコヴィチ・G. 『16世紀および17世紀のヴォルガ川流域』(1877年);プラトノフ『スムータの歴史に関する論考』 第1章 §6(1937年刊、78–86頁);ミリュコフ・P. 『18世紀前半の国家経済とピョートル大帝の改革』(1890年)、366–373頁;ネヴォリン・V. 『著作集』第6巻、179頁。
[373] この問題については、我々が雑誌『Kyrios』に寄稿する予定だった論文で検討したが、戦争のため掲載が妨げられた。ここでは、その研究の資料を用いている。
[374] 参照:筆者の論文「15世紀および16世紀のロシアの東方政策の歴史について。1. カザン王国の征服」、JGO(1941年)所収。
[375] ズヴェリンスキー。第3巻、第1248号;DRV。第17巻、146頁。
[376] 1569年にトルコがモスクワの手からアストラハンを奪い取ろうとした試みについては、サディコフ・P.「1569年のタタール人とトルコ人によるアストラハン遠征」、『歴史紀要』22(1947年)、132–165頁を参照。
[377] 都市の設立については、ネヴォリン『著作集』70頁を参照のこと。
[378] この最後の特徴には特に注意を払う必要がある。修道院の設立は、ツァーリと大主教にとって、国家的な課題であると同時に宣教上の課題でもあった。 カザン教区は1555年に創設された。その初代大司教であるグリー(1555–1563)は、以前、トロイツキー・セリジャロフスキー修道院の院長であり、イオシフォ・ヴォロコラムスキー修道院で出家した人物であった。 カザン征服直後、イヴァン4世はウスペンスキー修道院を設立したが、1560年にグリー大司教がこの修道院をジラントヴァ山に移転したため、後にジラントヴァ修道院として知られるようになった。 ズヴェリンスキー。第1286号および第196号。1556年、グリーは大修道院長ヴァルソノフィイに対し、2つ目の修道院であるスパソ・プレオブラジェンスキー修道院の建設を許可した(カリンスキー。『古代カザンの概説』(1879年)。96頁)。 グリーの後任である大司教ゲルマン(1564–1568)は、市外にヨハネ・洗礼者修道院を建立した(ズヴェリンスキー。第843号)。1579年、ツァーリの資金により、最初の女子修道院である聖母マリア修道院が設立された(同上。第55号)。 ヴァッシアン大司教(1575年)の時代に、フェオドロフスキー・トロイツキー修道院が建設された(同上、No. 555)。このように、25年の間にカザンには5つの修道院が誕生した。異教徒のチェレミス地方の行政の中心地であったスヴィヤジスクには、3つの修道院が設立された (ズヴェリンスキー、第657、874、2148号)。地図を見ると、修道院は主にヴォルガ川とスーラ川の間にある都市に設立されており、この地域の南の境界はテチュシ市までのアラティール川によって形成されていることがわかる。 この線より南に設立された修道院はわずか2つだけであった。1つはアストラハン、カスピ海沿岸に、もう1つはニジニ・ロモフ近郊、かつてのリャザン公国の南東の境界に位置していた。 この当時、ヴォルガ川とスーラ川の間に位置する地域は、モスクワ政府によって精力的に開拓が進められていた。これについては、以下を参照のこと:『アルザマスの地方公文書』。 S. ヴェセロフスキー編(1916年)、第390号;エマウスキー A. 「16~17世紀におけるアルザマス郡の土地と農民をめぐる闘争の歴史より」、『キーロフ地方史科学研究研究所論文集』第7巻第3号(1934年)、7、9頁; ゲラクリトフ・A. 『17・18世紀の課税台帳および人口調査台帳に見るアルザマスのモルドヴァ人』、『サラトフ大学学術紀要』第8巻、2頁。 1568年、イヴァン4世はイグメン・キリルに対し、アストラハンにトロイツコ=ニコラエフスキー修道院を建設するよう命じ、この修道院に金銭的支援を行った;『ロシア』第6巻 p. 544;数年後(1573年、1575年、1588年)、この修道院は漁業および塩製造に関する特許状を授与された。『ロシア史』第1巻、No. 184、193、223。
[379] これらは3つの要塞都市にある修道院であり、アストラハンに5か所、ツァリツィンに2か所、サラトフに3か所あった。 これらの修道院は宣教活動にはほとんど役立たず、我々の見解では、国境の都市を装飾し、ヴォルガ川沿いの草原地帯の遊牧民の間でモスクワ王国の権威を高めるために建設されたものである。
[380] 都市の建設や、役人への土地の分配は、モスクワ国家の政治的強化に寄与した。 参照:ペレティャトコヴィチ、前掲書、107頁;チェチュリン、前掲書、202–206頁;『カザンの土地台帳(1565–1568年および1646年)』、掲載:『ソ連諸民族の歴史に関する資料』第2巻(1933年)。 表1~3、9~11;コルサコフ・D. 「16世紀および17世紀のカザン地方において、どの都市の従軍者が地主および領主であったか」、『考古学会議論文集』1(1884年)、173頁。 ポニゾヴィエには多くの職人 également 送られた;ロマノフ・K. 『文化・芸術的相互関係におけるプスコフ、ノヴゴロド、モスクワ』、『物質文化アカデミー紀要』第4号(1925年)、239頁。
[381] ポクロフスキー・イ. 『1764年までのカザン修道院の歴史』(1902年)。6頁。
[382] ズヴェリンスキー。第1143号;ポクロフスキー。前掲書。7、21頁;ズナメンスキーによれば(『セドミエゼルスカヤ聖母修道院の記述』、掲載:『プラヴ・ソブ』1869年。第2巻。214、 231、232)によれば、この修道院は1645年の直後に最初の寄進を受け、2回目の寄進は1686年に続いた。1744年の調査によると、513人の農民が所属していた。ミリュティン。『不動産について』、掲載:『読本』1860年、第3巻、145頁。
[383] ズヴェリンスキー。第2巻、第1110号;ポクロフスキー。前掲書、9頁。1744年、この修道院はすでに506人の農民を所有していた。ミリュティン。前掲書、145頁。
[384] ズヴェリンスキー。第3巻、第2154号。
[385] 同上。第1249号。ゴルスキー。『記述』。204頁。
[386] ズヴェリンスキー。3。第1267号。
[387] リャビンスキー・K. 「マロユンギンスキー修道院」、『イズヴェスチヤ・カザン』第13号、3頁。
[388] ズヴェリンスキー。第3巻、第1169号。
[389] 同上。第1324号。17世紀初頭までは行政上ポニゾヴィエに属していたニジェゴロド県において、17世紀には創設者たちの主導により2つの修道院が設立された。修道士イオナは、都市から南へおよそ85ヴェルスタの地点に (ズヴェリンスキー。3. 第1192号)、また修道士パフヌティイはバラフナ村にポクロフスキー修道院を建立した(ズヴェリンスキー。2. 第1061号)。
[390] ヴィャトカにおけるロシアの植民地化の初期段階については、プラトノフ『エッセイ』(1899年)171頁以降を参照のこと。聖ステファンはここに4つの修道院を設立した。ズヴェリンスキー 2. № 1959; 1. № 524; 3. № 1330。 参照:マカリイ。第4巻、142頁、211頁。15世紀には、この地にトロイツキー・ペチェルスキー修道院が1つだけ設立されたが、その創設者はペルミの司教であった。マカリイ。第2版、第7巻、46頁。
[391] IRI. 6. p. 437.
[392] Stдhlin. 1. p. 287, 285–287. シベリアの植民地化については、オゴロドニコフ V. 2巻(1920–1924); バフルーシン・S.(1927年)および新著:スンコフ・V.(1946年)を参照のこと(ただし、私はこの新著を入手できていない)。また、Wirth A. 『シベリアと満州の歴史』(1899年)p. 101–105, 112 以降も参照。
[393] 新しく設立された修道院に関する私のメモは失われてしまった。資料は『ズヴェリンスキー』第2~3巻に収められている。ブルガコフ(前掲書)が引用しているデータは、私の見解では不完全である。また、『ロシア正教会百科事典』における教区の記述も不完全である。したがって、私が引用する情報は、おそらく再確認が必要であろう。
[394] ここでは最も重要な著作のみを挙げる:プラトノフ『エッセイ』(1899年);バガレイ・D.『読会』1886–1887年;ドブロクロンスキー・A.『読会』1888年;ヤシンスキー・A.(1900年); ヤコヴレフ・A.(1916年);また、ミクラシェフスキー・I.『モスクワ国家の経済生活史』第1巻「17世紀南ウクライナの定住と農業」(1894年)。
[395] ロシュコフ・N.(1898);ラッポ=ダニレフスキー『モスクワ国家における直接課税の組織』(1890);簡潔ながら優れた特徴付けが次の著作に見られる:グネヴシェフ・A.『16~17世紀のモスクワ国家における土地所有と農業』、収録:『エッセイと論文によるロシア史』。 M. ドヴナル=ザポルスキー編。3(1912年)。267–311頁。
[396] この表は様々な資料に基づいて作成されたものである。本書の最終編集段階においてズヴェリンスキーの著作を入手できなかったため、我々はこれを不完全なものと考えている。おそらく、修道院の総数はこれよりも多かったであろう。その主な要因は、17世紀の間に、設立直後に消滅した非都市部の修道院によるものだと我々は考えている。
[397] 要塞線の建設に際し、政府は修道院に対し、建設作業に自領の農民を動員するよう要求した。例えば、RIB 10、268–269頁を参照。また、ヤコブレフの 同著。そこにはこの件に関する多くの情報が含まれている。ポニゾヴィエにおける同様の政府措置については、以下を参照:『歴史的・法的文書集』。S. メルニコフ編。1(1859)。p. 22, 23, 24。
[398] 行政用語において、17世紀のウクライナは「マロロシア」と呼ばれていた。「ポーランド・ウクライナ」という呼称は、主にベルゴロド地方およびハリコフ地方を指していた。「ウクライナ」という言葉は、「(『野』、すなわち草原の)端にある」という意味である。
[399] DAI. 9. 270–288頁。参照:バガレイ。前掲書。197頁;ヤコブレフ。前掲書。284頁。
[400] ヴォロネジ(1586年に創設)では:1620年 – アカトフ修道院が、イグメン・キリルによって創設された(ズヴェリンスキー。2. № 609);1623年 – ポクロフ女子修道院(同上。№ 1060)。 1620年以前、ザドンスク市にボゴロディツキー修道院が設立された(同上、第1巻、第59号)。1640年頃、オストロゴシュク市から20kmの場所にウスペンスキー・ディヴノゴルスキー修道院が建設された(同上、第1巻、第169号)。 1646年の少し前、コンスタンチンという名の厳格な修行者が、ヴォロネジから40km離れたウスマニ川のほとりに、スパソ・プレオブラジェンスキー女子修道院(通称トルシェンスキー)を設立した(同上、第2巻、第1222号)。 1613年、ツァーリ・ミハイルの命により、ヴァルイキ市から3kmの場所にウスペンスキー修道院が建設された(同上、第2巻、第1329号)。7番目の修道院であるプレデテチェンスキー修道院は、1697年にピョートル大帝の命により、征服されたアゾフ要塞に設立された。 1711年、ピョートルのプルート遠征の失敗によりロシアがアゾフを失った後、この修道院はヴォロネジに移転された。参照:ブルガーコフ。前掲書、63頁。
[401] シャツク市から20km離れた場所にあるニコライエフスキー・チェルネエフスキー修道院(ズヴェリンスキー『2』第569号);おそらく16世紀には、レベディャニ市の近くのドン川岸にトロイツキー修道院も建立された。同修道院に関する最初の正確な記録は1620~21年に遡る(同上『1』第529号)。
[402] ズヴェリンスキー。2. 第644号および第1141号。
[403] ズヴェリンスキー。2. 第1057号;デニソフ。前掲書。第630号。
[404] ズヴェリンスキー。1. 第92号;デニソフ。前掲書。第626号。この修道院は、すでに17世紀末には修道士たちが去り、荒廃していたが、 1721年にアルヒマンドリト・ピティリム(ブリャンスクのペトロパヴロフスキー修道院出身)によって再興されたが、1764年に廃止された。しかし、修道士たちはそこに住み続け、その後1817年に「公式に」再び再興された。 この修道院は、そこで修行に励んだ長老たちのおかげで、18世紀末には非常に有名であった。第15章を参照のこと。
[405] ブルガーコフ。同著、74頁。さらに、新しく設立された2つの修道院について言及しておく:1) プティヴリの町近郊にある聖母マリア・グリンスカヤ修道院(1557年)と、2) プティヴリから25km離れた場所にある聖母マリア・モルチャンスカヤ修道院(通称ソフロニエフ修道院)。15世紀に創建され、1593年に再興された。ズヴェリンスキー。2. 第933号。両修道院とも、その長老たちによって名声を博した。第15章を参照。
[406] 1654年、アクティルカ集落の近くに聖三位一体修道院が設立された。この修道院は、奇跡を起こす「アクティルカの聖母」のイコンで知られている。1663年には、ハリコフから約10kmの場所にプレオブラジェンスキー修道院が設立され、「オゼリャンスカヤの聖母」のイコンによって名声を博した。 ブルガコフ。前掲書、100頁。最南端の修道院は、サマラ川のほとり(エカテリノスラフ市〈現ドニプロペトロウシク〉の北側)にあるノヴォモスコフスキー集落近くのニコラエフスキー修道院(1680年)であった。ブルガコフ。前掲書、65頁。
[407] 特に興味深い事例のみを挙げておこう。聖アドリアン・ポシェホンスキー(16世紀末)の伝記によれば、1543年に彼はポシェホニエ市の近くに隠遁所を設立したが、それは農民たちによって破壊された(IRI. 3. p. 70)。 生前から聖人として崇敬されていた聖アレクサンドル・スヴィルスキー(1533年)は、自ら設立した小修道院の一つを去らざるを得なかった(同上、6、115頁)。 また、彼の伝記(『聖人暦』12月7日)も参照のこと。聖レオニード・ルジスキー、あるいはウストネドゥムスキー(† 1654)は、教会を建設しようと決意したが(1603年)、彼もまた地元住民の抵抗に直面した(『IRI』1. p. 114)。聖シモン・ヴォロムスキー(† 1644)は教会を建設したが、後に彼がそこに修道院を建てるのではないかと恐れた近隣の住民たちが、その教会を焼き払った(同上、第3巻、p. 608)。 また、異教徒の住民たちは、修道者たちの宣教活動に対して強い不信感を抱いていた。これは、聖トリフォン・ペチェンギ(† 1583)および聖トリフォン・ヴィャーツキーの伝記(『IRI』第4巻 p. 582;6. p. 437)からも明らかである。修道院の創設者たちに対する敵対的な態度については、聖ディミトリ・プリルツキー、ステファン・マフリシュスキー、マカリー・ジェルトヴォドスキー、マカリー・カリアジンスキー(いずれも14世紀)の伝記にも記されている。パヴロフ『概説』p. 20。 聖アガピト・マルクシェフスキー(†1584)は、自身の修道院のためにモスクワから土地所有権を認める勅書を受け取った際、近隣の農民たちによって殺害された(IRI. 5. p. 51)。こうした紛争において、修道院側が農民の土地を不法に占拠していたため、修道院側にも非があったケースがしばしば見られた。 キリロ=ベロゼルスキー修道院の歴史における同様の事例を参照のこと。ニコルスキー。前掲書 1。2頁、8–10頁。
[408] 修道院の所有地に関する問題を研究したV. O. クリュチェフスキーは、次のように指摘している。 「修道院の土地所有は、敬虔な社会が修道生活という十分に理解されていない理念に捧げた、二重の意味で軽率な犠牲であった。それは修道院自体の道徳的整備を妨げると同時に、国家の経済力の均衡を乱していた」(『ロシアの歴史』第2巻、294頁)。 ロシアの修道院は、聖テオドシウス・ペチェルスキーの時代にはすでに土地を所有していた。テオドシウスの伝記を参照:1. ヤコヴレフ『前掲書』(1873年、第XII巻);2. 『読本』(1889年)。1. p. 25。修道界は、このような土地所有が修道誓願の精神に反するものではないとの見解を堅持しており、この点に関する見解の根拠として、ビザンツにおける修道院の土地所有の存在を挙げていた。ビザンツでは、それらの管理は「アレクシオス総主教の教会憲章」に基づいて行われていた。 参照:目録。3. 第330号(規約)。231頁。対照:ゴルービンスキー。1. 2. 597頁。古ロシアの年代記作者たちは、公爵による修道院への土地の寄進を「神に喜ばれる行い」と呼んでいた(例:PSRL. 1. 65、85、92、129、187頁;2. 11–113頁、154頁など)。しかし、これらの年代記編纂者がもっぱら修道士であったことを忘れてはならない。すでに12世紀には、修道院が自らの生計を立てるための土地を所有することが一般的な現象となっていた。ゴルブノフ。「修道院および教会に授与された特権状」、『アーキビヴ』 N. カラチョフ編。5(1860–61)。4–5頁。しかし、一部の司教、例えばミトロポリト・クリメント・スモリャティチ(1147–1154)は、修道院の土地所有に反対し、それが修道生活の堕落を招いていると指摘していたことに、まず留意する必要がある。 ニコルスキー, N. 『ミトロポリト・クリメント・スモリャティチの文学的著作について』(1892年)。104、220頁。ゴルブフスキー。『15世紀初頭までのスモレンスク地方の歴史』(1895年)。238頁。12~15世紀における取得方法については、ゴルブノフを参照。 同著、11–19頁;ミリュティン。同著、42頁;ゴルチャコフ。『土地所有について』(1871年)。83–109頁;メイチク。『14~15世紀の文書』(1883年)。3頁。
[409] 古代ルーシにおける免税特権の出現全般については、パヴロフ=シルヴァンスキー『著作集』全3巻; ウラジーミルスキー=ブダノフ『概説』(1888年)153頁、195頁以降、および:セルゲイヴィチ、ザゴスキン、パヴロフ『教会法講座』158頁;スヴォーロフ・N.『教会法講座』;マカリイ8巻191頁、267頁、285頁。
[410] ハンの勅令は、聖職者の土地所有権に関する権利と特権を極めて正確に規定している。例えば、メンク・テミルの勅令(1267年頃~1279年)を参照のこと(『SGGD』第2巻第2号)。 ヤルリクについては、プリセルコフ・M.『ロシアの都主教たちのハンによるヤルリク』(1916年)を参照のこと。また、古い研究として、グリゴリエフ『ハンによるヤルリクの信憑性について』(1842年)およびヘルマン『前掲書』p. 69–71も参照のこと。
[411] 最古の勅許状(13~15世紀)については、ゴルブノフ、前掲書およびミリュティン、前掲書を参照のこと。
[412] 各種の文書については:ゴルブノフ、前掲書、およびシュマコフ・S.『経済局の文書概観』第4部、『チェテニヤ』1917年2号、17頁以降; ウラジミールスキー=ブダノフ『概説』(1888年)。195頁以降;ヘルマン『前掲書』69–71頁;また、以下の著作も重要である:ヴェセロフスキー・S.『領地制度の起源に関する問題』(1926年)。26頁以降、84–89頁、90頁。
[413] 参照:ゴルチャコフ『土地所有について』105頁。 最も古く、特に注目すべき授与状の中から、いくつかのみを挙げる。例えば、イワン・カリタ公(14世紀)によるユリエフ修道院への授与状:AAE. 1. 第4号および第5号;ベロゼルスキー公爵たちによるフェラポントフ修道院への授与状(1450年):AAE. 1. 第47号;参照:第20、21、51、53号;これらすべての勅書は、修道院による開拓事業――未開墾地の耕作、新たな入植者の誘致、および新しい村の建設――を支援するものである。 古参住民の権利については参照:AAE. 1. 第34号および第35号。特に詳細なのは、ヴァシーリー・ヤロスラヴスキー公(1321–1345)がスパースキー修道院に授与した勅許状(1325年頃)であり、これは『ヤロスラヴリのスパースキー修道院の歴史的文書』 ヴァフラーメエフ編。1. 第1号;この勅書は後に大公イヴァン(約1464–1466年)によって補完・確認された:OAMYU. 4. 第147号。 16世紀に典型的な寄進状は以下の通りである:1551年 – ユリエフ修道院(DAI. 1. 第46号);1560年 – ミハイロフ女子修道院(DAI. 1. 第113号);1556年 – トロイツキー・ペチェンガ修道院(SGKE. 2. № 136);1554年 – コネフ修道院(DAI. 1. № 48);1560年 – スパソ・カメンヌイ修道院(同上. 1. № 115)。
[414] 参照:ミリュティン。前掲書;ディャコノフ。『エッセイ』(1898);グレコフ・V. 「ユリーエフの日と禁猟の夏」、掲載:『ソ連科学アカデミー紀要』(1926)。第1–2号;同著。 『古代から17世紀までのルーシの農民』(1946年)。命令語および口語で書かれた特権状は、「オベリャーヌイ・グラモタ」とも呼ばれた。「オベリャーヌイ」とは、黒地、すなわち税が課せられた土地に住む農民が支払う義務を負っていた税から解放することを意味する。
[415] 「免訴特権状」を参照:ヴァジ修道院(1548年)。DAI. 1. 第44号;ニコラエフ・コレリ修道院(1542年)。AI. 1. 第141号;ストロキナ修道院(1547年)。同上。第147号; アストラハニのトロイツキー修道院(1573年)。同上。第184号;コネフスキー修道院(1578年)。DAI. 1. 第122号;トロイツェ=セルギエフ修道院(1535年および1551年)、『アクト』所収。 フェドトフ=チェホスキー編。1. 第57号および第75号;フェラポントフ修道院(1534年)。同上。第42号; スーズダリのポクロフ修道院(1528年)。『AI』第1巻、第131号;チュフロム修道院(1518年)。『AI』第1巻、第125号;アントニエフ=シイ修道院(1545年)。 SGKE. 1. 第109号;聖ヨシフの存命中にヴォロコラム修道院へ(1500年)。AAE. 1. 第136号。15世紀以降については、非裁判文書として以下を挙げる:キリロ=ベロゼルスク修道院へ。AAE. 1. 第95号; トロイツェ=セルギエフ修道院(1494年)。同上。1. № 131。研究者らの見解によれば、修道院の所有地およびボヤールの世襲領地は、すでに14世紀および15世紀において、免除権を有していた:プレスニャコフ『公爵の権利』(1909年)。 p. 296;セルゲイヴィチ。前掲書 1. p. 328、および特に:パヴロフ=シルヴァンスキー。著作集 3. p. 281, 295;パヴロフ。『教会法講座』(1902年)。p. 158–160。
[416] ペトロフ・V. 「タルハンの廃止に関する1584年のソボル法典」、S. F. プラトノフ記念論文集(1922年)所収。
[417] 例えば、定款文書については:『AAE』第1巻、第9号――大公からキプリアン都主教に授与されたもの(1392年)、および第11号。
[418] 例えば、『アユ』1巻、第8、12、16、17号など。
[419] 例えば、『アユ』1巻、第32号、第63号。多くの場合、この勅書は遺言書としての役割を果たしていた。最も古い例としては、スーズダリのヴァシリエフスキー修道院への財産遺贈(1253年)が挙げられ、『アユ』 1. 第439号;あるいはチュフチェネム修道院(15世紀)への寄進(『СГКЭ』1. 第24、19、26、11、27号など)。私の論文『Studien zum Klosterwesen RuЯlands. 2. Zum Problem des Klosterbesitzes im 15. und 16. Jahrhundert, 『Kyrios』4号(1939年)。ヴォチナとは、奉仕の対価として条件付き所有権として授与された荘園とは対照的に、世襲される領地を指す。西ヨーロッパにおける類似概念としては、アロッドやベネフィシウムが挙げられる。
[420] 例えば、АЮ. 2. № 156;СГКЭ. 1. № 45, 49, 156 参照。
[421] 例:『АЮ』第2巻、第178、179、180号など。これらの「ザエジー・グラモタ」は、授与状の資料となり、しばしばそれらに引用されていた。
[422] 例:『アユ』第2巻第126号;『SGKE』第1巻第3、6、10号(15世紀)。これらは特に16世紀後半および17世紀前半に顕著に見られる。
[423] 「ピスツォフ・クニガ」とは、一種の土地台帳であり、住民(家屋の所有者)の調査と、その所有地の記述が含まれている。 ピスツォヴィエ・クニガの出現と性質は、課税制度と密接に関連している。古代ルーシにおける最初の全国的な人口(正確には家屋)調査は、1257年と1275年にタタール人によって実施された。『PSRL』1. 2(第2版)。474頁;10。 p. 152。モスクワ公国における最初の戸籍調査は1538年から1547年にかけて実施され、「大調査(большое письмо)」と呼ばれた。 この調査は不適切であると認められ、1551年から1580年にかけて、土地の地籍調査を含む新たな調査――「ノヴォエ・ピスモ」――が実施され、その際、書記官たちは書記帳を作成した。 その一部は今日まで保存されており、モスクワ公国における土地関係の歴史、とりわけ修道院や教会の土地所有の歴史に関する貴重な史料となっている。17世紀には2回の地籍調査が実施された。1つは20年代に、もう1つは1646年から1678年にかけて行われた。 (AAE. 4. № 14)。最初の地籍調査は従来の方式に基づいて行われ、記述の主要単位は「ソハ」という地域単位であり、土地とその性質が記載されていた。1646年から1678年にかけては、土地の記述を伴わない、賦役農家の地籍台帳が作成された。 家臣の領地における「ソハ」は800チェヴェルチ、教会や修道院の所有地では600チェヴェルチであり、つまりより高い税が課されていた。当時、「チェヴェルチ」または「チェチ」とは、ライ麦1チェヴェルチ(150リットル)を播種できる面積を指した。 1チェトヴェルティはデシチナ(1デシチナ=1.9ヘクタール)の半分に相当した。土壌の質に応じて400~1000チェトヴェルティが1ソハを構成し、土壌は「良質」、「中質」、「劣質」の3種類に分類された。 ソハは、17世紀20年代末までモスクワ公国における主要な課税単位――ポソシュナヤ・ポダティ――を構成していた。この制度は、16世紀半ばに、役人への領地分配の規則が変更された際(1556年の『ウロジェニエ』)に生まれた。資料は『年代記:PSRL』13巻に収録されている。 268–269頁。参照:ボロディン・A. 『1556年の奉仕に関する法典』、S. F. プラトノフ記念論文集(1922年)所収。143–153頁。地籍台帳(「ソシュノエ・ピスモ」)に関する包括的な研究は、以下の著作に収録されている: ヴェセロフスキー・S. 『耕作地台帳』。全2巻(1915–1916年)、参照:第1巻、97頁;第2巻、348、363頁および以下。また、ニキツキー・A. 「古代ルーシの度量衡に関する一考察」、掲載:『ロシア歴史学会誌』1894年、第4号。 414–415頁;ロシュコフ。「ソハ(鋤)」、『グラナト百科事典』第40巻第3号(1925年)。275頁;ラッポ=ダニレフスキー・A. 「モスクワ国家における直接課税の組織」(1890年)。 p. 220, 229–233; ミリュコフ P. 『モスクワ国家の財政史における論争点』(1892年)。p. 35–76(この著作では、ラッポ=ダニレフスキーの主張が批判されている)。歴史的資料としての「ピスツォフ・クニガ」については、ロシュコフ『 『モスクワ・ルーシの農業』(1899年)。221–231頁;カウフマン・A. 「歴史経済学研究における統計的手法に関する問題」。「歴史的資料としてのピスツォフ・クニガの利用に関する問題」。1. 1(1913年)。10–39頁; グネヴシェフ・A. 「モスクワ国家のピツォフ・クニガの処理における統計的方法」、『新歴史雑誌』2 (1914)。第3号。16頁以降。研究結果に関する優れた簡潔な概説は、ヤコヴレフ・A. 『兵士の徴集に関する勅令』(1917)第1章に収録されている。
[424] 単行書を参照:プラトノフ・S・F. 『イヴァン・グロズヌイ』(1923年、ベルリン版1924年)。ここでプラトノフは序文において、イヴァン4世に関する歴史学の批判的概説を行い、歴史家たちの間で多くの論争を巻き起こしてきたイヴァンの人物像について、長年の研究に基づいた独自の分析を提示している。 第4章では、オプリチニナの起源が多角的に考察されている。併せて参照:プラトノフ『エッセイ集』(1899年)および同著『ロシア史』(1927年)157頁;また、主にプラトノフの研究に依拠しているシュトールリン K. 1巻 270–278頁も参照のこと。 なお、クリュチェフスキーの『ロシア史』(Geschichte Russlands. 2)におけるオプリチニナの描写と特徴付けは、プラトノフとその弟子たちが証明したように、満足のいくものとは見なせないことに留意すべきである。 また、最近英語版が刊行されたヴィッパー著『イヴァン・グロズヌイ』(1922年)も参照のこと。さらに、イヴァン4世とオプリチナに関する文献のほぼすべてを網羅したイ・ブドヴニクの著作も挙げることができる。
[425] これについては、リュバフスキー『16世紀末までの古代ロシア史講義』第3版(1918年)255–270頁、およびロジェストヴェンスキー『モスクワ国家における奉仕制による土地所有』(1897年)を参照のこと。
[426] プラトノフ『イヴァン・グロズヌイ』(1924年)。116頁。危機の一般的な原因と経過については、同書117–127頁を参照;グレコフ『ユリーエフの日』。75頁、著者はリヴォニア戦争の重要性を強調している;クリュチェフスキー『ボヤール・ドゥーマ』(第5版)。 305頁以降;16世紀後半のモスクワ公国における社会・経済関係を正しく理解するためには、プラトノフの『論考』を参照することを推奨する;その他:ロシュコフ『農業』(1899年)。同書では、農業構造のほぼすべての側面と危機の原因が考察されている。
[427] 1391年、聖セルギイの死の前夜、修道院はソリガリチ郡の塩鉱山を寄進された。AЮ 1. № 63。15世紀半ばには、修道院はすでに同地に3つの製塩所を所有していた。AAE. 1. № 52。 さらに、大公ディミトリ(1363–1389)から修道院に下された不可争の勅書が存在し、これによって修道院がすでに土地を所有していたことが証明されている。ゴルスキー。『記述』1(1890)。210頁。
[428] ニコンの比較的長期にわたる修道院長在任期間中、修道院は寄進や購入により24の領地を取得した。同上。211–212頁。ロシュコフ。前掲書。405頁。土地所有に関する最古の文書は1414–15年にさかのぼる。AAE. 1. № 19.
[429] ロシュコフ。前掲書。377、402、405、410–415頁。1592–1594年の目録によれば、修道院は142,999チェヴェルティの耕作地を所有していた:ゴティエ。『ザモスコフヌイ地方』(1937年)。 p. 116;さらに、休耕地、森林、漁場、製塩所も所有していた。加えて、目録が失われてしまった5つの郡にある土地も考慮に入れる必要がある。 修道院の土地には、3,988軒の農民の家屋と502軒の無産者の家屋があった。同上。これらの所有地のうち、15世紀に取得されたのは17.3%、16世紀には66.8%、15.9%は取得時期が不明である。ロシュコフ。 同著、406、410–413頁。1432年から1633年にかけて、修道院は新たな土地を取得するために16,934ルーブルを支払った。ゴルスキー。同著、217頁。
[430] ロシュコフ。前掲書、132頁。ディアコノフ。『エッセイ』(1898年)、296頁;ゴティエ。前掲書、332頁。
[431] 同上、329頁。 1614~1616年の台帳によれば、休耕地は54,604チェヴェルティであったが、1624~1640年にはわずか34,980チェヴェルティとなり、すなわち1592~1594年(当時は40,062チェヴェルティ)よりも少なかった(同上、116頁)。 農民の世帯数も増加した。1614~1616年(すなわち「スムータ」直後)には、農民の世帯がわずか623、ボビル(土地を持たない農民)の世帯が426であったのに対し、1624~1640年には、それぞれ1536と1199にまで増加した。同上。
[432] ボビルとは当初、自分の土地を持たない農民、すなわち無地農民を指していたが、17世紀には土地を持つ農民もボビルと呼ばれることが非常に多くなった。ディアコノフ。 『エッセイ』(1889年)。218頁以降。ボビルを農民人口の特別なカテゴリーとして捉える問題は、ロシア農民史における論争の的となっている問題の一つである。参照:シュマコフ・S.「ロシア法史における不明瞭な点」、『ЖМНП』1904年、第4号。 特に206頁;ヴェセロフスキー・S. 『ソシュノエ・ピスモ』第2巻、517頁;セルゲイヴィチ. 『古代史』第3巻(1903年)、135–136頁、467頁。スタシェフスキー・E. 『ミハイル・フェドロヴィチ皇帝の治世史に関する論考』第1巻(1913年)、 47–49頁;グレコフ・B. 『ルーシの農民』(1946年)。734頁。また、参照:クリュチェフスキー. 『ロシアにおける農奴制の起源』、収録:『オピティ』第1巻、252頁。
[433] ニコルスキー。『キリロ=ベロゼルスキー修道院』第1巻第1号(1897年)。付録VIII~XXV。
[434] ルシンスキー。前掲書。139頁。当時のルーブルの価値については、クリュチェフスキー「16~18世紀のロシア・ルーブルと現在のルーブルとの比較」『読本』1884年を参照。参照:同著『ロシアの歴史』第2巻、337頁。
[435] トロイツェ=セルギエフ修道院の経済史に関する最も重要な資料は、同修道院独自の会計帳簿(「監視帳」、「総括帳」など)に含まれている。収録:『16~17世紀モスクワ国家の社会経済史資料集』。S. ヴェセロフスキーおよびA. ヤコヴレフ編。 1(1929年)。
[436] イオシフォヴォの『聖なる父たちに関する物語』、LZAK第2巻、82頁。
[437] この修道運動の衰退期に関する詳細は、N. ニコルスキーの著作に記されている(第III章および第IV章の参考文献を参照)。
[438] 1397年から1521年にかけての期間について、N. ニコルスキーは60件の寄進と41件の土地購入を特定した。ニコルスキー。1. 2 (1910)。p. 6, 11。聖キリル修道院の売買契約書(1427年)。A.Yu. 1. № 72; 1430年。同上。第6号;イグメン・カッシアン(1448–1468)が漁業権を取得した。同上。第73号;イグメン・フィロフェイ(1469)がさらに1つを取得した。同上。第74号。 1519年 – 土地付きのいくつかの村およびポチノクを取得。同上。第77号。1539年 – いくつかの村をサヴォ・ストロジェフスキー修道院に売却。同上。第80号。修道院の給養台帳によれば、「魂ごとの寄付」が非常に多額であったことが示されている。 ヴァシーリー3世の時代(1505–1533)には1000ルーブルが寄進され、イヴァン4世の時代(1547–1584)には28201ルーブル、17世紀前半には5444ルーブルが寄進された。ニコルスキー。同上。1. 2. p. 170;さらに、金や銀、その他の貴重品も数多く寄贈された。『給養台帳』、掲載:『ORSA紀要』1(1851)。p. 46–139。
[439] ニコルスキー。同上。1. 1. 付録XLII、LVI、LXXV、LXVII;1. 2. XI-XIII。グレコフ。『ルーシの農民』(1946年)。605頁;1568年、修道院はドヴィンスキー郡の製塩所と漁業権を購入した。 アユ。1. 第85号;1577年にはさらに2つの製塩所が購入された。同上。第88号および第98号;1598年にはカルゴポリの町で土地が購入された。同上。第96号。
[440] AAE. 1. 第377号。
[441] AI. 1. 第163号。
[442] ロシュコフ。前掲書。394頁、391頁;AAE. 1. 第285号。
[443] スミルノフ。前掲書。1(1917)。p. 111;AI。3。No. 61。
[444] ニコルスキー。同上。1. 1. 付録VIII-XXV;1637年については、AAE. 3. 第274号およびAI. 3. 第198号を参照のこと。これらでは、おそらく誤りであるが、農民の世帯数はわずか2101と計上されており、耕作地は25490チェヴェルティと評価されている。
[445] 主な出典:『ヤロスラヴリのスパス修道院の歴史的文書』。ヴァフラーメエフ編。全3巻(1896年)。当修道院の経済については、我々が『16~17世紀のヤロスラヴリ市におけるスパス修道院の経済史』(原稿)において研究している。
[446] PSRL. 1. p. 186, 190; 10. p. 69.
[447] プレオブラジェンスキー, G. 『ヤロスラヴリ市の修道院と教会』(1901年)。p. 3, 7;マカリイ. 7. p. 171;クリュチェフスキー. 『聖人伝』。p. 74。
[448] ストロエフ。『ロシア正教会の聖職者および修道院長名簿』(1877年)。377頁。
[449] AI. 1. 第3号、第4号。OAMYU. 4. 第147号、第149号、第253号;AYU. 2. 第481号。
[450] AI. 1. 第10号;2. 第13~15号。
[451] 同上。2. 第19~21号。
[452] 同上。2. 第32、33、30、31、35、26、27、28号。
[453] 1573年10月9日および1584年10月1日の判決(AAE. 1. № 308; SGGD. 1. № 208)は、死者の供養のために修道院に財産を寄進することを禁じ、この種の交換を奨励していた。 1674年になってもなお、修道院はイ・P・プロンスキー公との間で、自身にとって極めて有利な交換を行った。ホルモゴロフ『ロシアの十分の一税』(1891年)。64頁。
[454] 1627~1629年、1629~1631年の帳簿。A.I. 3。計算は筆者らによる。もし1デシチナあたり約20コペン(クリチェフスキー『講座』第2巻(1908年)。 366頁)とすると、修道院の所有する草刈地は少なくとも937.14デシチナ(!)あったことになる。
[455] 同上。3. 130–252頁、253–255頁。計算は当方による。
[456] 当時、税負担のため息子たち間の農場の分割はめったに行われなかったため、農場の数が増加した要因のうち、こうした分割によるものはせいぜい10~15%に過ぎない。つまり、新たに取得された農場は600以上あったことになる。
[457] シフコフ『土地所有の歴史について』222頁。
[458] 本稿の記述の基礎となっているのは、イオシフォフ修道院の豊富なアーカイブ資料に基づいたK. シェペトフの論文「16世紀末におけるイオシフォ・ヴォロコラム修道院の領地における農業」である(『歴史紀要』18号(1946年)所収)。 同修道院は、あらゆる賦税を免除する完全な免税特権(タルハン)を有しており、これが修道院の富の蓄積に寄与した。同上。96頁。
[459] 同上。95頁。その内訳は、大公およびツァーリからの寄進が10,031ルーブル、公爵からの寄進が4,389ルーブル、聖職者(大主教および司教)からの寄進が7,195ルーブル、ボヤールおよび従臣からの寄進が9,345ルーブルであった。 イヴァン4世皇帝だけでも7000ルーブルを寄進しており、そのうち4300ルーブルは、オプリチニナで殺害されたヴォエヴォダ、ボヤール、公爵、貴族、ボヤールの子供たち、および監禁中に亡くなったすべての人々の魂の安息を祈るための寄付金であった。 イワン・ツァーリの息子であるフェオドール・ツァーリは修道院に1035ルーブルを寄進し、ボリス・ツァーリは800ルーブル、イリーナ・ツァリーツァは500ルーブルを寄進したが、これらすべては死者の供養のためであった。 興味深いことに、17世紀には、以前ほど多くの寄進が修道院に寄せられなくなった。これは、私たちの見解では、同修道院が前世紀ほど巨大な「国家的・教会的」役割を果たさなくなったことに起因すると考えられる。
[460] 同上。94頁。修道院当局は資金を倹約して使っていた。153件の新規取得のうち、購入されたのはわずか23件であり、12件は交換され、118件は故人の冥福を祈るための寄進として受け取られたものである。
[461] 同上。96頁。ゲロンティイ。『ヴォロコラムスクのイオシフォフ修道院』。46頁。トロイツェ=セルギエフ修道院は、1510年になってようやく石造りの壁の建設に着手できた。つまり、創設からほぼ200年が経過していたのである。ゴルスキー。『記述』。7頁。 1592年、イオシフォフ修道院には非常に豊かな家畜群があった:乳牛292頭、子牛62頭、去勢牛117頭、羊153頭;厩舎には385頭の馬が飼われていた。シェペトフ。前掲書。134、137頁。
[462] 同上。94、115頁。
[463] ロシュコフ。前掲書、418頁。主に、領地は奉公人から、寄進または購入によって取得された。ツァーリは修道院に19の村を、個人は53の村を寄進した。同上、421頁。
[464] シェペトフ。前掲書。96頁。ヤムス(馬車)税およびストレルツィの穀物徴収は、すべての修道院に対して義務付けられていた。 タルハンは、イオシフォフ修道院に対し、パン、塩(!)、魚、バター、植物油、蜂蜜、布、毛皮など、様々な食料品やその他の商品を関税なしで買い入れ、修道院に持ち込むことを許可していた。同上。97頁。
[465] 同上。
[466] 同上。99頁;ロシュコフ。前掲書。146頁。
[467] シェペトフ。前掲書。100–102頁。この経営体制の変化は、他の修道院でも見受けられる。ロシュコフ。前掲書。132頁;17世紀については、ゴティエ。前掲書(1937年)。329、251頁を参照。 管理を担当する修道士(村の長老)や信徒の執事が記帳を義務付けられていた各種の経帳(「種まき帳」、「脱穀帳」など)は、極めて正確である。そこには、穀物の1メーラ、干し草の1コプナに至るまで詳細に記録されていた。 同様に、農民の賦役も記録されていた。農民が滞納した1グロシュごとに、収穫の時期や再融資の際に督促が行われた。コリャジェムスキー、ボルディンスキー、アントニエフ=シイスキーなどの他の修道院の経理帳簿も、同様の特徴を備えている。
[468] 参照:RIB. 35 (1917). № 263;ディアコノフ『論考』(1898)。49、52、54、59頁;クリュチェフスキー『講座』2。342頁以降、326頁。
[469] ニコルスキー。前掲書 1. 1. 付録VIII。
[470] ペレティャトコヴィチの初期の著作(1877年および1882年)では、修道院の所有地についてあまり詳しく述べられていない。後に公表された史料により、修道院の経済活動についてより包括的な理解を得ることが可能となっている。
[471] ロシュコフ。前掲書。374頁。
[472] 同上。25頁;ヴァシリエフ A. 「スヴィヤジスク郡における土地所有の歴史について」、『イズヴェスチヤ・カザン』12(1894)。605、608頁。 参照:ペレティャトコヴィチ。前掲書(1877年)。p. 21。スヴィヤジスクにあるもう一つの修道院、ウスペンスキー修道院は、塩の関税免除取引のおかげで多額の収入を得ていた。AAE. 1. p. 382。 トロイツェ=セルギエフ修道院もポニゾヴィエに所領を持っており、1593~94年にはカザン県だけで耕地1275デシャチン、森林3125デシャチン、放牧地41デシャチンを所有していた。ロシュコフ。 同著。カザンのジラントフ修道院は、1552年から1598年にかけてその領地を大幅に拡大した。興味深いことに、修道院の領地が拡大したのは、かつてカザンの役人たちの領地として割り当てられていたが、その後放置されていた土地を巧みに耕作したおかげであった。 『ジラントフ修道院の文書集』。270、278、281–285頁;A.I. 1. № 191;リビンスキー『カザン市の簡史』1(1898)。48頁。
[473] テチュシにあるポクロフスキー修道院と農民との間で結ばれた同種の契約の例については、以下を参照のこと:『公文書集』。S. メルニコフ編。1 (1859)。第27号、31–37頁。
[474] 例:RIB. 14. 第275号または第302号;参照:ディアコノフ『古代ルーシの社会・国家体制に関する論考』(1912年、第4版)。105頁。
[475] 北部の例など、さまざまな記録については、以下を参照:ボゴスロフスキー『地方自治』第1巻;ディャコノフ『概説』(1898年)、163–165頁。 また、グレコフ『ルーシの農民』725頁も参照。さらに、M. ディアコノフ編『賦役人口の歴史に関する文書』(1897年)第1巻も参照。
[476] クリュチェフスキーが主張するように。『講座』第1巻(1906年)。24頁。
[477] 「大動乱」の影響は、ポニゾヴィエ地方の西部の郡――アルザマス、アラティル、スヴィャージ――でより顕著に現れた。プラトノフ『論考』329、513頁;また、ミトロポリス・エルモゲンの書簡(1606年12月24日付)を参照:『ロシア帝国国家アーカイブ』 2. 第61号およびヴォエヴォダG. G. プーシキンによる書簡。同上。第160号;また:『AAE』2. 第104、144、149、156号;『AI』2. 第112、113、141、145号。
[478] 詳細は以下を参照:ヴェセロフスキー S. 『ミハイル・フェオドロヴィチ治世初期における7回の徴税および5分の1税の徴収』、『チェテニヤ』(1909年)。第1巻、150頁;ゴティエ。『ザモスコフヌイ地方』(1906年)。213、230頁;ニコルスキー。 同著 1. 2(1910年)。261、266頁。スムータの期間中には、5つの新しい修道院さえ設立された:ズヴェリンスキー。3. 第1449、2154、1249号;2. 第1110号;ポクロフスキー。 『修道院の歴史』7頁。カザン教区の土地所有が絶えず拡大していたことは特徴的である。1623年の目録によれば、1603年から1623年にかけてこれらの所有地がどれほど増加したかが推し量れる。 例えば1612年、カザン都主教エフレム(1606–1613)は、「カザン国家全土の判決(!)」に基づき、新たな領地を獲得することに成功した;この注目すべき文書については、『チェテニヤ』1896年、第3巻、第5部、9頁を参照のこと。
[479] これらの情報は我々が抽出したものである;『資料』については、ポクロフスキー『1764年までのカザン修道院の歴史』、『カザン通信』18(1902年)所収の付録I-XXVを参照のこと。
[480] スミルノフ『モスクワ国家の都市』1. 2(1919年)。298頁、290頁。
[481] 1646年の戸籍簿(欠落部分あり)は、ニコルスキー『前掲書』第1巻第1号(1897年)の付録IV~XXVに掲載されている。カザン県に関しては、5つの修道院に関するデータのみが記載されている。
[482] 情報は当方により抽出された。参照:「資料」:ポクロフスキー『前掲書』付録X-XXV。
[483] 同上。付録I-XXV。
[484] 1696年、すでにピョートル大帝の治世下において、各教区の主教座および修道院は、アゾフ遠征のための船を自費で建造することが義務付けられていた。エラギン・S. 『ロシア海軍の歴史。アゾフ時代』(1864年)。51頁。 聖職者の所有地は17の「クンプァンスト」に分割され、各々8000戸の農民世帯が属していた。カザン都主教区は1126戸の農民世帯からなる独立したクンプァンストを構成し、9800ルーブルを納付した。 同上。54、61頁。この目的のために、農家の戸数の集計が行われた。ポニゾヴィエにおけるこの調査では、4つの修道院が計上された。1696年の農家数を、1646年および1678年のデータと比較してみよう。
[485] ミリュティン。前掲書、『チェテニヤ』1860年、第3巻、132頁、142–143頁、151頁。
[486] ザヴィャロフ。『エカテリーナ2世治下の教会所有地に関する問題』(1900年)。246–347頁。両調査を照合すると、シノド事務局が1744年のデータを用いたことがわかる。
[487] クレメンス・アダム、前掲書、152頁;ホーシー、『16世紀末のロシア』(ロンドン、ハークリット協会刊)。マカリイ、8、229頁より引用;ペトレユス、『ムシュコヴィチ王国の記述』(Regni Muschkowitici Sciographia)。 ストックホルム、1615年(ドイツ語版:『Historien und Bericht von dem Großfürstentum Muschkow durch Petrum Petrejum de Erlesunda』。ライプツィヒ、1620年;ロシア語版:『モスクワ大公国の歴史』、掲載:『Chteniya』。1867年。第2号。418頁)。
[488] プラトノフ『講義』(1915年、第9版)。165頁。小規模な土地所有、主に小規模な私有地は、修道院に売却されたり、抵当に入れられたりした。ヴェセロフスキー『14~16世紀の北東ルーシにおける村と集落』(1936年)。56頁。 多数の文献を参照:『トヴェリ文書』。S. シュマコフ編。第1巻(1896年)および『ウグリツキ文書』(1899年);この傾向は17世紀にも続いた。
[489] ロシュコフ。前掲書、399、400頁。17世紀以降については、ゴティエ。前掲書(1937年)、251–255、329、351頁を参照。
[490] ロシュコフ。前掲書。385頁。
[491] ボゴスロフスキー。前掲書。65–77頁。
[492] グネヴシェフ。前掲書;バガレイ。前掲書。
[493] これに関する詳細は、スミルノフ『前掲書』1(1917年)、108–134頁を参照。
[494] 同上。170–231頁。
[495] この目録については、ニコルスキー『前掲書』1. 1(1897年)の付録VII~XXVを参照。
[496] 1661年の名簿(170年の名簿)は、『ORSA紀要』第2巻(1861年)401–422頁に掲載されている。348の修道院では、100戸未満の世帯数であった。
[497] シヴコフ。前掲書。221–225頁。
[498] 1480年のモスクワ公国の人口は約210万人であった。100年後の16世紀末には430万人、17世紀末には約1,260万人となった。ポクロフスキー。 「人口」、『ロシア百科事典』第40巻。ミリュコフによれば、16世紀半ばの人口は1,000万~1,150万人、17世紀末には1,700万~1,800万人であった。ミリュコフ。『ロシア文化史概説』第1巻(第6版)。26頁。
[499] 一部の聖人の伝記は、経済的な心配事が修道院生活のあり方全体にどのように影響したかを伝えている。例えば、修道士インノケンティによるパフヌティイ・ボロフスキーの最期の日の記述では、インノケンティは、パフヌティイが死の床にあってもなお日常の雑事に追われていたと記している。クリュチェフスキー『聖人伝』。 437頁。
[500] すでに言及したセルゲイヴィチ(3)、ウラジーミルスキー=ブダノフ、パヴロフ=シルヴァンスキーの著作に加え、以下も参照のこと:ザゴスキン・N. 『モスクワ国家における法史』(1877年)。ディアコノフ・M. 『古代ルーシの社会・国家体制に関する論考』(1908年、第2版1912年); ベリャエフ・イ. 『モスクワ国家における土地所有の形態』、掲載:『ヴレメンニク』第11号(古いものの、貴重な研究);ブルーメンフェルト. 『古代ルーシにおける土地所有の形態』(1884);ロジェストヴェンスキー. 『16世紀のモスクワ国家における奉仕制による土地所有』(1897); ヴェセロフスキー・S. 「領地制度の起源に関する一考察」(1926年);同著。「16世紀後半のモスクワ・ルーシにおける修道院の土地所有」、『歴史紀要』10(1941年)(残念ながら、この著作は入手できない)。
[501] 特に参照:ヴェセロフスキー『その問題について』(1926年)。
[502] 「ベリイ(белый)」という用語は、官令用語において、賦税を免除された人を指していた。「ベリイにする(обелить)」とは、賦税を免除することを意味した。「ベロポメツ(белопоместец)」とは、国家への賦税を支払わなかった「ベリイの土地」の所有者を指す。 そのような土地を所有する権利は、国家に奉仕する義務と結びついていた。ティャーグリー・リディは、「ベリイ」の土地か、あるいは君主の土地のいずれかに住んでおり、どちらの土地を利用する権利に対しても税を納めていた。このように、ティャーグリー・リディの土地に対する権利は、他人の土地を利用する権利に過ぎなかった。 君主の土地に住み、都市社会や農村共同体を構成していた「тяグリー・リディ」は、「黒い人々」と呼ばれていた。これらは主に、国家に属する農民や都市住民であった。 さらに、次のような事情にも留意する必要がある。従士や教会の土地に住み、国家に対して一定の義務を負っていた農民は、行政用語では「黒い人々」とは呼ばれず、彼らが住み働いていた土地の性質に応じて、「地主の民」あるいは「修道院の民」と呼ばれていた。 このカテゴリーの農民にとって、土地所有者は義務に関して彼らと国家との間の仲介者であり、また「免訴状」に基づき、司法権も有していた。一方、「黒い人々」は、彼らが所属する共同体を通じて国家に対する義務を果たしていた。これについては、ディャコノフ・M.『エッセイ』(1908年)を参照するのが最も良い。 『勅令』の用語において、「君主の黒地」とは、賦役を課された黒地の人々が利用していた土地を指し、一方、「君主の土地」という表現は、国家が役人に対し、その勤務期間中および職務の性質に応じて荘園として割り当てた土地を指していた。 参照:ロジェストヴェンスキー。前掲書。もっとも、すべての土地は常に「ゴスダレヴァ・チェルナヤ・ゼムリャ」――すなわち、ツァーリおよび大公の土地――であり続けた。例えば、1550年の『ウロジェニエ』第84項(A.I. 1. № 155)を参照。 モスクワ君主の臣民の法的意識において、また法的文書の表現においても、全土地の最高所有者は国家、すなわちツァーリであった。ここから、古ロシアの「土地はツァーリのものだが、私はその主人である」、「土地は神とツァーリおよび大公のものだが、畑と収穫は我々のものだ」といった表現が生まれている。
[503] これについては、ボゴスロフスキー『前掲書』第1巻、91頁以降を参照のこと。そのような「黒い修道院」の一つに、例えばチェルモゴルスカヤ・プスティンがあった。1676年の修道院長による報告書から明らかなように、このプスティンには農民はおらず、 修道院の土地は一部が賃貸され、一部は修道士たち自身や収穫期に雇われた労働者によって耕作されていた。規模の小さい修道院の所有地はすべて「黒い土地」であった。RIB. 14. 442頁。
[504] ボゴスロフスキー。前掲書。93、96頁。「野原」と呼ばれた南部では、あらゆる土地は形式上はツァーリの所有(ゴスダレヴァ・ゼムリャ)であったが、実際にはその土地のすべてが従者たちの間で分配されていた。新しく設立された修道院は、この地域でごくわずかな土地しか与えられなかった。 参照:ネクラソフ, N. 「16世紀のリャザン地方の歴史に関する論考」、『ЖМНП』1914年、第4号;ベロツェルコフスキー, G. 「16世紀および17世紀のトゥーラとトゥーラ県」、『キエフ大学』1914–1915年。 そこには黒土はなかったものの、農民も修道院も、そして一部では従軍者までもが、国家への貢納金を支払っていた。ドブロクロンスキー・A. 『ソロチンスキー修道院』、『チェテニヤ』1888年、第1号、48、61、62–68頁。
[505] ゴルスキー。『記述』。第1巻、324頁。 免訴状には重要な変更が加えられた。以前は(教会以外の事柄において)皇帝の管轄下にあった修道院の院長が、これ以降は総主教の管轄下に入るようになったのである。ボリス皇帝の時代、修道院の領地に住む農民たちは、いくつかの新たな特権を付与された。同上。225頁。
[506] スミルノフ。前掲書。96頁。
[507] なお、農民の経済状況が極めて良好であったため、修道院に対する債務が一切なかったケースも珍しくなかったことに留意すべきである。 イオシフォ・ヴォロコラム修道院の農民の状況もそうであり、特に1573年から1581年にかけて、モスクワ中心部を震撼させた農業危機が周囲で猛威を振るっていた時期にはそうであった。 注目すべきは、契約期間が満了して借金なく修道院の土地を去る農民に対し、修道院当局が退去金を支給していたことである。16世紀末のヴォロコラム修道院の収支帳簿、『歴史アーカイブ』第2巻、72、76、83ページなど。
[508] 参照:ベリャエフ『ルーシの農民』(1860年);ディャコノフ『論考』(1898年);グレコフ『ルーシの農民』(1946年)。 農奴制の発生について:グレコフ、前掲書;エンゲルマン I. 『ロシアにおける農奴制』(1884);クリュチェフスキー V. 「ロシアにおける農奴制の起源」、『ロシア月報』1885年10号、および『試論と研究』(1918);同著『ロシア史』第2巻 第17章;デボルスキー・N. 「所有農民の農奴化問題について」、『ЖМНП』1895年11号;ベリャエフ・P. 「古ロシアの領主制と農民の農奴化」、『ЖМНП』1916年8–9号。
[509] ディアコノフ『論考』(1898年)。 16–39頁。グレコフ。前掲書。630、641頁(同書において、彼はディアコノフの主張の一部を補足している);また:スミルノフ・イ. 「古住人に関する問題」、『歴史の問題』1946年8–9号(本稿では入手不可)。
[510] ディアコノフ。同上;ニコルスキー。前掲書 1、2。37頁以降;シェペトフ。前掲書。97頁。すでに15世紀には、勅許状において、後に修道院の土地に定住した農民とは区別して、古住人が言及されている。例えば、以下を参照: AAE. 1. 第20、21、51、53号;また第5、34、35号。キプリアン都主教の書簡(1391年)は、農民が修道院のために遂行すべき労働について明確な理解を与える。AAE. 1. 第11号。
[511] 16世紀および17世紀の文書がいくつか現存しており、それらは「黒い村」や従士たちの領地からの農民の逃亡について述べている。AAE. 1. 第234号(1552年)。第258号(1561年); アユ。第177、178、183号(16世紀);第189、194、196号(17世紀)。トロイツェ=セルギエフ修道院については:『収支帳』(1614年)、『社会・経済史の史料』所収。 1(1929);イオシフォフ修道院については:『収入・支出台帳』、『歴史的アーカイブ』2、70、74、83、84頁。
[512] 手形(ポルーチヌイ)の例:Ayu. 第177、178号(16世紀、ヴィャジツキー修道院に関するもの);RIB. 12. p. 458, 1366, 1468(プリルツキー修道院に関するもの);『アクト』 メニコフ編。1. 第21、23、26、27号ほか(ポニゾヴィエのポクロフ修道院による)。個々の修道院の経営下にある様々な領地において、農民は地域の実情に応じて異なる義務を果たしていた。例えば、以下を参照:AAE. 1. 第348号(トロイツェ=セルギエフ修道院)。ドブロクロンスキー。前掲書、61頁、69–85頁;ディャコノフ。『論考』(1898年)。131頁、163頁。会計帳簿: イオシフォフ修道院のものは『イスト・アルク』第2巻に、ボルディンスキー修道院のものは『RIB』第37巻に、コルニリエフ=コメルスキー修道院のものは『LZAK』第5巻(1871年)に、コリャジェムスキー修道院の文書は『LZAK』第23巻(1910年)に掲載されている。
[513] 『RIB』第12巻、198頁(1634年)、201頁(1637年);『AI』第3巻、第240号(1627年)。ディアコノフ『論考』(1898年)、147頁以降;グレコフ『ルーシの農民』、694頁。
[514] 古ロシア語の「ボビル」という語は、ドイツ語で「Unglückliche」(「不幸な者」)と訳される。文書では、これらの農民はしばしば「ネヴゾゴドニキ」と呼ばれている。参照:ディアコノフ。 『随筆集』(1898年)。206–240頁;ボゴスロフスキー。前掲書 1。136頁。
[515] また、参照:ロジェストヴェンスキー S. 『16~17世紀のモスクワ公国の農村人口』、収録:『ロシア史概説』。M. ドヴナル=ザポルスキー編。3(1912年)。41–44頁。
[516] 注503を参照。また、以下の著作も参照のこと:オディネツ・D. 「モスクワ国家の所有農民による移住権の喪失」、『P. N. ミリュコフ記念論文集』所収。パリ、1929年;ミハイロフ・P. 「古住権制度と農奴制」、『ЖМНП』1912年1号;同著。 「土地の古住権の起源に関する一考察」。同上。1910年。6号。
[517] 『AAE』第1巻、第48号;『DAI』第1巻、第198号。ロシアの農民暦における「ユリエフの日」の役割については、カリンスキー・I.「ルーシにおける教会・民間の月暦」、『地理学会紀要(民族学部門)』第1巻(1877年)、325頁を参照。
[518] AI. 1. 第59号;AAE. 1. 第64号、第83号。
[519] 実際の慣習におけるこれからの逸脱については、例えば以下を参照:アユ。第186号および第290号。
[520] 『ストグラフ』(カザン版、1862年)。412–414頁;A.I. 1. 165;A.A.E. 1. 第257号。
[521] AAE. 1. 第234号(ヴァジ地区およびシェンクル地区に関するもの、1552年);AI. 1. 第193号(アストラハンにあるトロイツキー修道院に関するもの、1575年);ディアコノフ。 『エッセイ』(1898)。6(スヴィヤジスクの聖母修道院に関するもの、1576年)。この問題に関する資料は、16世紀のピスツォフ・クニガ(地籍台帳)にも含まれている。参照:ネヴォリン。『ピャティナとポゴストについて』。167頁。
[522] デボルスキー。前掲書、掲載:『ЖМНП』1895年、第1巻、99頁;グレコフ。『ユリエフの日』78頁;同著。 『ノヴゴロド・ソフィイスキー・ドムの経済に関する論考』、LZAK 34 (1927)、113頁;オディネツ『前掲書』、205頁。
[523] 『RIB』14、135頁。17世紀に関しては、こうした訴訟に関する文書が多数残されている:『AI』3、第286号(1621年)、第160号(1629年); AAE. 3. 第141号(1623年);RIB. 35. 第263号(1616年)。参照:ディアコノフ『論考』(1898年)。52–59頁。
[524] この勅令は、かつては農民の土地への恒久的な縛り付けおよび農奴制の始まりであると誤って考えられていた。勅令の原本は現存せず、後世の文書に基づいて復元された。参照:ウラジミールスキー=ブダノフ。前掲書。139頁。
[525] 同上、139頁;ロジェストヴェンスキー『前掲著作』、収録:『ロシア史概説』第3巻、63頁。 1597年の規定は、その後の数年間で、1601年11月28日、1606年2月1日、および1607年3月9日の新たな勅令によって確認され、補足された。ウラジーミルスキー=ブダノフ。同上。139頁以下; クリュチェフスキー『ロシアの歴史』第2巻、342–344頁;ディャコノフ『論考』(1898年)、49頁。
[526] 逃亡農民については、修道院の帳簿を参照のこと:トロイツコ=セルギエフ修道院の総括帳簿、『16~17世紀モスクワ国家の社会経済史資料』第1巻(1929年);AAE第3巻、第66号(1615年); AMG. 2. № 143。参照:ロジェストヴェンスキー。「17世紀のモスクワ国家における逃亡農民捜索のための『定年』の歴史」、『V. O. クリチェフスキー記念論文集』(1909年)所収。152–154頁。
[527] AMG. 2. 第143号。
[528] 修道院の使用人とは区別すべきグループとして、文書上では同じく「修道院の人々」と称されているものの、実際には使用人ではなかった人々がいた。彼らは修道院の経営に携わっていたが、その出身は主にボヤールの子弟や貴族階級であった。彼らについては、後述の領地管理システムの解説において触れることとする。
[529] 特に、ゲロンティウス都主教の書簡には、修道院の使用人について多く言及されている。A.A.E. 1. 第113号(1478年)。
[530] アルセニー、アルヒマンディト。『報告集』、収録:『論文集』。1867年。3;ドブロクロンスキー。 同著、11–12頁;『ヤロスラヴリのスパス修道院の歴史的文書』3、77頁。ティホミロフ・M.「16世紀の修道院領主」、『歴史紀要』3、149–152頁(イオシフォフ修道院について)。
[531] 主に以下を参照:ディアコノフ『論考』(1898年)。295–321頁(参考文献一覧付き)。グレコフ『ルーシの農民』。695頁以降。
[532] ディアコノフによる幼子に関する広範な出典リストを参照。同上、295、298頁;ドブロクロンスキー。同上、33頁;ペレティャトコヴィチ。『17・18世紀のヴォルガ川流域』(1882年)。93、117頁。
[533] 1547年のイオシフォフ修道院に関する記録:グレコフ。前掲書、695頁;1576年のトロイツェ=セルギエフ修道院に関する記録:『モスクワ国家の会計台帳』第1巻。 第1部。68、73、82、76、611、642頁など。
[534] グレコフ。前掲書、695、710頁;ディャコノフ。『論考』(1898年)。303頁――ほぼ同様。
[535] グレコフ。前掲書。711頁。
[536] AAE. 3. 第262号。ツァーリの叱責は正当であった。修道院の規則によれば、男子は修道院に住んだり、修道院に残ったりしてはならないからである。 『ストグラフ』はこの慣習を厳しく禁じていた:『ストグラフ』。カザン版。229、233、236頁。トロイツェ=セルギエフ修道院にいた孤児たち(その数は600人に達した)については、アルセニー『前掲書』8、56頁を参照。
[537] ディアコノフ『論考』(1898年)。333頁。
[538] 同上。298、303、306頁;ドブロクロンスキー。前掲書。33頁。
[539] ティホミロフ。前掲書。151頁。
[540] 『スパスキー修道院の歴史的文書』第3巻、77–85頁;ニコルスキー。前掲書、第1巻、第2巻、付録「D」。
[541] ドブロクロンスキー。前掲書。74頁。
[542] ボルディンスキー修道院の収支帳、掲載:RIB. 37. 20–22、36–38、43–46、64–69頁ほか。
[543] クリュチェフスキー。「ベロモルスク地方におけるソロヴェツキー修道院の経済活動」、『モスクワ大学紀要』1866–67年、第7号、574頁;また『研究の試み』(1913年)にも収録。
[544] サヴィッチ。『主要な点』。55頁。
[545] 例えば、リャザン県にあるソロチンスキー修道院:ドブロクロンスキー。同著、89~93頁;あるいはスモレンスク地方にあるボルディンスキー修道院:RIB 37。 p. 188, 192, 219, 240 など、またニジニ・ノヴゴロドのブラゴヴェシェンスキー修道院:RIB. 2. No. 51;参照:コリャジェムスキー修道院の文書、LZAK. 23(文書の記述のみ)。
[546] ストロジェフ。「ヴォログダにおける修道院の土地所有」、『V. O. クリチェフスキー記念論文集』(1909年)。362、366頁。そこでは、遠方の修道院も店舗を構えていた。
[547] すでに15世紀末には、キリロフ修道院はヴォログダで毎年少なくとも2400プードの穀物を購入していた。AAE. 1. 第126号、第283号を参照;ニコルスキー。前掲書 1. 1. 「D」部。248頁。 修道院は各地の都市に塩を販売する店舗を構えていた。AAE. 1. № 378;1566年には、ドミトロフ市のたった1つの店舗だけで、修道院は10,000プードもの塩を販売した。同上。№ 271;参照:マカリイ。8. 第2版。8. p. 267。
[548] 文書集(AI、AAE、SGGD)には、この問題に関する広範な資料が含まれている;参照:修道院の商業活動に関するヘンスラーの指摘、『Chteniya』1874年、第4巻、24頁。アストラハンにおける修道院の商業活動については、AI、第1巻、 第193号;また:クリシェール『ロシア経済史』第2巻(1925年)、324頁。例えば、トロイツェ=セルギエフ修道院は、自院の製粉所で自院の穀物を製粉した小麦粉をアストラハンへ出荷していた。ゴティエ、前掲書、537頁。
[549] マカリイ。第2版。7。41頁。
[550] クリチェフスキー。「ソロヴェツキー修道院の経済活動」、『実験と研究』所収。11頁;サヴィッチ。『ソロヴェツキー領地』(1927年)。148頁。修道院の土地所有については、ボゴスロフスキー。前掲書。第1巻。73–75頁を参照。
[551] クリチェフスキー。前掲書、『試論』所収。36頁(『モスクワ大学紀要』第7巻、574頁)。修道院の塩貿易の規模については、以下のデータが示されている:1588年にはヴォログダへ81,201プードが送られ、1598年には – 92,990プード、1608年には– 123,137プードが送られた。サヴィッチ。前掲書、148頁。ヴォログダで修道院は多種多様な穀物を購入し、それらを同じ船で修道院へ運ばせた。 例えば、1608年には、修道院は自家消費用にライ麦15,000チェヴェルティを購入したが、当時、修道院には827人の常勤労働者と286人の季節労働者がいた。同上。110、142、154、213、221頁。
[552] 同上。167頁。
[553] イエロフェイ、アルヒマンディト。『オルロフ州のブリアンスキー・スヴェンスキー・ウスペンスキー修道院』(1866年)。47頁。
[554] この問題に関する資料は、献金台帳に多く含まれている。例えば、アントニエフ・シイ修道院の献金台帳(A. イジュモフ編、『読本』1917年、第1号)を参照。また、修道院の経理帳簿にもこの問題に関する資料が記載されている。
[555] ロジェストヴェンスキー『修道院の土地所有』。87頁;パヴロフ『世俗化に関する概説』。150頁。
[556] 後にトロイツェ=セルギエフ修道院の有名なケラーとなったアヴラアミイ・パリツィンは、修道院に入門する際、自身の村、礼拝用聖書、そして金を持ち込んだ。シュマコフ『ソトニツィ』、『チェテニヤ』1902年 第2号、226頁。
[557] パヴロフ=シルヴァンスキー。『分領制下のルーシにおける封建主義』、収録:『著作集』第3巻、338頁。寄進記録には、「私はその領地で生涯を終えるまで暮らす」という表現が頻繁に見られる。参照:ロジェストヴェンスキー。『奉仕的土地所有』。104–107頁。
[558] パヴロフ=シルヴァンスキー。前掲書、389頁;ロジェストヴェンスキー。前掲書、107、105頁。
[559] 修道院の商業に関するクリュチェフスキーの見解については、ボヤール・ドゥーマ(1884年)p. 288を参照。
[560] 第1回全地公会議、第17規則;第6回全地公会議、第10規則およびラオディキア公会議、第4規則。これらの規則は、モスクワ・ルーシでも知られていたヨハネス・スコラスティクスの『ノモカノン』にも収録されている。 1416年、フォティオス都主教はプスコフの聖職者たちに書簡を送り、その中でこの横行を厳しく非難した。A.I. 1. 第22号、および:『ストグラフ』カザン版、345頁;1649年法典、第10章。 1727年、聖職者たちは貸付期間満了後、年率6%の利息を徴収することが許可された。ミリュティン。前掲著作、収録:『チェテニヤ』1859年、第4号、101頁。この許可は、1754年5月13日の勅令によって確認された。PSZ。 第10235号。15~16世紀の多数の文書から、修道院や修道士が個人的に利息を受け取っていたことがわかる。参照:『アユ』第15号、71号、232号、238号、241号、243号、245号、248号、255号、267号など; DAI. 1、第51号、第55号。これに関する詳細は、私の論文『Kyrios』4号(1939年)、29–38頁を参照のこと。
[561] 個別の例:『アユ』第234号、第236号、第237号、第241号(これら3件はいずれもキリロフ修道院に関するもの)、第254号;『AI』第1巻、第104号、第106号、第163号; DAI. 1. 第157号;AI. 3. 第138号;5. 第32号など。
[562] AAE. 2. 第42号(1646年);4. 第26号(1648年); DAI. 1. 第21号、第113号など。AYU. 第108号。1649年の法令(第16章、§4–5)では、このような交換を禁止しようとする試みがなされたが、成功しなかった。
[563] RIB. 32. 第229号(1567年、コリャジェム修道院に関するもの)またはRIB. 35. 第470号(1638年、プリルツク修道院に関するもの)。
[564] 古ロシアの教会文学における「スターツェ」という言葉の、実に多様な意味について説明しておく必要がある。第一に、スターツェとは、単に年配の修道士、すなわち聖職の位を持たない者――イエロモナフではない――を指すことが多かった。この意味で、モスクワ――第三のローマ――に関する著作の著者であるスターツェ・フィロフェイについて語られている。 第二に、「スターツ」とは、いわゆる「ソボルヌイ・スターツ」(大修道院の長老たち)を指し、イグメンと共に修道院を運営し、特別な奉仕を担っていた修道士たちのことである。そして最後に、「スターツ」とは、見習い修道士や他の修道士たちを霊的に導く、年配で経験豊富な修道士たちを指す場合もあり、これこそが本来の意味での「スターツ」である。 「スタレツ」という言葉が異なる意味で用いられた例として、ノヴゴロド大司教シメオンがスネトゴルスク修道院に送った書簡が挙げられる。そこでは、「スタレツ」という言葉が2か所では霊的指導者を指し、他の2か所では「ソボルヌイ・スタレツ」を指している。RIB. 6. № 45;参照:スミルノフ。 『古ロシアの霊的指導者』、掲載:『チェテニヤ』1914年、第2号、26頁。
[565] I. A. 『セルギエフ・ポサドのキリスト降誕教会』、『チェテニヤ』1891年、第3号、4–8、17、28、33頁。このような修道院関係者の名簿については、アルセニー『前掲書』、『チェテニヤ』1867年、第3号を参照。
[566] これは、例えばソロチンスキー修道院の文書からも明らかである。ドブロクロンスキー。前掲書。28–29頁。修道院の料理人については、ヴィヴェデンスキー・A.「16~17世紀の北ロシアの修道院における料理人の労働活動」、『セヴェル』(1923年)を参照。 36–64頁(残念ながら、筆者は入手できていない)。
[567] I. A. 『キリスト降誕教会』。8頁;シェペトフ。前掲書。115頁。
[568] ドブロクロンスキー。前掲書。24頁以降;参照:マカリイ。第2版。8。260–262頁。
[569] ゴルチャコフ。『修道院管理令』。40頁以降。
[570] 修道院の所有地からの租税徴収については、参照:ロシュコフ『農業』221–231頁;ヴェセロフスキー『耕作に関する書簡』第1巻第1号、300頁; ウラジミールスキー=ブダノフ。前掲書。189頁;ドブロクロンスキー。前掲書。61頁。
[571] ディアコノフ『論考』(1898年)312–316頁。同著『歴史文献における居住地区』、「ロシア歴史雑誌」第5号(1918年)154–176頁;ヴェセロフスキー、前掲書第1巻第1章;第2巻 660頁。ラッポ=ダニレフスキー。『直接課税の組織』。530頁(ちなみに、この著作は教会史家にとっても非常に貴重なものである)。1630年の勅令は、ストロジェフ『地方官庁の勅令集』101–103頁に収録されている。
[572] AAE. 1. 第28号、131号;AYU. 1. 第31号、4号;AI. 1. 第71号、74号;参照:ロジェストヴェンスキー『奉仕的土地所有』。138頁。
[573] 同上。138頁;AAE. 1. 第200号;AI. 1. 第143号;ミリュコフ『論争の的となる問題』17頁。
[574] ロジェストヴェンスキー。前掲書。140–143頁;スミルノフ。『モスクワ公国の都市』1(1917年)。108頁;ストロジェフ。「コストロマのイパチェフ修道院およびボゴヤヴレンスキー修道院の農業生活史について」、『チェテニヤ』1894年。 137頁。
[575] ロジェストヴェンスキー。前掲書。144頁;ミリュコフも同様の見解を表明している(『論争の的となる問題』。48、79頁)。
[576] AAE. 3. № 34, 97–99; DAI. 2. № 26, 33(キリロフ修道院);AAE. 3. № 97(プスコヴォ・ペチェルスキー修道院);AAE. 2. № 160(プリルツキー修道院)。
[577] アヴラアミイ・パリツィン。『伝説』、RIB第13巻所収。
[578] AAE. 2. 第135号。特に多額の金がトロイツェ=セルギエフ修道院の聖具室から奪われた。ボリス王は15,400ルーブル、偽ドミトリーは30,000ルーブル、ヴァシーリー・シュイスキー王は20,000ルーブルを奪ったが、これは当時としては莫大な財産に相当した。 マカリイ。10。223頁。「動乱の時代」後にモスクワを訪れた外国人たちは、修道院からの金銭徴収について記している。ルシンスキー。前掲書、『チェテニヤ』1871年、3巻、144頁。
[579] AI. 4. 第3号;マカリイ. 11. 204頁;DAI. 10. 第34号;RIB. 12. 1046–1065頁、1188–1215頁;ミリュティン。前掲書、『チェテニヤ』1861年、第2巻。 p. 465, 471–477。このように、アレクセイ皇帝はポーランド戦争の際、トロイツェ=セルギエフ修道院から100,000ルーブル、キリロフ修道院から10,000ルーブルを徴収し、総主教管区(修道院を含む)からは10,000人の兵士を動員した。
[580] AAE. 1. 第298号;『ストグラフ』。カザン版。235、297頁;AI. 1. 第154号. 2;AAE. 4. 第315号。PSZ. 3. 第1664号;ゴルチャコフ。 修道院局。41–55頁。
[581] AI. 1. 第115号(1505年)、第147号(1547年);AAE. 1. 第164号(1517年)、第179号(1534年);AYU. 1. 第30号. 4(1554年)ほか。
[582] アユ。1. 第30.4号;第209.5号;第211号;『ストグラフ』。カザン版。第5章および第72章。
[583] DRV. 14. p. 196; 『ストグラフ』カザン版 p. 235, 297.
[584] 同上。第5章および第67章;DAI. 1. 第46、48、114、130号。 非公認の勅書の実例:1471年 – キリロフ修道院宛。AAE. 1. 第95号;1494年 – トロイツェ=セルギエフ修道院宛。同上。第131号;1500年 – イオシフォフ修道院宛。同上。第136号; 1535年および1551年 – トロイツェ=セルギエフ修道院。AЮ。1. 第97号および第75号;1542年 – ニコラエフスキー・コレルスキー修道院。AИ。1. 第141号;1547年 – ストロキンスカヤ修道院。 同上。第147号;1573年 – アストラハンのトロイツキー修道院へ。同上。第184号ほか。宗教的事案に関する司法権が司教に委譲された事例:AAE. 1. 第386号;2. 第16号、62号; 3. 第67号;AI. 2. 第58、69、77、86号;AI. 2. 第65号;DAI. 2. 第37号など。 しかし、多くの場合、非裁判令状によって、宗教的事案に関する司法権は、その管区の主教本人に対して直接付与され、その司法官(デシャティルニク)には付与されなかった。例:DAI. 1. 第44号(1548年);参照:マカリイ。第2版。8巻。223頁。
[585] マカリイ。第2版。8。263–265頁。
[586] 同上。265頁;ゴルチャコフ。『修道院指令』。43、48、54–57、66頁および以下。
[587] 同上。91頁。
[588] AAE. 1. 第155号(1667年)、第204号(1675年);PSZ. 1. 第412号;ゴルチャコフ。同上。96頁以降。
[589] 同上。99–102頁;PSZ. 2. 第699号(1677年)。興味深いことに、1667年および1675年の判決後も、一部の修道院は様々な事案について大宮殿事務局に引き続き申し立てを行っていた。例えば、AI. 4. 第166号。
[590] 第I章1節を参照。聖パホミオスと聖バシレイオス大主教の規則は、教会における修道生活の基礎を成していた。新たな時代は、聖サヴァ・オスヴィャシェンヌイ(†532)がパレスチナの自身の修道院のために制定した規則によって幕を開ける。 これは『Cotelerii Ecclesiae graecae monumenta』第3巻、222ページ以降に掲載されている。また、以下も参照のこと:Bardenhewer. 5. S. 127;Welzer. Kirchenlexikon. 第2版、10巻、S. 1434; フィッシャー W. 「聖サバスのティピコンについて」、BZ. 8 (1890). p. 306 以降;クルツ E. 前掲書 3 (1894). p. 167–170;また:オルタルジェフスキー. 『4世紀から6世紀にかけてのパレスチナの修道生活』(1896)およびテオドシイ司祭『4世紀のパレスチナの修道生活』、TKD A(1899)所収。サバスの規律には、個別の独房に住む修道士たちのために作成されたものであるため、いくつかの礼拝に関する指示が含まれている。 聖サヴァの礼拝規則は、正教会の徹夜祷の礎となった。マンスヴェトフ・イ. 『教会規則(ティピク)、その形成とギリシャおよびロシア教会における運命』(1885年)。 168頁以降。聖テオドロス・ストゥディテス(†826)は、自身の修道院のために「ストゥディテス式」として知られる独自の規則を制定した。ケリオート(個室居住の修道士)を対象としたサヴァの規則とは対照的に、テオドロスの規則は共同生活規則の性格を持つ(PG. 99. P. 1704 以降)。10世紀の最後の四半期には、アトス山のラヴラの創設者である聖アファナシオスによって編纂された、いわゆる「聖山の規則」が登場した(参照:Meyer Ph. 『アトス修道院の歴史に関する主要文書』(1894年)。p. 101 以降)。 アトス山規則は、ストゥディオス規則を改訂したものである。そこでも共同生活の必要性が強調されているが、それだけでなく、断食や修道院の規律に関して特に厳格な規定が設けられている (マンスヴェトフ。前掲書、222頁)。その後の数世紀にわたり、ビザンツの共同生活を行う修道院は主にストゥディオス修道院の規則に従って生活していたが、その礼拝に関する規則は、通常サヴァの規則と呼ばれていたエルサレム規則によって、かなりの程度決定されていた。ソコロフ。 『9世紀半ばから13世紀初頭までのビザンツ教会における修道生活の内部状況(842–1204)』、掲載:『Prav. sob.』1893年、第3巻、122頁;Leclercq H. 『Cénobitisme』、掲載:『Dictionnaire d’Archéologie chrétienne et de liturgie』第2巻、 P. 3049–3248 および Monachisme. 同上. 11. 2. P. 1774–1974. セルギイ。前掲書 1. p. 33–46, 113 以降;ゴルービンスキー。2. 2. p. 429.
[591] ゴルービンスキー。第1巻第2部、320–371頁、502–608頁;第2巻第2部、428頁;マンスヴェトフ。同上、113頁以降、121頁以降。
[592] セレブリアンスキー。前掲書。261頁。
[593] ゴルチャコフ M. 「正教会の懲戒法典の歴史について(1874年)」。104–110頁。
[594] ゴルービンスキー。「聖セルギイ・ラドネジスキーと彼が創設したトロイツェ=セルギエフ修道院」、『チェテニヤ』1909年、第2号、47頁、75–86頁;第3号、103頁;RIB、第6巻、第21号。
[595] スパソ=カメンヌイ修道院に関する伝承、『プラヴ・ソブ』1861年、第1号、203、206頁。
[596] ヨシフの「霊的書簡」、掲載:『VChM』。9月。第1部。551頁;『AI』。1。第274号;『AYu』。2。第126号。
[597] スーズダリ大司教ディオニシオスによるスネトゴルスク修道院の修道士たちへの書簡(1382年)、『RIB』第6巻第24号(および『AI』第1巻第5号);ノヴゴロド大司教シメオンによる同修道院への書簡。 同上、第45号;1488年のフォティイ大主教の書簡。同上、第46号;イオナ大主教によるウラジーミルのボゴリュブスキー修道院への書簡(1455年頃)。 同上。第75号(また、『AI』第1巻第265号にも収録);テオドシオス都主教によるペスノシュ修道院への書簡(1461~64年)。同上。第96号(また、『AI』第1巻第276号にも収録)。
[598] 前の注を参照。しかし、例えば、フィリッポス都主教が、修道士が剃髪後も財産を所有する権利を争っていないことは、かなり特徴的である。RIB. 6. 第104号(1472年)、修道士パムヴァの馬に関する事例。
[599] 『ミトロポリス憲章』、RIB. 6. 第128号(また、AAE. 1. 第381号にも収録)。
[600] 『VChM』9月号、第1部、548頁、547頁。
[601] エウフロシーナの伝記、『古ロシア文学の記念碑』第4巻(1862年)所収。67–119頁、172–179頁。エウフロシーナについては、セレブリアンスキー、前掲書参照。参照:マカリイ、第2版、第8巻、129頁以降。
[602] セレブリアンスキー。前掲書。508頁。
[603] 同上。275–278頁、271頁。
[604] マンスヴェトフ。前掲書。298–300頁。この規則は、その詳細な記述によってのみ知られている。 記述。2. 3. 730–732頁;この規律がニル・ソルスキーの弟子によって作成された可能性があるというマカリイの推測(第2版 6. 77–78頁)は誤りである。なぜなら、その最古の写本は15世紀半ばに遡るからである。
[605] マンスヴェトフ。前掲書。301–303頁、299頁。
[606] 『VCHM』9月号、第1部、499–615頁。要約は、フルシチョフ『イオシフ・ヴォロツキー』59–63頁、75–80頁、マカリイ『第2版』第7巻、61–66頁に掲載されている。
[607] 一部の『霊的書簡』の目録には、本文そのものはなく、これら両章の長い見出しのみが掲載されている。解説。第2巻第2号。520頁。
[608] 「好奇心旺盛な者たちへの回答」という名称で知られるこれらの章(『VCHM』546–563頁)は、しばしば別冊として刊行されており、例えば『LZAK』第2巻(1862年)や『Chteniya』1847年、第7号(要約版)などに収録されている。 ヨシフの修道院生活に関する見解は、彼の主要な著作である『啓蒙者』の第7説教や、名もなき修道士への書簡(DAI. 1. 第211号)にも表れている。
[609] 『規律』は、『イリ』第4巻、673–704頁に収録されている。詳細な要約は、コノプレフ『前掲著作』96–100頁、マカリイ第2版第7巻67頁、およびムラヴィエフ『ロシアのフィヴァイダ』20頁に収録されている。
[610] ゲラシムの「遺言」:『スモレンスク教区の記述』(1864年)所収。291–295頁;IRI. 3. 413頁;クリュチェフスキー『聖人伝』305頁;カドゥルボフスキー。 同著、290頁以降。アントニー・シイスキーの『聖人伝』によれば、彼の修道院でも共同生活規律が導入されていたことがわかる。カドルブスキー。同著、311頁。
[611] DAI. 1. 第22号。
[612] PSRL. 6. 284頁。
[613] AI. 1. 第292号。
[614] PSRL. 6. 285頁。
[615] ソコロフ。『内情』。325頁。
[616] 『ニルの「伝承」』(1849年)。XXI-XXII頁。
[617] PSRL. 4. 278頁。
[618] マカリイ。第2版。6。123–124。
[619] 『ストグラフ』。第82章。コジャンチコフ版。244頁。
[620] フィラレート。『ロシアの聖人たち』(1861年)。1月。77頁。『聖人に関する語られし書』、収録:『読本』。1887年。4巻。第324号;ヤホントフ。『北ロシアの修道者の生涯』(1882年)。197–198頁。
[621] フィラレート。『概観』第1巻、377、363、266頁;ポポフ・N.「モスクワ・シモノフ修道院の写本目録」、『読本』1910年、第3巻、233頁。
[622] ヨシフの『霊的書簡』、『VChM』所収、552頁;ジノヴィイ・オテンスキー『真理の証言』(1863年)、901頁。
[623] 『AAE』第4巻、第204号;『AI』第4巻、第253号;第5巻、第75号。『PSZ』第1巻、第412号。
[624] AAE. 4. 第311、312号;アドリアンの勅書、『ヴェレムニク』11巻、30–46頁。
[625] 例:RIB. 6. 第54、61、63、129、113号;AI. 1. 第37号;AAE. 1. 第40、108号。修道院長選挙については、ヨシフとゲラシムの定款にも言及されており、また『ストグラフ』第86章にも記載がある。 コジャンチコフ編。250頁;AЮ。2。第274号;ジマキン『ミトロポリト・ダニイル』。110頁。スタウロピギア修道院については:Milaљ。前掲書。672、675頁。
[626] RIB. 6. 54頁。OLDP(1881)。89頁。
[627] ドシフェイ。『ソロヴェツキー修道院の記述』(1836年)。67頁。
[628] ゴルービンスキー。2. 1. 700頁。イオシフ・ヴォロツキーはヴァシリー3世に修道院長を任命するよう要請し、10名の候補者リストを送った。しかしヴァシリーは、そのリストに名を連ねていなかった(同修道院出身の)修道士ダニーイルを修道院長に任命するよう命じた。ジマキン。 前掲書。110頁;PSRL。6。288、289頁;AAE。1。第238号;AYU。1。第381号;RIB。6。61頁。ゴルスキー。『トロイツェ=セルギエフ修道院の記述』。1(1890年)。 77、80、84、85、88、97、130、156頁。アレクセイ皇帝の時代については:AAE. 3. 第262、307、331号;4. 第37、225、253、275、322号。
[629] 聖セルギイ・ラドネジスキー、キリル・ベロゼルスキー、パフヌティイ・ボロフスキー、イオシフ・ヴォロツキー、ゲラシム・ボルディンスキー、エレアザル・アンゼルスキー、マカリー・カリアジンスキー、アントニー・シイスキー、エウフロシン・プスコフスキーら。
[630] 17世紀、修道院長がツァーリによって任命されるようになると、修道院の運営において、ソボル(長老会)の長老たちは徐々に以前の役割を失っていった。 例えば、アレクセイ皇帝から特別な寵愛を受けていたサヴォ・ストロジェフスキー修道院では、1688年時点で、大修道院長たちはわずか3名であったのに対し、修道士は150名以上いた。ベロクーロフ『ロシア史資料』(1888年)161頁。
[631] 第XV章を参照。
[632] ゴルスキー。前掲書 1。73頁;AAE。1。第237号。247頁。クルブスキー。『伝承』(1842年)。 134頁、132頁。修道院長への不服従については、参照:A.I. 1. 第265号および第276号(いずれも15世紀に関するもの)。
[633] ヨセフの伝記(著者不詳)、『チェテニヤ』1903年、第3号、18頁;ジマキン。前掲書、664頁。ダニイールの著作:同上、付録、55–57頁。ダニイールの他の著作においても、服従の必要性が強調されている。
[634] A.I. 5. 第75号;A.A.E. 4. 第311、312号;P.S.Z. 1. 第412号。
[635] ウスペンスキー, N. 「キリロ=ベロゼルスキー修道院の偉大な建設者たちについて」、『チェテニヤ』1897年、第1号、3、4、11–12、17頁。
[636] ゴルビンスキー。1. 2. 692頁;AI. 1. 第100、192、292号;3. 第69号;DAI. 3. 第87号; AAE. 1. 第381号;3. 第47、104、294号ほか;ケドロフ。「アヴラアミイ・パリツィン」、『チェテニヤ』1880年、第6号、18頁。ゴルチャコフ。『修道院局』。78頁。
[637] VChM. 9月号。p. 607; AAE. 1. No. 221; 3. No. 298; AI. 1. No. 212; マカリイ司教。「クラスノゴルスク修道院の歴史的記述」、『読本』1880年、3号、p. 81; ボゴスロフスキー。 同上 1. 72頁;ベロクロフ『資料』(1888年)。164頁;ドブロクロンスキー。同上。11頁。
[638] 『VChM』9月号、607頁。
[639] 『AAE』第3巻、第298号。
[640] 『AI』第1巻、第25号、178頁;第5巻、第65号、195頁;『AAE』第4巻、第144号。
[641] セレブリアンスキー。前掲書。472頁;『VChM』。9月。600、605、588–590頁;ヴァルラアム・フティンスキーの伝記、掲載:『OLDP』(1881年)。 p. 72, 78, 80, 93; AAE. 2. No. 298; IRI. 7. p. 193, 194; ドブロクロンスキー。前掲書。p. 11, 14; マカリイ司教。前掲書。p. 81; ボゴスロフスキー。 同上、72頁;ベロクロフ『資料集』、164頁;AI 1、第212号;AAE 1、第56、75号。
[642] ゴルービンスキー。1. 2. p. 689。修道司祭および修道助祭の数は様々であった。例えば、キリロフ修道院では1582~83年に7人の修道司祭と3人の修道助祭がいた; 1688年のサヴォ・ストロジェフ修道院では、20人の司祭修道士と15人の司祭助祭が数えられていた。A.I. 1. 第212号;ベロクロフ『資料集』164頁。
[643] 参照:Stiglmayr J. 「偽ディオニュシオスによる秘跡と教会に関する教義」、『Zeitschrift für Katholische Theologie』22 (1898)、p. 246 以下; Holl K. 『熱狂と自制』(1898年)。205頁以降;Heiler. 『初期教会と東方教会』1(1937年)。375頁;レベデフ・P. 『正教会の礼拝学』2(1881年)。 169頁;アントニー(フラポヴィツキー)大主教『正教会のカテキズムの実践』(1924年)。65頁。
[644] 注67を参照。
[645] ゴルビンスキー。1. 2. p. 668.
[646] ロジェストヴェンスキー。前掲書。105–107頁;ボゴスロフスキー。前掲書。82、77頁。
[647] AI. 1. 第211号;AAE. 2. 第11号;RIB. 12. 1218頁ほか;ズヴェリンスキー. 2. 第1247、122、924号。
[648] 例えば、クリノフのウスペンスキー修道院(しかも「世俗的」な修道院であった)の院長が、10ルーブルの拠出金を要求したが、当時(1559年)としては多額の金額であった。AAE. 2. 第11号。
[649] ニコルスキー。「共同生活と独房生活」、『キリスト教論文集』1907年、第8号、181、184頁;AI. 1. № 214。
[650] ゴルービンスキー。1. 2. 668–670頁;Milaљ. 前掲書。657頁。剃髪式については:Maltzew. Begrдbnis-Ritus (1898). 202–203頁; 17世紀の剃髪式については、OLDP. 24および63;イノケンティイ大修道院長『修道への剃髪』(1899);パルモフ・イ.『東方正教会における剃髪式』(1914)。 修道服の各部分の宗教的象徴性については:オッペンハイマー・Ph. 『キリスト教古代における修道服の象徴性と宗教的評価』(1932年)。また、ゴルービンスキー『1. 2.』675–686頁も参照。
[651] Milaљ. 前掲書、658頁。
[652] 同上;Maltzew. 前掲書、203–204、280頁;Heiler. 前掲書第1巻、382–384頁。 現代ギリシャ正教会における剃髪式については、Spunda F. 『Griechische Mönche』(1928年)p. 27–44(式次第の抜粋を含む)を参照。ラエフスキー『エウホロギオン』第3巻、p. 199–217;Kattenbusch 第1巻、p. 529–536。
[653] 出典:セレブリアンスキー。前掲書。265–267頁(抜粋)。
[654] 同上。571頁以降(ドイツ語版:私の著書『Leben und Lehre der Starzen』65–70頁)。
[655] キルヒホフ P. キリアン, O. F. M. 『聖なる年――聖なる奉仕』、『Der christliche Osten』所収。G. ヴンダーレ編(1939年)。75頁。 礼拝の内容と発展については、さらに以下を参照:ハイラー。第1巻、335–364頁;カッテンブッシュ。第1巻、447–456頁。レベデフ。前掲書、第2巻、44–82頁。
[656] P. K. キルホフによる正教会の聖歌の素晴らしい翻訳を参照:1. 『東方教会は祈る』。全4巻(1934–1937年);2. 『イン・パラディスム』。死者の賛歌(1939年); 3. 『Ehre sei Gott. Dreifaltigkeitshymnen』(1940年)。4. 『Uber Dich freut sich der Erdkreis. Marienhymnen』(1940年);ここに充実した序文が収録されている。また、ザンコウ。前掲書、93–99頁。 「何ものにも、――聖ヨハネス・クラマティオスは言う――調和のとれた歌声や、整然と構成された神聖な賛歌ほど、魂を高揚させ、翼を与え、この世から解き放ち、肉体の束縛から解放し、あらゆる世俗的なものを軽んじ、賢明に振る舞うよう導くものはない。 私たちの性質は、その調べにこれほどまでに喜びを感じ、それに向き合う傾向があるため、乳児でさえ、泣いたり落ち着きがなくなったりしたとき、その調べによって眠りにつくのである」。第41篇の説教;引用元:Kayser Joh. Beitrage zur Geschichte und Erklärung der älteren Kirchenhymnen. 第2版、1881年、47頁。ギリシャ(正教会)の賛美歌学については、以下も参照のこと:Christ W. 『中世ギリシャ詩におけるヒルモイ、トロパリ、カノンの意義について』、Sitzungsberichte bayer. Ak. d. Wiss. 1870. 2; ヤコビ(Jacobi)L. 『ギリシャの教会歌の歴史について』、Z. f. KG(1882年);マイヤー(Meyer)W. 『ラテン語およびギリシャ語のリズミカルな詩歌の始まりと起源』、バイエルン科学アカデミー論文集 17. 2(1885年)。クルムバッハー(Krumbacher)(1897年)。655頁以降。
[657] 参照:ヴンダーレ G. 『アトス山の聖なる世界から――研究と回想』(1937年、『東方キリスト教』第2巻)。
[658] 注651を参照;また、Büdumer, S. 『聖務日課の歴史』(1895年);Leclercq, H. 「聖務日課」、『キリスト教考古学・典礼辞典』第2巻第1号(1925年)、1262–1316頁。
[659] 週の各日は、私たちの救いの歴史におけるある出来事、あるいは聖人たちに捧げられている。月曜日――聖なる天使たち;火曜日――洗礼者ヨハネ;水曜日――ユダの裏切り;木曜日――聖使徒、奇跡行者、聖主教たち; 金曜日――キリストの受難と聖十字架;土曜日――聖殉教者、殉教者、およびすべての聖人;日曜日――キリストの復活と聖三位一体。至福の神の母マリアには、週のすべての日が捧げられているが、とりわけ水曜日、金曜日、日曜日がそうである。 このテーマに関する素晴らしい考察については、キプリアン司祭著『祈りの花』を参照のこと。ベオグラード、1928年。57–208頁。
[660] 正教会では、週の日数の数え方は日曜日からではなく月曜日から始まり、一日の始まりは真夜中ではなく午後6時とされ、時間は午前6時から数えられます。 一日を通して、修道士たちは次のように礼拝を行わなければならない。夕方(6時)に晩課、その後に晩祷、夜(12時)に深夜の祈り、早朝(3時)に早課;午前(6時)に第一時;9時に第三時; 正午には第六時、午後3時には第九時が行われる。聖体礼儀は第三時と第六時の間に行われる。これらの日中の礼拝の儀式順序には、ローマ・カトリックの日中の礼拝とは一定の相違点がある。参照:Bdumer. 前掲書. p. 31–130.
[661] 日中の礼拝の順序は、典礼規則(ティピコン)によって定められている。ティピコンの発展と構成については、マンズヴェトフ『前掲書』269頁以降を参照。数多くの古代典礼規則の写本については、以下の基礎的な研究を参照: ドミトリエフスキー, A. 『東方の図書館に所蔵される典礼写本の目録』全2巻(1894年、1916年)。また、Kattenbusch, 1, p. 479 以降;セルギイ修道院長, 前掲書, 全2巻(1875–76年); ニコルスキー・K. 『典礼規則研究の手引き』(1884年、1908年);スカバラノヴィッチ・M. 『注解付きティピコン』全2巻(1911–13年);ブードマー、31頁以降;ハイラー、第1巻、297頁、299頁以降。
[662] マンスヴェトフ。前掲書、78、127、294–296、298頁以降;オディンツォフ・N. 『16世紀以前の古代ロシアにおける公的および私的な礼拝の秩序』(1881); ドミトリエフスキー・A. 『ロシア教会における最初の5世紀の礼拝』、掲載:『法学叢書』1882–1883年;同著。『16世紀のロシア教会における礼拝』(1884年)。レオニード修道院長。『教会礼拝規程のスラブ語訳について』、掲載:『論文集』 1867年、第2号;マンスヴェトフ・イ. 『典礼活動におけるキプリアン都主教』(1882年);リシツィン・M. 『初期のスラブ・ロシア語ティピコン』(1911年)。ロシア正教会の最初の印刷版ティピコンは、1610年にモスクワで刊行された。
[663] マンスヴェトフ。同上。269、275、284、304頁;ゴルビンスキー。1. 1. 320–329、330–377、507頁;2. 2. p. 406;マカリイ。第2版。8。p. 77。
[664] ゴルビンスキー。2. 2. 428–433頁;オディンツォフ。前掲書。40頁。マンスヴェトフ。前掲書。271頁。
[665] マカリイ。第2版。8。78頁。
[666] セレブリアンスキー。前掲書。368–371頁;AI。1。第478号。
[667] マンスヴェトフ。前掲書、301頁;マカリイ。第2版、第8巻、77頁。
[668] ディプティクについては、Leclercq H. 『キリスト教考古学手引書:起源から8世紀まで』第2巻(1917年)、333ページ以降を参照のこと。食事規定集:1. ヨシフォフ修道院(1589–90年)、出典:レオニード、アルヒマンディト『修道院の食堂給食表』、掲載:『読本』1880年、第3号、5–22頁;2. モスクワのノヴォスパスキー修道院(17世紀後半)。同上、24頁; 3. トロイツェ=セルギエフ修道院(1 – 1445–1533年、2 – 1533–1547年)、ゴルスキー『歴史的記述』第2巻(1900年)、16–44頁。マンスヴェトフ、前掲書、301頁。
[669] 東方教会における断食について:マンスヴェトフ『正教東方教会の断食について』、掲載:『補遺』1885年、36号。 355–399頁;37. 630–698頁;Holl K. 『ギリシャ教会における四つの主要な断食期間の成立』、『論文集』第2巻(1928年)(また、『ベルリン・アカデミー論文集』1923年; Phil-hist. Kl. 第5号);ビュマー。前掲書、63–67頁;ゴルービンスキー。第1巻第2号、399–462頁;第2巻第2号、607頁。
[670] レベデフ。前掲書、84–91頁。
[671] 16世紀、コショウは珍味とされていた。フィリップ都主教は、ソロヴェツキー修道院への書簡の中で、同修道院の修道士たちに1ポンドのコショウを賜ったことを特に言及している。この書簡については、フェドトフ・G.『聖フィリップ、モスクワ都主教』(1928年)p. 222を参照。
[672] イオシフォフ修道院の『日用規則』。7、8、17、22、13、16頁。この『日用規則』をノヴォスパスキー修道院の『日用規則』と比較すれば、同修道院において修道院生活の世俗化がいかに進んでいたかがわかる。 そこでは、修道士たちはヴォルガ川産の最高級の魚、最高級のキノコの酢漬け、チーズ入りのパイ、キャビア、蜂蜜を混ぜたペーストなどを与えられていた。 16世紀のイオシフォフ修道院では、修道士と修道院の使用人が同じ食事をとっていた(p. 9)のに対し、ノヴォスパスキー修道院では、修道院の使用人はそれとは異なる、より質素な食事を与えられていた(p. 24)。
[673] RIB. 4. p. 1210, 1419. 断食が禁欲的実践として持つ意義は、15世紀末または16世紀初頭に書かれた『フィリッポの断食に関する説教』において特に強調されている;アルハンゲリスクのニール・ソルスキー。p. 215, 217。
[674] 解説。2. 1. p. 239;ヴィノグラドフ。『定例朗読』、掲載:『BV』1912年、第4号、p. 785。
[675] 『VChM』9月号。505–513頁;また、スミルノフ編『古ロシアの霊的指導者』(1899年)所収の彼の書簡「悔悛について」も参照のこと。 『古ロシアの霊的指導者』(1899年)。付録VI。特に109、110、111頁。同様の記述が、聖コルニリイ・コメルスキーの規律書にも見られる(『IRI』第4巻、669頁)。
[676] マクシム・グレク。『著作集』第2巻、241、243頁;アルテミオスの書簡「未知の人へ」、『RIB』第4巻、1399頁。
[677] RBS所収の同氏の伝記を参照。
[678] 『法典集』1863年版、第3巻、209頁。
[679] ヴァッシアン、『正教叢書』1863年、第3巻、109頁;マクシム・グレック、『著作集』第2巻。 p. 37, 89, 41, 110, 131, 104, 262;ダニイル大主教『修道法および共同生活の規則について』、J. シュマキン編『所著集』付録、p. 644, 666 以下;『ストグラフ』第5章。
[680] ジノヴィイ・オテンスキー。『真理の証言』(1863年)。899頁。
[681] 参照:筆者の論文、『Kyrios』4号(1939年)、29–38頁;シュマキン『前掲著作』付録、39–44頁。
[682] PSZ. 1. 第412号。AAE. 4. 第161号;AI. 5. 第112号;また、AAE. 4. 第311号、312号。
[683] 『ストグラフ』第5章、49、52頁;ジノヴィイ・オテンスキー、前掲書、899頁;ダニイル都主教の著作『修道生活の相違について』における、独立修道院の修道士たちの特徴に関する記述、掲載:シュマキン。 同上。付録。660頁。キリロフ修道院およびトロイツェ=セルギエフ修道院について(1590年)、『DAI』1巻、第135号。
[684] ニコルスキー。「共同生活と独居生活」、掲載:『キリスト教論文集』1907年、224頁。 157、173頁および以下;『AI』第1巻、第204号。この書簡の執筆時期について:ニコルスキー。「ツァーリ・イヴァン・ヴァシリエヴィチ4世によるキリロ=ベロゼルスキー修道院への非難書簡がいつ書かれたか」、『キリスト教誌』1907年、223号、852頁。
[685] 「嘆願書」を参照。G. クンツェヴィチ編(1912年)。
[686] エウフロシーナの規則、第11章;ヨシフの規則、第2章;コルニリイの規則、第13章;参照:RIB. 6. 209頁、602頁;また:『対話』。ドルジニナ編。13頁、21頁。
[687] 『AI』1巻、第204号;『ストグラフ』第52章。
[688] AAE. 4. 第161号。参照:同上。第311号、第312号;AI. 5. 第7号、第75号。
[689] ジマキン。前掲書。650–690頁。ここにダニイールの書簡が掲載されている。
[690] チュデツキー、TKDA 1877年、第4巻、73頁。
[691] マカリイ。第2版。7。54頁。
[692] 『AI』第1巻第212号。1508年、ニロ・ソルスカヤ修道院にはわずか12人の修道士しかいなかった。マカリイ。第2版、第7巻、44頁。
[693] クリチェフスキー。『試論』(1913年)。36頁;1568年、ソロヴェツキー修道院には200人の修道士が身を寄せていた。フェドトフ。前掲書。224頁。
[694] マカリイ。第2版。7。55頁;『読本』。1884年。4。23頁。
[695] ボゴスロフスキー。前掲書。第1巻。 p. 72;1606年に創設されたクラスノゴルスク修道院(ホルモゴルスキー郡)には、1624年には9名、1677年には12名の修道士がいたが、1661年にはすでにキエフ都主教区から17名の修道士が移住していた。 マカリイ司教『クラスノゴルスク修道院の歴史的記述』、「チェテニヤ」1880年、第3号、62、81頁。南ルーシから北ルーシの修道院への修道士たちの移住については、以下も参照のこと:ハルランプヴィチ・K.「ルティシェフスカヤ学校」、『BV』1913年、第5号、8頁。
[696] ベロクロフ。『資料集』。164頁。
[697] スヴィリ川沿いにヴォズネセンスキー修道院が建立され、1684年には5人の修道士がいたが、そこから3~4km離れた場所には別の修道院、ニコルスキー修道院があり、そこにはわずか3人の修道士しか残っていなかった。ベロクーロフ。同上。445頁。
[698] 1724年、教会会議は男子修道院に14,534人の修道士、女子修道院に10,673人の修道女がいると集計した。チュデツキー、TKD A所収。1877年。第10巻。46頁。
[699] Milaљ. 前掲書。672、675頁。
[700] 参照:Goetz L. K. 『アルトゥリアランドにおける国家と教会。キーエフ時代。988–1240』(1908年)。151–154頁;(聖ウラジーミル大公の憲章)、および:マカリイ。第2版。8巻。 143–168頁、176頁、202頁;ヘルマン。前掲書。23頁以下。
[701] マカリイ。第8巻、220頁;第10巻、207、209頁;AI。第1巻、第224、232、234、235、240号;第2巻、58、86、77号; AAE. 1. 第386号;2. 第14号、62号;3. 第67号;RIB. 2. 第190号。
[702] AI. 1. 第46号、第114号、第130号など。
[703] AI. 1. 第46号、第114号;AAE. 2. 第62号。同時に、新任の総主教および一部の司教に対して勅許状が授与された:SGGD. 2. 第73号;AAE. 3. 第109号;AI. 1. 第148号。
[704] AAE. 2. 第17号;ドシフェイ『ソロヴェツキー修道院の記述』3巻、205頁。DAI. 1. 第148号;AAE. 2. 第14号;3. 第285号。
[705] AAE. 2. 第164号(また、SGGD. 3. 第7号)。勅許状には、引き続き世俗の裁判所の管轄下にある刑事事件に関する特別な条項が含まれていた。
[706] ゴルチャコフ。『モスクワの命令』91頁。参照:『ORSA紀要』2(1861年)所収の各種文書;AAE. 3. 第225、262、275号。
[707] PSZ. 1. 412.
[708] ゴルチャコフ。前掲書。95頁。PSZ. 1. 第442号(1669年、刑事事件に関する判決)、あるいはAAE. 4. 第204号(1675年)。 1667年から1675年にかけて、おそらく1667年以降に設立された「ドゥホヴニー・プリカズ」(修道院局の一部門)の活動の結果、1667年の判決が破られたため、1675年の公会議による判決が必要となった。カプテレフ。『世俗の主教官僚』。 p. 211。ピョートル大帝の時代に新たな摩擦が生じ、これがアドリアン総主教に教会裁判に関する決定事項の集成を編纂させるきっかけとなった。カラチョフ・N. 「古代ロシア法体系における『コルムチャ』の意義」、『チェテニヤ』1847年、第4号、付録4、p. 11–80: 「聖職者裁判に関する条項」。これらの「聖職者裁判に関する条項」は、『ストグラフ』の規定、1625年の勅許状(1657年に確認されたもの)、および1668年と1671年のイオアサフ総主教の布告に基づいている。同上。 15、16、67、69頁。さらに、総主教庁は教会の権利に関するタタール・ハーンの勅令集を新たに編纂したが、これはツァーリに承認を求めるために提出されなかった(同上、2頁)。
[709] マカリイ。第2版。7。84–86頁;また、『チェテニヤ』。1912年。2号2。雑録。39–41頁。
[710] マカリイ。第2版。7。85頁。
[711] PSRL. 4. 157–158, 165頁;8. 219, 230頁;6. 252頁。
[712] 『AI』第1巻、第173号。
[713] マカリイ。11。96頁。
[714] ゲロンティイ、アルヒマンディト。『ヴォロコラム・イオシフォフ修道院』。44–45頁。
[715] ゲロンティイ。同上。45頁。
[716] 参照:クリュチェフスキー。『聖人伝』。291頁。ヨシフがトロパールで「ロシアの星」と呼ばれているのも当然である。ゲロンティ。同上。48頁。 19世紀の頃でさえ、修道士たちはヨシフの規則の写しを作成していた。ポポフ・N. 『シモノフ修道院の写本集』、掲載:『読本』1910年、第2号、14、15頁。
[717] マカリイ司教『アルハンゲリスク教区におけるキリスト教』、『チェテニヤ』所収。1878年。第3巻、52頁。
[718] ゴルスキー。『目録』。第2巻、122–123頁。
[719] フィラレート。『概観』第1巻、234頁。
[720] AAE. 4. 第311号;バルスクフ。『ロシア聖人伝の資料源』。218頁。イラリオン聖人の伝記:『ウラジーミル学術公文書館委員会の論文集』10(1908年)。小論:イエロニム。 スーズダリのミトロポリト・イラリオン伝(1867年)――これは入手できなかった。
[721] チストヴィチ・イ. 『ノヴゴロド都主教イオヴ』、『ストランニク』1861年、第2号;関連文献:ポストニコフ『アファナシー、初代ホルモゴル大司教』(1866年); ヴェリュジスキー『アファナシー、ホルモゴル大司教』(1914年)――残念ながら、これらも入手できなかった。参照:『ロシア人名事典』第1巻、1087頁;第2巻、181、182頁。
[722] ニコンに関する主要な文献については、第XII章を参照のこと。
[723] フェドトフ・G. 『聖フィリッポ、モスクワ都主教』(1928年)。特に120–137頁、206–220頁;ロジェストヴェンスキー・S. 「フィリッポ都主教」、RBS所収。
[724] フェドトフ。同上。104頁。
[725] 17~19世紀の列聖については、ゴルビンスキー『ロシア教会における列聖の歴史』(1903年)を参照。
[726] 第III章、4を参照。
[727] クリチェフスキー『聖人伝』319頁;ゴルービンスキー『列聖の歴史』130頁。
[728] 同上。120頁;コノプレフ。前掲書、『読本』1895年、第4号、86–101頁。
[729] ゴルビンスキー。前掲書。117頁;マカリイ司教。「アントニー・シイ修道院に関する歴史的資料」、『論文集』1878年、第3号。
[730] ゴルービンスキー。前掲書。155、314頁;『ニロヴァ・プスティン』、『チェテニヤ』1875年、第3号;ウスペンスキー、V. 『ニロヴァ・ストロベンスカヤ・プスティンの歴史的記述』(1867年、第3版1886年)。
[731] ゴルービンスキー。前掲書、132頁;クリューチェフスキー。前掲書、392頁;セレブリアンスキー。前掲書、317–326頁、538–545頁、568頁以降(ニカンドロスの伝記)。
[732] 特に著名な修道士をいくつか挙げておこう:ゲンナディ・ヴォロゴドスキー(† 1565)、イロディオン・イロエゼルスキー(† 1564)、イオシフ・ザオニキエフスキー(† 1612);アドリアン・アンドルソフスキー(† 1549)、 アドリアン・ポシェホンスキー(†1550)、シモン・ソイギンスキー(†1561)、ゾシマ・ヴォルボゾムスキー(†16世紀後半)、レオンティ・レフノフスキー(†1611)、アルセニー・ノヴゴロドスキー(†1570)、 マルティリイ・ゼレネツキー(† 1603)、アガピト・マルクシェフスキー(† 1584)、イグナティイ・ヴォロゴドスキー(† 1592)、セルギイ・シュフトフスキー(† 1609)、クリストフォール・コリャジェムスキー(† 1572頃)、 フェオドシイ・トテムスキー(† 1568)、フェラポント・モンゼンスキー(† 1591)。参照:『聖人歴史辞典』(1836年、第2版 1862年);ゴルビンスキー、前掲書;バルスクフ、前掲書。
[733] IRI. 4. p. 64;彼がベルスキー家出身であるという説は伝説的である。
[734] クリチェフスキー。前掲書。323頁;『辞書』(1862年)。105–107頁;ゴルービンスキー。前掲書。158頁;プラトノフ。『動乱の時代に関する古ロシアの伝承』。293頁。
[735] IRI. 6. p. 366; クリチェフスキー. 同上. p. 334; 辞書(1862年). p. 181.
[736] クリチェフスキー。前掲書。346頁;IRI。3。607頁;ゴルービンスキー。前掲書。129、136頁。
[737] ヤホントフ。『北ロシアの修道者の伝』。197頁以降;『聖人に関する語録』、掲載:『読本』。1887年。4巻。第324号。エレアザルの伝記、掲載:『正教叢書』。1860年。1巻。
[738] 例えば、イヴァン4世からカザン大司教グリーへの書簡(『AI』第1巻第241号)を参照。また、1649年の法典第20章、第21章、第26章;『DAI』第5巻第241~244号; マカリイ。10。72頁;『AI』。5。第69、75号;シベリア大司教への書簡、『イワノフ。旧事案国家公文書館目録』。1(1850)。263頁。
[739] ドブロクロンスキー。『ロシア正教会の歴史ガイド』12(1889年)。131、132頁。
[740] マカリイ。第2版。6。357頁;ゴルービンスキー。『列聖史』。148頁;セレブリアンスキー。前掲書。342–344頁;クリチェフスキー。『聖人伝』。236頁。
[741] 『15~17世紀の北ポモリエにおけるロシア正教会』、掲載:『正教集』1860年、第2号、3頁以降。
[742] シェスタコフ P. 「ロパール人の啓蒙者アルヒマンドリト・テオドリトスと聖トリフォン・ペチェンギ」、掲載:『ЖМНП』1868年、第7号、242頁以降;マカリイ。第2版、第6巻、330–332頁。
[743] トリフォンの伝記:『正教叢書』1859年、第2巻、89–120頁;『イリナ・イヴァノヴナ・ルビツカヤ』第4巻、582頁;ゴルビンスキー、前掲書、156頁;シェスタコフ、前掲書。
[744] 『AAE』第1巻、第241号;『DRV』第5巻、241頁;ポクロフスキー・I. 『カザン大主教座』(1902年)、6頁。カザン大主教(のちの都主教)は、位階上、大主教の中で第3位(第1位はモスクワ、 2位 – ノヴゴロド)。DAI. 4. № 102; SGGD. 2. p. 59.
[745] DAI. 1. 第97号;ヘッセン,G. 「モスクワ公国における捕虜の生活」,『ロシアの過去』第2号(1923年),61頁。ポニゾヴィエにおけるキリスト教宣教の歴史については、以下を参照: モジャロフスキー・A. 『1552年から1867年にかけてのカザン異民族の啓蒙を目的とした宣教活動の経緯』、『チェテニヤ』1880年1号;ニコルスキー・N. V. 『16~18世紀の中ヴォルガ地方のチュヴァシュ族におけるキリスト教』、『イズヴェスチヤ・カザン』 28. 1 (1912);スミルノフ・イ・N.「チェレミス族」、『カザン学報』6 (1889);同著「ヴォトヤキ族」、『カザン学報』8. 2 (1890);同著「ペルミャキ族」、『カザン学報』9. 2 (1891); 同著『モルドヴァ』、『カザフスタン通信』10–12号(1892–1895年);ペレティャトコヴィチ・G.、前掲書(1877年および1882年);ならびにN. N.およびN. A. フィルソフらの古い著作(1864年および1868年)。 改宗したタタール貴族への領地の授与については、以下の多数の文書を参照のこと:『V. I. バユシェフ公爵のアーカイブ。旧カザン宮殿事務局管轄区域の歴史的・法的資料』第1巻(1882年)。
[746] 1. マカリイ。10。72頁;モジャロフスキー。前掲書。7、23頁;AAE。1。第358号。
[747] モジャロフスキー。前掲書。p. 23, 30, 32. PSZ. 2. № 867; 1649年法典。第16章。§44;第20章。§70–71;第25章。§24。一部のタタール公爵の改宗については、ヴェリャミノフ=ゼルノフ『カシモフのツァリに関する研究』3(1866年)。p. 207–215を参照。
[748] ヴォズドヴィジェンスキー, I. 『リャザン教区の歴史』。122頁。
[749] スロヴツォフ。『シベリアの歴史概観』第1巻(1836年)。58頁。
[750] この書簡は、イワノフ『記述』第1巻(1850年)、263頁に掲載されている。
[751] A.I. 5. 第69、75号;ビストロフ・F. 『シベリア地方における最初のキリスト教徒(1586–1631)』、掲載:『Prav. ob.』 1866. 2. 377頁;スマロコフ『シベリアにおける宣教活動』、掲載:『キリスト教誌』1883年9–10号;1884年5–6号。
[752] モスクワ国家の地籍台帳。1. 1. p. 76, 279, 611 ほか。
[753] セレブリアンスキー。前掲書。325頁。
[754] マカリイ。7。p. 299;AI。1。No. 204。
[755] ヘルベルシュタイン。『モスコヴィア』。V. F. D. シュタイネン編(1926年);92頁;『チェテニヤ』1884年4号、24頁。
[756] フィラレート。『ロシア教会の歴史』第3巻、211頁。
[757] DAI. 1. 第149号;ズヴェリンスキー. 3. 第2231号;ヘッセン. 前掲書. p. 61.
[758] フィラレート。前掲書。第4巻、240頁;『読本』。1863年、第4号、付録、22頁。
[759] ベロクロフ。『資料集』。163、166頁。
[760] アルセニー。前掲書、3頁;ドシフェイ。『ソロヴェツキー修道院の記述』1(1853年)、267頁以降。
[761] ペトロフ・V. 『修道院のゴリシュニャ』、『デラ・イ・ディニ』1923年、第3号。
[762] この宗教運動の対外史については、以下を参照のこと:Gehring Joh. 『ロシア教会の宗派』(1898年)。11–16頁;Arndt A.、『Z. f. Kath. Th.』38(1914年)。コストマロフ・N. 『伝記によるロシア史』。ライプツィヒ、1886年。 p. 292–322;マカリイ。6。p. 81–118;ゴルービンスキー。2. 1。p. 560–607;パノフ。「ユダヤ主義者の異端」、『ЖМНП』。1877年。2号;ニキツキー。 『ヴェリキー・ノヴゴロドにおける教会の内部史に関する概説』、同上。1879年。7号;イリインスキー・F. 『大主教ゾシマと聖職補フェドール・クリツィン』、BV。1905年。10号。 212–235頁;ドルゴフ・S. 『1490年のモスクワ公会議:ユダヤ教化者に対するもの』、『チェテニヤ』1902年、第3号、113頁;セデルニコフ・A. 『1490年の公会議:異端審問について』、『古ロシア文学委員会論文集』第1巻(1932年)。 33–58頁:また、『Religion in Geschichte und Gegenwart』第4巻(1930年)、2159–2165頁(誤りあり);旧著:セルヴィツキー『ノヴゴロドの異端者たちに関する研究の試み』、掲載:『Prav. ob.』1862年、6–8号――すでに時代遅れとなっている。
[763] マカリイ。第2版。7頁、184頁;ゴルービンスキー。第2巻第1部。606頁;第2巻第2部。219頁。 今日に至るまでその価値を失っていないP. ズナメンスキーの著作(匿名で刊行された)『啓蒙者聖ヨセフ・ヴォロツキー』、『Prav. sob.』1859年、第3号;フルショフ『選集』p. 133を参照。
[764] ホルツヴァルト。前掲書、264頁。
[765] この運動の宗教的ルーツが完全に解明されたとは考えられない。ボチャノフスキー・V.(『14~16世紀のロシアの自由思想家たち』、『ノヴォエ・スローヴォ』1896年12号、 p. 170)は、ユダヤ教化派の思想をフス派と結びつけている。これに対し、F. イリンスキーは、彼らの思想をボゴミル派の思想に遡らせている(『15世紀のロシアのボゴミル派』、掲載:『BV』1905年6号、p. 447)。 本質的に、この宗派の思想には明らかな合理主義的色彩が見られた。彼らの教義は主に旧約聖書に基づいており、新約聖書の三位一体やキリストの位格に関する教義、ならびに十字架やイコンの崇拝を否定していた。さらに、彼らは教会の階層制度や修道生活に対しても反対の姿勢を示していた。 学術的な論争については、以下も参照のこと:ペレツ V. 『15世紀のユダヤ教徒とその文学に関する新論考』、キエフ大学誌 1908年 10号;ベデルジツキー『ユダヤ教徒に関する文献への注記』、ロシア哲学雑誌 1911年 3–4号;同著。 『ユダヤ教徒の文学活動』、『ЖМНП』1912年3号;また、スペランスキー『同上』およびペトゥホフ『同上』
[766] マカリイ。第2版、7、187頁。
[767] 『プロスヴェティテル』の出版者(第4版、カザン、1904年)は、最初の11語が最後の5語(12~16)よりも前に、1490年の公会議の直後に作成されたとの見解を示した(15頁)。
[768] 「旧約聖書と新約聖書の書物――彼はそこに外典や非正典の書物も加えている――に加え、ヨセフは教父たちの著作、殉教録、聖人伝にも誤りなき権威を認めている…… 神聖な聖書と教会の伝承の無謬性、そしてそこにおけるいかなる批判も許されないこと――これらはヨセフにとって自明の理である」とホルツヴァルトは述べている (Holzwart. Op. cit. S. 266, 268);ヨセフの教義の個々の項目の列挙を参照(Ibidem. S. 293, 311)。
[769] 『啓蒙者』(1857年)。539、597、601、604、588頁。
[770] ニフォンへの書簡、掲載:RIB. 6. p. 825.
[771] 『読本』。1847年。第1号。
[772] 『DRV』第16巻(1791年)。423–424頁。
[773] ジマキン。前掲書。406–424頁(ダニイールの著作)。
[774] DRV. 16 (1791)。p. 424, 428;ヴァッシアンが書簡の起草に関与したことについては、参照:フルショフ。前掲書。p. 188;ジマキン。前掲書。p. 69。
[775] 参照:ジマキン。前掲書。69頁;付録。10。506頁。
[776] 『法令集』1863年、第3巻、199、201、204頁。
[777] AAE. 1. 第239号. p. 253.
[778] RIB. 4. p. 1221, 1384, 1232.
[779] バシュキンの見解について:『AAE』第1巻、第239号、第238号。マカリイ。第2版、第6巻、250–258頁;ゴルービンスキー。第2巻第1号、821–825頁
[780] 16世紀30年代にはすでに、モスクワでルターに関する最初の情報が伝えられていたことが、1536年に執筆された『ルターとその異端について』という著作からうかがえる。ポポフ・A. 『ロシア版年代記の概観』第2巻(1869年)、130頁。 マクシム・グレクは、主にイコン崇敬に関して、ルターに対する反論を著した(著作集 1、485–494頁)。 1552年のポーランド議会(シュラフタに信仰の自由を認めた)以前から、カルヴァンの教義はポーランドとリトアニアに浸透しており、同時にソッツィーニ派も急速に広まっていた。参照:Völker K. 『ポーランドの教会史』(1930年);Grabowsky Th. 『ポーランドにおけるカルヴァン派文学の断章』(1906年);リュボヴィチ・N. 『ポーランドにおける宗教改革史。カルヴァン主義と反三位一体論者』(1883年);ヴォッチケ・Th. 『ポーランドにおける宗教改革史』(1901年);ソコロフ『16世紀および17世紀におけるプロテスタントとロシアの関係』(1880年)。
[781] ゴルービンスキーによるアルテミイの伝記の再構築の試み(2. 1. pp. 832–836)を参照;また、サドコフスキー。前掲書、pp. 60–85。
[782] マカリイ。第2版。6巻、265頁。
[783] ゴルービンスキー。第2巻第1部、835頁。
[784] RIB. 4. ここではアルテミイの著作14編が掲載されている。そのうち5編は、彼の生涯におけるモスクワ時代(1359–1373年、1382–1390年、1390–1400年、1400–1420年、1432–1441年)に属する; 9編はリトアニアで執筆された(1555年以降):第1編:1201–1266頁;第2編:1266–1273頁;第3編:1273–1287頁;第4編:1287–1328頁; 第5巻:1423–1432ページ;第6巻:1420–1423ページ;第7巻:1441–1448ページ;第8巻:1328–1359ページ;第9巻:1373–1381ページ。特に重要なのは:1. クリウト派の教師たちへの書簡;4. 異端者シモン・ブドニーへの書簡;5. 同氏への書簡。参照:プリス V. 「シモン・ブドニーとリトアニアにおける宗教改革」、『キリスト教論文集』1911年、第2、9、10号。
[785] RIB. 4. 1228、1259、1261、1249頁。
[786] 同上。1223、1260、1224、1261、1236、1271頁。
[787] 同上。p. 1261。
[788] 同上。1232、1275、1342頁。
[789] 同上。1278、1343、1298、1299頁。
[790] 同上。1341、1335、1406、1303、1324、1275、1301、1444、1384、1407頁。
[791] シモン・ブドニーは当初、おそらくギリシャ正教の信徒であったが、後にカルヴァン派となり、16世紀半ばにはリトアニアのミンスク近郊の町クレツクでカルヴァン派の牧師を務め、そこで熱心にカルヴァン派の教義を説いた。彼は2つの著作を残している:1. 『カテキズム』(1562年、ベラルーシ語)および2. 『人間の義認について』(ロシア語)。その後、ブドニーは反三位一体論者へと転向した;マリーシェフスキー・イ. 「ポロヴェツ人イワン・スメーラから大公ウラジーミルへの偽書簡」、掲載:『TKDA』1876年、2. 507–513頁;プリス・V. 同上。
[792] RIB. 4. p. 1442(No. 4:シモン・ブドニー宛)、1231(ルーテル派の教師宛)、1343(No. 8:匿名宛);また:RIB. 4. p. 1265, 1309。
[793] 同上。1205–1208頁、1278頁、1350頁。
[794] 同上。1314頁。
[795] 同上。1203、1265、1326、1342、1443頁。
[796] 同上。1251頁、1277–1279頁。
[797] 同上。1253、1264、1268、1348頁。
[798] 同上。1210、1255、1358–1359、1265、1422頁。
[799] 同上。1211、1250、1295–1297、1444–1445、1243、1247、1270、1284、1446頁。
[800] 参照:アンドレーエフ, N. 「修道士ジノヴィイ・オテンスキーによるイコン崇敬とイコン画について」、『Seminarium Kondakovianum』第8号(1936年)、259–262頁;著者はジノヴィイの伝記を再構築しようとしている。 ジノヴィイに関する主要な著作:カルギン・F.『ジノヴィイ、オテンスキーの修道士、およびその神学的論争的・教会道徳的著作』(1894年)――残念ながら、私はこれを入手できなかった。この著作に関するロシア語の書評を参照:ボチャノフスキー・V.、『ЖМНП』 1894. 11;また、カルギン・F.「オテン修道院のジノヴィイ修道士の説教集」、『ЖМНП』1893. 2および5;タラシイ(司祭)『古ロシア神学における転換点』(1927)も参照。
[801] 参照:ポミャロフスキー・M.「15~16世紀におけるモスクワとノヴゴロドの関係に関する問題」、『ЖМНП』1898年9号。
[802] リジガ。『ジャーナリストとしてのマクシム・グレク』。8頁。
[803] ゴルービンスキー。2. 2. 224–225頁、227–228頁;また:タラシイ神父。前掲書。
[804] ジノヴィイ・オテンスキー:1. 『真理の証言』、『Prav. sob.』1863–1864(カザン、1863)所収、および2. 『長文の書簡』、『Chteniya』1880. 2所収;ゴルービンスキー(2. 1. p. 827;2. 2. p. 230)は、ジノヴィイを最初の著作のみの著者であると見なしている。参照:グジイ『古ロシア文学史』(1938年)。p. 282。
[805] 参照:ゴルービンスキー。第2巻第1号、819、820頁。
[806] ジノヴィイ。『真理の証言』。第4章、第21章、第22章、第8章、第29章、第26章、第30章、第23章、第27章、第43章、第44章、第45章。参照:マカリイ。第2版。第6巻。 p. 275–278;エメリャノフ・イ. 『テオドシイ・コソイの教義』、掲載:『TKDA』1862年、第6号;ゴルービンスキー。2. 1. p. 820, 825–830;サドコフスキー。『長老アルテミイ』、掲載:『読本』1891年、第4号。 106–109頁;マリシェフスキー。前掲書。518–524頁;ソコロフ・イ. 『16世紀および17世紀におけるプロテスタントのロシアに対する態度』(1880年)。266–267頁。
[807] 参照:マカリイ。第2版。6巻。273頁;8巻。467頁;ゴルービンスキー。2巻1号。826頁;2巻2号。 225頁。この著作が、実際に、修道士たちがジノヴィイのもとを訪れ、コソイの見解について語り始めたという事実のみに関連して、偶然に生まれたものなのかどうかは定かではない。参照:ジノヴィイ。「長文の書簡」、収録:『読本』1880年、第2巻、N. ポポフによる序文、1頁。
[808] 参照:ベストゥシェフ=リュミン『ロシアの歴史』1(1877年)、230頁以降、265頁、273頁以降;リュバフスキー・M.『16世紀末までの古代ロシア史』(1918年);ニキツキー。 『ヴェリキー・ノヴゴロドの生活に関する随筆』、掲載:『ЖМНП』1869年、第10号;グレコフ・B. 『ノヴゴロドの聖ソフィア教会』(1914年)。
[809] 『真理の証言』。第5~12章、第14~19章、第20章。
[810] 参照:マカリイ。第2版。7。467–492頁およびゴルービンスキー。2. 2。225–229頁。ジノヴィイとイオシフの比較的特徴については、マカリイ。第2版。7。 492–494頁;また、タラシイ修道士『前掲著作』7–16頁、32–40頁、98–110頁、137頁、146頁も参照。 1899年から1900年にかけて、カザン神学アカデミーでの学位論文としてこの著作を提出した修道士タラシイは、修道生活や修道院の所有地に関するヨシフ派の見解を共有している(40–46頁)。 これらの見解がロシアの修道生活にいかに深く根付いていたかを示す、極めて特徴的な証左である。
[811] AAE. 1. № 172. p. 142; マカリイ. 第2版. 6. p. 169, 170, 171, 172.
[812] マクシム・グレク。著作集 1。530頁。
[813] ゴルービンスキー。第2巻第1部、703頁;第2巻第2部、221頁。スペランスキー・M. 『古ロシア文学史』。モスクワ期(1921年)。 146頁;グジイ。前掲書(1938年)。279頁;マカリイ。第2版、第7巻、295頁;ジマキン。前掲書、259頁など。
[814] ダニイルの著作については、シュマキン『前掲書』263–270頁を参照。
[815] 同上、263頁。
[816] マカリイ。第2版、第6巻、203頁。
[817] ジマキン。前掲書。263頁以降。
[818] 参照:マカリイ。第2版、第7巻、345–367頁。
[819] 『古ロシア文学の記念碑』第4巻、194–199頁(「全ロシアのミトロポリス、謙遜なるダニイルによる、謙遜と合一について」)。参照:マカリイ第6巻、206–207頁。
[820] これについては、以下の文献を参照するのが最も良い:フィラレート。『概観』1–2。
[821] ゴルビンスキー。2. 2. 181–182頁、184–187頁。
[822] マカリイ。10。226–227頁。
[823] クリュチェフスキー。『聖人伝』。297、298頁;イ・ミリュティンによる『ミネイ』の編纂については、同書298頁およびマカリイ。11。222頁を参照。
[824] PDP. 188 (1916)。 その他、それほど重要ではない聖人伝に関する著作については:フィラレート。『概観』第1巻、303、316、319、351、354、360、367、369頁;マカリイ。第11巻、220–222頁。
[825] 聖ディミトリ・ロストフスキーについては、以下の単行書を参照のこと:シュリャプキン・イ・ア. 『聖ディミトリ・ロストフスキーとその時代 1651–1709』(1891年)。
[826] ゴルビンスキー。2. 2. 192頁;『ソフィイスキー年代記』、PSRL 6.
[827] マカリイ。第2版。6。207–209頁;ニコルスキー。キリロ=ベロゼルスキー修道院。1. 1。LXVIII頁;ゴルービンスキー。2. 1。740頁。
[828] ロザノフ・S. 「ニコノフ派」年代記集成と、その編纂者の一人であるイオアサフ、掲載:『イオリアス』1930年、第13号、277頁; 『ストグラフ』第100章;シャフマトフ・A. 「イオアサフの年代記」、掲載:『ЖМНП』1904年、第5号。
[829] ゴルビンスキー。2. 1. 740頁。
[830] 同上。620頁。 ロザノフ。同上。268–270頁。ラヴロフ・N. 『ニコノフ年代記に関する覚書』、LZAK 34 (1927). 1. 55頁。この年代記が「ニコノフ年代記」と呼ばれるのは、その写本が総主教ニコンの所有物であったためである。
[831] セレブリアンスキー。前掲書。21頁、39–46頁、339–341頁、345頁、370頁。 イグメン・コルニリイに関する多くの情報は、美術史家のN. E. アンドレーエフ(プラハ)氏に負っている。同氏は、1937年から1938年にかけてプスコヴォ・ペチェルスキー修道院で行った自身の研究活動、およびその研究資料に基づく自身の単行本について私に伝えてくれたが、残念ながら、 1939~1945年の戦争中に、いかなる根拠もなくドイツ当局によって没収され、行方不明となってしまった。
[832] 『聖人に関する書』、『チェテニヤ』1887年、第4号、55頁(第157号)。
[833] ゴルービンスキー『列聖の歴史』332頁。
[834] ナソノフ・A. 『プスコフ年代記の歴史より』、『歴史紀要』18(1945年)。261頁。
[835] シュリャプキン・イ。エルモライ・プレムードリー、『グロズヌイ』時代の新たな作家、『S. F. プラトノフ記念論文集』(1911年)。 550、553頁。ニコルスキー, N. 「エラズム・プレグレシュヌイについてさらに」、『書誌年報』1 (1914) に収録;リジガ. 「エルモライ=エラズムの文学活動」、『LZAK』33 (1926) に収録。103–200頁; ヤヴォルスキー・A. 「エルモライ=エラスムの文学活動に関する一考察」、『Slavia』第9号(1930–31年)。59–80頁、273–299頁。
[836] シュリャプキン。前掲書。555–562頁。
[837] ルジガ。前掲書。173–176頁。
[838] 同上。157頁。
[839] 第VI章を参照;『ストグラフ』第100章。(832)ルジガ。前掲書。173–176頁。
[840] この著作については、以下の文献を参照のこと:リジガ。前掲書。193–199頁;さらに、152、158、186頁;一部は:ジマキン。前掲書。69–71頁。 参照:ソボレフスキー・A. 『古ロシア文学に関する資料と覚書』、掲載:『イオリアス』17(1912年)。2頁、94–96頁。
[841] 以下の著作を参照する:プラトノフ・S・F. 『モスクワ国家における「動乱」の歴史に関する論考』(1899年)。
[842] 『伝説』(1784年に初めて刊行)は86章からなり、そのうち第1~6章は1584年から1611年までの時代に割かれており、第7~58章は修道院包囲戦に関する詳細な叙述を含んでいる。 最後の第59~86章は、スムータ期のルーシ全体の状況を記述している。アヴラアミイについては、ケドロフ『前掲書』および同著『作家としてのアヴラアミイ・パリツィン』(『ロシア考古学』1886年、第8号)を参照。『伝承』は『PDP』第8巻(1883年)に掲載されている。
[843] クリュチェフスキー『聖人伝』350–351頁。
[844] この著作『我らの父、アルヒマンドリト・ディオニシイの生涯と功績』は、何度も版を重ね(初版1809年)、非常に人気がある。
[845] 「モスクワ国家および全ロシアの地の荒廃に関する物語」、『チェテニヤ』1881年、第2号(初版)。
[846] ゴルスキー。『聖トリニティ・セルギエフ修道院の歴史的記述』。第2巻(1890年)。15頁。
[847] この著作『エルサレムとツァールグラードへの旅に関する物語と伝承』は、1836年、1849年と何度も刊行され、『チェテニヤ』1871年1号、 PDP(1882年);最良の版は『PPS』第42巻。S. ドルゴヴァ編、序文にイオーンに関する情報が掲載されている。
[848] スハノフ・アルセニー。『プロスキニタリイ』、PPS(1889)所収。スハノフについては:ベロクロフ・S. 『アルセニー・スハノフ』(1891)。
[849] 参照:フィラレート。『概観』1–2。ここでは、これらの著作は研究というよりは、単に記録されているに過ぎない。
[850] 参照:マカリイ。11。223–227頁;『プラヴ・ソブ』1864年、1巻、108–126頁、227–246頁に収録。また、マカリイ。10。195頁も参照。
[851] アントニー・ポドールニーは、道徳的・教訓的な性格を持つ著作をさらにいくつか著した;マカリイ。11。224頁;さらに、17世紀前半の書籍の修正に関連して書かれた論争的な著作『浄化の火について』(マカリイ。10。195頁)がある。
[852] フィラレート。『概観』第1巻、第367号。
[853] シュリャプキン。『聖ディミトリ・ロストフスキー』。168–169頁;「総主教イオアキムの生涯と遺言」、掲載:OLDP(1879)およびPDP. 1880. 第2号。論争的な著作: レベデフ・A. 『南ロシアの公文書館における歴史的調査』、『チェテニヤ』1884年、第3号;参照:ツヴェタエフ『ロシアにおける外国の宗派の歴史より』(1866年)、215–236頁。分裂に反対する著作:『書簡集』(カザン、1855年); その他の著作は写本としてのみ現存している。アブラモフ・N.「ミトロポリート・イグナティイ・コルサコフ」『ストランニク』1862年――この著作は私が入手できなかった。イグナティイとアドリアン総主教との関係については:ウストリアロフ『ピョートル大帝の歴史』第3巻、付録7、536頁。
[854] この書簡は、ピクサノフ・A.『リャザン地方の古代文書および公文書』(1854年)第51号、およびヴォズドヴィジェンスキー・T.『リャザン教区の歴史的概観』(1820年)171–181頁に収録されている。 参照:フィラレート『概観』第1巻、第236号;また、ソロヴィヨフ『ロシア史』第14巻、90頁。
[855] フィラレート。『概観』第1巻、第367号;ペトゥホフ。前掲書、234頁。
[856] PSZ. 2. 第1198号および第1199号。
[857] 注820およびポポフ・M.『聖ディミトリ・ロストフスキーとその著作』(1910年)を参照。
[858] マカリイ。12巻、269頁以降。
[859] IRI. 4. 831–860頁;マカリイ. 12. 255–257頁。
[860] PSZ. 1. 第188号。
[861] AI. 4. 第172–177号。
[862] ミルコヴィッチ。「総主教時代の学校と教育について」、『ЖМНП』1878年、第7号。スメンツォフスキー・M. 『リフダ兄弟。17世紀末から18世紀初頭における教会教育と教会生活の歴史に関する研究』(1899年);リフダ兄弟については第XI章を参照。
[863] シュリャプキン。 前掲書。付録。77–79頁。カリオン・イストミンについては:ブライロフスキー・S. 『カリオン・イストミン。その生涯と著作』、ChOLDp. 1889. 4–6;同著。『カリオン・イストミンの伝記について』、ZhMNP. 1891. 8。
[864] シュリャプキン。前掲書。256、263、283、368、370、442ページ;付録。79ページ。
[865] 「ギリシャの影響は教会的なものであり、西欧の影響は国家的なものであった」とV. O. クリュチェフスキーは記している。「ギリシャの影響は社会全体を覆い尽くしたが、人間全体を覆い尽くすことはなかった。一方、西欧の影響は人間全体を覆い尽くしたが、社会全体を覆い尽くすことはなかった」(『ロシアの歴史』第3巻、283頁)。 概観として、西洋の影響の全体像を明確に把握するのに役立つ最も重要な著作をいくつか挙げておく:プラトノフ・S. 『モスクワと西洋』(1925年);ペトロフ・N. 「西ロシア文学が古ロシア文学に与えた影響について」、『TKDA』1872年、第4、5、7号(この古い著作は今でも十分に有効である); クリュチェフスキー・V. 『17世紀ロシアにおける西洋の影響――歴史心理学的論考』、『哲学と心理学の問題』第36、38、39号(1897年);同著『ロシアの歴史』第3巻、281–307頁;ミリュコフ・P. 『ロシア文化史のスケッチ』 全2巻(1898–1901);ブリュックナー A. 『ロシアのヨーロッパ化』(1888);ルター A. 『ロシア文学史』(1925);ウィンクラー M. 『17世紀初頭以降のロシア史』、収録:『プロピレアン世界史』第9巻(1933)、310–420頁。
[866] 1037年以降、ロシア正教会の最高指導者であるキエフ都主教の居城はキエフであった。キリル2世都主教(1240–1280)は、キエフとクラーズマ川沿いのウラジーミルを交互に拠点としていたが、 その後継者であるマクシム大主教(1283–1305)は、1299年に最終的にウラジーミルへ移った。ペトル大主教(1308–1325)は、その居所をウラジーミルからモスクワへ移した。当時、ロシア南西部の教区はリトアニアの支配下にあった。 1448年、イオナがモスクワ都主教に任命された。ポーランド王兼リトアニア大公カジミェシュ4世は、特別勅書により、リトアニアの教区に対するイオナの正統な管轄権を承認した(1451年)。1458年、 コンスタンティノープル総主教グリゴリー・マンマは、9つのリトアニア教区(ブリャンスク、スモレンスク、ペレミシュリ、トゥロフ、ルツク、ウラジーミロ=ヴォリン、ホルム、ガリツィア)を統括するため、特別の「キエフ」都主教としてグリゴリー・ボルガリンを任命した。 イオナ都主教の死去(1461年)後、モスクワの都主教たちは「モスクワおよび全ルーシ」の称号を得た。この時から、キエフ都主教区は独自の歴史的道を歩むこととなった。 これについては、ソコロフ・D.『ロシア都主教区の分裂の歴史』(1900年)、ソコロフ・P.『ビザンツ出身のロシア主教と15世紀初頭までのその任命権』(1913年)、ならびにマカリイ『4–5』およびゴルービンスキー『2. 1』を参照のこと。
[867] この問題に関する膨大な文献の中から、以下を挙げる:ソボレフスキー・A. 『15~17世紀のモスクワ・ルーシ文学に対する西欧の影響』(1899年); シュリャプキン・A. 前掲書;フロロフスキー・A. 『16~17世紀東ヨーロッパの知的生活における二つの伝統の対立』プラハ、1937年;チョドニツキ・K. 『正教会とポーランド共和国。1370–1632年』(1934年)。
[868] シュリャプキン。前掲書。108頁以降;ハルランプヴィチ K. 『16世紀および17世紀初頭の西ロシア正教会学校』(1905年);ゴルベフ. 『キエフ都主教ペトル(モギラ)とその同志たち』第1巻(1883年);マカリイ(ブルガコフ). 『キエフ・アカデミーの歴史』(1843);ティトフ・F. 『キエフ・ウクライナにおける高等教育の歴史』(1924);ゴルベフ. 『キエフ神学アカデミーの歴史。 モギラ時代(1886);ペトロフ・N. 『17世紀後半のキエフ・アカデミー』(1885)。
[869] ギリシャ正教派の興味深い代表者として、修道士イオアン・ヴィシェンスキー(† 17世紀前半)が挙げられる。参照:ジテツキー・イ. 『イオアン・ヴィシェンスキーの文学活動』(1890年); フランコ・I. 『イヴァン・ヴィシェンスキーとその著作』(1895年);彼の著作の一部は以下に掲載されている:『アユズル』第2号(1865年)。205–270頁;『アルフ・ユズル』第1巻第7号(1887年)。 19頁以降、および:ゴルベフ・S. 『キエフ都主教ペトル(モギラ)』1(1883年)。付録。67頁以降。ヴィシェンスキーの著作は、当時の南ルーシにおける社会関係や修道院の生活について多くの資料を提供している。
[870] この分野の文献は非常に豊富である。その一例として以下を挙げる:『西ルーシにおける論争文学の記念碑』、掲載:『RIB』第7号および第19号;アルハンゲリスクイ『カトリックとの闘争と16世紀末から17世紀前半の西ルーシ文学』、掲載:『Chteniya』 1888. 1;さらに:マカリイ. 10;また、前述のA. フロロフスキーの著作。専門的な単行本:ザヴィトネヴィチ・V. 『ザカリア・コピステンスキーのパリノディアと、16・17世紀の西ルーシ論争史におけるその位置づけ』(1883); スムツォフ N. 『イオアンニキイ・ガリャトフスキー』(1884年);同著『17世紀南ロシア文学史について。1. ラザール・バラノヴィチ』(1885年);シチェフスカヤ K. 『パムヴァ・ベリンダ』、掲載:『ネストル・レトピスツァ協会論文集』23. 1(1912年); オトロコフスキー・V. 『タラシー・ゼムカ、17世紀南ロシアの活動家』、掲載:『ロシア語部門論文集』96巻2号(1921年)。
[871] 『マカリイ』第11巻、25頁以降;第12巻、171頁、195–197頁;グレンコフ・A.「1620年にフィラレート総主教の治世下でロシアで開催された公会議とその決定事項」、『法学叢書』1864年、第1巻、153–180頁。 アレクセイ皇帝の時代に採られたカトリック教徒に対する措置については、マカリイ。11. 232頁を参照。
[872] 『ロシア帝国国家アーカイブ』第3巻、第77号;マカリイ。第11巻、48頁以降;シュリャプキン。前掲書、108頁、100頁。
[873] マカリイ。11。122頁。
[874] 同上。11巻、124頁。
[875] バガレイ。前掲書、『チェテニヤ』1887年、第2巻。 162頁;マカリイ司教『クラスノゴルスク修道院の歴史的記述』、掲載:『チェテニヤ』1880年、第3号、81頁;ベロクロフ『資料集』(1888年)、79、162、164頁。
[876] カプテレフ・N. 『教会改革者としてのニコン総主教とその反対者たち』、『Prav. sob.』1887年、第1号、145頁。
[877] アレクセイに関する人物評については、Kljutschewskij V. 『ロシアの歴史』第3巻を参照。
[878] アユズル。第3巻。第259号。323–324頁:アインゴルン・V. 「関係について」、『読本』。1893年。第2巻。38–39頁;クリュチェフスキー。第3巻。302頁。
[879] エウフィミオスによるエピファニオスに関する著作については、エフゲニー『聖職者辞典』第1巻、178–183頁、およびオステン(1865)70頁、シュリャプキン 同上、149頁;アインゴルン。同上、1113頁。エピファニウスについては、ペヴニツキー・V.「エピファニウス・スラヴィネツキー――17世紀ロシア宗教文学の主要人物の一人」、『TKDA』1861年、2–3号; ロタル・イ. 「エピファニー・スラヴィネツキー、17世紀の文学者」、掲載:『キエフ・ストルニツァ』1900年、10–12頁。
[880] アインゴルン。前掲書、『チェテニヤ』1899年、第2号、1013–1026頁;ロタル。前掲書、第11巻、199頁以降。
[881] ロタル。前掲書、第12巻、383頁。
[882] とりわけ、エウフィミオスはアレクサンドリアのディオニシオスの著作をいくつか翻訳し、聖キリロス・エルサレムスの説教をいくつか翻訳したほか、自らも道徳的・教訓的な内容の著作をいくつか執筆した。フィラレート。『概観』。第2版。第1巻。 259–261頁;ブライロフスキー・S. 「チュドフの修道士エウフィミオスによる慈悲に関する説教」、PDP 100 (1894)所収;『目録』第2巻第3部「序文」、424、447、461、501頁ほか。
[883] 解説。2. 3. 501頁;オステン(1865)。93頁;シュリャプキン。前掲書。231頁。
[884] 『分裂の歴史に関する資料』。N. スボティン編。6(1879)。227頁。シュリャプキン。前掲書。140–141頁。 イオアキムの教養に関する根拠のない主張については、以下を参照のこと:リュビモフ S. 「代表者間の闘争」、『ЖМНП』1875年、180号、127頁;また、以下の著作も参照のこと:N. A. A. 『モスクワの総主教たち。総主教イオアキム』、『Чтения』1847–48年、 123–136頁。
[885] AI. 4. 第175、259、228、204、253号;5. 第135、167、156、183、186号;特に4. 第204号および5. 第75号。
[886] 総主教イオアキムの生涯と遺言。N. バルスクーヴァ編、OLDP 62 (1879) に収録。シュリャプキン。 前掲書、139–144頁;ベロフ。前掲書、『ЖМНП』1887年、第1号;スメンツォフスキー。『リフーディ兄弟』(1899年)。
[887] バラノヴィチの説教には、スコラ哲学の影響が顕著に表れている。17世紀において特に有名で広く読まれていたのは、バラノヴィチの著作集である『霊の剣』(キエフ、1666年。第2版は1686年に刊行)と『説教の言葉のラッパ』 (キエフ、1674年。第2版は1686年)である。バラノヴィチは聖体の変容に関するローマ・カトリックの教義を支持していたが、多くの南ロシアの神学者たちと同様、論争的な著作においては「フィリオクエ」を否定していた。 バラノヴィチについては、注865を参照。また、アインゴルン『所著集』およびマカリイ『12』535–540頁、553頁も参照。
[888] マイコフ『論考』(1889年)。8–17頁;マカリイ『著作集』第12巻、640頁;シメオン・ポロツキーについては:ポポフ・V.『説教者としてのシメオン・ポロツキー』(1886年); タタルスキー・イ. 『シメオン・ポロツキー、その生涯と活動』(1886年);また、古い著作として:ペヴニツキー. 『シメオン・ポロツキー』、掲載:『Prav. ob.』1860年。第10巻、193–232頁;第11巻、327–356頁。
[889] マカリイ。第12巻、443、592頁。
[890] マイコフ。前掲書、27頁以降;マカリイ。第12巻、681頁。初版は1667年に刊行された。
[891] 1682~83年に刊行されたポロツキーの『魂の昼食』および『魂の晩餐』という文集には、前者に日曜日の説教、後者に主の祝日および聖母マリアの祝日の説教が収録されていた。 これらは道徳的・教訓的な性格を帯びており、悪徳、迷信、分派者の見解などに対する鋭い糾弾を含んでいる。ペヴニツキー。前掲書 11. 327頁以降。
[892] ペヴニツキー。前掲書 10。218頁以降;オステン(1865)。130–137頁。
[893] これは、総主教イオアキムの命により、修道士エフフィミーが様々な文書を基に編纂し、エフフィミー自身の解説や著作を付加した、いわゆる「オステン」として知られるものである(1690年)。 初版は1865年にカザンで刊行された。シルヴェストル・メドヴェージェフの略歴については、S. ベロクロフが彼の著作『真実の知らせ』の序文(『読本』1885年、第4号)で述べている。詳細な研究書としては、A. プロゾロフスキー「シルヴェストル・メドヴェージェフ」(『読本』 1896年、第2~4号;また、コズロフスキー・イ.「シルヴェストル・メドヴェージェフ」、『TKDA』1895年、第2、3、5号。
[894] 「秘密命令」は単に皇帝の官房に過ぎず、この名称の背後には、かつて想定されていたような特別な政府の秘密は何も隠されていなかった。参照:ザオゼルスキー・A・I. 『アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝の私生活』(1917年)。
[895] オステン(1865)。74;『目録』。2. 2. № 151。
[896] プロゾロフスキー。前掲書、『チェテニヤ』1896年、第2巻、183–185頁。おそらく1681年から1684年の間に、メドヴェージェフは2つの著作を執筆した:1. 「書籍の目次と著者一覧」、『チェテニヤ』1846年、第3巻。 第4部。1–90頁;2. 「7190年、91年、92年(すなわち1682–1684年――I. S.)の簡潔な考察、およびその間に市民社会で起こった出来事」、『チェテニヤ』1894年、第4巻。 1–197頁。S. ベロクーロフ編。(別の、より後の版は『キエフ大学』1895–1896年、I. コズロフスキー編。)これは1682年のストレッツィの反乱に関する非常に優れた客観的な記述である。参照:序文、XXXVI頁。 また、シュムルロ・エ.「シルヴェストル・メドヴェデフの覚書について」、『ЖМНП』1889年、262号、335–369頁。メドヴェデフはこの『考察』を、ツァレヴナ・ソフィアの依頼を受けて執筆した。 1682~1684年の出来事の歴史に関する極めて重要な史料である。旧版(トゥマンスキー『ピョートル1世の生涯に関する記録』第1巻第6部、およびサハロフ・A.『ロシア人の記録』第1巻、1841年)には誤りが少なからず見られる。
[897] プロゾロフスキー。前掲書、198、203、205、208頁;シュリャプキン。前掲書、145頁。ベロボドスキーの「信仰告白」およびメドヴェージェフの「意見書」は、『ロシアにおけるプロテスタント主義の歴史に関する資料集』所収、『チェテニヤ』 1884年、第3巻、第20号。また、ガヴリロフ、N.「モスクワにおけるドイツ信仰の説教者たちと、彼らに対するイオアキム総主教の態度」、『ストランニク』1873年、第3巻、125–137頁も参照。
[898] シュリャプキン。前掲書、146頁;『目録』第2巻第3号 470頁。この回答は、ギリシャ正教会の教義からの逸脱を示していた。同教義によれば、神聖な典礼において、聖体の変容は定式文の朗読の後ではなく、エピクレシス、すなわちパンとぶどう酒を聖なる賜物へと変容させるよう聖霊に祈る祈りの後にのみ行われる。参照:マカリイ(ブルガコフ)。 『正教会の教義神学』第2巻(1868年)。381頁。また、以下の文献も参照のこと:Hoppe A. 『ギリシャおよび東方典礼におけるエピクレシスとローマ典礼の奉献カノン』(1864年);Gass. 『ギリシャ教会の象徴論』(1872年); フランツ・J・T. 『ギリシャおよび東方典礼における聖体変容とエピクレシス』(1879年);ヘラー・J. 『ギリシャ・東方典礼におけるエピクレシス』(1912年);シュトライツ. 『ギリシャ教会の聖餐論』、掲載:『ドイツ神学年報』9–13(1864年); スパイル・T. 『東方神学における聖体に関する教義』、OCА. 13. 3(1928年);14. 1(1929年)所収。正教会の典礼に関する教義の歴史神学的概観は、ハイラー・F. 『初期教会と東方教会』1(1937年)に示されている。 p. 250–262。また、以下も参照:Casel O. 『東方教会の犠牲の祝典としての神秘的出来事』、『Der Christliche Osten』(1939年)所収。p. 59–74、特に68–71。
[899] シュリャプキン。前掲書。p. 115, 117–118;ゴルベフ S. 『ペトル・モギラ』1 (1883)。p. 373;S. P. 『ペトル・モギラ』、『チェテニヤ』1877年、第1号。 142、124頁。モギラについては、以下の単行書も参照のこと:ヴィレール(Viller)M. 『ピョートル・モギラの正教の告白(La Confession orthodoxe de Pierre Mogilas)』;また、ジュジー(Jugie)『東方キリスト教徒の教義神学(Theologia dogmatica christianorum orientalium)』第3巻(1930年)。
[900] プロゾロフスキー。前掲書、221–222頁。テッサロニキの大主教シメオン(† 1429)は、その著作(Migne. PG. 155)は、ギリシャ正教会の「秘義神学」を体現するものであり、東方教会の最も著名かつ崇敬される神学者の一人である。聖キリロス・エルサレムス(† 386)は、その『カテキズム』によって秘義神学の礎を築いた。 秘儀神学の最も重要な代表者としては、ディオニシオス・アレオパゴス(5世紀)、マクシムス・コンフェッサー(† 662)、ソフロニオス・エルサレムス(† 638)、ヘルマヌス・コンスタンティノポリス(† 738)、 テオドロス・アンディドス(11世紀)、ニコライ・カヴァシラ(†1371)である。参照:PRE. 13. p. 612 以下。また、非常に興味深い研究として以下を参照のこと:Engdahl R. „Beiträge zur Kenntnis der byzantinischen Liturgie“, in: Neue Studien zur Geschichte der Theologie und Kirche. 5 (1908)。
[901] シュリャプキン。前掲書、134頁。
[902] ニコンの廃位とモスクワへの流刑の後、モスクワでは一時的な混乱が生じた。新総主教ヨアサフ2世(1667–1672)は極めて高齢であった。 その後、ピティリムが短期間(1672年10月~1673年4月)パトリアルヒを務め、続いて「王位空位期」が訪れ、1674年7月26日にイオアキムが即位するまで続いた。さらに、政府と教会当局のすべての関心は、分裂との闘争に注がれていた。
[903] 17世紀80年代および90年代初頭に関する最良の概説は、ベロフ・E・A.「17世紀末のモスクワの動乱」『ЖМНП』1887年、第9号、99–146頁;第10号、319–365頁に掲載されている。
[904] リフーダ兄弟については、以下の優れた著作を参照のこと:スメンツォフスキー・M. 『リフーダ兄弟』(1899年);また、スミルノフ『モスクワ・スラブ・ギリシャアカデミーの歴史』(1855年)。
[905] スメンツォフスキー。前掲書、37頁以降。
[906] 改訂された定款(メドヴェージェフ案。残念ながら失われており、おそらく反対派によって破棄されたものと思われる)は、DRV第2版第6巻、397頁以降に掲載されている。参照:スメンツォフスキー、前掲書、42–46頁。
[907] シュリャプキン。前掲書。147頁。
[908] 『読会』1885年、第4号、p. XVII。
[909] シュリャプキン。前掲書。148頁。
[910] F・シャクロヴィトに関する捜査事件。1(1884)。第15号。544頁。
[911] ソフィア・アレクセーエヴナ(1657年生まれ)は、ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの娘であり、才能豊かで聡明、かつ野心的な女性であった。彼女は、シメオン・ポロツキーが彼女の兄弟である皇子アレクセイとフェドーラに教えていた授業に、頻繁に、そして喜んで出席していた。 王女は西洋式の教育に好意を抱き、熱心に多くの書物を読んでいた。 1682年、ツァーリ・フェドロの死後、兄弟のイワンとピョートルがツァーリとして即位した際――ここで忘れてはならないのは、まさに総主教イオアキムが、若き皇太子ピョートルの即位を個人的に後押ししたということである(ウストリアロフ『ピョートル大帝の歴史』第1巻、16頁; ベロフ『同上』、掲載:『ロシア女性史』1887年、第1巻、109頁以降)――ソフィアは、両ツァーリが未成年であったことを理由に、権力を掌握し、国家の統治者となって自ら国を治める好機であると判断し、実際にそうした。 統治期間(1682年~1689年)中、ソフィアは西洋の影響や西洋式教育に対して明らかな好意を示した。1689年にピョートルによって廃位されると、彼女はモスクワのノヴォデヴィチ修道院に幽閉され、尼僧となった。そして1704年、同修道院で死去した。 ソフィアについては、以下を参照のこと:アリストフ『ツァレヴナ・ソフィアの治世におけるモスクワの動乱』(1871年);ベロフ・E. 前掲書;シュムルロ・E.「ツァレヴナ・ソフィアの没落」、『ЖМНП』1896年1号;また、ソロヴィヨフ『ロシア史』13–14巻。
[912] シュリャプキン。前掲書、150頁。メドヴェージェフの神学に関する知識は非常に広範であった。彼の著作『真の知らせ』には、多くの教父たちの引用やそれらへの言及が見られる。 逮捕後、彼の個人図書館の目録が作成されたが、そこにはドイツ語、ラテン語、ポーランド語の書籍603冊が収められており、その中にはスラブ語の書籍はわずか18冊しかなかった。『チェテニヤ』1885年、第4号。序文、p. XXXV。
[913] 目録。2. 3. 第299号。461頁;原稿はエウフィミオス自身の手によるものである。
[914] 『アコス、あるいは治療』は写本でのみ知られている。詳細な記述については、以下を参照のこと:目録。2. 3. 第299、300、301号。
[915] F・シャクロヴィトに関する捜査記録。1. 第29号。
[916] シュリャプキン。前掲書、154頁以降。
[917] 「真実の知らせ」、『読本』1885年、第4号、1、79頁。
[918] シュリャプキン。前掲書。157頁。
[919] ベロクロフ、『読本』1885年、第4巻、19頁。
[920] A. ゴルスキーの見解を参照:『目録』第2巻第3号、第299項、469頁。
[921] これらは、1) 「正教の信仰告白要約……キリストの御体と御血の変容について」および 2) 「聖木曜日の儀式……秘跡の聖別と変容について」である;参照:シュリャプキン。前掲書。164頁。
[922] 捜査事件。第29、30、26号。
[923] ペトル・モギラの『典礼書』(1639年)やその他の南ロシアの著作では、聖体と血を捧げる司祭のこの行為が特に強調されている。シュリャプキン。前掲書、115頁;プロゾロフスキー。前掲書、225頁。
[924] プラトノフ『講義』(1915年)。474頁、478頁;個別の詳細については:シュムルロ・E. 前掲書、掲載:『ЖМНП』1896年、第1号。
[925] ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ゴリツィン公(1643–1714)は教養豊かな人物であり、西ヨーロッパに強い関心を示し、西洋の文化的影響や西洋式教育を奨励し、私生活も西洋風に整えていた。ゴリツィンには様々な改革の計画があった。 1682年から1689年にかけて、彼は外交事務(大使局)を統括し、ソフィアから絶大な信頼と個人的な寵愛を受けていた。ソフィアの失脚(1689年8月8日)後、ゴリツィンは北部へ追放され、1714年4月21日にそこで死去した。 ゴリツィンについては、Brückner, A. 『17世紀ロシアの文化史への寄与』(1887年);ペトロフスキー「ヴ.・ヴ.・ゴリツィン公爵」、『ロシア論文集』1875年、第5号; ゴードン将軍『日記』;また、デ・ラ・ヌーヴィル(モスクワ駐在フランス公使)『モスコヴィアに関する珍奇かつ新たな報告』。パリ、1698年(ロシア語訳の要約版は『ロシア論文集』1891年、第9号および第11号に掲載);ソロヴィヨフ『捜査事件録』第1巻、第26号および第30号;
[926] 捜査事件。1. 第26号および第30号;ベロフ。 前掲書、365頁、注。ホルモゴル大司教アルセニイの著名な著作『信仰の盾』には、メドヴェージェフが民衆を扇動して騒乱を引き起こし、総主教イオアキムやその他の人物を殺害させたとの記述さえあるが、我々の見解では、これは事実とは一致しない。 参照:目録。2. 3. 第310号。503頁。
[927] プロゾロフスキー。前掲書、324–377頁;ベロフ。前掲書、365頁;シュリャプキンも同様の見解を採っている(前掲書、208、211、234頁)。
[928] シュリャプキン。前掲書。235頁。
[929] AI. 5. 第194号、第339号。
[930] シュリャプキン。前掲書、201頁;ソロヴィヨフ。14、137頁。
[931] オステン(1865年)。83–90頁;別の版は『チェテニヤ』1870年、第2号、1–12頁。シュリャプキンの見解(同上、208頁)を参照。
[932] シュリャプキン。前掲書、176–201頁。
[933] 同上。165–166頁。
[934] 同上。169、212頁。また、イグナティ・コルサコフの反カトリック論考も参照のこと:『チェテニヤ』1884年、第3号。
[935] シュリャプキン。前掲書、167頁。
[936] ソロヴィヨフ。14。90頁;シュリャプキン。前掲書。168頁;フィラレート。1。第236号;ピスカレフ。前掲書。第51号。
[937] シュリャプキン。前掲書。164–166頁;RBS。 54頁;ダマスキンについては:ヤホントフ・イ. 『17世紀のロシアの論争家、修道助祭ダマスキン』(1884年)(入手不可);N. ペトロフによる書評を参照:『ЖМНП』1884年、第4号。
[938] 「転移」に関する東方教会の教義の解説については、Heiler. 前掲書 1. p. 257 以降、あるいは Gass. Symbolik. p. 225 以降を参照。
[939] 参照:プラトノフ『講義』(1915年)。315頁以降、特に317–318頁;また:シュムルロ・E.『ロシア史』。ミュンヘン、1922年。 190–248頁。ここには17世紀の最重要事象に関する簡潔な概説が掲載されている。また、この世紀に関する興味深い特徴については、フロロフスキー・G.『ロシア神学の道』パリ、1937年、57頁以降も参照のこと。
[940] しかし、ロシアの分裂を単に聖書の改訂に対する抗議としてのみ説明するのは誤りである。分裂の歴史は、これがロシアの宗教生活における極めて複雑な現象であったことを示しており、その多面性は、残念ながら、ここでは網羅的に明らかにすることはできない。この点について参考となる著作を以下に挙げる: メルニコフ・P. 『分裂に関する書簡』(1862年)(『北の蜂』1862年にも掲載);ギヤロフ=プラトノフ・N. 『分裂の論理――イワン・アクサコフへの書簡』、『ロシア展望』1895年10号; グロモグラソフ・イ. 『ロシアの分裂と世界正教会』、『BV』1898年4–5号;ゴルビンスキー・エ. 『古儀式派との論争について』(1905年);ロザノフ・V. 『ロシアの分裂の心理学』、『宗教と文化』(1901年);ボロズディン・A. 『ロシアの宗教的異見』(1907年);『古信の真実』(論文集)(1916年);カルタショフ・A. 「古儀式派の意義」、『P. B. ストルーヴェ記念論文集』所収。プラハ、1925年;フロロフスキー・G. 『ロシア神学の道』(1937年)。
[941] 礼拝用書物については、Heiler, 前掲書 1, p. 297 以降、Kattenbusch, 1, p. 498、および Lübeck, K., 『Die christlichen Kirchen des Orients』(1911年), p. 120 以降を参照のこと。
[942] カプテレフ『パトリアルヒ・ニコンとツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ』第1巻(1909年)、213–216頁;マカリイ第8巻、75頁以降。
[943] マクシム・グレク。著作集 1. p. 28, 30; 3. p. 51–60, 62, 67 ほか。参照:マカリイ。第2版 6. p. 179 以下。
[944] マカリオスによるこれらの出来事の描写(第2版 第6巻 177–195頁)における描写は、完全に客観的であるとは見なせない。ゴルービンスキーは(第2巻第1部、663、712頁以降)、マクシムが陰謀の犠牲者であり、ロシア語の知識が不十分であったため、彼に対して提起された異端の告発には根拠がないと考えている。我々もこの見解に同意する。
[945] 『ストグラフ』。第5章および第23章(ツァーリに関する問題);第16、6、9、10、12、33、34章。同様の現象については、ジノヴィイ・オテンスキーも言及している(『イスティナの証言』。952、955、958–961頁)。 また、ノヴゴロド大司教ゲナディイに対して提起されたいくつかの告発(『ロシア正教史資料集』第6巻 p. 221, 232)も参照されたい。これらもまた、礼拝儀式の相違を裏付けている。さらに、プスコフにおける「アリルヤ」をめぐる有名な論争や、十字の印を二本指で行うか三本指で行うかという問題も挙げられる。マカリイ。8. p. 129, 91 以下。
[946] マカリイ。11. p. 173–199; カザンスキー・P. 「フィラレート総主教による教会礼拝書の修正」、『チェテニヤ』1848年、第8号;ディオニシイについては、スクヴォルツォフ・D. 『ディオニシイ・ゾブニコフスキー、トロイツェ=セルギエフ修道院のアルヒマンドリト』(1890年)を参照。
[947] マカリイ。11. 10頁以降;RIB。2. 902;10. 189–190。
[948] マンスヴェトフ。『教会規程』。311頁以降、319頁以降;同著。「わが国における教会書の編纂について」、『補遺』。1883年。4号;マカリイ。9。43、66、89、120頁。
[949] マンスヴェトフ『教会規程』319頁;カプテレフ『教会書物および儀式の是正をめぐるニコン総主教とその反対者たち』第1巻。 ヨシフ総主教の時代(1887年;第2版、増補・改訂版 1913年);第1版は記事としても掲載:『教会改革者としてのニコン総主教とその反対者たち』、『Prav. ob.』1887年、1–2号、若干の相違あり。
[950] 『アユズル』第3巻、第259号、323頁。
[951] ロタル。『エピファニー・スラヴィネツキー』、掲載:『キエフ・ストルニツァ』1900年、10–12頁。第XI章を参照。
[952] クリュチェフスキー『ロシアの歴史』第3巻、327頁。
[953] ゴルチャコフ。『修道院令』。77頁;「『法典』に関するニコン総主教の見解」、『ORSA紀要』2(1861年)。423–497頁、特に449、451、453、456頁。
[954] マカリイ。11。193–196頁;ゴルチャコフ。『土地所有について』。 330頁、337頁。ニコンの教会政策については、カプテレフ『ニコン総主教とアレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝』第2巻(1909–1912年)、およびズィズキンとジュコフの著作を参照。
[955] 1652年までのニコンの伝記については、マカリイ. 11. pp. 162–166を参照;また、Bonwetsch. Nikon, in: PREも参照。
[956] ここで言及しているのは、1980年代にN. カプテレフとN. スボティンの間で繰り広げられた論争である。カプテレフ, N. 『パトリアルヒ・ニコンとその反対者たち』(1913年)を参照。 185–203頁;スボティンによるニコンの活動の「正当化」は、M. ズィズィキン著『総主教ニコン』(全3巻、1931–1937年)におけるニコンの理想化へと引き継がれた。
[957] カプテレフ。「ニコンの総主教就任以前の古代ルーシにおける国家権力と教会権力の関係」、『BV』1910年、1、20、21。 また、カプテレフによるニコンの人物像の描写(『パトリアルヒ・ニコンとツァーリ』A. M. 1巻(1909年)、60–62頁)も参照のこと。G. フロロフスキーの個々の指摘(『ロシア神学の道』63頁)は極めて秀逸である。
[958] ニコンとその教会政策に関する最も重要な文献については、すでに挙げた。さらに特に以下の著作を挙げておく:Palmer William. The Patriarch and the Tsar. London, 1871–1876. 6巻;ここでは、ほぼすべての主要な一次資料が収集・翻訳されている。さらに、パーマーはニコンに関するいくつかの研究を本書に収録している。
[959] 『コルムチャ』およびそれがロシア正教会にとって持つ意義については、Hermann. Op. cit. p. 23 以降を参照のこと。同書には関連文献が掲載されている。また、マカリイ。第2版。8巻。p. 143 以降も参照のこと。
[960] マカリイ。第11巻、118頁以降;第12巻、117頁、125頁。
[961] これらの相互関係については、カプテレフ・N.『16世紀および17世紀におけるロシアと正教の東方諸国との関係の性質』(1885年)を参照のこと。
[962] プロトポープ・アヴァクームについては、次を参照:「Das Leben des Protopopen Awwakum von ihm selbst」。翻訳・序文:R. ヤゴディチ(1930年)。その他の文献については、参考文献一覧を参照のこと。アヴァクームに関する最も優れた評は、ミャコチンとメルニコフによるものである。 分裂に関連する一連の問題全般については、I. バルスコフとP. スミルノフによるアヴァクームの著作への序文(『RIB』 39(1927)所収の序文およびP. スミルノフによる序文、ならびにN. グジヤによる序文と注釈(『プロトポップ・アヴァクームの生涯』(1934)所収)を参照のこと。また、Jagoditsch, 『Kyrios』1(1936)所収、410–413頁も参照のこと。
[963] マカリイ。12。125–138頁;ヴヴェデンスキー・S.「コストロマのプロトポップ・ダニイル」、BV。1913. 4。
[964] 16世紀および17世紀のモスクワ教会公会議の組織は、世俗権力の長としてあらゆる統治の手段を掌握していたツァーリの意志に全面的に依存していた。ツァーリは公会議の発起人であり、彼の意志がなければ公会議は開催され得なかった。彼は会議の時期と場所、ならびに参加者の構成と人数を決定し、 会議を開会し、公会議の決定を承認してそれに法的効力を与え、さらに自身の勅令や命令によってその実行を監督した。参照:カプテレフ『パトリアルヒ・ニコンとツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ』第1巻(1912年、第2版)。82頁、62頁。
[965] 1654年の公会議の議事録は、当初ニコーンによって『スクリジャリ』(1656年)の付録として刊行されたが、後に単行本として『1654年教会書物の修正に関する公会議議事録』(1873年)として出版された。
[966] マカリイ。12。139–145頁;マカリイ。『ロシア分裂史』。160頁。
[967] パヴェル司教はニコンと同じ出身地であり、二人は若い頃から知り合いだった。さらに、パヴェルは修道士アントニーの親族でもあった。 このアントニーは1652年の新総主教選出の際、3人の候補者の中からくじ引きによって選ばれ、こうして総主教の座への唯一の候補者となったが、アレクセイ皇帝がニコンを総主教に就かせたかったため、アントニーは総主教の位を辞退せざるを得なかった。マカリイ。 『ロシア分裂史』178頁;メルニコフ『司祭制度に関する論考』14頁;ポゴディンM.「パトリアルヒ・ニコンとその反対者たちの出身地に関する考察」、『モスクヴィティャニン』1854年、19号(本著は入手不可)。
[968] マカリイ。前掲書。180頁。
[969] ニコン総主教の在位中に、以下の改訂された礼拝書が印刷され、各教会に配布された:1. 『礼拝書』(1655年)。2. 『スクリジャル』(1656年)――聖体礼儀の解説書。3. 『小祈祷書』(1656年)。4. 四旬節トリオドス(1656年)。5. イルモロギオン(1657年)。6. 福音書(1657年)。7. 詩篇(1658年)および8. 典礼書(1658年)。マカリイ。同著、182頁。
[970] 1655年の公会議に関する報告は、ニコンの命により1655年の『礼拝書』に序文として収録された。その後、P. ストロエフが自身の著書『トルストイおよびツァーリ図書館の目録』の中でこれを公表した。 特に貴重なのは、1654~1655年および1666年のモスクワへの旅において、アンティオキア総主教マカリオスの息子である副司祭パヴェル・アレポスキーが、総主教に随行した際の旅行日記である。参照:『Travels of Macarius』 ロンドン、1829–1836年。2巻(日記の一部はロシア語に翻訳されている:『Chteniya』1890年、第4号)、および後にPalmer W. 2に収録。1655年の公会議については:マカリー『12』、172頁以降。
[971] マカリウス。『ロシア分裂の歴史』。161–165頁;マカリウス。12。179頁以降;パイシイの書簡は『キリスト教読本』1881年、第1号(原本および翻訳)に掲載。
[972] 古信派の「信仰告白」の第8条には、次のように記されている。「また、聖霊、まことの主であり、命を与える方、父から出で、父と子と共に礼拝され、賛美される方、預言者たちが語った方、その御国には終わりがない」。 誤訳の結果として挿入されたこれらの追加部分は、モスクワでは16世紀になって初めて現れる。マカリイ『ロシアの分裂の歴史』23–25頁。
[973] マカリイ。12。186頁。
[974] 同上。12。191–195頁;マカリイ。『ロシア分裂史』。170–175頁。ルーシにおける二指による十字の印の出現については:同上。25–31頁;また:カプテレフ。『ニコン総主教とその反対者たち』(1913年)。 58–61、78–96、189–203頁;ゴルービンスキー『古儀式派との論争について』(1905年、また『読本』1905年3号にも収録)。153–196頁;イヴァノフスキー(『手引書』第2巻 126–135頁)は、三指礼を唯一正しい指組みとして擁護している。彼の著作は、シノド派の宣教師たちのための参考書として役立った。公会議の判決は性急すぎたものであり、おそらくニコンの強い要望によって採択されたものだが、その根拠は批判に耐え得ない。なぜなら、二指による十字切りの動作には、いかなる異端も含まれていないからである。 ニコンが講じた措置の正当化については、マカリイ『12』、221–223頁を参照。
[975] ここで我々が指すのは、世俗権力が教会権力に従属すべきであるというニコンの原則的な見解、および「聖職」が「王権」に優先するという見解である。『法典』に関するニコン総主教の見解については、『ORSA紀要』2(1861年)、特に456、449、451、453頁を参照。 また、以下も参照:パヴロフ・A.「東方教皇主義の理論」、『Prav. ob.』1879年、12号、およびウンドルスキー・V.「ニコーン総主教によるA. M.皇帝の『法典』に関する評」、『Rus. arkh.』1886年、2号、615–620頁。
[976] ペレツ V. 『噂と伝聞』、『イオリアス』第5巻、1909年、第1号、123頁以降。
[977] ニコンが主教座を去った後の運命については、マカリイ『12』、326–524頁、683–751頁;ニコラエフスキー・P.『流刑地におけるニコンの生涯』(1882年)を参照。
[978] 1667年の公会議の議事録、『DAI』第5巻、第102号、447頁、または『資料集』第1巻、79頁;カプテレフ『パトリアルヒ・ニコンとツァーリ・A・M』第1巻(1909年)、494頁。
[979] カプテレフ。前掲書、492頁;メルニコフ。「司祭制度に関する論考」、全集第7巻(1909年)、14頁;マカリイ。『ロシア分裂史』、274頁。
[980] カプテレフ。前掲書。500頁;「ニコン総主教に対する告発」、『ロシア文学年鑑』第5巻(1863年)。第2部。
[981] イオナの書簡、『読本』1884年、第1号、雑録、21–22頁。
[982] 例えば、リャザン教区については、ピクサノフ『古代文書』(1851年)第51号を参照。
[983] 『使徒行伝』、DAI第5巻、第102号、458頁;『資料集』第1巻、第11号。
[984] 『資料』第7巻(1885年)。第3、4、5号。
[985] スミルノフ『分裂における内部問題』(1898年)。12、137頁;『資料集』第6巻。230頁;参照:マカリイ第12巻。627頁以降。
[986] スミルノフ。前掲書。XXIV-XXVII頁;マカリイ。『ロシア分裂の歴史』。273頁;DAI。12。第130、134、180号。
[987] アンダーソン・V. 『古儀式派と分派主義』(1903年)。131頁以降; ドルジニン。「ヴィゴフの隠者コルニリイの生涯について」、掲載:『ЖМНП』1884年、第9号;オストロフスキー・D. 『ヴィゴフの隠れ家とその意義』(1914年);フィリッポフ・I. 『ヴィゴフの隠れ家の歴史』(1862年)(入手不可)。
[988] マカリイ。12。630頁;マカリイ。『ロシア分裂の歴史』。215頁;一連の文書:『AAE』4;『DAI』5;『AI』4;『Chteniya』1846年3号。 第1部;カザンスキー・P. 「ソロヴェツキー騒動の首謀者たちは誰か」、『論文集』1867年、第4号; シルツォフ・イ. 『ソロヴェツキーの古儀式派修道士たちの反乱』、『プラヴ・ソブ』1880年、1、2、4、5–7、10;1881年、1、2、4、5(また単行本として:カザン、1881年);『資料集』3。 重要ではあるが、必ずしも客観的とは言えない資料として、ヴィゴフスキー・スターオヴェル派の指導者S. デニソフによる著作『ソロヴェツキーの父たちと殉教者たちの物語』(第1版 1788年;第2版 1788年;第3版 1789年)が挙げられる。
[989] 資料集。3. 107頁;2. 116頁;ニコルスキー・N. 「ソロヴェツキー修道士ゲラシム・フィルソフの著作集」、PDP 188(1916年)。
[990] 資料集。2. 第14、30、31、43、45号。
[991] 同上。213–262頁。この請願書は皇帝に提出されなかった。シルツォフ。前掲書、『法典集』1880年。1巻、164頁;AI。4巻、第248号。
[992] シルツォフ。前掲書。169–173頁。
[993] カプテレフ。『ロシアと正教東方との関係』(1885年)。
[994] DAI. 5. № 102. p. 487. 公会議の判決には、以下の点が盛り込まれていた:1) 礼拝は、修正が正当であったため、新たに修正された聖書に基づいてのみ執り行うことが許可された;2) 信仰告白の第8条から「真の」という言葉が削除された;3) 賛美の歌における「アリルヤ」は、「神よ、あなたに栄光あれ」を加えて3回唱えることが求められた;4)三本の指による十字切りの儀式が規定された;5)イエスの祈りは、定められた形式「主イエス・キリスト、我らの神よ、罪深い我らを憐れんでください」;6)プロスフォラには四端の十字架を描かなければならなかった(同上、485–487頁)。1667年の「誓約」は、旧儀礼の信奉者たちが正教会から破門される際に用いられたものであり、古儀式派が統一教会の懐に戻った際に、原則的な教会法上の意義を持つようになった。 この「誓約」は文献において大きな論争を巻き起こした。最も重要な著作を挙げると、『1667年モスクワ公会議の誓約について』、掲載:『キリスト教誌』1872年5号;フィリッポフ、T.「1667年公会議の誓約について」、掲載:『グラジャディン』 1876年、17号;パヴェル修道院長『1667年の公会議の誓約について』、掲載:『ヴィャーツク教区報』1871年、4号;グレンコフ・A.『1666–1667年のモスクワ公会議の決定』、掲載:『法学集』1863年、 5、9、11および12;イヴァノフスキー。『手引書』第2巻、150頁;ゴルービンスキー・エ。「古儀式派との論争について」、『読本』1905年、第3号。
[995] ドシフェイ。『ソロヴェツキー修道院の記述』第1巻、151頁;シルツォフ、前掲書、281、347頁;ソロヴェツキー修道院は、主にスウェーデンに対するモスクワの白海における拠点として、特に強固に要塞化されていた。P. カザンスキー(『論文集』 1867年4月、6頁)は、常に相当数のストレッツ(弓兵)の駐屯部隊が配置されていたこの修道院の「軍事化」、および修道院の商業活動こそが、修道院の世俗化を助長したと考えている。しかし、この見解には同意できない。なぜなら、修道士たちの宗教的狂信は、世俗化の結果として生じたものではあり得ないからである。 もちろん、ここで一定の役割を果たしたのは、分裂に共感し、それゆえに抵抗運動に参加した多くの流刑者が修道院に滞在していたことである。参照:シルツォフ。前掲書、372頁以降。
[996] 包囲戦の詳細については、シルツォフ、あるいはマカリイ『ロシア分裂史』240–258頁を参照のこと。
[997] PSZ. 2. 第1102号。
[998] 1905年4月17日の勅令によって初めて、古儀式派に対する「分裂派」という公式の呼称が廃止された。 同勅令では、今後「現在使用されている『分裂派』という名称に代わり、『古儀式派』という名称を、正教会の主要な教義を受け入れるものの、同教会が採用している一部の儀式を認めず、古版聖書に基づいて礼拝を行うすべての教派および信徒に付与すること」が命じられている。 (出典:ゴルービンスキー・エ. 『古儀式派との論争について』238–239頁。)
[999] ピョートル大帝による教会改革については、ヴェルホフスカヤ・P.『神学評議会の設立と神学規則』第2巻(1916年)を参照のこと。このテーマの導入として、Stupperich R.『ピョートル大帝の国家観と宗教政策』(1936年)(『東欧研究』新シリーズ第22号)を推奨する。 ブリュックナー(A. Brückner)『ピョートル大帝』(1879年)。ロシア教会の新たな地位、すなわち国家への従属は、1817年11月19日および1824年3月15日の勅令によって最終的に確定された。 (PSZ. 34. 第27106号および39. 第29919号;1824年8月26日付第30037号も参照)。
[1000] 参照:Philipp W. 『イワン・ペレスヴェトフとモスクワ帝国の刷新に関するその著作』(1935年)。42頁以降。同書には、この国家・政治的イデオロギーに関する簡潔な概説が掲載されている。
[1001] PSZ. 1. 第122号。この伝統からの逸脱は、「新通商条例」(PSZ. 1. 第408号)や、1682年の慈善に関する法案草案にも見られ、後者ではピョートル大帝の時代より前にすでに「ヨーロッパの慣習」への言及がなされている。 参照:ウラジーミルスキー=ブダノフ『概観』(1888年)。211頁。
[1002] スクヴォルツォフ『アドリアン総主教――17世紀最後の10年間におけるロシア教会の状況に関連したその生涯と業績』(1913年)(『法学叢書』1912–1913年にも収録)。
[1003] ペトル・モギラの『正教の告白』新版の序文で、アドリアンは、外国人が「羊の皮を被った狼」のようにロシアに潜入したと記している。ソコロフ『17世紀におけるプロテスタント主義とロシアの関係』139頁。 すでに我々が知っている修道士エフフィミー(メドヴェージェフの反対者)は、アドリアンの最も親しい側近の一人であり、彼に、ルター派やカルヴァン派が正教会に対する宣伝活動を行っていると書き送った。 「教会の敵は多いが、擁護者は見当たらない」――エフフィミーはこのような言葉で書簡を締めくくっている。『記述』第3巻第2号、第310号、496頁。
[1004] 『霊的規則』の詳細な解説は、本稿の目的の範囲外である。ここでは、原則的な点を強調したいだけである。『霊的規則』が法律となったとき、ロシア正教会は地方教会としてロシア国家の一部となり、聖シノドは国家機関ではあったが、教会機関ではなくなった。 教義と礼拝においてのみ、ロシア正教会は全地東方諸教会との一致を保った。ロシア正教会にとって重要だったのは、ピョートル大帝が総主教制を合議制に置き換えたことではなく、国家と教会の間に全く新しい関係体系が生まれたということである。 「ロシア正教会」は「ロシアにおける正教会」へと変貌し、すなわち国家の管理下に置かれ、国家の法律に基づいて運営されるようになった。参照:テムニコフスキー、E. 『「霊的規則」の源泉の一つ』、掲載:『ハリコフ歴史・文献学協会論文集』18(1909年)。 5頁;同著『教会権威に関する一般教義に関連する、ロシア正教会における全ロシア皇帝の地位』(1909年)。15頁;また、前述のP. ヴェルホフスキーの著作および私の論文『Kyrios』5号(1940-41年)。66頁以降も参照。
[1005] 参照:Stupperich. 前掲書。第2章。
[1006] このテオファンの著作については、グルヴィッチ・D.「テオファン・プロコポヴィチの『君主の意志の真実』とその西ヨーロッパの源泉」(1915年)を参照のこと。 テオファンについては、以下も参照のこと:サマリン・ユ.「ステファン・ヤヴォルスキーとテオファン・プロコポヴィチ」、収録:『全集』第5巻(1880年)(初版1844年――当時の検閲により一部の箇所が削除されているため、抜粋版); カルタショフ・A.「フェオファン・プロコポヴィチの正教に関する問題」、『D. F. コベコ記念論文集』(1913年);Koch H. 『ピョートル大帝時代のロシア正教』(1929年);フロロフスキー・G. 『ロシア神学の道』(1937年)。特に89ページ以降。 今日に至るまでその価値を失っていない古い著作:ペカルスキー・P. 『ピョートル大帝時代のロシアにおける科学と文学』(1862年);テオファンに関する伝記については:チストヴィチ・I. 『テオファン・プロコポヴィチとその時代』(1868年)およびティトリノフ・B. 『テオファン・プロコポヴィチ』、RBS所収。
[1007] 『精神的規則』については、P. ヴェルホフスキーの基礎的な著作を参照のこと。同書には、モスクワ・ルーシおよびピョートル改革後の国家と教会の関係に関する文献の詳細な概説が掲載されている。 N. ケドロフの著作『ピョートル大帝の改革活動と関連した「霊的規則」』(1886年)(『Prav. ob.』1885年にも収録)は、非常に説得力に欠け、一方的な性格を帯びている。
[1008] 『君主の意志の真実』、PSZ 7、第4870号、628頁。
[1009] フロロフスキー。前掲書。84頁以下。参照:ヴェルホフスカヤ。1。156頁。
[1010] 特に特徴的なのは、警察の任務と義務が規定された「首席治安官規則」である。PSZ 第3708号。ピョートル大帝の改革に関する簡潔かつ明快な解説は、シュムルロ・E.『ロシア史』(1922年)270–342頁に示されている。
[1011] 『宗教規則』。第1部。序論。PSZ. 6. 第3718号。『軍規』。PSZ. 5. 第3006号。第20条。
[1012] ピョートルにおける国家の概念については、Stupperich, 前掲書, p. 23を参照。
[1013] 同上、32頁。
[1014] ソロヴィヨフ。17。p. 246。すべての司教がピョートルの改革に否定的な態度をとっていたわけではない。テオファンは、ピョートルの最も著名な側近の一人であった。さらに、ミトロファン・ヴォロネジ司教(もっとも、彼は1709年にすでに死去していたが)や、 ノヴゴロドのイオヴァ大主教(†1716年);おそらく、ホルモゴル大司教アファナシイも挙げられるだろう。彼はペトロの改革が始まった当初、それを好意的に評価していたが、1702年にすでに死去していた。参照:スクヴォルツォフ『パトリアルヒ・アドリアン』112頁。
[1015] プラトノフ『講義』(1915年)。485頁。
[1016] 『教会規則』は、ピョートルの命によりテオファン・プロコポヴィチによって作成された。1721年1月25日、教会事務局の設立に関する勅令が公布された(PSZ. 第3718号;参照:PSPiR. 1. 第2版 第1号)が公布され、2月14日に同局は盛大に開局した。この日、「宗教事務局」という名称は「至聖統治シノド」という名称に変更された。これに関する詳細は、P. ヴェルホフスキーの著作を参照のこと。
[1017] PSZ. 3. 第1541号および第1664号。
[1018] チストヴィッチ。前掲書。139頁。 「修道生活がいつ、どのような罪から始まったかについての布告」と題する勅令は、『PSPiR』第4巻第1197号に掲載されている。ピョートルは、1701年12月31日の勅令において、当時の修道生活に対してすでに否定的な評価を下していた。『PSZ』第4巻第1886号。
[1019] 『AAE』第4巻、第315号;『PSZ』第3巻、第1664号。1701年12月31日の勅令は、修道士に対する年間支給額を10ルーブルおよび小麦10チェヴェルと定めていたが、 1705年にはこの支給額が半減され、1710年の「タベリ」によって最終的に確定された。ゴルチャコフ『土地所有について』p. 473;ケドロフ、前掲書 p. 229。 このタベルでは、修道士の年間支給額を6ルーブルと小麦5チェヴェルと定め、修道院長にはわずかな上乗せが設けられていた。PSPiR. 4. 付録. p. 333–335;この支給額も必ずしも支払われていたわけではないことについては、同書 2. p. 998を参照。
[1020] PSZ. 4. 第1829号;また第1834号も参照。
[1021] 同上。第1834、1839、1886、1948号。
[1022] この「補遺」は、PSPiR 第2巻 第596号、PSZ 第6巻 第4022号に掲載されており、後の『規則集』の版にも収録されている。
[1023] 『PSPiR』第2巻、第596号、第671号;第4巻、第1197号。
[1024] ゴルチャコフ『修道院局』。123頁;修道院局の管轄権については、同書123–128頁を参照。
[1025] PSPiR. 2. 第596号。§ 44、45、48;4. 第1200号、1244号、1379号;3. 第1091号。 1724年の報告書によると、修道士の数は以下の通りであった:男子修道院で14,534人、女子修道院で10,673人、合計で25,207人。チュデツキー『研究の試み』、TKD A. 1877. 4. p. 46。
[1026] PSPiR. 3. 第1099号、第1136号;5. 第1929号。3つの修道院(アンドロニコフ修道院、ペレルヴィンスキー修道院、ニコルスキー修道院、いずれもモスクワ教区に属する)から修道士たちは追放され、修道院の建物は学校事業のために譲渡された。 『PSPiR』第4巻、第1316号、第1328号、第1284号。
[1027] PSPiR. 4. 第1197号。2.
[1028] ПСПиР. 2. № 596. § 18; 4. № 1197. 1. § 12.
[1029] PSPiR. 2. 第596号. § 46および47; 第997号; 3. 第1153号; 2. 第536号、第595号;1723年には、修道院の定員における「欠員」に「退役兵を配置する」という奇妙な勅令が発布されたが、これは後に撤回された。PSZ. 第4141号、第4455号、第4672号。 『補遺』によれば、チュドフ修道院やヴォズネセンスキー修道院など一部の修道院は、院内に病院や宿泊施設を設置するよう求められ、ノヴォデヴィチ修道院は孤児院を設置するよう求められた。PSPiR. 2. 第1279号。 1724年の「布告」には、修道院を病院へと改組する計画が盛り込まれており、修道士の一部が病人の看護にあたる一方、他の「農作業に従事する修道士」が土地を耕作し、これらの病院の運営費を賄うこととなっていた。PSPiR. 2. № 1197. 1. § 1–8. 一連の勅令を通じて、ピョートルは戦争による障害者の扶養を、土地を所有する修道院に負担させようとした:PSZ. 4. 第1856号(1701年);5. 第3409号(1719年);7. 第4183号(1723年);第4450号。 第1部 § 1および3(1724年);また、6. 第3576号も参照のこと。同号では、1720年4月8日の勅令が無効と宣言されている。
[1030] PSPiR. 2. 第596号。§ 49。新設されたアレクサンドル・ネフスキー修道院の院長のみが政府によって任命されていたが、この規定は後の勅令によって確認された。 PSZ. 第2959号;§50は、修道院長に対し、修道院の定款に従って修道院を運営し、修道院長の病気や不在の際に修道院の運営を引き継ぐことができる補佐者を置くことを求めている。『宗教規則』。司教に関する章。§7。
[1031] PSPiR. 2. 第596号、第30条、第51~53条、第31~33条;第426号および第954号;4. 第1456号;『教会規則』「主教に関する章」第8条;PSZ. 第1834号、第2985号、第3172号。
[1032] 『教会規則』の補遺。PSPiR. 2. 第596号;2. 第984号;PSZ. 第1834号。
[1033] ズナメンスキー『ピョートル大帝時代の教会領地』、掲載:『法典集』1864年、第1巻 140頁;ゴルチャコフ『修道院局』。131頁。1701年、修道院局が管轄する修道院領地には、同局の管轄外であったアストラハン、プスコフ、シベリアの各教区を除き、わずか137,823戸の農民世帯しか存在しなかった。
[1034] 1700年12月16日の勅令により、聖職者と平信徒間のあらゆる訴訟は、管轄機関に付託されることが定められた。PSZ. 第1818号。ゴルチャコフ。前掲書。132–136頁、195頁。 帝国全体の最高行政機関として上院が設立されると、修道院局はこれに隷属することとなった。PSZ. 4. 第1829号、第1834号;また、第2321号、第2349号、第2571号なども参照。参照:ザヴィャロフ。前掲書。64頁。
[1035] PSPiR. 5. 第1678号、第1778号、第1492号、第1787号。
[1036] 同上。第1716、1767、1772、1786、1907号。レオニード修道院長。「カルーガ教区にある廃止された修道院について」、『読本』1862年、第2巻、VI頁。
[1037] ヴェルホフスキー。前掲書 1。XXVI-XXVII頁;『集録』63。696頁以降、793頁;ダシュコフ・ゲオルギー、『RBS』135頁;プラトノフ。『講義集』546頁。 参照:バーンソン『家系図および統治者一覧』第3巻、第81号。
[1038] アンナの教会政策については、以下を参照:ティトリノフ・B. 『アンナ・イオアンノヴナの統治』(1905年);チストヴィチ『フェオファン・プロコポヴィチ』、316頁以降; ヴェルホフスキー『前掲書』第1巻、XXXII頁以降。また、エリザベータ女帝の『マニフェスト』におけるアンナ統治の評価も参照のこと。PSZ 11、第8506号。
[1039] 1742年3月25日に説かれた説教、ポポフ・N.『エリザベータ女帝の治世における宮廷説教者たち』所収、ティホーンラヴォフ編。 『年代記』第2巻、12頁。キリル・フロリンスキー修道院長は、ビロンとその手先たちを「悪魔の使者」と呼んでいた。ソロヴィヨフ、第21巻、182頁。
[1040] シュトールリン。第2巻、222、223頁。
[1041] アンナに関する人物評については、以下を参照:シェルバトフ M. M. 『ロシアにおける道徳の堕落について』、掲載:『ロシア論文集』1870年、第7号、50頁。 アンナの教会政策の実施におけるA・I・オステルマンの役割については、以下を参照:『ロシア歴史記念碑集』。カシュピロフ編(1873)。第3巻、260頁;『PSZ』。第11巻、第8506号。
[1042] プラトノフ『講義』552頁;コルサコフ・D.「アンナ・イオアンノヴナ」、『ロシア人名事典』所収;ビロンについては:ストロエフ・V.『ビロン政権と閣僚内閣』(1909年)。アンナ時代に関する極めて重要な史料として、回顧録が挙げられる:マンシュタイン将軍。 『1727年から1744年までのロシアに関する歴史的・政治的・軍事的回顧録』。著者の伝記付き、ユーベール編(ライプツィヒ、1771年;ドイツ語版:同上、1771年;ロシア語版:『ロシア論文集』1875年)。
[1043] チストヴィッチ。前掲書、257、295、316頁;ティトリノフ。前掲書、146、162頁。
[1044] PSPiR. 7. 第2505号および第2531号(いずれも1731年)。 閣僚会議は、勅令に記されている通り、「国家および我らの忠実な臣民の利益のため」に、1731年11月1日に設立された。PSZ. 8. 第5871号;シノドは、閣僚会議に対して毎月報告書(「ラポート」)を提出する義務を負っていた。
[1045] PSZ 第6177号、第6189号、第6574号、第6561号、第6585号。
[1046] PSZ 第7993号。
[1047] PSZ. 第7660号および第7538号、ならびに第8543号。
[1048] ザヴィャロフ。前掲書、72頁。
[1049] N. M. 『18世紀のロシア修道生活』、『ストランニク』1884年、第1号、212頁、435頁以降;PSZ 第8303号、8309号、9382号。
[1050] プラトノフ。『講義』。556頁。
[1051] エリザベータの教会政策については、以下を参照:ヴェデニャピン・P. 『正教聖職者に関するエリザベータ・ペトロヴナ女帝の立法』、『プラヴ・オブ』1865年、第5、7、10号;ズナメンスキー・P. 『ピョートル改革以降のロシアにおける教区聖職者』(1873年)。 242頁、441–459頁;同著『1808年の改革以前のロシアにおける神学校』(1881年)。175頁以降、188頁。エリザベータに関するもう一つの興味深い伝記として、ベイン・N.『ピョートル大帝の娘』(ウェストミンスター、1891年)がある。
[1052] IRI. 3. 618頁、486頁;4. 662頁; PSZ. 第8959号;同時に、1744年7月8日の勅令(PSZ. 12. 第8960号)により、エリザベータはラヴラがすべての領地を所有する権利を承認した。ゴルスキー『歴史的記述』第2巻、129頁。
[1053] PSZ. 第9591号、第10665号、第11332号、第1079号;参照:第8583号(これによれば、傷病将校は礼拝中の秩序を維持する義務があった)。
[1054] PSZ. 第11441号、第11481号。
[1055] IRI. 2. p. 81.
[1056] ゴルチャコフ『修道院令』102、122頁および以下;ザヴィャロフ『同上』50頁。参考文献:ザヴィャロフ。 エカテリーナ2世治下の教会所有地に関する問題(1900年)およびヴェルホフスカヤ・P.『聖シノド、主教邸、修道院の不動産』(1909年)――これらは、1701年から1764年にかけての世俗化の全時代に関する歴史上の最重要資料である。
[1057] ゴルチャコフ。前掲書、139頁;PSZ(ロシア帝国公文書集)第1886号。
[1058] 参照:ミリュコフ『国家経済』(1890年)。495頁。
[1059] PSZ. 第1886号;ゴルチャコフ。『土地所有について』。473頁。
[1060] ゴルチャコフ。『モンゴリアに関する勅令』140頁。付録第6、10、11号。
[1061] ザヴィャロフ。前掲書。60頁;PSZ 第1926号、第2462号、第3659号;ゴルチャコフ。『モンゴリアに関する勅令』。165頁以下。
[1062] ゴルチャコフ。前掲書。167頁;PSZ。第3659号。
[1063] PSPiR. 1. 第3号;PSZ. 6. 第3734号。§ 5. ピョートルの決定は、1741年6月26日の勅令からのみ知られている。PSZ. 第8406号。
[1064] PSPiR. 1. 第30、41、79、273、729号。
[1065] ザヴィャロフ。前掲書。66–70頁。PSZ。第4567号。シノダルの修道院局および財務局の組織については、バルソフ・T.『往時のシノダル機関』(1897年)171–184頁を参照。 1726年9月に実施された改革は、シノドの総合的な行政組織の再編と関連していた。1726年7月15日、シノドは2つの部門に分割され、一方は日常業務を、もう一方は教会裁判および領地の管理を担当した。PSZ. 7. 第4559号。 参照:バルソフ。同上。187頁以降。
[1066] PSPiR. 1. № 313.
[1067] PSZ. 7. № 4488; PSPiR. 4. № 1237, 1266.
[1068] 参照:「最高秘密会議誌」1726年9月25日付、§4、収録:『叢書』第56巻、100頁。
[1069] PSZ. 7. 第5005号;PSPiR. 5. 第1907号。
[1070] PSZ. 第6354号。
[1071] シノドの管理下に残ったのは、1721年にシノドが設立された後に同機関へ移管された、かつての総主教領のみであった。シノドは、ピョートルによる新たな命令の可能性を見越して、これらの領地をシノド傘下の修道院局には移管せず、自らの直接的な管轄下に留めておいた。 しかし、1738年5月15日の勅令を受けて、これらの領地もシノド管理から除外され、経済局に移管された。ザヴィャロフ。前掲書、74頁;PSZ. 10. 第7679号。
[1072] PSZ. 第7639号(1738年)、第7850号(1739年)、第8074号(1740年)。
[1073] PSPiR. 2. 第596号。§ 61。ザヴィャロフ。前掲書。75頁。この際、教会階層の個人所有財産は相当な規模に達し得たことを念頭に置く必要がある。すなわち、階層者たちは貴重な祭服、聖器、イコン、書籍などを所有していたのである。
[1074] 1. ズナメンスキー。前掲書;『法典集』1864年版 第1巻、274頁、参照:ザヴィャロフ。前掲書、77頁以下。
[1075] PSZ. 12. 第8993号;参照:ザヴィャロフ。前掲書。p. 77。それ以前にも、1741年6月26日の勅令により、経済局は一時的に聖会に移管されていた。PSZ. 第8406号。
[1076] PSZ. 13. 第10168号;ザヴィャロフ。前掲書。100頁;ソロヴィヨフ。24(1874)。242、360、363頁。
[1077] ヴェデニャピン。前掲書、掲載:『Prav. ob.』1865年。第3巻、220頁;PSZ. 第14巻、第10765号。
[1078] この点において特徴的なのは、戦争の傷痍軍人を修道院に収容し、修道院の経費で彼らを扶養するよう命じたエリザベータの布告、および、聖公会がこの件にあまり努力を払わなかったことに対する彼女の不満である。PSZ. 14. 第10765号。
[1079] PSZ. 14. № 10765; ザヴヤロフ。前掲書。96–100頁。エリザベータの急死(1761年12月25日)こそが、教会所有地の世俗化の実施を阻んだと推測される。
[1080] PSZ. 15. № 11481. ピョートル3世については、以下の単行書を参照のこと:Bain N. 『Peter III, Emperor of Russia. The story of a crisis and a crime』(ウェストミンスター、1902年)。
[1081] 以前は、スタウロピギア修道院のアルヒマンドリトは年間100ルーブルを受け取っていたが、1762年3月21日の勅令により、彼らは500ルーブル、第2級の修道院の院長には200ルーブル、第3級の修道院の院長には150ルーブルが支給されるようになった。
[1082] このピョートル3世の勅令の発布は、ロシアにおける農奴制が頂点に達していた18世紀において、極めて稀な出来事であった。この勅令は、後のエカテリーナ2世の治世やプガチョフの乱の際の農民騒乱において、一定の役割を果たした。
[1083] PSZ. 15. № 11498.
[1084] 『ロシア史』第25巻(1879年)。586頁、および:ソロヴィヨフ。第25巻(1875年)。147頁。 また、エカテリーナ即位後のアルセニー・マツェエヴィチからA. P. ベストジュエフ=リュミン伯爵への書簡も参照のこと。同上、146頁。
[1085] ザヴィャロフ。前掲書。123、125頁。
[1086] エカテリーナの宗教観については、私の論文『Jahrbuch für Geschichte Osteuropas』 3(1938)に掲載された私の論文を参照のこと。また、ティトリノフ・B.『ガヴリイル・ペトロフ、ノヴゴロドおよびサンクトペテルブルク都主教』(1916)も参照のこと。これはエカテリーナ2世時代のロシア正教会に関する綿密な研究であり、同書内の各所で女帝の見解が特徴づけられている。 また、古い研究として:ズナメンスキー・P.『エカテリーナ2世治世下のロシア正教会史に関する論考』、掲載:『Prav. sob.』1875年。
[1087] 私の著作、571、574ページ。教会所有地に関する勅令についての前述の記述を参照のこと。さらに、ピョートル3世がいくつかの「プロテスタント的な革新」を導入しようとしているという噂も流れていた。 メルシー=アルジェント伯爵からカウニッツ伯爵への書簡(1752年5月28日および6月18日)を参照。収録:『文集』第18巻、371頁および391頁。また、ボロトフ『手記』第2巻、 172頁;『ダチコフ王女の回顧録』第1巻、41頁;『ロシア公文書集』1871年、2055頁;また、『PSZ』には収録されていない1762年3月26日付の勅令については、『ロシア論文集』第6号(1872年)、567頁を参照。
[1088] 『PSZ』第16巻、第11582号;1762年7月7日の戴冠式に伴う勅書は、6月28日の措置を改めて正当化した。女帝は、これが「神(!)、その教会、そして聖なる信仰という観点から、その地位そのものが彼女に求めたこと」であると宣言した。 PSZ. 16. № 11598;ピョートル3世の死は、神の摂理の現れとして提示された。PSZ. 16. № 11599。私の著書(574頁)を参照。
[1089] 『論文集』第7巻、156頁。
[1090] 『ロシア正教会史』1865年、490頁;『叢書』13、378頁(ヴォルテール宛、1773年12月27日付)。33、142頁(グリム宛、1781年4月23日付)。
[1091] 『ナカズ』。チェチュリン編(1907年)。司教たち(いわゆるインノケンティ大司教委員会)はエカテリーナの業績を称賛していたものの(ティトリノフ、ガヴリイル・ペトロフ。 131–134頁)を称賛していたものの、それでも法典制定委員会にとって、ロシア正教会とその利益は視野の外に置かれたままであった。聖職者層は同委員会に自らの代議員を送り込んでおらず、シノドのみが1名の代表者を委員会に派遣した。フロロフスキー、A. 『1767–1774年の立法委員会の構成』(1915年)。 57頁;シュトールリン。2. 468頁。また、私の前掲著作も参照のこと。
[1092] シェルバトフ。「ロシアにおける道徳の堕落について」、『ロシア論文集』1871年、686頁;また、ドルゴルーキー・イ・M.「1777年のキエフへの旅」、『読本』1870年、第3号、8頁;私の前掲著書、574–576頁。
[1093] 『文集』第7巻、97頁。
[1094] 『ソロヴィエフ』第25号(1875年)。148頁;参照:エカテリーナからA. P. ベストジュエフ伯爵への書簡。『論文集』第7巻。135頁。
[1095] PSZ. 16. 第11643号。
[1096] PSZ. 16. 第11716号;委員会の活動については:ザヴィャロフ。前掲書。127頁以下。
[1097] PSZ. 16. 第11730号、さらに同書第11745号、11747号、11789号および11791号(収入・支出の管理および会計について)。
[1098] PSZ. 16. 第11814号;経済局向けの特別指示:同上、第11844号;同局は7月12日に業務を開始した。同上、第11864号。
[1099] PSZ. 16. 第12060号。
[1100] 参照:ザヴヤロフ。前掲書。155–190頁、190–234頁、283–321頁、322–340頁(A、B、C、Dの各項目について)。
[1101] チュデツキー・P. 「18世紀および19世紀に閉鎖されたロシアの修道院の数に関する歴史的研究の試み」、『TKDA』1877年、第4号、73頁。
[1102] PSPiR. 4. № 1200; チュデツキー。前掲書。p. 57, 58, 73, 74; IRI. 6. p. 1144–1147.
[1103] ポクロフスキー・イ. 『18世紀のロシア教区』。付録2;ザヴヤロフ。前掲書。235頁。
[1104] サンクトペテルブルクのアレクサンドロ・ネフスキー大修道院は、サンクトペテルブルク教区主教座とともに運営費を受けていた。
[1105] 1修道院 2009,8;1修道院 2007,7 および 1修道院 1506,38ルーブル。
[1106] ミリュティン。前掲書、収録:『読本』1861年、第2号。 565頁;ザヴヤロフ。前掲書、266頁。1768年、1775年、1793年には、定数に基づく修道院への総支出額が増加した。PSZ。第13061号、第14361号、第17124号。
[1107] ザヴィャロフ。前掲書。346–348頁、表。
[1108] 同上。274頁。これらのデータは完全には信頼できない。というのも、個々の修道院がある区分から別の区分へと移行したり、後に閉鎖されたり、あるいは再び再開されたりしたからである。チュデツキー。前掲書。73–75頁、88–102頁、104–107頁。
[1109] PSZ. 16. 第12121号;ミリュティン。前掲書、収録:『チェテニヤ』1861年 第2号、568–569頁;チュデツキー。前掲書、74頁;ザヴヤロフ。前掲書、270–271頁。
[1110] PSZ. 22. 第16375、16649および16650号。
[1111] PSZ. 第13721号。
[1112] これについては、ハルランプヴィチ『小ロシアの聖職者』(1898年)およびシュリャプキン、前掲書を参照。
[1113] アルセニイの「報告」、掲載:『チェテニヤ』1862年、第2号、25頁。
[1114] アルセニー・マツェエヴィチについては、非常に充実した研究を参照のこと:ポポフ・M. 『アルセニー・マツェエヴィチとその活動』(1912年);ティトリノフ. 『ガヴリイル・ペトロフ』(1916年);モロシュキン・I. 『アルセニー・マツェエヴィチとその活動』、『ストランニク』1885年、第3号。 457–487頁、655–672頁;イコンニコフ・V.『アルセニー・マツェエヴィチ』、掲載:『ルス・ストルニク』1879年4号、5号、8–10号;アルセニー・マツェエヴィチと同時に、彼に同情していたさらに2人のアルヒマンドリトも有罪判決を受けた。
[1115] 『正教集』1875年3号、248頁。
[1116] ティトフ・A. 「パヴェル・コニュスケヴィチ」、『歴史雑誌』1888年、第1号、180頁以降;トルストイ・M. 「聖パヴェル、トボリスク都主教」、『読本』1870年、第2号、158、163、168頁。
[1117] 修道院による抵抗の例として、次のような事例が挙げられる。キエフ都主教区における修道院所有地の世俗化(1786年)直後、エカテリーナ2世はキエフを訪れ、キエフ近郊のメジゴルスク修道院での礼拝に立ち会おうとした。 しかし、修道士たちは女帝のこの意向を知ると、訪問予定日の早朝、噂によれば、自らの修道院に放火した――こうしてエカテリーナの訪問は実現しなかった。ロジェストヴェンスキー・P. サミュエル・ミスラフスキー、キエフ都主教、掲載:『TKDA』1877年、第4巻、17頁。
[1118] チュデツキー。前掲書、TKD A. 1877. 4. p. 104 以下。ベラルーシでは、1796~97年に初めて修道院の閉鎖が始まり、最後の閉鎖は1855~1860年に行われた。 コーカサス地方のグルジアでも、1811年および1819年に一部の修道院が閉鎖された。チュデツキー。前掲書、68頁、73–76頁、88–102頁。
[1119] 参照:聖シノドの首席検事による1882年、1889年、1894年、1910年、1916年の報告書。
[1120] PSZ. 第15379号。§58(教区管理委員会の布告)。例えば、モスクワ都主教プラトンの尽力により、1766年にニコロ=ペスノシュ修道院が、1780年にはベルリュコフスカヤ隠修院が再開された。ピメン。 回想録、『チェテニヤ』1877年、第1巻、250、253頁。
[1121] PSZ. 24. 第18273号、第18590号。修道院が取得する土地の面積をさらに拡大するよう求める請願は、1800年4月5日の勅令により却下された。同上。第19370号。
[1122] 同上。第18273号;『シュタット』第2部、第3編、63–67頁。
[1123] PSZ. 28. 第21785号;参照:第24246号(1810年)。この勅令の規定は、1819年に教区教会にも適用された。PSZ. 36. 第27622号。 都市にある修道院所有の家屋は、宿泊税および地租から免除された。また、都市当局に支払うべきとされていたその他のいくつかの納付金も廃止された。PSZ. 第22894号; 24627、28611;2 PSZ. 第3326号;これは後に1857年の法典(9. § 386、391–392)で確認された。1819年以降、資金を有利に運用しようと、修道院はしばしば都市の家屋を購入した。
[1124] 第2巻 PSZ 第26313号、第15152号、第15189号、第15907号。最高検事総長の報告書。1836年、80頁;1846年、91頁;1841年。 39頁、80頁;1842年。6頁、12頁;1856年。90頁;1859年。5頁;2 PSZ. 第26736号 – グルジアの修道院に関する同様の勅令(1852年)。
[1125] 1838年以降、無人地や森林を、最大150デシャチンまで、さらに大規模に取得することが許可された。第2 PSZ 第11518号。参照:法典第8巻第1部(森林条例)。 536頁。例えば、トロイツェ=セルギエフ大修道院は、国有林1249デシャチンを取得した。ピメン。前掲書、259頁。ロスティスラヴォフ。 研究の試み。73–74頁(森林取得の事例数例)。ロスティスラヴォフは(同書、86頁)、19世紀70年代初頭において、200の修道院が25万デシャチン以上の土地を所有していたと推定している。
[1126] 2 PSZ 第36967号。
[1127] 2 PSZ. 第45341号;解放された資金は、教区主教座の定数給を引き上げるために充てられることになっていた。
[1128] 『ストランニク』1882年8月号、622頁;『報告書』1884年。
[1129] ピメン、修道院長。『回想録』(1877年)(『読物』1876年3~4号、1877年1号にも収録)。厳格な修道生活を送ったこの修道士の『回想録』は、19世紀の修道院史に関する重要な資料である。残念ながら、これほど信頼性の高い資料は他にほとんど存在しない。
[1130] サヴァ大主教。『わが生涯の年代記』。第5巻、172、178、216頁;第6巻、276頁;第7巻、59、221、385頁;第8巻、739頁。 サヴァ大主教の略歴は、『イスト・ヴ』1896年、66巻、1106頁;1910年、120巻。 p. 316。サヴァの『年代記』には多くの原本文書や書簡などが収録されており、それゆえ19世紀のロシア正教会の歴史に関する極めて貴重な著作となっている。また、ロスティスラヴォフ『研究の試み』 p. 329, 331, 232, 212, 336。修道院に関する多くの資料が掲載されているロスティスラヴォフの著作は、彼が偏った視点で執筆していたため、ある程度の注意を払って利用すべきである。
[1131] 『報告書』。1848年。86頁;他の年の『報告書』と比較のこと。例えば、1869年に(モスクワ教区の)イヴァノフスキー修道院は、マカロワ=ズブチャニノワ未亡人から30万ルーブルを受け取った; あるデジャヴィナという女性がズナメンスキー女子修道院(ノヴゴロド教区)を設立し、同修道院に98,279ルーブルと890デシャチナの耕地および森林を寄進した。
[1132] I. M. ドルゴルーキーの『覚書』(『チェテニヤ』1870年、第2号、54頁、51頁)における見解を参照。
[1133] ピメン。前掲書、103、246、280、282頁など;また、サヴァの『年代記』や各種報告書の各箇所も参照のこと。例えば、1887年には100の病院と72の夜宿所が修道院から運営資金を受けていた。 1887年報告書(1889年)。156頁;1884年。231頁以降。また、戦争中、例えば1812年には、修道院は野戦病院に多額の資金を提供した。トロイツェ=セルギエフ大修道院だけでも70,000ルーブルを寄付した。 ズナメンスキー『ロシア正教会の歴史概説』(1876年)。429–431頁;1877年から1878年にかけて、多くの修道院に野戦病院が設置された。報告書。1877年。5–29頁;1878年。145–146頁。
[1134] 彼に関する非常に興味深い研究として、A. グレコフの『アルハンゲリスク州ピネジ郡ヴェルコル修道院の院長、フェオドシイ大修道院長』(1893年)を参照のこと。フェオドシイ・オレホフは将校の息子であった。 彼はギムナジウムと農業高等学校を卒業した後、2年間(1854–1856)修道院から修道院へと放浪した。1857年にコジェエゼル修道院に修道見習いとして入り、1860年に修道誓願を立てた。 早くも1861年、フェオドシイは小さなヴェルコル修道院の院長に就任した。彼はそこで共同生活規則を導入し、まもなく、ほとんど廃墟同然だった修道院は、真の修道生活が営まれる場所となった。 フェオドシイ神父は修道院内に孤児院、農民の子供たちのための寄宿制学校2校を設立し、職業訓練学校を建設するとともに、周辺の村々の人々を対象に、成功を収めた啓蒙活動に従事した。
[1135] 『霊的規則への補遺』、PSZ 第4022号およびPSPiR 第2巻第596号。『補遺』は、『霊的規則』のその後のすべての版に収録されている。
[1136] この『修道院生活の図解』は、おそらく修道室の壁に掲示するために、個別のポスターとして印刷された。初出は:ボグダノフ。 『サンクトペテルブルクの記述』(1779年);その後、エフゲニー・ボルホヴィティノフ都主教が『ロシア聖職階級の歴史』第2巻に「描写」を収録した;参照:ティトリノフ B. 『フェオファン・プロコポヴィチ』、RBS、433頁。
[1137] PSZ. 7. 第4450号;PSPiR. 4. 第1197号;チストヴィチ『フェオファン・プロコポヴィチとその時代』付録。
[1138] N. M. 『18世紀のロシア修道生活』、『ストランニク』1884年、第1号、212、435頁。
[1139] ズヴェリンスキー。2. 第1141号;デニソフ。第889号;『法典集』1863年。7. 154頁;『サロフ修道院の創設者にして初代院長である聖修道士ヨハネの生涯と功績』(1892年)。
[1140] この『教訓』は、執筆から数年後に出版された(モスクワ、1824年)。長老フィラレートとその活動については、『グリンスカ修道院を復興させた長老、イグメン・フィラレートの聖なる生涯』(1860年)を参照のこと。
[1141] マカリイ、アルヒマンディト。『ノヴゴロドおよびサンクトペテルブルク都主教ガブリエル殿下の生涯と業績に関する叙述』(1857年)。69–71頁、172頁;ウスペンスキー、V. 『ニロヴァ修道院の記述』(1886年)。 45頁;参照:ティトリノフ・B. 『ガブリエル・ペトロフ』(1916年)、同書の第6章でこれについて詳しく述べられている。
[1142] イオアサフ・レベディンスキーという名のあるアルヒマンドリットが、1816年にシノドに対し、共同生活規程の草案を提案した。シノドは、修道生活を適切に整えるには、『霊的規則』に含まれる規定で十分である、と彼に回答した。『チェルニゴフ教区の歴史的記述』第3巻。 p. 232;RBS. p. 290。
[1143] N. M. 『18世紀のロシア修道生活』、『ストランニク』1884年、第1号、210頁。 これについては、ピメンの『回想録』および彼の論文「修道生活とそれに関する現代の見解」(『チェテニヤ』1874年、第2号、96頁以降)ならびに論文「我らの修道院」(『ベセダ』1872年、入手不可)を参照のこと。
[1144] ピメン。前掲書。121頁。
[1145] 同上。90、100、127、250、256、275、282–286頁。
[1146] セレブリアンスキー。前掲書。328頁。
[1147] 『集録』第113巻第1号(1902年)。 21頁。「コネフスキー修道院の規律」イラリオン(1824年)――これは極めて希少な小さな小冊子であり、私は幸運にもベルリン市立図書館(1943年以前)でこれを発見することができた。この敬虔な修道生活の擁護者については、もう一つの小冊子も参照されたい: O. A. M. 『コネフスキーの創建者、アルヒマンドリト・イラリオン伝』(1861年)。彼の規則は、前述のアルヒマンドリト・フェオドシイ・オレホフ(注1127参照)によってヴェルコル修道院に導入された。
[1148] ピメン。前掲書、112–114頁。
[1149] PSZ. 第8988号(1744年);第13163号(1768年);第18273号(1797年)。
[1150] ピメン。前掲書。246、250、254頁。
[1151] 同上。101、120、243、252、255頁など。
[1152] ピメン。前掲書、363頁。 その一例として、アストラハン主教イサアク(ペロヴィンスキー)(† 1894)や、リャザン教区の代理主教イシドール(コロコロフ)(† 1911)の事例が挙げられる。参照:リヴォフ N. N. ドレヴニク、『クラースヌイ・アルヒヴ』第39号。 148頁;『ツァーリ体制の崩壊』第2巻、68、88頁;第4巻、190、199、308、479、480頁。 トゥーラのラヴレンティイ(ネクラソフ)司教は、1908年にその「自由主義」を理由に司教座から解任され、モスクワのヴィソコペトロフ修道院の院長に任命された。『歴史年鑑』第122巻、778頁;『ロシア年鑑』1908年、第4号。 ニコライ1世の時代については、以下を参照のこと:『資料集』、収録:『叢書』113。特に第2部。
[1153] ピメン。前掲書。249、265、252、275、120頁。これは当然ながら、個々の朗読やスティヒラが省略または短縮された時課、早課、晩課に限られる。典礼には厳格な儀式順序があり、決して短縮されることはない。
[1154] 参照:「内部教会概観」、『ストランニク』1897年、第8号、560頁。19世紀前半を通じて、聖公会は様々な指令を発布したが、それらは教区主教のみを対象としたものであり、修道院の生活様式を改革しようとする試みとは見なせない。 参照:『報告書』1841年、1862年(本文は『БВ』1905年9号、158頁にも掲載)、1874年、1884年など。
[1155] PSZ. 第18273号;バルソフ, T. 『シノドの機関』. 162頁. 付録43–48.
[1156] セラフィム(司祭)。『男子修道院共同生活規律』。全3巻(1910年)。
[1157] 修道院および修道生活に関するシノドの各種指示・指令の集成については、チジェフスキー『修道院に関する決議集』(1896年)を参照。
[1158] 改革計画については、スエトフ『全ロシア教会会議で審議されるべき諸問題の検討のために聖シノドの下で最高権威により承認された特別会議について』(1912年)、オグネフ『教会会議』(1905年)、『教会会議前会議の議事録および議事要旨』 全4巻(1906–07);補遺巻:『教会改革問題に関する各教区主教の意見要約』(1906);A. R. 『正教会の運命に関する歴史的書簡集』(1912);筆者の論文:「1906年の総会前会議」、『プーティ』 (1933年)。38;参照:Stupperich R. 『ピョートル大帝の国家観と宗教政策』(1936年)。105–107頁。ゴルービンスキー・エ・エ. 「ロシア教会の生活における改革について」、『チェテニヤ』1913年、3号、126頁。
[1159] ソロヴィヨフ。4(OP版)。p. 1510, 1649。
[1160] PSZ. 16. 第12060号。『官報』。
[1161] 1890年および1907年の報告書(1893年および1910年)。また:プレオブラジェンスキー『統計データに基づく国内教会』(1897年)、1840–1891年の統計データが掲載された表。
[1162] 19世紀におけるロシア女性の解放、および教育への志向については、以下を参照のこと:ショホル、K. P. 「ロシアにおける女子高等教育の発展に関する一考察」、『ЖМНП』1912年8号、1913年3号および7号。
[1163] 19世紀前半のロシア文化史については、以下の著作を推奨する:ザモティン『19世紀20~30年代のロシア社会におけるロマン主義的理想主義』(1907年); ゲルシェンゾン・M. 『ニコライ1世の時代』(1910年);バルスクフ・N. 『M. P. ポゴディンの生涯と業績』第1号以降(1888–1899年);コシェレフ・A. I. 『随筆』(1884年); フィリッポフ・M・M. 『ロシア哲学の運命』、掲載:『ロシアの富』1894年、第1、3、4、8、9号;スミルノワ・A・I. 『随筆』(1897年);『アレクサンドル1世時代の宗教運動』。N・ピクサノフ編(1916年); トゥルゲーネフ兄弟のアーカイブ。ロシア科学アカデミー刊。全4巻(1911–1915);ドゥブロヴィン・N・F. 『我らが神秘主義者・分派者たち』、『ロシア論文集』1895–1896年;『ウトキンスキー文集』(1897); ゲルシェンゾン・M. 『歴史的記録』(1910年;第2版 ベルリン、1923年);ザヴィトネヴィチ・A. S. 『ホミャコフ』全2巻(1902年);コルニロフ・A. 『ミハイル・バクーニンの放浪の年』(1925年); スタンケヴィチ・N・V. 『著作集』(1890年);ヘルツェン『往事と想念』(各種版、ドイツ語版を含む);ステプン・F. 「ドイツ・ロマン主義とスラブ派の歴史哲学」、『ロゴス』16号(1927年); コルニロフ・A. 『ミハイル・バクーニンの若き日々』(1915年)ほか。詳細な書誌(1918年まで)は、ポリエフクトフ・M. 『皇帝ニコライ1世:伝記と治世』(1918年)に収録。
[1164] 19世紀初頭、私設印刷所の増加に伴い、多くの禁欲主義的著作、聖人伝、その他の霊的啓発書が広く普及した。1821年以降、雑誌『キリスト教の読書』(サンクトペテルブルク、神学アカデミー刊)は、ロシア語による数多くの禁欲主義的著作を掲載した。 一部の禁欲主義的著作はオプティナ修道院で刊行された。第XV章を参照。1860年代の神学雑誌は、学術的な問題だけでなく、当時の霊的潮流にも多くの関心を寄せ、地方で非常に人気があった。
[1165] ピメン。同上、309–311頁。
[1166] 統計データを伴う教区の概要は『ロシア正教会百科事典』(ПБЭ)に掲載されており、これらは公式資料に基づいて作成されている。また、19世紀後半にはほぼすべての教区で発行されるようになった『教区報』も重要な資料である。
[1167] 残念ながら、現在『上級検事報告書』にはアクセスできない。以前、1943年まではそこから様々な統計的抜粋を行っていたが、極めて不完全であったため、現在は私の書類の中に散在する断片的なメモと記憶に頼るしかない。
[1168] 私の情報源となったのは、『レスニンスキー聖母マリア修道院の略史』(1925年にセルビアのホポフ修道院で、かつてレスニンスキー修道院の院長であったイグメニア・ニーナによって作成されたタイプ原稿)である。
[1169] ラソフォールを着用する修道士については、第IX章を参照のこと。
[1170] エカテリンブルク教区の記述については、『ロシア正教会百科事典(ПБЭ)』第5巻、353頁;ブルガコフ、65頁を参照。例えば、ウラジーミル教区では、1895年から1899年にかけて3つの女子修道共同体が設立された(『ロシア正教会百科事典』第2巻、 625頁)が設立されたが、当時この地域にはすでに6つの女子修道院が存在しており、そのうちの1つであるペレヤスラヴリ市のポクロフスキー修道院は、1899年時点で少なくとも350人の修道女と見習い修道女を擁していた。同修道院は病院、老人ホーム、学校を運営していた。 『ロシア正教会百科事典』第3巻、619、624、625頁。
[1171] 『ヴォロネジ教区の記述』、PBE第3巻、866、867頁。
[1172] ブルガコフ。97頁、89頁。
[1173] イグメニア・エフゲニア、ボリソグレブスキー共同生活女子修道院の創立者、『読本』1875年、第2号;同書に彼女の書簡集;参照:ピメン、前掲書、309頁。
[1174] ピメン。前掲書。310、288頁。
[1175] 同上、310頁;PSZ 第19110号。
[1176] ドブロンラヴォフ・V・G. 『スヴィャトエゼルスカヤ修道院』、掲載:『ウラジーミル学術アーカイブ委員会論文集』第11号(1909年)、60頁。 修道院の創立者がペテルブルクに人脈を持っていた場合、物事はより迅速に進んだ。例えば、V. B. スヴィャトポルク=チェトヴェルティンスカヤ公妃によって設立された(モスクワ教区の)ウラジーミル女子共同体の成立史を参照のこと。ソロヴィヨフ・I. 『ウラジーミル女子共同体』、掲載:『ロシア年鑑』1898年。 49. 869–885頁;この著作には、共同体の日常生活に関する興味深い詳細が数多く記されている。
[1177] この驚くべき書簡は、長老ヴァシリスク(†1824)の伝記『修道士兼隠遁者ヴァシリスクの生涯』(1849年)(残念ながら、私はこれを入手できなかった)に収録されており、抜粋はピメン『所著集』p. 298にも掲載されている。 おそらく、これは手書きの『長老ヴァシリスクに関する物語』に収録されている「知的な祈りの作用について」という論考そのものであろう;参照:ポポフ・N. 『モスクワ・シモノフ修道院の写本目録』、『チェテニヤ』1910年、第3号、53頁。
[1178] ピメン。前掲書。295–300、310頁。
[1179] 『ロシア正教百科事典』第5巻、853–854頁;『ロシア正教辞典』、86–87頁。
[1180] 聖セラフィム・サロフスキーについては、私の著書『Leben und Lehre der Starzen』(1936年)および第XV章を参照のこと。
[1181] ディヴェエフスカヤ共同体はニジニ・ノヴゴロド教区に属していたが、すでにタンボフ教区に属していたサロフの修道院からはわずか15kmの距離にあった。 参照:セラフィム(チチャゴフ)大修道院長『セラフィム・ディヴェエフスキー修道院年史』(1903年);ここには聖セラフィムの伝記に関する資料が多数掲載されている;また、イリン『聖セラフィム・サロフスキー』(1925年)87頁以降も参照のこと。
[1182] 私の著書。前掲書、202頁以降;本論の第XV章も参照のこと。シャモルディンの女子修道共同体については:チェトヴェリコフ・S. 『オプタ修道院の長老、司祭修道士アムブロシウスの伝記』(1912年)および同著者の 『オプティナ修道院』(1927年)。オプティナの長老マカリイ(イワノフ)もまた、いくつかの女子修道共同体を霊的に指導していた(チェトヴェリコフ。前掲書(1927年)。 52頁)、例えば、クレストヴォズドヴィジェンスキー女子修道院など。詳細は:レオニード(カヴェリン)。『ベレフスキー女子クレストヴォズドヴィジェンスキー第3級修道院の歴史的記述』(1863年)。
[1183] この本から最近出版された抜粋のドイツ語訳を参照のこと:『Russische Frömmigkeit. Briefe eines Starzen』ロシア語からの翻訳、序文および編集:N. ブブノフ(ヴィースバーデン、1947年)。
[1184] これらの「手紙」は、『ストランニク』1865年1号に掲載されているほか、『修道女エウプラクシアの質問と、大修道院長ゲラシムによる回答』第2巻(1883年)(一部は『ドゥシェプ・チト』1882-83年にも掲載)にも収録されている。 ゲラシム司教は当初、教区司祭であったが、その後出家した。彼はオプティナ修道院と霊的な交わりを持ち、非常に興味深い著書『ヴヴェデンスカヤ・オプティナ修道院の院長、アルヒマンドリト・モイセイ神父の生涯に関する簡潔な概説』(1865年)を著した。
[1185] オプティナの長老アムブロシオスによる修道者たちへの書簡集。全2巻(1908–1909)。
[1186] 長老テオファン・ソコロフについては、私の著書を参照のこと。前掲書、128頁以降、および本論の第XV章。
[1187] テオファニア・ゴトフツェワについては:アスコチェンスキー・V. 『テオファニア、復活修道院のイグメニア』(1866年)(非常に簡潔);また: 『イグメニア・テオファニア』(1868年)、多数の手紙が掲載されている;彼女の修道院については:スネッソレヴァ・S.『サンクトペテルブルクの復活修道院』(1887年)。
[1188] スキヒグメナ・フェオファニア・シドロワについては、遠い地方の修道院の日常生活を紹介する興味深い小冊子が書かれている:『シェンクル修道院のスキヒグメナ・フェオファニアの追悼』(1891年)。
[1189] 聖霊ボロヴィツキー修道院は1162年以前から知られていた。当初は男子修道院であったが、1787年に女子修道院として再建された。この修道院には、聖ニコライ・チュドトヴォルツの素晴らしい古のイコン(16世紀初頭)が所蔵されている。
[1190] このキエフの修道院では、礼拝規律が特に厳格に守られていた。1917年まで、約500人の修道女と見習い修道女がここで生活していた。
[1191] RBS. p. 76. さらに、ハリコフ近郊のニコライエフ修道院の創立者(1845年)であるイグメニア・エミリアについても言及しておこう: コヴァレフスキー・A. 「ヴェルフネ=ハリコフのニコライエフ女子修道院の創立者、イグメニア・エミリア」、『ドゥシェプ』1885年、第2号、283–311頁、385–428頁。
[1192] イグメニア・タイシアの記録。ベルリン、1939年。
[1193] この点に関する多くの例については、Arseniew N. v. 『聖なるモスクワ』(1940年)を参照のこと。ラザレフスカヤと呼ばれたユリアニア・オソルギナ(裕福な貴族と結婚し、ムロム近郊のラザレフスコエ村に住んでいた)については、以下を参照: クリュチェフスキー・V. 『古代ルーシの善良な人々』、収録:『随筆と演説』(1913年);フェドトフ・G. 『古代ルーシの聖人たち』(1931年)。228–232頁。
[1194] 参照:私の著書。前掲書およびイリイン。前掲書、87頁。
[1195] ニコディム、アルヒマンディト。『18世紀および19世紀のロシアの敬虔な修行者たちの伝記』全12巻(1908–1909);この著作は月ごとに区分されており、修行者たちの伝記に関する情報は、彼らの没日に従って暦順に記されている。私が入手できたのは1月から9月までの巻のみであった。
[1196] RBS。87頁。
[1197] ドブロクロンスキー『手引書』第4巻(1893年)、107頁;また、すでに言及したK. ハルランプヴィチとI. シュリャプキンの著作も参照のこと;さらに、P. ミリュコフの見解(『論集』第3巻(1930年)、169頁)および第XI章も参照のこと。
[1198] ODDS. 4. 515頁。
[1199] ティトリノフ。『アンナ・イオアンノヴナの政権』。183頁。
[1200] 『ロシア史』1871年、第3号、583頁;1908年、第7号、40–54頁;スネギレフ。『記録』、掲載:『ロシア考古学』1866年;『論文集』第10巻、275頁。
[1201] ティトリノフ。『ガヴリイル・ペトロフ』46頁;ティトフ。「プスコフおよびナルヴァの司教ゲデオン・クリノフスキーの伝記について」(1907年)。
[1202] ポクロフスキー『カザン主教館』(1906年)。367頁、372–381頁;ポポフ『アルセニー・マツェエヴィチ』。99頁。主教座の新たな定数については:ザヴヤロフ『前掲書』。216頁。 主教座が聖職者から得る収入については、以下の文献を参照するのが最も適切である:カプテレフ・N. 『世俗の主教官吏』(1874年)。114頁、135頁以降; ゴルビンスキー。第1巻第1部。423、436頁;ゴルチャコフ。『修道院局』。236頁。
[1203] ズナメンスキー『教区聖職者』。615頁。
[1204] 『司教たちに対する論考』。V. I. サヴァー編、『チェテニヤ』1909年、第1号、7、35、26、4頁。
[1205] 『チェテニヤ』1867年、第3号、17頁;『ロシア考古学雑誌』1871年、218–220、230頁;1892年、第4号、 p. 456。作家としてのアレクセーエフについては、フィラレート『概観』第3版、第2巻、p. 384;ズナメンスキー、前掲書、p. 651;スホムリノフ『ロシア・アカデミー史』第1巻、p. 280を参照。
[1206] 黒衣の聖職者と白衣の聖職者、すなわち修道者と教区司祭との間の隔たりは、ビザンツ時代にはすでに存在していた。これについては、トロイツキー・イ・エ.『アルセニイ、ニカイアおよびコンスタンティノープル総主教』(1873年)を参照。
[1207] PSPiR. 4. 第1197号。
[1208] PSZ. 第12577号、第16684号。
[1209] Milaљ. 前掲書、663頁。
[1210] 25歳に達する前に修道士となることもあった。例えば、アルヒマンドリト・ブハレフやミトロポリト・アントニー・クラポヴィツキーがそうであった。
[1211] このような学者修道士の経歴に関する多種多様な事例については、19世紀40~70年代の時代に属する、極めて興味深く内容豊かなニカノール(ブロフコヴィチ)大司教の『伝記的記録』を参照のこと:『伝記的記録』第1巻(1900年)。
[1212] 「東方教会の司教が修道士であるとするのは誤りである」と、S. ツァンコフは記している(『東方の正教キリスト教』ベルリン、1928年、注125)。 彼らは修道士の中から選出されることはあっても、彼ら自身が修道士であるわけではない。なぜなら、879年のコンスタンティノープル公会議の第2規則によれば、司教の位は修道者の位と両立しないからである。司教になるということは、ipso facto(それによって)修道生活を放棄することを意味する。 ベス(Beth Karl. 『地中海諸国の東方キリスト教。ギリシャ、アルメニア、コプト諸教会の統計と象徴に関する旅行研究』. ベルリン、1902年、333頁)が、正教会の司教の場合、修道生活ではなく独身生活について語る方がより適切であると見なしたのは、まったく正しい。
[1213] ヴァルラアム・ペトロフについて:アブラモフ N. 「ヴァルラアム、トボリスク大司教」、『ストランニク』1863年、第3号。
[1214] 注目すべきは、彼の兄もまたサンクトペテルブルクを離れ、アトス山へ赴き、そこで修道士となり、後にコロチャ市のニコライ修道院の院長を務めたことである。本論の第XV章を参照。
[1215] RBS. 301–303頁。
[1216] ティトフ・A. 「最後のロストフ大司教アルセニー」、『イスト・ヴ』1886年、第2号。
[1217] フラヴィアン・ゴロデツキー(1840–1912)は、モスクワ大学法学部で学んだが、国家試験を目前に控えた頃、ペスノシュ修道院へ徒歩で向かい、そこで留まった。 1863年から1866年にかけて、彼はモスクワのシモノフ修道院で修練生として過ごした。その後、しばらくの間、ローマにあるロシア正教会の秘書を務めた。1870年から1880年にかけて、すでに修道士となっていた彼は、中国にあるロシア正教会宣教団で奉仕した。 1880年、フラヴィアンはドンスキー教区の副主教に叙階され、1885年から1896年にかけてポーランドで奉仕した。当初は副主教として、後にワルシャワ大司教として務め、そこでローマ・カトリック教会に対する断固たる反対者としての姿勢を示した。 1896年から1903年にかけては、グルジアの大司教兼エクザルクを務め、1903年にキエフ都主教に任命された。アレクサンドル3世の時代(1880~1890年代)に極めて特徴的であったカトリック主義との闘争を、 フラヴィアンは、聖公会内およびオーバー検事長K・P・ポベドノスツェフに対する強い独立性、ならびに禁欲的な生活様式とこれを両立させた。彼は自身の教区内の修道生活に対して厳格な態度を取り、教区聖職者たちから大きな権威を認められていた。 彼の伝記については、ロドスキー『前掲書』p. LXXIX、および『ニヴァ』1910年、p. 177を参照のこと。私はこの人物評において、キエフでフラヴィアンをよく知っていた同時代の故プロトイェレイ・G・プロゾロフ(†1942)の口頭証言にも依拠した。
[1218] ユヴェナリイ、アルヒマンドリト。『コゼルスクのヴヴェデンスカヤ・オプティナ修道院院長アルヒマンドリト・モイセイの伝記』(1882年);参照:チェトヴェリコフ。『オプティナ修道院』。51頁。
[1219] イグナティイについては、後述の第XV章および私の著書(前掲書)を参照のこと。
[1220] アンブロシウス・オルナツキー司教に関する最良の伝記は、V. シュマキンによるもので、『Рус. ст.』39(1882年)所収。129–178頁;また、ポセリャニン『19世紀のロシアの修道士たち』(1910年)も参照。
[1221] 参照:ポポフ『モスクワ・シモノフスキー修道院所蔵写本の目録』(各所)。
[1222] ロドスキー。前掲書、XLI頁および181頁;ティトフ・A.「ニジニ・ノヴゴロドのイェレミヤ司教」、『歴史学雑誌』1889年9号;『読本』1887年。 3. イェレミヤ司教は、2つの禁欲的な著作『天からの啓示』(1865年)と『魂の治療』(1890年)、およびいくつかの小論を残した。参照:RBS、164–165頁。
[1223] ロドスキー。前掲書、XX頁;ニカノール大主教。前掲書、26頁。ここではごく一部の名前しか挙げなかったが、言及に値する司教は他にも多くいた。しかし、それは19世紀のロシアの司教団に捧げられた別の研究のテーマとなり得るだろう。 おそらく、別の歴史家であれば異なる名前を挙げるだろう――それは視点による。教会指導者の伝記は、非常に不完全なことが多く、特に訃報記事においては公式的な調子のまま記述されることが多いため、主教たちの活動における肯定的・否定的な側面は、「シノダルの精神」に沿って描かれてしまうのである。
[1224] 「フィラレート研究」の文献は極めて広範である(参照:RBS。同書には主要な文献が掲載されている)。 ミトロポリト・フィラレート・ドロズドフの教会的および教会政治的活動や見解を評価する上で、主な資料となるのは、サヴァ・ティホミロフ大司教によって数巻にわたり刊行された、彼の数多くの書簡、説教、演説、および行政決定である。これらの巻のほとんどは、かつてベルリン国立図書館に所蔵されていた。 さらに、重要な資料として以下が挙げられる:サヴァ(ティホミロフ)『わが生涯の年代記』全9巻(主に最初の3巻)、およびモスクワ神学アカデミー教授P・S・カザンスキーと、その弟であるコストロム大司教プラトンとの間の書簡(1960年代)、『BV』 1903。とはいえ、フィラレートに関する豊富な文献が、彼の活動や見解のあらゆる側面を十分に明らかにしているとは言い難い。とりわけ、彼の教会・政治的見解については、依然として専門的な研究が待たれている。
[1225] フィラレート。『意見集』第4巻、578頁;第5巻、362頁;第4巻、469頁;第5巻、232頁;第7巻、49頁;補遺巻、143頁など。
[1226] 1856年、ロシア正教会の地方公会議の招集の可能性について、極めて慎重な形で問題が提起された。 参照:『ロシア正教会年報』1883年、第3号、175–203頁。同書には、A. N. ムラヴィエフの記念覚書「ロシアにおける正教会の状況について」が要約版として掲載されているほか、フィラレート『意見集』第4巻、141頁、149頁も参照のこと。 フィラレットの改革案は、以下の問題について議論することを提案する段階にとどまった:1. 礼拝の外的改善(敬虔さ、荘厳さ)について;2. 新しい教区の設立について;3. 分裂に対する措置について。チストヴィチ・イ. 『指導的活動家たち』361頁。
[1227] チストヴィチ『指導的活動家たち』361頁。
[1228] フィラレート・アンフィテアトロフ大主教については、以下の大著を参照のこと:セルギイ(ヴァシレフスキー)、修道院長。『高尊なるフィラレート、修道名テオドシイ(アンフィテアトロフ)、キエフおよびガリツィア大主教』。全3巻(1888年) (私は入手できなかった);スミルノフ・D. 「フィラレート・アンフィテアトロフ」、収録:『アカデミーにおける聖三位一体』論文集(1914年)。223–251頁;また、レスコフ・N. 「主教の生活の些細な出来事」、収録:全集第35巻(1903年)。 22頁、107頁など。イグナティイ・ブリャンチャニノフ司教(『БВ』1913年3号)およびイノケンティイ・ボリソフ大司教 (『TKDA』1884年5号)への書簡は極めて特徴的である。フィラレートとオプティナ修道院との関係については、以下の短編論文を参照のこと:フィルソフ・A・I.「コゼルスカヤ・オプティナ修道院」、『イスト・ヴ』1899年3号;また、チェトヴェリコフ『オプティナ修道院』も参照。
[1229] K. P. ポベドノスツェフについては、Steinmann F., Hurwicz E. 『K. P. Pobjedonoszew. アレクサンドル3世治下の反動派の政治家』(『ロシア史に関する資料と論考』K. シュテリン編、第11巻)を参照のこと。 皇帝アレクサンドル2世への彼の書簡は極めて特徴的である。『P.からアレクサンドル3世への書簡』全2巻(1925年)。彼の著作の一部はドイツ語に翻訳されている:『Moskovitische Studien』(1904年)および『Streitfragen der Gegenwart』(1897年)。
[1230] ニカノール。前掲書、143頁ほか。司教職の特徴については、以下も参照のこと:ペヴニツキー。「随筆」、掲載:『ロシア学術誌』1905年、7頁以降;フィラレート(ドロズドフ)。『トヴェリ大司教アレクシイへの書簡』(1883年)。 211頁;ゴルービンスキー・エ. 『ロシア教会の生活における改革について』。117頁;ソロヴィヨフ・S・M. 『随筆』、掲載:『ヴェ』1907年3号、74–76頁。
[1231] アガピト司教について:ニカノール。前掲書。196–200頁;『補遺』。43。526頁;フィラレート。『説教集』。2(1887年)。279頁;バルスクフ。『モスクワ都主教イノケンティ』。150頁。 ヨアン大司教について:ニカノール。前掲書。196、226頁。ナファナイル(ソボロフ)アストラハン司教は、ポベドノスツェフの「専制」に抵抗しようとしたが、1890年に司教座を去らざるを得なかった: 『イスト・ヴ』1907年、第106号、1049頁。ラスプーチンの影響力に抵抗したミトロポリト・ウラジーミル(ボゴヤヴレンスキー)は、サンクトペテルブルク教区(1912–1915年)からキエフへ、「名誉追放」として転任させられた(†1918年)。 『帝政の崩壊』第1巻、361、366頁;第4巻、164、190、195、266、271頁。
[1232] 『ニコライ1世帝の治世における正教会の歴史に関する資料』、収録:『集録』113、第1部および第2部;『キリスト教雑誌』1881年、5–6号。
[1233] ニカノール。前掲書。258、257、253、254、269頁;特に「自伝からの抜粋」という章(253–281頁)が重要である。 ニカノール・ブロフコヴィッチ大司教(1826–1890)は、シノダール体制の支持者ではなかったものの、この体制とのいかなる闘争も無益であると見なした司教たちの一人であった。 それでもなお、彼は司教職の最も優れた資質を体現しており、優れた管理者、説教者、そして著述家として知られていた。キリスト教および観念論的哲学の分野における彼の著作は、実証主義と唯物論に反対するものである(主要著作:『実証哲学と超感覚的存在』1875年)。 ニカノールについては、以下を参照のこと:F. V. チェルティ『ヘルソン大主教ニカノール殿下の生涯の一端』、『イスト.』第50号(1892年)、753–763頁;第51号(1892年)、651頁以降。
[1234] マカリー・グルハレフについては:『報告書』1836–1844年;同氏の書簡(1905年);ロドスキー『前掲著作』255–257頁;ヤストレボフ・イ. 『アルタイ宣教団の創設者、修道院長マカリー・グルハレフの生涯と活動に関する簡潔な概説』(1893年); プトホフ・P・V. 『アルタイ宣教団の創設者、マカリー・G大修道院長』(1899年);チストヴィチ・I. 『聖書のロシア語訳の歴史』(第2版、1899年)。207–240頁;フロロフスキー。 同著、187頁以降。マカリーによる翻訳は、後に雑誌『正教評論』(1860–1867)に掲載された。
[1235] アルヒマンドリト・フェオドール・ブハレフだけが、キリスト教と社会問題を「調和」させようとしたわけではない。 この点において、アルヒマンドリト・イオアン・ソコロフ(† 1868)、後にスモレンスク主教(1866–1868)となった人物の説教も意義深いものである。彼の「リベラリズム」は、その出世の妨げとなった。 彼については:ヴィノグラドフ・V. 「モヒカンの最後の一人」、『BV』1911年10月号、278頁以降;バルソフ・T. 「説教者としてのイオアン、スモレンスク主教」、『キリスト教論文集』1872年。
[1236] F. M. ブハレフについては、ズナメンスキー・P. 『カザン神学アカデミーの歴史』第1巻、124頁以降、142頁;第2巻、200頁以降;サヴァ『年代記』第2巻、724頁;スミルノフ 『モスクワ神学アカデミーの改革までの歴史』(1879年)。138、260、460、628頁以降;ブハレフの同時代人による書簡については、『アカデミーのトロイツァにて』(1914年)。123、 237、571頁;彼の著作については:ヴェンゲロフ S. A. 『ロシア作家辞典の資料』第1巻。キリスト教と生活との「和解」をめぐる論争については:ズナメンスキー P. 『1860年代の神学的論争――正教会と現代生活との関係について』(1902年)。
[1237] 私は自身のカードファイルに、19世紀の30人の主教(これは全体の一部に過ぎない)に関する情報を収集した。彼らは皆、教区司祭として教会での奉仕を始めた人々である。ここではそのうちのいくつかの名前を挙げるに留める:アンブロシイ・クリュチャレフ、ハリコフ大主教(1882–1901)、傑出した説教者としても知られる; アナスタシイ・ドブラディン、ヴォロネジ大主教(1890–1906);アントニー・ヴァドコフスキー、サンクトペテルブルク都主教(1898–1912);アントニー・ラファルスキー、サンクトペテルブルク都主教(1843–1848); ゲラシム・ドブロセルドフ、アストラハン主教(1878–1888)、説教や著作における禁欲的な精神で知られた;グリー・オホチン、ノヴゴロド大主教(1900–1912); ディミトリ・サンビキン、カザン大主教(1905–1908); ディオニシイ・ヒトロフ、ウファ大主教(1888–1896)。宣教活動で大成功を収め、「リベラルな主教」として知られ、遠隔地の教区で奉仕する司祭たちの必要に配慮した姿勢から、教区聖職者たちの間で人気が高かった; インノケンティ・ヴェニアミノフ、モスクワ都主教(1868–1879)。傑出した宣教師であり、シベリアでの活動で名声を博した; イオアン・クラティロフ、サラトフ主教(1899–1903)。主教界では不人気であったが、「シノダルの精神」に対して明確な反対姿勢を示し、引退を余儀なくされた(† 1909); ラヴレンティ・ネクラソフ、トゥーリャ主教(1904–1908);ニカンドル・モルチャノフ、リトアニア大主教(1904–1910); ニコライ・ザルケヴィチ、ヘルソン教区副主教(1884–1885)。実証主義に反対する公開講演や著作で知られていた; ステファン・アルハンゲリスクイ、クルスク大主教(1911–1914)。「改革」、特に神学校および教区生活の改革を支持し、キリスト教道徳神学の分野でいくつかの重要な著作を残した; ヴィッサリオン・ネチャエフ、コストロマ主教(1891–1903)。彼は34年間モスクワで教区司祭を務め、雑誌『魂に有益な読み物』(1860)を創刊した; ヴィタリー・グレグレヴィチ、モギレフ主教(1881–1885)。非常に才能豊かな人物であり、1860年代初頭にサンクトペテルブルクで教区司祭を務めていた頃、説教や公開講演によって、特に労働者階級や知識人の間で幅広い人気を博した; 1860年、ヴィタリーは雑誌『ストランニク』を創刊し、彼が発行人を務めていた時期(1860–1869)には、同誌は高い水準を保っていた; ヴォリン教区の代理主教(1879年~1881年)およびモギレフ主教として、彼は国民教育の擁護者としてその手腕を発揮し、自身の教区内に268の教区学校を設立した; ウラジーミル・ボゴヤヴレンスキーは、モスクワ都主教(1898–1912)、サンクトペテルブルク都主教(1912–1915)、キエフ都主教(1915–1918)を務め、ラスプーチンに対する闘争で知られる。
[1238] 彼の伝記については、『選集』(1935年)のIII~XLVIページを参照のこと。また、ネストル大司教著『ミトロポリト・アントニー』(ハルビン、1936年)も参照されたい。同書では著者がアントニーの人物像と活動の特徴を描き出そうとしているが、残念ながらこの小冊子は多くの点で客観性を欠いている。
[1239] 数年前に刊行された、パトリアルヒ・ニコンをめぐるM・V・ズィズィキンによる3巻からなる著作は、ニコンの名誉回復を試みるものであり、アントニー・クラポヴィツキーの影響を少なからず受けて書かれている。
[1240] この点において、アントニーによる『教会の声』(1912年)に掲載された論文「総主教職の復活」は特に特徴的である。1. 彼の経歴の主なポイントを挙げておこう:1890年――モスクワ神学アカデミー学長;1895年――カザン神学アカデミー学長; 1899年 – カザン教区の副主教(学長職を兼任);1902年~1914年 – ヴォリン主教;1906年より – 大主教;1906年~1907年 – 聖職者代表として国家評議会の議員; 1912年~1913年 – 聖公会議員;1914年~1917年 – ハルキウ大司教;1917年春、臨時政府により解任される;ロシアにおける総主教制の復活(1918年)の際、アントニーは総主教候補の3人のうちの1人であった; 1918年 – キエフ都主教に就任。1918年末、ペトリューラ率いるウクライナ政府により逮捕され、ガリツィアの修道院へ追放された。そこでアントニーはドストエフスキーに関する著書を執筆した。1919年、アンタンタ諸国の嘆願により釈放され、キエフへ戻った; デニキン政権(白軍)と緊密に協力した。1920年、コンスタンティノープルに到着した; 1920年、海外最高教会管理機構(いわゆる「カルロヴァツ派」の主教団)の長となり、それ以来、全ロシア正教亡命者に対する最高教会権威を主張し、事実上、モスクワ総主教庁との交わりを断った。 1936年、ベオグラード(セルビア)で死去した。
[1241] 彼の博士論文は『自由意志と道徳的責任を支持する心理学的データ』と題されていた; この論文はスラヴ派の哲学の影響を受けているが、それ以上にウラジーミル・ソロヴィヨフ(彼の初期の哲学著作であり、後期の著作ではない。というのも、アントニーはカトリック主義の激しい反対者であったからである)およびドストエフスキーの著作の影響を強く受けており、これら二人の思想家は、若き日のフラポヴィツキーの思想に多大な影響を与えた。 しかし、アントニーの「新スラブ派」的立場や彼の教会・政治的見解は、スラブ派の「先輩」たち (イ・ヴ・キレーエフスキーやア・ス・ホミャコフ)も、「後進」の(ユーリー・サマリンやイ・ス・アクサコフのような)スラブ派の思想家たちの見解とも、非常にかけ離れていた。
[1242] ニカノール。前掲書、122頁ほか。
[1243] イノケンティ(ベリャエフ)、大修道院長。『修道入会の儀について』(1899年);イノケンティ・ベリャエフ(1862–1913)は極めて急速な出世を遂げた: 1903年にはすでにタンボフ主教となり、1909年には大主教兼グルジア総督に任命され、1908年5月25日に暗殺されたニコン(ソフィイスキー)大主教の後継者となったが、1913年に死去した。 アントニーの影響を受けて修道誓願を立てたのは、才能ある学生ミハイル・グリバノフスキー(タヴリツキー主教、1856–1898)、イオアン・アレクセーエフ(ペルミ主教、1902–1905)、セルゲイ・ストラゴロドスキー(† 1946)(実際には† 1944。 – 訳者注)、彼はアントニー・クラポヴィツキーがサンクトペテルブルク神学アカデミーで教鞭を執り始めた当時、最終学期の学生であった;さらに、ポーランド正教会のミトロポリット、ディオニシイ・ヴァレディンスキー(1947年現在も在任中)もいた。 セルギイは、サンクトペテルブルクの知識人によるいわゆる「宗教・哲学集会」(1902~03年)への参加でも知られている。その後、フィンランド大司教として、セルギイは「公会議準備委員会」(1906年)の最も精力的なメンバーの一人となった; 1918年以降、彼はロシアの教会生活において重要な役割を果たし、総主教座代理(1925年~1943年)(実際には1936年~1943年;1936年までは代理副総主教。 ――訳者注);1946年(1944年。――訳者注)にモスクワおよび全ルーシの総主教として死去した。
[1244] 1862年、シノドのオーバー・プロキュロルであるアフマトフは、司教叙階に修道生活が果たして必要なのかという問題を神学アカデミーに提起した。これは、当時の司教職に対する見解や、司教職と修道生活との関係において極めて特徴的なものであった。 アルヒマンドリト・イオアン・ソコロフは『主教の修道生活について』(『正教叢書』1863年)という著作を執筆し、これはフィラレート・ドロズドフ都主教から承認を得た。サヴァ。『年代記』2巻、731頁;4巻。 487頁。イオアン・ソコロフ(後にスモレンスキー主教となる、†1868)については、本稿で何度か言及されている(注1228参照)。
[1245] 長老制度については、以下の参考文献一覧を参照のこと。そこには、東方教会の修道禁欲主義の歴史におけるこの現象に関するほぼすべての研究が掲載されていると思われる。
[1246] 『Apophthegmata』、Migne, PG 65 に収録。非常に貴重な研究として、Bousset, W. 『Apophthegmata』(1923)を参照のこと。また、Viller, M. S. J. および Rahner, K. S. J. による『Aszese und Mystik in der Vдterzeit』(1939)も注目に値する。 115–121頁;ここでは、このテーマに関する主要な文献が挙げられている。「Verba Seniorum」、PG 73、855–1066頁。その他の「パテリコン」や「花集」については、Viller、110頁以降を参照。
[1247] スミルノフ、BV誌、1904年11月号、447頁以降。参照:Holl. 『Enthusiasmus und BuЯgewalt』、255頁以降。
[1248] スミルノフ。前掲書。496–499頁。スミルノフの著作には、4世紀から8世紀にかけての長老制の歴史に関する最良の解説と、その本質に関する卓越した分析が盛り込まれている。
[1249] 『シリアの聖エフラエムの選集』。P. ツィンガーレ訳(1871年)。第3巻、227頁以降(BdKV. 13);私の著書における引用を参照。同上、27–31頁。
[1250] 詳細は私の著書(p. 38)および以下を参照のこと:シュミット B. 『霊的祈り』(1916年); ヴンダーレ G. 『ヘシカスト的祈りの心理学について』(1947)――イエスの祈りの禁欲的・神秘的起源に関する極めて重要な研究であり、この禁欲的実践に関する従来の誤った見解を反駁している;さらに:バウアー I. 『神化論に関する研究』(1917–18); ポポフ・イ. 『神化の思想』(1909年);同著『聖アタナシオス大主教の宗教的理想』、掲載:『BV』、1903–1904年;ミニン・P. 『古代キリスト教神秘主義における主要な潮流』、掲載:『BV』、1911–1914年。 また、当文献目録にある聖シメオン・ノヴ・ボゴスルに関する文献も参照のこと。特に、I. ハウスヘーアの研究を推奨する。後期ビザンツ時代の最も偉大な神秘家であるグリゴリオス・シナイテに関する文献は極めて乏しく、アレクシオス (モルチャノヴァ)による『14世紀のビザンツの神秘家たち』(1906年)は、改善の余地がある。また、以下の小論も参照のこと:Bois J. 『14世紀のアトス山におけるグレゴリオス・シナイテとヘシカズム』、Echos d’Orient. 5. 190102. P. 65–73。また、Heiler. 1. S. 390 以降、特に 407 以降も参照のこと。Lot-Borodine M. (1932–33) の研究も非常に貴重で示唆に富んでいる。
[1251] 『ソトニツァ』のテキスト、収録:『Die Gottesschau im palamitischen Hesychasmus. Ein Handbuch der spätyzantinischen Mystik』。序文(非常に貴重)および翻訳:A. M. アムマン(1938年)。
[1252] 私の著書にある個別の例、例えばアッバ・ドロフェイに関する素晴らしい物語を参照のこと。前掲書、31–34頁。
[1253] バシレイオス大聖人、PG 31、P. 884 C、632 B、1388 B。聖アントニオス大聖人はかつて、従順について次のように述べた。 「もし若い修道士が自らの意志で天へと向かって歩いているのを見かけたら、その足を掴んで引きずり下ろせ。それは彼にとって益にならないからだ」、『パラディオス(アルヒマンディトス)著:コプト語集成に基づく新発見の格言。聖アントニオスに関する伝承』(1898年)p. 14。
[1254] エフレム・シリン。前掲書。226頁。ここで指摘しておくべきことは、多くの古代正教の著作において、キリストは修道士であったという見解が示されているということである。参照:Holl. 前掲書。164頁。
[1255] PG. 88. P. 706 C.
[1256] 『フィロカリア』第2巻(1879年)。229頁。
[1257] これらの「賛歌」の素晴らしい翻訳については、Kirchhoff P. Kilian. O. F. M. 『シメオン・ザ・テオロゴス(神学者シメオン)』Licht vom Licht、第2版、1951年を参照のこと。あとがきは、シメオンに関する極めて貴重な研究となっている。
[1258] Meyer Ph. 『Die Haupturkunden』(1894)および『ZfKG』第11号(1890)に掲載された論文、ならびにG. ヴンダーレおよびポルフィリー・ウスペンスキーの著作(参考文献一覧参照)。
[1259] これらの著作は『PG』第150巻、1329–1346頁、1313–1314頁、1303–1304頁に収録されている。私の著書(前掲書、47頁以降、264頁)を参照のこと。
[1260] イシハストについては、参考文献一覧にあるエンゲルハルト、F. シュタイン、P. シルク、修道士ヴァシリーらの著作を参照のこと。また、オストゴルスキー『アトス山のイシハストとその反対者たち』(『ベオグラードのロシア科学研究所紀要』第5号(1931年)所収)およびアルヒマンディト・ キプリアンによる新著『聖グリゴリオス・パラマスの霊的先達』、『神学的思想。パリ正教会神学研究所論文集』所収。パリ、1942年、102–131頁。ここでは著者が、アレオパゴスからグリゴリオス・パラマスに至る正教会神秘主義の歴史概説を提示している。
[1261] ニコディモス・アギオリテスについては、Viller M. 「Nicodime l’Hagiorite」、『Revue d’ascétique et de mystique』第5号(1926年);5. Grumel. 「Nicodime l’Hagiorite」、『ДТС』第11巻第1号、 P. 487–490;また参照:Ammann. Op. cit. S. 7–11。
[1262] ゴルービンスキー。1. 1. p. 571, 605–606, 625。プリセルコフ。『キエフ・ルーシの教会・政治史に関する論考』(1913年)。p. 168。
[1263] スミルノフ。『霊的父』。487–492頁。 興味深いことに、聖ベネディクト・ヌルシウスも自身の規則(第21章)において「デカン」(decani)、すなわち経験豊富な年配の修道士たちについて言及しており、彼らの霊的指導の下には10人の見習い修道士が委ねられていた。PL. 66. P. 483.
[1264] スミルノフ。前掲書。481頁。また、聖テオドールに関する大規模かつ基礎的な研究として、ドブロクロンスキー・A.『聖テオドール、殉教者にしてストゥディオス修道院のイグメン』1(1913年)を参照。 441、443頁;また参照:PG. 99. P. 1784 A, 1717 C – 1820 B, 1822 B.
[1265] スミルノフ。前掲書。477頁;同著。『古ロシアの霊的指導者』(1914年)。22、25頁;バシレイ大帝、PG. 31. P. 1185。
[1266] 「修道服の階級に関する伝承」、カライドヴィチ『12世紀ロシア文学の記念碑』(1821年)所収。 107頁;参照:ゴルービンスキー『1. 1.』797頁;ニコルスキー・N.『古ロシアの宗教文学史に関する資料』(1907年)。65–94頁。
[1267] 『アヴラアミイの生涯』:『古ロシア文学の記念碑』第1巻(1911年);第I章を参照。
[1268] RIB. 6. 45. p. 389; スミルノフ. 『古ロシアの霊的指導者』. p. 26; マリニン. 『エレアザロフ修道院の長老フィロフェイ』. pp. 40–42.
[1269] もっとも、ステファン・マフリシュスキー(†1406)は南ルーシから(1355年以降)聖セルギイのもとへやって来たが、彼はペチェールスク修道院の伝承を携えてきた可能性もある。ゴルービンスキー『聖セルギイと彼が創設したトロイツカヤ・ラヴラ』(1909年)。p. 82。
[1270] 書簡は『AI』第1巻、第32号および第15号に掲載。
[1271] 第IX章、4の末尾を参照。
[1272] コノプレフ。前掲書。71頁。
[1273] 第IX章、4を参照。
[1274] ゴルービンスキー。2. 2. 295頁。
[1275] ジマキン。ミトロポリト・ダニイル。375、492、602頁;ペトロフ・N. 『スラブ・ロシア語プロローグの起源と構成について』(1875年)。116頁。
[1276] フェドトフ。『古代ルーシの聖人たち』。60頁。
[1277] ニラ・ソルスキー『伝承とスキト生活に関する規律』(1849)およびその他の刊行物;第IX章4節および私の著書『Leben und Lehre der Starzen』を参照。
[1278] クリチェフスキー。『聖人伝』。190頁;フィラレート。『概説』。第3版、第1巻。106頁;コノプレフ。前掲書。38頁以降; アルハンゲリスクイ。『ニール・ソースキーとヴァシアン・パトリキーエフ』。16、30頁;『正教叢書』1861年、第1巻、197–214頁;『PSRL』第5巻、236頁。
[1279] ブリリアントフ。『フェラポントフ修道院』(1899年)。56–59頁;ズヴェリンスキー。第1巻、第810号;アルハンゲリスクイ。前掲書。55頁。
[1280] 『ブリリアント』。選集、17頁。修道士ガラクティオンについては、『チェテニヤ』1887年、第4号、147頁を参照。なお、このガラクティオンを、聖ガラクティオン・ヴォロゴドスキー(†1612)と混同してはならない。
[1281] 長老アルテミイの禁欲的・神秘的な見解については、第X章を参照のこと。
[1282] モスクワ・ルーシにおけるイエス祈りの普及(これは必ずしも長老制度と関連していたわけではない)については、以下を参照のこと:オルロフ・A. 『16世紀のルーシにおけるイエス祈り』、PDP 185(1914)、序文および本文。
[1283] インノケンティ、アルヒマンディト。『修道入会の儀式』(1899年)。230頁;この訓示は、小スキマへの入会式において修道院長によって述べられたものである。
[1284] ヤツィミルスキー、収録:『ORYS』第79号、521頁。長老パイシイの伝記は1836年にニャメツ修道院で、著者の名前を明記せずに、モルドバ語および教会スラヴ語で出版された。 教会スラヴ語のテキストは、1845年にモスクワでオプティナの長老マカリイによって再版された:『モルドバの長老パイシイ・ヴェリチコフスキーの伝記』。 オプティナ修道院刊。1847年には、付録にパイシイ自身の著作数編を収録した伝記の新版が刊行され、1892年にはモスクワで第3版が刊行された。 この最終版は、S. チェトヴェリコフの著書『モルドバの長老、スキアルヒマンドリト・パイシイ(ヴェリチコフスキー)。1』(Petљeri-Eesti(エストニア)、1938-39年)の基礎となった。 第2巻(パイシイの書簡集)が刊行されたかどうかは不明である。このロシア語版は、おそらく同著者がルーマニア語で執筆したパイシイに関する著作の別版であると考えられる。参照:『Irenikon』11(1934年)、66頁の書評。
[1285] 『伝記』(1847年)。58頁以降。ドイツ語訳は私の著書『Op. cit.』108–117頁に掲載されている。
[1286] これらのパイシオスによる翻訳は、後にロシアで出版された:『イサアク・シリン』は1811年、『マクシム・殉教者』は1855年、『フェオドール・ストゥディトス』は1855年、『アヴァ・バルソノフィオス』は1855年; 最後の3冊は、ロシアの思想家I. V. キレーエフスキーの協力を得て、オプティナの長老マカリーによって刊行された。この刊行に関する彼らの書簡については、チェトヴェリコフ『オプティナ修道院』107頁以降、ヤツィミルスキー『前掲書』546頁などを参照のこと。 『フィロカリア』の翻訳版『ドブロトリュビエ』は、1793年に2巻のフォリオ判で刊行された。『ドブロトリュビエ』の印刷は、ガブリエル・ペトロフ大主教の祝福のもと、長老ナザリウスと修道司祭フィラレート (後にノヴォスパスキー修道院の長老フィラレートとなる)の監督の下で行われた。シノド側の公式検閲官は、モスクワ神学アカデミーの学長であるアルヒマンドリト・メフォディイと、ロストフのヤコブレフスキー修道院の院長であるイグメン・アロンであった (ポポフ『シモノフ修道院の写本目録』、掲載:『チェテニヤ』1910年、第2号、6頁)。1857年までに『ドブロトリュビエ』は少なくとも6回の版を重ねたが、 興味深いことに、次の版が刊行されたのは1880年になってからであった。その後、テオファン・ザトヴォルニク(ゴヴォロフ)司教が新たな5巻本版を編纂し、これはアトス山のロシア・パンテレイモン修道院で印刷され、1878年から1914年にかけて3版が刊行された。 テオファンの『ドブロトリュビエ』は、パイシイの『ドブロトリュビエ』とは異なっており、 一部は補完され、他の部分は省略されている。言語に関しては、これが教会スラヴ語なのかロシア語なのか判断が難しい。というのも、テオファンの言語と文体は非常に独特で、スラヴ語的な表現や、ギリシャの禁欲的・神秘的な概念を伝えるために用いられた造語が溢れており、読者には完全には理解しがたいからである。 それでもなお、彼の著作は修道士や敬虔な信者たちの間で極めて広く普及し、入手するのは非常に困難であった。パイシイの『ドブロトリュビヤ』の2巻本版は1902年に再版されたが、これもまた書誌学上の希少本となった。
[1287] パイシイの著作の中で最も重要なものは、彼の『自伝』(原稿はかつてサンクトペテルブルクの科学アカデミー図書館に所蔵されていた)である。残念ながら、A. ヤツィミルスキーは、ORYAス集第79号において、その内容を詳細に要約したに留まっている。 515–541頁;同書には、彼の『規約』(533–538頁)も抜粋として掲載されている; 広範な参考文献一覧(550–544頁)、パイシイの著作目録(548–550頁)、ならびに彼の蔵書目録、およびパイシイ自身とその弟子たちによって編纂された禁欲主義的著作の翻訳目録(555–583頁)が掲載されている。 これらの書誌資料は、歴史家にとっても興味深いものである。なぜなら、それらはパイシイがどのような禁欲主義の著作を好んでいたかを物語っているからである。 そこには、ニール・ソルスキーの『伝承』の写本6点、聖シメオン・ニュー・テオロギオスの著作を収めた写本15冊、フィロフェイ・シナイの著作の写本14点、カリストとイグナティオス・クサンフォポウロスの『百人隊』の写本8点が列挙されている。 パイシイとその弟子たちの霊的伝記については、豊富な資料を含むポポフ・N.の著作『モスクワ・シモノフ修道院の写本目録』(『チェテニヤ』1910年、第2号)が参考となる。ニール・ソースキーの著作がパイシイに与えた影響については、ボロフコワ=マイコワの著作を参照のこと。 『ニール・ソースキーとパイシイ・ヴェリチコフスキー』。また、N. アルセーニエフの書誌については『Der christliche Osten』p. 193を参照のこと。パイシイの著作からの抜粋については、チェトヴェリコフ S. 「賢明な行いと霊的節制の道」、『プート』1926年3号、 65–83頁;『ロシアの長老制度の歴史より』。同上。1927年。7号。
[1288] スボティン『キリロ=ノヴォエゼル修道院院長、アルヒマンドリト・テオファン(1862年)』57–75頁。「テオファン神父の語録より」。
[1289] ヤツィミルスキー。前掲書。546頁;ドブロンラヴォフ・V. 『イエロモナフ・クレオパ、ヴヴェデンスカヤ修道院の建設者』(1908年);スボティン。同上。59–62頁;本書には、この修道士について非常に印象的な人物像が描かれている。 なお、修道院でのパンに関する話(私の著書、132ページ参照)は、後に判明したように、聖サヴァ・オスヴィャシェンヌイの伝記にある話と非常に似ていることに留意すべきである。Cotelerii, 『Monumenta Eccles. Graecae』第4巻、322ページ。
[1290] ポポフ。前掲書、75頁、およびピメン『回想録』(各所)。
[1291] ボロフコワ=マイコワ。前掲書、32頁。
[1292] 『モルチャンスカヤ・ソフロニエフ修道院の記述』(1856年)。56頁;ムラヴィエフ。『聖山とオプティナ修道院』(1852年)。 129頁;ヤツィミルスキー。前掲書、545頁;スボティン。前掲書、15、18頁;デニソフ。第585号;ズヴェリンスキー。第2巻、第933号。
[1293] ヤツィミルスキー。前掲書。546頁;『最初の偉大なるオプティナの長老、修道士レオニード』(1917年)。 14–44頁。1809年から1817年にかけて、3人はロシア北部の修道院を巡る旅に出かけ、パレオストロフスキー、ヴァラアム、アレクサンドロ・スヴィルスキーの各修道院を訪れたが、そこでの状況は、おそらく長老制の導入にはあまり好ましくないものだった。 これは特にヴァラアム修道院に顕著であるが、同修道院では1804年まで、共同生活規律に厳格に従って修道生活を送っていた長老ナザリが身を寄せていた。
[1294] ヤツィミルスキー。前掲書、545頁;ピメン。前掲書、66–68頁。ポセリャニン。『19世紀のロシアの修道士たち』(1910年)。 194–201頁;『スキモナフ・フェオドールの生涯と功績』(1839年;第3版1907年)および『スキモナフ・フェオドールの修道生活』(1901年)は、私が入手できなかった。
[1295] ヤツィミルスキー。前掲書。545–546頁;チェトヴェリコフ。『オプティナ修道院』。44頁;ズヴェリンスキー。2. 第1057号、1338号。
[1296] ヤツィミルスキー。前掲書。546頁。
[1297] ムラヴィエフ。『聖山とオプティナ・プスティン』。136頁;ヤツィミルスキー。前掲書。546頁;RBS。106頁。 長老フィラレートには(我々が知る限り)4人の弟子がいた:長老マカリイ(†1864)、フィラレート、アルセニイ(ハリコフ教区のスヴィャトゴリスカヤ修道院の院長)、そしてイリオドール(†1879)。ムラヴィエフ。前掲書。
[1298] 19世紀初頭、この修道院では禁欲主義の著作の写本が数多く作成された。ニール・ソルスキーやパイシイの著作は何度も書き写され、その写本はしばしば他の修道院へ送られた。ポポフ。前掲書。
[1299] ヤツィミルスキー。前掲書。546頁;ピメン。前掲書。53頁。断食の最初の週、テオファンは食事を一切摂らず、1日に2杯の水を飲むだけだった。フィラレート大主教。『アルヒマンドリト・アントニーへの手紙』第2巻。391頁。
[1300] ポポフ。前掲書。65頁;ニコディム。『伝記』。7月;RBS。454頁。
[1301] 長老ヴァシリー・キシュキンについては、彼を霊的に恵まれた人物として描く、必ずしも信頼性の高いとは言えない情報が数多く存在する。多くの長老たちが、ヴァシリーについて深い敬意を込めて語っていた。彼の伝記に関する詳細については、以下を参照のこと:イラリオン、修道士。 『聖職者メルキゼデクの生涯』、掲載:『ドゥシェプ』1889年 第2号、184–201頁。我々の知る限り、彼の生涯については1915–17年に刊行された短編論文があるが、私はそれを入手できていない。
[1302] ピメン。前掲書、295–300頁、310頁;長老アドリアンは、アスケティックな内容を含む多くの著作を執筆しており、それらは各巻600ページからなる2巻を構成している(参考文献一覧参照)。
[1303] ピメン。前掲書、53頁; チェトヴェリコフ。前掲書、31頁;ゲラシム。『簡略論考』(1865年)、1–10頁;ムラヴィエフ。前掲書、135–139頁;アルセーニエフ。前掲書、Der christliche Osten、197頁。
[1304] ミトロポリト・ガブリエル・ペトロフ(1730年5月18日–1801年1月26日)とその活動に捧げられた基礎的な著作として、ティトリノフ・B.『ガブリエル・ペトロフ』(1916年)があり、この中にはエカテリーナ2世時代のロシア正教会の通史も含まれている。また、 マカリイ修道院長『ノヴゴロドおよびペテルブルク都主教ガブリエル聖下の生涯と業績に関する記述』(1857年)は、今なおその重要性を失っていない。 ガヴリイールの人物像は、長老テオファンによる回想録(注1298参照)のほか、彼の書簡にも反映されており、以下の文献に収録されている:『ロシア正教会誌』1864年、1869年、1895年第1号、1898年第3号、1908年第2号、および『読本』1902年第1号。 参照:ゴルービンスキー『列聖の歴史』320頁(ガブリエルの聖遺物について)。
[1305] スボティン。前掲書。63–67頁。ポセリャニン。『18世紀のロシア教会とロシアの修道者たち』(1905年)。198–214頁。
[1306] ウスペンスキー『ナイルの荒野の記述』(1886年)。45頁。ガブリエルの修道院に関する活動については、ティトリノフ『前掲書』754頁を参照。彼の活動全般については第6章を参照。
[1307] マカリイ、アルヒマンディト。前掲書。172頁。
[1308] 『ヴァラアム修道院とその修行者たち』(1903年)。147–157頁;スボティン。前掲書。67頁。 テオフィロス(ラエフ)司教は、長老の地位を高く評価した司教の一人であった。サロフの荒野の修道士たちへの彼の書簡を参照のこと:『ロシア論文集』1914年、第160号、608–624頁。
[1309] ピメン。同著、295頁以降;『ロシア論文集』1835年、第1巻、119–126頁。
[1310] 参照:私の著書。前掲書、128–143頁;スボティン。前掲書。
[1311] マカリイ、大修道院長。前掲書、69頁、73–74頁;ポポフ。 同上、VI頁。シモノフ修道院における真の修道生活の復興について語る際、40年間(1772–1812)にわたり同修道院の霊的生活の中心的存在であった長老アレクシー(ブリンスキー;1722–1812)を特に言及すべきである。 L. 修道士アレクシー、モスクワ・シモノフ修道院の修行者(第2版 1891年);第1版がいつ出版されたかについては、確認できなかった。
[1312] 1732年、イオアンは秘密事務局の工作員によって逮捕された。彼は、権勢を振るうテオファン・プロコポヴィチ(第XIII章参照)を敵視するいくつかの著作を所持していたとして告発された。 それは、アンナ・イオアンノヴナ帝の治世に始まった修道士迫害の時代であり、これについてはすでに述べた。イオアンは、その死(1737年4月4日)に至るまで、ペテルブルクの刑務所に収監されたままだった。RBS. p. 139.
[1313] サロフの修道院では、常に禁欲的な著作の写本作業が行われていた。例えば、ヴォニファティイという名の修道士は、そこで以下の著作を写本した:カリストスとイグナティオス・クサンフォポウロスの『百篇集』(1814年)、バシレイオス大帝とヨハネス・ダマスコスの様々な禁欲的著作(1815年); フォマ・ケンピウス(!)(1816年)、彼が『魂の洗礼盤』と題した短編著作の集成 (1817年)、さらにバシレイオス大帝の禁欲主義的著作(1820年)、マルコス・ポドヴィシュニクに帰せられる禁欲主義的な内容の抜粋(1821年)など。ポポフ。前掲書。12、17、19、23、44、69頁。
[1314] デニソフ。第889号;ズヴェリンスキー。第2巻、第1141号;『正教雑誌』1863年、第7号、154頁;アヴェル(司祭)。『サロフの共同生活修道院』(1853年)。 7–15頁;同書には修道士イラリオンによる書簡の一部(167–174頁)も収録されており、また:イリン『聖セラフィム・サロフ』(1925年);RBS 141頁(イザヤ)、178頁(ヨアキム)。
[1315] 聖セラフィムについては、私の著書『Leben und Lehre der Starzen』(1936年)を参照のこと。209–258頁;イリイン。前掲著作(ここに主要な参考文献一覧あり);セラフィム(チチャゴフ)、大修道院長。『セラフィモ=ディヴェエフスキー修道院年史』(1903年)。
[1316] 私の論文『ロシアの敬虔と民俗宗教における聖母マリアの崇敬』(『Kyrios』第5号(1940–41年)所収)を参照のこと。
[1317] N. モトヴィロフの随筆「聖セラフィムによる聖霊の獲得に関する教え」は、1903年に『モスクワ新聞』で初めて掲載された(本文は私の著書230–245ページを参照)――それ以前は、宗教検閲によって掲載が許可されていなかった。 また、フロレンスキー・P.『柱と真理の確立』(1914年)第5章(第5書簡)も参照のこと。
[1318] 私たちの知る限り、聖セラフィムに関する最初の言及は、著作『サロフの荒野の長老、スキモナフ(修道士)であり苦行者であるマルクの生涯の簡略な概説』(1839年)に含まれており、そこにはセラフィムの教えがいくつか掲載されていた。その後、雑誌『マヤク』 (1845年、第16号)に、「セラフィムの功績に関する物語」という短い記事が掲載された。 彼に初めて特化した伝記は1863年に刊行された。『サロフ修道院の長老セラフィム、司祭修道士、隠遁者、そして隠居者の生涯』(サンクトペテルブルク、1863年)であり、おそらくサロフの荒野の修道院の修道士の一人によって執筆されたものと思われる。
[1319] 我々は、プロトイェレイ・セルギイ・チェトヴェリコフ(†1947)氏を直接知る幸運に恵まれた。彼からは、アムブロシイ神父をはじめ、彼が知っていたオプティナの長老たちに関する多くの話を聞いた。彼の著書『オプティナの隠遁地』(1927年)は、本稿でも参照している。
[1320] Tschetwerikoff. 『ロシアのスターツェン制度』. 67–69頁。
[1321] 1799年まで、カルーガ県はモスクワ教区に属していた。カルーガ教区は1799年に設立された。
[1322] アルヒマンドリト・マカリイ・ブリュシュコフは、モスクワ都主教プラトンの命を受け、自身の教区内にあるいくつかの修道院――ペスノシュスキー修道院、ドミトロフのボリソグレブスキー修道院、コロムナ近郊のスタリー・ゴルトヴィン修道院――を整備し、そこに共同生活規律を導入した。ピメン。 同著、242、253頁;『ベルリュコヴァ修道院の歴史的概説』、掲載:『読本』1875年、第2号、35頁;ポポフ、同著、75頁。しかし、この共同生活規律は長くは守られなかった。ピメン、同上。
[1323] レオニード、アルヒマンディト。『カルーガ教区の廃止された修道院』、掲載:『読本』1862年、第2号;チェトヴェリコフ。前掲書、30頁;ピメン。前掲書、53頁。
[1324] オプティナ修道院の最初の偉大な長老、修道士レオニード(修道名:レフ)(1917年)。1–15頁、53–72頁、123–189頁、242–275頁、306–321頁;同氏の書簡:同上。329–401頁。 私の著書(143–156頁)を参照。
[1325] Karsavin. 『ロシア教会における聖者制度』、掲載:『Zeitwende』第3号(1927年)。 5月、6月;また参照:ヒルプリヒ・S.、O. S. B. 『キリストの御名による愚行』、Z. f. Askese und Mystik 第6号(1931年);および:アレクシー(クズネツォフ)、司祭 『聖愚者と柱上修行』(1913年)。
[1326] オプティナ修道院と多かれ少なかれ関わりのあった人物として、S. O. ブラーチェク、V. I. アスコチェンスキー、I. M. スネギレフ、M. P. ポゴディン、S. P. シェヴィレフ、M. A. マクシモヴィチ、A. K. トルストイ、V. A. ゴルビンスキー、A. N. トルストイ、 T・I・フィリッポフ、I・V・キレーエフスキー、A・S・ホミャコフ、P・A・ブルガコフ、L・A・アルノルディ、A・N・ムラヴィエフ、D・A・オボレンスキー、E・N・ノロフ、N・V・ゴーゴリ、N・N・ストラホフ、F・M・ドストエフスキー、P・A・ユルケヴィチ、 ウラジーミル・ソロヴィヨフ、K・レオンティエフ、コンスタンチン・コンスタンティノヴィチ大公(K・R.)、そして最後にレフ・トルストイ。1912年、モスクワ神学アカデミーにおいて、V・トロイツキーによる博士論文『オプティナ修道院がロシアの知識人層および文学に与えた影響』 (参照:『アカデミー誌』、BV 1913年4号付録、415頁)が提出され、その中でオプティナ・プスティナとその長老たちが及ぼした精神的影響が考察されている。
[1327] 私の著書。160–161頁。
[1328] 長老マカリイとI. V. キレーエフスキーとの間の書簡集を参照:チェトヴェリコフ。前掲書。49頁、107頁以降。
[1329] 同上、55–96頁;私の著書、194–206頁。
[1330] チェトヴェリコフ。前掲書。97頁。
[1331] 同上、100頁。
[1332] 長老ネクタリオスについては、V. Sh.『イオアン・クロンシュタット神父およびオプティナの長老たちに関する記録』を参照。 『個人的な回想録より』(セルビア、ベラ・ツェルコフ、1929年)。51–60頁。著者は、長老ネクタリオスが1928年に修道院の外で亡くなったと述べている。本書の一章(20–50頁)は、長老ヴァルソノフィウスに捧げられている。 彼はかつて将校として勤務していたが、その後退役し、オプティナ・プストイナの修道者の一員となった。ヴァルソノフィイは第一次世界大戦が始まる直前の1914年に死去したが、残念ながら彼に関する正確な情報は私の手元にはない。
[1333] ズヴェリンスキー。2. 第644号;デニソフ。第888号;スボティン。 同著、56–59頁;『サナクサル修道院の元院長、フェオドール神父の生涯』(1847年)(小冊子);ポセリャニン『ロシアの修道者たち』(1905年)、285–291頁。
[1334] ズヴェリンスキー。2. 第1057号;デニソフ。第630号;ストロエフ。前掲書。913頁;『ロシア正教の修道院』。373頁;ミサイル司教。『ボゴロディツカヤ・プロシュチャンスカヤ共同生活修道院』(1897年)。8、10頁; ポポフ。前掲書、9頁。アファナシー・ゴロフスキーという名の修道士が、ここでパイシイの著作の写本を数多く作成した。おそらく、これがあの有名な長老アファナシーであったのだろう。参照:『ロシア正教百科事典』第1巻、592頁。
[1335] ズヴェリンスキー。1巻、第92号;デニソフ。第626号;『ロシア修道院の歴史』。919頁;ストロエフ。 著作集、376頁;ピメン。著作集、66–68頁;イラリオン(修道士)。『聖ディアクン・メルキゼデクの生涯』、掲載:『ドゥシェプ・チト』1889年、第2号、186–187頁;イラリイ(修道士)。 ベロベレジスクのマカリー長老の生涯。同上。290–302頁;また、以下の著作:『ブリャンスク・ベロベレジスク修道院の長老たち――修道士イスラエルの記録に基づく』、掲載:『オルロフ教区報』1909年、44–45頁(筆者は入手できなかった)。
[1336] ヤツィミルスキー。前掲書。545頁;ピメン。前掲書。19頁;スボティン。前掲書。15、18頁;『プティヴリのロズデストヴェンスカヤ・ソフロニエフスカヤ修道院の記述』(1846年)。
[1337] ズヴェリンスキー。2. 第868号;デニソフ。第565号;『ロシア修道院の規則』。128頁。キリロ・ノヴォエゼルスキー修道院は、1507年に聖キリル・ノヴォエゼルスキー(†1537)――聖コルニリイ・コメルスキーの弟子――によって設立された。 この修道院は、その厳格な内面的生活によって際立っていた。常に共同生活の規則を遵守し、所有する土地はさほど広くなかった。また、同修道院が商業や土地の売買を行っていたことを示す文書は一切発見されなかった。
[1338] ピメン。前掲著作、各所。
[1339] テオファンの伝記における主な資料は、彼の『手記』である。その分量はさほど多くないが、生き生きとした語り口により、読者を当時の長老たちの世界、ひいては修道院生活の雰囲気へと見事に引き込んでくれる。 この『手記』は、スボティン・N.著『アルヒマンドリト・テオファン、キリロ=ノヴォエゼルスキー修道院院長』(1862年)に収録されている(55–75頁)。その抜粋については、私の著書(128–139頁)を参照のこと。 スボティンの著書では、テオファンの伝記(1–54頁)や、様々な禁欲的な教訓を含む彼の書簡(76–178頁)も参照のこと。また、イグメニア・テオファニア・ゴトフツェヴァからテオファンへの書簡も出版されている:『イグメニア・テオファニア』(1868年)。 アルヒマンドリト・ピメンによるテオファンとその修道院に関する記述は非常に興味深い。ピメン。前掲書、33–37頁、45–47頁。
[1340] 例えば、ロディジェンスキーの極めて深遠な著作『超意識』(1911年)および『目に見えぬ光』(1912年)にみられる。
[1341] ポポフ・A. 『聖ティホン・ザドンスキーとその教訓』(1916年);レベデフ・A. 『聖ティホン・ザドンスキーとその生涯、著作、および称賛』(第2版 1890年、大衆向けの形式で執筆)。修道院の修道士V. P. チェボタレフの『記録』は、以下の著作に収録されている:ティホン。 著作集(1899年)。5. 1–18頁。聖人の最初の伝記は、同時代人の証言を部分的に基に、1796年に後のエフゲニー・ボルホヴィティノフ都主教によってすでに執筆されていた:『ティホン・ヴォロネジの生涯の記述』(サンクトペテルブルク、1796年);また: 『ヴォロネジのティホン主教の生涯と功績の記述』(モスクワ、1837年)。列聖後、ティホンに関する多くの新しい著作が現れ、その大部分は民衆向けに書かれたもので、聖ディミトリ・ロストフスキーの『ミネイア』と同様に、極めて広く普及した。 この聖人のイコンは、その普及度において、聖セルギイ・ラドネジスキーや聖セラフィム・サロフスキーのイコンにのみ匹敵する。彼の著作の第1版(1836年)は不完全であった。完全版は1889年から1895年にかけて5巻で刊行された; 2巻本『聖ティホーン・ザドンスキーの著作集』(サンクトペテルブルク、1910年)は完全版ではない。参考文献については、RBS(1912年)589頁を参照。また、Arseniew N. v. 『Die Grundzüge des russischen Frömmigkeitslebens』、Russische Blätter. 1929年、第2号;同著、『Der christliche Osten』所収、191–193頁;『カラマーゾフの兄弟』原型。コマロヴィチ教授の解説、F. M. ドストエフスキー『作品集』1929年、パイパー版、60頁。
[1342] グレチェフ・B. 「聖ヨアサフ」、『БВ』1911年、第2–3号。ジェヴァホフ・H. 「聖ヨアサフ・ゴルレンコ、ベルゴロドおよびオボヤンの司教(1705–1754)」。伝記資料。全3巻(1909–1911年)。
[1343] 私の著書(p. 169)を参照。彼の書簡は『БВ』1913年、1–2号;『Чтения』1875年、2号に掲載。
[1344] 参照:レスコフ N. 『無欲の技術者たち』。全集第2巻(1903年);ドイツ語版:Leskow N. Die Rechtschaffenen、『Corona』第3巻、3–4頁。
[1345] ピメン。前掲著作集、22–24、68–70、101–111、404–407頁。 イグナティウスの伝記:『著作集』第1巻(1885年)。1–80頁;彼の著作の第1版(全4巻)は1867–1868年に刊行された;第2版(全5巻)は1885–1886年に刊行された; 書簡:『チェテニヤ』1875年、第1号;『BV』1913年、第1–2号(第3号――フィラレート・アンフィテアトロフ都主教からイグナティウスへの書簡);A. I. ゲルツェンとの論争:『BV』1913年、第2号。 イグナティウスに関する著作:イグナティウス(司祭)『生ける神を求めて』、『教会の声』1913年、1–2号;主要著作:ソコロフ・L.『イグナティウス・ブリャンチャニノフ。その生涯、人格、および道徳的・禁欲的見解』全2巻(1915年)――残念ながら、当方では入手できない。 『禁欲的体験』は第1巻(第2版)に、『禁欲的説教』は第4巻に、『修道生活への捧げもの』は第5巻に収録されている。私の著書(p. 168)を参照のこと。そこには彼の書簡の一部が転載されている。
[1346] ピメン。前掲著作集、407頁。
[1347] 『禁欲的体験』、全集第1巻(1867年)所収、532頁、および『聖人伝』(1903年)184頁。
[1348] ニコディムの著作は、修道士パルフェニイによるロシアの聖地巡礼の記録(参考文献参照)によって補完されている。そこには、修道院や世俗社会における真の修道生活の多くの実例が記述されている。また、アトス山、モルダヴィア、エルサレムにおける修道士たちの生活に関する彼の記述も含まれている。
[1349] ポセリャニン。『ロシアの修道士たち』(1910年);『マシュリーナの書簡』(全2巻)は、何度も再版されている(第5版 1870年)。
[1350] ニコディム。『伝記集』。7月;『隠遁者テオファン物語』の内容については、ポポフ『前掲著作』65–66頁、ヤツィミルスキー『前掲著作』546頁、および『18・19世紀のソロヴェツキ修道院の敬虔な隠遁者たち』22–23頁を参照のこと。
[1351] キエフ・ペチェールスカヤ・ラヴラの長老、修道司祭パルフェニイの生涯と功績に関する物語(1898年)。27頁;ポセリャニン。『ロシアの修道士たち』(1910年)。452頁以降;ニコディム。前掲書。9月。
[1352] イラリオン(修道士)。『聖助祭メルキゼデクの生涯』、掲載:『ドゥシェプ』1889年 第2号、184–201頁。
[1353] これらの長老たちについては、私の手元にある情報は少ない。長老アレクサンドルについては、次のような小冊子が捧げられている:『トロイツェ=セルギエフ修道院近くのゲフシマン修道院に暮らす隠遁の長老の生涯と功績について』 (モスクワ、1900年);長老イシドールについては:フローレンスキー P. 『地の塩、すなわちゲフシマン修道院の長老である修道司祭アッバ・イシドールの生涯に関する物語、その不肖の霊的息子パヴェル・フローレンスキーによって収集され、順序立てて記述されたもの』(セルギエフ・ポサド、1909年)。 これらの著作はいずれも、私には入手できなかった。P. A. フロレンスキー(1881-?)は、非常に興味深い人物であり、独創的な思想家である。物理学者、自然科学者、言語学者、哲学者、神学者として、物理・数学学部およびモスクワ神学アカデミーを卒業し、 1911年に司祭に叙階された。彼は数多くの著作を残しているが、その大部分は未発表である。特に有名なのは、彼の著書『真理の柱と確立』(1914年)であり、これは哲学的、神学的、禁欲的・神秘的、そして数学的・哲学的な著作である。 同書からの抜粋は、『Ostliches Christentum. Dokumente』(N. F. ブブノフおよびH. エーレンベルク編、第2巻:Philosophie、ミュンヘン、1925年)の28–194ページに掲載されており、彼の霊的形成については410ページに記されている。 フロレンスキーによる長老制度に対する評価は独特である。「聖セラフィム・サロフスキーと偉大なオプティナの長老たち――レフ、レオニード(フロレンスキーによれば、レフとレオニードは別の人物であったが、レフとは、長老レオニードが大修道服を着用した際に授かった名である。 ――I. S.)およびマカリイ、とりわけアンブロシイ――は、まるで炎の焦点のように、民衆の聖性をその身に集約している。彼らは半ば聖人であり、もはや狭義の修道士ではない。彼らを通して、まるで遠視用のレンズを通して見るかのように、来たるべき方がうかがえる。 彼らの持つニュアンスは、すべてここで新しく、独特で、黙示録的なものである。これを見ないのは、盲目な者だけである。彼らに従うのではなく、彼らを迂回して進むことは、軽率か狂気である。なぜなら、それは、太古から定められた世界史の歩みを、独断で短縮しようとすることを意味するからである。 それは、主イエスの御言葉を拒絶することを意味する。「あなたがたのうち、どれほど心配したところで、自分の身長をわずか一肘でも伸ばすことなどできる者がいるだろうか?」(マタイ6:27、ルカ12:25)。同上、72頁(編者による強調)。
[1354] ベルコフ、A. 『慰めの長老、修道士バルナバ』(1940年);この小冊子は、バルナバ神父に関する別の著書『神の御許に眠る慰めの長老、イヴェルスキー・ヴィクシンスキー女子修道院の創設者兼建設者であるバルナバ神父の伝記』(1907年)に基づいて編纂されたものである。
[1355] ニコディム。前掲書。8月;サヴァ。『わが生涯の年代記』第2巻、283頁;『霊的読本』1866年版、第3巻、201–206頁(長老フィラレートの略伝);キレーエフスキー・イ・ヴ。『著作集』第1巻、序文。
[1356] 『ヴァラアム修道院とその修行者たち』(1889年)。16頁、23頁など。『ロシア正教会史』(RBS)。51–52頁(ダマスキン);319頁(イオナファン)。 参照:シュメレフ・イ. 『古いヴァラアム』(1936年)。80頁、122頁
[1357] 『BV』1913年、第4号、399、400頁。アカデミー議事録。併せて参照:Arseniew N. v. 『聖なるモスクワ』(1940年)。同書では長老たちの影響について多く論じられている。 現代のアフォン山におけるロシア人長老たちについては、以下を参照:Fülz-Müller, R. 『「沈黙の荒野」の長老のもとで。禁欲者の村にて』、『ベルリナー・ターゲブラット』1926年、419号(5月9日)。
[1358] 引用元:Arseniew A. v. 『Die Kirche des Morgenlandes』(1925年)、『Sammlung Gcschen』第918号、8頁。